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「仏法は勝負?」−青年部教学試験学習会の内容

創価学会が、日蓮正宗から離脱した後、2002年9月のものである。また創価学会の教学試験は、学校の定期試験と同じように出題範囲が決まっていて、学習会で学ぶことになる。創価学会青年部教学試験を取り上げたのは、創価学会を担うだろう創価学会員がどのような仏教観を持っている(持たされる)かを示すからである。創価学会員は、皆、次のような仏教観を抱いていると考えて良いのだ。

極悪を倒すのが正義。仏の心

(1)日蓮仏法の基本精神とは、全民衆の幸福を願う仏の大慈悲としながらも、

「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」=悪を責めることが善
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」=民衆の幸福を願うならば一凶を断ち切るべき

の「立正安国論」の御文を引用し、悪に負けては善を弘めることができないから、人々を救うことを阻む悪とは断固戦わなければならない――それが、大聖人の一貫した善悪観であり、この破邪顕正こそ、民衆救済の大慈悲と表裏一体の日蓮仏法の基本精神である、と。

(2)釈尊は、提婆達多の嫉妬と陰謀に対して、容赦なく追及した。大聖人も、平左衛門尉や極楽寺良観、法然らを徹底的に責められた。日興上人は、師匠を裏切った人間を実名をあげて、忘恩・悪逆の輩の存在を厳然と後世に残した、と。

(3)名誉会長の『随筆 新・人間革命』から

「悪は暴かねばならない。断固たる怒りをもって、徹底して追い詰め、打ち砕かねばならない。悪を容認すれば、さらに多くの人びとが苦悩の辛酸をなめなければならないからだ。中途半端な戦いでは、邪悪をますます増長させていくだけである。……大悪と戦う正義の怒りは、大善を生むことになる。極悪と戦えば、極善になるのだ」

悪との戦いは善の要件であり、仏とは魔と戦い続ける人の異名。悪への正義の怒りを燃やし、責め抜いていくことが、大善である仏道修行の根本中の根本である、と。

(4)「極悪」の本質とは、民衆を蔑視し人間を手段として見ること、さらには人々の心・生命を軽んじていることで、それは、一切衆生に尊極の生命を見いだす法華経のヒューマニズムとは正反対の考え方であり、その意味でも「法華経の敵」である、と。

(5)生命に潜む魔性の暗躍を放置すれば、衆生の生命の善性は食い破られ、善悪・正邪の判断基準が混乱し、民衆は不幸の道へと陥ってしまう。

だからこそ大聖人は、人々の成仏を妨げる「極悪」の正体を徹底的に暴き出し、一切衆生を救う「最高善」の法華経の正当性を浮きあがらせた。

「極悪」との戦いには、民衆の善なる生命を守るという、社会的な意義が込められている、と。

(6)そして大事なのは、仏が魔に打ち勝つこと。

御聖訓に「邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり」とあり、正義と邪悪が入り乱れた社会にあっては、真っ先に謗法を責めよ、というのが大聖人の仰せ。

人間を手段化する思想を「一凶」と断じて戦い抜いてこそ、平和と安定の社会を実現することができる。人類の境涯を高めいくために悪と闘う「人間主義」の哲学――これこそが、大聖人仏法の真骨頂である、と。

(7)立宗宣言の新解釈

『大白蓮華』連載の「御書の世界」で、名誉会長は、立宗宣言について、

「『人間生命に潜む根源の悪』『生命に内在する魔性』『一切の元品の無明』との大闘争宣言」
 「万人の成仏という最大の人間尊敬の道を開く『戦う人間主義』の宣言」
 「民衆を惑わす魔性とは断固として戦うという、大聖人の確固たる信念の現れ」

――それが立宗宣言の意義であるとし、大聖人の極悪との戦いは、周囲の人々が非難するような次元とは全くかけはなれた、人類的視野に立ったものだと述べ、昨今の学会の“極悪キャンペーン”(外敵叩き)を正当化している。

創価学会員は、こうした論理を学習し、思想として身に付ける。だから創価学会員が、非常識で粗暴な振る舞いを平然と行うのである。宗教は、行動原理の大枠であり、創価学会員は、「創価学会に入りなさい」「創価学会しか正しい宗教はない」と人に語り、創価学会に所属しているのだから。「創価学会員=仏が、反創価学会=魔を倒すことは、正義となる」といえば理解できるだろう。

仏法とは戦う人間主義なのか? 極悪を倒すのが仏道修行なのか?――このような偏狭な仏法観が生まれた理由は、池田大作の「仏法は勝負」という信念だろう。

それにしても創価学会は、チベット人を虐殺する中国人を批判しないのだが? 北朝鮮による日本人拉致事件に頬かむりしてきただけのことはあるようだ。

池田大作の「仏法は勝負」の依文

池田大作の「仏法は勝負」は、「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(「四条金吾殿御返事」、全集、p.1165)を解釈したものである。

しかし「涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」云云」(「阿仏房尼御前御返事」、全集、p.1307)など、御書全体から考えると、池田大作の解釈が間違いであることは理解できるだろう。

創価学会員にとって、より理解しやすいものとして、

「“仏法は勝負をさきとす”ということは、“王法は賞罰を本とす”との対比において理解されなければならない。
……しかも、細かいことのようだが、仏法は勝負を“さき”とし、王法は賞罰を“本”とするという言葉の使い方にも注意しなければならない。“さき”とは、前後の“前”ではない。“本”に対するのであり、草木の梢とか葉先にあたる。根っ子が“本”である。したがって、勝負を先とすということは、勝負を何よりも優先すべきだということではなく、結果として勝負としてあらわれるということである。
仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることである勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことが微塵もあってはならない。この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を結果することが証明されるであろう。
……ともあれ、ここに王法と仏法の根本的相違があるのである」

という創価学会版「御書講義」第24巻からの引用がある。

要するに、池田大作の「仏教は勝負」という勝負論は、青年部教学試験学習会の内容は、「一部抜粋・我田引水」なのだ(歴史論争などで、良く使われる手法でもある)。

また「四条金吾殿御返事」が真偽未定であるので、偽撰(偽書)説で押し通すこともできる。

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