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法華神道

(堀書店発行「神道辞典」)

法華神道とは、日蓮宗の神道、つまり日蓮宗の人々の信じている神道、又はその神道説である。即ち法華の教理によって我が国の神道を解釈するを云う

さて、法華神道で中心になるのは、法華三十番神説である。所謂、法華神道三大書と称せられる「番神問答記」「法華神道秘訣」「神道同一咸(酉扁+咸)味鈔」を始め、「鎮守勧請覚悟要」「神仏冥応論」「法華三十番神抄」等の法華神道書を紐解いて見ても、多くは三十番神の解説が中心である。

ところで法華三十番神とは、我が国の著名な神々が、一ケ月三十日の間、毎日番代で「法華経」を守護せられると云う信仰である。その思想は既に天台宗にある。よって、番神信仰が何時、どのようにして日蓮宗に受容せられたかを窮めることが、実は法華神道の起源を明白ならしめることにもなる。その受容は、

(一)日蓮(貞応元年〜弘安五年・1222〜1282)に始まる説と、
(二)日像(文永六年〜興国三年・1269〜1342)に始まるとの二説がある。

更に(一)に二説ある。即ち(イ)建長元年(四年とも)、日蓮が比叡山の定光院で読経していたとき、法華守護の三十番神が列をなして姿を現した。(ロ)日蓮が吉田兼益より神道を伝授され、三十番神の守護を法華経によって勧請した、の二説である。しかし何れも信憑しがたい。

(二)の日像勧請説を証する資料は多い。よって、現在では日蓮のときは、天照・八幡の二神のみの勧請で、三十番神勧請の濫觴ランショウは(二)の日像によるとの説が一般に認められている

しかし、日蓮は具体的に三十番神は勧請しなかったにせよ、『立正安国論』に「世みな正に背き人ことごとく悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず」と、あるように神天上思想(捨国と擁護がある)、善神捨国思想は明白に表れている。然して、この思想が更に日像によって三十番神信仰へと受け継がれ、展開されて行ったとみるのが正しい。要するに法華神道は、日蓮の国神観を基にして展開して行った神道説と云えよう。何れにせよ、室町時代に入るとその中心思想である三十番神として法華神道は全盛を極めた。

ところが明応六年二月六日(九日とも)吉田兼倶はこの三十番神について、(一)天台宗の三十番神か、(二)内侍所勧請のものか、と云う質疑状を発した(番神問答事件)。これに対し日蓮宗では、「此事当流独歩の稟承、他人不共の秘曲なり」と、天台宗勧請の三十番神を継ぐものでないとし、「練磨・実義」の二語で以って独特の解釈を加え、名実共に三十番神は日蓮宗独自のものになって行った。このような解釈が生じたのも吉田神道の影響があったからで、日蓮宗が天台宗より独立したのも、吉田神道との交渉を抜きにしては考えることは出来ない

天台神道と法華神道

神道は一見素朴な教義のように思われるが、実は仏教の影響を濃厚に受けている、その反面仏教への対抗意識は強いのが特徴である。なかんずく理論神道諸派の神道に果たした役割は大きい。

まず山王一実神道であるが、これは仏教天台宗と神道が融合した「仏本神従」の神道である。それゆえ天台神道ともいう。

人間の生命(一念)に現象世界のすべて(三千)が欠けることなく収まるという天台教学の一念三千を教義に援用している。

因みに「三十番神」説を主張する仏教の日蓮宗と神道が融合した「法華神道」は、天台神道の分かれであると見なされている。

いわゆる三十番神とは三十の神ということである。法華神道ではひと月三十日の間、毎日一人の神が日蓮宗の信徒を守護してくれると考える。信徒たちは一つひとつの神社へ別々に参詣する必要はなく、三十番神を祭った日蓮宗の寺院に参詣すればよいという考え方である。

また法華神道の系譜にある富士系の三鳥派は江戸幕府による八丈島流罪をはじめとする徹底的な弾圧のため伝持の人もなく、文献・史料も跡形もなく残っていない。余程酷い宗教弾圧だったのだろう。

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