Make your own free website on Tripod.com

人権の担い手たる使命こそ レイシズム(民族差別)の危険はらむ

(聖教新聞 2002年12月10日)

寄稿論文

ルポライター・姜誠

略歴

姜誠 カン・ソン 1957年、山口県生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。在日外国人問題や朝鮮半島情勢、東北アジアの地域統合などをテーマにルポを発表中。著書に『5グラムの攻防戦』(集英社)、『パチンコと兵器とチマチョゴリ』(学陽書房)など。2002年W杯ボランティアを実施した定住外国人ネットワークの共同代表。

ため息を誘う、9・17以降の情勢

もし、日本に戦争の危機が訪れた時、この国のメディアは事実をきちんと伝えることができるのだろうか?

9月17日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日国防委員長が小泉首相に拉致犯罪の告白を行って以来、メディアには大量の北朝鮮報道が溢れている。

しかし、その報道をつぶさに見つめれば見つめるほど、冒頭の疑問がしきりに胸をよぎり、私は思わずため息をついてしまう。以下、そんなため息を誘ったいくつかの事柄を思うままに列挙したい。

第1点は報道の端々にかいま見える過剰なまでのナショナルなまなざしである。北朝鮮による拉致犯罪にはふたつの側面がある。ひとつは北朝鮮という国家が個人である蓮池さんや地村さんらを拉致し、その人権を蹂躙したということ。もうひとつは北朝鮮という国家が日本の国家主権を侵害したということである。

だが、多くの報道は被害者たち個人に寄り添うことより、損なわれた日本の権威や国益の回復に熱心なように思える。北朝鮮という国家の暴走を諌め、個人の被害救済に力を尽くすというより、「北朝鮮になめられてしまった」というナショナリズムに満ちた怒気が色濃く反映しているのだ。外務省の田中均局長を“金正日の走狗”と批判したりするような報道は常軌を逸しているとしか思えない。

ヒステリー状態に陥っていないか

メディアがこうしたナショナルな言説をふりかざし始めた時は危ない。言論の自由がしばしば国家や民族という価値にハイジャックされ、結果的に市民の自由にも支障をきたしたのは世界の歴史が教えるところだ。

第2点として、メディアがナショナルなムードに囚われている分、本来の任務である多様な視点を市民に提供できないでいるということである。

フジテレビや朝日新聞の行ったキム・ヘギョンさんの会見や「週刊金曜日」が掲載した曽我ひとみさんの家族インタビューにはメディア内からも強い批判が集まった。

こうした光景は昨年9月、同時多発テロでヒステリー状態になった米メディアがアラブ系通信社の「アルジャジーラ」を批判したことをほうふつとさせる。この小さな通信社がしばしばビン・ラディン氏のインタビューを配信したことが「テロリストを利する行為」と、糾弾の対象となったのだ。

しかし、そうした風圧は多くの米メディアにアラブ世界の言い分を報道することをためらわせた。その結果、米国民はアラブ側の考えを知ることができず、対テロの方法論やアラブとの付き合い方を多角的に判断する機会と材料を奪われてしまった。

拉致憎しが在日バッシングに転化

同じように、いまの北朝鮮報道にも拉致憎しの感情が先行するあまり、北朝鮮の行動や主張を客観的に伝える努力が十分になされているとは思えない。

拉致犯罪への日本国民の怒りは凄まじく、北朝鮮への人道支援や国交正常化などを言い出そうものなら、それだけで“国賊”扱いされかねないムードだ。そうであればあるほど、メディアにはいっそうの冷静さと多角的な視点が要求されるはずだ。

最後にいまの北朝鮮報道はレイシズム(民族差別)の危険を孕んでいるという点を指摘しておきたい。国家と個人の峻別ができず、北朝鮮政府への批判が、そのまま朝鮮人へのバッシングや差別につながりかねない乱暴な表現が目につく。

すでに街角からチマチョゴリの通学シーンが消えて久しい。メディアに携わる人々には自分の作った映像や記事がひょっとしたら、在日の朝鮮学校生徒への嫌がらせなどを誘発したかもしれないという想像力を失わないでほしい。

“国益”や“民族益”に浮足立つメディアに、本当に人権の担い手としての個人を守ることができるのだろうか。まして戦時報道となれば、その心配はさらに募る。北朝鮮報道は日本のメディアが抱える脆弱さを浮き彫りにしてくれたと、私は思う。

Copyright(C)2002- 「日本専門」情報機関(日本の情報の収集と保存)