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お題目は、なお完成途上−今日の求道の方向性を考える−

(所報第28号:85頁〜)

桐谷征一(本納寺住職・立正大学講師)

はじめに(問題の所在)

田島師、間宮師お二方のお話がかなり具体的な宗門の組織、制度の問題でありまして、その後で少し理念的なことをお話しするわけですが、理念的なことであると同時に、私としてはかなり具体的な方法論の問題提起も含めて出しているつもりであります。そういう意味で、お二方のお話とも関連して、この部分はどうなっているのかなという私の問題提起というぐあいにお聞きいただければいいのではないかと思います。

私は先ほどからかなり耳の痛いご批判をいただいている立正大学にかかわりのある者で、そういう意味で言えば、今、休憩時間中にお茶を飲みながらのお話の中でも、今の立正大学はもうちょっと何とかならんのか。あきらめて新しいものをつくろうというのかというお話が、ちょっと出ておりましたけれども、その辺のところにもいささかの責任を感じるわけであります。

私は大学では中国仏教史と、仏教がインドから中国へ伝わってきた仏教東漸の道としてのシルクロード学を担当している一研究者ですが、同時に、それ以上に、自分の精神的なプレッシャーと格闘しつつ日常過ごしているのは、先ほど間宮さんのお話にもありましたが、私も同じように一寺の住職という現場にいるということです。ですから、学問としての仏教と、現場の住職としての実践仏教とに差があるとすれば、私としてはジキルとハイドの両方をやるようなもので、とてもそういう器用なことができる人間ではありません。私としては、自分の中である程度つじつまといいますか、納得しているところがあるわけであります。その納得するところが、宗門全体としてはどうなのかなと思ったときに、最近よく言われるように、現場なき学問、学問なき現場という問題になるのではないか。その辺のところをもう少し大切に考えたいというのが、今日の話の一つの筋にもなろうかと思います。

教育制度の問題について先ほどからかなり具体的なところまで出ておりますが、本宗の本当の意味での教育の問題、僧風教育、僧侶育成、人材育成の問題の所在は、もちろん制度にも疑問や不満もありますが、果たして制度だけの問題なのだろうか。それを管理するという形で、果たして信仰の面が植えつけられ(こういう言い方は、私はあまり好きではありませんが)、育つものなのだろうか。信仰増進というのは一方通行で、これを植えつけるという形であり得るものなのだろうか。予算の措置ができれば、それで可能になるというものなのだろうか。その辺のことを考えてみたいと思うわけです。

とかく教育制度をいじりたがるという根底には、最近ことに本宗で声高に用いられる言葉として「教化」「布教」「伝道」というような立場があるわけですが、私はその場合、「教化」「布教」「伝道」とともに、あるいはその前に、「求道」が存在しなくてはそれを声高に言う資格もなければ、そう言うべきではないのではないか。そういう謙虚さが本宗の中でどうなっているのだろうかということを感じるわけです。

一、今、若者たちの対仏教観

社会的には今日、本宗だけではなくて、仏教一般が硬直化して魅力を失ってしまった、最近の仏教は何をやっているのかという問題が厳しく問われています。最近、島田裕巳さんが『仏教は何をしてくれるのか』というショッキングな本を出していますが、これには二つの意味がかけられていると思います。伝統仏教としては、今、何を私たちに教えてくれるのか、与えてくれるのかという意味と、もう一つは、伝統仏教は一体何をやらかしてくれるのか。そういう呼びかけであるわけです。

私は、この本が書かれたきっかけとなったのが、テレビ朝日の「朝まで生テレビ/激論、宗教と若者」という番組だったと思うのですが、その中で、オウム真理教と幸福の科学との激論があり、島田裕巳さんは明らかにオウム真理教に軍配を上げて、そちらのほうの仏教の姿勢に打たれているわけです。

私もその番組を見ましたが、その場には既成教団あるいは仏教全体をカバーする目を持った研究者が入ってないわけで、両者は自分の言いたいことだけを言い合ったわけです。そうしますと、真に理論を持たない幸福の科学に対してオウム真理教の麻原彰晃師は明らかに光って見える。スパッスパッと相手の立場を切ることができる。それは我々から見ていても、それはきわめて仏教の基本的なことで切っているわけです。それで切れるんです。そういう状態の中で、一般的見方としては、もしオウム真理教が何らかの真味で仏教の端っこにかかわっている新興宗教であるとすれば、それでは伝統宗教は日本中にたくさんお寺を構えているけれども、一体何をやっているんだということが、番組の中でも呼びかけとして出てくるわけです。本を読んでみると、それがきっかけになったということも書かれております。

一方、教育制度を考えるときに、教育される側の立場の若い人たちは一体どういう意識を仏教に対して持っているのかという視点で一つ資料をご覧に入れます。私は例年今、担当している科目の学生の仏教に対する考え方を調べてみてから授業に入ることにしているわけですが、それをご紹介して話のきっかけにしたいと思います。

はたして授業で信仰心、宗教心が教えられるかということになると、必ずしも先刻からお話しの出ている学林のようなことは難しいかと思います。しかし、学問は学問、科学は科学、信仰は信仰だというぐあいにはっきり分けると、あまりに仏教それ本来としてお釈迦様や日蓮聖人に対して失礼ではないか、寂しいではないかという気持ちを基本的に私は持っております。私の中国仏教史を受講するのは、三年生か四年生です。文学部の史学科の学生も入っており、仏教学部だけではないのですが、仏教学部では選択必修の形で、三年生、四年生になると中国仏教史を受講するわけです。ですから受講する学生の仏教に対するかかわり方のレベルの差は若干あるかもしれませんが、私としては一年間の授業が終わったときに、少なくともその人たちの仏教に対する誤解は解いて帰ってもらいたいということで、あまりにも学問的にも外れ、信仰的にも外れていることをチェックするために、あるいはどの程度まで仏教を基本的に知っているのか。インドで興った仏教の何たるかを知らずに中国仏教史を聞いたって何もなりませんので、中国仏教史に入る以前に、彼らは仏教にどのようなイメージを抱いて私の講義を聞きに来ているのかということを調べるわけです。

ご紹介するアンケートは、平成四年四月二十五日の中国仏教史の第一時間目の受講者百二十名ぐらいに対して行いました。

まず最初に、今、仏教について感じていること、自分にとって仏教とは何かという問いかけです。最初に自由に作文してもらい、それを三点の内容にしぼって各一行程度の短い文章にまとめてもらい、それを三枚のラベルに清書してもらって、最終的には私がクラス全体の意見を一枚のモゾウ紙の上に整理する。

これによりますと例年、大体似たような傾向は見られるのですが、大概の場合は、失望、批判的なものと、「学問の対象として関心を持つのであって、決して宗教として関心があるわけではない」というのが目立ちます。この去年の例では、「その哲学はすばらしい」とか「人生と生活に深くかかわっている」など、私としてはちょっとホッとするような回答が多くありました。そのほか「日本の文化の基盤としてとらえる」とか、「修行の感覚から、厳しいムードがある」「私の生活と無関係だけれども、単位として取る」「他宗教よりは親しみがある」「職業上、必要である」これは恐らく坊さんの跡継ぎでしょう。「難しくてわからない」というのもありますが、これは毎年多い答えです。「俗物的で失望である」「今日の仏教がわからない」「興味がない」「非現実的である」というような回答でした。

受講する学生が仏教の基本についてあまりに知らないということであれば、自分の講義としてはどの辺から話そうかなということで、ここ七、八年、第一時間目の授業でこういう調査をした上で、例年いちおう仏教の原点から話すような形にしております。

今の若者たちにとって、仏教は決して魅力ある対象ではない。ほとんどの学生は、受講以前に仏教をもともと魅力のないものとして見ているわけです。それを、どう魅力ある対象に置きかえるかという働きかけは、初歩的な形でどうすればいいのかということが大変必要であると思うわけです。教育制度を考える上にも、ぜひそういうことは必要だと思うのです。

先ほどの報告の中でも触れられましたが、それは、幼くして仏教を学ぼうという人たちだけの問題ではなくて、教師になる以前の問題、教師になる時点の問題、教師になって以後の問題という話がありましたが、坊さんになってしまった人たち、場合によっては定年を迎えてから出家しようとする人たちにも同じ問題があるわけです。私は、「求道」の必要性、信仰への求心力なくして何を語るのか、自分への問いかけがなくして何を伝道しようとするのかという点を強く感じるわけです。

二、「仏教」とは何か、「お題目」とは何か

私は、「仏教」とは何か、「お題目」とは何かと自分に問うことが、「求道」の原点だと思います。私は、こういう言い方が適当かどうか迷いますが、一応、自分の思っているとおりに申し上げてみますと、仏教は釈尊を源とし、多くの支流を集めて滔々と流れる大河のようなものではないか。仏教の始まり、原点はお釈迦様一点だから、日蓮聖人もいわば一つの支流であって、お題目も一つの支流の主張を大きく発展させていくための方便である。しかし、お題目は仏教の支流であると同時に仏教すべてでもあるわけです。仏教が原点である釈尊のところで今日までずっと止まっていたわけではなく、日蓮聖人の原点であるお題目が、そこでとまっていたのかというと、そうではなくて、我々の先師も、ごく卑近な我々の先輩たちも、皆さんも私も、日々お題目を実践し、その発展には何らか寄与しているわけです。

そうすると、お題目は完成して日蓮聖人でとまっているのではなくて、仏教の中の重要な部分として、今も発展を続けて、さらに密度を濃くして、完成に向かっていると考えられるのです。「仏教」とは何か、「お題目」とは何かということを率直に自分自身の感覚で問いかえしながら、それを日常積み重ねていくことが、「求道」ということではないのか。

七、八年前のことになりますが、私はある依頼で東京西部管内の教師を対象として、「あなたは信徒に対し、お題目をどのように説いていますか」という調査に協力したことがありました。東京西部は約二百五十軒のお寺がありますが、回答はそのうちの八十通ぐらいでした。私は意見のまとめ方については、二十年ぐらい年期をかけてやっていますので、似通ったものを集めれば幾つかのグループに分けられるのではないかと思ったのですが、それは、一グループとしてとらえることができないほどテンデンバラバラでした。そこでグルーピングをあきらめて、八十の回答をそのまま並べて、これが現実ですという報告をしたことがあります。

私は、その結果自体はけっして悲観すべきことではないと思いますが、ただ、お釈迦様を源流にして、沢山のものが集まってきて次第に大河になる。我々もこの流れに巻き込まれているわけですが、そこに何をもって仏教とするのかという求心力が働いているかどうかは問題です。そのときの仏教、その時点の仏教がどんどん外へ向かって発展し、内容も充実させていくとして、今日あまりに限りなく、何の歯どめもなく外に向かって、仏教の名において新興宗教だ、何だかんだと好き勝手をやっていけば、仏教としての求心力がどこで働いているのか。何をもって仏教とするのか。何をもってお題目と言い、信仰と言うのか。その見きわめが非常に難しい状況にあるといえます。

仏教は休みなく、日夜、外へ向かって広がっていく。しかし、仏教を大きな大河として言えば、明らかに充実し完成に向かっていると思うのです。そうしたときに必要なのが、常に仏教の原点に向かって、中心に向かって仏教とは何か、お題目とは何かという自分自身に対する問いかけであり、これを私は「求道」と呼びたいわけです。そのチェック機能がないと、際限なく散らばってしまって、どっちへ自分自身が進んでいくのか、わからなくなるのではないでしょうか。

三、今日の「求道」に必要な方向性

「お題目」を“T・P・S”思考でとらえる求道の輪を広げよう!

「仏教」とは何なんだ。「お題目」とは何なんだ。この場合は「仏教」も「お題目」も私は同じ意味で使いますが、その問いかけこそ、私は今日の「求道」に必要な方向性であるということでお話ししたいと思います。

その方向性を、私は三つに整理しました。

第一は、トータル(T)思考です。仏教を広く全体的な立場からとらえる視点です。法華経の「開会の思想」(平和的な異質の統合)の立場に通じますが、仏教のすべての思想と実践をトータルに把握する。あれは異質、これは異質と言って、全部捨てていくのではなくて、それぞれの立場にどういう意味があるのかということを全体として把握する。

第二は、プロセス(P)思考です。仏教における問題解決の基本姿勢は、「苦・集・滅・道」のプロセスにあることを認識し、積極的に現実社会との接点を開拓する。

第三は、システム(S)思考です。仏教の長い歴史が蓄積した実践的な機能を「戒・定・慧」の三つの場面で整理し、経験と勘に頼る教条主義の仏教から、確かな理論と技術をシステムとして駆使できる仏教に脱皮する。

私は、この三つを求道の方向性として提示したいわけですが、きょうの話の中心でもありますので、もう少しこれを具体的に説明します。

イ、トータル(T)思考

まず第一のトータル思考です。言葉の上だけではなく真に法華経の「開会の思想」の立場において、仏教のすべての思想と実践をトータルに把握する。私どもは日頃「開会」をよく口にしているわけですが、本当に「開会」ということが実践の場でわかっているのか。自分自身の行動の中において「開会」という姿勢があらわれているのか。「開会」を説きながら他宗を切って捨てるということだけで、自分自身の立場の主張が本当の意味で成り立つのか。その辺の問題です。

そうしますと、歴史的な手枷足枷が、私には非常に問題のような気がします。教判は一つの歴史的な産物であることはご存じだと思いますが、私のようにインドから中国を経て日本までの仏教の流れを、一括して見る立場にありますと、あっちの仏教がよくて、こっちの仏教は悪くてということを一概に言えない。仏教は、あくまでも歴史的な制約を受けて、それぞれに存在している。しかし一方、今、我々は日々生きている仏教と直面している。それをどう仏教として全体を見つめているのか。

そもそも教相判釈というのが起きたのは中国です。インドにはありません。仏教があまりにもいろいろな角度から説かれ、一つの教典が幾つにも翻訳されて、どれが真に自分の人生にとって依るべき教典であるのか、選びようがなかった状況。そういう中で、南三北七と言われるような数多くの教判が出てきて、それを最終的に統括したのが天台大師の五時八教である。それは、その当時として意味のあったことです。しかし、仏教の経典そのものがどの時代に成立して、どのように展開して今に至っているのか。その歴史がわかったときに、それは真にお釈迦様が説かれたものでなかったということで言えば、明治の段階でその議論はあったわけです。しかし、お釈迦様が直接にお説きになろうと、お説きになるまいと、どなたがお説きになろうと、お釈迦様の悟りの原点を出発点にして、その非常に質のいいエッセンスが法華経の中に伝わっているとしたら、お釈迦様が直接お説きになったから尊い、そうでなければ捨て去るべきだという議論は成り立たないのではないか。

お釈迦様の在世当時は、仏教は人生のために苦の問題を解決して、それも方法論として提示されたわけです。その趣旨に従って、その後の人たちが部派仏教を経て、小乗仏教を突破して大乗仏教に至った。中国の大乗仏教徒が、本末転倒、支離滅裂の危機感から仏教の本質を整理したのが教判でしょう。あくまでも教相判釈というのは仏教の本質をその時代において見きわめるためにこしらえた一つの方便、手段以上のものでもなければ、以下のものでもないと思います。

五重相対というのは、宗祖の尊重された教判ですが、これはご承知のように内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、教観相対という形で、最後には観心が事の一念三千であって南無妙法蓮華経だというところに来るわけです。しかし、そこへ来るまでの過程は、相対する相手方を切り捨てるという形での五重相対というのが、私どもの習ってきた教学ではないでしょうか。それは本当にそうなのだろうか。思想あるいは哲学という一つの世界観全体を、内道である仏教とその他の外道とに分けて外道は顧みない。仏教の中でも大乗と小乗と分けて、小乗は顧みない。大乗の中でも権大乗と実大乗とに分けて権大乗は顧みない。実大乗の法華経の中でも本門と迹門とを対比させて迹門を顧みない。本門の中でも教門と観門とを対比させて教門は顧みないとすれば、ほとんどストリップみたいなお題目になってしまう。

もちろん、いまの説明は五重相対の教判を真に正しく用いているとは言えないのですが、それが現実にはそういう受け取り方をしている方が多い。お題目のよって立つ根拠をみずから切り崩して、お題目だけが尊いということで、南無妙法蓮華経だけを高く掲げても、あまりにもこれはお題目にとって説明不足です。お題目を説明しようとすれば、外道まで含めて、すべての上によって立つお題目であることを説明しなければ、とても一般の人を説得することはできない。よって立つところを半分ずつ除いていったら、一番上の小さな三角形しか残らないことになるのではないでしょうか(図−1「五重相対概念図」参照)。

そうではなくて現実には、世の中には仏教以外にもいろいろな立場があるわけですから、その中で仏教はどういう役割があるのか、仏教と他はどう違うのか、仏教とは何なのかという問いかけをつねに全体を視野においてとらえる必要があるというのが、トータル思考ということであります。

ロ、プロセス(P)思考

次に、第二のプロセス思考ですが、実はお釈迦様の初転法輪ではたった二つのことしか言われていない。一つは悟りの原点である「縁起」の法。もう一つは、その「縁起」の法発見に至るプロセスを釈尊ご自身がどう踏まえたか、どのような手順によって苦を克服されたのかということを四聖諦(苦集滅道)という言い方で言っておられる、そのことです(図−2「仏教における問題解決の考え方の基本プロセス<=四聖諦>概念図」参照)。

「苦・集・滅・道」の原義についてここでは省略いたしますが、私はこれは、今風の言葉で言えば問題解決のプロセスということだと思います。当時、お釈迦様自身が抱かれた問題、疑問、人生の苦、大きくとらえれば人生とは何か、人間とは何かという大きなテーマ、その問題を解決するために、まず最初になさったのが「苦」です。今風に言えば現状把握ということです。現状をありのままに見つめる。例えば、我々が病院へ行っておなかが痛いのであればどのようにおなかが痛いのか。患者が自分でこういうぐあいに痛いということを言うことも必要ですし、レントゲンを撮ってみることも必要です。現状把握です。

そういう現状把握をもとにして、病の原因は何かと考える本質追究、これが「集」です。

その次が、「道」「滅」ではなくて「滅」「道」であることが重要です。「滅」というのは、自分の病気が治り健康になったイメージを完全に構成して、その最終に目標をしっかり見定めることです。

その目標に対して具体的にどうすればいいか。どういう手を尽くすのか。というのが「道」です。「道」は、場合によっては具体策と手順の二段階ぐらいに分けて大まかな戦略を立てて、最終的には具体的にどう戦術を実行するのかということです。お釈迦様はこのような手順を踏んで問題解決されているというのが、仏教の原点です。

しかし、現在、このような仏教の原点に対して本宗を含めてあらゆる仏教において行われている問題解決はあまりにもお手軽です。大学へ入りたいと思ったら現状把握も、本質追究もおざなりにして、ご祈祷してはいませんか。本人に何が問題か、本人がどういう勉強をすればよいかという視点を指導しないで、仏教は具体策としてご祈祷してしまう。もし、それで大学へ入ったとしても、どれだけ仏教についての意義があるのだろうか。

そういう意味で言えば私は、なぜ今日仏教が現実から遊離したかというと、今、世の中にあるいろいろな方法論は、全部、仏教の手のうちです。しかし、その仏教の手のうちのほとんどがあまりにも「道」の部分にだけ固執したからではないかと思います。現状把握、本質追究の大切さこそ、釈尊が仏教の中で指摘したことだと思います。現状を厳正に、ありのままに見詰めたら、次の本質追求はおのずと問題点がかなりの部分で浮き上がってくる。そこまでを厳しくやれば、後の手の打ち方は早いのだけれども、本宗では何よりも先にお題目を掲げて、後は祈ってしまう。仏教が社会から遊離したということは、仏教としての手順を正確に一般に説明していないのではないかと心配です。

実は、四聖諦を重視しているのは我々の立場でいう小乗仏教です。小乗仏教の人たちの第一番目の修行がこれです。法華経は二乗作仏を説いていますが、実は法華経で本来言わんとしたところは、今まで二乗あるいは小乗と言って切り捨ててきたものをもう一遍全面的に俎上に載せて検討する余地を与えたのが法華経の立場なのではないか。私は、この四聖諦の考え方を抜きにして仏教は成立し得ないという感じがします。

仏教は、本来、結果第一主義ではない。プロセス重視の立場です。本当に一所懸命勉強してプロセスをきちっと踏んだ人なら、たとえ大学に合格しなくとも褒めてもいいじゃないですか。人生の姿勢と手順をきちっと踏んだ人なら、後の人がその手順を見て、あの人はここまでやったのかということを評価すればいいではないですか。

そういう意味で私は、学生をテストの点数だけで切り捨てるつもりは全くありません。あくまで日常の採点です。具体的な姿勢としては、その人のプロセスに対する姿勢を尊重するのが仏教ではないかと思います。代返をしてもらったり、身代り受験をしてもらって合格しても、一体何の意味がありますか。

プロセス重視を方法論として表明するのが仏教です。法華経は二乗作仏と言っているくらいですから、この点はもっと大々的に表明してもいいじゃないかと思います。

私のこの辺のことを仏教関係者でなく一般の人に話をすると、「何でこんなに仏教は科学的なんだ」と、みんなびっくりします。お釈迦様は天の啓示で悟ったのではなくて、人間の知恵でもって仏教を興したのだと言うと、「そんなこと初めて聞いた」と、びっくりします。何で今さらそんなことでびっくりされるのか、こちらのほうがびっくりしますが、「私たちの布教が足りませんでした」と頭を下げる以外にありません。

ハ、システム(S)思考

次は、第三のシステム思考についてです。仏教は長い歴史を蓄積していますが、今日、その財産をどこまで使い切っているといえるでしょうか。

先ほどからも出ていた話ですが、確かに今の立正大学は現場のご住職から期待されるような個別具体的な要請に、それほど貢献していないかもしれない。だからといって、全く貢献がないのか。あるいは立正大学の学問としての業績、実績は本宗にとって本当に無駄なのか。それを捨て去ってしまって、全く新しいものをつくれば、それで済むのか。

立正大学が埋めているところと、これから行学林が埋めようとしているところとは、どちらかが必要なのではなくて、機能としてはそれぞれの立場が異なってこそ意味があるのであって、両方とも必要なんです。どちらかという取捨選択になってくると、仏教は外道などとはかかわりないと言い切ることと同じになるわけですが、それで本当によろしいのでしょうか。

我々の身体がシステムとして機能しているように、仏教も過去の実績を有機的なシステムとして活用できれば、求心力(求道の精神)の働いている限りにおいては、無駄がないと思います。しかし、求心力が働かなくなったときに、どうしてあれが仏教なんだ、どうして仏教の名においてああいうことをやっていいのだということが問題になると思います。

仏教をシステムとしてとらえる場合、私は「戒・定・慧」の三学を意識して、これを学ぶ方向であると同時に、仏教の実践として見ることをおすすめしたいと思います。かつ、それを「戒・定・慧」という仏教用語を使わないで、今日の言葉にどう置きかえるか。それができなければ仏教を今に伝えることはできない。その一つの目印としてつくってみたのが、図−3の「お題目の実践概念図」です。この図によって、仏教実践のシステムの認識法を説明させていただきます。

図の一番上に「戒」、両脇に「定」、「慧」と書いてあります。「慧」という分野は、一般的なイメージで言えば、理論とか学問と言っていいのではないか。「定」は修行の場、「戒」は実生活です。こういう言葉の対比でいいかどうか、皆さんにもご意見をうかがいたいと思いますが、因みに先ほどの間宮さんのお話にあった、行学林の建物をこういうぐあいにつくるという北陸教研会議のプランの図を見てください。これは私と別に打ち合わせをしたわけではないのですが、この図はよく私は納得できます。真ん中にシンボルがあって、その周囲に「学」、「修」、「生活」というのがあります。「学」は「慧」であって、学問とか理論の場です。「修」は「定」で、修行の場です。「生活」は「戒」です。「戒」「定」「慧」という表現を「生活」「修」「学」と置きかえていますが、意味は同じです。こういうぐあいに、仏教を一つの実践として把握し、その意識を建物にまで表現する、私は大賛成です。

また、理論・学問を書斎科学の世界と見ると、「定」。修行の場はビーカーやフラスコの中の実験科学の世界です。仏教において実験科学も必要なんです。実験したものを理論的に裏づけ、検証して実証することができる。

書斎科学に対して実験科学。それに対して「戒」のところは野外科学の世界です。

相撲では心技体の充実を三位一体として重要視しますが、いわば心は「慧」の分野です。技は「定」の部分。体は心と技が一致してはじめて土俵の上で活躍することができる。

また、身口意の三業と言いますが、意業は心の問題です。口業は口の問題です。これは唱題行に当たると思います。図に少々大きく唱題行と書いてあるのは、実は唱題行の実践のグループである求道同願会というのが、私の参加している一つのグループでありますが、唱題行が私は戒定慧の中の口業のところに位置づけるのがわかりよいのではないかと感じております。唱題行なり口業としてお題目を唱えたものを理念として心で受けとめ、その一致した境地が身業として日常の実践にあらわれる。

それから、「慧」をシンボル、「定」をインデックス、「戒」をイコンとしてあります。それは、たまたま今非常に注目されていますが、記号論理学という学問があります。アメリカのパースという人が提唱、普及したわけですが、そのパースの記号論理学で言うと、シンボルは三つの場面からとらえることができる。一つは理論としてのシンボル。もう一つは、そのシンボルを通じて、そこからシンボルの持つ意味を引き出すというインデックスの意味がある。もう一つは、それを図形化したもの、それをイコンと言っています。一般的にイコンというのは、ややもするとキリスト教の宗教画あるいは宗教法具だけを言う意味で用いられがちで、私は本来の意味では、曼荼羅は日蓮宗の立派なイコンであるといえましょう。

次に、理の一念三千というのは法華経の縁起観ですが、これは「慧」の分野です。それを修行として観心、観法として自分の心の中にガッチリ受けとめたときに、それが改めて事の一念三千として日常の行動にあらわれるのではないか。事の一念三千というのは、単に言葉の上の理に対する事ではなくて、いろんな形で表現される法華経の世界観の実践の場ではないかと思います。

本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目、いわゆる三秘という宗祖によって示された私どもにとっては非常にすばらしい実践のスローガンがありますが、この三秘を戒定慧に当てはめてみますと、よくその具体的な内容がわかるのではないか。本門の本尊というのは理念的にとらえられたもの、本門の題目は、それを修行的にとらえられたもの、本門の戒壇は日常生活の中で打ち立てる法華経の理念でなくてはおかしいではないかというのが、私の感じです。

お題目というのは、観念や知恵だけでもない。また、修行の場だけでもない。その日常的実践のすべてをひっくるめた全体をとらえる意味が、お題目としては大切なのではないかと思います。

「戒」「定」「慧」がそれぞれの場として存在しながら、しかし、この三つは法華経の思想を実現するために、区別なく行われる。ですから、概念図ではお題目の法輪が転ずる、転展するわけです。「戒」「定」「慧」という形でそれぞれが参加しつつ、転展させることが、お題目総弘通の形なのではないか。一天四海皆帰妙法ということは、ただ単に言葉の上で言うことではなくて、転展して最終的なお題目総弘通が完成してすべてが妙法に帰依する状態になることを言うのではないか。このような意味で言えば、お題目総弘通運動の中に、ひたすら一般に広くお題目を唱えさせようという在り方の他に、お題目とは何かということを、門下がここで徹底的に掘り下げ、その実践の意義を考えるという運動の在り方もあっていいような気がします。

四、あらゆる場所で対話を!

問題は、あらゆる場所で対話が必要だと思います。この場合の対話は、議論と置きかえてもいいし、法論と置きかえてもいいし、談義と置きかえてもいいし、触れ合いと言ってもいいと思いますが、一方的に教師が学生に対するように、トップからボトムへいくのではなくて、ボトムのほうからトップのほうへ働きかけることもあっていい。ボトムアップの姿勢です。先ほど理念的なお話がありましたが、その中で、学生の声を聞くというのは非常に大切な姿勢だと思います。我々も仏教の発展、お題目の完成に日夜参加しているわけです。でき上がったものをだれかが一方的に伝えているわけではなくて、我々も参加してお題目を完成に向けてつくっているわけですから、少々年配であるからといって、少々経験があるからといって、一方的に教える側の者、一方的に受ける側の者というのはあり得ないと思います。私は学生と話をしていても、学生から出る意見で啓発されることはいっぱいあります。一方、先生と話をしても、先生らしくないと感じることが少なくありません。現場というのはどこにでもあります。私の今申し上げていることは、必ずしも行学林であるとか、あるいは大学であるとか、あるいはこういう場所でしか議論ができないということではなくて、日常どこででも、あらゆる場所で「求道」の方向に基づいて話し合えることだと思います。先ほどのお話に出た飯高檀林跡に行学林をというのは、私は非常にいい案だと思います。

その昔あったカリキュラムで、今、全然出てこないのは談義です。檀林では法論が非常に重要なカリキュラムだったわけです。それは単にディベートという相手をやっつけるためには詭弁でも構わない、口先人間が勝ちということではないのです。ボソッボソッと言ったとしても重みがあるというとらえ方です。量より質です。冒頭に紹介した授業の初めに行う学生の仏教意識に関するアンケートの回答は一人残らず掲出してあります。その中には、そのときには気がつかなかったけれども、じっくり読めば、とても重要なことが書かれていることがあります。至るところで行われる議論が、もしああいう形で定着して、どこかに蓄積されるとしたら、これは大変な財産ではないですか。あらゆる階層の人が、あらゆるところで、お題目とは何か、仏教とは何かについて対話が成り立ち得ると思います。

現在は一般の人たちのほうが坊さんよりよほど勉強していますから、私が心配するのは、では一体だれが教えるのか。これだけ立派な理念あるいは具体的な要請に、宗門の中を見回わして、だれが応じられるのか。そのことが心配です。それを行学林で十年かかって養成すると言いますが、十年間にだれが、どんな方法で養成するのか。非常に難しい問題です。私自身は、それは対話以外にないと思います。お互いに学び合うということです。

ただ、対話と言いますが、それも実際には非常に難しい。だれかが話をすれば、話の内容以前に、あいつが話をしたから、おれは聞く耳を持たん。あの宗派が言うのであれば、我々はそのテーブルにつかないというのでは、対話になりません。それでは開会ではないのです。法華経の立場ではないのです。

一つの真実を求めるときに、ありのままに現実を見つめ、あえて三百六十度からの問題提起が必要です。それを押しとどめないルール、マナーが必要だと思います。対話の方法は難しいけれども、対話以外にはそれを突破していく方法はないのではないかと考えています。

その対話を、ただ単にしゃべり放しで、マスターベーションで安心するのではなくて、記録し、それを積み重ね、総合し、蓄積して、活用する。これだけのことを総合して初めて議論の場の積み重ねが成り立つ。残念ながら、先ほどからの報告は結論でしかない。私は、そこへ至るまでの北陸教研で行われてた議論の内容、あるいは一つの理念にまとめられた議論の経過が知りたい。その中で何が議論されて、どういうことが質疑されたかを知りたい。私だけではなくて皆さんがそうだと思います。それが、さっきから言うプロセスということではないかと思うのです。

五、私の周辺での具体的な二つの事例

私の周辺で議論を大切にして行っている具体的な例で言えば、私は立正大学で講義をしていますが、そのほかに、自分のお寺で夏休みに、中学生、高校生を対象にして、二泊三日の「グリーンセミナー」をやっています。私は方法論を与えるだけ。テーマも、それを具体的に作業するのも生徒たちです。テーマは、いじめの問題、環境の問題、人と仲よくする方法など、今の子供たちの一番切実な問題が、子供たちによって選ばれる。私も場合によっては大人の一人として、社会的な立場からの発言もすることがあります。そこに参加した人のあらゆる角度からの議論をまとめて報告書をつくります。その場合、方法論が仏教です。方法論だけ与えれば、子供たちでも問題解決ができます。その前後には唱題行をやって、精神集中ということも修行として取り入れてはいます。

もう一つは「御遺文研究会」です。前回で二百回になりました。私の近所のお寺の五人の坊さんが、月に二回、第二と第四日曜日の夕食を終わって、午後七時から日蓮聖人の御遺文を読む会を開いています。お盆など行事のあるときは、みんな忙しいので休みます。私が中心というわけではありません。だれも中心はいないがよく続いています。日蓮聖人の御遺文を、もちろん文献考証的な問題からも突っ込みますが、日蓮聖人がその当時置かれた環境、それから、今、我々が率直にどう感じるかという、宗祖のメッセージを受ける側としての現代のレベルで、そういう感覚的なものも全部集めるわけです。日蓮聖人ご自身が非常に身近に感じられる。最初は御遺文そのものを読むことすらもたどたどしかったけれども、今は主として富木さん、太田さん、曽谷さん、千葉の中山におられたあの辺のグループの方々の御遺文を読んでいますが、結構スラスラと読み味わうことができるようになりました。

七時から始めて十一時ぐらいに、ごく簡単なつまみで一ぱい出します。その後は気楽に夜の二時、三時ぐらいまで議論することが毎回です。飲みながらリラックスして意見を出していく。これがある意味で重要だと思います。日蓮聖人をどう思うんだと。しかし、どれだけたたいても、批判的に見ても日蓮聖人は偉い。法華経は奥が深い。話をすると、おのずと求心力が働いてくる。世間のすべてのことを総合していく中に、おのずと求道心も信仰心も出てくるのではないかというのが私の気持ちです。

ですから、教育制度の中にカリキュラムを入れるならば、飯高檀林がかつて談義を持っていたように、何らかの形で、立場を超えた議論の行われるカリキュラムをぜひ入れていただきたいというのが私の感想です。

御遺文研究会で、書誌学的にわからなくなったり教学的に行き詰まるときには、茂田井先生とか高木先生だとか、あるいは山中喜八先生のところへ押しかけたこともありますし、あっちこっちの方々にご意見を伺って、それでまたワイワイやる。宗門全体がリラックスした気分で日蓮聖人の議論ができるようになればよい。これは制度、システムの問題ではないのではないかという気が一面しております。私たちの御遺文研究会はいつやめるかわかりませんけれども、今のところだれもやめると言い出す者がいない。結構それ自体楽しいものですから、まだ続きそうです。

六、その他

きのう配達された「日蓮宗新聞」に「教育制度検討委員会答申(三)」が載っておりました。けさになって見て、さっとしか目を通さなかったのですが、教師の理想像を明確にすべきだという方向に議論が集中したということです。ややもすると今までは、こういう場合には私などとても教師になれないと、あきらめさせられるような結論に書いてあるのですが、ここにはぼんやりと、みんなでこっちの方向へ行けばどうかなというような、やわらかい形で出てきているのは、今までにないおもしろい形ではないかと思いました。

ただ、人づくりというのは制度とかシステムにさわるだけでは根本的に克服できることではなくて、結局人づくりのカリキュラムに入れてもらいたいけれども、根底に今申し上げたような問題があるのではないかということが、私の考えです。

石橋湛山先生は身延山の法主・杉田日布上人のご子息として生まれ、早稲田大学で自由闊達な雰囲気の中で勉強をして、ジャーナリストとして活躍し、大蔵大臣、総理大臣になられたけれども、制度のための坊さんにはなれない。弁護士や医者や会社の社長として、社会で立派に活躍している人たちは、少なくとも私たちよりもはるかに社会を勉強していますが、そういうその人たちが仏教の言葉を使えないからといって、坊さんになる道を閉ざしていいかどうか。東大や早稲田や慶応や、少なくとも一般的には立正大学以上と言われているような学校を出て世の中で活躍している一般の方々と、堂々と仏教の話をできる坊さんが必要なんじゃないか。はたして、この教育制度の中からそういう人たちが生まれるだろうか。素朴な疑問ですが、そういう感想を申し上げて、私の発題を終わらせていただきます。

(拍手)

※本稿は、平成五年二月十日五反田ゆうぽうとにおいて、テーマ「宗門の教育を考える」のもと開催された第五回教団研究懇談会にて発題されたものを筆録したものです。

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