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愛国主義と国際主義について−『人民日報』社説を素材にした分析−

(愛国主義と国際主義について−『人民日報』社説を素材にした分析−)

村田忠禧(横浜国立大学)

t-murata@dh.catv.ne.jp

1.問題点の所在

21世紀に入った途端、日本では文部科学省が「新しい歴史教科書をつくる会」の編纂した歴史教科書の検定を合格させるという時代錯誤的事態が発生した。この教科書は出版元の扶桑社から市販本という形で一般向けにも販売されたため、読んだ日本人はかなりの数に達するものと思われる。読みもしないことには何も発言できないから、私もしぶしぶ買って読んだ。内容は決して新しいものではなく、夜郎自大的に日本の文化や歴史の優越性を強調し、日本のアジア侵略を美化したもので、とても教科書に値するものではない。この教科書の内容およびそれを検定して合格させた日本政府、文部科学省の政治責任にたいし、中国や韓国などかつて日本の侵略、植民地化による苦難を味わった国々から厳しい批判が巻き起こった。日本国内でもこの教科書の内容を批判し、教育現場で使用することに反対する動きがさまざまな形で巻き起こった。「国民に判断してもらいたい――これが話題の教科書だ」と意気込んで攻勢をしかけた扶桑社の目論見はまったく外れ、教科書としての採択率が1%にも達しないという惨憺たる結末となった。歴史認識をめぐる不愉快な出来事がよく見受けられる昨今としては久しぶりに接する朗報である。しかしおよそ反動派が自ら悟って歴史の舞台から消え去ってゆくことはありえない。今後とも日本における狭隘な民族主義を鼓吹する勢力の動きにたいしては警戒心をゆるめることはできない。

日本のなかに狭隘な民族主義の動きが台頭していることの背景には、改革開放政策の進展に伴う中国経済の急成長を日本の将来にたいする脅威と見なす論調がある。かつて一九二〇年代から三〇年代にかけて中国における国家の統一と経済の自立をめざす機運の高まりを、大日本帝国の権益を犯すものとして敵対視し、さまざまな口実を作っては侵犯活動を繰り返し、軍国主義の道に突き進んでいった歴史から教訓を学びとる必要がある。中国の飛躍・発展を日本の持続的な発展と対立するものとして捉えるのではなく、相互に依存し、補完し合うものとして捉えることが大切である。政治の多極化、経済のグローバル化は時代の大きな流れであり、日本が世界の発展、とりわけアジアにおける平和と発展に貢献するためにも、偏狭な民族主義、愛国主義を鼓吹する動きにたいしては警戒し、反対する必要がある。

そのような前提に立って、本論では日本ではなく、中国における愛国主義と国際主義の問題を取り上げる。まず私自身が体験したことから紹介しよう。

今年(2001年)9月、私は見知らぬ中国人から次のようなメールを受け取った。以下はその全文である。

村田忠禧

我始終不明白,ni們日本人研究毛沢東做什me?是不是又想侵略?我希望ni不要只研究毛沢東的軍事思想,応該向他老人家多学学他的広闊的胸懐。他対待ni們日本俘虜可是很善良的!!歴史的問題,要歴史来評判。不要一意孤行,到時候,只能自己毀滅自己!

訳文

村田忠禧

私はお前たち日本人は毛沢東を研究して何をするのか、いつも判らない。また侵略したいと思っているのか。私はお前がただ毛沢東の軍事思想を研究するだけでなく、彼の幅広い胸襟からもっと多く学ぶよう希望する。彼のお前たち日本人捕虜に対する対処はなんと善良なことだろう!!

歴史の問題は歴史によってはっ呈される。あくまでも意地を張り通すと、いずれ自らを破滅させることになるだけだぞ!

内容から判断するに、この人は私が毛沢東を研究しているということを情報としては知っている。しかし私個人がどういう人物で、どのような毛沢東研究をしているのかはまったく知らない。知っていれば絶対にこのようなメールを書くはずがない。「お前たち日本人は毛沢東を研究して何をするのか。また中国を侵略したいのか」という書き方から判るように、彼の抱く日本人像はきわめて一面的で偏見に満ちたものである。電子メールを活用していることから、この人は若い世代に属するのであろう。彼はおそらくこれまで一度も日本人に接したことがないのだろう。そしてこのような見方は決して特殊なものではなく、具体的に今日の日本や日本人を知らない大多数の中国人の心情を反映しているものと思われる。

必ずしも世代の違いということで片づけることはできないが、中国の若い世代の世界観には確かにこれまでの世代のものとは異なるものが育ちつつあるようだ。私は、毛沢東や周恩来が提起した考え方、つまり軍国主義者と人民とを明確に区別し、日本軍国主義によって中国人民は塗炭の苦しみを味わされたが、同時に日本人民も軍国主義の被害を受けた、という歴史の見方にとても深い感動を覚えた。この視点を知ることによってかつて日本が行った侵略戦争にたいする見方もかなりはっきりするようになったし、両国の人民の友好と連帯の大切さも教わった。したがって日本と中国との間で軍国主義をめぐる争いが発生した際に、日本側にではなく中国側の主張に共鳴することが多かった。しかしどうも最近は必ずしもそのような心情になれないケースがある。たとえ争点の発端を作り出したのが日本側にあり、非は日本側に、道理は中国側にあることが明白であったとしても、かつてのような共鳴現象はあまり発生しない。その端的な例は東史郎裁判と南京大虐殺をめぐる動きである。日本のマスコミなどはこのような現象を、日本の社会のなかに「嫌中感」が広まりつつある、と表現している。私自身は「嫌中感」なるものを抱いていないが、もし日本のなかにそのような状況が広まりつつあるというのであるなら、とても憂慮すべき事態であり、その原因を解明する必要がある。このような状況を作り出している要因は日本側、中国側それぞれにあり、一概には論じられない。本論では誤解されることを恐れず、あえて中国側の問題点に的を絞って考えてみたい。

私はこの問題の根底には、中国における愛国主義教育を過度に重視し、国際主義の思想教育を疎かにしている傾向が関係している、と考える。そのように考える根拠を以下、『人民日報』の社説を素材にして明らかにする。

二  『人民日報』社説における愛国主義と国際主義

まず素材にする『人民日報』社説の概況を紹介する。1949年(建国前をも含む同年1月から)から2000年までに『人民日報』に人民日報単独もしくは他紙との共同社説として、あるいは『解放軍報』『紅旗』とのいわゆる両報一刊社論として掲載された社説は合計6,905本ある。それを1949年から1966年、1967年から1978年、1979年から2000年までの三つの時期に区分してそれぞれの時期における社説の本数および使用されている漢字数を示すと以下の通りとなる。

時期

1949年〜1966年

1967〜1978年

1979年〜2000年

本数

4,652

812

1,441

漢字数

10,818,490

1,283,066

2,306,678

年平均本数

258

68

120

平均漢字数

2,326

1,580

1,601

すなわち建国から1966年までは社説の本数および一本当たりの社説の使用漢字数いずれの面でも他の時期よりも多かったが、文革期になると本数は4分の1ほどに激減し、1本当たりの使用漢字数も32%も減少した。1979年以降の改革開放期になると社説の数は120本となり、およそ3日に1本の割合で発表されている。この数は文革期に比べるとほぼ倍増しているが、文革前の時期に比べると半分以下である。一本当たりの使用漢字数では文革期のそれと大差ない。

社説のなかには毎年特定の日に必ず発表されるものがある。その代表的なものが元旦社説(新年献辞)である。いずれも過ぎ行く年をふり返り、新しく迎える一年への展望と期待を表明する内容であり、この元旦社説の語彙変化を通して現代中国の歴史の変動を見ることは十分可能である。具体的に「愛国主義」と「国際主義」などいくつかの語彙を上記の三つの時期ごとの出現回数を示すと以下の通りとなる。なおこのデータには2001年の元旦社説も含まれている。1949年から1966年までの18年間の元旦社説では帝国主義(193)、平和(143)、戦争(97)という語彙の出現回数がきわめて多い。友好という語彙も他の時期に比べると多い。愛国主義(13)と国際主義(12)はほぼ同数である。

 

1949〜1966

1967〜1978

1979〜2001

愛国主義

13

0

4

国際主義

12

6

0

帝国主義

193

73

1

平和

143

4

29

戦争

97

29

4

友好

16

6

4

1967年から1978年までの文革期12年間になると状況は大きく変わる。帝国主義(73)、戦争(29)の数は相変わらず多いが、平和や友好が大幅に減少する。国際主義は2年に1回の割合で提起されるが、愛国主義は1回も提起されることはない。

1979年から2001年までの改革開放期23年間になると、状況はまたガラリと変わる。平和(29)は多く提起されるが、帝国主義(1)や戦争(4)は減少する。友好(4)という語彙も三期間のうちで最も少ない。もう一つの大きな特徴は国際主義が一度も提起されず、文革期には登場することのなかった愛国主義が4回も出現していることである。しかもこの愛国主義は1990年、1992年、1993年、1995年にそれぞれ1回登場するのであって、1980年代には登場していない。

同様な現象は元旦社説以外でも見られる。『人民日報』の社説全体で見てみよう。ただし前述した通り、三つの時期で社説の本数、使用される漢字数が異なっているので、比較するために使用漢字数で割り、均等な漢字使用状況下での出現回数で比較してみる。愛国主義と国際主義に的を絞ってみる。( )内の数は平均化する前の実数である。

 

1949〜1966

1967〜1978

1979〜2000

愛国主義

6.9 (74)

76.4 (98)

128.3 (296)

国際主義

46.9 (507)

127.8 (164)

9.1 (21)

平均化した結果をグラフにしてみると変化がいっそう顕在化する。つまり建国以来、愛国主義よりも国際主義のほうが多く提起されるという傾向が続いていたのが、改革開放期になると両者の関係は逆転し、国際主義はきわめて稀にしか提起されず、代わって愛国主義が圧倒的に多く登場するようになる。

しかも改革開放期を1979年から1989年までと1990年から2000年までの二つの時期に区分し、そこにおける愛国主義と国際主義の現れ方を見てみると次のようになる。グラフのほうは平均化した結果を示す。( )で囲んだ実数で見ると愛国主義の出現数はいずれも148 で変化していないように見受けられるが、漢字数で割って平均化した結果を見るとまったく違う。愛国主義はほぼ倍増しているのにたいして、国際主義は4分の1に激減している。90年代は愛国主義一辺倒の時代であるということができる。

 

1979〜1989

1990〜2000

愛国主義

96.0 (148)

193.3 (148)

国際主義

12.3 (19)

2.6 (2)

1990年から2000年までの『人民日報』の社説で国際主義という語彙は実数で2回しか登場しない。この2回というのはいずれも中国人民志願軍の朝鮮戦争への参戦四十周年を記念した1990年10月25日の社説「鮮血凝成的偉大友誼−−紀念中国人民志願軍赴朝参戦四十周年」においてであり、「鮮血で打ち固められた偉大な友誼」という表現で中朝両国人民の強固な連帯精神を讃えている。

このような記念日に関係する社説としては1995年の反ファシスト戦争勝利五十周年、抗日戦争勝利五十周年の記念日が思い浮かぶ。同年には全世界でそれを記念するさまざまな行事があった。江沢民国家主席はモスクワで開かれた反ファシスト戦争勝利記念式典に参加し、5月10日の『人民日報』には「維護世界和平 促進共同発展−−祝賀江沢民主席莫斯科之行取得円満成功」と題する社説も掲載された。しかしこの社説では愛国主義、国際主義いずれの語彙も登場しない。

さらに抗日戦争勝利五十周年に当たる9月3日には「和平与正義是不可戦勝的−−紀念中国人民抗日戦争戦争勝利五十周年」と題する社説も掲載されたが、そこでは愛国主義が5回登場するのみで、国際主義という語彙はまったく登場しない。

前述した通り1990年から2000年までの間で国際主義が登場するのは1990年10月25日の中国人民志願軍の参戦四十周年を記念する社説においてである。2000年10月25日はその五十周年にあたり、『人民日報』には「紀念中国人民志願軍抗美援朝出国作戦五十周年」という副題のついた社説が発表された。その表題は「愛国主義和革命英雄主義的不朽豊碑」であり、愛国主義は4回も登場するが、国際主義はまったく登場しない。代わって革命英雄主義という表現が出現している。この社説の内容を見て驚くことは、朝鮮人民に言及しているのはわずかに1回で、しかも「朝鮮人民を支援した」(援助了朝鮮人民)という表現においてである。

この社説で表現されている観点は自国の軍隊、自国の将兵の愛国主義と英雄主義の精神を讃えるものであって、中国と朝鮮の人民の連帯という視点はまったく欠落している。参戦十周年にあたる1960年10月25日の社説では「朝鮮人民が自己の鮮血でわが国人民の平和建設を支援したことを永遠に忘れることはできない。中国人民志願軍が朝鮮に入った後も、戦場においてであれ、後方においてであれ、どんな戦闘、どんな行軍、どんな一日であれ、朝鮮の人民と政府の支援および朝鮮人民軍の緊密な連携と切り離すことができない」と朝鮮側に最大限の感謝の意を表明しており、両者の隔たりのはなはだしさは同じ『人民日報』の社説であることを疑いたくなるほどである。

筆者は抗米援朝戦争における中国人民志願軍のある家族の再会の物語を描いた映画『英雄児女』(原作の小説は巴金の『団円』、映画は1964年に制作された)のいくつかのシーンを思い出す。それらのシーンではこの戦争の第一の主体である朝鮮人民、朝鮮人民軍へのきめ細やかな配慮が随所に、しかもさりげなく表現されており、そのような描き方をする中国映画に感銘を覚えたことがある。

2000年10月25日の社説には中国人民が朝鮮人民を支援しただけでなく、朝鮮人民も自己の多大な犠牲を払って中国人民を支援したという相互支援の観点はまったく欠落しており、国際主義の精神は片鱗すら見られない。もちろんこのような表現の変化の背景には1995年に中国が韓国との外交関係を樹立したことや、国際情勢の変化への配慮もあってのことだろう。しかしそのような要素を考慮に入れたところで、この社説の観点は中国共産党のかつての方針、精神とは一致しないことは明白である。

ここに挙げたような事例から、改革開放期、とりわけ1990年代以降、愛国主義がことさら強調されると同時に、国際主義が葬り去られてしまったことは否定できない事実である。

三 国際主義の放棄は中国共産党の党規約にまでいたる

愛国主義と国際主義の地位の逆転および後者の放棄という現象は建国以来の中国共産党の全国代表大会における政治報告においても見られる。以下に第八回党大会から第十五回党大会までの政治報告における愛国主義と国際主義の出現回数を列挙してみる。

 

1956

1969

1974

1977

1982

1987

1992

1997

愛国主義

1

0

0

0

3

1

1

2

国際主義

1

4

3

1

3

0

0

0

愛国主義は1956年の第八回党大会に1回登場するが、それ以降は1977年の第十一回党大会まで登場しない。しかし1982年の第十二回党大会以降は毎回登場する。それにたいして国際主義は第八回党大会以来必ず登場していたのが、第十二回党大会を最後に以後まったく登場しなくなる。すなわち『人民日報』社説における愛国主義と国際主義の語彙の出現状況と党大会政治報告におけるそれとは関連した動きを示している。

1987年の「中国の特色をもった社会主義の道に沿って前進しよう」(沿着有中国特色的社会主?道路前?)と題する第十三回党大会政治報告で国際主義の提起がなくなった、ということは注目すべきことがらである。これはさらに共産党の党規約にも関連している。

第十三回党大会までの中国共産党党規約には表現に違いはあるにせよ、プロレタリア国際主義(無産階級国際主義)を堅持することが明記されていた。

第八回党大会で改定された党規約では「ソ連を頭とする平和、民主、社会主義の陣営の諸国との友誼を発展、深化させ、プロレタリア国際主義の団結を強化することに努める」ことと「『全世界のプロレタリアート、団結せよ』の国際主義の精神で自己の党員と人民を教育する」ことがうたわれていた。

第九回党大会の場合には「中国共産党はプロレタリア国際主義を堅持し、全世界の本物のマルクス・レーニン主義の政党、団体と一つに団結し、全世界のプロレタリア階級、被抑圧人民、被抑圧民族と一つに団結し」として、修正主義に堕したソ連共産党とは一線を画する、という意志が表明されていた。

第十回大会と第十一回大会での規約は第九回大会のそれを基本的に受け継いだものであるが、「プロレタリア国際主義を堅持し、大国ショービニズムに反対し」として、ソ連社会帝国主義に反対する姿勢をより鮮明に打ち出した。

第十二回党大会は基本的には第八回大会の方針を復活させ、「プロレタリア国際主義を堅持し、全世界のプロレタリア階級、被抑圧民族、被抑圧人民および平和を愛し、正義を堅持するすべての組織、人士との団結を堅持し」と表明していた。

第十三回党大会の党規約の部分修正案(1987年11月1日)では該当する部分の変更は言及されていないので、第十二回党大会の規定がそのまま用いられたものと想定できる。

第十四回党大会になるとそれまで必ず登場していた「プロレタリア国際主義」あるいは「国際主義」という語彙が一切見られなくなり、代わりに「党の基本路線と愛国主義、集団主義、社会主義の思想で党員と人民大衆を教育すべき」という表現が登場する。党規約に愛国主義という語彙が登場するのはこれが初めてである。

愛国主義を集団主義、社会主義とセットにして、その教育を重視するということは過去にも提起されたことがある。1960年代前半の農村社会主義教育運動においてである。『人民日報』の1962年から1964年までの元旦社説においてこの三点セットは登場する。ただし当時は必ずしも愛国主義の位置は常に第一位に置かれたわけではなく、社会主義、愛国主義、集団主義(1963年)や社会主義、集団主義、愛国主義、そして国際主義(1964年)というように社会主義を先に提起することもあった。その後、この三点セットは1990年の元旦社説に復活し、しかも愛国主義が第一位に、次いで集団主義、社会主義という順で提起されるようになった。その教育の対象は主として青少年に向けられたものである。これは1989年の天安門事件発生後の思想の引き締めと密接に関係する。1989年8月28日の「中共中央の党の建設を強化することに関する通知」(中共中央党校出版社1994年9月発行の『中共中央文件選編』418〜430頁)に「愛国主義、集団主義、独立自主、自力更生、刻苦奮闘、勤倹建国の教育をも深く行うべき」(同書、422頁)とあるのがその源であろう。

つまり第十三回党大会以降、政治報告をはじめとするさまざまな党の公式文献で国際主義という語彙は登場しなくなったが、第十四回党大会にいたると党規約からも完全に削除されてしまい、代わって愛国主義、集団主義、社会主義が提起されることになったのである。

第十四回党大会における「中共中央の『中国共産党規約(修正案)』に関する説明」(「中共中央関於『中国共産党章程(修正案)的説明』、1992年10月12日、『十四大以来重要文献選編』上巻、人民出版社、48〜58頁所収)は次のように説明している。「党の基本路線と愛国主義、集団主義、社会主義の思想で党員と人民大衆を教育し、民族の自尊、自信、自強の精神を増強し、党員にたいしては共産主義の遠大な理想の教育をも行い、資本主義と封建主義の腐り果てた思想の浸食を防ぎ止め、さまざまな社会の醜悪な現象を掃き清めなければならない」(同書、53頁)。

これまでも党規約の改定にはその当時における中国共産党の時代認識が反映されていたが、1992年の改定においても同じことがいえる。1989年の天安門事件から東欧社会主義諸政権の崩壊、さらに1991年のソ連邦の解体にいたる1990年代初期に世界の社会主義政権内で発生した一連の激震への反応として、1992年の党規約改定があった。つまり1989年春に出現したような「民主化」、「自由化」を求める動きを西側資本主義国による「和平演変」(平和的手段による体制転覆)の動きとして極度に警戒し、その再発防止のため、愛国主義、集団主義、社会主義精神の教育を強化して民族の自尊、自信、自強の精神を発揚させて乗り切ろうとしたのである。ここには「われわれは愛国主義者であり、中国の民族的尊厳と民族的利益がいかなる侵犯をも受けることを決して容認するものではない。われわれは国際主義者であり、中国の民族的利益の充分な実現は全人類の総体的利益と切り離すことができないということを深く理解している」として愛国主義と国際主義の結合を主張した第十二回党大会の政治報告(1982年)のような総合的な視点はまったく消え失せている。

その後の現実の動きとしては、中国では東欧やソ連で発生したような事態は生じなかった。西側資本主義国の「経済制裁」という圧力に屈することなく、中国はむしろ1990年代半ば以降、目ざましい経済成長をとげるようになった。危機は脱出したのである。しかしその後、第十五回党大会においても国際主義の思想教育を提起することはなく、愛国主義、集団主義、社会主義をセットにした提起が引き継がれ、愛国主義はますます声高に叫ばれ、国際主義はすっかり影をひそめている。

四 二十一世紀における愛国主義と国際主義とは何か

共産主義動の創始者であるマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』の最後で「万国のプロレタリア、団結せよ!」と呼びかけていることが象徴しているように、共産主義運動とはそもそも国境の枠を越えた国際主義的な性格を持っている。中国共産党もその誕生以来、国際共産主義運動の大河のなかで育ち、発展してきた。もちろんこの大河の流れは実に波瀾万丈、曲折に富んだものであって、一本のまっすぐな流れではありえなかった。そのなかで毛沢東を筆頭とする中国の共産主義者はマルクス・レーニン主義の普遍的真理と中国の具体的な状況とを結びつけるという革命の道を開拓し、中国革命を勝利に導いた。それに続く社会主義建設において、さまざまな曲折を経ながら、搶ャ平の時代になって、中国の特色をもつ社会主義の建設という方向を探し当てた。大きな流れとしてはこれらはマルクス主義の中国化と捉えることができよう。マルクスやレーニンの時代にはまったく問題にされなかった、あるいは否定的にしか取り上げられなかった愛国主義、民族主義の課題が中国で提起されるようになったことには積極的な意義がある。

時代も異なり、国情も違うわけだから、マルクス、レーニン、毛沢東の書物に答案を求めようとする保守的で教条的な姿勢では歴史の流れから取り残されてしまう。新しい天地を開拓する意気込みが必要である。しかし中国の特色をもつ社会主義の建設を実現するのが第一の課題となっているのだから、国際主義の思想教育はもう時代遅れである、不要となった、と言えるのだろうか。今の段階は愛国主義に訴えて中華民族の団結と振興をはかる段階であり、総合国力を増強させてはじめて国際主義を語ることができる、と考えるべきなのだろうか。私はこのような考え方は正しくないと考える。

愛国主義と国際主義は車の両輪であって、一方だけに頼ったのでは必ず道を誤ることになる。道を誤った事例をわれわれは日本および中国の歴史からいろいろと見いだすことができる。この点で最近の中国および日本におけるそれぞれの愛国主義偏重の傾向には危惧の念を抱かざるを得ない。

国際主義についての解釈において、旧来のプロレタリア国際主義といった狭い枠に囚われる必要はまったくない。私はもっと幅広く、国境や民族の枠を越えた、人民と人民との相互の理解と団結を求める連帯の思想と解釈すべきだと思う。人々はそれぞれが生きる場としては国家や社会という具体的な枠から抜け出すことはできない。その人が属する国家の政治体制や経済制度に違いはあるし、背負っている歴史や文化が異なり、生活レベル、教育レベルもさまざまである。当然のことながら誤解や摩擦は発生しうる。摩擦や対立の発生を恐れる必要はない。それはものごとが運動する時に当然発生するきわめて自然な現象である。ただ大切なのは、人民と人民の間には根本的な利害の対立は存在しないという信念を持つことだと思う。そのような強い信念があれば摩擦や対立が発生しても、それをを激化させ敵対的な形にまで発展させることなく、平和的、友好的に解決できるし、またそのように導く英知を発揮すべきである。毛沢東はかつて「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」という論文で、社会主義社会には二種類の性質を異にする矛盾が存在する。それは敵味方の間の矛盾と人民内部の矛盾である。人民内部の矛盾とは人民の利益の根本的一致を土台とする矛盾のことである、という観点を提起した。これは矛盾といえばすべて敵対的なものと捉える旧い枠を突破した新しい視点である。われわれはこの視点を国家という枠を越えた範囲で発展させる必要があるのでないか。その意味で国際主義の精神とは何か、ということを真剣に見つめなおすべきではないだろうか。

2001年11月10日 第一稿

2001年11月17日 第二稿

2001年11月23日 北京での日中コミュニケーション国際シンポジウムで発表

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