Make your own free website on Tripod.com

特別講演 日蓮聖人は何を祈られたのか

(所報第36号:243頁〜)

第三十三回中央教化研究会議

北川前肇(立正大学教授)

一、はじめに

ただ今ご紹介いただきました北川でございます。今年の五月に先の主任でありました、影山上人から現宗研で会議を開きますから、来年が日蓮聖人立教開宗七五〇年にあたるということで、「日蓮聖人は何を祈られたのか」という題で話を、とご連絡をいただきました。私は、内々の身近な方々との会議と思っておりましたが、今日と明日、四部会に分かれて研修をなさる、その最初の講演と聞きまして、驚いております。十分な話ができないかも知れませんが、よろしくお願いいたします。

私は、日蓮聖人のご文章の一字一句が読めたらいいなということで、学生時代から関わらせていただいているわけですが、日蓮聖人の言葉を引くまでもなく、微管を傾けることしかできません。諺に「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいますが、蟹は自分の甲羅の大きさにあった穴しか掘れません。大所高所という言葉もありますが、小所低所のこともございまして、私はそのようなことでお話をさせていただきたいと思います。

「日蓮聖人は何を祈られたのか」、こういうテーマをいただきました時に、私自身、心を動かされました。日蓮聖人はなぜ『立正安国論』を書かれたのであるのかとか、世界平和をどのように祈られたのであるのか、というテーマで話せと言われると、これはそのような結論の出ているところからは何もお話することができないわけです。改めて、聖人の六一年のご生涯を辿ります時に、日蓮聖人は宗教活動に、ご自分の身命をかけて祈りを捧げられ、そして宗教者として、釈尊のお弟子としての生涯をどのようにまっとうされたのであろうか。そのようなことを考えてみたいということで、その部分に動かされたのであります。

私は三十数年前に、茂田井教亨先生や渡辺寶陽先生に宗学の手ほどきを受けました。当時、上原專祿先生の論文である誓願論、あるいは先輩達が「日蓮聖人の祈り」という論文を発表になっていました。

学問研究においては、既に研究されたものの情報を整理する、これは不可欠なわけですが、ともすれば私達は結論といいましょうか、こうである、というところから全てが出発しなければならないのでしょうか。例えば、信仰というのは三角である、宗学というのはこういうものであるという、そういう形にされただけを、そのまま継承するということでいいのであろうか、もちろん理解するということは大切なことですけれども、改めて本当に三角なのか、あるいは四角なのか、自分自身の主体的な問題として問い掛けていく、そういうことを常に私達はしなければならないのではないでしょうか。

ですから「日蓮聖人は何を祈られたのか」という問いかけ、疑問符がつくような問題は、ここで私がお話を申し上げたから、それが結論であるということではありません。私が先輩から学びました一つの学問、信仰の求め方というのは、問いということでお話申しあげたいと存じます。

「問いの宗学」

宗学というものに、「答えの宗学」と「問いの宗学」というものがあるとすれば、それは問いの宗学、問わねばならない。一人一人が聖人門下であれば、私達一人一人が問い続けなければならない、そういう課題を皆が持っているんだということを学問においても、特に宗学専攻の場合、問いの宗学ということを、まず私は学ばせていただいたわけでございます。

では、私がこれからお話申し上げますプロセスを、二枚つづりのレジュメに沿いながら、お話申し上げたいと思います。

それから、『読売新聞』二〇〇一年八月二十二日の夕刊ですが、松本健一氏が「古典に学ぶ二十一世紀」という題で、日蓮聖人の『立正安国論』が取り上げられている。それを配布いたしておりますので、ご参照下さい。

私は仲間達と、『立正安国論』を学習しております。その『立正安国論』は、日蓮聖人のご真筆で現在二本残されている。この一文字一文字を印字できないだろうか。『昭和定本日蓮聖人遺文』(立正大学日蓮教学研究所編、昭和二七年刊、以下『昭和定本』)、あるいは『縮冊遺文』(『日蓮聖人御遺文』加藤文雅編の異称、霊艮閣版、明治三七年刊)とございますけれども、勉強会が始まって十数年を経まして、『原文対訳 立正安国論』(北川前肇編、大東出版社、平成十一年刊)というテキストを出版しました。毎日毎日、日蓮聖人に向かわせていただいた立場からしますと、麗沢大学の松本健一先生がどう『立正安国論』を読み説こうとしているか、この記事を見た時に関心がありましたので触れたいと思います。

松本さんという人が日蓮聖人の生き方、あるいは『立正安国論』にアプローチする時の視点として、約百年前に出された内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫)に着目しています。その著の第五番目に日蓮聖人が挙げられております。内村鑑三の日蓮理解というものが、改めて二十一世紀に生きる私達には必要なのではないかと松本さんが示しております。

では、日蓮聖人は『立正安国論』というタイトルをなぜつけられたのか。あるいは中山法華経寺所蔵の『立正安国論』の題号の下は空白ですが、京都の本圀寺に所蔵されている『立正安国論』には「沙門日蓮勘う」と、「勘文」の「勘」がつけられております。

また、『法華題目鈔』、『顕謗法抄』、『観心本尊抄』等は、「撰述」の「撰」と書いてあります。『撰時抄』の場合は、「釋子日蓮述」と。古典を読みますと述作するということに、「撰」「造」「述」という文字が使われますが、あえて日蓮聖人は「日蓮勘う」という、「勘」という字をここに置かれている、そういうことの一つ一つが問題になるわけです。

ですから、日蓮聖人は何を祈られたのかということだけが一つの問いではなくて、一つ一つに無限の課題がある、あるいは私達が聖人に問いかける問題が多くあるわけです。

生きていると、いろいろな日々の問題に我々は直面します。そういったことも、「日蓮聖人、あなたはこの場面でどうお考えになったのでしょうか。」「こういう場合は、どう私は進路をとるべきでしょうか」。そういう一つ一つの、私自身の問題として問い続けることが必要である。問い続けるということは、今ある私がどう未来に、これからの時間に、将来においてどう人生の歩みを進めていくかという過去への問いが、実は現在のありようを突き抜けて、未来という時間に関わる、そういう構造を持っていると思うのですが、このような一つ一つの問いかけは、私達が聖人門下としてどのように生きるべきか、あるいは聖人の教えをどのように言下すべきかということに、小さな光が見えてくるのではないだろうか、問い続ける中に感応道交の世界があるのではないだろうかと思うわけです。

その問いかけが、問題を考えていくという時の主体的な捉え方というものが、未来に生きる私達の大きな糧となるわけです。それらを私自身の言い方で言い換えますと、今ここに命を受けている、伝統的な言い方をすれば、あいがたき妙法という中に紛れもなく今出会っている。五尺の身体を受け、そして眼を持ち、この眼で法華経や聖人の遺文を拝読することができるわけです。そういう中にあって、私自身がどのように誓いを立て、祈りのもとに生きていくかという、そこに聖人から学び、出会いがあるのではないかと思うわけです。

そういう中で、私自身は聖人に一文一句を教えていただきたい、ということから読ませていただいています。

二、日蓮聖人とは、いかなる人であるのか

(1) 日蓮聖人の捉え方

1、人間日蓮(一二二二|八二)の側面−歴史的視点からの接近

日蓮聖人は、というときの、日蓮聖人という方をどう考えていくか。近代の仏教研究において、戦後大きく前進しましたのは、宗乗的な目というよりも、歴史学的研究という側面が大きいわけでございます。今日ご出席の石川教張先生や、あるいは今は亡き高木豊先生などの多方面に渡るご活躍、研究がありました。

いろいろな反省もありますが、戦後は文献的、あるいは歴史学的な研究が進んだ。しかしそれは、日蓮聖人のだけの研究ではありません。それぞれの宗祖を捉えていこうという研究が盛んであるわけです。そういう視点からのアプローチというものも、自ずから宗学もやらなくてはいけない。宗学研究は過去にそのような仏教学研究の恩恵を大いに受けています。

少し視点を変えますと、先ほど新聞の記事を申し上げました、日本精神史研究、幕末以降の近現代史の研究をしております松本さんという方は、法政大学の大学院をお出になって、現在、麗沢大学の国際経済学部の教授です。この方が日蓮聖人の『立正安国論』を、あるいは日蓮という人の生き方を考えようとする時に、冒頭の部分がこの人の課題ではなかろうかと思います。

その冒頭に、「ナショナル・アイデンティティーの再構築」、アイデンティティーというのは、心理学的、精神分析的な面で自己内分裂、あるいは融合化されないというようなことで提案された、自己同性という意味の言葉です。民族性、国民性というものは、自分と国家、民族というものとの同一化をいう、その民族と私の生きている国との同一化、融合性、これが現代日本における最も根本的なテーマである。しかし、それが無かったわけではなく、戦前にはあったのだけれども、敗戦以降、そういったものを解体させることによって、教育やその他のものが進んできたという視点があるだろうと思うのです。ですから、これはナショナル・アイデンティティーの再構築、再び築き上げていくということが、今、私達個人の、あるいは現代日本に生きている我々の一つの大事なテーマなんだと、彼はまず冒頭に記すわけです。

それを言い換えますと、日本とは何か、日本人はいかに生くべきか、そのことを改めて考えなければ何ら問題はないのだけれども、そのことを考えない、とするならば、日本は孤立した世界では今、生きていけない。または、グローバリゼーション等と言われているわけで、これだけの情報化社会ですから、日本だけが孤立するというわけにはいかない。日本がもしナショナル・アイデンティティーということを考えないならば、世界史の転換期に生き残っていくことはできないという深刻な、大切な問題を松本さんはこの部分で考えているわけです。

そのようなところから、新たな時代を迎えた明治維新以降、英文で書かれた新渡戸稲造の『武士道』、内村鑑三の『代表的日本人』、岡倉天心の『茶の本』等を挙げています。その中で内村鑑三の捉えた日蓮聖人像を紹介し、自分が日蓮聖人を知った経緯、あるいは『立正安国論』を読むにあたり、兜木正亨先生が校注された『日蓮文集』(岩波文庫)というテキストのことに触れ、『立正安国論』というのはこういう主旨で書かれた、ということを述べています。

その文中に、「一世紀まえ内村鑑三は、次のようにいった」とあります。

私は内村鑑三説が全て日蓮聖人の宗教を理解しているとは思いませんが、このように言われている。「日蓮の教えの多くは〈今日の批評によく堪えるものではない〉」。この部分には私はちろん賛同しておりません。それは宗教的な見地、立場の違いもあるので、ここはカットしまして、その後です。「しかし、自分は〈私の名誉をかけて〉、この〈しんそこ誠実な人間、もっとも正直な人間、日本人のなかで、このうえなく勇敢な人間〉を守りたい、と」。ですから、ナショナル・アイデンティティーを考えると、再構築の場面で、私達自身が一人一人が、人間として生きるうえでの誠実さであるとか、正直さであるとか、勇敢であるということを考えられなければなりません。

一世紀前の内村鑑三は、誠実な人としての日蓮聖人、正直な人としての日蓮聖人、日本人の中でこのうえなく勇敢な人間であったその人を私は守りたいと言った。そして、松本健一という人は、「そのような気概こそ、いま日本がもっとも必要としているものなのではあるまいか。そうして、いまこそ、日蓮が法華経に拠って正そうとしていたこころを受けとめる秋ときなのではあるまいか。そう、わたしはおもったのだった」と結ぶわけです。

ナショナル・アイデンティティーの再構築という問題は、平たくいえば、日本とは何か、日本人とはいかに生くべきかという問題を今考えられなければならない、その中で、七五〇年前の日蓮聖人を引用してくる、そういう簡単なことではなくて、『立正安国論』の中に、日蓮聖人の心底誠実な、正直な、勇敢な人としての生き方を学んでいるわけです。

2、聖なる日蓮聖人|法華経の世界に身命を捧げられている聖人

このように鎌倉時代にあった日蓮聖人を、あるいは身を捨てて時代社会のために生きようとした日蓮聖人など、種々の面からの研究がなされていますが、そういう人間日蓮の面と、もう一方、戦前においては超人化したスーパーマンとして日蓮聖人像もあったわけです。しかし、それを否定するわけにもまいりません。

前記のように、勇敢であるとか、正直であるとか、誠実であるという日蓮聖人像もあります。たしかに文永十一年(一二七四)の四月八日に平頼綱に対して、私という人間は今の北条氏の統治される国、すなわち日蓮という人物は「王地に生れたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず」ということを述べたと、『撰時抄』にお書きになるわけです。そのように、敢然と向かって、独立した、自立した人物として生き抜くその姿勢というのは、ご自身を越えるものへの最上の価値というものをお持ちだった、それは、法華経の世界に身命を捧げられている聖人ということになります。

3、日蓮聖人門弟の捉えた日蓮聖人

自らもおっしゃっておりますけれども、法華経の行者日蓮という問題、本化上行菩薩の応現としての日蓮聖人、末法の大導師としての日蓮聖人という部分を法華経と直結しますと、釈尊の正法を付属される、その人物としての自己認識であり、また門弟達もそう捉えている、それゆえに誠実である、正直である、勇敢である、その根本の立場というのは、自分を越える偉大なる仏陀、あるいは仏陀の勅命としての法華経を中心に据えられていたと考えられるわけです。

法華経と仏陀とご自身が対峙される、そういった場面では、罪の深い日蓮であるとか、凡夫としての日蓮という面をお出しになります。しかし、聖人在世中、導き手としての聖人は門下達にどのように写っていたのでしょうか。

aの『下山御消息』は、日蓮聖人が因幡房日永の念仏者であるお父さんに対して、法華信仰を持つべきであると陳弁した書であり、日蓮とはどういう人物でどういう教えを示して下さったのかということをこれから申し述べます、という文体になっております。

b、cの『頼基陳状』は四条金吾さんが、仲間の讒言等によりまして、自分が仕えている主君江馬氏から法華信仰を捨てるよう起請文を差し出せと命ぜられるわけです。そこで、父、私二代に渡って、あなた様に対しては忠誠を誓っていると、忠誠を表明し、その主君を少しもおざなりにしていない、私自身は生死を越えるために、あるいは未来世の安心を得るために、諸々のお坊さん方の教えを聞きましたけれども、この方こそが私にとって最も素晴らしい導き手でありますよ、と申し述べている。あるいは逆に、こういう尊い方をなぜ島流しに処したのかというようなことです。

aの部分を読んでみますと、日蓮聖人はどのように門下達に写っていたのか。「自讃には似たれども本文に任せて申す」。自画自賛で自分を誉めたたえることに似ているけれども、そうではくて、法華経という経文に自分の身をあてて申し上げます。私、日蓮は「日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三」つの、尊いいわれがある。「一には父母也、二には師匠也、三には主君の御使也」。そういったことが証明されるのは、「経に云く、即如来の使なりと。又云く眼目也と。又云く、日月也と」。それで章安大師がおっしゃっております。他者のために、法をそしる人達のために、あるいは目の開いてない人達の行為に対して、「彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり等云々」。こういう言葉がありますねと。

b「日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座候」。日蓮聖人という方を四条金吾さん、あるいは門下達が確かに尊崇している、心を寄せているということがわかります。

cは、主君に対する忠誠を述べながら、このように文章が続きます。「頼基が今更何につけて疎遠に思ひまいらせ候べき」。私が貴方様に対してそういう主君をうとんずる、疎遠にするようなことがございましょうか。「後生までも(貴方に)随従しまいらせて、頼基成仏し候はば君をもすくひまいらせ、君成仏しましまさば頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ」。もし私が仏の導きによって成仏の証を得ましたら、貴方様も成仏の世界に行っていただきますし、また、貴方が先に仏になられましたならば、どうか私をも救っていただきたいと存じております。そして「其に付ひて諸僧の(諸宗の)説法を聴聞仕りて、何れか成仏の法とうかがひ候処に、日蓮聖人の御房は、三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候」と。こういうことで私が日蓮聖人に心を寄せている、この上ない帰依を捧げたのはこういう方でいらっしゃる、そして龍の口の時には殉じようとしたのは、その方の教えの通りに生きているからに他なりません、ということを主君に申し上げ、多くの人々が日蓮聖人に心を寄せていると述べ、さらに、経文に照らしてみると、法華教学史上、今だかつて明らかにされなかった、地涌の菩薩の垂迹であることが明らかであるというのです。

ところで、「本化別頭」という言葉がありますが、その人物はまさに仏勅を受けて、そして歴史上に出現される地涌の菩薩であるのです。そういった受け止め方、解釈の仕方はここにみられますが、それは今だかつてないわけです。まさに宗教の中心は本門法華という、そこにはじめて『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』が書かれ、後には本門の本尊・戒壇・題目、その三つの法門が明かされていく。そこに日蓮聖人の宗教的な世界がある。久遠実成の本師釈迦牟尼仏の教えを受けて、末法の、日本国の人々の救いを実現されていこうとしたと思います。

そうした場合には、私達は「人間日蓮」という側面だけで語るわけにはまいりません。また聖なる日蓮と超人化するだけでもいけませんので、両方備えた日蓮聖人が見直されなければなりません。日本国の安州の日蓮、宗派としては天台法華宗、あるいは根本大師門人の、本朝沙門として、それぞれの場面で日蓮と記されています。ご自分の立脚点を、それぞれ自身規定されております。そして末法に生を受けた日蓮という部分から大恩教主釈尊へ直参されるという、その部分を見逃してはならない。両面の部分を捉えるということで、特に3の部分を出させていただきました。

(2) 日蓮聖人の自己規定

1、「天台沙門日蓮」(文応元年・『立正安国論』・二〇九頁脚注)

聖人ご自身は、特に佐渡流罪に至りまして、はっきりと地涌の菩薩としてのご自覚を表明されてくるわけです。その過程において、ご自身がどの遺文で他者に対して表明されていただろうかという、その書き残されたものを確認します。

一番目は『立正安国論』。『昭和定本』に収まっている二〇九頁以下のものは、もちろん直筆ですけれども、その脚注を見ますと、静岡県玉沢の妙法華寺に白蓮阿闍梨日興上人の書写しました『立正安国論』が残されている。その題号の下には、聖人ご自身の所属といいましょうか、自己規定として、「天台沙門日蓮勘ふ」という、日蓮聖人ご自身は紛れもなく、天台沙門としての立場をここで表明されていたということが確認できる。

2、「本朝沙門日蓮」(弘長二年・『顕謗法鈔』・二四七頁)

文応元年(一二六〇)の翌年、伊豆へ、さらに翌年の弘長二年(一二六二)に『顕謗法鈔』という書物をお書きになりますが、そこでは「本朝沙門」と記されています。

鎌倉時代当時の仏教的世界観からいきますと、釈尊のご出現の天竺国を中心とし、日本国は辺土、辺国、粟散国、すなわち粟粒を散らしたような小さな国です。そういうマイナス・イメージなんです。そして時は、釈尊の入滅を中心としますと、入滅後に正法時代、像法時代、そして末法という、時代の衰退史観が中心です。つまり地理的空間では辺土である、一番劣っているという認識と、時代は末法という認識があるわけです。

そのような中で、聖人ご自身は、インドを月氏、天竺等とおっしゃり、中国は唐土、漢土とか震旦等と表しています。しかし、先ほどの本門法華の立場からいきますと、辺土辺国の日本に、閻浮提の中心となるべき正法、大白法が樹立する。そして仏法東漸から仏法西漸という、まさに広まるべき正法が立てられ、閻浮提の中心となって、未来に流れていく。この遺文を実践しようとした人達もいます。すなわち、日蓮聖人の『曾谷抄』の文、あるいは『諫暁八幡抄』の文を「未来記」として実践しようという、予言書としての『曾谷抄』や、あるいは『諫暁八幡抄』の文言が生きてくるわけです。

3、「日本第一の法華経の行者日蓮房」(文永元年十二月十三日・『南條兵衛七郎殿御書』・三二七頁)

4、「根本大師門人日蓮」(文永三年正月六日・『法華題目鈔』・三九一頁)

三番目は、文永元年(一二六四)十一月十一日の小松原法難後に、「日本第一の法華経の行者」と、法華経の文を色読されるということで日本第一と称されています。

それから三年後になりますけれども、「根本大師門人日蓮」。このお山(清澄寺)で『法華題目鈔』をお書きになります。天台宗の中では天台沙門ですが、聖人ご誕生の四〇〇年前にこの世を去った、比叡山を開かれた伝教大師、根本大師の直弟である、そうなりますと、伝教大師以降の天台宗というものをどう評価されたかということが自ずから明らかになります。

5、「日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官としてこれを申す。」(文永八年十月二十二日・『寺泊御書』・五一五頁)

6、「日蓮は日本国の諸人にしたし(親)父母也」(文永九年二月・『開目抄』・六〇八頁)

文永八年(一二七一)九月十二日の龍口法難から相模国依智の本間氏預かりとなり、さらに佐渡へと出発されるわけですが、同年十月二十二日は富木さんへお手紙を書かれています。そこでは、勧持品の八十万億那由他の菩薩方が釈尊に対して種々の誓いを立てていますけれども、そこで聖人は代官という言葉を用いられ、自分自身の今までの法華経を改めて確認された。そして佐渡においては、自ら法華経者として勧持品を読み、あるいは釈尊の教法の優勝性を主張し、そして専ら諸々の悪を除くということで折伏の実践をしてきたのだと。それに対して門下達がよく理解できない、そのことを『開目抄』に述べられています。

『開目抄』では、一番終わりの部分になりますけれども、日蓮は日本国の諸人に親しき父母也という表現となるのです。聖人の布教活動のありようというものをそのように意識しなさい、ということを門下に記されています。

7、「本朝沙門日蓮」(文永十年四月二十五日・『観心本尊抄』・七〇二頁)

8、「安州の日蓮」(文永十年閏五月十一日・『顕仏未来記』・七四三頁)

9、「扶桑沙門日蓮」(文永十一年五月二十四日・『法華取要抄』・八一〇頁)

『観心本尊抄』では、釈尊がご入滅になられた後の仏教史の中心を示されていく。その中核となるのが一念三千という法門でございますれども、その一念三千の法門を中心として、いまだかつてどなたもお示しにならなかった、観心と本尊の法門をここで表明する。それは紛れもなく「本朝沙門日蓮」という立場です。

五月が重なりますが、閏五月にいわゆる三国四師の表明がございます。伝教大師は『法華秀句』の多寶分身付属勝の中で、インドのお釈迦様、その正法を広められた天台大師、そして叡山の自身最澄。釈尊、天台、伝教という如来使、あるいは付属を受けたものということで、三国三師を表明されます。そこで再び日本とおっしゃるのではなくて、「安州の日蓮は」と、しっかりとご自身の出生の地を記されています。また、人間日蓮としての、自らを育てて下さった大地に対する愛着である等といわれていますが、紛れもなく日本人日蓮、安房の国の日蓮が、釈尊仏教を継承していることを表明されます。

九番目、『法華取要抄』の「扶桑」というのは、中国の神話の時代において十個の太陽が東国の神木である、神秘的な樹木である扶桑の枝にかかる、その東国が扶桑国で、その扶桑国というのは日本国のことです。

10、「釈子日蓮」(建治元年六月・『撰時抄』・一〇〇三頁)

11、「沙門日蓮」(建治弘安の交・『立正安国論(広本)』・一四五五頁)

12、「法華経の行者日蓮」(弘安五年二月二十八日・『法華証明鈔』・一九一〇頁)

佐渡からお帰りになりまして、さらに身延に入られた時期に『法華取要抄』は完成します。そして文永の役が終わりました翌年の文永十二年(一二七五)が建治となります。そこで三国仏教史を通覧される『撰時抄』の冒頭には、「釈子日蓮」と自らを釈尊の子として位置付けられています。

ついで、今日真筆が残っております二本目の『立正安国論』を広本といいますが、そこに「沙門日蓮」とあります。それからお手紙になりますけれども、亡くなられる最後の弘安五年(一二八二)の『法華証明鈔』に「法華経の行者日蓮」、そういう書き方をしています。

このように、天台宗に所属する日本の、しかも法華経の行者として、あるいは釈子日蓮とご自身の著述、お手紙等に表明されています。

それはその出発点において、ご自分がどのような坊さんになろうかという、その菩提心を起して仏門に入られる、その道を求めていくこと、それが即、聖人の生涯を決定づけたと見たいわけですが、その願いの中、祈りの中に、聖人の全生涯を決定づけるものがあったんだと思います。

三、日蓮聖人の求道者としての出発

(1) 虚空蔵菩薩への立願

日蓮聖人の求道者としての出発のころ、既に僧侶として出発されている時に、3にある「日本第一の法華経の行者」という文言はもちろん見られないわけですが、しかし、立教開宗の建長五年(一二五三)のことをしばしば振り返られます。また著述の中でも宗教活動をはじめられた時もそのような言葉があり、さらに文応元年の『立正安国論』の建白がその後の生涯を決定づけています。

近いところでは法鑒房に与えられた『安国論御勘由来』、『開目抄』、『顕立正意抄』等に、『立正安国論』のこと、立教開宗のことを回顧されるわけです。そこにも述べた、その時にこのようなことを伝えたとおっしゃるわけです。そういう中にあって、自らが髪を剃る、袈裟をつける、そしてどのような仏教者になろうか、どのような言葉を仏陀から聞くのか、どういう願いを持ち、どういう祈りを持って生きていくかという、願いがみられます。

戦後教育に携わっている者は、ともすれば、先ほどのナショナル・アイデンティティーは影をひそめて、立身出世であるとか、あなたの生涯が安穏であるから、金が儲かるから、いうことで他者を淘汰することしか教えてきませんでした。自立した人間、誇りある人間、他者を思い合う人間の育成が、教育の中心になっていない。これは他を跳ね除け、蹴落とし、そして一点でも点数の高いものが未来には裕福な切符を与えられるんだと、あるいは貴方の望む会社に入られるんだというようなことを平気で言ってきたし、また、社会とか他者というものを粗略にしてきた。そういうものを排除してきたところから、日本の戦後の民主主義という言葉が跳梁跋扈してきたように思います。

もちろんそれほど単純なものではないでしょうが、しかし、今の子供達、数年前の子供達に尋ねてみますと、他人の不幸を喜ぶような、背筋の寒くなる現実があるわけです。そういうことを見ると、どのような人間になって欲しいかということ、同時に我々は髪を剃り、袈裟をつける時にどのような姿をした出家者になるのかということを、きちんと伝えていかなければ、「お前勝手にやれよ、お前大学出たら、即ここの住職だから」等という、安易なことではないと思っているわけです。

私は日蓮聖人の求道者としての出発が、先ほどの「釈子日蓮」、「法華経の行者日蓮」とおっしゃる言葉に結実する、正直、勇敢、そして誠実でありたいというその教えというものを、聖人は求道の結果しっかりと獲得されていた、そのように私は見たいわけです。

そのような面から聖人の幼少年期のことについて、多くはありませんがその文章を訪ねてみます。

一つ目には文永七年(一二七〇)の『善無畏三蔵鈔』です。

余談になりますが、私はここ数年清澄山にお参りすることがございませんでした。昨晩遅くまいりまして、朝、暁天のお参りをということで、少し早く目を覚ましておもてにでました。西の方にまだ十七、八夜でしょうか、お月様が煌々と輝き、そして東の方を見ましたら、金星が大きな光を輝かせていました。この金星を日蓮聖人もご覧になったんだなと思い、暁天のお参りをさせていただきました。

そこで、安置されている虚空蔵菩薩の御宝前において、いみじくもaの日蓮聖人のご文章が拝読されました。今日、私も皆さん方にaの文章をご紹介できるんだと思いながらお参りしました。

bの文章は清澄寺で修行なさっている人達に対して、日蓮聖人が差し上げられたお手紙で、その一節にご自分のお若い時のことを述べられている文章です。

虚空蔵菩薩〈A=cd=ab29ka=cd=ab29s=cd=ab26agarbha〉という広大無辺な知恵をお持ちの菩薩様に対して、日蓮聖人が真摯にお願いをされたという文章です。「日蓮は安房の国東条の郷(後に郡となりましたが)清澄山の住人」であります。「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて」と。ここのところ日本における虚空蔵菩薩信仰の研究が多くなされており、聖人は恐らく求聞持法の修行をされたと思われます。それは学んだことを忘れない知恵を頂く、その知恵を授けてくださいと願うわけです。

空海が四国で修行をしておりました時に、虚空蔵求聞持法を修められたということが『三教指帰』の序文にも出てきます。聖人の場合、「日本第一の智者となし給えと云云」、と願いますと、虚空蔵菩薩が眼前に高僧の姿となり現れた。このように菩薩様や仏様が身を変えて示現するという例は、『法華験記』とか、あるいは『往生伝』等にも見えます。日蓮聖人が厳しく批判をされました法然源空の『撰択本願念仏集』第十六の段にも、高僧が夢枕に立って念仏の法門を授けたと書いています。そういう宗教的な神秘体験を、それぞれされていたということです。

それで聖人は、「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星(虚空蔵菩薩をシンボライズしたのが金星という、そういう明星)の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき」、頂戴したんだ、という聖人の実感というものがここにある。その験しるしとして知恵を賜り、聖人ご自身が『報恩抄』の冒頭に、記されているように、釈尊の真実を求められた結果、八宗、十宗を極められたというのです。それは全て釈尊の真実を求めていくというプロセスにおいて、智者になるという願い、祈りというものがあったと思われます。その験しるしとして、「日本国の八宗竝に禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ」とおっしゃっているわけです。

それを、私流に解釈いたしますと、知恵の宝珠を給わったことによって、釈尊の一切経の中心となるべき、その真実を私は体得したという表明だと思います。そこに仏様のみ言葉を聞かれてます。

b、「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき」ですから、「ございました」という過去形です。しかもそれははっきりしたことです。私は幼少年期「日本第一の智者となし給へと申せし事を」そうやって真摯な祈りを捧げました。そういう思いを達成せんがために、「不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗竝に一切経の勝劣粗是を知りぬ」とあり、虚空蔵菩薩から智慧の宝珠を授かることができました。これは建治二年(一二七六)の文章です。

日本第一の智者というのは、我々が今日でいう、情報の積み重ねの延長線で何かがあるのではなく、その中の真実、如来の言葉こそが末法の私達のために留めおかれた仏の声として、あるいは、仏の魂をしっかりと実感出来る、そういう体得の仕方です。

さらに宗教体験に基づいて日蓮聖人は、鎌倉や、今日の京都、大阪、奈良等々へ遊学なさるわけですけれども、学問としての情報拡大だけではなく、その言葉をきちんと自己の生き方の中心に据える。あるいは、釈尊の真実を体得した日蓮聖人は、これから船出をすべき堅固な船として、あるいは堅固な橋として認識される。大覚世尊という方は大いなる導き手でもあり、大いなる橋でもあり、あるいは大船師でもあり、大福田でもあるわけですから、その方のみ教えをきちんと伝え、そして多くの人達に、そこを渡ってもらう。あるいはそこに乗せる。そういうためにも、間違いなく智慧の眼でお釈迦様の真の世界に近づいていただくためには、そこに堅固なものを築いていくためのさらなる求道が重ねられていったと思います。

(2) 智者とは何か

そこで、智者という言葉は、a@天台智者大師、歴史上はじめて大師号を得られたのが天台大師智=cd=61aeですが、その意味の智者です。Aは仏教の学問に饒かなる人。Bは仏教における因果の理を暁めたる人。特にBの因果の理ということについては、過去、現在、未来を見通す、『撰時抄』でいきますと、三世を知るということの徳が、智者というところにかかってくるのではないか。

bは、@博学の人であるとか、A道理を知っている人、特にB聖人、さとりに至る道に入っている人、C深い考えをもっている人、思慮のある人、D学問知識のある高僧と。特に、仏道を学ぶという時の聖人がというのが核ですので、悟りですから、Bに重きをおきたいと思います。

私なりの言葉に言い換えますと、智者とは、教主釈尊の真実の教えを体得し、真の仏弟子として釈尊の本誓願、衆生の救いを実現すべく修行人を指していると思うのです。それは、衆生は無辺なれどもという、「衆生無辺誓願度」の、一切の人々を渡すという誓願に集約され、そういう広大な誓願を継承する人のことが智者であると考えられます。

(3) 釈尊とはどのような仏であるのか

日蓮聖人は、仏弟子、釈尊の使い、法華経を実践する人としての日蓮である等とおっしゃるわけですけれども、では日蓮聖人が釈尊という方をどのような仏様としてお考えてあったのかというと、主師親三徳である、あるいは法報応三身の仏様だとか言われるわけですが、聖人が『開目抄』では、それ一切衆生の習学すべきものとしての、内道における仏陀、仏教における最上の悟りを開かれた方ということへと筆が進むわけです。

儒教、あるいは外道の教えの限界性というものを『開目抄』の冒頭で述べながら、内外相対ということでもいいわけです。その段階に入る時に、偉大な仏教の教師釈尊、大覚世尊はどういう方かと言いますと、私たち一切衆生にとっての大いなる導き手である。大いなる智慧の眼を持って、先達として悟りの世界に導いてくださる方である。そして、こちらの岸から向こうの岸に渡る大橋梁であり、大船師である。そして、最高の功徳をもたらしてくださる大福田である。このように内道において、はっきりと大覚世尊はこういう方なんだ、と述べておられるわけです。もちろん内道においても大小、権実、本迹というように相対化されることはありますが、日蓮聖人が大覚世尊とおっしゃる時は、偉大なる人生の師、自らその方に仕える人として、如来使として、あるいは先ほどの自分を智者として規定される時に、その智者は如来の文言を違えない。智者はその方のおっしゃっているものを、身命に及ぶようなことがあったとしても、その身命を惜しまないこと、これが仕えに仕えたる由縁です。これは涅槃経あるいは涅槃経疏によって、仕えるとは何かという記述が出てくるわけですけれども、毅然として、あるいは正直に如来の言葉に絶対随順する、絶対服従するという、それが智者であると。聖人の生き方というものが無条件にその方に直結し、その方の教えを隠さない。それが如来の法門を正直に伝え広めるということであり、自分の身命をその法のために、仏陀の言葉のために捧げますという、まさに帰妙ということの実践です。ここに聖人の勇敢さがあり、聖人の誠実な仏陀に対する信仰の源泉があると思います。

「三には大覚世尊。此れ一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり」、大いなる恵みを与えてくださる方。『開目抄』の少し前に諸宗の教義を、あるいは本尊を図化されたものに『八宗違目鈔』があります。教義的な言い方をしますと、仏陀論、衆生論、下種論というようなことがここで示されてくるわけです。その大覚世尊はどういう方かということを、『法華経』と、妙楽大師の『五百問論』等で証明されます。そして『法華経』第二巻に譬喩品の有名な主師親三徳の文章が、仏陀論の冒頭に経文と一緒に記されてくるわけです。

「法華経第二に云く、今此の三界は皆是れ我が有なり。」それは、主であり、国王であり、世尊であると。「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり=cd=b821親父也=cd=b926。而も今此の処は諸の患難多し、唯我れ一人のみ=cd=b821導師=cd=b926、能く救護を為す。寿量品に云く、我も亦為世の父文」。『一代五時図』等その他を引用すれば、図化されていますが、主・師・親と上段にお書きになります。そしてこの三徳論は、仏教の伝統的な三身論、すなわち智慧の集合体としての働きを持った報身如来、慈悲の応身如来、そして真理としての法身如来という三身に配されます。しかし聖人は、あまり三身論は門下に示されることはありせん。

そういったことよりも、仏教の教主釈尊を忘れたところに本当の幸せはないのではないか、この娑婆世界が釈尊の国土であり、その中で生かされている私達全て一人一人が釈尊の愛子ではないか、それは、五百億塵点劫以来そうであったのではないか、とお書きになります。ですからこと細かに三身論を述べられることが問題ではなくて、日蓮聖人にとって当面の果たさなければならないことは、私達に示された主師親は薬師如来でもない、阿弥陀如来でもない、『法華経』、特に如来寿量品の久成の釈尊こそが、私達にかけがえのない尊いお方なんだということをはっきりと示すことが主旨でした。その方の教えに生きることの大切さ、あるいは、一人一人が仏陀の子であることへの覚醒。そして、娑婆世界は仏陀の統治した国土であるということの認識、そういったことを法報応の三身を主師親三徳に報身如来、応身如来、法身如来という形で配釈をされて、門下に理解を促しました。

仏陀の使い、正直なるものとしての生き方、それらが先ほどの聖人の自己規定の言い方をすれば、「天台沙門」、「本朝沙門」、そして「扶桑沙門」、「釈子日蓮」というようなところへいきますし、また、門下がそれぞれ『下山御消息』や『頼基陳状』、全てこれは身延に入られてからですから、その本門法華の行者として、鮮明に描き出されていきます。それらは大覚世尊に直結していく日蓮聖人の姿というものが、ここにあったのではないでしょうか。

四、日蓮聖人の誓いと祈り

結論にまいりますが、結論と言いましても、これは私の考えました足跡の一つの方向性ということでございます。日蓮聖人の誓いと祈りは、一つには釈尊の大慈悲を継承し、聖人自らが三大誓願に生きるということです。これも『開目抄』の中に「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」と述べられています。

それから末法という危機の時代において、釈尊仏教の復興をはかり、大白法たる南無妙法蓮華経によって、日本の国土の安寧と一切の人々の成仏とを祈る。そこには、天変地夭によって不幸をもたらされている日本国の現実があるわけです。その中で理想的国家のありようというものを、『立正安国論』の第九段目、主人の答えの少し前に旅客は言います。「所詮、国土太平、天下安穏は一人より万民に至るまで、好む所也。楽ふ所也。早く一闡提の施を止め、永く衆の僧尼の供を致し、仏海の白浪を収め」と。仏様の教えの中における盗賊、法山の緑林、これも盗賊に入る、そのような人達の謗法の根源を断つならば、「載らば世は羲農の世と成」るとしています。

漢字の権威である白川静さんの『中国の神話』という書物を読みますと、「伏羲神農」が登場します。それは唐代の欧陽修等における時代の文章を見ますと、上代における中国の政治、国土というものは、とても安穏であったということを記すわけです。

仏教が紀元後一世紀に満たない、堯舜という三皇五帝の時代は、統治された理想的な国だったと述べるわけです。まさに「世は羲農の世と成り、国は唐虞と為らん」、つまり堯舜の国とならん。「然して後、法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。主人悦びて曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る」という文章に続くわけです。そういうところに羲農の世、唐虞の国という、聖人ご自身の具体的な国を描こうとされます。また、宗教的、法華経的には、「今本時の娑婆世界は三災を離れ、四却を出でたる常住の浄土」となるわけです。つまり、娑婆世界が三世常住の浄土であるとの確信です。

さらに『立正安国論』では、三界を宝土として、そこに国土の安穏がもたらされることを望むのです。しかし、現実はいわゆる「牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり」という、死者が次々と出る、これは身も心も両方とも安全ではないわけです。そういったところから、「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也。仏国其れ衰へん哉。十方は悉く宝土也。宝土何ぞ壊れん哉。国に衰微無く、土に破壊無くんば、(当然)身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん」、少しも揺れることがない、心身ともに穏やかな世界というものがそこにもたらされるんだ、最初に身の安全があり、心は禅定ならん、ということが目的ではなくて、むしろ国土の安穏によって、一人一人の安全と禅定がもたらされる、とここで述べておられます。

聖人の願いというものには、この世界にともに生きている、その今の時代の人達の苦しみ、悲しみを充分に汲み取る鋭敏な感覚、そして他者の苦しみを取り除こうとされる抜苦与楽の願いというものがあります。また、宗教者としての豊かな情感というものがみられます。それを基として、聖人は力強く、独立人として、仏陀に対しては誠実に、正直に、そして勇敢に六一年の生涯を終えられたということになります。

我々自身は、いろいろな時代の影響を受け、私自身もよくわからないままに過ごしているわけです。しかし、そういう中で一つでも、聖人のみ心といいましょうか、これらの一文を自分の生き方の中に学んで、一つのことを実践していく、そういう意味の一つのことを大事にしていく、法師品でいいますと「一偈一句」ということで、聖人の言葉を自分の生き方の魂として頂戴できれば、ということで精進していこうということでございます。

 以上、私は細かな部分は申し上げられませんでしたけれども、聖人の正直さ、如来使としての敬虔な、そして誠実な生き方というものを頂戴していきたい、ということで話を結びたいと思います。

対 談

講 師 立正大学教授 北川前肇

聞き手 現代宗教研究所嘱託 影山教俊

影 山 今日の先生のお話をお伺いいたしまして、一番大切にしておかなけれなならないと思ったことは、先生が最初におっしゃったように「日蓮聖人は何を祈られたか」のテーマを、常に自分自身の主体的問題として問い続けることによって、私たちは日蓮聖人の門下として、どのように生きるべきか、あるいは聖人の教えをどのように伝達すべきかが自ずから明らかになるように思う、というお言葉でした。

私はこのひと言が今の私たちにとって、とても大切になってくる言葉だと思います。現代に生きる私たちはどうも日蓮聖人の祈りとか、信仰について考えようとしますと、すぐに教義的なところで納得しようとする、それで筋道が通って、つじつま合っていれば、それで分かったと納得して全てが終ってしまうと思うんです。

ところが、それをそれで終わりとせずに問い続ける、自分の問題とするというところに、教学的なことが信仰として根付いてくる一番大事なことがあると思います。とくに宗教には、その宗教に関わる動機というものがあるはずです。宗教的なこと、信仰的な安心を求める根底には、何らかの動機というのがあるはずです。

実際に日蓮聖人が、『立正安国論』を北条政権へと奏上なされた前後の鎌倉時代という社会背景を見ますと、危機的な社会状況であったことが、『安国論御勘由来』や鎌倉幕府の記録の『吾妻鏡』などからも明らかです。それを飢饉史というところから調べてみますと、正嘉・正元の大飢饉の三年間(一二五九〜一二六一)で、その当時の日本の推定総人口約一三〇〇から一六〇〇万人ぐらいの内で、おおよそ二〇〇万といいますから、総人口の一割以上が亡くなっております。

日蓮聖人はその悲痛な有り様を三〇万人の鎌倉住民と一緒に生活しながら、その現実苦を共有しています。その当時、鎌倉の住民は三〇万人ほどと推定されますが、その住民の三割近くの一〇万人ぐらいが亡くなったといいます。その亡くなっていく有り様が『立正安国論』の冒頭に「旅客来りて嘆いて曰く」と、死骸がるいるいと転がる様を伝えているわけです。この危機的な状況を何とかしなければならないというところで、日蓮聖人はその時代では最先端科学であった一切経蔵へと、その答えを求められました。

ですから、日蓮聖人の信仰の出発、信仰が出来上がってくる背景には、鎌倉時代の危機的な社会状況があったと思うんです。先生、このような動機については、どのようにお考えになっていらっしゃるのでしょうか。

北 川 問いというところの部分でまず申し上げますと、私は大学の二年の時に茂田井教亨先生の「宗学概論」の講義につらなるわけですけれども、その後、先生に身近に接することができました。明治三七(一九〇四)年、十月十三日にこの世に生を受けた茂田井祐という人の宗教的共鳴というのは、恩師清水龍山先生が、もう十代から学友の室住一妙先生とともに求められ、しかしご自身が青年期を迎えて、どう人生を歩むべきかという自分自身の問題として聖人の教えを主体化しようとする時に、それは恩師に対する最大の批判ともなった、と思うのです。宗学専攻をお辞めになるんです。そして国文学の世界に入った。

こういったことを二十代前半の私が聞くということは、大変ショックなわけです。宗学というのは誰か先生が導いてくれればそれでいいのだとか、そういうものではない、受け身ではいけない、己の生きる場面においてしっかりと掴むということを、そこで教えていただいた。それで先生は島木赤彦を卒業論文に書き、口答試問の時は、清水龍山先生がいらっしゃるわけで、そこで「島木赤彦とは何だ。何でそんなのやったんだ」とお叱りを受けるわけです。どんなにおできになっても『観心本尊抄』、『開目抄』の講義の評価は「乙」、今でいうBしか点数はつかなかった。そういうところから、茂田井先生の求道が始まった、というようなところを直接、六十を過ぎた先生に教えていただきますと、これは何か答えを丸暗記したらいい、そんな簡単なことで宗学の世界、いわゆる日蓮聖人の世界には入れないんだ、ということを身を持って茂田井先生が示してくださったということです。

そこでまず私は、それは問い続ける以外ないんだ、求め続ける以外ないというようなことを思ったことがあります。

そして、聖人の一番恐い書物を私は『立正安国論』だと申し上げています。虚空蔵菩薩より大智慧を給わるという、あるいは立教開宗されたのち、種々の迫害にあって、清澄のお山を下りられた。それが建長五(一二五三)年か六年(一二五四)かという説がありますが、とにかく山を下りられた。そして『災難対治鈔』、『災難興起由来』を見ますと、建長の末頃から、次々と災難が続くわけです。そして、直接の『立正安国論』執筆のきっかけは、正嘉元年(一二五七)八月二十三日、戌亥の刻の「正嘉の大地震」だと、そのように奥書にもあります。そこで改めて聖人は立教開宗の意味を問われたと思うのです。

ここにある惨状をどうやって自分が食い止めたらいいのか、国土の恩を報ぜんがため、一切衆生の恩を報ぜんがため等といわれます。日蓮聖人が多くの人々が亡くなる様を見て、救いたいという真摯な気持ちがあり、それを一切経、お釈迦様にもう一回改めて問い尋ねられた。それを聖人の言葉を借りれば、道理と文証を得ると。そこで、知ったということは我々誰もが得たけれど、遂に止むことなく、勘文一通を作り、これを『立正安国論』とした。そこの知ったということと、建白するということには、大いなる決断が働いたと思います。遂に止むことなく、この書を提案するという、そこの開きが大きいと思います。そういう真摯なお釈迦様への問いかけ、そこから得られたお釈迦様の言葉を言うか言わないか。改めて立教開宗の時でもそうでしたが、言わなければならないと、お釈迦様から背中を押し出されたのではないかと考えているんです。

影 山  もうあまり時間がございませんので、ぱっと現代へと話をもっていきたいと思いますが、私も大学時代、堀之内妙法寺での随身時代の茂田井先生の薫陶を受けたものですから、茂田井先生の宗学とは自らの信仰告白だとはっきりおっしゃたことを覚えております。ところが今、私たちは現実の社会を見回したときに、創価学会がいたり、顕正会がいたりしますと、その宗教はこんな風に間違っていると、簡単に教学的な知識で批判をして納得してしまいますが、しかし現実的には、それはどのように批判しようとも、創価学会は公称八〇〇万、顕正会は八五万の会員数を誇っております。

この茂田井先生のおしゃっている宗学のスタンスといいますか、それは自分自身が学んだ宗教的な理想と、この現実のギャップをどう埋めていくかという悩みが、信仰のエネルギーになっている。創価学会や顕正会は間違いであるというのは簡単ですが、実際には大教団を維持している事実に目を向けて、理解して納得することではなくて、自分自身が理想と現実のギャップに悩むところに宗学があり、悩んでいるからこそ、そこに宗教として現実生活にフィードバックしてくるように理解しているんです。

先生はこの現実の社会において、「日蓮聖人の祈り」が宗教としてどのように機能していくとお考えになっていらっしゃいますか。

北 川 私は組織論などはよくわかりませんが、今、影山さんがおっしゃったように、やはり茂田井先生の生き方を私なりに理解させていただきますと、一番面倒な存在が自己なんです。日蓮聖人の前に、等身大である自分を見つめるということが一番至難の業だと思います。悩んでいる自己、葛藤している自己、俺はお寺の生まれとして嫌だったんだ、ということを赤裸々に語る自己。求めていたけれどこっちの方がいいと思い、それでもなおここにある自己。幼少の時期から数々の恩を受けながら裏切った自分。そういうマイナスのところ、赤裸々な自分を見ないということ、あるいは悩んでいる自分を見ないということ自体が、何かを説こうとしても、それは机上論で魂の問題として全然響かない。ですから、私は茂田井先生の生き方、考え方を通して言えることは、勇敢に二十代のこれから勉強しようとしている私達に対して、師に背いた、それは一生私の課題なんだ、ということを背負える先生のすごさがあると思います。一方では、清水先生のことをおっしゃりながら、やはり清水先生という先輩の生き方から学ばせていただくということは、偽悪者ぶれとは言いませんが、偽善者ぶるのであれば、偽悪者になった方が、まだ私達は正直なのではないかというようなことを、茂田井先生が言われてた。そういう部分を究めていく力、あるいはそういうふうに頂戴することをしていかないと、それはとてもしんどいことだし、「商品としてはこれができた、皆さんこれいいよ」と、何かインスタントに、三分待ったら出来上がったとか、インターネットで出たからこれが結果だよではなくて、一人の人間が育っていくのに、ものすごい時間がかかるのと同じように、やはり呻吟し、苦悶していく中に自身の問いかけをしていくということを私達はしていかなければならない。

我々教育の場で、日蓮聖人の時代にはなかった寿命、人生五十年ではなくて、今、八十年、そういう中でどう我々はどうしていくのか。様々な問題にそこで一つの方向が出てくるのではないか。これは簡単なことではないのかも知れませんが。

影 山  確かに、今おっしゃったように、現実の社会に、日蓮聖人の宗教がずっと広がって、実際に機能してきた背景には、現実社会の苦というものを、その宗教がちゃんと反映していたという事実にほかならいと思うんです。今、宗門の布教教化が遅々として進まない背影には、社会に生きる人々の現実苦に応えられていない事実があると思うのです。

それは日蓮宗の布教方針が徹底できないからいけないんだという人もあるでしょうが、私は日蓮聖人の教えの学び方といいますか、宗学的なスタンスといいますか、自分自身への問いかけが足らないように思えるのですが、先生にとってどういうことが一番求められなければならないとお考えになりますか。

北 川 やはり一つには赤裸々な自分がどう生きようとするのか、ということを考えていこうと思います。道元さんの「現成公案」ではないけれども、やはり己を知っていく、自己が今ここにあること、生かされていることを、日蓮聖人の前で考えていく、そういう中にあってどう生きていこうとするのか。

冒頭に申し上げましたけれども、小所低所ということで、微管を傾け、ではありませんが、自分がやっている本当に針の穴ぐらいしか見えないわけです。しかし、皆さんが智慧を合わせ、それぞれのスペシャリストといいますか、技術的なことも含めて、今の時代をこう捉えていますよ、ということを統括していく。そのような願いの下で四方八方で活動をしていく。そういう共通の部分を確認する。そこはやはり聖人の前にぬかずくべき、それしかないと思います。

あるいは学問を研究する時に、教室に入って、真理を探究するから、先生も生徒も平等なんです。師弟ともに平等ということは、師も弟子も尊敬することがあるからで、ともすれば鶏を飼うと、時を告げるのは一番腕力のある鶏です。そういう手段になってはいないでしょうか。それではいけないわけです。地位や名誉や、世俗的権力をもつとか、そうではないんだということです。

影 山 本当にありがとうございました。今日は、これから第一現代教学部会、第二現代教化部会、第三現代教育部会、第四現代社会部会の四つに分かれて討議を重ねていきますけれども、今日、この先生にご講演をいただいた、特に「日蓮聖人の祈り」を自己の主体的問題として問い続ける、そういうようなスタンスから、これを取り組んでいきたいと思います。長時間にわたって、誠にありがとうございました。もう一度拍手をお願いします。

※本稿は平成十三年九月六日、千葉県安房郡清澄寺研修会館にて開催された第三四回中央教化研究会議にて講演されたものを筆録したものです。

平成十三年度(第三十四回)中央教化研究会議(講演資料)

日蓮聖人は何を祈られたのか

平成十三年九月六日(木)於 千葉県清澄寺     

立正大学 北川前肇   

一、はじめに

・このテーマは、私たち日蓮聖人門下のひとりびとりが、聖人に対して真摯に「問い」つづけなければならない重要な課題であるように思われる。

・このテーマを自己自身の主体的問題として「問い」つづけることによって、私たちが聖人門下としてどのように生きるべきか、あるいは聖人の教えをどのように具現化すべきかが、おのずから明らかになるように思う。つまり、聖人への問いが、私たちにとって、今日そして未来に生きる大きな糧となるのではあるまいか。

*言いかえれば、いまここに生命を享けている私は、何を果たすべく生きているのかを、法華経・日蓮聖人に問うことによって、自己の存在理由が明らかとなるように思う。そこに出家の意味があると言えよう。

・このような前提のもとに、私自身にとっての日蓮聖人への「問い」の経緯を、少しく述べてみたい。

二、日蓮聖人とは、いかなる人であるのか

・日蓮聖人の捉え方

1、人間日蓮(一二二二|八二)の側面|歴史的視点からの接近
2、聖なる日蓮聖人|法華経の世界に身命を捧げられている聖人
  a、法華経の行者日蓮
  b、本化上行菩薩の応現としての日蓮聖人
  c、末法の大導師としての日蓮聖人
3、日蓮聖人門弟の捉えた日蓮聖人

a「自讃には似たれども本文に任せて申す。余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母也、二には師匠也、三には主君の御使也。経に云く、即如来の使なりと。又云く、眼目也と。又云く、日月也と。章安大師の云く、彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり等云云。」

(一部漢文・建治三年六月・下山御消息・一三三一頁)

b「日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座候聖人を、(後略)」(建治三年六月二十五日・頼基陳状・一三五二頁)

c「頼基が今更何につけて疎縁に思ひまいらせ候べき。後生までも随従しまいらせて、頼基成仏し候はば君をもすくひまいらせ、君きみ成仏しましまさば頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ。其に付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて、何れか成仏の法とうかがひ候処に、日蓮聖人の御房は、三界の主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使上行菩薩にて御坐おはし候ける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。」

(頼基陳状・一三五八頁)

・日蓮聖人の自己規定

1、「天台沙門日蓮」(文応元年・立正安国論・二〇九頁脚注)
2、「本朝沙門日蓮」(弘長二年・顕謗法鈔・二四七頁)
3、「日本第一の法華経の行者日蓮房」(文永元年十二月十三日・南条兵衛七郎殿御書・三二七頁)
4、「根本大師門人日蓮」(文永三年正月六日・法華題目鈔・三九一頁)
5、「日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官としてこれを申す。」(文永八年十月二十二日・寺泊御書・五一五頁)
6、「日蓮は日本国の諸人にしたし(親)父母也」(文永九年二月・開目抄・六〇八頁)
7、「本朝沙門日蓮」(文永十年四月二十五日・観心本尊抄・七〇二頁)
8、「安州の日蓮」(文永十年閏五月十一日・顕仏未来記・七四三頁)
9、「扶桑沙門日蓮」(文永十一年五月二十四日・法華取要抄・八一〇頁)
10、「釈子日蓮」(建治元年六月・撰時抄・一〇〇三頁)
11、「沙門日蓮」(建治弘安の交・立正安国論(広本)・一四五五頁)
12、「法華経の行者日蓮」(弘安五年二月二十八日・法華証明鈔・一九一〇頁)

三、日蓮聖人の求道者としての出発

・虚空蔵菩薩への立願

a「日蓮は安房の国東条の郷清澄山きよすみさんの住人也。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき。其しるしにや、日本国の八宗竝に禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ。」(文永七年・善無畏三蔵鈔・四七三頁)

b「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗竝に一切経の勝劣粗ほぼ是を知りぬ。」(建治二年正月十一日・清澄寺大衆中・一一三三頁)

・智者とは何か

a「@天台智者大師をいふ。A仏教の学問に饒ゆたかなる人をいふ。B仏教における因果の理を暁あきらめたる人をいふ。」

(『本化聖典大辞林』二四〇六頁)

b「@博学の人。賢者。A道理を知っている者。B聖人。さとりに至る道に入っている人。C深い考えをもっている人。思慮ある人。D学問知識のある高僧。」(中村元著『仏教語大辞典』九五二頁)

※智者とは、教主釈尊の真実の教えを体得し、真の仏弟子として釈尊の本誓願−衆生の救い−衆生無辺誓願度を継承しようとする人のこと。

*釈尊とはどのような仏であるのか

a「三には大覚世尊。此れ一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり。」(開目抄・五三八頁)

b「法華経第二に云く、今此の三界は皆是れ我が有なり。(主、国王、世尊也)。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。(親父也)。而も今此の処は諸の患難多し、唯我れ一人のみ(導師)、能く救護を為す。寿量品に云く、我も亦為これ世の父文。

   |主――国王――報身如来
   |師――――――応身如来
   |親――――――法身如来」(原漢文・文永九年二月十八日・八宗違目鈔・五二五|六頁)

四、日蓮聖人の誓いと祈り

・釈尊の大慈悲を継承し、三大誓願に生きる。

「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず。」(開目抄・六〇一頁)

・末法という危機の時代において、釈尊仏教の復興をはかり、大白法たる南無妙法蓮華経によって、日本の国土の安寧と一切の人々の成仏とを祈る。

*理想とすべき国土と身心の安寧。

「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也。仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土也。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く、土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定な らん。」(原漢文・立正安国論・二二六頁)

以上

Copyright(C)2002- 「日本専門」情報機関(日本の情報の収集と保存)