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戦後日本の恐るべき真実・日本亡国の大陰謀  スターリン命令と松本治一郎

(スターリン命令と松本治一郎(1))

第一章 私の育った日本

1−1.出 征 前

昭和3年、天皇陛下御大典の年。父は31才でした。小学校一年の私が長男で、弟2人と妹が1人いました。大変幸福な家庭でした。

この年は日本中が御大典と云う一大行事に沸きました。日本列島を揺るがすお祭に、母は三味線を弾き、父は俄先生として、町内の人々と共に、村から町を練り歩いて行く姿が、昨日のようにありありと想い出されるのです。

小学校五年生の時、突然の出来事が幸福な家庭を、不幸のドン底に落し入れました。37才の父が心臓麻痺を起し、あっと言う間に死亡したのです。それから5年後、母も父の後を追うように胃癌で、私達4人の子供を残してあの世に旅立ちました。

両親を亡くした私達兄弟は、隣近所、町内の人々、数多くの親戚一同の人達から常に愛情をもって見守られ、心温まる御支援を受けました。

当時のお金で約7百円の郵便貯金を母が残していたので、お金に関しては何一つ心配いたしませんでした。また、母の死後、「青田五反」を叔父に渡しました。その叔父が、その見返りにと、毎年12俵の玄米を、私達兄弟の為に送って下さるので、大変助かりました。

野菜はほとんど毎日近所のおばさんが下さるし、親類は大半農業ですから、それぞれが四季の産物を届けがてら、私達の元気な顔をみて、みんな安心して帰っていきました。

私は8年間、近所の家に妹を預けて学校へ行きました。一日も休まず通学したので、卒業式の時に表彰されました。多くの家庭で私達兄弟を見習いなさいと引き合いに出していたようで、そのことをよく友人から云われました。

卒業後、私は2人の弟と妹のために進学をあきらめ、叔母の米屋で働いていました。

昭和15年12月1日の入営の日が刻々と迫って参りました。只一つ気になることは、小学校五年の妹のことでした。親戚はどの家庭も、平均5、6人の子持ちばかりで・・・とても妹のことなど引き受けて下さる様子はありません。そのことが入隊前の私の心配の種でした。

そんな折り、同じ町内に、亡き母ともっとも親しくして下さっていた一岡さんというお米屋さんの奥さんがいらっしゃって、

「貴方が入隊された留守中、妹さんの静江さんを、私共が預かります」

という申し出がありました。

そして、妹をお願いに伺う、その日。一岡さんから届いた赤い着物を妹に着せて、叔父と妹と私の3人で御夫妻に挨拶に行きました。一岡御夫妻から

「しかと、お妹さんお預かり致しました。後顧の憂いのないよう、お国のため尽くして下さい」

というお言葉をいただいた時には、嬉しくて涙が出ました。

その翌日、町内の人々、親戚、友人等多くの人々から見送られて、折尾駅を出発し、北方の小倉歩兵第十四聯隊に入営しました。

歩兵十四聯隊の創設は古く、明治8年です。この隊の二代目の連隊長は乃木希典少佐(後の陸軍大将)です。

乃木大将は、明治38年の日露戦争において、第三軍軍司令官として指揮を取られました。旅順港要塞に立てこもるロシア軍は、新兵器(機関銃)で二百三高地の高台より、十字砲火を日本軍に浴びせ、第三軍の将兵は二百三高地に屍の山を築いたのです。そこで総司令官大山巖元帥は、参謀長児玉源太郎大将を現地に派遣、児玉大将が一瞬にしてロシア軍の砲火を鎮圧しました。

それなのに国民はどうして児玉大将より乃木大将を崇拝し、乃木将軍を「神」として祭ったのでしょうか。それは乃木将軍の温かい人柄が国民の心をとらえたのでしょう。

1−2.理想主義者 乃木大将

乃木将軍ほど徹底した理想主義者を、私は知りません。明治天皇は乃木大将に、親王(後の昭和天皇)の教育に当らせ、「實実剛健」の精神を徹底するよう抑せられました。昭和天皇は、質素を旨をする日本皇室の中でも、とくに質素な生活を実践されました。それは乃木大将の全人格あげての教育の現れでしょう。

「乃木大将は無二の大教育家である」

と明治の大教育家、杉浦重剛先生は大将を評した名言を残しています。この言葉を、更に一歩深く表現すれば、教育者としての大将の真実に触れることができるように思われるのです。大将の真実は学習院の教育実践に、巌として存在しているからです。

第一に、大将の教育目的は「皇国民の錬成」即ち、「皇室の道に則る国民の錬成」にありました。弘化4年(1847)3月、学習院創立の際、学頭東坊城総長の起稿に係る「学習院院長を拝命する」に及んで、次のように改めたのです。

原 文          訂正文
学習院学則之事    学習院学則之事
履聖人之至道     崇皇国之懿
崇皇国之懿風     履聖人之至道
不読聖経何以修身   不通国典何以養正
不通国典何以養生   不諺聖絡何以修身
明辨之        明辨之
務行之        務行之
明治己西正月源朝臣希典敬書

即ち国民としての基本姿勢を、先ず明らかにされたのです。

乃木大将は、それまでの学習院の教育理念からは、「立身出世のための学問」という観念が生まれるから、これを改め、学習院教育に於いて、明確な意識の下に至誠に燃えたつ、国民の錬成に挺身されたのです。

第二に、「人教えるに行を以てし言を以てせず、事を以てし理を以てせず」

つまり、教育者は口先だけではなく、自らの実践の大切さを説かれました。

第三に、大将の教育者としての生活です。

学生との共同生活で、二十四時間、寝食を共にされました。つまり全人教育です。

第四は、質実剛健の教育法です。

第五は、その教育施設です。

欧米的教育理念と方法とに基く、いわゆる学校に加えて、我が国古来の教育の一形態である寄宿寮を設立されました。

これは欧風化した明治の学校教育の否定であると同時に、教育の発展と見ることができ、また我が国古来の人間教育の復活でもあるのです。

大将は、これを貫くに誠と愛とを以てされたのです。

1−3.軍隊生活

小倉連隊で4中隊第3班に配属された私は、これから新しい人生の第一歩として固い決心をいたしまして、尊敬する乃木大将ゆかりの歩兵第十四聯隊の営門をくぐりました。

隊長から軍人としての訓示を受けると、一班から六班の各内務班に約20名ずつ配属されました。私は1階の奥の三班の部屋に廻されました。

二年兵の上等兵が3〜4人と一等兵の二年兵(古兵6人)総数各班とも満杯の約30人前後、古兵達とわれら初年兵の生活が始まったのです。

軍人勅諭の内容の主旨に従って我々初年兵に対する厳しい猛訓練がはじまりました。教官(少尉)につづいて各班長1名(伍長)、助手1名(上等兵)と一等兵1名が、一班から六班迄の百人を越す初年兵の指導に当たりました。

同室の20名の同年兵の中には、新日鉄八幡製鉄所のエリート社員の武田君、中鶴炭坑鉱山技師の藤田君、小説「麦と兵隊」を書いた作家の火野葦平さんの身内の玉井君、長崎−上海航路のボーイの小倉君等が私をふくめて第三班の初年兵の中で、リーダー的存在でした。

1−4.曹長から百叩を受ける

ある日のこと、食事が終わり兵器の手入れも済ませてホッと一息ついた時、曹長から突然の呼び出しがありました。不吉な予感を覚えました。自分は、曹長から呼ばれる理由がない、曹長とは何もかかわり合った覚えがないと思いながら、曹長室の前に立ち、服装を整え、緊張した心でノックしました。

「入れ」と言うドスのきいた返事、ドアを開き、

「三班の末安、参りました」

手前の寝台の上には、あぐらをかいた、精悍な顔付きをした野戦帰りの軍曹がおりました。正面には竹刀を片手に持ち、自分をにらみつけている曹長がいました。

恐る恐る進み、「三班の末安・・・」と言うと、曹長は片手に汚れた靴下を持ち、自分の前に差し出し、

「貴様の床下からこれが出た。この汚れた靴下は何だ! 貴様軍人精神がはいってない、これから精神を叩き込む、貴様、覚悟せい」

と、靴下を自分に投げつけると、「一歩前にこい」と百叩が始まりました。生まれて初めての体験を、味わう事になりました。

パチーパチーパチーと、するどい音が中隊中に響き渡り、それはものすごいものでした。迫力に満ちた百叩の痛さを腹の底に、体全身に感じた私は、男の意地を曹長野郎に見せつけるためと思って、歯をくいしばり一度も倒れずに我慢をしました。

聯隊中の古兵が恐れをなす、野戦帰りの鬼軍曹が寝台の上で

「三十五……五十五……八十五……百」と数えていましたが、

「曹長、終わったぞ、百になった」と声を掛けているのが、やっと自分に聞こえました。

曹長の「終わったから出ろ」と言う声で・・・かるく一礼して曹長室を出ました。その瞬間、横板に倒れかけたのですが、藤田と武田、小倉、玉井等が、私を気遣って近く迄迎えに来ていました。彼らの肩にもたれて、中隊の皆が見ている中を、やっとのことで班の部屋に戻ることが出来ました。

その後の事ですが、例の曹長と同室の軍曹が、

「お前は、百叩きを受けながら、弱音も吐かず、ひらすら耐えた、その根性にほれた」

と云われた時は、くやしさと気恥ずかしさでいっぱいでした。

軍隊生活にまつわる話は、まだまだ沢山ありますが、いずれまたお話する機会もあろうかと思います。

1−5.出  征

昭和16年の2月のことです。私は現役兵として、家族やいろいろな方々の盛大な見送りを受け、バイアス湾を目指し門司港から出港しました。

福岡県、佐賀県、長崎県、山口県の一部の若人が1万2千人。そして着いたところがバイアス湾の奥洞港、ちょうど台湾よりの香港の裏側にあるところです。

支那事変が起きたのは私が出兵する4年前の昭和12年。抗州湾に上陸して南京を陥し、日本の各留守部隊が一個師団編成して、百万の敵前上陸というのがこれです。南京を陥して、その間にも相当な激戦がありました。それで十八師団が南京攻略を終えて、杭州に引き上げ、1年間待機して、中国の出方を見た。その時、蒋介石は重慶を固めていましたね。長期戦の構えをしたわけです。

ところが、御承知のように、アメリカ、イギリスは、今度は香港経由で重慶に物資を送るんです。だから、とにかく物資を抑えんことには、蒋介石は手をあげないということで、昭和14年に、バイアス湾敵前上陸が実行されたのです。

その時には第十八師団が主力で、広島の第五師団とほか数個師団がバイアス湾敵前上陸、そして広東を攻略したわけです。広東を抑え、あの一帯の奥地十里から二十里ぐらいの重要な拠点を各部隊がきちっと抑えて、香港から入る物資を全部途中で摘発するわけです。こうして、蒋介石の息の根を止めるつもりだったのですよ。

そしたら今度、アメリカ、イギリスは仏印経由で、ベイコンチクなる川に沿って雲南省経由の輸送をやったわけです。だから日本軍は昭和15年に仏印進駐をして、そしてそれをまた抑えたわけです。その時点で、米英は今度はラングーンからビルマ経由で雲南省に送ったわけです。

その時私は初年兵、昭和16年に先隊が占領した跡地に行って、初めてわかったことは、香港から裏側の九竜を越えて、村や町があるでしょう。昼間は全く静かですが、夜になると、その村や町の何十万の住民が、重慶に向け、みんな担いで輸送するんです。

だから重慶には、米国やヨーロッパの武器が常にあったんです。それで、この広東を陥してこの間を封鎖したわけなのです。それが仏印に、そして今度はラングーンへ。だからシンガポール攻撃の時に、我々は昭和16年の12月8日の宣戦布告と同時に、カムラン湾まで進出して、そしてマレー半島北部のタイ領のカムラン湾とコタバルに、両方に分けて敵前上陸した。

それでコタバルのほうには、大村の五十五部隊、久留米五十六部隊があたり、本隊は、タイのカムラン湾から、マレー半島、西海岸を通って、あの有名な銀輪部隊、あれでジホールまで進撃して・・・。

マレー半島には川が沢山あって、インド洋に流れているんです。その川を守っている英軍は、日本軍が間近に来るまで、どんどん本隊を退却させて、優秀な下士官、将校がダイナマイトといって、日本が来る間近に来るとボタンと押して、ボーンと橋を爆破するんです。それを久留米の工兵隊が鉄兜を被って、川の中に入り、敵弾の中、急遽、兵隊が通れるだけの橋づくりをやるわけなんです。

それでも、マレー半島では非常に順調に橋作りができた。一つ言えることはマレーにはゴムの木が、材木屋さんみたいに、その河川の付近にたくさん積重ねてある、それを使って早速200以上の橋をつくったわけです。それで、やっと橋をつくって、一部の兵隊が渡河し、次の河川が出てくると、同じように、またその手をやる。そういうことを繰り返し繰り返して、いよいよジョホールまで一気に攻めたのがマレー作戦なんです。

1−6.シンガポール攻略

ところが、敵さん(英国)はジブラルタル、シンガポール、香港などに、世界最大の要塞を築いているんです。ところが、このシンガポールは日本を対象にした要塞ですから、東シナ海方面を向いて建っているわけです。

まさか日本が裏から行くということは、計算に入れてなかった。日本は、昭和14年から15年にスパイを入れ込んで、ずーっと河川と西海岸を全部調査していたんです。

だから、日本は大東亜戦争の時に、情報活動で非常に成功したというのはこれだけなんです。

英軍は卜ーチカを造ってもまだ砲が据わってないんです。まだ、コンクリートがベタベタしている。日本が仏印に進駐した時に、急遽、西海岸に要塞を築き上げたので、俄づくりなんです。砲が据わっていない。それをダダダッと押しまして、それでジョホール水道。2月8日の午前零時に、広島の第五師団と近衛師団と第十八師団が三方から、シンガポールに敵前上陸をやったわけなんです。

その時に、我が重砲、連隊砲が、有るかぎりの在庫の弾を砲が焼けるぐらいに撃ち込みまして、これは両国の花火大会以上の壮観でした。そして、一個中隊、二個中隊で、タッタ、タッタと行った時、バリバリバリッと敵弾。そういうなかを、舟隊が送り込まれ、また引返したりして、一昼夜・・・。

だから、もう上陸した地点は、くらすみがわからないんです。中隊長は小隊を掌握して、小隊長は部下を掌握するのに、てんやわんやで・・・。さぁ、それから一週間というものは、日英両軍の一大決戦場と化したわけです。

決戦場は谷間になっていて、椰子が生えていて、山は百メートルから二百メートル。谷間にいますと、ブーッと速射砲玉弾きて、ボーンとやるんです。

どうしてこう確実に、百人おれば百人に、三十人おれば三十人に相応する砲弾が確実に飛んでくるのか。敵さんの姿はちっとも見えないんですよ。

実は、音波探知器があったんです。ちょっと草があったり、樹木がこうあるでしょう。その中にアンテナがでていて、これがずーっと奥のほう、向こうの中隊本部、部隊本部に知らせていたんです。日本軍が50人おれば、50人の足音がするわけで、それで集中射撃なんです。

その時に、ある兵隊が、何とはなしにそのアンテナを引っ張って見ると、それがくるくる回る。それからすぐに各隊に、こういうものがあるから気をつけろと言って、それから藪の中でこれを見つけたら、引き抜いた。これが数千となった。一日で、わずか半里か、一里の激戦区でしょう。これはよく戦いましたよ。それでかなりな犠牲者が続出・・・。

一方、敵の司令官パーシバルの奥さんが、

「もう、あんた、怖くてしょうがない。手をあげなさい」

って・・・。

ああいう時、夫人同伴の現地の将校はいけませんな。だからパーシバルは15日の午前零時に、すっと白旗上げた。これが山下将軍との歴史的な会談です。

あれは大きな芝居でしたよ。それはなぜかというと、敵さん7万からいましたよ。こちらは2万足らずなんです。それから、日本軍は手持ちの手榴弾や弾全部を撃ち尽くしているんです。

ところが、向こうには、7万から8万の軍隊が、5年間使えるだけの食料と弾薬があるんですよ。

だから、山下奉文が、大きな博打を打ったんです。腹と腹の戦い、「ノー」か「イエス」かで押したわけです。そしたら、その朝、奥さんが、「あなた、恐くて仕方がない」といったことで、パーシバルは弱気になった。

その上、あの山下将軍の迫力に押されて、とうとう調印式をやった。休戦ラッパが鳴ったわけなんです。小勢で大勢に勝つという、これはまさに日本武士道の勝利です。

シンガポールが陥ちたのが、15日。その時に、この三個師団の兵隊は、一部の将兵と、後続部隊が入場式に参加しただけで、シンガポールの町が目の前にあるのに前線部隊はストップと・・・。日本の軍隊はよくこれをやるんです。広東攻略だって・・・、いっさい実戦部隊を入れないんです。

彼らは命を張って戦ったから、入れると、略奪・暴行をやるんですよ。ですから憲兵を始めとする戦争しない部隊がすぐに来て、ぱっと抑えて、部隊をピシャと止めるんです。

1−7.南京陥落の真実

だから南京のあの30万人虐殺ということを言っているのは、あれは大デタラメです。

それはなぜかといったら、あっちは便衣隊でしょう。日本軍が来たら、普通の人間に早変り、数分前までは武器を持っていたのが、日本軍が来たら、武器をかくし、普通の人になる・・・。

これが向こうのやり方なんです。一般人はみんな疎開しているんですよ。本隊が逃げ、2千人の便衣隊が最後迄抵抗し、これは中国兵の戦法です。それを、最初はわからなかったんです。

戦時下の南京に30万人の市民などいるはすがないのです。ですから30万人虐殺というのは何んと馬鹿馬鹿しい作り話です。

便衣隊というのは、鍬をもって仕事してるふりをして、それでいつの間にか、武器をもって戦う、男も女も変わりないですよ。ゲリラです。それで、日本軍が来たら、すぐに鍬に切り換える。

これで南京攻略の時に、かなり日本の軍隊、兵隊さんが犠牲を受けている。村の人(便衣隊)を日本軍は農民と思うわけです。ですから安心して、日本兵は一人、二人で出歩くわけです。向こうは二、三十人でかかってくる。それで捕虜になったり、殺されたりするわけだ。

そういうふうなことを、私らは広東に行って、古い兵隊から教わったんです。日本の中隊がここに駐屯するでしょう。中国の部落にですよ。そうすると、炊事に女の子やら、中国人が出入りするわけです。兵隊にカネもらって働いていていても、本当に日本のためにやっているのかどうかは、わからないんですよ。

そういうところに、中隊は駐屯しているわけです。だからいつ寝ているところを襲われるかわからん。そういう中で我が軍は2年、3年、広東周辺地区を守っていたんです。

1−8.大東亜戦争初戦の誤算

大東亜戦争の初っ端に、海軍の山本五十六さんはハワイを陥すと言った。そしてハワイを陥して、アメリカの前線基地の足場をなくす。それから香港攻略、シンガポール攻略、マニラ攻略、これをやるといった。

つまり、アジアの主要地域を抑えれば、スズとゴム等が手に入って、長期戦に備えられるというのが、大本営の大東亜戦争の初っ端の計画だったんです。ところが、この大東亜戦争で、大きな誤算があった。それはマニラなんです。

ご承知のように、私は後で行きましたが、コレヒドール要塞があるんです。これはちょうど天の橋立のようにマニラ湾に突き出ているんです。先は芋が膨れたようになっている。バタン半島、マニラ湾があって、ここはマニラなんです。ところが、このコレヒドールの要塞が最高の要塞だったんです。バターンからどんどん撃ち込んで、この要塞に弾が当たってもびくともしなんです。

このコレヒドールの要塞は、1メートルの鉄筋コンクリートでできているから、砲弾でも傷がつかない。丸い要塞なんです。アメリカは、アジアに足場がないでしょう。だからマニラを、スペインからカネで買って手に入れたわけです。こうしてアジアの足場をつくったんです。そして、日本とソ連を対象にこの要塞を造った。これは最高の要塞です。

これを日本陸軍は計算に入れてなかったんです。簡単に陥ちるものと思っていた。マニラだけは早く陥ちた。ところが、肝心のコレヒドールが陥ちないことには輸送ができないわけなんです。

これが5月まで延びてしまった。2月の11日の建国祭にシンガポールを陥して、マニラを陥とし、香港は12月の8日の戦宣布告と共に一週間で陥すというのが、大本営の作戦だった。

ところが、12月の一週間で陥す予定の香港が一カ月かかったんです。これもちょっと誤算やけど、それでも一週間が一カ月だ。ところが、シンガポールは2月の11日の予定が、15日に陥した、大体計算通りにいった。ところが、マニラは2月11日に陥としたが、このコレヒドール要塞が陥ちないために、フィリピンの攻略は、5月まで延びたんです。

これが日本の作戦を第一番に狂わせた。その間ずっと各混戦部隊が島という島に兵隊を送り込んで足場をつくっていた。それで、我々はシンガポールが陥ちたら、豪州へさえ行こうと予定していた。

豪州には、マニラを陥され、アイ シャル リターンと言ったあのマッカーサーが逃げていっている。その息の根を止めるために、豪州を3月までに陥す予定だった。そうすれば、アメリカの反攻作戦の足場がないわけなんです。それが5月までかかった。だから苦しかったんです。

1−9.ビルマ戦線へ

そしてシンガポールを陥とし、今度は仏印から、いよいよこのビルマ戦線に。当時、文化人だとか、中野正剛さんは、シンガポールが陥ちた時に、講和せよと主張した。

ところが、それをやれないんですよ。何故かというと、ビルマルートというのは、今までよりも、もっと輸送が簡単なんです。インドからビルマでしょう。この路を絶たんことには、奬介石は手を上げんと言ったんです。だから、マンダレー作戦がその時点で起こったんです。

その上に、アメリカは、いま申しましたように、マニラが陥ち、ハワイがあのとおりになったので、国民が一体となって、打倒日本になった。持てるアメリカが、軍備をどんどん支援しはじめた。そうして、豪州へ反攻作戦の準備が狂った。日本の方はマニラを陥した三個師団のうち、第十八師団は急遽ビルマのマンダレー陥しに変更されたんです。

ところが、ビルマというところは、ご承知のように、5月に入りますと、10月まで雨期に入るんです。だから、マンダレー街道、この道路だけがちょっと浮いて、あとはみな湖になるんです。ですから、この雨期までにマンダレーを陥さんといかん。

それで第十八師団は豪州に行くのを急遽取り止めて、マンダレーを5月の1日に陥せという至上命令が出て、それからマンダレー作戦に切り換えがあったのです。それで、我々はシンガポールが陥ちて、重傷者は内地に送り、軽傷者はビルマに来て、そこに二カ月、本隊に復帰した。

ところが、シンガポールを攻略する前に150名が倒れ、各中隊で、三分の一が欠けているんです。三分の一が欠けているということは、大打撃なんです。だから急遽補充兵が内地から来たわけですが、それは元の現役を去年除隊したとか、満州を除隊したとか、中国で除隊したという兵隊さんばかりでした。こうして広東での150名弱の彼等を加えての一個中隊になった。

そして、シンガポールで没収した英国のジープだとか・・・、ギャングが持つような銃が、それぞれ配給された。そんな新しいものばっかり見せつけられた。こっちは5発の鉄砲だったんですからね。そうやってマンダレー攻略の補給をしたわけなんです。

その時には、輸送船は48杯です。すぐ寄せ集めて、そして二列縦隊でシンガポールを出て、ずーっと北上する。私らは船中で4日間でした。私はじめ各将校は、この時に初めて足の骨を伸ばし、心の休養もでき、ゆっくりと休めましたね。

あとはもうずーっと広東に初年兵で行ってから、シンガポールが陥ちるまで、本当に移動作戦、移動作戦の連続で、それこそ内地の故郷に手紙書く暇もないぐらいに忙しい目に遭いましたよ。よくもまぁここまで無傷で、命があったものだなと不思議な位です。

こうして船で北上するあいだに、私は二日目に衛兵に立ったんです。私らの船、洛陽丸という1万トン近くの船、それは師団本部だったから牟田口閣下が乗っていた。私は1時間交替で24時間の中の12回、師団長閣下の部屋の前の歩哨だったんです。

昼間は高級参謀やら、連隊長が出入りするわけです。ところが、必ずしも我々には敬礼はしないんです。歩哨やから。敵さんの飛行機がいつくるやら・・・、潜水艦が来やせんか・・・、そういうふうにして、常に気をくばって、船首船尾に歩哨が立っているんです。私は師団長専用の歩哨でした。

印度洋のさぁっと爽やかな微風が来るなかで歩哨に立っていたら、12時すぎに、牟田口閣下が眠れないとデッキに出てこられた。そりゃ、これからの大役を考えたら、眠れんはずですよ。その時に、閣下は私に言葉を下された。

「君は、両親健在か」と。

それで、

「はい。自分は小学校五年の時に、父が亡くなりました。5年後に母が追うようにして逝きました。弟が2人、妹が1人おります」

と答えました。そして、下の弟は今度現役で、大村に入隊します。恐らく今度野戦に送られるでしょうと。

それから次の弟は、特別志願兵に海軍に志願します。それから妹はいま折尾高等女学校です。

と言って閣下に報告した。

それから閣下は南十字星を眺められて・・・。胸がつまられたようですな。妹を残し、弟を残し、両親もないと・・・。それから、30分ぐらい無言で、ギラギラ光る星空眺めておられた閣下は静かに部屋に帰られました。

その途端、私は涙が滝のように流れましてね。妹を思い、故郷のことを思い、それと同時に日本の将来を思いました。

日本は今後いつまで戦いを続けるられるかとか、我々は死ぬまで戦わなければならないのかとか、そうしたら日本には男がいなくなってしまうとか、日本はこれで地球上から消滅するんじゃないかとか・・・、星空を眺め真剣に考えていたら涙が滝のように流れました。

その時にふと、日本には天皇陛下がおられるから、何とかなるということが頭に浮びました。その瞬間に涙がピタッと止まりました。ああ、日本は天皇陛下がおられるから、何とかなる。私はこの時点から天皇崇敬に変わったんですね。日本は天皇陛下がおられるから、滅びないんだと、そう思い込んだ。そしたら、心がスーと晴れてきました。

日本の皇室ほど、汚れを知らずに、存在しているのは世界にはないですよ。世界各国の王様というものは、みんな力で築き上げた王様ばっかりやから。だから繰り返し、繰り返し闘争をしている。

日本の皇室にはそれがないんです。日本の皇室の原点は慈しみの心なんです。歴代の天皇は自然の理法に従ってこられたのです。

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