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「師匠が地獄に堕ちるならば、弟子も従う?」

池田大作は、御書を一部抜粋・我田引水するのが得意だが、その中でも「師匠が地獄に堕ちるならば、弟子も従う」という指導は極めつけである。

創価学会では、新会則でも師弟不ニの精神を謳い、池田大作との“師弟の道”を強調するが、御書のどこを探しても、そのような日蓮の教えはない。池田大作・創価学会は、『崇俊天皇御書』を曲解しているのである。

「設ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給うはゞ、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給ふとも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし」(崇俊天皇御書・全集1173n)

日蓮は、「弟子の四条金吾が地獄に堕ちるならば、私も地獄にいく」と述べているのである。そして、弟子の四条金吾は、「日蓮が行くところは、娑婆即寂光で、地獄であっても極楽になる」と確信しているのである。こうした師弟の信頼関係の中で、弟子を想う師匠(仏)の慈悲を示している個所なのである。

師匠が地獄に堕ちるならば弟子も従う、などという一方的なことではない。こんなのは親分子分の任侠・ヤクザの論理に過ぎない。単に忠誠心を煽っているだけだ。

日蓮の仏法・信心は、どこまでも御本仏の仰せに帰命し、正直な修行につとめ、仏の大慈大悲によって、最高の功徳を積んでいくものである。「依法不依人」といって、途中の論師人師(=指導者)の言葉に従ってしまうならば、決して成仏することはないのである。

もし「池田先生は、仏様のようなお方だ」「池田先生に間違いがない」「先生の指導を信ずることが信心である」というならば、それは、形の上では本尊として御本尊を拝んでいるが、信じているのは“池田大作”ということになってしまう(日蓮ではない)。

また「学会や池田先生に大恩があるから、どこまでもついて行く」とか「信心を教えてくれたのは学会だから」とか「たとえ先生が間違っていても、一度決めた人生だから学会を守る」というのも、“池田教”の信心であって、大聖人の仏法ではない。

もちろん親鸞が、法然の弟子として地獄に落ちても構わないと言っていたりする。しかし日蓮の絶対自力とは異なり、親鸞は絶対他力である。法然・親鸞は、浄土信仰であって、既に仏の救世の船の乗っていると考えるのだから、地獄に落ちることは無いのである。

日蓮が自力=成仏への努力を掲げてしまった以上、日蓮の弟子たる者は、かくも険しい道程を歩まねばならないのだ。

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