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巨儒「安岡正篤(まさひろ)」

略歴

(「宰相の指導者 哲人安岡正篤の世界」 神渡良平著講談社+α文庫)

1898(明治31)年生〜1983(昭和58)年没
昭和とともに歩んだ大儒学者(陽明学者)
東京帝国大学法学部政治学科で東洋政治学を学ぼうとしたが、満足できる講義がなかったため、図書館に通って漢籍古典を読破し、陽明学の研究に没頭する。

経歴

1922(大正11)年 東大卒業とともに出版した『王陽明研究』は一大波紋を起こし、エリート官僚らが安岡を囲む研究会を組織する。

昭和に入り、満州経営など日本の大陸政策に、イデオローグ(五族協和、王道楽土)として深く関わる。

1945(昭和20)年 「終戦の詔勅」の刪修(さんしゅう)に当たる。

戦後、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘の6人の首相の相談役となる。

安岡の田中角栄評;「田中角栄という男は、とにかく自民党随一の腕利きだよ。仕事をやらせたら誰も彼にはかなうまい。ただ、あのままでは侍大将としてはよいが、床の間に座るにはもっと本格的学問をしなければ……」そんな評価が耳に入ってか、田中角栄は安岡を敬して近づかなかった。

1972(昭和47)年 日中国交回復時のエピソード;周恩来は、「言必信行必果」(言必ず信、行必ず果)と書いた色紙を田中に贈った。毛沢東からは、『楚辞集註』が贈られた。

帰国後、これを聞いた安岡は「なんと情けないことか!一国の首相が揶揄されたとは」と、老練な中国の革命家にしてやられたことを嘆いた。

安岡の解説;『楚辞集註』は楚の文学であり、内容は屈原の離騒が中心である。主人公の屈原は戦国時代の悲劇の人物であり、最後は汨羅(べきら)の淵に身を投げて死んだ。このような内容からすれば、外交の席で一国を代表する主席が相手国の総理大臣に贈るようなものではない。少しく学問があり常識があれば、このような書物を贈るというようなことは、礼儀としてしてはならないことであるが、なぜか毛沢東はそれをやった。毛沢東は資本主義国日本やその申し子のような田中に対して相当複雑な感情を抱いていたのだ。その毛沢東の真意を見抜くこともなく、ただ喜んでもらって帰るとは、田中はなんという識見のないことか。
 
「言必信行必果」の言葉だけみれば問題はないように見える。でも、この言葉が出てくる『論語』十三、子路の『子貢に問いて曰く』に続く文を読んでみれば分かる。弟子が孔子に、士たる者はどういう人物でなければなりませんかと問うたところ、孔子はこう答えている。「第一は我が身の振る舞いに恥を知り、四方に使いして、主君の命を損なわない者。第二は一族から孝行者と言われ、郷里の人から悌順(ていじゅん)だとほめられる者。第三は言うことは必ず偽りがなく、行うことは潔いが、こちこちの小人(しょうじん)で、まあ士のうちに入れてもいい者」これからすると、「言必信行必果」は、孔子のいう第三等の人物に当たることが分かる。この言葉は「こうこう然たる小人かな」に続いているのです。『こう』とは路傍の小石のことを指しますから、路傍の小石のような小人よ、ということになる。まったく見下されたものです。自民党きっての知識人といえる大平外相がついていながら……。
 
私なら、即座に突っ返したね。そうすれば周恩来は、この人物はあなどれないと思ってこう言ったはずです。「これはあなたへの言葉ではなく、わたし周恩来への箴言として書いたものです。こんな私ですが末長くお付き合い願いたいものです。」一国の外交に携わる者は、相手に一目おかれないとね。

1974(昭和49)年 田中首相辞任時;最後の辞任の弁だけ、何故か安岡の筆だった。

「わが国の前途に思いめぐらすとき、一夜沛然として大地を打つ豪雨に、心耳(しんじ)を澄ます思いであります。」

1980(昭和55)年 政府の要請で、「昭和」の次の元号案を提出。
1983(昭和58)年 没
1989(平成元)年 安岡が生前に考案した「平成」が新元号として採用される。

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