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特集/日中国交回復三十年 親中派・創価学会は何をしてきたか

(インタビュー 池田提言と第一次訪中の真実)

原島嵩(元創価学会教学部長)

本特集でもすでに触れられているように、創価学会・中国関係の嚆矢となったのは、一九六八年九月八日に開催された第十一回創価学会学生部総会での講演「中国問題への提言」だった。池田氏を団長とする第一次の「訪中創価学会代表団」が実現したのは、それから六年目の七四年五月二十九日のこと。教学部長・聖教新聞社論説主幹だった原島氏は、池田側近としてどちらにも大きく関わった。  

訪中団一行は池田団長のほか、池田かね会長夫人、山崎尚見副会長、原田稔学生部長、原島嵩教学部長、持永利之庶務室長、平木功一副会長室員、吉良香世子女子部長、林義也国際本部主任、大原照久聖教新聞論説部長、原山正征同写真部副部長の十一人だった。

――出発当日の滞在は香港でしたね。

原島 ええ。北京直行便が通る前でしたからやむを得なかったんです。翌日に列車を乗り継いで広州に出て、直行便で北京に着きました。まず大活躍したのが、カメラマンの原山(正征)君。出迎えの人々をポラロイド写真に撮って、すぐにプレゼントすると、みんなびっくりして喜んでくれた。まだなかったか、あっても非常に珍しかったのでしょうね。

この訪中でもっとも印象に残っているのは、池田大作さんがものすごくがっかりしていたこと。というのは、毛沢東と周恩来に会いたかったのに、どちらにも会えなかったからです。中日友好協会の廖承志会長が、いろいろと尽力してくれたのですがダメでした。

「提言」を覚えていなかった池田氏

――でも、それなりの歓迎はされたのでしょう。

原島 訪中六年前の学生部総会での提言を、むこうは高く評価していましたから、丁重なもてなしを受けたと思います。ところが大作さんは、どんな提言をしたか覚えていなかった。というのは、その原稿を書いたのは私と桐村(泰次/原島氏の後任教学部長)さんだったからです。当時の中国問題は、吉田書簡など具体的な問題があって、非常に難しいテーマだったんです。公明党の紹介で外務官僚のレクチャーを受け、三日間ほどでつくったのがあの講演原稿です。

ですから、当時の日本の官僚は日中間にどういうネックがあり、どうすれば突破口が開けるかをすでに知っていたといえるでしょう。それを、公明党がいうわけにはいかない。そこで創価学会のトップにいわせようとして、私たちに教えてくれた。つまり、代作の代作者が更にいたことになります。

――提言の狙いは何だったのですか。

原島 昭和四十年代の前半から、社会に自己をアピールしたいという大作さんの意図が非常に強まりました。そこで、各種の総会などの機会をとらえて、日中問題に限らずベトナム戦争や沖縄基地の問題など、さまざまな提言を五十年ぐらいまでやってきた。そのはしりだといえるでしょう。  昭和四十年に正本堂の御供養金が三五五億円集まり、四十二年に衆議院に初進出するという、得意の絶頂にあったころ。四十五年に言論出版妨害問題が起こって、いったん大きな挫折を味わいますが、四十三年ごろは今にも広宣流布しそうだという雰囲気が蔓延していました。『御義口伝講義』『立正安国論講義』などの教学書や『科学と宗教』などを立て続けに発刊して、教学的にも宗教的にも宗門より優位に立とうとしていた時期ですし、社会的にも大作さんがどれほど大きな存在かをアピールしたいと思った時期なんです。

そういう会合にマスコミを呼んで提言を発表する。広報室に、外部の人がどう評価していたかを聞き取らせて、報告させる。創価学会の広報室は、そのへんが実にうまい。必ず満足するような外部の声を集めて、報告書にして提出します。「外部にも通じる」の一点だけを心掛けた時期ですから、テーマはなんでもよかったし、ご本人は中身にはほとんど関心がなかったと思います。

――池田氏は、自分が日中国交回復の産みの親みたいな顔をして、あちこちで自慢していますが、当初はそれほど中国問題への意識はなかった?

原島 もちろんです。「日中国交回復の産みの親」という発想は、瓢箪から駒が出てきたみたいな感覚で、むしろあとから生じたもの。学生部総会での提言は、たしかに当時としては先駆的な発言ですが、予想外に評価された、まさかこんなうまくいくとは……が実感ではないでしょうか。ラッキーなテキサスヒット、出合い頭の事故みたいなものです。

やがて、キッシンジャーが動いて米中間のパイプをつくり、ニクソン大統領のときに米中の国交回復が成ります。日本で頑張ったのは竹入(義勝・公明党委員長)さん。そして、田中角栄首相が動いて日中国交回復が実現します。中国側が竹入さんを貴重な存在として遇する姿勢は、あれほど池田創価学会に罵倒されている今の時点でさえ崩していないようです。  

池田団長率いる創価学会代表団が中国を訪れる三年前の一九七一年六月一五日、すでに公明党の竹入委員長らは訪中を果たし、周恩来首相との会談を実現した。翌七二年には、第二次公明党訪中団が招聘された。竹入氏が暴漢に刺されたときには、周恩来首相がいち早く見舞いの電報を送っている。

池田流外交は褒め殺しから

――第一次のときは、会った要人は李先念副総理ぐらいですね。一〇項目の問題について見解を求めたと報じられています。

原島 ええ。大作さんの外交は、私たちが用意したメモを見ながら、まず質問を自分のほうからぶつけんるんです。その際、必ず褒め言葉から始まります。相手をまず褒めて、礼賛する。いわば褒め殺し。褒められて悪い気がする人はいませんから、むこうも「池田先生は偉大な政治家で……」などと、お愛想をいいます。

――先に褒められたから、儀礼的に褒め返す。その部分だけ取り出して利用する。

原島 そうです。中国でも大した話をしているわけではありません。急に招聘がきて、非常に慌ただしく訪中しましたから、私たちもあまり勉強する時間がなかった。訪問地に案内されたときの挨拶文を前もって用意するのが精一杯でした。まして、大作さんは何の準備をするわけでもありません。たとえば万里の長城に登ってもその歴史や変遷ををよく知らないから、あまり多くを語りませんでした。  また、二回ほど中日友好協会の幹部との座談会がありました。相手は中国の理論家です。私たちは「平和などは心の中にある」と主張する。しかし中国側は「それもあるでしょう。だが現実に覇権主義などの脅威があるとき、ただ心の問題だけではダメ。それに対するスタンスをもたなければ」という。理論的には完全にこちらの負けで、歯が立たなかった。

――帰国してからのほうが大変だったようですね。

原島 帰ってきてすぐに、さまざまなメディアに紀行文を書き、それが『中国の人間革命』(毎日新聞社刊)という本になって十二月に出版されました。文化大革命を高く評価する本でしたが、その後時代は大きく変わり、いま中国の人に読まれたら笑い物になるような本になってしまいました。  そんな原稿を、帰ってきてすぐに「書け!」でしょう。それも三〜四日でです。当時、特別書籍と聖教のスタッフをあわせて文書課という代作担当の部門をつくり、私が文書課長をしていました。訪中記は大原(照久)君が下原稿を書いて、私たちが直して大量の原稿をつくりました。  もちろん大作さんはほとんど見ないで、そのまま本にした。彼はいつもそうでした。トインビーとの対談集だって、実際に対談したものは一つも載っていない往復書簡集です。桐村さんが原稿を書いて出すでしょう。すると、すぐに「翻訳!」です。翻訳ができると、次は山崎鋭一(欧州責任者)さんを通してトインビーに届ける。トインビーは自分一人で質問を書いたり、質問への応答を書いたりする。こちらに届くと、またすぐに「翻訳!」となる。そして桐村さんのところに回ってくる。いちばん読んでいないのは大作さん。

――結果的には、池田流の対中国交流はどんな役割を果たしたといえるでしょうか。

原島 「最初に井戸を掘った人」の一人として高く評価はしてはいたでしょうが、「この人たちはまともな議論をしかける相手ではない。中国側としては使えばいい。利用の対象とすればいい」と考えたのでしょうね。案の定、『中国の人間革命』を書いて、中国の宣伝に大いに利用できた。まったく中国の手の平に乗せられていたといえます。

一方、大作さんも周恩来総理など要人との会見を最大限に利用しました。二回目の訪中でほんのわずかな時間、周氏と会えて握手したのを利用して、創価大学に「周桜」を植樹したり、夫人の●頴超女史との交流を誇示したりと。でも、今でこそ周恩来一辺倒ですが当時は毛沢東をすごく尊敬していて、会えなかったのを非常に残念がっていました。かつて大作さんがハワイのマウイに行って、泳いでいる写真を撮らせて聖教グラフに載せたことがありますが、あれは揚子江で泳ぐ毛沢東の真似なんです。

ともかく、こうした池田流の対中交流を外務省が高く評価しすぎていたふしがあります。対中外交に貢献してくれるだろうと思っていたらとんだ大間違いで、ムネオ議員と全く同じだった。自己宣伝しか念頭にない大作さんの行動が、結果的には日本外交が適切な手を打つことができない原因になってしまったのではないでしょうか。(聞き手/乙骨正生)

(はらしま・たかし)一九三八年東京・大田区生まれ。早稲田大学商学部卒業、創価学会責任役員、総務、教学部長のほか、「大白蓮華」編集兼発行人、聖教新聞社論説主幹、聖教新聞編集兼発行人など多くの要職を兼務する。著書に『生命哲学概論』『創価学会』『欲望と生命』(共著)『生命のドラマ・法華経』(池田大作監修)『御書と四条金吾』等池田氏との対談集、『池田大作先生への手紙』『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』など多数。

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