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「池田大作氏会見」(産経新聞)は歴史を平気で書き換えている

(しんぶん赤旗 2001年9月27日)

1、言論出版妨害――「誹謗」に「怒った」だけのことと説明

創価学会の池田大作氏が、産経新聞のインタビューにこたえ、「池田大作氏会見詳報」として、四回にわたって連載されました(九月十七〜二十日付)。その中には、創価学会と公明党との関係や、退会者への対応などについての事実を偽った記述もありますが、とくに見過ごせないのは、十九日付のインタビューで、言論出版妨害(一九六九年)や「共・創協定」(一九七四年締結、一九七五年発表)などにかかわる歴史の書き換えをおこなっていることです。

池田氏は、七月十日付「聖教新聞」で、言論出版妨害を「仏敵」から「信教の自由」を守る正義のたたかいだったとする文章を発表していました。日本共産党の不破哲三議長は、それが池田氏の本音なら、七〇年五月三日の本部総会講演で「猛省」を表明したのは何だったのか、それ以降、三十一年にわたり日本社会と国民を偽ってきたことになるではないかと、重要な問題提起をしました。それにたいし池田氏は、沈黙を決めこんできましたが、今回の「産経」インタビューは、言論問題についての、それ以後の最初の対外的な発言となるものです。しかし、その内容は、まったく驚くべきものでした。

池田氏は、言論出版妨害事件について、次のようにのべています。

「許せなかったのは、学会婦人部に対して、口を極めて侮辱したことだ。この点に怒ったのだ。政治評論家として名を売っている人が、真剣に宗教を持っている人をそこまで誹謗(ひぼう)するのは許せなかった。…侮辱のつくり話などに反発し、怒るのは当然だろう」(「産経」九月十九日付)。

これは、問題の歴史を二重に書き換えたものです。

第一に、今回、池田氏が持ち出した「創価学会婦人部への侮辱」うんぬんという話は、当時、どこでも問題になったことはなく、創価学会・公明党自身も口にしたことのない話です。

そもそも、『創価学会を斬る』は、「創価学会婦人部」にほとんど言及していません。あるのは、創価学会の幹部会の様子にふれた部分で、「婦人部の人々は会長のいたわりの“お言葉”に涙ぐむ。そして、このやさしい会長の“お言葉”にこたえなければならない、といっそう張り切って折伏にはげむ」と書いているだけです。これがどうして「学会婦人部への許せない誹謗」になるのでしょう。

第二に、これが最大の問題ですが、あのとき、創価学会・公明党がやったことは、「誹謗」に「怒って」反論したなどということではありません。

『創価学会を斬る』という本が創価学会を批判しているのが気に入らないといって、この本の出版そのものを闇(やみ)に葬ろうとしたのです。最初は、この本の筆者である藤原弘達氏に圧力をかけて、出版の断念や創価学会による本の買い取りを認めさせようとし(この圧力には、政権党の幹事長だった田中角栄氏まで動員されました)、藤原氏がこれを断ると、本の取次会社に手を回して、書店の店頭に出ないようにしました。同様の手口で、闇に葬ろうとした本は、ほかにも複数あります。

これは、民主主義と人権をふみにじる言論妨害、出版妨害の行為そのものでした。だから、この事実が国会論戦の場(一九七〇年一月〜二月)を通じて公然と明るみにだされた時、世論がわきたち、「言論・出版妨害を許すな」の声が全国に広がったのです。

そして、そういう性質の問題だったからこそ、最終的には、創価学会の会長であった池田氏自身が、その年五月の「猛省」講演で、「いかなる理由やいいぶんがあったにせよ、関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直におわび申し上げる」とのべ、このことをひきおこした体質問題として、創価学会・公明党のあり方を変え、「政教分離」することを国民に約束したのです。

ところが、その池田氏が、今回は、「誹謗」にたいして「怒った」だけの話だった、と説明しているのです。自分に都合の悪い歴史はなんでも“書き換えればすむ”とでも考えているのでしょうか。だいたい、許しがたい「誹謗」に怒っただけの話だったら、なぜ池田氏が「関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけした」として、天下に「お詫(わ)び」をしたのでしょうか。まったくつじつまが合わないではありませんか。

このように、池田氏の言い分は、「言論・出版妨害事件」の経過そのものを根本的につくりかえてしまおうとするものです。三十年もたてば歴史を勝手に書き換えても平気だ、とでも思っているのでしょうか。歴史のこんなつくりかえは、絶対者が支配する“閉鎖世界”でならともかく、言論の自由の存在する民主主義の社会では、絶対に通用しないことです。

2、「国立戒壇」――「宗門の錯覚でこちらが被害を受けた」とは

創価学会の池田大作氏は、「国立戒壇を主張することはもうないか」という質問に、「ない。これは宗門の錯覚でこちらが被害を受けたという性格のものだ。日本の仏教には、国家がカネを出して寺を建立するのが、一宗派でつくるよりも立派という考え方があった。民衆の浄財でつくるという方が正しいと思う」とのべています(「産経」九月十九日付)。

「国立戒壇」というのは、創価学会の教義を広める(広宣流布)ために、本尊を安置する国立の戒壇を国会の議決で建てるということです。本尊というのは、日蓮正宗の本尊のことです(当時、創価学会は、日蓮正宗の信者団体でした)。国が日蓮正宗の戒壇を国立で建てるということは、日蓮正宗を国の宗教と宣言するのと同じであり、これは、創価学会が、自分たちの宗教の事実上の国教化をめざすものだということで、当時、宗教界はもちろん、日本の社会のなかで大問題になったのでした。

「国立戒壇」というこの目標が、日蓮正宗の教義にもとづくものであることは確かです。しかし、これが大問題になってきたのは、創価学会が、政界に進出する最大の理由づけとしてきたからであって、いまさら自分たちを「被害者」扱いするのは、何とも筋の通らない話です。

事実を見てみましょう。

創価学会は、一九五五年のいっせい地方選挙で地方議員を、翌五六年の参院選で国会議員を誕生させますが、戸田城聖・創価学会第二代会長は、「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(一九五六年八月、戸田城聖『巻頭言集』)と強調しました。

池田大作氏も、その次のいっせい地方選挙と参院選の年・一九五九年一月の講演で、「国民の要望」にもとづいて建設された「国民のもの」として国立競技場や国立美術館をあげたうえで、「宗教にあっても、最高の宗教が、国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは、必然でなくてはならぬ。…それには、同志をたくさん議会に送らねばならない」と語りました(『会長講演集』第四巻)。こういう発言は、そのほかにもたくさんあります。

そしてこの「国立戒壇建立」を批判するものを「邪宗」「天魔」だといって、「撲滅」をよびかけてきたのも池田氏でした。

創価学会が政界進出の唯一の目的だとまで主張してきたこの目標―「国立戒壇建立」は、憲法の政教分離の原則、国民の信教の自由、人権の原則とは、まったく相いれないものでした。だから、この点にも社会的批判は集中しました。この批判の前に、創価学会は、「国立戒壇」については、次第にトーンを下げ、池田氏の七〇年五月の「猛省」講演では、ついに「国立戒壇という表現を使わない」と表明するにいたったのです。

ところが、今回、池田氏は、「宗門の錯覚でこちらが被害を受けた」といいます。いくら、創価学会が、日蓮正宗から破門された(九一年)からとはいえ、今ごろになってこのような責任転嫁をおこない、被害者だといっても、通用するはずがありません。

そして、創価学会の政界進出が「錯覚」にもとづいての話だったというのだったら、その延長線上で生まれた公明党とは、いったいどういう存在になるのでしょうか。

3、「共・創協定」――背信の罪を共産党になすりつける

最後に、一九七四年の「共・創協定」について、池田大作氏が語っていることに触れなければなりません。

池田氏は、この協定についての質問に答えて、こうのべています。

「当時、共産党との間であつれきがあり、公明党のために学会員が犠牲になることを心配した。そうした事態を変えるためにやったものだ。また、宗教と社会主義の共存という文明論的課題として、日本の平和と安定を願った。宮本さん(顕治共産党委員長=当時)は十二年間も牢獄にあって信念を貫き、軍国主義と戦った。その一点を人間として支持したかった。だが、そういうことはあそこには通じないようだ。結果として、協調は無理であり、できなかった」(「産経」九月十九日付)。

平気で歴史を逆さまに描く無法ぶりには、ここでも驚かざるをえません。

「共・創協定」の歴史とは、創価学会側の申し入れにまじめに対応して、宗教者との共同の一翼となることを願った日本共産党の誠意と努力を、創価学会と池田氏がもっとも乱暴なやり方でふみにじった歴史以外のなにものでもありません。それを、創価学会側の誠意が「あそこ(共産党)には通じない」ので「協定」がこわれたかのように言うのです。あまりにも勝手放題な歴史の書き換えです。

「共・創協定」はどんな経緯で結ばれたか

二十七年も前の話ですから、「共・創協定」をめぐる交渉のいきさつを、ここで紹介しておきましょう。

ことの始まりは、一九七四年十月、創価学会側が、作家の松本清張氏を仲介に、日本共産党との協力関係をつくる問題について話し合いたい、という申し入れをしてきたことにありました。そのころは、公明党が反共主義の攻撃を日本共産党に激しくしかけ、日本共産党もこれに反論するなど、公明党との論戦が展開されている最中でしたが、宮本顕治氏宅につながる電話線に盗聴器をしかける(一九七〇年)など、創価学会中央が謀略的な反共攻撃をすすめていたことなどは、まだ明らかになっていませんでした。

ですから、共産党は、この時、過去には大きな問題があったとしても、創価学会からの申し入れを頭から断るという態度はとりませんでした。

十月末に最初の話し合いをすることになり、約束しあった日に、松本清張氏の同席のもと、双方の代表(日本共産党側・上田耕一郎常任幹部会委員〔当時、現副委員長〕、創価学会側・野崎勲総務・男子部長〔当時、現副会長〕)が顔をあわせましたが、日本共産党の側からは、この話し合いにとっては、公明党の反共主義が最大の問題になることを、最初から率直に提起しました。つまり、“共産党と創価学会のあいだで友好的な関係をつくるといっても、創価学会が支持している公明党が反共主義の方針をとっている現状では、共産党と創価学会との関係も安定したものにはなりえないではないか”ということをのべ、この問題にたいする創価学会側の態度をただしたのです。

これにたいし、創価学会側の代表は、“学会と公明党との関係では、政教分離の原則が確立している。日本共産党と創価学会のあいだに友好・協力の関係を確立することができたら、公明党がどんな態度をとろうと、それはこの関係には影響しない”ということをくりかえし言明しました。

このことが大前提になって、十二月までのあいだに七回の話し合いがおこなわれ、その間に、創価学会側から“話し合った内容を、はっきりした文書にして確認しあいたい”との提案があり、内容を検討しあって、十二月二十八日、七項目からなる協定――「創価学会と日本共産党との合意についての協定」を結び、早く公表することを確認しあい、つづいて、全体をしめくくるものとして、二つの組織の責任者である宮本顕治日本共産党委員長(当時)と池田大作創価学会会長(当時)との会談がおこなわれました。

「協定」締結の直後から「協定」つぶし作戦に転じる

「共・創協定」は、まず、創価学会の側は「科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない」ことを表明し、日本共産党は「布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」ことを表明することで、二つの組織の相互関係の基盤を明記しました。

そのうえで、「協定」は、「永久に民衆の側に立つ姿勢」を堅持することを、双方の共通の立場として確認したうえで、それぞれの組織の独自性に十分留意しながら、民衆の福祉の向上、世界の恒久平和、核兵器の全廃、民主主義と人権の擁護、ファシズム反対など、共通の目標の実現をめざして努力することをうたったのです。

ところが、創価学会側の態度は、「共・創協定」を結んだ直後からおかしくなってきました。“公明党がどんな態度をとろうと、影響はない”、“協定は早く公表する”とあれだけくりかえし確約していたにもかかわらず、「公明党の理解がまだ得られていない」などの理由をもちだして、「協定」の発表の引き延ばしをくわだてはじめたのです。しかし、「協定」を公表しないで、内輪の話にとどめたままで、二つの組織のあいだの友好や協力の関係などが、なりたつわけがありません。「約束どおりの公表」を求める日本共産党の道理ある要求の前に、創価学会がようやく公表に同意したのは、協定の締結から約七カ月たった一九七五年の七月二十七日でした。

ところが、この時には、創価学会・公明党のあいだでは、「共・創協定」を発表とともに葬りさろうという陰謀作戦が、すでに練り上げられていました。「協定」発表の翌日(七月二十八日)に、秋谷・創価学会副会長(現会長)が、「協定」に関する見解を発表したのです。この秋谷「見解」の中心は、これは「共闘なき共存協定」だといって、日本共産党との協力の確認を反故(ほご)にしたうえ、「左右」をのりこえて「中道」勢力を拡大することが、「協定」が反ファシズムをうたった真意なのだといって、公明党の反共主義をあからさまに応援したところにありました。これが、「共・創協定」および話し合いのなかでの合意をふみにじる背信行為であることは、あまりにも明白でした。

実は、この秋谷「見解」は、公明党の矢野書記長と協議したうえで発表したもので、公明党との共同作戦は、秋谷氏の見解が「聖教新聞」に掲載される(七月二十九日)以前に、矢野書記長が記者会見でまず発表する(七月二十八日)というほど、念入りに組まれていました。

しかも、「協定」の当事者である池田大作氏は、「協定」つぶし作戦が開始された時点では、ハワイに身を移して責任を回避しました。しかし、秋谷・矢野両氏の連携による「協定」つぶし作戦が、最高責任者である池田氏の意思に反しておこなわれるなどは、創価学会・公明党と池田氏の関係からいえば、ありえないことです。実際、池田氏は、ハワイからの帰国後におこなった創価学会壮年部代表者集会での講演(八月二十日)では、秋谷「見解」を創価学会の公式の態度として追認する態度をとりました。そして、公明党の反共主義は、その年十月の党大会でいっそう露骨なものとなり、創価学会は「協定」を無視してこの反共主義を応援する立場をとります。こうして、「共・創協定」は、公表と同時に、創価学会の側から完全に廃棄されたのです。

「協定」廃棄の責任が池田氏の側にあったことは明白

いったい、この経過のどこに、誠意が「あそこには通じない」などと言える根拠があるのでしょうか。本当にそう言える根拠があるのだったら、具体的に説明したらよいではありませんか。「宗教と社会主義との共存という文明論的課題」についても、「日本の平和と安定」への願いについても、それへの意思と努力を破壊しさったのが、池田氏と創価学会の側であることは、あまりにも明白ではないでしょうか。

一九七四年十月〜十二月の「協定」交渉の時期と、一九七五年の「協定」破壊の時期とのあいだに、池田氏と創価学会の側に、いかなる変化があったのか、それは私たちのあずかり知るところではありません。

――話し合いと「協定」締結の申し入れが、最初から実行するつもりのまったくない、謀略的な申し入れで、その本音が時間の経過とともに、表に出てきただけの話だったのか。

――それとも、自分が決めたら結局は公明党は自分の言いなりになると思っていたのが、池田決定にそれほどの威力がなくて、結局、公明党の反共主義に軍配をあげざるをえなくなったのか。

――あるいは、七四年十月〜十二月には、ある作戦的な思惑があって、共産党との友好・協力を申し入れたが、七五年になったら考えが変わって、反共主義の作戦に方針転換したのか。

――この作戦変更のさい、政権党などの体制勢力からの働きかけが、ある程度影響したのか(言論出版妨害のさい、自民党の恩義をうけた経緯も思い出されます)。

どんな事情があろうと、それは、池田氏と創価学会の内部の事情です。

自分たちの側から「協定」を申し入れてそれが実現したら、自分たちの事情で「協定」つぶし作戦を実行する、そういう背信行為をやっておきながら、その責任を相手側になすりつける。こんな手前勝手な論理は、池田氏絶対という特別の世界では通じるのかもしれませんが、一般社会で通用するものではありません。

池田氏と創価学会の反社会的な体質はここにもさらけだされている

しかも、七四年十月〜十二月の話し合いと「協定」のなかで、創価学会の立場として表明した言葉、たとえば、「科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない」などの言葉に、一片の真実性でもあったのなら、「協定」そのものの成り行きがどうなろうと、それ以後今日まで、あのような反共主義の態度はとりえないはずです。

「協定」とそれ以後展開された池田氏と創価学会の行動は、この集団が、自分たちと他の組織との相互関係といった公的な問題についても、汚い政治的策略に訴えて恥じない集団であることを、自分たちの言動そのものでさらけだした歴史でもありました。

※    ※

三つの問題で、自分がかかわった「歴史」を扱う池田氏のやり方を見てきました。そこでは、「歴史」の世界でもどんな偽りも平気で、自分に都合の悪いことは歴史を片端から書き換えてしまうという無法さと同時に、何をやっても創価学会はいつでも「善」で、相手が「悪」だという「究極の独善主義」が、すべてをつらぬいていました。ここに、池田氏の率いる創価学会と公明党の体質がはっきりと出ているのです。(S)

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