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観察・親鸞会(前編)

(よちき)

●浄土真宗親鸞会とは?

浄土真宗親鸞会という名前を聞いたことがあるだろうか?

有名国立・私立大学を中心に勢力をひろげている宗教団体である。

毎春、文科系サークルを名乗り新入生を中心に積極的な布教・勧誘活動を展開している。

80年代は主に「歎異抄研究会」との名称を用いていたようであるが、最近では各大学に、エスポワール、アルタ、ワイドビュー、ビーウェーブ、日本三大美文を学ぶ会、メガトン、ビッグエッグ、Tトラブル研究会、ルミナス、恒河沙、古典と哲学を学ぶ会など様々なサークル名として存在している。

東京大学では、「人間科学愛好会」というサークル名で活動していることが確認されている。

毎年入学する新入生の中でも、驚くほどの人数が何らかの形で親鸞会と接触しており、早稲田大学では、後になれば人数も大分減るものの、100名を超える新入生が親鸞会と知らないうちにこのサークルに入っているという。

本論では、この浄土真宗親鸞会なる団体の実態を、書籍、インターネット、元親鸞会員であった学生部員の方の証言、親鸞会の内部資料等をもとに観察していきたい。

●親鸞会の概要

浄土真宗親鸞会は1958年9月、高森顕徹氏により結成される。

本部は真宗王国富山県にあり、月二回「顕正新聞」月刊「顕真」年六回「正定聚」という定期刊行物を発行している。

顕正新聞との名からもわかるように、破邪顕正と呼ばれる布教活動を積極的に行い、その布教活動から初期の創価学会と比較されることも多い。

教学の学習をきわめて重視し、聴聞(説法を聞くこと)を信仰の要として、親鸞会の教義こそが親鸞の正当な教学であると主張するラディカルな教団である。

詳しい教義・活動は後述するとして、会員から「善知識高森先生」と呼ばれ絶大な支持を得ている高森顕徹氏について触れてみたい。

●高森顕徹氏

高森氏は1929年富山県の浄土真宗遠景寺住職高森照顕の二男として生まれる。

1945年に特攻隊に志願し、戦後復員。浄土真宗本願寺派系の京都・龍谷大学専門部に進み、「浄土真宗華光会」に所属。

華光会の現会長増井悟郎氏とともに、華光会創始者伊藤康善氏を師匠としていた。この龍谷大学時代に「信心決定」したといわれている。(信心決定については後述)

1951年に大学を卒業すると親鸞会の前身「徹信会」を発足。

1957年、布教拠点となる徹信会館(後の親鸞会館)を富山県高岡市に建設した。1958年、会は宗教法人となり、「浄土真宗親鸞会」と改称。

1962年には創価学会と衝突、大阪大学の創価学会学生部との間で法論も行われている。(後述)

1970年代年代には、「こんなことが知りたい」「白道燃ゆ」など著書を発刊、海外布教も開始される。(ブラジル、アメリカ)

1980年代には浄土真宗本願寺派(西本願寺)と激しく対立し、1984年1月6日には、親鸞会会員1500名が西本願寺の御影堂を占拠し、座り込むという事件も発生した。(後述)

高森氏自身は1947年に得度して僧侶の資格を得ているが70年には本願寺派の僧籍を剥奪されている。

現在、会員は10万人程度と推定され、特に大学での勢力拡大が著しいことは前述した通りである。

● 活動

親鸞会の活動について、ここでは特に親鸞会の大学生の集まり、学生部について見てよう。

学生部にとっての大事な部員獲得のための「新入生勧誘」は、大学の合格発表から始まっている。ここではその典型例を紹介したい。

合格発表、入学手続き、ガイダンス等、大学の諸サークルが活発に新入生を勧誘する中、親鸞会の学生部員は新入生に声をかける。

「サークルの紹介をしているんだけど聞きにこない?」

その場では何をしているサークルであるかは話されず、部室や空き部屋・喫茶店に案内される。

そこで、「私たちのサークルは、人生の目的を探求しているところだ」という紹介を受ける。

続いてバインダーでだいたい以下のような内容が説明される。

「大学合格おめでとう!」

「充実した大学生活を送るには?」

「卒業した先輩100人に聞きました。大学で得たものは?⇒卒業証書、単位、友人、運転免許。大学生活を色にたとえると?⇒無色、白、灰色、透明。」

このような設問で、大学生活のむなしさ、空虚さを訴える。

「人生は食て、寝て、起きて、糞たれて子は親となる、子は親となる(一休)⇒こんな人生はむなしい」

「華の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

「苦しい人生、なぜ生きねばならないのか」

「どう生きるか(手段)、なぜ生きるか(目的)」

「歩く、走る、泳ぐ、飛ぶ⇒目的が必要。では生きる目的は?」

「人生は重荷を背負て遠き道を行くが如し(家康)」

「露と落ち、露と消えにし我が身かな なにわのことも夢のまた夢(秀吉)」

このあたりから、親鸞会の主張が見え隠れしてくるようだ。

秀吉のようにあれだけ栄華を誇った人生を送った人物でも、死の間際には、辞世の句で「人生は夢のようなものだ」とむなしさを吐露している…。

人生の目的を見つけなければならない。それが親鸞会の主張である。

「死が来れば、あらゆる幸福(相対の幸福)は崩れさってしまう」

「そんな中にあって死が来ても壊れない絶対の幸福、無碍の一道がある。それが人生の目的」

「人生の目的達成のために、このサークルに入部しよう!!」

財産・名誉・一時の楽しみなどの相対的な幸福は、秀吉のように、死に直面すれば消え去ってしまう。

そこで、絶対に崩れる事のない絶対的な幸福、人生の目的、それをこのサークルで見つけよう!と話をするのである。

結論を言えば、親鸞会の「人生の目的」とは「後生の一大事」の解決である。

これは阿弥陀仏の本願以外では解決できない…と彼らは言うのであるが、この新入生歓迎の段階では、サークルの正体は全く知らされず、親鸞・阿弥陀仏という言葉すら使われない。

ただ、一休・家康・秀吉などの言葉を用いて、この世はむなしい・無常であるということを暗に示唆するにとどまるのである。

こうして、入会した新入生は、親鸞会のサークルであることを全く知らされないまま、毎日の「部会」に参加をしていく。

クラスの飲み会等があっても、先輩から「飲み会はつまらないよ。時間の無駄」などと言われ、それらの飲み会・友達(「雑縁」)とは関わらないように(つまり参加しないよう)勧められるという。このため、新入生は親鸞会内部以外の友人ができにくい傾向があるようである。

「部会」では、上級生、そして時には専任講師(講師学院という養成所を出た親鸞会の職業布教師)により「人生の目的」についての講義が行われる。

最初は著名な哲学者・思想家、事件や書籍などを引用して講義が行われるが、4月中旬を過ぎたあたりからだんだんと仏教の話が多くなっていく。

金も家族も友達も地位も永遠に続くものなどないという「諸行無常」、人間は悪い事しかできない存在だと知る「罪悪感」、人間は死後、はてしない苦しみの続く「無間地獄」に行くということ。

これらのことが新入生には繰り返し教えられて行く。

ゴールデンウィークに行われる「新勧合宿」(歓迎の歓ではなく、勧誘の勧)で、ついに親鸞会の教義が明かされる。

今まで、繰り返し説かれてきた「後生の一大事」はいかにすれば解決することができるのか?その答が「浄土真宗親鸞会」の教えである…となる。「後生の一大事」の解決、無碍の一道へと導いてくれるのが「善智識高森先生」であり、高森先生の法話を聴聞することが最重要である、と教えるのである。

この「新勧合宿」以降は、毎日の部会では、親鸞会の教義を学び、週一回日曜日行われる「聴聞会」に参加することが活動となっていく。

そして夏に行われる合宿で正式に親鸞会の会員となる(大学によって少し早いところもある)…という流れである。

私が入手した「週間メニュー」より親鸞会学生部員の一周間の活動の一例をあげてみよう。

月曜日は専任講師を招いての部会、火曜日も部会、水曜日に川崎市の某所で講演会、木曜日は教学試験(学階試験という)の模試、金曜日はGCK(「グローバルクラブ講演会」関東学生部の表向きの名前)、土曜日は講演会録画ゼミ、日曜日は岐阜(福井、富山、三重等でも行われる)での聴聞会…という非常にハードな内容である。

●学階試験

親鸞会は親鸞の教えの勉強「教学」を重視する。

テキストとして、手の平サイズ・単語帳形式の「仏教学@A」「真宗学@〜D」が用いられる。内容は一問一答式で、一冊に五十問が収められている。

「真実浄土に往生できる人はどんな人か、蓮如上人の御教示とその聖教の根拠も示せ」

「信心決定するということは一度死ぬことだという根拠を親鸞聖人と覚如上人のお言葉で示せ」

といった問題が並んでいる。

このテキストと全く同じ問題が学階試験では出題されるため(大導師試験まで)、会員はテキストの丸暗記をしながら勉強をする。

学階試験のランクは下から、導師、大導師、講師、大講師、学師、学頭、総学頭となっている。講師試験からは応用問題も出され、内容も高度になっていく。

顕正新聞に掲載された記事によれば、大講師試験15名の合格者のうち10名以上、大導師試験合格者91名のうち83名が全国各大学の現役学生である。

東大、京大、大阪大、神戸大、早稲田、慶應…といった全国の有名大学の学生が大半である。

そして、教学試験合格者メンバーの中から、専任講師を職業として選択し、全国の布教に飛びまわる青年達が出てくるのである。

●聴聞会

週一回日曜日に行われる聴聞会は、親鸞会の最重要とも言える活動のようである。

「只仏法は聴聞に極まることなり」(御一代記聞書)とあるように、彼らは信心決定した「善智識高森先生」の法話(高森会長の法話は月一回のようである)を聞くため、貸切バスに乗って富山県の親鸞会本部へやってくる。

大講堂は3500人の会員で満員となり、朝の九時半には、勤行が始まる。

全員で、「真宗宗歌」を歌い、つづいて「正信偈」(親鸞の教行信証にある7言120句の偈文)を唱和、最後に蓮如の御文章の朗読で勤行は終わる。

親鸞会会員は勤行を、毎朝晩行うようであるが、その教義的な位置付けは聴聞よりも低いようである。

高森氏の法話は、高森氏と専任講師の問答形式で行われる。会員は全員正座で高森氏の法話に聞き入る。実際高森氏の法話は非常にわかりやすく面白いようである。

その法話の模様を一部ここに再現してみよう。

(正信偈の「不断煩悩得涅槃」煩悩をもったままで無碍の一道の世界に生まれ出る…ということを解説して)

高森 煩悩とはなんですか。

講師 はい。わたしたちを煩わせ悩ませるもの、全部で108あります。

高森 誰が言われましたか。

講師 はい。お釈迦様です。

高森 君はいくつ持ってるの。

講師 はい。108つです。

高森 たくさんあるね(笑)それで、なにか思い出す?

講師 はい。除夜の鐘です。

高森 鐘撞けばなんとかなる?

講師 なんともなりません。

(王舎城の悲劇という観無量寿経の説話を講義した後で)

高森 仏教の教えは「因果の道理」ですね。それは(黒板に書く)

善因―善果、悪因―悪果、自因―自果

良い種をまけば、良い結果が出る。悪い種をまけば悪い結果があらわれる。

これが因果の道理で、良い結果が出ると「自因自果」と思うのだが、悪い結果が出るとそうは思えないのが我々です。

あいつが悪い、あいつのせいだと「他因自果」にする。お寺でいい話を聞くと、「そうだそうだ、嫁が悪いんではなかった。私が悪かった。」と思うのです。

しかし頭で合点したのではだめですね。(中略)

イダイケ(アジャセ王の母)は気付いた。自分は地獄行きだ。地獄より他に行きどころがない。そういう地獄行きの姿が示されてきた。

そこで釈尊は言われた。イダイケよ、そなたに今から苦悩を除く法―除苦悩法を説くぞ、と仰って阿弥陀仏の本願を説かれた。

そこでイダイケは見仏得忍、阿弥陀仏のお姿を見たときに、イダイケは、ああアジャセよ。あなたのおかげで私は阿弥陀仏に会えた。

イダイケはこの時救われた。

こういった内容の法話が午前から休憩をはさんで午後まで正味5時間行われるのである。

信心決定を親鸞会会員は目指す。「信心決定するとは、無上宝珠の南無阿弥陀仏の大功徳を阿弥陀仏から頂くこと」であるらしい。

そして「信心決定するに最も近道は、 1骨折ってきけ。 2衣食忘れてきけ。 3間断なくきけ。 4どうしても聞けぬ時は、きいたことを思い出せ。」(親鸞会公式ホームページ抜粋)とあるように、聴聞を最重要の教義と位置付けている。

善智識の法話を聞いて聞いて聞きぬいたその時に、「信心決定した瞬間」がはっきりと自分でわかるんだそうだ。 (真宗学A問20)

親鸞会の中にこの「信心決定」したという人物は何名もいるらしく、会員は今日も信心決定を目指して、聴聞に励んでいる。

●財施

親鸞会への寄付・供養は「財施」(法を聞かせていただく「法施」に対して、財産で布施をする)と呼ばれる。

サークル入会時に5000円(大学によって違う)、また親鸞会内部でも会員にランクがあり、親会員は月2000円、正会員は月5000円、純会員は月8000円を会費として支払う。

毎年、1月には「建立御報謝」と呼ばれる布施が行われ、年末までに納金となる。学生の場合、相場が数万〜数十万円だという。この金額に応じて、聴聞会の席が取れる聴聞カードの番号が良くなるため、熱心な会員は高額の布施をするようである。

この他にも、書籍代、聴聞会への交通費などを考えれば、学生にとって負担は大きい。

バイトを紹介するバイト係というものまであるというからいたれりつくせりである。

● 破邪顕正

破邪顕正とは誤った宗教(親鸞会以外の宗教)を破し、正しい教え(浄土真宗親鸞会の教え)を顕すこと。つまり布教のことである。

近年に入り、親鸞会は、親鸞の生涯を描いたアニメ「世界の光・親鸞聖人」(他にアニメ「王舎城の悲劇」もある)の制作を行っており、1993年からはこのビデオを頒布する作戦を「光作戦」と銘打って、全国各地で、破邪顕正の重要な活動としてアニメ販売等の活動を展開している。

余談だが親鸞会では「〜作戦」という名称が多く、他にも「ローラー作戦」「イナズマ作戦」等がある。

● 本願寺派との論争

浄土真宗親鸞会の特徴は教学であることは先に述べた。そして、この教学上の対立が浄土真宗本願寺派の教団との間で表面化したのが、1980年代のことである。

本願寺との教学上での相違は多々あるようであるが、親鸞会の特色と言われる「三大靜論」について見てみよう。

「三大靜論」とは、親鸞が34歳の時、法然の門下と3回にわたって激論を行ったといわれている論争で、覚如の「口伝抄」や「御伝抄」に記されている。

(真宗聖典には載っているものの史実ではないとの見解が強い。)

まず第1に「体失不体失往生の靜論」である。

法然の高弟、善信房「阿弥陀仏の救いは、肉体の亡びた死後に得られる。(体失往生)」

親鸞「阿弥陀仏の本願は死なねば助からないという体失往生ではない。現在この世から救われる不体失往生である。」

法然「親鸞が正しい」

第2「信行両座の靜論」

法然「念仏を称えたら阿弥陀仏に救われるか(行)、念仏一声称えなくとも信心一つで救われるか(信)?信と行のどちらか正しいと思う方に座りなさい。」

弟子達は行、親鸞は信の座敷に座る。

法然「信が正しい」

親鸞会解説「念仏は救われた人のお礼の言葉です。親鸞の教えは信心正因称名報恩を骨格とする」

第3「信心同異の靜論」

親鸞「私の信心も法然の信心も全く同一である」

法然の高弟3人「親鸞は師匠を冒涜している」

法然「阿弥陀仏よりたまわる他力の信心は、全く同一。親鸞が正しい」

この「三大靜論」を踏まえて、本願寺と親鸞会との教学の差異をみてみよう。

親鸞会側が全国各地でばらまいたビラに、双方の立場の相違をまとめたものがある。これをもとにして整理すると以下のようになる。

親鸞会 本願寺

1御本尊 御名号のみ 木像でもよい

2阿弥陀仏の救い 救われた事がはっきりわかる はっきりとはしない

3いつ助かるか 現在 死後

4救われたらどうなるか 絶対的幸福 今世では救われない

5どうしたら助かるか 真実の信心 念仏

6喜んでいる事 現在救われた事 死んだ後の救い

7念仏 自力・他力の念仏がある 念仏は同じ

8使命 生きている人間を絶対的幸福に 葬式・法事、読経・遺骨の後始末

以上の内容はあくまで親鸞会が主張するもので、本願寺の本来の教義はこれほど単純ではない。本願寺側の反論の一つを例にとってみよう。

「3、いつ助かるか―平生、聞信の一念の正定聚不退の身にしていただく(現世の利益)と、命終われば浄土に往生して仏のさとりを聞かせていただく(未来の利益)と、現当二世の益をいうので、本願寺は「死なねば助からぬ」とは言わない。」

親鸞会は本願寺の立場をねじまげて批判をしているのではあるが、双方の教義解釈にずれがあることは事実である。

両者の対立は本願寺派・紅楳英顕氏の論文「現代における異議の研究―高森親鸞会の主張とその問題点」(1979年12月)が発表されたころから激しさを増していく。

親鸞会の宿善論の解釈を紅楳氏が批判し、この宿善論がその後の論争のメインテーマの一つであったため、一連の本願寺と親鸞会の論争は「宿善論争」と呼ばれている。

親鸞会は本願寺に対して、「四つの」質問状を出し回答を迫った。

本願寺側は、1982年「現代の教学問題―派外からの論議について」という冊子を発刊。

内容は「一念覚知(救われたことがはっきりすること)について」「二種深信について」「知識帰命について」「真宗の本尊について」「宿善について」の五項目である。

親鸞会はこれに対して、「7つの質問状」を本願寺に提出。

回答を求めて、前述したように1984年1月6日、西本願寺の御影堂で1500人の親鸞会会員による座りこみが行われる事となるのである。

その後も本願寺からは質問状に対する回答はなく、1984年3月には「本願寺なぜ答えぬ」(著 高森顕徹氏)が発刊。この著書を大量に頒布する「イナズマ作戦」(表紙の稲妻の絵からこの名がついた)が展開されていった。

● 宿善論

ここで、宿善論について触れておこう。宿善論争の争点は、単純にいえば、親鸞の教えで善をどのように捉えているか…ということである。

親鸞会の主張は高森氏の聴聞会でも触れられていたが、「自因自果」である。善因を積めば善果となる。悪を廃して善を修める「廃悪修善」を説く。

これに対して、浄土真宗大谷派シンパの知人は以下のように語っていた。(宿善論争とは関係のない一つの意見)

『「真実功徳相」は、二種の功徳あり。一つには、有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆえに不実の功徳と名づく。二つには、菩薩の智慧・清浄の業より起こりて仏事を荘厳す。法性に依って清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳相と名づく。いかんが顛倒せざる、法性に依り二諦に順ずるがゆえに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るがゆえなり。(教行信証 行巻)

「いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。」です。

凡夫の諸善は、因と果が逆になってますから虚偽なのです。

凡夫は「善をしよう」と考え行います。本当は無理にしようと思うのではなく、自然に「善」をしてしまうのが顛倒してない「善」です。

例えば・・誰かが川で溺れかけている。それを見て助けなきゃって思い、考える前に川へ跳び込んでしまう。

それが自然な「善」です。しかし、凡夫の「善」は他人の評価を気にしたり、(例えば褒められる、人から後ろ指を差されない為に)自分に可能かどうかを考えてしまうのです。

(泳げるかどうか)その凡夫の善は、「助ける」より先に「評価」「能力」が因となってます。それが凡夫の顛倒の「善」です。

親鸞会の方々が言っている善行も自然な「善」ではなく、「自分が地獄に落ちない種となる為」の「善」ですから、顛倒しているのです。

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

なぜ、親鸞会は念仏を勧めず、仮門を勧めるのでしょう?』

教義論争は平行線をたどる場合が多い。

親鸞の教えの真実はどこにあるのか?

それは到底学会員の私に判断がつくものでもないため、ここでは2つの立場を紹介するに止めたい。

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