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戦後日本の恐るべき真実・日本亡国の大陰謀  スターリン命令と松本治一郎

(スターリン命令と松本治一郎(2))

第二章 松本治一郎に遭う

2−1.治一郎との奇跡的な出遭い

昭和26年の2月、東京に大雪がふりました。

若かった私は都電の電車道をはさんで松坂屋の前で雪投げ遊びをしたわけですよ。それで、しばらくして、どういうわけか、清正公様に足が向いたんですね。

それから都電に乗りまして白雪の都内を眺め、古川橋、そこで電車を下り、橋を渡りました。誰一人歩いているものはいない。一尺位の雪でしょう。そのなかを、ざっざっと、歩いておりました。

あの辺は空襲で焼野ケ原だった。ところが、右側に、バラックにちょっと毛の生えたような建物がありました。戦前田舎に役場があったでしょう。そんな感じの建物で、ひょっと見たら、

 「松本治一郎事務所」

と書いてある。

焼け残りの家ではなく、焼け残った後に建てた家なんです。一軒建てで、隣には家がないんです。

郷土福岡の大先輩、松本治一郎さんは、知り尽くすぐらい知っているが、本人に直接会ったことがない。私は清正公様に行くのを忘れちゃって、よし、覗いてみて、本人がおって、会ってくれりゃ儲けものと。いなきゃそれでよしという軽い気持ちで、がらっと障子を開けた。

そしたら、中がカウンターになっていて、女と男の5、6人の事務員がいました。そしたら一斉にぱっと私のほうを見た。若い書生が出てきましたから、私は名刺を渡し松本先生に面会を求めました。すると書生は、

「先生は昨晩、ソ連からお帰りになりまして、今奥に国会議員の先生が4人見えておられますので、しばらくお待ちください」

と言って私の名刺を持って奥に行き、まもなくして出て来ると、

「どうぞ、お上がりください」

と応接室に私を通しました。

間もなくして、書生が生菓子とお茶をもってきました。4〜5分してドアが開くと、いまをときめく政界の大物、松本治一郎翁が現れました。

私は直立不動の姿勢で頭を下げ一礼すると、真白い見事な顎髭を生やした翁がどっかと椅子に腰をおろしました。

「先生、この度はご苦労さまでした」

と、こういう挨拶をしたわけです。

私は松本治一郎が何時ソ連に行って、いつ帰ったか、そういうことは全く知りませんでしたが、書生が

「昨晩、ソ連からお帰りになりまして、しかじかかようで・・・。スターリン閣下とお会いになって、国会の先生と4人で奥で土産話しておられます」

ということを言ったから、

「いや、どうもご苦労さま」

と云ったわけです。

松本翁は私がインタビューに来たかと思ったのでしょう。

「お、お、お」とこうでしょう。

声を出された時にはその貫禄に驚いてしまいました。

このときの服装が違ってたんですよ。私が訪ねたのがちょうど午前10時すぎでした。本人は夕べ帰って、そして朝起きてすぐに、ごく側近中の側近の国会議員にソ連の土産話を早朝から10時ごろまで話してたのでしょう。そこにあたしが10時すぎ行ったもんで、まあ一応そこで話を切りあげて、それから私のいる部屋に来たわけです。

普通パジャマとか寝巻っていうのはタオル地でしょう。ところが私ゃ初めて見ましたね。そのときの服装、よく外人が寝室から離れるときに上からぽっと引っかけてガウンね、ガウン。これが見事なガウンでしたよ。ガウン姿の松本治一郎と会談したんです。そのガウンというものを私は生まれて初めて。はあ、こりゃソ連から土産でもらってきたんやろかってね。大柄な、暖かそうな。それを寝巻の上にぽっと引っかけてそれで姿を現した。だからくつろいだ気分で話ができるわけだ。

2−2.愕然とした治一郎の話

..スターリンの命令を受けてきた治一郎

「お前、北九州か、青野の所か」

「はい」

「おう、わかった」

当時、製鉄所の労組の中から、右派の伊藤卯四郎、左派の青野武一が当選した。それで、その一ヵ月後なんですよ。

「青野先生、この度苦戦でございました」

と私、青野武一は見たことないけど、名前はよく知っている。松本治一郎の子分です。社会党の左派。これは、浅原健三の流れを受けている。

伊藤卯四郎さんは神奈川県から来て八幡製鉄から立候補された大学の教授で、亀井さんといういわゆる労働組合の権威がいるんです。この亀井さんの教え子が、伊藤卯四郎なんです。この人は後に社会党から出て、西尾末広氏と民社党をつくった人ですが。製鉄は伊藤さんに重点を置いていたんです。

その反対側のほうの、いわゆる左派の中心が労組のトップの青野武一なんです。その人が初めて当選したんです。

「青野先生はこの度苦戦でございました」

と私が云ったので、すっかり青野武一の応援をしてきた同志だと思われたらしい。

「お前、いいところに来た。俺はスターリンに呼ばれて、夕べ帰った、えらい話だ。スターリンから俺は命令を受けてきた、まぁ聞け」と。

そのとき松本治一郎は『命令』と言ったんです。

それで私は黙って聞いてたんです。当時参議院の副議長だった彼は、スターリンから再三の要請があったので、数名の者を連れて、気軽な気持ちでモスクワ空港に着いた。

ところが、空港に降りて、びっくりしたらしい。スターリンを除く以下全閣僚が空港に出迎えている。これはすごいことですよ、全閣僚が出迎えるとは・・・。

そして車に乗って、クレムリン宮殿に直行したそうなんです。その時ソ連兵が二メートル間隔に道の両側にバァーッと並び、国賓中の国賓で俺は迎えられたと。

「へぇー」「へぇー」と私は聞いていました。

クレムリン宮殿のニコライ二世の部屋、これは日本人で彼が初めて入ったということですが、ちょうど丸5日、一歩も外に出ない缶詰状態だった。

このニコライ二世の部屋に、朝飯、昼飯、晩飯、間のお茶の時間に、全閣僚と共産党のいろいろな首脳部が入れ替わり、立ち代わりやって来て、共産主義の話を吹き込まれた。

そして最終的に、ソ連は日本の共産党を引っ込めて、社会党をバックアップする。だから日本に革命を起こせ、そういう命令をもらって、俺は夕べ帰ってきたと、こう言うんです。

革命を起こせと。共産党でなくて、社会党だと、スターリンは明白に言ったわけです。

とにかく、松本翁は、噂では聞いていたけど、大した人だなと思っていたのは、福岡に東公園ってあるでしょう。そこで、祭に米一俵白い御飯を炊くんです。漬物で飯を食わせてくれるんです。戦前はルンペンが多かった。博多中の老人やルンペンが昼飯食べに集まるんです。そういうふうなところは、慈愛がこもっている。弱い者の味方なんです。だから水平社の委員長としてみんなから尊敬されているわけです。

良い例が戦時中に福岡で爆発事件を起こしたでしょう。福岡の連隊に松本治一郎が爆弾を投げ込んだ。この大事件を軍隊では、口外してはいかんと口止めしたわけです。爆弾事件ですよ。ふつうなら大変ですよ。ところが、憲兵も手を出せなかったんです。この爆弾事件には・・・。

私はそんなことを頭に描きながら、彼と初対面していた。だから私は慈悲のこもる、ほんとに愛情のこもった、仏様、神様のような気持ちで治一郎さんを見ていたのです。

その松本治一郎の口から、こともあろうに日本に革命を起こせという命令を、スターリンじきじきに言われて帰ってきたというんですから、ただただ愕然としましたよ。

そんな凄い話が突然に展開してくるから、私は動揺し、それで話がだんだん進むにしたがって私は硬直状態になって、背中に汗がにじできた。こんな経験は後にも先にもありません。

2−3.当時の状況はどうだったか(対談)

記者:どうも私はいろいろ今日、お話をうかがって、どうもそ   の松本治一郎なる人間のパーソナリティっていいますか、性格というか性向というか、これがどうもちぐはぐなんですよ。

その党派の大人物ですからね、参議院副議長にもなったんでしょう。ところがそういう・・・。

それがいかにも短慮浅見というか単純というかね。ぽっと入ってきた男に、それもまだ三十代始めっていうあなたに、そういう重大な話をべらべらしゃべるっていうのは、これはああいう陰謀家というかそういう人にしては私はもう迂闊極まると思うんですよ。

末安:それはね、治一郎さんは私に一目会った時に、何かを感じたんだな。それと、あたしにはその時点から神様が宿ってるんですよ。

記者:いや何かでないと、どうも松本治一郎ともあろう人物は、そんなことを若い男に、しかもスターリンに会って帰った途端に、重大な秘密ですよ。それを話すってことは尋常一様では考えられない。

末安:それが私も不思議でならない。それと第一に、あたしは何でそこに行ったかっていうことなんですよ。何で足がその方向に向いたかってのは、未だに私には分からないです。

記者:清正公様へ行こうということではあったわけですね。

末安:それは電車の中で決めたのです。

記者:電車の中で。

末安 ええ。気ままに電車に乗って、あっち行きゃ清正公様があると。尊敬する清正公様にちょっと参ろうという気持ちで乗った。

そしたらあの水平社の大親分の、もうほんとにわれわれにとっては顔見ることも、直にもの言うことも許されないような立場の人のところに自然に足が向き、万が一会ってくれりゃ儲けもん。会わなきゃそれでよしと。

それもごく自然な感じでガランと戸を開けた。まあどうせ追っ払われるつもりだった。ところが、おまえいいとこへ来たと。そう言って座って話したのがそれなんですよ。そういうふうにごく自然にすーっとね。

だからあなたがおっしゃるとおり、恒心のある人が何で初対面の三十そこそこの若者にそれほどの重大な秘密をと思われるでしょうね。

記者:普通では考えられないですね。

末安 考えられません。これはやっぱり神様がそういうふうに導かれたとしか思えない。これがなかったら永遠にだれにも知れることはなかったでしょう。

まあ弥之助(楢崎弥之助)らは知ってますよ。しかし弥之助たちはその身内のもんやから話さへん。弥之助は私が現在生存してるっちゅうことすら知らないでしょう。

記者:楢崎氏は、あなたの名前も知ってるだろうし、何かがありますか。

末安:何がですか。

記者:楢崎氏はその席にあなたが来て、松本治一郎があなたにそういうことをしゃべったということは、楢崎氏は知っているわけでしょう。

末安:風のように現われて風のように去った・・・私のことなど、もう全然記憶がないでしょう。

もう40数年前でしょう。ひょろりと来て松本先生と3時間有余話して。それでそこにいた事務の人たちも、もうそういうことは忘れてますよ。来客者が多いんだから。

年齢的にも、だいぶもう差がありますからね。だからもうだれ一人私の存在は知らないでしょう。

記者:しかし、まだ弥之助さんは元気でおるわけですが、これはあなたと面識があるというか、何かその後楢崎とあなたと何か関係ありましたか。

末安:全然ない。全然なかった。だからあたしは楢崎弥之助の健在中にこれ出したくってしようがないんです。

なぜかって生き証人があの人だけやから。そして彼が松本治一郎にかわって、忠実にそのスターリンの命令の指導的な役割を、中心になってやってきたわけですから。

記者:私はあなたにお会いしてこの話を聞く前から、日本の中のどこかに、日本をどうするこうする、どういうふうにしろという司令部があるとみてるんですよ。

これはずっと前からの私の勘でね。そういうものがないとこれだけうまくいろんなことを動かせない。

2−4.戦中・戦後の共産主義者たち

それはどういうわけかというと、いいですか、ここが大事なんです。たとえば戦時中、東大生などの、いわゆるインテリに共産主義が吹き込まれた。そして、彼らが共産主義の、スターとなった。

私が生まれた家の背中合わせの旧家は、二百何十年続いた造り酒屋なんです。そこの次男坊は、私より一廻り年上の方、九大生でした。この人は終戦当時、朝日新聞の顧問をしていた。美術関係では日本の権威者なんです。この人は有名な東筑中学(現高校)、当時は五年制でしたが、そこを二年で卒業証書もらったというほどの秀才なんです。

その方が、私の家の横を通って、九州大学に通っていた。

お袋は、

「ほら見てみい。後ろから鳥打ち帽子かぶった刑事が付いて回っている、九大の門を出た時から、ずっと刑事が追い掛けている」と。

その時初めて、私は小学校一年の時に、共産主義というものを初めて、お袋から聞かされたんです。

「共産党といったら何かね?」

「赤い思想で、こうこうで……」

と、お袋もあまり説明はできんけど、とにかく特高がずーっと家に入るまで付いているんです。

それで、この戦前に、徳田球一とか野坂、その他の連中が、モスクワと北京に、みんな亡命してたんです。戦時中は非国民になっていたが、それが敗戦と同時に、みんな凱旋将軍のように帰ってきた。

そして、日本の地に潜っていた共産党員がウワッと迎えた。その勢いは、選挙ごとに増えて、32名の共産党の国会議員が生まれたんです。

そのころに、桜木町事件、下山国鉄総裁事件、三鷹事件、いろいろと、列車転覆事故があったんですよ。桜木町事件でも、二百何十人の犠牲者が出ているんですよ。これ、みんな共産党系の国労がやったんです。

又、当時、あっちこっちでストをやるでしょう。だから、どうしても、占領政策に支障を来すので、マッカーサーが、占領政策を緩めて、吉田政権をつくったわけだ。その時点からマッカーサーは、吉田さんの日本政府を考えた。だからトルーマンの命令と全然相反した。そこで、朝鮮戦争がはじまって、そして、マッカーサーはトルーマンの意に沿わずと言う理由で、解任されてアメリカに帰ったわけです。

2−5.スターリン命令の驚くべき内容..社会党左派、朝日新聞、日教組の毒牙による日本潰変計画

ところが、その時点から、陛下はまず平塚の雪印乳業にお出まして、それから、全国のあっちこっちを巡られ、国民の中に入ってこられた。その陛下の清々しい人間性に、国民が接して、敗戦のショックがやわらいだんです。

これが5年続いた。九州の、三池炭鉱、北海道ずーっと隈なくお回りになって、国民の活力が増し、復興が急に盛り上がった。

これを見て、スターリンは、共産主義を力で押しつけていくのは、これはちょっと具合が悪いということを感じた。これはいかんと。方針変えないといかんということで、社会党の左派の松本治一郎、参院副議長を、よく調査し、彼に白羽の矢を立てた。

大使を通じてソ連に来てくれないかという再三の要請、それで彼は腰を上げたと云うことでした。そして、革命を起こすと、スターリンに誓ってきたと云うわけです。

その時に、私は初めて質問しましたよ。革命ということをあまり知らんもの。研究してないから。初めて聞く言葉やもの、革命ということは。だから、

「先生、革命って、マッカーサーが丸の内にいまして、革命というのはどういうことをやりますか」

と、こう尋ねた。そしたら、

まず日本の教育を我々が、オルグを先生の中にもぐり込ませ、先生達をダメにすると。それからストを繰り返しやって、国鉄をズタズタにする。

さらに地方自治体を基盤にして、選挙に勝つために、官公労を握ると。

そして、国民の目を誤魔化すために、朝日に同志を導入させ、我々に有利な報道をさせ朝日新聞を占領すると。すると、他の新聞は右へ倣えと、彼は言うわけなんです。

それ、みんなソ連の指示で。

私は「はぁ、はぁ」と聞いていた。

つまり、スターリンの指示によると、同志が日教組を創り、各学校に同志が入り込んで日本の教育を根本から変え、日本の歴史を引っ繰り返す。

そして国鉄をね。国鉄には一番よけい共産主義の同志がいるわけだ、線路工夫だとか油差しとか労働組合が多いんですよ。だから国鉄をメロメロにして日本人同士をいがみ合わせて、日本人同士で争いをさせると。

それからストライキやって、あっちで貨車停め、こっちで貨車停めて国民の足を奪うと。

そして他方で、われわれの同志は肥汲みやってる、これを大学出と同じように昇格させて、そして自治体を完全に牛耳ると。この中から村会議員、市会議員、県会議員をどんどん出して、さらに中央へどんどんと国会議員を出していくと。そうするとあとの所管官庁や団体は右へならへと。

そして国民の目を誤魔化すために朝日新聞を味方にする。これはもうスターリンがとくにそうせいって言ったんですな。朝日を、朝日を完全にわれわれの味方にして利用し、われわれの言う通りにもっていくと。

これで日本のあらゆる分野にわれわれの同志が浸透して、日本人に共産思想を浸透させ、その時期を見て国政を変え、国体を変えると。

それから、彼は、じっと話を聞いている私に突然、

「お前は今年なんぼか」と。

「はい、三十一です」と答えると、

「おっ、若い。弥之助と同じじゃないか」と。

「これからは、お前たちが中心になってやれ」と。

話は、食事を間にして、3時間有余になった。

「お前、いまどこにおるか」と。

「赤坂の溜池にちょっとお世話になっております」と云うと、

「そんなところに住まずに、今晩からこの家に泊まれ」と、

私を離さないです。

これだけの秘密を話したのだから。同志中の同志だからって。私、とまどったんですよ。

「先生、お願いします。今日は、ちょっと帰らせて下さい。一週間後に九州に帰りまして、家族といろいろ打ち合わせをして、それからいよいよ先生の下にお世話になりますから」

ということで、なかなか離そうとしない中を、とうとう振り切って、表へ出たきり、それ以来ニ度と会ってないわけです。

2−6.ヤルタ会談の極秘内幕..日本占領用の舟艇をスターリンに送らなかったチャーチルとトルーマン..ソ連 北方領土占領秘話

それからまた別の大事な話、ヤルタ協定を、彼は私に話してくれました。

その時に、私は始めて、ヤルタ協定というものを知ったわけです。蒋介石、ルーズベルトとチャーチル、スターリンの四者会談がヤルタ協定。

ところが、この蒋介石は欠席したんですよ。そして、スターリンとチャーチルとルーズベルトの三者会談だった。

その時にチャーチルは、

「スターリン閣下、いまもう沖縄まで近づいております」と。

「あと、一息で日本本土に、最後の止めを刺すところまで、いま来ている」と。

「どうか、あなた満州の関東軍を制して、それで東京で握手をしませんか」

ということをチャーチルは打ち出したわけです。

ところが、その時に、スターリンがこう言ったらしい。

「やります」と。

ところがベルリンには、一足先にソ連軍が入ったわけだ。だから、ドイツ占領は優先的にソ連が決めたわけだが、あのベルリンをまっ二つにしたという、そういう苦い経験が、連合軍にあるわけなんです。

だから、日本の占領は、アメリカと豪州、英国の単独で、ソ連抜きの占領を目指しているわけなんです。

ところが、当時アメリカは非常に関東軍を高く評価していた。これは一般の人は知りませよ。だが、軍が満州へ天皇陛下お迎えして、あそこで最後の防衛戦をやるんじゃないかというのが、チャーチル、ルーズベルトの見方なんです。ルーズベルトが、それをされたら大変なことになると。それを、ルーズベルトたちが一番恐れた。

もう日本は一億玉砕という気持ちでおるでしょう。これが相当に犠牲を払う。今度は、これ、満州でしょう。ところが、彼らは関東軍というのは、満州事変から世界に冠たる日本の最強の軍隊であるということを知っているわけなんです。

そこに天皇陛下をお呼びして、抗戦されたら、これは大変なことになる。だから、どうしても関東軍をソ連軍に任せて一つ時間稼ぎしようというのが、ルーズベルトとチャーチルの狙い。これは、松本治一郎の言うことなんです。

そしたら、スターリン曰く、

「わかりました。日本の占領は、百年の夢やから・・・」。

ところが、ベルリン攻略に、ソ連はいろいろなものを使い果たした。まず輸送用のトラックがない。上陸用の舟艇が一隻もないんです。

ですから、日本上陸に、上陸用の舟艇を回して欲しいと、それからモスクワからシベリアに送る物資の輸送にトラックを1万台要望したんですよ。そしたら、アメリカは急ピッチでトラックを大西洋でモスクワに送ったわけだ。ソ連軍はそれに乗って、満州へ進駐したわけだ。だから満州からの引き上げ者は、あれはアメリカ製のトラックだったというのが、皆さんの言葉なんです。

ところが、その時に日本本土上陸を、ルーズベルトがソ連に要請し、アメリカは日本上陸用の舟艇をソ連に送るようになったわけです。ところが、ルーズベルトがアメリカに帰って一週間目に亡くなった。そのあと副大統領のトルーマンが大統領になった。

そしたらチャーチルはトルーマンと打ち合わせして、舟艇を送っちゃいかんと。ソ連に日本上陸されたら困ると。ソ連を満州に釘付けして、完全にアメリカと英国で日本占領をやるということで二人の話が決まった。

だから、上陸用の舟艇を送らなかったわけです。だから、ソ連軍が満州をずーっと攻め、北鮮の一部まで届いた時に、日本は終戦を迎えたんです。

ところが、この終戦の前に、アメリカはもう既にその時には原爆にかかっていたわけです。8月の何日かに落とすと。だから、それまでにソ連を満州に釘付けしておいて、この原爆を撃ったら、日本は必ず諸手を上げて降参するということを、百パーセント読んでいた。

ところが、ソ連は原爆をアメリカがつくっていて、そこまで出来上がっているということまでは気がついてなかった。

その時、ソ連は、やっと満州の鴨緑江のところまで来たわけです。一部北鮮の、日本海のほうに面したところまで入ってきたんです。あとは、北海道のほうの歯舞、国後、色丹まで、船をつけて上がってみたけれども、

「ああ、こんなところは要らん」と引き返した。

けれども、日本占領をアメリカと英国が独占でやっているので、歯舞、色丹、四島だけでもといって、自分のモノにしたわけだ。

で、北海道には、日本の軍がおるというのに、上陸用の舟艇がなけりゃ、上がれないんです。だから北海道の上陸はストップしたわけなんです。こうして日本は、完全にアメリカの思うとおりの、マッカーサーの思うとおりの占領になったわけだ。

スターリンはせめて、北海道を占領しようと。それで米英に対して大分ゴネたらしですね。松本治一郎はそう話していました。

ところが、北海道に上陸する舟艇がないから。上陸できんのですよ。チャーチルとルーズベルトはオーケーして帰った。しかし実際はトラックだけしか送らなかったわけです。

トルーマンになって、急に方針を転換し、上陸用の舟艇がソ連に送られなかったことが、今日の日本の運命を、位置づけたんです。

それでスターリンが、もう躍起になっているわけです。だから、今度は思想戦で日本を覆せといって・・・。

それを松本治一郎がモスクワで聞いて、土産話に、私にしたわけなんです。

2−7.騙されたスターリン..思想戦による日本占領策への変更

記者:ヤルタではすべてチャーチルが主導権をもっていていて、何もかも発言したんですね。

末安:あの時スターリンが曰く、ルーズベルトは、ただ来て

「ふん、ふん」という程度で・・・。

そりゃ。ルーズベルトは薬嗅がされて死ぬ寸前、記念写真をとるのが精一杯。だから、すべてチャーチルが主導で・・。それはものすごい情報です。

記者:それで、東京で、三人で握手しようというのは、何もかもチャーチルがものをいうて、ルーズベルトがそれに応じただけ。それを松本治一郎が話してくれた。

これは大変な歴史の新事実ですね。

末安:ソ連は一杯食わされているわけだ。それなら、思想戦で日本占領をやれと。だから、マッカーサーが日本の占領政策を、バーッと緩めた。

東京で握手をしようといったのは、チャーチルが言ったわけです。

「スターリン閣下、握手しましょう」と。

ルーズベルトはもう一切聞き役で、ただ「ウン、ウン」というだけで・・・。彼はその場にいただけ。もの言うのは、チャーチルが一人で言ったと。

記者:舟艇は送ろうということになっていたんだが、送らなかった。その舟艇を送るのを止めたのが、トルーマンでしょう。

末安:トルーマンです。

記者:これも重要な証言ですね。

末安:このトルーマンに、チャーチルは電話連絡して、渡さないほうがいいと。

記者:ああ、それも重大だ。

末安:チャーチルは舟艇を渡しちゃいかんと。

記者:チャーチルは、しかしそのヤルタ会談の現場にいたわけだ。

末安:「渡します」と、ヤルタではオーケーしたわけなんです。

スターリンが舟艇とトラックを回してくれと。

「わかりました」と、

記者:チャーチルは「わかりました」と言ったと。

末安:それでルーズベルトは帰ったわけです。それで一週間後に亡くなった。それで、代って大統領になったトルーマンがチャーチルに連絡をとったわけです。

チャーチルは

「ボロトラックをあるだけ回せと。そうすりゃ、それだけ、一人でも多くソ連兵が満州に行くんだから」と。

記者:ボロトラックと言いましたか。

末安:いや、新車からボロから何でもいいから、あるトラックをどんどん一刻も早く回してくれと。

記者:しかし舟艇はいかんと。

末安:舟艇は渡しちゃいかんと。

記者:それはチャーチルが言ったんですね。

末安:チャーチルが言ったんです。トルーマンも舟艇を送らないことに同意したんです。

だから、ソ連としては、「舟艇が来ん、舟艇が来ん」で、しかしもうどんどん兵隊を輸送したわけでしょう。

記者:しかし、ヤルタ会談の現場では、チャーチルはソ連が日本に占領軍を入れることについては、反対していなかったんですか。

あるいはその時点でのチャーチルは、ソ連が日本本土に入ることを認めていたんですか。

末安:いえいえ、認めてないです。

記者:その時点でのチャーチルは。

末安:その時点では、東京で握手しましょうと、スターリンに要請しているわけです。

記者:質問の主旨は、ルーズベルトがヤルタに行った時点での会談の内容です。

その時点では・・私の言っているのは・・日本占領もやむを得ない、つまりチャーチルとスターリンが東京で握手するとチャーチルが言った。

つまりチャーチルは占領容認だった。ソ連が日本にはいるのを容認していたわけですね。

末安:ところが、後段の話では、ルーズベルトが亡くなり、トルーマンが出てくる。その時に、突然態度が変わった。

とにかく一日も早く数多く回せと。しかし、舟艇だけは回すなと。

記者:日本占領を回避する方針に変わったわけですね。

末安:だから、スターリンが一杯騙されたと言ってね、松本治一郎に話したらしい。

記者:そこでもう一つ疑問があるのは、チャーチル自体はどうして・・・。つまりトルーマンの要請で、日本占領を断念したのか。

あるいは・・今の末安さんのお話ですと、電話連絡でとおっしゃいましたが、トルーマンが電話したんでしょうか、それともチャーチルが電話したんでしょうか。

末安:それは、トルーマンが舟艇のほうは、どうだろうかといったら、

「それは回さないほうがいい」と。

記者:トルーマン主導ですね、この話は。

末安:トルーマンが聞いたんですよ、チャーチルに。舟艇を送るという約束になっているようだけれども・・・と聞いたんです、トルーマンがね。ちょっと心配になったんでしょう。

そしたら、チャーチルは

「いや、送ってはいかん」と、こう言った。

チャーチルは初めから騙すつもりだった。そりゃチャーチルは、海千山千ですからね。ヤルタ会談で、「日本で握手しよう」なんて、外交辞令で何とでもいうんです。

 それと、インパールの主導権も全部チャーチルが握っていたんだね。アメリカにどんどんと飛行機と戦車を・・・。インパール作戦も、日本包囲戦もチャーチルの命令で・・・

あの当時の、マント・バッテン公爵が最高指令官で、インパール作戦はチャーチルが全部アメリカから武器を・・・。

ですから、第二次世界大戦の主役は何と言ったってチャーチルですよ。何たって、あれだけの領土を持っていたところが、全部パーになったんやから。

満州にソ連を釘付けして、関東軍の精鋭とソ連軍とを、あそこでしっかりと抱き合わせして、時間稼ぎをやったわけです。それで、日本を完全にアメリカ得意の英米の占領下に置くというのは、チャーチルとトルーマンの考え。

それにピタッとはまって・・・。だからスターリンは、一杯騙されたと。

だから松本治一郎さんに、共産党引っ込めて、お前に全力を上げて、応援すると。いわゆるスターリン閣下の命令に従う、俺は今後ソ連の主導の下で、日本に革命を起こす。我々の時代をつくると。これからはお前たちの働きしだいだということを、松本氏は私に話したんです。

記者:一つ質問があるんです。共産党を引っ込める理由ですね。

これは松本治一郎さんは、どうして共産党を引っ込めて・・・

末安:共産党を引っ込めるというのは、スターリンが引っ込めると言ったんです。

それまで、日本の革命のためにモスクワと北京に、日本から派遣教育をされていた共産党の幹部が、戦後続々と帰ってきたでしょう。

そしたら、日本にいる若い学生層から、まるで凱旋将軍のように迎えられて、32名の共産党の国会議員が生まれたんです。

ところが、その頃天皇陛下が国民の中に飛び込まれて努力されたので、日本人が天皇制という国家をあらためて見直したわけです。ここまではスターリンも計算に入れていなかった。

記者:ですから、共産党はダメだと。

末安:だから、実力行使ではダメと。頭から実力行使でやったって、日本という国柄は・・・。

社会党のほうが国民のウケがいいから、お前さんを応援すると。

今後ソ連はお前に全面的にバックアップするという特命を受けて、俺は夕べ帰ったと・・・。奥に島上善五郎等、四人の国会議員。

それで、それが2月の話でしょう。5月のメーデーに島上善五郎が先頭立って、皇居前で指揮をとったわけです。

この時、共産党は全然出てない。スターリンの命令を受けた彼らの一番の仕事がこれだったんです。昭和25年度までのメーデーは共産党が先頭だった。そこでさっとバトンタッチをした。共産党は全然出てないです。

共産党は、国民にアピールするために、環境保護・平和運動、市民運動に関わり、パーティーをしたり、山登りなどのレジャーをやったり、女性へのウケを狙うような、ソフト路線に方針を切り換えた。

そして、社会党が今度は実力行使に出たわけです。その第一歩が三池炭鉱の争議。それまでの王子製紙やら、二、三の争議は全部共産党が主導権をとったが、それから、今度は三井の攻略にかかったわけ。

それで三井は第一組合と第二組合に組合が分かれた。資本家のほうの組合と、いわゆる社会党のほうの組合とが対立したわけです。そして、一応それは収まった。

それから2年後に原因不明の爆発を起こして、四百何十名の事故を起こした。これが今日まで三井がいろいろと経済的に尾を引いているわけです。

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