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日蓮仏教の包括性と排他性〜宗教間対話へ向けた基礎作業として〜

(教化学論集 第2集 教化学論攷及び質疑応答)

中井本秀(日蓮宗現代宗教研究所研究員栃木県 正法寺住職)

宗教の多元化状況は、現代において極めて顕著です。『となりの創価学会』という本がありますが、となりどころではなく、家族内ですらそれぞれバラバラの宗教を信じているということが珍しくなくなりました。となりに創価学会がいて、むこうに天理教がいて、カトリックやらプロテスタントやら、最近はイスラム教徒もそのへんにいるようになっています。これが宗教の多元化状況というわけです。これはもう事実として認めざるを得ないものだと思います。こういう状況の中で、我々は異宗教に対してどのような態度を取ったらよいのでしょうか。

ここでは、こういった現実の宗教間対話へ向けた基礎作業の一つとして、法華開会における他宗教観を考えてみたいと思います。

便宜上、日蓮聖人の御遺文のみを資料とします。

開会は、『一代聖教大意』の中に基本的な解釈が示されています。

「此の経には二妙あり。釈に云く「此の経は唯だ二妙を論ず」と。一には相待妙、二には絶待妙なり。相待妙の意は、前の四時の一代聖教を法華経に対して爾前と之れを嫌い、爾前をば当分と云い、法華を跨節と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す。」(昭和定本、七三頁)

これに従えば、相待妙で嫌われ簡び捨てられた前四時の権教が、絶待妙、法華開会の立場からは、実教である法華経に開会されて、華厳・阿含・方等・般若の四時の権教も法華経にほかならないとされるわけです。つまり開会というのは、釈尊の一代聖教をすべて法華経に会入させるという、いわば天台的な仏教統一理論というわけです。この天台の考え方は、基本的に他の宗派に対して包括的な認識を示していると考えて良いと思います。

ところで、この場合の包括性は、必ずしも寛容性を意味するわけではありません。念仏も禅も本来は法華経なんだと言っているだけであって、禅や念仏をそのまま、なにも変えずに承認しているわけではないからです。

そのために相対する二つの考え方が生まれます。一つは、日蓮聖人の批判対象となる天台の開会理解です。たとえば、『如説修行鈔』に次のように示されています。

「当世日本国中の諸人一同に如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬれば、何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし。念仏を申すも、真言を持つも、禅を修行するも、総じて一切の諸経竝びに仏菩薩の御名を持って唱うるも、皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云。」(昭和定本、七三三〜七三四頁)

これによると、法華一仏乗によって開会されれば一代聖教はすべて法華経なのだから、爾前の様々な信仰形態、宗派も法華経につながると信じることで、それらすべてがまさしく「如説修行」となるということになります。この解釈は、爾前経に従う者達に対して極めて寛容な態度を示しています。それに対して、日蓮聖人は「然らじ」と痛烈な批判を加えております。それらの文と『十章鈔』(昭和定本、四八八〜四九三頁)とを併せ読みますと、日蓮聖人の開会解釈が明確となります。すなわち、一度法華経によって開会されてしまえば、それはもはや法華経そのものの中に取り込まれていることになる、それなのになぜ今更、念仏、真言、禅などと持ち出す必要があろうか、法華の一味でしかありえないのに、ということだと思います。開会されてしまった以上、真言、念仏、禅等はもはや真言、念仏、禅としてのアイデンティティーを失ってしまっているのだから、もはや法華に他ならないということです。

この、天台と日蓮聖人の開会解釈の違いは、開会という法門のもととなっている法華経の一仏乗、中でも声聞成仏に関する二種類の解釈に類似しているように思われます。すなわち、授記された声聞は声聞の身分のまま成仏するのか、廻心して菩薩となって成仏するのかという問題です。前者の立場は開会の天台流解釈と、後者は日蓮聖人の立場と一致するように思えます。つまり、複数の立場を統一する場合に、他を許容して包含して統一するのか、他を変質させ評価を変えて統一するのかということになります。

このように見て参りますと、日蓮聖人の開会解釈は、包括的でありながら、爾前権教をそのまま許すほど寛容的ではありません。しかし、かといって完全に排他的でもないのです。日蓮聖人の批判は、専らこの開会の法門を理解せず、爾前権教に執着する人たちに向けられます。ですから、日蓮聖人の批判は、爾前権教そのものを排除することはないはずです。ここのところは明確に区別して認識する必要があると思います。それは、『開目鈔』によく示されていると思います。「此仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで、五十年が間一代の聖教を説き給えり。一字一句皆真言なり、一文一偈妄語にあらず」(昭和定本、五三八頁)というところです。正確に言うならば、日蓮聖人は、教法については非常に寛容的であるけれども、それを奉じる人、信仰する人については、厳しく排除するという姿勢を貫かれたのではないかと思われます。

以上のように、妥当かどうかは分かりませんが、一応日蓮聖人の開会の法門についてまとめてみました。そこでつぎに、本来の課題である宗教間対話の場面に入ってみます。ご存じのように、カトリックは、一九六二〜六五年の第二バチカン公会議において、異宗教に対する排他的強圧的宣教活動を止め、共存のあり方を模索し始めました。カトリック神学者たちは、キリスト教の立場から他宗教をどのように位置づけるべきか様々に検討し、現在それらは原則として三つに類型化されています。それが、排他主義と包括主義と多元主義です。排他主義は、キリスト教及びその教会以外に全く救いを認めない立場です。包括主義は、キリスト教の絶対性については譲ることはできないが、キリスト教以外の人々も救われるべきであるとするか、乃至は、他宗教にある程度の救いを認めるが、それはとりもなおさずキリスト教による救いに他ならないとする立場です。そして第三の多元主義は、ジョン・ヒックの宗教多元主義が有名です。個々の宗教がお互いに独立して多元的に存在することを認めた上で、なおその根底に共通の地盤があることを主張します。それはthe realityといわれるもので、世界の主要な宗教は、この究極の実在への志向性をもっているとします。更には、ヒックの理論を批判する形で出てきた考え方があります。それは、現実の宗教多元状況を事実として認め、その多元状況に対して共通のものを認めようとしたり単純に比較しようとしたりしない立場が出てきました。その代表者は、カブという人です。彼は、それぞれの宗教はそれぞれの宗教の中で自らの信念を築き上げ、それが最高のものだと信じることを支持します。しかし、世界は自分の宗教の外に大きく広がっていることを認め、謙虚にそれを学ぶべきだといいます。

さて、先ほどの日蓮聖人の開会の法門の他宗教観における位置づけですが、大変乱暴だとは思いますが、もし先の三つの類型の中に位置づけるとするならば次のようになるかと思います。まず第一に近現代に特徴的だと思われる第三の多元主義は、最初から対象からはずれます。したがって、排他主義と包括主義ですが、確かに包括的ではあっても、法華絶対の立場からの包括は、人と教えとからなる宗教において排他性を強くもつものです。したがって、日蓮聖人の法華開会は、排他主義に近い包括主義となるかと思います。ただ、法華開会による諸教の統一は、強く主張すれば帝国主義的との誹りを受けかねないものであることは注意しなければならないと思います。

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