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四箇の格言の見直し

いうまでもなく四箇格言=「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」とは、大聖人ご在世当時に盛んだった各宗の教義の誤りや、その害毒・悪果報を端的に示されたもの。これには当然、天台過時の義も含まれている。

つまり、この四箇格言は、三大秘法の南無妙法蓮華経以外の一切の宗教とか思想は邪宗邪義・邪教邪法であるぞ、と御宣言あそばされているものと拝し、あくまでも御本仏・日蓮大聖人の正法正義の建立・信受でなければ、一切衆生・国土の幸福、安穏、救済はない、というのが、日蓮正宗の教義であり、これまでの創価学会の指導であった。

四箇格言をないがしろにするということは、宗教や思想には高低正邪・浅深勝劣があることを無視し、「宗教はどれも同じ」(万教一致)とか「どの宗教もめざすものは一つ」(万教同根)といった、もっともらしい間違った認識を生み、こうした邪法邪義の思想的害毒に目をつぶることになってしまう。

逆にいえば創価学会・SGIのように、他宗教他思想との共存や協調を図ろうとすれば、いつのまにか、あの名誉会長の「11.16スピーチ」のように「四箇の格言」を茶化す心根や、今回のような見直し論が生まれてくる。

したがって日蓮正宗は『お尋ね』(平成2年12月16日付文書)で、池田創価創価学会・SGIの平和・文化・教育路線の背景にある、名誉会長をはじめ創価学会首脳の心根を問うたのである。

「イエス・キリストも仏法を説こうとした」とか「ヒューマニズムこそ仏法の精神だ」とか「最高の宗教活動は真の偉大なる人間の連帯である」といった趣旨で語る、“寛容の精神”に基づくSGIの思想や在り方そのものが、謗法与同・正邪混濁・仏法破壊になってしまうものだ、と指摘したのである。

日蓮正宗は「四箇の格言の意義は深いものがあり、七〇〇年を経た今日においても、これら権宗の思想的害毒が、社会に広く根強くはびこっていることに対して、破折、並びに教導していかなくてはならないのであり、軽々に教条的だなどと考えるべきではありません」(平成3年1月12日付・『お尋ねに対する回答についての指摘』)と述べている。

ところが創価学会は、日蓮正宗に対して、聖なる独善的な孤高を護り続ける姿勢は、教条主義・原理主義・権威主義・時代遅れとの見下しがある。

社会や世界に理解と共鳴を求め、現実の中で根を張ろうとすれば、日蓮正宗のような独善的な姿勢では受け入れてもらえない。日蓮正宗は、そうした苦労をしていないから、平和・文化活動の意義もわからないし、いつまでも「井の中の蛙」みたいな独り善がりの言い草を振り回す、と捉えている。

これは、社会や世界の中で“市民権”を得ようとした結果なのだと思う。世俗の論理や価値観に立っているから、宗教的思想的な独善性を捨てて、外道義・謗法思想の中に大聖人の仏法を求めようとしているため、他宗破折・謗法呵責を止めて、その代わりに本家本元である日蓮正宗を攻撃しているともいえよう。「仏法の論理」というか御本仏からの称賛よりも、世俗の価値観が大事になっているから、勲章や名誉を欲しがるのかもしれない。

宗教的思想的な独善性を捨てて、他の宗教や思想との共存を図れば、極論すれば「宗教はどれも同じ」になってしまう。より高度か発展途上かといった相違でしかない。それでは、ずーっと会員に対して、大聖人の仏法の唯一絶対性を説きつづけてきた指導との整合性を失う。つまり、前に言っていた事と、今言っている事とが一致しないということだ。

そこで、外道義・謗法思想の中に大聖人の仏法を求めることになる。それが「どの宗教もめざすものは同じだ」という宗教多元主義との結びつきだ。諸々の宗教や思想・哲学が求める、究極の哲理・根本的な法理・根源の“法”こそが、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」であるという捉え方である。

いわば“宗教の中の宗教”が大聖人の仏法であるという捉え方だともいえよう。そして“宗教の中の宗教”というのが「絶待妙」で、その究極の“宗教=法”から開かれたのが、「相待妙」としての各宗教・宗派、思想・哲学という認識を生み、他宗教との共存・協調も可能となる。

ヒューマニズムとは、人間中心の思想であり、人間性に最高の価値を置く。ましてや今日の現代ヒューマニズムは、無神論的ヒューマニズムに立つ。神の代わりに「人間を究極の目的として、最高の価値として考える理論」(サルトル『実存主義とは何か』)であり、徹底した「世俗の論理」である。

その人間性を社会的な基本的人権として捉え、民主主義という一つの思想を生み、近代現代の社会体制を作り出してきた。民主制とは、王とか神(教会)などの絶対性を否定し、すべての人は自由で平等であるという“多元的”“相対性”を前提に成り立っているものだ。

創価学会SGIの「人間主義仏法」あるいは宗教多元主義は、こうした「民主主義の論理」=「世俗の論理」を宗教の世界に持ち込んできたものである。つまり、宗教の“唯一絶対性”というものが否定されてしまうのである(その上で、横断的普遍性を持つ究極なるものの構築を志向する)。

つまり、念仏や禅宗、キリスト教、イスラム教など、あらゆる宗教・思想・哲学は、「相待妙・絶待妙の法門」を牽強付会して、すべて「南無妙法蓮華経」の一分を説いたものであるとし、極論すれば、心に「南無妙法蓮華経」を思い浮かべたら対境は何でもいい、ということになり、「御本尊はどれも同じだ」「本門戒壇の大御本尊は民衆のものだ」「心こそ大切だ」といった指導が罷り通るようになる。

だから、信心の血脈だけを強調し、御本尊をまるで幸福製造機のように受け止め、必死に題目を唱えれば功徳を得ることができるという「ご利益信仰」(利用信心)に陥り、自分の信心(信力・行力)だけが大事となり、自分の心の在り様だけが問われることになる。

創価学会では、重要なのは信じる側の姿勢なのだ。それは、それで、その通りなのだろうが、何を信じるかという検証を忘れ怠り、「鰯の頭も信心」とばかりに創価学会を疑うことには目をつぶり、自己の生命の中に内在するだろう仏界を引き出そうとし、あるいはこの大宇宙に遍満するだろう妙なるリズムを合致しようとする。最終目的の成仏は、自己の可能性を開いた“人間革命”だと捉え、御本尊はそのための方便・手段にすぎず、信心が正しければいいのだと豪語する。

つまり、御本尊を信じているようにみえても、実は御本尊よりも創価学会・名誉会長を信じ、そして創価学会を信じている己れ自身を信じているのではなかろうか。

1つの見方をすれば、創価学会の「人間主義仏法」は、仏性信仰ともいえるかもしれない。

すなわち、われわれ衆生一人ひとりの己心・生命には“仏性”という仏界の境界があって、その仏界を開現・顕現すれば、最高の絶対的な幸福境涯をえられるという捉え方だ。だから、最高の人間性が“仏”であるとし、完成された人間像として「仏」を仰ごうとする。つまり「仏」は目標にすぎず、御本尊は単なる手段であり、仏様への信仰心を失っているといわざるをえない。

言い換えると、人間主義仏法は、「人間(衆生)=仏、だから人間を信じ合いましょう。さすれば世界が平和になる」という思想で、御本尊よりも衆生(民衆)を、仏法よりも仏性を尊ぶようなもの。しまいには「私は仏だ」「俺はすごい」と言い出し、己れ自身を拝むようになるかもしれない。ぜんぜん仏様を信じていない。そのうち、御本尊の拝し方も、中央のお題目の下に自分の名前(自己の本性・仏性)を観ていくことになるやもしれん。

創価学会には、御本尊は生命に内在している仏界を顕した“レントゲン写真”のようなもの、という解説がある。また、以前から会内では、本門戒壇の大御本尊への絶対的な信仰は、偶像信仰の一形態であり、こうした偶像信仰は宗教としては低級なもので、世界宗教としてふさわしくない、なんてことを堂々と語る幹部がいるくらいだ。

けど、どこの世界にレントゲン写真だけを拝んで病気が治るという話があるのか。レントゲン写真を見ているだけで、結核や骨折、脳内出血、胃潰瘍、肝炎、糖尿病等が、他の動物のように自然治癒力で治るならば、医者はいらない。それと同じ。仏様の存在なくして、己れの力で、己れ自身に内在する「衆生本有の理」とかいうのを、どのようにして引き出そうというのだろうか。

日蓮正宗教義が「仏(本仏)とは日蓮大聖人なり」=本門戒壇の大御本尊とするのに対し、創価学会教学では、大聖人の仏法を生命哲学と捉え、「仏とは生命なり」に立脚して、仏=生命=仏界(仏性)とし、「一切衆生のなかに、仏と等しい生命の法理を見いだし、その顕現への実践の道を開いたのが仏法である」(『大白蓮華』平成3年3月号)と、仏性顕現の実践道を強調する。

だが日蓮正宗教義に従えば、仏法とは本門戒壇の大御本尊を絶対と信ずることによって、凡夫は成仏するのであって、衆生の生命に内在する仏性・衆生本有の理または宇宙根源の一法を信ずることではない。

創価学会教学は人間性そのものに価値を見出すので、西欧のヒューマニズムと容易に結びつく。

欧米では、禅が根強くもてはやされている。禅宗は仏心宗ともいう。仏心とは仏性のこと。そこで、いわゆる「直指人心・見性成仏」という教義を立てる。仏性を月に譬え、仏の教えは、その月を示す指であって、自己の心に仏心を見出せば、仏は方便にすぎない、と。これは、日蓮正宗の伝統的教義に従えば、ご存知の通り爾前権教、けっして実教ではない。

日蓮正宗側からみれば、昨今の創価学会の在り様は、

仏性信仰といい、自力志向の利用信心といい、相伝仏法を否定し、衆生を本とするような慢心教学―等々、どれもこれも「禅天魔」に劣らない。

大聖人のご法門の骨格を盗み、西洋ヒューマニズムで味付け、もっともらしく装い、下種三宝を破壊しているのは「真言亡国」そのもの。

その上、日蓮正宗サイドの文書資料や反創価学会情報は、受取り拒否や拒絶、読みもせず閉じて捨て抛るなど、まるで法然の「捨閉閣抛」と同じ。つまり「念仏無間」。

ついで、日蓮正宗僧侶に対して小乗戒を守れみたいなこと要求し、糾弾キャンペーンを繰り広げるのは「律国賊」みたいなものかもしれない。

以上は、創価学会と日蓮正宗のどちらが正しいかという問題ではない。創価学会が、日蓮正宗から分離・独立したように、創価学会教学もまた、日蓮正宗教義から分離・独立したということである。

そして創価学会は、これまで日蓮正宗的正統性を掲げていた。だから創価学会が、その日蓮正宗的正統性を切り捨てて、日蓮宗に擦り寄ったり(四箇の格言の見直し)、安易に西洋哲学的ヒューマニズムを掲げたりすることには、疑問を呈さざるを得ないだろう。

創価学会教学は、日蓮正宗という縛りが無くなって、自由を得た。しかし自由を得たがゆえに、釈尊が否定したバラモン思想(梵我一如・宇宙即我・我即宇宙)、最澄が否定した法相宗(西洋哲学的ヒューマニズム・人間主義)、日蓮が否定した念仏・禅・真言・律(四箇の格言の中で否定した)、を取り込み、あるいは肯定しているのである。

既に、創価学会本部職員にも一般会員にも、教学上の正統性には意味がなく、功徳有無が重要である、と豪語する者が出てきている。創価学会は、いったい何処へ向かうのか?

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