Make your own free website on Tripod.com

連続特集 崩壊する創価学会

(「月刊ペン」1976年5月号P28)

室生忠(むろお・ただし) 〈ルポ・ライター〉

学会を滅ぼす池田本仏のスキャンダル

ロッキード事件の児玉誉士夫と創価学会。この隠された関係をはじめ、スキャンダルにおびえ続ける学会と池田大作の内実を暴露し、創価学会崩壊の命運と末路を暗示する。

池田が頭を下げた4人の人物

「共・創和解」の工作について、池田とその若手側近団の敗北が決定的になった、昨年(昭和50年)9月、積極的に流された、興味あるひとつの情報があった。

「共・創和解の不始末について、池田は4人の人物に頭を下げ、陳謝した」というものである。4人の人物としては、秋谷栄之助副会長、矢野絢也公明党書記長、中西治雄秘書室長、塚本素山・塚本総業社長の名前があげられた。はたして池田が、本当にこの4人に陳謝したか否かは定かではない。しかしこの情報は、創価学会の性格づけをめぐって、当時池田と、池田と対立した勢カと、両者のカ関係を正確に表明している。

何故、秋谷、矢野、中西らの名前が出てくるのか、その理由についてはこの連載が繰り返し述べてきた。秋谷は反共・反日共に固執する、戸田門下生団の代表格しての、表・創価学会のリーダーであり、中西は裏・創価学会のリーダーである。さらに矢野は、秋谷、中西と連合を組み、共産党との対決路線を押し進める、公明党と学会のパイプ役である。

緊張緩和(デタント)を志向し、日共との和解をすすめた池田とその若手門下団は、学会の支配権を賭けて彼らと闘い、彼ら戸田門下団の強固な反共意識と結束の前に敗れ去ったのである。

元学会顧問塚本素山

では残る一人、塚本素山とは何者なのか。注意深い読者なら、その名前が最近の新聞、雑誌にたびたび登揚する名前であることに気づかれるに違いない。ロッキード事件の主役、児玉誉土夫の事務所がある、東京・銀座の塚本素山ビルの持ち主がその人物である。塚本総業本杜も、そのビルの中にある。

塚本素山、本名塚本清。明治40年9月1日生まれ、68歳。千葉県出身、昭和10年陸士卒組で、陸軍少佐東部軍、司令官田中静萱大将の専属副官として終戦を迎えた。復員して実業界入りを果たし、昭和31年日鉄中央機械、日新興業、日新実業をまとめて塚本総業を設立し、その代表取締役に就任。

塚本総業は、鋼材、建材、燃料、機械の販売と不動産業などを営業種目とする、非上場会杜。株式の97・3%は塚本素山の持ち株である、完全な個人会社である。全国に11店の支店を持ち、日本製鉄、住友金属、大和製鋼、久保田鉄工、石川島播磨重工などと取引を行なっている。塚本総業に加えて塚本は、塚本不動産、八盛興業各社長。日新興業、大和通運各会長。日本カーフェリー、ニューナラヤ各取締役などを兼任。押しも押されぬ、財界の顔役の一人だという。
 この塚本が、激しい反共思想の持ち主であり、日蓮正宗・創価学会の有カな信者だった。誰に聞いても即座に「塚本は腹のすわった国家主義者、筋金入りの反共主義者だ」という答えがはね返ってくる。立身三京流居合術の免許皆伝、日本刀美術館長。塚本と学会のつながりは、二代会長戸田城聖の時代にまでさかのぼるといわれ、戸田の激しい反共意識と相呼応する戸田門下団、つまり壮年部の代表的信者として位置づけられていたのだった。

塚本の学会内における地位が、並々ならぬものであることは、かつて彼が創価学会・顧問の地位にあったことによってもうかがえる。昭和36年、第三代会長池田は「学会の基盤をより強固なものにする」という名目のもとに、顧問制度を創設し、この顧問に法華講連合会初代会長平択益吉(故人)、戸田城聖の遺児戸田喬久(三菱銀行勤務)、そして塚本の3人を就任させた。
 事実、塚本は顧問の肩書をもって、たびたび学会本部幹部会にも出席し、「池田先生につき従って信心を」と指導した。正本堂供養にも大口で参加し、「億単位の供養者、5人のうちの1人」といわれたのである。塚本を顧問にすえることによって、池田は塚本の財力を最大限に利用するとともに、彼をパイプ役として、前号で詳述した池田の経済活動、財界進出への布石作りを行なったといえるだろう。

しかしこの顧問制度は、いつのまにか廃止されることになる。一説では、昭和44年から45年にかけて発生した「言論問題」のさなか、後述する塚本の“死の商人”性が噂され、これを恐れて池田は、顧問制度を廃止するという形で塚本との縁を切ったという。このために池田と塚本の関係は、感情的にもスムーズにいってはいないといわれるわけだが、しかし仮にそうであっても、塚本が現在でも学会壮年部の有力な信者であり、強烈な反共主義の持ち主であることに変わりはなかった。

共・創和解について、池田が塚本に頭を下げたという話は、そのまま池田が壮年部総裁の反共意識に屈服せざるを得なかった、両者の力関係を如実に示す説話になっている。

児玉誉士夫と学会のつながり

だが、塚本の名前に触れることは、従来一種のタブーとされてきた。何か不気味なカと雰囲気を彼は持っていたらしい。学会会員には多くの財界人がいる。戸田順之助・戸田建設社長、本間嘉平・大成建設会長、堀田光雄・富士急行社長、中川一郎・東洋キャリア会長その他。これらの財界人会員については、多くの学会系資料が触れている。しかし学会顧問の地位にまで就いたにもかかわらず、塚本総業社長・塚本素山については、その名前すら見あたらないのだ。

彼の略歴については前述した。しかし一復員少佐が、いかにして財界の顔役にまでのしあがれたのか、謎は多い。共産党情情報通にいわせれば、彼は“死の商人”なのだという。「彼は小佐野賢治、児玉らと並ぶ日本の黒幕の一人です。現在、赤旗に連載中の『日本の黒幕、小佐野賢治』が終ったら、次は素山がやられる番になっています」という。

さらに、共産党の対極にいる、公安関係者らも「彼は朝鮮戦争、ベトナム戦争によって財をなした。米軍から、型が古くなっただけでまだ新品同様に使える武器、車両などの軍需物資を、スクラップとして払い下げを受け、それを分解して韓国、南ベトナムなどに輸出した。もちろん現地で組みたてられ、新品同様の武器になるわけだ。彼は韓国ロビ一ストの中でも切れ者です」と語る。 これらの話の具体的な内容、活動の全容は、戦後経済裏面史として、やがて明らかにされることもあるだろう。しかしここで重要なことは、こうした活動の過程で塚本が日本の政・財界、そして社会の深層に流れるある特殊な勢力、カと提携していったことだった^今回のロッキード事件で、図らずもその一端が暴露された、児玉誉士夫との親交もそのひとつである。塚本の持っていた不気味な力、タブー性はそうした特殊な人脈によっていた。

児玉の政・財界、右翼、暴カ団との相関図は、ロッキード事件の解明過程で多く明らかにされているし、紙面の都合もあって割愛する。しかし塚本が日本の闇のカの近くにおり、塚本を通して児玉が学会にまでつながっていたのは、隠れもない事実だった。このことが重要なのである。池田は単に財界人としての塚本を利用したのではなかった。日本の黒幕、顔役として塚本を利用し、社会の裏面にまでとどくパイプ作りの布石としたのである。

現在では学会は、児玉と直接に深い触接をとりあう関係にまで入っている。ロッキード事件が発生する以前、昨年(昭和50年)中に、北条浩理事長が児玉邸に出入りしていたことは周知の事実である。さらに児玉が49年9月、脳血栓で倒れて以来自宅療養している間に、児玉邸の居間にあった「創価学会」の名前入りの、見舞い果物籠を目撃している人物も実在する。

塚本素山は、単なる学会壮年部信者の象徴ではなかった。学会信者の持つ反共意識の、単なる具人化でもなかった。10年協定をめぐって、何故塚本の動きがとりざたされるのか。何故学会は児玉とつながらなければならなかったか。あるいは後述するように、児玉を通じて元日大会頭・古田重二良(故人)に、また岸信介に何故つながらなければならなかったのか。そこには学会の性格をめぐる、さらに深い、重要な意味が隠されていたのである。

学会の“反共の砦”化構想

まず結論を先にいおう。児玉、塚本ら日本の右翼指導者たちにとって、創価学会は日本民族の意識の、反共の砦のひとつとして位置づけられていたのである。

児玉は日蓮宗大本山・池上本門寺の檀家総代の一人に列している。児玉の他に永田雅一・元大映社長、萩原吉太郎・北炭会長らも顔をそろえているが、日蓮宗は創価学会(日蓮正宗{しょうしゅう})とは教義的には対立する。たとえば日蓮の意義づけについても、日蓮宗が「日蓮大菩薩」と称して「菩薩」の位置づけを行なっているのに対して、創価学会は「日蓮大聖人」とよび、日蓮を最高位の「末法の本仏」とみるのである。

児玉はその日蓮宗の檀家総代であり、塚本は学会の願問だった。宗教的信条において異るこの2人は、にもかかわらず手を結んだ。宗教的次元で提携したのではなく、反共という思想的次元において提携したのである。つまり日蓮宗、日蓮正宗を含む、日本の全宗教団を動員して、反共の砦として育成することを考えたのだった。

国際勝共連合の黒幕の一人といわれた人物に、元日大会頭・古田重二良(故人)がいる。言論妨害事件のおり、古田は必死になって学会防衛にあたった。「古書を焼く」という名目のもとに、警察、消防署の許可をとり、学会批判書のすべてを集めて、日大グランドで焚書まで行なった。彼は右翼指導者として、学会をつぶしたくなかったのである。

事実、彼は社団法人・宗教センター(現在は崩壊している)を設立し、執拗に反共ラインの建設を試みた。仏教系、神道系を問わず、日本国中のすべての教団、神社、仏閣を大同団結させ「共産主義との対決」にかりたてることをもくろんだのである。この構想は学会と、学会によって邪宗攻撃された他教団の間の握手がなされぬままに挫折するが、この古田の背後には児玉がいた。児玉と古田はじっ懇の間柄で、昭44年のはじめに発生した、日大脱税事件のもみ消しに、児玉が暗躍したと現在でも噂されているのもその例だ。

つまり創価学会が団体の特性としてもつ「反共性、反日共性」は、単に学会員総体の中にある、意識の集約によってのみ生まれたものではなかったのだ。一宗教団体としての傾向、範囲を越えて、さらに広い視野から日本の政治、経済、社会を貫徹する宗教以外の価値観、つまり政治的思想によって、あらかじめ以前から学会に与えられた特性でもあったのである。この“反共の砦”としての性格作りに二代会長戸田城聖もペテン師として参加した。話は終戦直後に遡る。

昭和21年当時、戸田は獄死した初代会長牧口常三郎に代って学会の指揮をとっていた。彼はこの頃、日本婦人新聞の社長、松崎弥造なる人物と組んで、GHQ・マ司令部から新聞用紙の割当を受ける。当時の新聞雑誌の用紙割当は、政府の用紙割当委員会が民間の窓口となり、GHQが最終的に決定することになっていた。さらにGHQ内部では、G2(参謀部第二部・作戦部)直属のCIC(軍諜報部隊)がこの種の情報担当を行なっていた。

当時G2はGHQ内部でGS(総司令部民政局)と苛烈な闘争を展開中で、日本を強固な反共国家に育成しようと画策していた。こうした背景のもとで、CICに対して戸田は自ら反共姿勢を明らかにし、日本帰人新聞を舞台に「反共活動を行なう」という約束のもとに、多量の用紙割当の獲得に成功した。しかし戸田はこれを私し、ヤミに流してボロ儲けをするという重大事件を引き起こしたのである。もっとも、戸田が一貫して反共思想の持ち主であったのは事実であり、特に岸信介に接近を図る。「社会党と共産党をおさえていける人は、岸先生しかいない」と語ったという戸田の言葉は、そのまま学会の性格をも如実に物語っている。

つまり塚本素山という名前は、学会内壮年部の会員の象徴であると同時に、学会外の、しかも社会の深層部分に流れる、右翼指導部の学会に対する圧カの象徴でもあったのだ。

ロッキード醜聞にも脅える池田

池田が共・創和解に踏み切ったことが、いかに重大なことであったかが理解されるだろう。そして何故学会内反共派に極秘を保ったまま、和解工作が進められたかが理解されるだろう。共・創和解が学会内壮年部の強固な反共意識を刺激すると同時に、学会外にあっても学会をまきこんでいる、社会の根強い、旧態たる反共勢カをも刺激することが目に見えていたからである。

池田は学会の支配権を賭けて、学会の内外からシガラミのように束縛してくる保守の手、保守の泥沼から離脱を希求した。田中金脈問題の広がりのなかで、保守の腐敗が暴露されそうになった時、追及の手が学会に延びる前に、彼らとの縁を切っておきたかったのである。だが池田は、その保守の手によって再び引きもどされた。池田の敗北は以前にも増して激しいオールドパワーの台頭、学会の右旋回を許す結果に終ったのである。

しかしその直後、皮肉な社会情勢の激変が再び発生した。ロッキード問題である。このスキャンダルは田中金脈問題以上の激しさで、現在、保守の土台を揺り動かしている。推移を見守る池田の胸中は、複雑なものがあるだろう。池田が好んで手を入れるという聖教新聞『寸鉄』もさまざまに、この事件を扱っている。

「疑惑の児玉邸から脱税の有カ証拠。豪勢な財産も瞬時に色あせる。心の財は絶対に色あせない」「児玉、臨床尋問。“病める怪物”にも啓蟄(けいちつ)の“時”。30年の疑惑解明へ一歩も引くな」「現時点で選挙すれば保革逆転と世論調査。その時流 ― 断じて“75日”に終らせるな」等々。

十年協定問題の時、児玉は健在だった。まだ誰も手を触れることのできない存在だった。しかしロッキード醜聞は、巨大な外圧によって児玉、つまり旧保守体制を、音をたてて崩壊させようとしている。この時、学会内若手容共派によって、再びまきかえしが成功するか、反対に危機意識を持った反共派の結束がより強固になるか、それは予断を許さない。

ただはっきりいえることは、池田がある種の“脅え”をもってこの事件の推移を見守っていることだろう。何故ならロッキード事件は、学会にとって“第2の田中問題”だった。

今後保守の泥沼の、水のかい出しがさらに進み、いつか追及の手が学会にまで及んでくる可能性は、否定できないからである。

国際謀略にも使われる学会スキャンダル

組織活動の観点から見た場合、宗教団体としての特性は、両刃の剣である。政治団体等の持ち得ない有効な特性を持つ反面、非常に脆弱(ぜいじゃく)な部分をあわせ持っている。有効な部分とは、宗教団体の活動という看板を前面に押し出すことによって、主義主張を超越した透明なイメージを、対象に与え得る特性だろう。

一方もろい部分とは、スキャンダル、特に男女の問題に対する極端な抵抗力のなさである。宗教団体であり透明なイメージを持つ反面、それ故にスキャンダルは許されない。十年協定交渉に際して、創・共の仲介役を果たしていた松本清張が、次のように語っているのはその意味で特に興味深い。

「(池田会長と会うと)いつもこちらが恐縮するくらい謙虚な態度なのである。あれくらいになると年齢的にも倨傲になりがちだが、池田さんにはみじんもそれがない。絶えず自戒されているからだろう。陥れようとする勢カが多いので、スキを与えぬよう身辺や環境にはとくに配慮しているという話だった。池田さんの寂しさは、組織上の絶対の人がそうであるように、その孤独にあるのではなかろうか……」

疑似カリスマ池田も、組織末端、外部に対しては“絶対の存在”を維持しなければならない。会長のスキャンダルは、公称765万世帯会員組織を、一瞬にして崩壊させるだろう。つまりスキャンダルは、共産党と肩を並べる組織にまで成長し、日本の政治、経済、社会の動行を左右し得るカまで獲得した学会の、死命を制する、謀略の決めてにもなり得るのである。

池田が共産党との和解を決意したのは、共産党筋にスキャンダルを握られ、その恫喝(どうかつ)に屈したからだという見方が、あながち荒唐無稽(高等むけい)ともいいきれないのはそのためだ。さらに最近盛んに流されている情報に、ソ連訪問の際、池田はソ連女性との情事をKGB(ソビエト保安部)におさえられていたという説がある。またKGBではなく、アメリカでCIA(米中央情報局)に情事をおさえられ、寝言まで収録されて日本の政界再編を狙う彼らの子飼にされた、とまでいう者すらいる。それらの話の真偽のほどはともかく、学会があらゆる勢カから狙われる存在であり、スキャンダルがその狙い目のキーポイントのひとつになっていることに、間違いはありえない。

スキャンダルに神経過敏になる池田

学会二代会長・戸田城聖が、性的羞恥心を欠落させていたのは事実だった。一種異様な露出癖を持っていたようだ。夏になるとフンドシ一本の素裸になって、若い女性信者にうちわで、フンドシの中まであおがせていたという話もそうだが、さらに次のような、ある教師の残した証言もある。

「昭和20年、戸田が豊多摩刑務所から出獄した時のことでした。何かの用事があって戸田の家を訪ねたのです。呼んでもなかなか出てこない。そのうち『あがれよ』という答えがあったので、あがってフスマをあけてみると、戸田が女性と同衾(どうきん)しているではありませんか。驚いて『後で出直してくる』といったのですが、戸田は平気で『いいよ、そのままでいいよ』と話しつづけたのです」

自分の二号についても、戸田は広言してはばからなかった。幾子夫人の他に、二人の第二号夫人がいたことは、当時から学会幹部の間では公認された事実だった。戸田は大蔵商事なる金融会社を営んでいたが、そこに一人を専務理事として送りこみ、指揮をとらせた。その女性は、かつて戸田が中学の受験雑誌の出版業をしていた時習学館時代に、幾子夫人と机を並べていた同僚同士だったのである。

その大蔵商事に、若き日の池田がもう一人の専務理事として出入りしていたわけだが、それはともかく、こうした戸田の性質は良くいえば豪放磊落(らいらく)だった。功成り名を遂げた、事業家の持つ神話としてはふさわしい。だが、一人の宗教家として、しかも世界一の仏法を奉じるという教団の会長として、このようなエピソードを残したことは致命的な汚辱である。戸田自らの汚辱であると同時に、創価学会という宗教団体の命運をいずれは決定する汚辱であることに間違いはない。

戸田時代、学会に対して“淫祠邪教(いんしじゃきょう)”という攻撃が、他宗教からなされたのもそのためだった。さらに会長のそうしたスキャンダルは、必然的に会員内部の、男女関係の乱れをも招く結果になった。昭和30年代、戸田が死ぬまで続けられた大石寺宿坊での男女関係の乱脈を、いまだに懐しく語る老会員もいるほどである。

ここでいいたいことは、外部からひとつの教団を攻撃する場合、最も有効なウィークポイントになるのがスキャンダルだということ、そして学会がそのスキャンダルに身から出た錆(さび)として昔から苦しんできたということだ。

松本清張の言葉が示すように、戸田と違って第三代会長池田は慎重に行動しているようだ。この2、3年海外旅行を行なう場合、かね子夫人同伴で出かけていくのも、海外での女性問題をいわれぬための用心深さだと指摘されている。もっとも、これについても異説があって、「池田は時々異常な発作を起こし、側近同行の者にあたりちらす。夫人の同伴は、そういう池田の発作を鎮めるためだ」ともいう。

池田のスキャンダルについては、従来実にさまざまなことがいわれてきた。しかもその大部分は日蓮正宗内部、たとえば僧侶の間とか法華講内部で囁かれてきたことなのである。それだけにリアリティーが感じられるわけだが、なかには思わず膝をのり出させるほど興味深い、そして詳細な情報もある。具体的な人名の、あるいは関係ができるに至った経過についての証言もある。『深刻化する学会の亀裂と池田大作の終罵A』で述べた、「池田はスキャンダルを種に共産党から脅迫されていた」という怪情報も、『池田の女性問題』として、現存する学会、公明党の女性幹部の名前をあげているのである。

しかし事柄の性質上、それらの情報を百パーセント裏づける確かな資料を持たないため、その内容を公表することは控えるが、しかし、ある政治的目的をもって複数のグループが、池田のスキャンダルを専門に調査していることは事実である。そして、彼らに、そのスキャンダルの全貌を握られていないという保証は、どこにもないのである。

学会内の男女関係

元来、池田の時代になってから、会員同士の金銭貸借、共同事業そして男女関係は、あってはならない、学会のタブーとされてきた。これらを野放しにすると、トラブル、人事の買収、情実が横行し組織活動に影響を与える結果になるからである。タブーというのは、そうなろうとする欲求が強いためにその反作用として成立するわけだが、特に男女関係は深刻だった。

今年(昭和51年)の3月に入ったつい最近も、学会は全国に対して「集会は夜8時半までに終了するように」といういわゆる“8・30運動”推進を通達している。独身者同士の恋愛ならば問題ないが、既婚者の起こすトラブルが後を絶たないという。壮年部の既婚男性と女子部の独身女性、婦人部の既婚女性と男子部の独身男性、あるいは婦人部と壮年部の既婚者同士である。

夜遅くまで集会を行なう。選挙戦(学会では“法戦”と称する)や行事の準備などには、連日の泊り込み。夫婦そろって会員の場合はまだ良いが、片方だけという場合には、家庭にいる時間、つまり夫や妻と一緒にすごす時間より、外部で仲間の会員たちとすごす時間の方が多くなる。信仰を同じくする連帯感もあるだろう。会員間の恋愛は、ある意味で必然ともいえる。

そして女性会員たちの間では、会員同士の恋愛は、常に最も好まれる話題のひとつになっている。それは学会本部会でも同様だった。多田省吾(現公明党参議院議員)男子部長の夫人が病死し、湊時子女子部長と再婚した時、本部職員、特に女性職員の間を「池田先生が女子部長に、多田君の身の回りの一切の世話を見なさいとおっしゃったそうよ」といった情報が、一種の羨望と嫉妬の念をもって席巻した。本部婦人部の間で、多田と湊の関係がさまざまな形で噂され、統制の乱れを心配した池田が、鶴の一声で湊時子に命じたという。

しかもこういった話には、何かと尾ヒレがつく。婦人部の間では「でも多田さんは本当は、湊さんよりみち子さん(現衆議院議員渡部一郎夫人)の方が好きだった」という噂がもっぱらだったとか。

こうした話自体はたあいのない、女性会員のおしゃべりである。しかし問題は、会員たちの結婚についてすら、会長の意向が大きくものをいうことだ。会員、特に幹部の結婚に、池田が特に気を使い、場合によっては相手を指名することもあったことは事実だった。さらに幹部の結婚についての、事前申請、許可は暗黙の了解事項で、これに違反したために、厳しい叱責を受けた者もいるである。

何故ここまで統制し、管理するのか。男女間の乱れ、スキャンダルは別に池田会長一人の危険ではなかったからである。池田ならマイナス効果が最大だということであって、他の学会幹部、公明党幹部のスキャンダルであっても、学会の大きなイメージダウンになることに変りはない。そのことを、池田本人が、誰よりもよく知っていたからだった。

「吠えさせておげばよい」

創価学会という組織は、すでにあらゆる意味からいって、単なる宗教団体としての枠組を越えている。それは公称会員数765万世帯という、数の上での重みではない。今まで詳細に検討してきたとおり、宗教的信条を基盤とした組織でありながら、宗教、社会、政治、経済、つまり社会の“全体”にまたがる、複合的な存在として動いているからだ。

十年協定、共・創和解工作は、そうした学会の存在の、象徴的な表れでもあった。この全体的な広がりの、最終的な姿を称して学会は『広宣流布』という。だが、現在の学会の行なう活動が組織活動である以上、いかに学会の存在が多義的、複合的なものになっていても、最後は宗教組織の問題に帰っていかざるをえないのである。

それは走りつづける自転車に似ている。回りつづける車輪、つまり組織活動が止まるとき、車体は音をたてて倒れる。学会指導部が、常に休みなく新会員獲得、教勢拡大を呼号して、会員たちの尻をたたかなければならないのはそのためだ。765万世帯会員の公称にもかかわらず、学会員は。1960年代後半になって減り始め、今では実数2百万人信者を切って、「150万人前後」といわれるまでに落ちこんでいるという。

つい最近も本部は全国に、新会員獲得、育成を指令した。今年(昭和51年)」3月10日に開かれた方面長会議で、4、5月が訪問指導を軸とした“指導月”にされた。新会員育成のため、幹部が率先して訪問指導を行なう。組織の整備、充実を図り、ブロック幹部の育成にカを入れる。勤行(ごんぎょう)の実践と会合時間の8・30終了を徹底する。座談会を“指導の月”の活動を実現させる場とし、新会員を育成することなどが決定されている。

つまり、学会のかかえる問題を消去していくと、最後に残るのは、やはり宗教組織問題だったのだ。『深刻化する学会の亀裂と池田大作の終焉@A』では、集団の組織問題としての池田の疑似カリスマ性と、青年部対壮年部の確執、権カ闘争の様相を分析した。しかし実は、さらにその上に深刻な宗教組織問題を、学会はかかえていたのである。

内部告発の問題である。池田は機会あるごとに幹部団に対して「外部からの学会批判は大した脅威にはならない。吠えさせておけばよい。しかし内部の敵は重大だ。蟻の一穴のように、やがて堤を崩すことになりかねない」と語ってきたという。一宗派内の内紛は、一般外部からはほとんど見えないが、学会にとっては、最も恐ろしい危険ともいえる。そして、この連載のテーマ、十年協定の謎と内紛は、外部から隔絶した深いところで、密接に関連していたのである。それを解明しよう。

宗門内造反・妙信講問題

学会のかかえる内紛は2つある。その第一は「妙信講(みょうしんこう)」問題といわれるもの。妙信講とは日蓮正宗法華講のひとつで、会員公称1万5千世帯。ちなみにいえば日蓮正宗信者団は、創価学会、法華講全国連合会(初代会長平沢益吉は学会の顧問)、妙信講の3つに大別される。つまり妙信講は、学会は同門ではあるが、学会が言論出版妨害事件を契機に国立戒壇(かいだん)論を放莱したのに対して、「国立戒壇は日蓮大聖人の御遺命。学会は教義の本質を歪曲(わいきょく)した堕落集団だ」と、執拗な学会批判を展開してきたグルーブである。

国立戒壇論は日蓮正宗教学の最終的な結実であったのだ。学会組織の壊滅を免れるためとはいいながら、学会はそれを放棄したことによって、教学の目標を狂わせ、信者の意識を混乱させ活カを喪失させた。妙信講はそこを攻めた。学会的・修正主義と妙信講的・教条主義の闘いである。

両者の闘いは、熾烈(しれつ)を極めた。昭和39年5月3日、第27回学会本部総会で正本堂建立計画が発表され、これを機に両者の組織闘争は本格的なものになる。正本堂の意義づけ、広宣流布の解釈をめぐる両者間の教義論争が展開されるなかで、昭和44年11月言論出版妨害事件発生。翌45年5月3日、学会第33回総会で池田は「国立戒壇否定、政教分離」を宣言する。以後両者の闘いは、憎悪の様相を呈して泥沼化していく。

地方末寺における、妙信講員に対する御授戒(じゅかい)拒否などが瀕瀕(ひんぴん)とおこった。そして昭和49年8月12日日蓮正宗宗務院は、妙信講に対して、講中解敵命令を発したのである。あわせて9月28日、妙信講本部会館の本尊返還が請求される。

これに対して妙信講側は激しく応酬する。9月6日男子部員150名が学会本部前で抗議演説。さらに宗務院におしかけたりしながら、問題の昭和49年10月になだれ込んでいった。

思い起こしていただきたい。昭和49年10月末は、松本清張の仲介によって、学会側からの申し出のもとに共・創和解の交渉がスタートした時期だった。「10月20日ごろ、両氏懇談の最初の具体的校機運が生まれた」と松本は述べている。

10月4日、まず妙信講男子部80数名が、学会本部の北条浩副会長に対する抗議行動を起こす。その過程で妙信講青年部と学会青年部牙城会の間で、激しい乱闘が展開される。

10月21日、宗務院側は妙信講に対して、本尊返還請求の第2回内容証朋を発し、「応ぜざれば法的処置」として、法廷闘争に入る構えをみせた。

そして10月28日ついに、妙信講と宗務院・学会側の間で法廷闘争が開始された。学会側に先立って、妙信講が本部会館の本尊守護のために、仮処分申請を東京地裁に撮出したのである。この訴えに対して11月7日、東京地裁は決定を下し「本尊を使用することを妨害してはならない」「信徒としての宗教活動をすることを妨げてはならない」とした。宗務院側はこの決定に対して即座に異議申し立てを行ない、一方妙信講側はこの決定に基いて、現在本裁判に持ちこんでいる。

こうした最中、10月29日、池田は学会代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任したのである。理由は「池田会長の以前からの要請」で「平和・文化の推進のため、活動舞台が世界的に広がっており、海外での活動期間が多くなっている」ためだとされた(創価学会ニュース)。池田は翌51年1月、創価学会インターナショナルの会長に就任する。

だが、果たしてそれが本当の理由だったのだろうか。池田は法廷闘争から逃げたのではないだろうか、昭和49年から50年にかけては、学会歴史上はじまって以来の訴訟ラッシュの時期だった。

法廷闘争は前述の、妙信講解敵命令、本尊返還講求に関するものだけではなかった。妙信講関係ではさらにもうひとつある。日蓮正宗宗務院は昭和49年10月15日、富士宮市・要行寺住職、八木直道を、さらに12月25日東京・妙縁寺住職、松本日仁を、妙信講に加担した罪で擯斥した。「擯斥」とは、僧籍を剥奪し、日蓮正宗から追放する、僧侶に対する最大の重罰である。このため宗門からの年金も停止された八木直道は、昭和49年12月9日静岡地方裁判所富士支部に擯斥処分無効確認及び年金支払い講求の訴えを行なう。その後年金支払いに関しては相手が寺族同心会であったため、本訴は切り離され、昭和50年5月地位保全仮処分申請の形で闘われた。

これに対して学会側か提出した陳述書は、次のようなものであった。「妙信讃や債権者(八木)は、正本堂が御遺命の戒壇でないなどと盛んに主張している。本件仮処分が認められると、彼らの言い分を裁判所が認めたかのように宣伝することは、前述のとおり火を見るよりも明らかである」。擯斥処分無効確認訴訟についても「この訴訟の判決が発付されると損害はきわめて甚大であり、回復は不可能に近い」と述べて却下を求めたのである(年金支払いについては50年6月寺族同心会との間に和解が成立。現在は本裁判が闘われている)。

学会内造反・松本訴訟問題

学会をめぐる訴訟は、これだけにとどまらなかった。妙信講グループとはまったく異なる、別の内部告発者の手によっても、過激な訴訟がすすめられている。元学会幹部、松本勝弥・堯美夫妻の提訴した、正本堂寄付金(御供養金)返還請求である。その内容として、総本山大石寺大御本尊の真偽の問題を含む、注目すべき訴訟であった。

松本は、昭和33年12月17日頃に学会入会、42年12月に学会教学部教授の資格をとった、民音(民主音楽協会)に勤務する学会青年部の幹部であった。堯美夫人もまた渋谷地区の、有カな指導会員だった。

昭和46年9月、まず堯美夫人が地区組織の不統一のなかで「大石寺板本尊は御真筆ではない。つまり偽物である」として学会を脱会。あいついで十数名の会員が脱会。学会の組織問題に発展していく。

昭和47年11月11日、民音職員の身分のまま松本は創価学会及び代表役員・池田大作を被告として、「御供養金返還請求」の訴状を東京地裁に提出。「被告は前述のとおり、正本堂は日蓮大聖人の三大秘法の大本尊を安置するためである、そのため会員は供養金を寄付すれば幸福になると称して右寄付を勧誘し、原告は被告の右正本堂に安置するといういわゆる『一閻浮提(えんぶだい)総与の大本尊』が真正な大本尊であると信じたからこそ前記の寄付をしたのである。しかるに、右『大本尊』は次に述べるとおり、『日蓮大聖人の弘安2年10月12日建並した大本尊』ではない疑いがきわめて濃厚となり、右疑問に対して被告は何らこれを解く努カをなさず、このため原告両名は右大本尊を信仰の対象としえなくなり、前記寄付はその要素に錯誤の存在することが明白になった」

こうして御供養金計4百万円の返還が、学会、池田に請求された。学会にとっては、信仰の中心、本尊の真偽を問われる大問題だった。池田は「どんなことをしても松本を学会の外に追い出せ」と、北条浩副会長に厳命したというが、それはこの訴訟が、学会組織の内部崩壊の芽になる可能性をはらんでいたからにほかならなかった。

昭和47年11月25日学会は、聖教新聞紙上で松本夫妻の宗門除名を発表。次いで昭和48年1月13日、民音が松本を配置転換拒否、背任行為を理由に解雇。

1月16日松本はこれに対しても、地位保全の仮処分を行なわぬままに、いきなり雇用関係存在確認請求の本訴に持ちこむのである。被告は民音代表理事・姉小路公経。

これらの訴訟は、現在も進行中である。本尊問題については昭和50年10月6日、「本件の争点は、いずれも純然たる宗教上の争いであって裁判所が審判すべき法律上の争訟とは到底いい得ないから、訴を却下する」とする東京地裁の判決がおりた。「かかる宗教上の本質である信仰対象の賛否や宗教上解決すべき教義の問題は、内心の信仰に直接かかわるものというべきであり、裁判所が法令を適用して終局的に解決できる事柄ではない」

松本はこの判断を不服として、東京高裁に上訴した。一方解雇無効の訴訟は、昭和50年12月までに被告側の立証をほぼ終り、51年3月から原告側の立証に入っている。

これらの訴訟の具体的ないきさつについては、松本原告側の斉藤一好・担当弁護士の執筆による『創価学会・民音との裁判を担当して』(月刊ペン3月号)に詳しく述べられている。

十年協定と造反問題

問題は、昭和49年10月、つまり池田が学会の代表役員をしりぞき、北条理事長にその椅子を渡した時期が、以上のような各種訴訟が、一斉に学会に殺到した時期だったことである。

前述のように、妙信講関係では本尊守護のための仮処分申請、本裁判、さらに僧侶八木直道の擯斥無効確認裁判、地位保全の仮処分申請の用意が動き出していた。一方松本訴訟では、『被告』として明示され、本尊問題裁判の頂点を迎えようとしていた。松本側はこの時期、池田を学会会長として証人申請していたのである。

10月29日、池田は学会の代表役員をしりぞく。これはそのまま、これらの訴訟の矢面からしりぞき、陰にかくれることを意味した。かつて言論問題のおり、民社党代議士塚本三郎は池田を、国会へ証人として喚問することを要求した。さらにさまざまな宗派、教団との論争、討論においても、池田は常に学会を代表して前面に出ることが要求されつづけた。しかし池田はこれを一貫して拒否しつづけ、問題が発生すると必ず何らかの理由を設けて、現場から遁走(とんそう)してきたのである。

池田の小心のなせる業(わざ)であると同時に、絶対に触れることを許されぬカリスマとして、学会は懸命に池田個人を守らざるを得なかったのである。事実、代表役員をしりぞいたことによって池田は、松本裁判においては一応法的には、被告の座をおりることになったのだった。

そしてさらに問題は、この昭和49年10月という時期が、池田が野崎を前面に立てた若手側近団を駆使し、能動的に共産党に対して和解工作を開始した時期だったことだった。宮本共産党委員長は協定発表後の記者会見で、「協定はわれわれが持ちかけたものではなく、また拒否する必要もなかった」と言明した。池田にとって、訴訟問題、代表役員辞任、十年協定の三者は、相互に密接して関連していたのである。

学会の組織活動に。とって、共産党が最大、最強の敵でありつづけてきた事実については、この連載の冒頭で詳述した。共産党は一貫して、学会、公明党の組織を攪乱しつづけてきた。そしてそのためには、手段は選ばれなかった。

池田が最も恐れたのは、まず第一に、学会、宗門の内紛に共産党が介入してきて、間接的に反池田勢カにテコ入れを行ない、当事者たちの気づかぬうちに学会の内部亀裂が拡大されることであった。共産党本部自らが動かなくても、方法はいくらでもあった。宗門内にいる共産党シンパを動かして、反池田勢カヘの援助を行なうこともできたし、カモフラージュされた共産党の外郭団体、往民運動団体その他の機関を動かして、内紛に介入することもできた。

第二には、これらの内紛は社会問題として表面化し、場合によっては政治の舞台に引きずり出される可静性を、常に秘めていることだった。

「獅子身中の虫」として、池田は内部反池田派、反学会派を常に厳しく処断し、その口封じを徹底的に行なってきた。しかしこれらは逆にいえば「信教の自由に対する侵犯」、「第二の言論出版妨害事件」に発展する危険性を常に含んでいたのである。

そしてその暴露の担い手が、共産党だった。田中金権政治に対する総批判の過程で、田中の人脈の中にある学会の問題が再びとりあげられ、共産党の手によって学会内紛が社会に暴露される可能性は、誰に否定できなかった。学会、に対する訴訟ラッシュは、その引き金になり得たのである。

事実、共・創和解の交渉の過程で、妙信講問題、松本訴訟問題が話し合われたことを信ずるに足る、情報、状況証拠がある。池田は万一の場合を考え、共産党との和解を決意し、学会代表役員を辞任し、楯として北条を前面に出した。そして自らは陰に隠れた、というべきであった。

親からさずかった名前を変えた池田

そろそろ総括すべき時がきたようだ。

池田大作にとって『十年協定』とは、どのような意味もっていたのか。十年協定の成立、破産の原因は何かという、素朴な疑問から出発して取材を進めていく過程でいつか十年協定の意味は、協定そのものを突き抜け、創価学会という組織そのもの、池田大作という個人の意識の深層にまでたどりついていった。そのマクロ的なひろがりの中で、十年協定は学会nあらゆる矛盾と結びついていたのである。池田にとって十年協定とは、いわば自らと学会のさまざまな矛盾、内部亀裂の象徴でもあったのだ。

日蓮正宗宗門・学会内の主流派つまり池田体制をめぐっての権力闘争。池田カリスマ化の完成の野望。壮年部と青年部の確執。青年部内の対立。”裏”学会の経済活動と会員の搾取。スキャンダル。宗門・学会内反主流派、反池田反学会派の造反。そして学会を越えて、しかも学会を束縛して離さない旧保守勢力、右翼陣営からの圧力。

こうした矛盾は、学会が単なる宗教団体の枠(わく)をはずれ、社会全体に対する影響カを持つまでに成長した時、学会に対して当然に与えられた属性であり、課題であった。ひとつの団体が多様性を保持すればするほど、そのかかえる矛盾も多様化する。それが政治団体であれば、ひとつのイデオロギーで統制すること可能だった。だが、学会は中身はあやしいものだが、宗教団体である。政治団体、結社に優るとも劣らない組織力、影響カを持ちながら、学会は内部を一義的に統制しきれないまま、外部に対し明確な輪郭と厳しい姿勢を提示できずにきた。学会の矛盾はいわば必然ともいえた。

池田は自ら求めてこれらの矛盾を作りあげながら、それに苦しみ、さらにその上にさす共産党の影に不吉な、組織の崩壊の可能性を読んで脅えたのである。その池田の心理の上に、十年協定は正確に位置していた。

最後に池田大作の“人間”に触れて、終ろうと思う。

昭和3年1月2日、池田は東京府荏原郡入新井町大字不入斗で、池田子之吉、妻一の五男として出生する。本年48歳である。子之吉は、池田に『太作』と命名した。

だが、昭和28年11月25日学会文京支部長の地位にあった池田は、自ら『太作』を『大作』と戸籍改名した。何故か。入会すると、姓名判断を行なって改名する立正佼成会に対して、「インチキ極まる邪義をもって、人々を地獄におとす」と批難した池田なのだ。何故改名しなければならなかったのか。

さらに池田は、夫人をも改名させた。戸籍名までは変えていないものの、戸籍名『かね』を『香峰子』と称している。この行為は、池田の微妙に女性的な心理と、不思議なコンプレックスを証明していた。外見主義である。

「銀行に行くときにもいい恰好をしなさい」

池田が、少年期を病苦と貧困のうちに、もうこれ以上は落ちようもない最低線を歩いたのは事実だった。

羽田第二尋常小学校を卒業すると、すぐに先に兄が勤めていた新潟鉄工所に就職。昭和20年には池田の肺病はさらに進み、6回目の肋膜。結核性痔痩、中耳結核、鼻結核を併発していた。このなかで池田のしぶとい人間性は形成され、しかも彼は人生の野望を捨てることはなかった。

22年春、あまり評判が良くなく「平々凡々で、秀才の行かない学校」といわれた東洋商業学校を卒業。苦学の糧としていた昭文堂印刷をやめて、京浜蒲田駅裏の蒲田工業会に書記として就職する。この年の8月、以前から参加していた森ケ崎の青年グループ協友会のメンバーに誘われて、創価教育学会に出席、入会するのである。

青年部員池田は、東大、慶大、早稲田、学習院の四大学を出た人間を、一種羨望のまなざしで見たという、彼は23年、大世学院(後の富士短期大学)政経科夜間部に入学し、翌24年秋に退学する。そして第三代会長に就任してから後昭和42年、レポート提出だけで富士短期大学を卒業する。卒業後に発刊された著書、『政治と宗教』(潮新書版)の奥付けには、さっそく「富士短期大学卒業」と書き加えられたのである。

彼は病苦と貧困のなかから、学会第三代会長の座まではい上がった。それはいわば「いつまでも貧乏していてたまるかい」という二代会長戸田城聖の言葉、人間のエゴイズム、立身出世への欲望を教勢拡大のエネルギーへと転化した、創価学会の象徴でもあった。

池田は「時計でもカフスでも、身につけるものは良いものを持ちなさい」と語ったという。このため昭和四十年頃、学会本部の大幹部の間にワニ皮ベルトが大流行したそうだが、さらに池田は「銀行へ行くときにも、いい恰好をしなさい。自分に対して自信が持て、相手に劣等感を与えることができる」とも語ったという。

池田は何故、『太作』を『大作』と戸籍改名せざるを得なかったのか。改名された戸籍簿を透し見れば、そこには宗教家というより、立身出世への渇望と、それに反比例する実に小心で女性的な、自已へのコンプレックスに包まれた、政治屋としての池田の相貌が表われてくるのである。

池田の、人間に関する記憶カは驚くほど発達しているという。いつ誰が何をいったか。そして誰は誰とどのような関係にあるのか。どうすればその人間を、味方につけることができるのか。それらについて記億し、見分ける天賦の才能をもっているという。

これはまさに政治屋の資質であった。池田大作と田中角栄の人間像が、かなりの部分でダブるのはそのためにほかならない。しかし田中が極貧の中から立ち上がり、宗教の持つ暖昧性などを一顧だにせず、ひたすら権カと金権に向かってひたむきに突進した時、つまり社会へのコンプレックスを逆手にとって開き直った時、一方の池田は権カヘの意志を宗教という衣で隠し、小心で女性的な外見主義で護る道を選んだのである。

これは池田の人間性にほかならなかった。十年協定、共・創和解は、そのような者の手によって画策され、そして破産したものだったのである

七十年代後半の学会と池田

学会は現在、昭和54年までに公称一千万世帯会員を目途として、組織活動を展開している。さらに衆議降の議席、140議席以上達成という目標もあるという。

だが、積年の病理の果てに発生したロッキード事件は、日本の政治、社会に対して、旧保守体制とその支配構造そのものの解体、清算を迫っている。はたして”保守のシッポ切り”ですむかどうかは疑問である。

保革の緊張が、今後さらに激化していくことは目に見えている。そして「保守とは何か、革新とは何か」という根源的な間い直しがすすめられていくだろう。学会・公明党が唱えてきた保守でもない、革新でもない「中道革新」なるヌエ的な概念が、厳しい試練に立たされていくのである。

学会初代会長・牧口常三郎の『価値体系』の序列は「利・善・美」であった。利益を最高とする、その教えのとおり、保革の優劣が明確であった時、学会はその両者の間を振り子のように動き、常に政局、社会のキャスティングボードを握ろうと努めてきた。

だが、現在進行している政界再編と、社会の政治に対する意識構造の変化は、そうした学会や公明党の思惑、動きを封殺しようとしている。時代は池田のパランス主義、つまり右へ左への御都合主義的揺れ動きを、無価値なものにするところまで追いつめていたのである。

十年協定の破産、つまり学会をめぐる右と左の、かつてない激烈な闘争は、学会指導部やそれに関わる者たちが、いかに本能的に自分たちの危機を感じとっていたかを証明していた。さらに宗教団体(?)学会の中軸である日蓮正宗・創価学会の教義・信仰は、そのすべてが、真正の仏法からみて百パーセントの偽作・インチキであることが本誌の連続特集『崩壊する創価学会』で逐次明白にされつつある。こうして学会は、そのどんづまりに達した時、果たしてどのように変質し、分裂した相貌を表わすのだろうか。

病気説、海外逃亡用意説の乱れ飛ぶなかで、池田は、海外活動強化という代表役員辞任の口実とは裏腹に、現在、活動の主エネルギーのすべてを、国内に向ける決意を固めたという。むろん、その成果は絶望的である。

(文中敬称はすべて省略しました。なおこれまでの執筆にあたり各種雑誌論文、各種新聞、左記の文献を参考にいたしました。筆者に感謝いたします。

創価学会四十五年吏、上野和之・大野靖之編、聖教新聞社
創価学会 原島嵩・世紀書店
政治と宗教 池田大作・潮出版社
人間革命 池田大作・聖教新聞社
池田大作 小林正巳・旺文社
池困大作論 央忠邦・大光社
変質した創価学会 蓮悟空・六薮書房
訴訟された創価学会 松本勝彌・現代ブレーン社
あすの創価学会 浅野秀満・経済往来社
私の見た創価学会 浅野秀満・経済往来社
これでも池田大作を信ずるか 下山正行・暮しのガイド社
これが創価学会だ 植村左内・しなの出版
創価学会を斬る 藤原弘達・日新報道
創価学会・公明党の解明 福島泰照<隈部大蔵>・太陽出版)

Copyright(C)2002- 「日本専門」情報機関(日本の情報の収集と保存)