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在日右翼の系譜

思想と歴史の必然

右翼の複雑性

左翼は、旧左翼と新左翼とがある。前者は戦前の無産政党系で、後者はいわゆる戦後に出来た過激派であるが、その関係は非常に悪い。共産党は特に説明する必要はないが、旧社会党は説明しなければ理解できないはずだ。

旧社会党は、戦前にルーツがあるという意味では旧左翼だが、たとえば新左翼の革マル派は戦略的に旧社会党に入党することで党の路線に影響を与えていた。またマドンナ旋風以降、新左翼的な議員や秘書を多く抱え込み、人脈的には純粋な旧左翼とも呼べなくなってしまっている。もっとも社民党になって、今ではほとんど純粋な新左翼になってしまったわけだが。

このような左翼より、もっと複雑怪奇なのが右翼である。実は、もともと右翼には、隠れ共産主義勢力がいたのである。有名なのは、五・一五事件の青年将校であり、田舎の貧しい農村の次男坊三男坊が、都市と田舎の経済格差の打破を考えていたと言えばわかるだろう。社会政策の点では、何ら社会主義と変わらない。裏を返せば、こうした右翼と左翼の違いは、国粋主義や民族主義を掲げているか否かの違いでしかないのだ。

ここで五・一五事件の青年将校が、貧しい農村の出であることを考えれば、朝鮮半島の貧しい農村の朝鮮人との共通性を見出すことができるはずだ。すなわち貧しい者を救うために、貧富の格差を無くしたいという思いである。これは平民社系の「社会主義」であり、「アジア主義」の影響を受けて、民族主義的要素を取り込み、右翼思想となっていったのである。その発露が、五・一五事件であったのだ。これは、むしろ「アジア主義」が、「社会主義」を取り込んだといった方が良いかもしれない。

ともあれ「アジア主義」と「社会主義」を車輪の両軸にして、右翼の一派が走り出すのである。いわゆる日蓮国家主義の系譜がそれであり、北一輝、大川周明、石原莞爾らがいる。では、韓国人がどのように関わるのか?

アジア主義

それはアジア主義の歴史を紐解かなければならない。アジア主義者の頭山満らが、孫文を支援したように、内田は李容九を支援したのである。李容九もまたアジア主義者であり、孫文と思想を同じくしていた。李は、樽井藤吉の『大東合邦論』の影響を受け、「東洋諸国は力を一つにし、西力に対抗すべきアジア連邦を結成すべし」と考えていたのである。

内田と李の関係は、東学党の乱から始まる。そして李と一進会の頑張りにより、一進会以外は保守一色であった韓国世論に、大アジア主義の理想が垣間見られるようになった。内田と黒龍会の奔走により、当初「日韓一家」の理念が全くなかった統監府で、大アジア主義を根幹とした「日韓合邦」が具体論として話されるようになった。

しかし安重根が伊藤博文を暗殺したことによって、李が「韓国を滅ぼすものは天なり」と絶句したように、大アジア主義の理想は潰えることになる。李容九の一進会と内田良平の黒龍会が掲げた「合邦」は「併合」へとすり替えられ、京城の統監府は植民地に置くべき総督府へと改められることとなったのだ。安重根の一発が、日本政府、軍部の報復的強制併合を引き起こし、大アジア主義の理想は吹き飛んでしまったのである。

だが大アジア主義そのものは、形を変えて残っていく。内田と李の理想は、「アジア連邦結成の第一歩として日韓両国を合邦せしめ、根本的な内政改革を断行すると同時に、李容九が自ら一進会員五十万乃至百万を率いて満州に移住し、一般官民からも参加者を求めて殖産衣食の道を与え、早晩起こるであろう中国革命の機に乗じて満州独立の旗をひるがえし、日韓満蒙の連盟国家を建設し、ヨーロッパ、とりわけロシアのアジア侵略に対抗し、東洋平和の根幹をなそう」というものであったからだ。これが、後の「五族協和」であり「大東亜共栄圏」であるのは、言うまでもないだろう。

とはいえ、1910年の日韓併合によって、内田と李の理想は挫折したのである。一進会は解散させられ、満州移住を計画していた多くの韓国人は、ぞくぞくと日本に流れこみ、下積みの生活を強いられることになる。この韓国人の多くは大アジア主義の理想に信じて生きていたのであり、後に「五族協和」や「大東亜共栄圏」を信じて生きたであろうことは、容易に想像できよう。韓国人大アジア主義者が、在日右翼の原型なのである。

理想の挫折以後

この後の流れは簡単に書きたい。内田は、『大東合邦論』の樽井と南葵文庫を中心としたサークルに参加する。中心は権藤成卿で、他にマルクスと唯一会った日本人の飯塚西湖らがいた。次いでこのサークルは、「老荘会」に関わるようになり、その「老荘会」は、大川周明・北一輝らの「猶存会」となる。

これらを母体に、権藤は「自治学会」を結成した。また権藤は、大化改新のクーデター構想に思想的な確信をあたえた南淵請安に理想とし、それを“日本最古の書”である『南淵書』として発表した。この『南淵書』は、北一輝の『日本改造法案』とともにバイブルとなっている。

内田は、大杉栄の死の一件で権藤と袂を分かち、アジア主義者として生きることを選ぶ。権藤は、東洋思想研究家の安岡正篤の「金鶏学院」で講師を務めながら、後の血盟団事件の首謀者である井上日召、西田税の「天剣党」に関与して海軍内部の革命分子を結集させようと青年将校の藤井斉らと交流を持っている。藤井は上海で戦死してしまうのだが、井上は血盟団事件を、藤井の仲間は五・一五事件を起こしたのである。

権藤は、五・一五事件後、私塾「成章学苑」をひらき、農本自治主義を深めるための「制度研究会」を発足した。この後押しをしたのが、平凡社の下中弥三郎らがつくった「新日本国民同盟」、そこに犬田卯や武者小路実篤や橘孝三郎を加えた「日本村治同盟」や「自治農民協議会」であった。

こうした戦前の右翼の動きに、大アジア主義の理想を追い求めつづけた韓国人がどう関わったのかは、容易に想像できるだろう。例えば北一輝は中国で革命活動をしているが、それは李容九の「中国革命の機に乗じて満州独立の旗をひるがえし、日韓満蒙の連盟国家を建設」するという理想に関わるものである。ここで北一輝に傾倒し、日蓮国会主義の系譜に連なり、石原莞爾の満州国建国を支持し、「五族協和」や「大東亜共栄圏」を掲げて運動した者もいただろう。同じように、それぞれの理想に従って、韓国人は日本の右翼と関わっていったのである。

このように日本の右翼の複雑性と、大アジア主義を核とする内田良平と李容九の出会いが、在日右翼の存在にも影響を与えているのである。日韓併合による理想の挫折以後、どのように理想を追い求め、右翼としてのどの立場を選択したのかは難しいところで、個々の団体を調べてみる以外にはないだろう。

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