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他教団研究プロジェクト

(所報第29号:50頁〜)

他教団研究プロジェクト

「近現代の日蓮宗と他教団」 中間報告はじめに 歴史とは、 過去・現在・未来の三世を知ることである。

過去は、 つねに、 その時の現代であった。 現代は、 たえず、 過去となり、 未来に続いている。

近現代という時代も、 すでに百二十余年の三世を経巡りつつ、 こんにちに至っている。 その時代ごとの現代における社会と人間の営みをいかにとらえ、 そこから教訓と指針をいかにひき出すか。 この歴史研究なしには、 現在と未来への認識や展望を持ち得ない。

多面的な歴史研究のなかの宗教史・仏教史の研究、 そして日蓮宗の歴史の研究も、 こうした視座にもとづいて不断に進められていかねばならない。

このような問題視角にたって、 日蓮宗現代宗教研究所は、 近現代の日蓮宗教団史研究の一環として 「他教団研究プロジェクト」 を設けた。 現宗研顧問・嘱託・研究員並びに立正大学の研究者の参画・協力のもとに、 三カ年計画 (平成五〜七年度) にて、 「明治期以降における日蓮宗と他教団・諸宗教との関わりと対応について」 を主テーマとする研究に着手したのである。

この 「他教団研究プロジェクト」 を設置した直接のきっかけは、 他教団に対する葬儀執行問題のあり方が爼上にのぼった点にある。 この問題自体は、 平成四年三月に開かれた第六十八定期宗会で代表質問に応答した現宗研所長の所見発表 (「仏所護念会教団葬に関する諸問題」    『宗報』 第一四八号参照) にて既に解決をみているが、 この問題に関連して、 宗務総長より、 「明治期以降における日蓮宗と他教団・諸宗教との関わり方と対応のあり方について、 宗務総長として、 その直属研究機関である日蓮宗現代宗教研究所に研究調査を指示し、 今後の本格的な研究への取り組みと研究成果の発表を要請する」 との諮問がなされたことによる。

宗務総長直属の研究機関として、 これを受けとめると同時に、 前述した視座による日蓮宗の近現代史研究の一環として、 この課題を現宗研の研究活動に位置づけ、 「他教団研究プロジェクト」 を設置して発足したのである。

また、 研究主題に取り組むにあたり、 (A) 「国家神道と日蓮宗」、 (B) 「日蓮門下各派と日蓮宗」、 (C) 「新宗教と日蓮宗」 の三項目よりアプローチすることとし、 三項目それぞれの研究内容・執筆事項とその分担を定めた。

これは、 近現代の関わり方と対応についての主要な点をとりあげたものである。 明治維新より昭和二十年までの時期、 王政復古・祭政一致にもとづく国家神道体制下で、 いかなる関わりと対応をしてきたのかは避けることのできない研究課題である。 また、 近現代の時代状況のもとでの日蓮門下各派との関係を改めてとらえ直し、 さらに新宗教、 特に創価学会への対応を検証することは、 近現代日蓮宗教団史の全体像をとらえる不可欠な研究である。

しかもその歴史の教訓から学ぶものを明らかにし、 現在から未来に至る日蓮宗の他教団・諸宗教との関わり方・対応についての基本姿勢とそのあり方を確立してゆく作業として考察しようとするものである。

今号に所載した内容は、 研究の二年目に当たる中間報告であり、 要旨を概略したものである。 これと並行して、 既に執筆項目と分担にそって研究を進めており、 三年目の平成七年度には研究成果を一冊に集成・発表するべく努力しているところである。

(石川教張) A 「国家神道と日蓮宗」 グループ中間報告

国家神道と日蓮宗の関わりについて三年間取り組み、 年三回のグループ会議で研究交流をしてまとめる、 との方針にもとづき、 以下の通り会議を開き、 研究内容を検討した。

(1)第一回グループ会議 (平成五年三月四日 自由討論)

○研究論文であることを厳守しつつ、 日蓮宗が国家神道にどう対応したのかに関する概論であることを前提に、 まとめることとする。

○関連史料のうち、 「日蓮主義」 (昭和二年創刊〜昭和十七年第一六巻第一二号 日蓮宗宗務院発行) は現宗研にある。 「明教新誌」 は駒沢大学にマイクロフィルムとしてあるので、 基礎史料のひとつとする。 「皇道仏教」 「地涌日本」 の所在が、 小野文(2)によって確認された。

○参考文献一覧表は、 書籍を伊藤立教が、 論文を早坂鳳城が、 それぞれ作成することとする。

(3)第二回グループ会議 (平成五年五月二十四日 発表伊藤立教)

〈国家神道とのかかわりについて〉

○三重県伊勢市には、 日蓮大聖人三大誓願伝承の地があり、 天台宗浄○明寺をその場所としているが、 廃仏毀釈のあと、 日蓮宗はその伝承を常○明寺として継承建立している。 三大 「誓願の井戸」 は、 明治期に日蓮宗が霊跡調査して跡地を顕彰、 川合芳次郎 (のちに正法護持財団) が管理した。

○天皇本尊については、 皇道仏教行道会についても調査する予定。

○敗戦前の 「神仏公葬論争」 についても、 言及しておくべきである。 たとえば、 「慰霊」 とは明らかに神道用語であり、 仏教用語ではない。 「慰霊祭」 という用語でも明らかで、 この使用法は明治以後のものとみてよい。 とすれば戦没者の 「慰霊」 という表現は、 それを 「慰霊法要」 としても学問的には問題である。 こうした点が、 敗戦前の 「神仏公葬論争」 とも深くかかわってくる。 したがって厳密には追悼あるいは追善というべきである、 との課題を討議した。

第三回グループ会議 (平成五年九月十三日 発表小野文(4))

〈日蓮遺文削除問題について〉

○井上日召は国柱会の思想をもとにしながらも、 その行道では離れたものとなっている。 井上著 『血盟団秘話』 が、 昭和二十六年に 『文芸春秋に見る昭和史』 第一巻として発行されている。 この中に、 浅草妙経寺野口日主 (京都妙満寺歴代貫首) とのつきあいが書かれている。

血盟団結成時、 新興仏青が活動を始めている。 この年が六百五十遠忌にあたっていたことをどう考えるか、 藤井日達がカルカッタに上陸したのが一月、 宮沢賢治の上京も満州事変も九月。

○法華宗株橋日涌の回想では、 井上日召は五・一五事件、 二・二六事件を背景に、 遺文削除を要求してきたとされて いる。

平楽寺書店井上社長は、 削除に抵抗している。 法華会の姉崎正治・小林一郎・久保田正文は、 削除問題について  「不問に付す」 ことで合意していたようである。 この時、 「皇道日報」 の日蓮宗抹殺建白書が出されている。

○戦時下の思想統制は、 内閣情報局・内務省警保局が中心。

水魚会堀内良平 (身延鉄道創始者) は、 皇道日報福田素剣を告訴している。

宗教問題研究所浜田本悠は、 削除反対決議をしている。

遺文削除に対して積極的であったのは皇道仏教行道会、 消極的であったのは大崎宗学者 (清水龍山・浅井要麟)。  浅井は校正版の作業中、 昭和十七年に心筋梗塞で急死、 このため遺文集の発行は中断する。

○このグループ会議に、 「皇道仏教」 第一九五三号 (昭和十六年三月十七日発行) のコピーが史料として配られた。 同紙は日刊、 東京市芝区田村町四丁目十三番地、 皇道日報社発行、 社長兼主筆福田素剣。 同号一面には 「大不敬大叛逆日蓮宗建白書」 が福田名で載り、 「立正大学教授浅井要麟編平楽寺書店発売日蓮聖人御遺文集より転載、 大不敬大叛逆売国思想」 として御遺文が抜粋紹介され、 大曼荼羅御本尊の図を入れて 「恐れ多くも天照皇大神応神天皇に対し菩薩天王等奉りて法華経の下に配記する大不敬大叛逆思想の宣伝掛図也」 と説明している。 第二面には松本道別筆の 「逆賊日蓮」 なる稿が、 神敵法華宗の見出しで全面に載せられている。

(5)第四回グループ会議 (平成五年十二月二十二日 発表新間智照)

〈国民精神作興・思想善導について〉

○新間智啓 (智照の実父、 戦前日蓮宗大学講師・専任布教師・宗会議員・教学審議会委員・宗綱審議会委員を歴任) の論文・言動がある。 皇国史観を口にしなければ世に受け入れられない時代で、 これに関する言葉を使い、 世の中の傾向をうつしながらの文章となっている。

○国民精神作興に対しては、 本多日生が直接反応している。

○優陀那日輝・新居日薩・田中智学は、 日本は神国、 という通俗的神道理解で、 神道への親近感がある。 明治絶対主義からの流れに乗っている、 という底流がある。

あるものを取り込んで日蓮流にしていく法主国従思想 (神は法華経の行者を守護する) を、 末弟が消化していない (伊勢内宮奉上伝説など)。

(6)第五回グループ会議 (平成六年六月八日 自由討議)

○当グループでの執筆分担と担当を、 三月十四日の合同会議で報告の通りと確認し、 一項目四百字詰三十枚以内で今年中に書きあげてみることとし、 全稿に目を通したうえで中濃教篤チーフが総論を執筆する。

第六回グループ会議 (平成六年十月七日 自由討議)

○執筆項目と執筆者の確認

  総論 中濃 教篤

  神仏分離・廃仏毀釈とその対応 石川 教張

  新居日薩における 「日蓮宗と国家神道」 小野 文(7)

  三条教則・神仏合併大教院との関わり 伊藤 立教

  国民精神作興と思想善導 新間 智照

  奉献本尊・天皇本尊問題 早坂 鳳城

  立正大師号宣下・宗祖六百遠忌 石川 教張

  日蓮遺文削除・本尊不敬問題 小野 文(1)

  参考文献−書籍 伊藤 立教

  参考文献−論文 早坂 鳳城

○参考文献は各項目ごとに執筆者が後記し、 研究の便宜をはかる。

○原稿は、 中濃教篤チーフに送る。 早坂鳳城執筆 「奉献本尊・天皇本尊問題」 原稿は、 次回グループ会議 (十二月十 五日) の折に皆で読んで検討する。

○ 「神仏分離・廃仏毀釈とその対応」 項目の執筆者を、 伊藤立教から石川教張所長に変更する。

○原稿枚数は当グループの内部案で、 各執筆者の作業目安とする。

(2)第七回グループ会議 (平成六年十二月十五日 発表早坂鳳城)

〈天皇本尊論について〉

○清水梁山・高橋善中および高佐貫長の皇道仏教行道会の所見を再検討する。

○奉献本尊の偽作とその対外的影響を研究する。

B 「日蓮門下各派と日蓮宗」 グループ中間報告

平成五年度から三年間の予定で始まった他教団研究プロジェクトは、 本年度末に二年間の研究成果を中間報告というかたちで発表することとなっている。 そこでBグループ 「日蓮門下各派と日蓮宗」 としては、 各自の研究成果の一端を発表することによって、 本年度の中間報告とする。 分担事項は 「明治初期日蓮門下教団の動向」 (安中尚史)、 「門下統合と日蓮宗  天晴会と法華会  」 (浜島典彦)、 「三派合同」 (近江幸正)、 「日蓮門下合同問題について  法華宗の場合  」 (木村勝行)、 「富士日興門流の動向と日蓮宗」 (本間裕史) とした。

「明治初期日蓮門下教団の動向」

明治維新期における仏教界は、 政府の宗教政策に大きな影響を受けたが、 日蓮門下教団もその例外ではなかった。

それまでの仏教界は、 幕府の保護政策により半ば国教化していたが、 維新政府は神道国教化政策を理想とする、 祭政一致の国家をめざしていた。 そして、 明治元年 (一八六八) 三月に 「神仏分離令」 を発布し神仏習合を禁じ、 廃仏毀釈という手荒な措置にまで進展した。

その後、 廃仏活動は和らいでいくが、 一方では神道による教化活動に仏教界も組み込まれることとなる。 明治五年 (一八七二) 四月、 政府は教導職制度を設け、 神官とともに僧侶を教導職十四級に組み込み、 三条教則による国民教化活動を推進した。 そして教導職管長として身延山久遠寺の北風日健が就いた。 また仏教各宗の提唱により、 同年八月、 神仏合併大教院を設置し、 教化活動と教導職養成が行われた。

そして同年十月になると日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の七宗に、 一宗一管長制を定める通達が出されたのである。 この通達に対し日蓮系各派は、 法華経の受容のありかたにおいて、 本門迹門の一致を主張する一致派と、 本門迹門の勝劣を主張する勝劣派に分かれていたが、 ここに日蓮宗と総称し、 交代制の管長制度を定め、 顕日琳が管長として就任した。 日琳は本成寺派、 現在の法華宗陣門流の総本山越後本成寺住職であり、 一宗一管長制における日蓮宗初代管長は、 勝劣派から出たことがわかる。

しかし、 一宗一管長制度も教義の違いや管長選出に問題が生じ、 明治七年 (一八七四) 三月、 各派ごとに管長を置くことが認められ、 日蓮宗一致派と、 日蓮宗勝劣派に分けられたのである。 一致派は新居日薩を初代管長とし、 勝劣派は興門派・妙満寺派、 本成寺派・八品派・本隆寺派で構成され、 交代制で管長職を決め、 初代管長に八品派の釈日実が就いた。

その後、 明治八年 (一八七五) 三月、 日蓮宗一致派は派名廃止を政府に求め、 単称 「日蓮宗」 への変更を請願した。 しかし政府も勝劣派等との関連を考え一度は退けたが、 再三にわたる働きかけのため、 やむなく明治九年 (一八七六) 二月、 承認したのである。 一方、 勝劣派では政府の措置に不満を抱き、 一時は日蓮宗と公称する許可を得たが、 行政上の混乱を避けるため、 勝劣派各派の管長別置による分立許可という条件により解決した。

また不受不施派の再興運動も、 この間に活発となっていたのである。 明治八年六月、 政府は釈日正を中心とした不受不施派から宗派再興、 派名公許の懇願を受け、 日蓮宗各派にその許可の可否を尋ねたが、 一致・勝劣両派は管長の連名で、 再興を許可しなかった。 しかし勝劣派内から異議が生じ、 管長の加藤日馨は責任を取り辞任、 そしてあらためて不受不施派再興許可の上申書を勝劣派が提出した。 一方、 一致派の不許可主張は続き新居日薩が教部省に赴き、 不受不施派は禁断・邪義を主張し社会の混乱を招く旨の答申をした。 だが政府も信教の自由という理由により許可を主張し、 明治九年四月、 不受不施派の宗派再興、 派名公許を布達した。

このように明治元年からの約十カ年は日蓮門下各教団にとって、 今後の進む方向を示唆した重要な時期であった。

(3)門下統合と日蓮宗 天晴会と法華会  

本多日生は 『各宗綱要』 編纂における 「四箇格言」 削除 (島地黙雷による) に端を発する、 他宗僧徒との対決のなかで本成寺派・本隆寺派と連携し、 明治二十九年 (一八九六) 十二月十三日に統一団を結成する。 統一団の折伏布教で小笠原長生・佐藤鉄太郎等の著名人を獲得するが、 妙満寺派の統一団ということに本多は限界を感じていくようになる。 そこでセクト意識を払拭し、 村上專精の 『仏教統一論』 を意識し日蓮系教団統一への会派設立へと向かうのである。

明治四十二年 (一九〇九) 一月十五日、 姉崎正治・高島平三郎・柴田一能・山田一英等とともに天晴会を、 婦人の会として地明会を創立した。 天晴会設立当初の一九一名に及ぶ会員の顔触れは、 日蓮宗僧侶・法華系教団僧侶・政界・財界・軍人・華族・法曹会・作家等、 多岐にわたっている。

活動は主に講演、 そして文筆によった。 明治四十二・四十三年は、 大規模な講演会が催され、 その内容が 『天晴会講演録』 第一・二輯に収められている。 月刊誌として教誌 『天晴地明』 (編集人小林一郎 発行人吉田珍雄 発行所統一閣 のち 『統一』 に吸収) を刊行し、 会員相互の情報交換の場となっている。 月一回の講演月例会が開かれ、 明治四十五年 (一九一二) 四月以降は竣工した統一閣で催されている。 支部も京都・大阪・神戸・姫路・三河・千葉・金沢等に次々と誕生し、 活動は全国に及んだ。 講演活動は大学にも及び東京帝国大、 一高の(4)洽会、 東洋大の橘香会、 早大・慶大日蓮聖人鑽迎会等の設立を促している。

しかし、 大正九年 (一九二〇) 以降の活動は全く鈍化し、 知識人の多くは大正三年 (一九一四) に在家主導によって設立された法華会に移行し、 本多は大正七年 (一九一八) 三月に自慶会を組織して再生を試みている。

法華会は天晴会会員であった山田三良 (東京帝国大教授) ・小林一郎 (日蓮宗大教授) ・矢野茂 (元大審院判事) によって大正三年五月に設立された。 機関誌である 『法華』 に掲載された三千語に及ぶ 「発刊の辞」 では、 法華経の教法と日蓮聖人の教義による健全な精神文化構築を謳い、 その手段として講演と文筆の二途によるとしている。

設立当初、 多くの会員は天晴会に属していたが、 在家主導による日蓮主義、 財団法人 (昭和十八年十二月に実現) を目指すことに傾倒し、 天晴会と次第に距離を置くことになる。 在家主義は山田三良が初代理事長を辞任 (昭和二十三年五月) する時に提出した三大要からも明らかである。

文筆活動の中心は月刊誌 『法華』 で、 通巻八三四号 (平成六年十一月現在) を数え、 宗教月刊誌としてはロンゲストランとなっている。 この他、 法華会会員の著書として、 小林一郎の 『法華経大講座』 全十三巻、 『日蓮聖人遺文講座』 全十二巻、 久保田正文、 春日屋伸昌等が仏教書を多数刊行している。 なお、 『昭和定本日蓮聖人遺文』 刊行に当たっては会員の加冶さきが資料提供と財政援助を行っている。

大正十年 (一九二一) 十月、 中山法華経寺御遺文紛失 (二書) 事件が発覚し、 これを契機として法華会は真蹟格護運動の推進的役割を演じた。 聖教殿は大正十五年 (一九二六) の着工以来六年の歳月と約二十万円の巨額を投じ昭和六年 (一九三一) 五月に完成しているが、 総工費の約五割を法華会が負担している。

今日に至るまで毎月第二土曜日の法華経講話 (講師、 小林一郎  久保田正文  春日屋伸昌  渡辺宝陽 会場、 神田学士会館  中央大学駿河台記念館) を始めとし、 四月中旬の花まつり、 五月の総会、 七月下旬の夏期清集 (昭和十年発足) 等が連綿として催されている。 主な会員には姉崎正治 (東京大教授) ・石橋湛山 (首相) ・江川英武 (東京大教授) ・加治時次郎 (平民病院院長) ・加藤高明 (首相) ・木内信胤 (世界経済調査会理事長) ・五島昇 (東急社長) ・新村出 (広辞苑編者) ・辰野金吾 (東京駅・日本銀行設計者) ・綱脇龍妙 (深敬病院院長) ・土光敏夫 (経団連会長) ・諸橋轍次 (漢学者) 等がいる。

(5)三派合同

対米戦争開始の直前に行われた三派合同 (日蓮宗・本門宗・顕本法華宗) は、 戦争遂行のための政府の国民精神総動員運動にしたがって推進され完成されたものであったが、 その背景としては明治末期から大正初期の七教団合同の動きがあり、 さらに日中戦争開戦前の門下合同協議会の動きがあった。

今日の日蓮宗の教団としての直接的基盤は、 三派合同によってつくられたものであるので、 われわれは好むと好まざるとにかかわらず、 この事実を直視し、 それに対する深い反省がなければ未来に向けての正しい教団づくりの道は開き得ない。

明治末期からの七教団合同の動きは、 明治二十九年 (一八九六)、 仏教各宗協会の四箇格言攻撃に対する本多日生の統一団に端を発した、 国権による教団保護を目的とした国家主義的護教思想に基づくものであり、 これが明治四十三年 (一九一〇) の 「大逆事件」 を契機とする政府の 「思想善導」 運動と結びついてすすめられ、 大正四年 (一九一五) には日蓮宗・日蓮正宗・顕本法華宗・法華宗の四宗管長が日本橋倶楽部で統合規約成立発表会を開くにいたった。

昭和十三年 (一九三八) の門下合同協議会は、 第一次近衛内閣成立直前の中国への本格的侵略準備のため文部省の 『国体の本義』 全国配布で本格化した、 「国体明徴」 と 「国民精神総動員」 運動への、 迎合的協力姿勢によるものであった。

しかし、 この教団上層部の上からの動きはいずれも各派間の協議の不一致と各派の下からの強い批判に遭遇して結実にいたらなかった。

昭和十四年 (一九三九) 四月、 主務大臣の強権発動によって宗教団体を 「臣民タルノ義務」 としての戦争遂行と、 そのための国民精神総動員に奉仕させることを目的とする 「宗教団体法」 が成立・公布されるにいたり、 仏教教団をより強く国家権力下に掌握するための宗派合同政策が強引にすすめられた。 もちろんこのような総動員政策は国民生活のすべての面にわたるもので、 すべての政党は解散させられて大政翼賛会に統合され、 労働組合・農民組合も解散させられて大日本産業報国会に統合された。 昭和十五年 (一九四〇) 九月、 政府は神・仏・基の代表を招集して各教派の合同を希望し、 さらに仏教各宗派代表懇談会を招集して、 宗教団体法第五条の 「教派、 宗派又ハ教団ハ、 主務大臣ノ認可ヲ受ケ合併又ハ解散ヲ為スコトヲ得」 によって、 翌年三月末日までに 「自主的」 合同をおえて認可申請を行わなければならないこととされた。

こうして、 十二月三日、 門下八派の参加した門下合同準備会の第一回委員会が東京芝上行寺で開かれ、 わずか三カ月の 「突貫工事」 で、 本迹・勝劣問題や管長推戴問題等の重大な問題を主張の近似による二教団への合同の方向でむりやりまとめて、 昭和十六年 (一九四一) 三月十一日〜十三日の日蓮宗第三十七宗会は日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の三派合同を承認、 同時に本末制度の解体が決められた。 法華宗・本門法華宗・本妙法華宗の三派合同は、 これに先立つこと十日、 三月二日に成立した。 これより戦時新体制による新教団として戦争遂行にいっそう協力することとなった。

教団合同の道筋には、 当時の国家主義的風潮への心酔と迎合があった一面、 政府・官憲によるさまざまな弾圧・脅迫があったことを忘れてはならない。

(1)日蓮門下合同問題について 法華宗の場合  

合同問題は宗祖を同じくする門下教団を統一するという、 日蓮系教団の統一問題であった。 法華宗の場合、 五山盟約を成立させた光長寺 (沼津) 鷲山寺 (茂原) 本能寺 (京都) 本興寺 (尼崎) 妙蓮寺 (京都) の五山が指導的役割を果たした。 五山盟約は明治五年に本門八品五山規則の制定、 さらに明治十五年 (一八八二) 五山盟約八カ条、 約定七カ条を制定し、 五山の和融を確立したことによる。

明治政府の施策である一宗管長制によって、 日蓮系教団は不受不施派をのぞき、 一致派、 勝劣派が合同した。 管長は両派の年番交替、 勝劣派は抽籤で選出するという不安定な管長選出であったが、 明治五年 (一八七二) 合同管長に越後本成寺顕日琳が就任する。 明治七年 (一八七四) 合同管長を廃し、 一致派は新居日薩を管長に、 勝劣派は本能寺釈日実を管長にし、 二派となる。 日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派である。 明治九年 (一八七六)、 勝劣派は五派に分裂、 日蓮宗八品派、 興門派、 妙満寺派、 本成寺派、 本隆寺派の五派である。

日蓮宗八品派は、 五山一派一管長制をもって各本山同位、 一年交替の管長職とした。

明治三十一年 (一八九八) には日蓮宗八品派を改め、 本門法華宗と改称し、、 統一合同を意味した日蓮宗号を除き独立教団の色彩を強めた。

日蓮宗本成寺派は法華宗に、 翌年日蓮宗興門派は本門宗に、 明治三十三年 (一九〇〇) 興門派より離脱した大石寺は日蓮宗富士派と称し独立を深め、 明治四十五年 (一九一二) には日蓮正宗と改称した。

大正三年 (一九一四) 池上本門寺において教団統合会議が開かれ、 七教団管長並びに代表者が出席、 教団帰一の実現、 連絡一致、 教育機関の設立を目的に交渉委員の選出を協議し、 門下統合後援会が組織された。 七教団統合委員として谷日昌、 信隆日秀二名を出し、 教団統合規約を制定。 具体化されずに立ち消えになる。

大正十一年 (一九二二) 生誕七百年にあたり大師号宣下につき、 九教団が集結、 奉戴式が催される。 本門法華宗、 日蓮宗、 日蓮正宗、 顕本法華宗、 本門宗、 法華宗、 本妙法華宗、 不受不施派、 講門派の九教団である。 これらの教団の動向は天晴会本多日生、 国柱会田中智学、 法華会山田三良、 矢野茂、 小林一郎らによる統合の支援が生んだものであった。

政府は国家神道のもとに教派神道、 仏教各派、 新興宗教、 キリスト教各派に干渉を行った。 昭和十四年 (一九三九) 国民精神総動員法により鎌広日宰管長は十三名の講師を派遣し協力した。 ところが昭和十五年 (一九四〇) 宗教団体法をもって宗教統制を強化し団体の統合を指示してきたために、 各教団は合同委員会を決めて合同することになった。

日蓮門下八派は合同委員長に日蓮宗柴田一能を選出、 本門法華宗、 法華宗、 日蓮宗、 本妙法華宗、 顕本法華宗、 本門宗、 不受不施派、 講門派が出席、 合同に賛成し教団の組織は管長、 宗務総監、 宗会議員、 日蓮宗二十名、 各派二十一名ときめる。 宗名、 教義、 本尊は特別委員会で決めることになった。

特別委員の苅谷日任は本迹問題から合同に反対。 勝劣の四宗派は、 本門法華宗、 本門宗、 法華宗、 本妙法華宗による合同をすすめた。 本門宗は脱退し、 三宗派合同して法華宗となる。 昭和十六年 (一九四一) 三月二日、 合同法華宗管長岡本日盛は論達をもって公布し、 管長は一年交代による三派自治とした。 戦後GHQの宗教界の自由派の促進、 昭和二十六年 (一九五一) の宗教法人法公布により、 合同法華宗は解散、 陣門派、 真門派が独立。 五山盟約の一つ妙蓮寺も脱退して本門法華宗と独立、 四本山は新法華宗として再出発した。

(2)富士日興門流の動向と日蓮宗

富士日興門流とは、 日蓮聖人が六老僧として本弟子六人を定められた内の一人である白蓮阿闍梨日興上人の法脈に列する門流を指す。 興門八カ本山とは、 北山本門寺、 小泉久遠寺、 大石寺、 下条妙蓮寺、 西山本門寺の五寺院を 「富士五山」 と呼び、 他に柳瀬実成寺、 京都要法寺、 保田妙本寺を加えた八本山を指して言う。 古来より日蓮宗は、 教義上一致派と勝劣派とに大別されて論争を繰り返してきた経緯がある。 富士日興門流は日蓮宗勝劣派に属し、 明治九年 (一八七六) の頃には 「日蓮宗興門派」 と改称していた。 明治三十二年 (一八九九) 二月には 「本門宗」 と改称する。 この時期大石寺では、 本門宗とは別の歩みを指向して政府に分離独立を請願していた。 かくて翌明治三十三年 (一九〇〇) 九月、 大石寺は 「日蓮宗富士派」 を公称して本門宗とは袂を分かったのである。 さらに明治四十五年 (一九一二) 六月には、 日蓮宗富士派を 「日蓮正宗」 と改称した。 昭和十六年 (一九四一) 三月、 日蓮宗、 本門宗、 顕本法華宗の三宗派合同と、 本末制度の解体が決議され、 本門宗も日蓮宗の傘下に属する事となった。 しかし、 昭和二十五年 (一九五〇) には、 京都要法寺は単立となって 「日蓮本宗」 を公称し、 下条妙蓮寺も同年十二月、 日蓮宗を離脱して日蓮正宗大石寺の傘下となる。 昭和三十二年 (一九五七) 三月、 西山本門寺は単立となり、 同年四月には保田妙本寺も日蓮宗を離脱して日蓮正宗となった。

本章は、 三派合同に至る経緯とその後の影響について、 特に日興門流 (旧本門宗) の動向にスポットを当てて検証する。 いわば明治・大正・昭和期における富士五山の動向と分派の背景を探る裏面史でもある。

かつて歩みを共にしてきた富士周辺の日興門流の五大本山、 つまり富士五山は今日三つに分割独立している。 北山本門寺と小泉久遠寺は日蓮宗に属し、 大石寺と下条妙蓮寺は、 日蓮正宗と宗号を公称して別宗を樹立した。 また、 西山本門寺は、 何れの宗派にも属さない単立寺院として存立している。 興門八カ本山中の柳瀬実成寺は日蓮宗、 京都要法寺は日蓮本宗に、 保田妙本寺は日蓮正宗にと、 各山それぞれに歩みを異にして今日に至っている。

本来、 日興上人の下に帰一すべく法灯継承の血脈を最優先させてきた日興門流ではあったが、 政府の宗教政策と本末の解体は、 この門流を根底から揺さぶりかけ、 翻弄し、 分割の道を選ばせてしまった。

ちなみに、 現在日蓮宗に所属する旧本門宗の末寺数を見ると、 北山本門寺末が三十六カ寺、 小泉久遠寺末が四カ寺、 柳瀬実成寺末が四カ寺、 下条妙蓮寺末が一カ寺、 保田妙本寺末が九カ寺、 京都要法寺末が三十四カ寺、 西山本門寺末が十二カ寺である。

今日、 富士日興門流といえば、 即座に日蓮正宗大石寺というイメージが強く、 我が宗門とは相容れない別派の宗教だと見る宗門人も多い。 これらの偏見を払拭するためには、 信仰に基づく正しい歴史認識と分派の背景を見極めることこそ重要である。

本章では、 旧本門宗側の資料を中心にして、 分派を余儀なくされた小集団の苦悩に迫ってみたい。

C 「新宗教と日蓮宗」 グループ中間報告

当研究班は以下のように研究の目的・範囲・視点・方法・執筆項目 (問題点) を決定した。

(3)研究の目的について

明治以降における新宗教と日蓮宗の関わりとその対応について近代史研究の一環として研究する。 従って、 新宗教との関係史の中より本宗の対応の特長・評価し得る点・問題点等を可能な限り明確化してみたい。

(4)研究の範囲について

○新宗教とは 「幕末以降に新しく興起した宗教」 と了解する。

○ 『日蓮宗近代史年表』 により、 新宗教と日蓮宗の関わりを確認した。 その結果、 創価学会以外の教団は、 例外的に交渉が存したのみで、 宗門として特に交渉を持つ、 或は意識してその活動に対応した形跡は、 見出せなかった。 但し、 新宗教・新新宗教については、 ここ数年、 現宗研を中心に教団の概況を把握する研究が進められている。 そこで、 創価学会と日蓮宗の関係を昭和三十年 (一九五五) の小樽問答より昭和四十五年 (一九七〇) の言論出版の妨害問題までの十五年間に絞り、 他はその後の課題とする。 研究範囲を創価学会との十五年間の関係とした理由は、 「日蓮宗新聞」 の記事、 並びに 『日蓮宗近代史年表』 の項目が大体この期間のみに存し、 他には見当たらないからである。 風聞等によれば、 創価学会以外の教団やこの時期以外の交渉も在ったであろうが、 それ等は資料的限界が予測され、 現状では人員的・時間的に困難と思われる。 以上の範囲設定は粗雑の感は拭えぬが、 既述の研究目的は創価学会との十五年間の中である程度の達成が可能であろう。

○資料の残らない教団は本宗と敵対関係に在るとは言えない場合が殆どである。 このことは、 創価学会の問題とは別にその理由を推論する必要があろう。

(5)研究の視点について

○宗門の学会に対する対応を、 小樽問答の結果に起因し抱いた危機感より発したものと理解して、 評価し分析する。

○戦後の宗門運動や内局の変遷と学会対策の関連について考慮する。

研究の方法について

○資料は主に 「日蓮宗新聞」 『宗報』 等を使用し、 必要に応じて本宗関係 (「身延教報」) 及び学会関係 (「大白蓮華」) の出版物を参考資料とする。

○前述資料の中、 一九五五年〜七〇年までの関係記事を抽出し、 年表形式の資料インデックスを作成する。 資料インデックスはロータス・ネットを利用しデジタルデータ化しておき、 研究視点に基き次の様に分類し、 検討する。

  1. 教団レベル 宗務院・管区・寺院(教師・寺庭婦人)・檀信徒・本山
  2. 教学レベル
  3. その他
  4. 不明

○分類項目を次の要領で分析・検討する。

  1. 時間軸に沿って、 数量的・内容的変化の確認。
  2. 変化の有無に係わらず、 その理由の推測・実証。
  3. 全体像の構築。 執筆項目(問題点)

○以上の研究作業の経緯、 問題点を抽出し、 以下の様に執筆項目を決定した。

[タイトル未定]

序 西片 元證

小樽問答1 赤堀 正明
小樽問答2 秋永 智徳

日蓮宗の対応と特色

1 はじめに データ分析 西片 元證
2 年代別対応の特色
  昭和三十年〜三十四年 (小樽問答以降〜) 三原 正資
  昭和三十五年〜三十九年 (池田大作会長就任以降〜) 西片 元證
  昭和四十年〜四十五年 (公明党結成以降〜言論問題) 植田 観樹
3 創価学会への教学的対応とその特色 三原 正資

学会と宗門運動について

関わりを持った創価学会対策について1 中濃 教篤
関わりを持った創価学会対策について2 石川 泰道
関わりを持った創価学会対策について3 石川 浩徳

学会の社会的問題と日蓮宗

1 政界進出 伊藤 如顕
2 言論・出版問題 石川 教張

結論 西片 元證

資料

小樽問答記録 (テープ筆耕原稿) ・学会対応年表・龍潜寺資料
横浜問答資料・日蓮宗新聞学会関係記事インデックス
管区学会研修資料

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