Make your own free website on Tripod.com

「乙女の花園」が自公連立の絆に。なぜだータカラジェンヌと創価学会

(「文芸春秋」十月号)

世那原恵

「清く、正しく、美しく」。宝塚歌劇団の創設者、小林一三の掲げた理念だ。そこには、リアルな男とセックスは存在を許されない。女性客たちは、かなわなかった理想の恋愛を舞台に投影し、つかのまの夢を見る。

だが、虚構を演じるのは生身の女性たちである。

今年、宝塚は90周年を迎えた。本拠地、兵庫県・宝塚市の宝塚大劇場では蘇我入鹿(そがのいるか)の悲劇を描いた『王朝ロマン飛鳥夕映え』と、カリブ海に浮かぶキユーバをテーマにしたラテンファンタジー『タカラヅカ絢爛(けんらん)U』が上演されていた。

客席を埋めるのは、多くがごく普通の中年の主婦層である。目いっぱい楽しんで劇場をあとにする表情は幸福感に満ちていた。7500円でS席の切符を買い、たまのお酒落をしてタカラヅカに足を運ぶのは、彼女たちにとってささやかな贅沢である。

宝塚大劇場は、クリーム色の外壁にオレンジ色の屋根がのったお伽の城風の建物だ。鄙びた温泉場の雰囲気を残す周辺の風景とは、ミスマッチにも映る。終演後、阪急宝塚駅に続く「花の道」を歩くうち、女たちは日常に引き戻されてゆく。

午後5時半。夕飯の支度にかからなければならない。電車を降りるとスーパーで惣菜を買い込み、家路に着く時分にはすっかり妻や母の顔に戻っている。

いつの頃からか、ひとつの「噂」が立ち始めた。ちかごろ宝塚の観客のなかに創価学会の会員が多くなったようだ、客席の雰囲気が微妙に変わっている。じつは宝塚歌劇団の中にも学会員がいて、その集客力によって役を射止めることもあるらしい…。

言われてみれば、創価学会も「女性が主役」の組織である。とりわけ関西は「婦人部」の勢いが強い地域だ。

取材を進めてみると、いっけん対極にみえる宝塚歌劇団と創価学会の間に密接な関係があることが浮かび上がってきた。そして、それは現在の「自公連立」の政治状況とも深く関わりあう事柄なのである。

まぼろしの女学校

「昭和40年代の半ばころでしょうか、タカラジェンヌを熱心に折伏(創価学会における勧誘活動のこと)していたことがあります」

そう証言するのは、元・創価学会芸術部書記長の古谷博である。

「その当時の創価学会はイメージアップに躍起になっていました。創価学会は貧乏人と病人の宗教ととらえられていましたし、言論出版妨害事件(藤原弘達著『創価学会を斬る』の出版を差し止めようとした)などでダメージもありました。学会の信者は庶民ですが、多くの女性が憧れる宝塚の華やかなイメージは選挙活動にも利用できると踏んだのです。ただ実際にはタカラジェンヌが入信しても、そのことは公表できなかった。イメージとそぐわないため、宝塚歌劇団の方が嫌がったからです」

宝塚歌劇団は独特のシステムをとる。その舞台に立てるのは宝塚音楽学校(2年制)の卒業生だけだ。20倍以上の難関を潜り抜けて入学した50人の少女たちが厳しいレッスンに明け暮れる。「上下のケジメ」は絶対だ。下級生は、高架を走る阪急線の列車にさえお辞儀を強いられる。そこに上級生が乗っているかも知れないからだ。

グレーの制服に赤のリボンタイ。ショートカットに三つ折りソックスの彼女たちの姿は、まるで戦前からタイムズリップしてきたかのようだ。実際、彼女たちは音楽学校を卒果してからも、退団するまでずっと「生徒」と呼ばれ続ける。

このまぼろしの女学校を支配するもう一つのルールは、徹底した競争原理である。生徒たちは年4回の演技・音楽の試験の成績によって篩(ふるい)にかけられ、あらゆる場面で成績順に並ばされる。舞台での役は、その成績と人気で決まる。最終的に主役級に残るのは、1期で1人か2人に過ぎない。宝塚を「卒業」した後の同窓会の時にさえ彼女たちは過去の成績を意識しあい、暗黙のうちに優劣がつくという。

ほんらい容姿と才能に恵まれたはずの彼女たちが、同質の環境の中での競争に駆り立てられ、抑圧されてゆく。敗者は、容赦なく追われる。ファンにとっては激しいトップスター争いこそ娯楽になるが、渦中にある者にとっては地獄である。

ふたたび元芸術部の古谷が語る。

「入信したタカラジェンヌたちに話を聞くと、歌劇団という閉ぎされた空間に長くいたので、宝塚を離れると社会に適合しにくく苦労するという。芸能活動をつづけられるのはひとにぎりだし、結婚生活もうまくいかない。それぞれに悩みがある。それに宝塚は完全なタテ社会ですからね。先輩に座談会(学会でいう集会)などに誘われると断りにくい。その点も折伏するには好都合でした」

昭和47、8年ごろには宝塚の現役、OGふくめて50人ほどの会員がおり、東京・青山で宝塚OGが後輩たちを集めて10人ほどの座談会をしたことがある、と古谷は回想する。

折伏大行進

「宝塚は外から見れば竜宮城のような世界ですけど、生徒はみんな個性が強いし、いじめもあればけんかもあった。みんなライバルですからね。人間としての悩みを打ち明けられる相手は少ない。私は信心していたので、ずいぶん助けられました」

そう語るのは、元タカラジェンヌの但馬久美。切れのいいダンスを見せる男役として『風と共に去りぬ』のアシェレ役などで人気を博した。のちに公明党参議院議員を務める。

ショートヘアにシェイプアップされた身体。白のパンツスタイルがよく似合う。今年60歳を迎えたとは信じられない若々しさだ。ときに関西弁をまじえながら、快活な網子で話す。

「今でこそこんな感じやけど、子どもの頃は人見知りでよう喋らんかったんよ。バレエを習っていて、それだけが心の支えやった」

彼女の話は、「裕福な家庭の子女が集まる宝塚」とのイメージを裏切るものだ。生家は、満州からの引き揚げ者である。軍医から、戦後は勤務医になった父は世渡りが下手で、幼い頃の但馬は京都・明石・神戸と転校を繰り返した。昭和30年前後のこと、回りには貧困家庭が多かった。そんな中でも、母が内職をしてまで但馬をバレエ教室に通わせてくれたのである。

但馬が創価学会に入信したのは、母の勧めだった。

「昭和37年ですから宝塚音楽学校に入ってすぐのことです。病に苦しんだ母が、ひとに勧められて入信したところ回復したのです。それから私と弟、妹が入信しました」

彼女が入信したころ、創価学会では「折伏大行進」のかけ声のもと熱心な布教活動が展開されていた。池田大作が第三代会長に就任した4年後の昭和39年に、学会員は500万世帯を超えたとされる。学会は、「貧・病・争」に悩むよるべない庶民たちを強烈な磁力で吸い寄せていったのである。

宝塚時代は「小文字まり」の芸名で活躍した植田睦子も、やはり父母の勧めで入信した。ちなみに彼女の弟は、現職の公明党参議院議員・弘友和夫である。

「最初は宗教なんて意志の弱い人のやるものだと思っていたんですが、御書(教典)を読んでみると素直に感動できたんです」

再び但馬久美の話に戻ろう。寮で合宿生活を送り厳しい競争に耐える中で、生徒たちはそれぞれ悩みを抱えていた。純粋無垢な彼女たちは、それをうまく昇華することができないでいた。但馬は辛抱強く話を聞き、さりげなく学会への入信を勧めた。昭和58年から61年まで、花組で生徒たちを束ねる「組長」の立場にあったこともプラスに働いたであろう。彼女が在団していたころ、学会に入信した生徒は17人ほどを数えたという。

但馬にとって最高の想い出は、熱心な活動が認められ、「池田(大作)先生」から直接お褒めにあずかったことだった。

「組長に選ばれた時に、池田先生から花束をもらって、『頑張っているね』と励まされたんですよ。とても庶民的なのに威厳のある方です。池田先生を師匠としてあがめていこうと心に決めたんです」

血のにじむようなレッスンを重ねても、周りはライバルだけの宝塚。ようやく目指すダンスをこなせるようになっても、求められるのは「その上」でしかない世界。孤独な戦いをつづけた但馬にかけられた「励まし」の言葉は、他人が想像する以上に胸に染みたのだろう。

「池田先生のために」という想いが、その後の彼女の人生を決定づけていく。昭和63年に宝塚を退団した但馬は、平成7年の参院選に新進党(当時)から出馬、初当選を果たす。その年には宗教法人法改正をめぐって自民党と新進党が激しく対立したが、池田の国会への参考人招致を阻止するために体を張って頑張ったと但馬は自負する。平成13年に議員を引退した後は再び芸能活動に戻り、宝塚OGの公演や自ら企画に参加する人形劇公演の実現に向けて精力的に動きまわる。過剰なほどの彼女のバイタリティーは、本人の言う通り信仰あってのものなのだろう。

政界の舞台への登場

「但馬さんに誘われて、(学会に)入ったのよ。家族には猛反対されて」勘当されちゃったんです」

宝塚時代とまったく変わらない、人を魅了する華やかな顔立ち。クリッとした瞳を見開きつつ、口をとがらせて語るのは、宝塚で但馬と同じ花組の二期後輩だった松あきら(現公明党参議院議員)である。『ベルサイユのばら』などで人気を博し、トップスターの地位に登りつめた。但馬とは対照的に、鉄工関係の会社を営む横浜の富裕な家庭で育った彼女は、悩みとは無縁に思える。だが、「トップと言っても、会社での役職と同じ。辞めてしまえば、『ただの人』なんです。競争の中で心を許して話せる人はいなかったし、但馬さんにすすめられて入信してよかったと思いますよ」

宝塚に入団する女性たちはすべてトップスターを目指している。入団して10年あまりが、その目安と言われる。しかしトップになった途端に考えることは「いつ退団するか」である。その頂点に達したとき、もっとも輝きを放つ瞬間に「惜しまれつつ」去ることが、宝塚歌劇団とフアンの「美学」なのだ。松もトップになった4年後に退団している。

元雪組男役で『エリザベート』の皇太子ルドルフ役などで知られる絵麻緒ゆうは、平成14年にトップになると同時に退団を発表した。記者会見で理由を尋ねられ、「劇団の方針です」と本当のことを漏らしてしまい物議を醸した。

松あきらの場合、退団後は一時家庭に拠り所を求めようとした。東大卒の国際派弁護士・西川知雄(元改革クラブ衆議院議員)と結婚。夫が家に連れてくる東大同級生のエリート官僚たちと話しているうちに政治に興味をもったと言う。

平成7年の参院選で、但馬久美と同時に当選。彼女は「政治活動において宗教色はあまり出したくない」と語る。実際、この時の選挙は公明党ではなく、小沢一郎(新生党代表幹事)と市川雄一(公明党書記長=いずれも当時)の「一・一ライン」によって結成された新進党として戦われた。それは学会にとって、宗教色を薄め、より多くの票を獲得するための戦略だった。

松あきら、但馬久美という二人の元宝塚女優が担ぎ出された狙いは明らかだろう。とりわけ松の「横浜育ちの宝塚女優、夫は国際派弁護士」という華麗な肩書きは、学会色を消すために格好の材料になったはずだ。松の出馬は、市川雄一から打診されたものだった。だが新進党ほ平成9年末に解党。2人は公明党に移った。

宝像出身の公明党女性議員は、颯爽とした男役のごとく、政界の舞台に登場した。それは宝塚と、公明党=創価学会の新たな関係の始まりでもあった。

自公連立への布石

今年4月1日。宝塚大劇場では・「宝塚歌劇90周年記念式典 すみれ花 歳月を重ねて」が華やかに催された。4百人の「生徒」たちが、宝塚の正装である緑の袴をつけてそろった。

会場に集う著名人。その中には宝塚出身国会議員の第一号、扇千景(現参議院議長)がいる。もちろん松あきら、但馬久美の顔も。

ところがそこに、この場にはおよそ場違いと思える男たちの姿があった。「自民党参議院のドン」こと青木幹雄。さらに、同じ参院議員で青木に近い上野公成・前内閣官房副長官(前回選挙で落選)、兵庫選出の自民党参院議員・鴻池祥肇らである。

いったい彼らと宝塚の接点はどこにあったのか。

「平成10年の暮れのことだったと思います。青木さんに呼ばれ、『宝塚が中国公演をやりたがっている。カになってくれないか』と頼まれたんです。なぜ青木さんほどの大物が宝塚のために? と不思議に思いましたよ。宝塚が好きだという話も聞いたことがありませんでしたしね」

今でも当惑気味に振り返るのは、上野公成である。それでも参院のドン・青木の頼みとあれば断れない。翌年正月早々、自民・公明・民主三党の参議院議員10人を引き連れ、中国を訪問した。民主党を入れたのは、「変に勘ぐられないため、超党派の方がいいだろう」(上野)という配慮だった。中国では、胡錦濤・国家副主席(現在は中国共産党総書記)直々の出迎えで、大変な歓待を受けた。この訪中で、宝塚中国公演の実現は事実上決まったのである。

上野の下で、中国公演実現のための「実働部隊」となったのが、NHK芸能ディレクター出身で旧橋本派参議院議員の田村公平、前公明党参議院議員の益田洋介、そして但馬久美の三人である。

ここで注意を喚起しておきたいのは、この時点ではまだ自公連立は成立しておらず、公明党は「野党」に過ぎなかったということである。

公明党の益田洋介は話す。「公明党と自民党は平成7年の宗教法人法をめぐって対立もありましたから、学会と縁の深い宝塚を応援するのほ関係を修復するには絶好のチャンス。宝塚ならイメージもいいし、学会の婦人部にあった自民党へのアレルギーを払拭するのに丁度いい、と青木さんが判断したんじゃないですかね。私も参加した中国訪問団の費用は自民党が用意してくれた」

平成10年7月の参院選で44議席という自民党の惨敗を受け、橋本龍太郎の後継総理になった小渕恵三は少数与党ゆえの不安定な政権運営を強いられていた。そして小渕と同じ派閥の青木幹雄が、上野公成に宝塚中国公演への支援を指示したのは、まさにこの平成10年の年末のことなのだ。益田の話が正しいとするなら、青木はこの時期からすでに公明党との連立を思い描き、その布石として宝塚を利用したことになる。

自民党の田村公平も証言する。

「その頃は小渕首相が政権の安定のために公明党との連立を盛んに言っていた時期です。宝塚の中国公演を自民・公明が協力して実現させれば、それは自公連立のひとつの象徴になるという意図があったと思いますよ」

二回にわたって行われた宝塚中国公演の第1回目は、平成11年10月28日、日本の無償援助で建てられた「世紀戯院」で盛大に幕を開けた。上野公成らが訪中してからわずか10ヵ月あまりの、共産国家とは思えないスピーディーな実現だった。

月組から選抜された40人のメンバーが、華麗なるレビューを披露。最高で1万2千円という中国の物価水準からすると途轍(とてつ)もない価格にもかかわらず、千七百席あまりの客席は満員になった。公演のパンフレットには、江沢民国家主席と、小渕首相が揃ってメッセージを寄せた。

そしてちょうど同じ頃ー。東京では小渕と神崎武法公明党代表が固い握手を交わし、自民・自由・公明の三党連立が発足していたのである。

学会と中国の関係

ところで、上野が聞いた「宝塚が中国公演をやりたがっている」という青木幹雄の言葉とは裏腹に、歌劇団側は当初さほど乗り気ではなかった節がある。

最大のネックは採算面だ。大掛かりな舞台装置を空輸する費用や、団員やスタッフの旅費・滞在費がかかる。たとえ日本並の料金をとっても、わずか数日の公演ではコストを回収できない。

そのため上野が働きかけ、外務省の外郭団体である国際交流基金はじめ政府系機関から計八千万円以上の助成金を集めた。さらにはトヨタやNTTなど静々たる企業もスポンサーになってくれた。

それでもなお問題が残った。宝塚歌劇団の公演スケジュールは、常に2〜3年先まで決まっている。急に中国公演が決まっても対応できないのだ。

再び上野の話。

「私と但馬さんで宝塚に行って頭を下げ、ちょうど練習期間で空いていた『月組』を借りることができたんです」

いっぽうの但馬久美は得意げに言う。

「公明党は文化芸術政策を充実せよと主張してきました。宝塚中国公演は、自民党とカを合わせたから実現できた。大成功でした。私、宝塚にも感謝されていますよ。あの公演をきっかけに宝塚と中国の繋がりも出来ました。宝塚の衣装は今、中国で作っているものもあるんですよ。三分の一、なかには十分の一の値段で出来るものもあるのよ」

2人の話を総合すれば、中国公演を望んだのは宝塚ではなく、むしろ学会=公明党の側で、そこに公明党とのパイプ作りを期待した自民党の思惑が合致したと見る方が自然だろう。

ではなぜ公演の場所に中国が選ばれたのだろうか。

創価学会にとって中国は「特別な国」である。『聖教新聞』には池田大作・創価学会名誉会長と中国との深く熱い絆を物語る記事が頻繁に掲載されている。

両者の友好関係は昭和30年代なかばにさかのぼる。前述のように、このころ創価学会は急速に勢力を拡大しつつあった。中国の周恩来首相は、そのパワーに注目していた。日本の高速道路とともに、創価学会の実態について調査するよう側近に指示。これを受けて昭和38年、創価学会を調査した冊子が発行されている(南開大学周恩来研究センター著『周恩来と池田大作』などによる)。

当時、日本共産党と創価学会は激しく対立していた。高度経済成長により都市に大量に流入した低所得層をどちらが多く獲得するかという争いだったのである。だが、革命のロマンより現世利益こそを求める労働者階級の心性を知り抜いていた周恩来は、日本において最終的に勝利するのは、共産党ではなく、創価学会だといち早く見抜いた。中国共産党の言う「人民」と創価学会の言う「庶民」は、実は同義語だった。

そして、経済的に不可避な日本との結びつきを深めるため、創価学会とパートナーシップを結び、日中国交回復を実現する日本の世論づくりをはかったのである。それが、したたかで現実的ぽ中国の指導者の判断だった。

昭和47年、竹入義勝委員長ら公明党議員団が訪中。周恩来の国交正常化の条件を持ち帰る。この訪中は、田中角栄の密命を帯びていた。田中はそれ以前に、”言論論出版妨害事件″で世論の指弾を浴びた学会を陰に陽に支えることでパイプを築いていたのである。今日に至る自公連立はこのとき芽吹いていたといえる。その2カ月後、田中の電撃的な訪中により日中共同声明が調印され、国交は正常化する。

池田大作は昭和49年以来、たびたび中国を訪問し周恩来、ケ小平、江沢民、李鵬ら指導者との会見を重ねている。周恩来から贈られた桜の木は今も創価大学構内で大切に育てられている。その仁義を守ってのことか、世界中で布教活動にいそしむ創価学会が、中国国内では一切布教活動を行っていない。

但馬はそのような池田と中国との縁をよく知っていたからこそ、宝塚の中国公演を積極的に働きかけたのではなかったか。中国公演は平成14年にも、北京・上海・広州の三カ所で行われた。この時中国に赴いた青木幹雄、但馬久美一行は、北京・釣魚台(ちょうぎょだい)の迎賓館に宿泊、李鵬全人代委員長らの歓待を受けている。

青木幹雄の思惑

「私が宝塚を応援しているなんて一番似合わないと、みんなに笑われるんですわ」

青木幹雄はチェリーの紫煙をたなびかせながら破顔一笑した。参院選に敗北したにもかかわらず、自民党参院幹事長から議員会長に「昇格」。最高実力者の地位を固めるその表情は、自信に満ちていた。

− 中国公演を応援したのは、公明党との連立を睨んだからではないですか?

「そういう政治的なものじゃありません。但馬さんか松さんから頼まれたのが、はじまりじゃなかったかな。宝塚出身の参議院議員が増えてきたし、同じ参議院の仲間としてみんなで楽しく応援しようや、ということで、純粋な動機からですよ。宝塚は日本を代表する文化だから、もっと国が支援すべきだと思いますね。それで上野さんにお願いして、動いてもらったんです。

もともと宝塚は、桜内義雄さん(元衆院議長・故人)や原田意さん (元運輸相・故人)などが熱心なフアンで、『愛宝会』という後援会をやっておったわね。ただその2人が引退してしまい、政界で誰も宝塚の面倒を見る者がおらなくなってしまった。とくに桜内さんは島根の同郷だからね。引退する前にも『宝塚のことをくれぐれもよろしく』と頼まれた。だから、応援しないわけにはいかんわね」

青木は桜内との同郷の誼″を強調する。好々爺然とした風貌ながら、こちらの質問を周到にはぐらかす彼の言葉を素直には受け取れない。いま青木は「宝塚を応援する参議院議員の会」の会長を務めている。メンバーは前出の上野公成、鴻池祥肇、松あきらなどに加え、島根県選出の参議院議員で青木の側近である景山俊太郎など、自民・公明・民主の30人ほど。

再び青木が語る。

「選挙に利用したりして、宝塚に迷惑をかけるようなことは一切しないと申し合わせています。月1万円の会費制で、それを年2回の宝塚観劇の切符代と、終わった後の懇親会の費用に充てている。懇親会には宝塚の女優さんや、小林公平さん(宝塚音楽学校校長・元阪急電鉄会長)も顔を出しますね」

− 好きな女優は誰ですか? どの芝居が印象に残りました?

「さあ、覚えとらんわね。宝塚には島根出身の子は一人もおらんしね」

女性たちに埋め尽くされた宝塚劇場の最前列で、ダークスーツの国会議員たちが固まって観劇する。滑稽というよりグロテスクな光景である。

かつて新進党は、宝塚出身の松あきらや但馬久美を議員に擁立することでソフト・イメージを演出した。今度は、青木ら自民党が、学会と縁の深い宝塚を自公連立の接着剤として巧妙に利用しているのである。

もともと公明党は実現したい政策があるようでない、ヌエのような政党だ。「平和の党」を標模しながら、イラクヘの自衛隊派遣に賛成する。「弱者の味方」と言いながら、将来の負担増を強いる年金法案も鵜呑みにした。だがさすがにここに来て、創価学会の中にも公明党の自民党へのあまりの従順さに疑問が生じてきたという。

ある学会関係者も次のように話す。「とくに婦人部には、自民党との連立に疑問を呈する声が強い。変な話ですが、自民党議員が宝塚を応援してくれるのは、そのガス抜き″になるんですよ。『あの頭の固い自民党議員の中にも、文化・芸術を理解する人はいるのね』というわけです。『文化・芸術に力を入れる』というのは、創価学会の大きな柱の一つですからね」

また別の学会中堅幹部は、自公連立が5年近く続いている理由を、「親和性」というキーワードを使って説明してぐれた。

「確かに公明党と自民党じゃ政策に距離もありますが、かたやドブ板選挙、かたや地域の学会員廻りをしていて、目線が低い。現実主義的な分、融通無碍にならざるを得ないところが似ている。民主党は、風頼りで当選した理想主義者ばかりで肌が合わないんですよ」

連立を組んでから、自民党と公明党の議員は頻繁に酒席を共にするようになった。肌身のつきあいを続けるうち、お互いの強みも弱みも知り尽くすようになる。両者の親和性をより高める上で、宝塚も格好の「社交場」となっているのだ。

宝塚歌劇は、もともと何もなかった箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の終点に客を呼ぶ、というミもフタもない商業的要請によって作られた。小林一三身、「温泉場の余興として生まれた」(『逸翁-自叙伝』)と書いている

関西の政財界人が宝塚見物を口実に集まり、芝居がハネた後は宴席に歌劇団員をはべらせ密談にふけるという光景も珍しくなかったのである。その出自からすれば、いまタカラジェンヌたちが、自公連立の絆に使われているのも、けつして不思議ではない。

「乙女の花園」も、下界とはけして無縁ではいられないのだ。

平成九年、宝塚歌劇団は大きな転換点を迎えようとしていた。バブル豊時の不動産投資で多額の負債を抱えた親会社の阪急電鉄が、それまで「道楽娘」として扱っていた歌劇団に独立採算を求めるようになったのである。

経営改革の立役者となったのは、植田紳爾(現・歌劇団特別顧問)である。『ベルサイユのばら』の脚本家・演出家として知られる植田は、ビジネスセンスにも恵まれていた。前年には、小林一三の係累が務めるのが通例だった歌劇団理事長に、生え抜きとしてはじめて就任した。
 植田は矢継ぎ早に宝塚の拡大戦略を打ち出してゆく。平成9年にはそれまでの花・月・雪・星の四組に加え、新たに「宙組」を創設。また東京宝塚劇場を建て直し、平成13年には新東京宝塚劇場がオープンじた。旧東京宝塚劇場では1年のうち7ヵ月しか歌劇団の公演が行えなかったが、組が増えたことで通年興行が可能になったのである。

植田が理事長になってから歌劇事業の売り上げははじめて2百億円を突破、その後も順調に推移し、年間250万人の観客動員をキープしている。そして、前述の宝塚中国公演が自民・公明両党の力によって実現したのは、こうした植田の拡大戦略がすすめられた時期にピタリと一致するのである。

宝塚の拡大戦略

「2500人の大劇場を一杯にすること。それが僕の使命だと考えて40年以上やってきた。いくら作品がよくても席が埋まらなければどうしようもない」

植田紳爾はやや甲高い声で語りだした。いま70歳を超えるこの老紳士は、昭和32年、早稲田大学を卒業した翌年に歌劇団に入団してからずっと「乙女の花園」に生き続けてせた。当時の宝塚大劇場の2階席、3階席ほガラガラの状況で、その屈辱の思いが今でも自らを突き動かしていると言う。そのためには、生徒の憎まれ役になることもいとわない。

「大きな羽根を背負って大階段を降りてくるスターは、客席を満員にする責任をになっているんです。それが出来ない子は、本人が傷つく前に辞めてもらうしかありません」

生徒の中に学会員がいることについては、

「そんなことまでいちいち知りませんし、立ち入ろうとは思いませんね。そういえば昭和40年代頃には、PL教団の教祖様が統制のとれた宝塚は素晴らしいのでぜひ信者を預けたい、と集団で音楽学校を受験させ、彼女たち専用の寮までつくったほどです。

生徒だって人間だから、色々な背景をもっているでしょう。でも、そういう影をお客さんに見せてしまう生徒は、去っていくしかないんです。お客さんが見たいのはいつも『清く正しく美しく』の宝塚の夢なんですから」

宝塚歌劇団の自前の劇場は、宝塚大劇場(定員2500人)と東京宝塚劇場(定員2069人)のふたつである。毎日その2つの劇場を埋めることだけでも至難の業なのに、植田の時代になってから地方公演もどんどん増やし始めた。そのため、歌劇団は団体鍍賞を積極的に誘致しようとしている。

創価学会の傘下には、会員を対象にしたチケット・センター「民音(民主音楽協会)」が存在する。

「民音は『良質な音l楽を低料金で民音会員に提供する』という趣旨で、1963年に設立されました。会員の皆様へのサービスの一環として、1968年頃より演劇・映画のチケットの取扱いが開始されました。当時の東京宝塚劇場とのチケット取扱いについてもこの頃に開始されました」(民音・広報宣伝本部)

民音を通すと、通常8千円(東京)のS席チケットが7千8百円で買える。安定した集客が見込める民音会員は、宝塚にとっても有難い客であろう。

大阪の下町に住む元学会員も、民音からのチケットで宝塚を何度か楽しんだという。

「夢の世界でぼーつとしたわ。民音のチケットは、学会の地区担当から買ってくれ、買ってくれとしつこく頼まれるので、たまにおつきあいで買うことがありました。その役員もチケットをさばかないと困るみたいだし、もちつもたれつ。そのへんの人間関係の呼吸は学会員ならみんなわかっている。イタリアのオペラやバレエも観たわねえ。意味はよくわからなかったけれど、庶民には遠い芸術に触れられるのも学会のおかげと感謝したものよ」

かつて宝塚は「貧しい創価学会員」のイメージがつくのを敬遠した。しかし日本全体が豊かになるのと同時に、学会員も裕福になった。今や宝塚は手の届く娯楽になったのである。生活に満足するにつれて学会員は安定を求め「保守化」した。だからこそ公明党が自民党と連立を組める時代になったと言える。

創価学会に宝塚歌劇団に対する重点的な折伏や、中国公演のバックアップなどを行ったかどうか尋ねた。

「当会として、そのようなことを行ったことはありません。宝塚歌劇団に学会員がいたとしても、その方を特別扱いすることはありません。また宝塚に限らず、商業目的の会社・団体を組織として支援することもありません」(広報室)

だが、最近まで在籍していた元タカラジェンヌはこう言う。

「『学会に入ればチケットを買ってくれるよ』と勧誘された後輩がいました。生徒はチケット販売のノルマを課されているわけではありませんが、経営サイドは『どの子が客を呼べるか』とシビアに見ていますからね。役にも直結します。だから宝塚にいる間だけ、創価学会に入っていた子もいるそうです」

名もなき女たちのスター

さて、この宝塚と創価学会をめぐる女たちの奇妙な物語を閉じる前に、もういちど但馬久美の言葉を振り返ってみよう。

彼女の池田大作への崇拝の原点は、「頑張ったことを認めてくれた」という一点に尽きる。

人は大人になるにしたがって励まされることも褒められることも少なくなる。激しい競争の中でいくら頑張っても、「できて当たり前」になる。

宝塚という華やかな場所にいた但馬でさえ、そうした寂しさと無縁ではなかった。ましてスポットライトを浴びることのない多くの名もなき女たちは、賞賛の言葉とは一生無縁の生活を送る。恋人も夫になったとたん彼女たちには無関心になり、社会から切り離された孤独感だけを募らせていく。

そんなとき、「よく頑張ったね」「すごいよ」という池田のなにげない一言は、彼女たちの乾いた心に深くしみわたっていくことだろう。私の会った何人かの元婦人部員たちは、脱会した今なお、池田に対する想いを目を輝かせながら語った。「先生を喜ばせるためなら、選挙の時に票を集めるのはちっとも苦じゃなかったわ。私、五百票を動かしていたのよ」

そのうちの一人は、驚くような比喩を口にした。

「池田会長は学会の婦人部員にとっては、憧れのヨン様のような存在なんです。池田会長はショートカットの女性が好きらしいと聞くと、婦人部員はみんなショートカットにするくらい」

ペ・ヨンジュンと池田大作のどごが似ていものか、と突っ込むのは野暮な話だ。むしろでっぷりとした体躯と村夫子然とした風貌こそ、懐かしい「父性」を感じさせてくれる。そう、学会婦人部にとっての池田大作は、気乗りしない日常にメリハリをつける「娯楽」なのだ。

それはまた、宝塚の男役に熱狂する女たちの心情とも重なる。

前出の植田紳爾は、女性作家が原作を書いた『ベルサイユのばら』と『風と共に去りぬ』の演出を手がけたことで女性心理に開眼したという。この2つの作品が作った歴代観客動員1位、2位のレコードは今でも破られることがない。

「男の僕だったらあんな甘いセリフ、恥ずかしくてよう言えない。でも、『これだ!』と思いましたね。現実にはありえないセリフとわかっていても、女のひとは常に耳元で優しいことばを囁いて欲しいものなんですよ。その落差にこそ宝塚の人気の秘密がある」

世間がどんなに俗悪だと非難しようと、彼女たちは耳を貸さない。むしろ批判されればされるほど燃え、結束力が高まるという点で、学会員と宝塚フアンはうりふたつである。

舞台がハネれば夢は終わる。その一瞬の慰安を、「現実逃避」だと噂うのはたやすい。だが、彼女たちは退屈な現実など最初から見たくないのである。(文中敬称略)

Copyright(C)2002- 「日本専門」情報機関(日本の情報の収集と保存)