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『角栄、もういいかげんにせんかい』(1)

藤原弘達

角栄からの突然の電話

昭和四十四年(一九六九)十月四日の早朝のことだった。世田谷の自宅に、田中角栄から突然の電話があった。

このときから、私と田中との宿命的な対決がはじまったのだ。

軽井沢で吐血した二日後に田中が逮捕されたという報道に接したとき、過去のいまわしい悪血を一気に吐き出したという、なんとなくサッパリした実感を味わったのも、七年前の一本の電話からはじまった彼との暗闘が、私の脳裏に去来したからにほかならない。

昭和四十四年当時、田中角栄は自民党幹事長であった。それまでに、何度もマスコミのうえで対談したことがあったが、彼との個人的なつき合いはまったくなかった。それだけに、家の者が電話を受けて、「田中さんから電話ですよ」といって取り次いだときに、

「自宅に電話をしてくるような田中さんとは、一体、どこの田中なのか」と、

私はいぶかりながら、受話器を耳にあてたものである。

「わしだ、角栄だ、角栄だ」

例のガラガラ声である。私のガラガラ声も〃定評“のあるところだが、田中の声も特徴のある声だ。それにしても、田中角栄からの突然の電話には、いささか首をかしげざるを得なかった。

「朝早くから、一体なんだい。あんたから電話をもらったことなんか、いままでになかったじゃないか。どうしたの、わさわぎ電話してくるなんて……」

「おお、弘達つぁん、あれだ、あれだ……。本よ、本。あの本、なんとかならんかなあ」

それで、私はピーンときた。しかし、とうとう自民党の幹事長までが出てくるとは……。

「そいつは驚きだ。角さん、だれに頼まれたんだい」

「そりゃ決まってるじゃないか。公明党の竹入委員長から泣きつかれたんだよ」

〃本〃とは、その年の十一月に日新報道から出版される予定になっていた私の『創価学会を斬る』のことである。

私の出版に対する妨害工作は、なにもそのときがはじめてではなく、『創価学会を斬る』の予告が出た八月末から、すでにはじまっていた。その意味では、田中角栄の登場はひとつのクライマックスであったといっていいだろう。

評価すべきは評価して、危険性を指摘

公明党が結成されたのは、昭和三十九年(一九六四)十一月十七日だが、創価学会が政治活動に乗り出したのは、二十九年(一九五四)に文化部を新設してからである。その年の四月の統一地方選挙では、都議会議員一、区会議員三十二、主要都市の市会議員二十名を当選させた。

そして、三十一年(一九五六)七月の参議院議員選挙では、全国区二、地方区一名を当選させ、国政の場に議員を送り込むことに成功した。

それからは選挙のたびに当選者を増やし、三十五年(一九六〇)に池田大作が会長に就任、その翌三十六年(一九六一)に公明政治連盟を結成、三十九年に公明党の結成にいたるわけである。

私は、創価学会の政治活動については、当初から注目していた。講演とか談話の形式では、たびたびその内蔵された問題点を指摘していたが、創価学会についでの論評をはじめて公にしたのは、『時』の昭和三十七年(一九六二)四月号に発表した「参議院の目〃創価学会〃−第三勢力をねらうその実力と組織」と題したレポートであった。

この論評は、創価学会の将来に危険を感じつつも、あくまでも学会を客観的にとらえようとしたもので、評価すべき点は評価し、危険性は危険性として指摘したものである。

そのあと、『文藝春秋』昭和三十八年(一九六三)七月号の誌上で、「宗教団体か政治団体か」というテーマで創価学会について語る座談会が行なわれた。出席者は私のほかに、作家・平林たい子、歴史学著・林健太郎、心理学者・宮城音弥らであった。

この座談会の意図は、決して創価学会を徹底的に批判しようとしたものではなく、創価学会についてのあたりさわりのない意見をきくというものであったが、そこにおける私の発言は、その後の研究と調査の結果によって、終始一貫、学会のもつ諸問題を厳しく指摘するものだった。

先の『時』に論評を発表したときにも、激しい抗議の手紙があいついだが、座談会が掲載されたあとの抗議は、 一千通にものぼった。この熱狂的ともいえる反応に接して、私はいまさらのように、創価学会とは一体なんであろうかと、深刻に考えざるを得なかった。

抗議の中に、「学会の幹部に会いもしないで」というものが多かったので、三十九年には、学会会員の実証的調査をやると同時に、原島宏治、北条浩、秋谷城永(栄之助、現・創価学会会長)、藤原行正ら学会幹部に会って、いろいろと突っ込んだ話し合いをしていた。

学会会員の実証的調査を試みた理由は、次のようなものである。

創価学会は、戦後社会に対して無視できない影響をもち、そのあつかい方いかんでは、日本の将来をひどく誤らせるおそれがあるが、逆にうまく処理すれば、よいほうに発展させるためのエネルギーになるかもしれない。そのためには、池田大作会長に会って彼の思想や人間性について取材するよりも、一般の学会会員がどのようなものの考え方をしているかを知るほうが先決ではないかーそう考えたからである。

これによって、私は、単にマスコミにおける興味の対象としてではなく、できるだけ裏正面から実証的社会科学的に取り上げようとしたのである。

懐柔策と露骨な言論弾圧

そのころから、創価学会が言論弾圧を露骨にやり出し、妙な事件を引き起こしているという噂が、私の耳にも届いてくるようになった。

私自身に対しては、抗議の手紙は数多く来ていて、中には指令にもとづく組織的な行動ではないかと思われるものもあったが、私の言論を封じ込めようとするような直接的な圧力はなかった。

それよりも、創価学会の総本山・大石寺や学会本部に来てみないかとか、創価学会系の潮出版社が発行する雑誌『潮』になにか書いてほしいとか、学会主催の講演会に出席してほしいなどといった、いわゆる懐柔策が中心だった。

しかし、私がそういった懐柔策に容易に迎合せず、一貫して学会に対する批判的姿勢を崩さなかったため、彼らとしては、一種のいらだちのようなものを感じていたに違いない。

その結果、昭和四十年代に入って、〃見えざる手〃が身辺に覆いかぷさってくるのを、漠然と感じるようになった。

当時、私は明治大学教授だったが、マスコミ活動が多忙になり、だんだんと〃タレント教授〃のような様相を呈しつつあった。そうした私の立場に対して、それまでとは違った奇妙に批判的、中傷的な空気が、ひたひたと押し寄せてくるようになったのだ。

昭和四十一年(一九六六)九月、大宅壮一らと文化大革命発動下の中国訪問をしたあと、引き続きカナダ政府の招待で同国をふりだしにアメリカ、ヨーロッパにテレビ・ロケ隊を連れて海外旅行するということになった。ところが、ときの教務部長・松尾弘教授が、私の海外出張はカナダ政府の招待によるものではないといいがかりをつけ、ために急速、予定を繰り上げて帰国するという事態が起こる。カナダ政府は、自国をマスコミに紹介してくれるタレントとして私を招待した。私はときの駐日大使にじかに会い、旅費としてカナダ政府発行の小切手ももらっていたので、「カナダ政府の招待により……」ということで出張旅行に出たわけだ。しかし教務部長の松尾は、それを不正な出張として、教授会で問題にしたのである。

帰国して私は事実をそのまま教授会で説明した。まことにぼかぼかしいということで、むろん、だれもとやかくはいわない。どうやら私の身辺で奇妙な足の引っ張りがはじまったという印象を強く受けた。その後、松尾弘なる男は定年一年前に創価大学に就職し、いまも教鞭をとっているという事実から、私に対するなんらかの個人攻撃の示唆を受けていたのではないかという疑いを抱いたものである。

創価学会による言論・出版妨害の事実について、まず私の耳に入ってきた噂は、元学会会員だった植村左内の学会批判書が闇から闇に葬り去られたらしいという事件であった(これは、のちに明らかになる)。その段階では、学会の内紛ぐらいにしか思っていなかった。ところが、四十二年(一九六七)になって、創価学会・公明党の言論抑圧は、かなりはっきりした形で表面化するようになった。

その被害を受けたのが、当時、西日本新聞論説委員と自称していた福島泰照なる人物、のちに『月刊ペン』事件で創価学会との長い裁判沙汰の中心になった男である。福島は隈田洋というペンネームで『日蓮正宗創価学会・公明党の破滅』という著書を出そうとした。福島が東北出版社の社長に原稿を渡したのが四十二年十一月、東京ではヤバイというので北九州市の日進印刷に印刷を頼み、同社は一カ月ほどして信頼できる二人の従業員に頼んで自宅で写植を打たせた。

しかし、印刷部門にまわったときに情報が洩れ、九州の印刷業界の最高幹部が印刷中止の圧力をかけ、東京ではゲラが出た段階で、日本大学の古田重二郎会頭が事前検閲を強硬に迫った。

北九州では剣木亨弘文相も一枚加わって日進印刷に圧力をかけた。出版社への脅迫もあいつぎ、ついに出版社の社長が事前検閲に応じ、それは日大の会頭室で行なわれた。四十三年(一九六八)二月、それでも本はでき上がった。しかし、この本は「初版即絶版」ということになり、一冊も小売りには出なかったという。

エスカレートした私への中傷

いっぽう、私に対しては、私の論評に対する反論という形ではなく、私個人に対する、あるいは私の教授という立場に対する中傷やいやがらせが、常軌を逸するほどにエスカレートするようになってきた。私のマスコミ登場のチャンスを押しつぶし、教授としての地位を奪ってしまおうとする意図のもとでなされたことは明白であった。

そうした状況の中で、創価学会・公明党を刺激し、妨害活動をいっそうエスカレートさせるきっかけとなったのが、私が『新評』に十回にわたって連載した「につぼん検察」シリーズの中の「公明党七つの大罪」という論評であった。

当時、「七つの大罪」というフランス映画が上映されており、その題名を拝借したものであるが、それまでの私の創価学会・公明党についての調査と研究の結論であったといってもよい。この論評は、その後、『創価学会を斬る』の中に、「創価学会・公明党七つの大罪」と少しタイトルを変えて、ひとつの章として収録したが、それは次のようなものである。

@政教混濁の罪−政教分離の大原則への違反。
A時代錯誤の罪−批判なき個人崇拝。
B他を呪うものの罪−反社会性をどうみる。
C八方美人の罪−りっぱな政策の羅列。
D強きをもって弱きをくじくの罪−近ごろ消えた学会批判。
E愚民化誘導の罪−「幸福製造機」に魅せられた人びと。
F「虚業」繁盛にすぐる罪−創価学会限界説の根拠。

この論評に対する私への圧力もさることながら、『新評』編集部に対する脅迫は、実にエゲッないものであった。それは、この論評が雑誌に出る前からはじまっていた。この論評を掲載するなら銀行関係に手をまわすとか、気のきいた執筆者は絶対に『新評』にものを書かせないように手をまわすといったものまであった。

相手は当時、六百万世帯からの信者をかかえるマソモス宗教団体である。だから、こうした脅しをかけれぼ、たいていの出版社や執筆者は恐れをなして筆を曲げるか、引っ込めてしまうと思っての脅迫であろう。

もちろん、私の論評を掲載した号が発売されてからも、広告代理店などに手をまわして、あの手この手の圧力をかけてきた。そのために、編集長はノイローゼになり、雲がくれしてしまうという悲劇まで起こつたのである。

燃え上がった反抗心

昭和四十四年(一九六九)が近づくと、新たに創価学会の問題をめぐる〃被害者〃が出てきた。『公明党の素顔』を書いた毎日新聞記者・内藤国夫である。

彼がはじめ三一書房から執筆を依頼され、引き受けたのが昭和四十二年(一九六七)一月。出版社が出版予告を出すと、学会側は、筆者が好ましくないといったようなしつこい干渉を繰り返し、ために、内藤は都庁や自社の幹部からも一種の妨害を受けるようになる。

書き上げて出版承諾願いを毎日新聞社に出したところ、当時の社会部長が原稿を読みたいといい出した。三カ月してやっと反対意見が返ってきた。

禁止をいいわたされはしなかったが、意を汲んで書きなおしたうえで出版社に持ち込んだけれど、ときすでにおそく、三一書房はおりてしまっていた。ようやく承認を得たのち、出版社を探して見つけたのが、工−ル出版社という小いさな出版社である。

次はこの出版社に竜年光とか北条浩ら、学会の幹部が足しげく通って、買収工作を試みはじめる。内藤個人にも干渉してくる。公明党委員長・竹入義勝も乗り出す。しかし、それでもその本は刊行されることになったが、取次に委託の扱いを拒否され、広告も思うようには出せないという情勢になり、さらに笹川良一までが買収に乗り出し、出版社は事務所の追い立てまで食う。〃『創価学会を斬る』事件〃が派手に表面化した段階で、『公明党の素顔』のほうもようやく自由に販売できるようになったというのが真相であった。

こうした創価学会・公明党の言論弾圧を目のあたりにするにおよんで、私のこの種の圧力に対する反抗心は、いやがうえにも盛り上がらざるを得なかった。

終戦を迎えたとき、私は二十四歳だった。昭和四十四年には四十八歳になる。つまり、戦争で死んだ同級生よりも二倍、生きたことになるし、あの戦争で死んだことを思えば、戦後は余生のようなものだ。

ひとつ命がけの勝負、だれもやれないようなことで、せめて学徒出陣で死んでいった者たちへの供養になるような仕事をしたい……。そんな気持ちが、私の内部にムクムクと湧き起こってきたのだ。

そして、戦中派の私としては、いいたいことも満足にいえない時代に多感な青年時代を送り、戦後になってやっと自由の世になったと思っていたところに、こうした言論に対する暴力的ともいえる抑圧である。人間としての自由まで束縛されるとあっては、黙って引っ込む気にはなれなかった。

「これは、信条の自己確認であり、生き甲斐の実践だ。こうなったら、徹底的に闘ってやるぞ」

私は創価学会・公明党の内蔵する諸問題を指摘すること以上に、人間の権利を確保するための闘いとしての認識を強めていったのである。

綿密かつ秘密裏の執筆

昭和四十四年(一九六九)五月、私は日新報道から「この日本をどうする」という全五巻シリーズを発刊することになって、その中の一冊に、『創価学会を斬る』を入れることに決めた。

この本を出すにあたっては、かなり綿密な実態調査と、大学のゼミの学生十数人と二年にわたって研究会をやりた実績があったから、二原稿を書くことについては、まったく問題はない。最大にして唯一の問題は、この本をどうやって出版するかということだった。

懇意にしていた書店、出版社主のだれにもちかけても、「おやめなさい、身辺が危ないですよ」という返答が返ってくるばかり。ある古書店主などは、「先生のその本が出たら、神田の街を逆立ちして歩いてみせる」とさえ、冗談めかしていったものである。

そこで、いろいろ検討した結果、創価学会の息のまったくかかっていない小さな出版社を選ぶことが肝要だった。そして、発刊まで秘密を守ることができ、学会から圧力をかけられた場合、それに屈することなく最後まで頑張ることができるかどうかが、第一の選定基準であった。

そこで登場してきたのが、日新報道という小出版社である。

最初は、この出版社が当方の条件にピヅタリ合うかどうか判断できなかったが、結果的には、十分に頑張り通すことができたのはさいわいだった。

そこの社長の綿祓幹夫は、経済雑誌を発行し、主として中小企業の経営者をつかまえてきて私との対談を載せてその見返りに広告料を取る、いわゆる〃トリ屋〃を業としていた。当人がトリ屋稼業をやめて小なりとも出版をはじめたいといい出したので、それならと彼に話をもちかけたわけだ。

編集長には才気のある皆川隆行を起用し、さらにその補佐役として遠藤留治をグループに引きいれた。

三人とも三十歳前後、とくに社長はトリ屋の本能として、なにかドカンと一発あててやりたいというゲリラ的な小ジャーナリストの〃野盗〃的群のひとりであった。

出版の道のシロウトだけに妙な計算などはせず、若いから無茶なこともできる。それに、本当のこわさをまだあまり知らず、すこぶる元気がいい。

もっとも彼らとしても、本を出すにあたってのそれなりの困難を十分に承知し、覚悟はしていた。しかし、やられて失敗しても、彼らは身が軽い。被害も少ない。成功すれば、それなりに莫大な利益を得ることができる。かなり、山師的な判断をもって私の出版を引き受けたことは、まず間違いないであろう。

私は綿祓社長に、「この本は活字になっても出版されない危険がある。それでもいいか」ときくと、「いい」という。「資金はあるか」とたずねると、「五百万円ぐらいはある」という。

「それが全部なくなってもよいか」と念を押すと、「けっこうです」と答える。私も最終的には自費出版も覚悟しなければならないと思い、二千万円ほどを用意した。「やるべきときにやるのが男だ」と、いささか悲壮な覚悟を決めた。執筆上の助手としてもうひとり‘明治大学での直系「弟子」の富田信男(現・明治大学教授)を加える。

そして、私と富田、日新報道側の三人だけで、秘密裏にことを運ぶことにし、社内にさえカンコウ令を布いた。そして、十一月初旬の刊行を目ざしてスタートしたのが、七月のことであった。「この日本をどうする」というシリーズの第一巻を『日本教育改造案』とし、『創価学会を斬る』はあえて第二巻におさめることにしたのは、内藤国夫、植村左内、隈部洋らが出版の妨害を受けていたので、もしそういうことがありうるとすれば、私にはどのような形でくるであろうか、第一巻で事前の偵察をしてみたいと思ったからだ。

第一巻『日本教育改造案』の車内広告を、東京、大阪、名古屋、札幌等の大都市で出し、その片隅に、ごくごく小さく、第二巻『創価学会を斬る』の予告を出したのが、四十四年(一九六九)八月末のことであった。

「モノいえば唇さむし」

予告広告が出るやいなや、自宅の電話が鳴り出した。その反応の早さには舌を巻いた。

「いま出ている広告は、『日本教育改造案』のはずなのに、これではどちらが第一巻なのかわからない」

電話は学会会員からのものであることは間違いなく、どれもハンで押したように、「あの本を出すな」の一点張りである。まだ原稿もでき上がっていないうちから、これでもか、これでもかという電話攻勢に、さすがに私も驚かざるを得ない有様であった。これは、内藤国夫『公明党の素顔』のケースとまったく同じで、当然、予想していた事態であるから、いささかも動ずるところはなかった。

創価学会・公明党には、前々から私を監視する役割を担った者がいた。東京都議会議員・藤原行正である。藤原都議はことあるごとに私のところにクレームをつけにきていた。これは戦前の特高警察のやり口と同じである。『創価学会を斬る』の予告広告が出た直後も、この〃クレーム係〃はすぐに私のところにやってきた。彼の要請は、次のようなものであった。

@出版を中止してもらいたい。
A題名を変えてもらいたい。
B出版時期を延ばしてもらいたい。
C原稿を見せてもらいたい。
D池田大作会長に触れないでもらいたい。

私はきっぱりといった。

「君は憲法が保障している言論・出版の自由の項目を知らないのか。君のいうことは明らかに圧力ではないか。公明党は憲法擁護をうたっているようだが、こんな憲法を踏みにじるようなことをして、なにが憲法擁護だ。そんなことをきくような俺だと思っているのか」

執勤なまでによくねぼった藤原都議だったが、これには返す言葉もなかったようだ。これまで学会批判の記事や論文がほとんどなかったのは、おそらく、たいていの執筆者が執瑚な圧力にうんざりして、〃自己規制〃を強いられたのであろう。

たとえば、『週刊文春』昭和四十五年(一九七〇)一月十二・十九日合併号の「各界五十氏、創価学会への直言」をみると、約四割の人たちが発言を断わっているというほどだ。

その冒頭にコメントを拒否した高名な作家なるものの発言を載せてあるので、ちょっと引用しておこう。

「〃直言〃だって? イヤだ。イヤだ。公明党はイヤなんだ。批判したら、また投書と電話で波状攻撃をされちゃたまらんもの。二、三回やられてるんだ。向こうは多数だが、こちらはひとり。やりきれませんよ。僕はなにもいいませんよ。大体そういう不愉快な目に合わせる宗教と政党に、僕がいい感じをもっているはずがないでしょう。発言するとなると、どうしても悪口になっちゃう。そうなると、また学会会員たちの波状攻撃だ。なにしろ、モノいえぼ唇さむし、 一銭のトクにもならないぼかりか、実害があるんだから……」

「交通事故が多い当今だから十分気をつけろ」

不思議なことに、藤原都議は、「版元にあたってもいいか」という。私に了解を求めるような筋のことではあるまい。

「いけないという権利は俺にはない。どうぞご勝手に」

創価学会・公明党の日新報道へのアプローチは、九月四日に開始された。それも、日新報道側をヒルトン・ホテル(現・キャピトル東急ホテル)に呼び出すという高飛車なやり方である。そのときは、学会側は藤原都議ひとりであり、これまでの要求も、私に対する要求とほとんど同じものだったようだ。当然,版元は全面的に拒絶である。

ところが、交渉決裂となると、「交通事故が多い当今だから十分気をつけろ」と、脅しをかけてくる始末だったという。

これでは、暴力団の手口と変わるところがないではないか。

それから十日後に、彼らは再び私のところにやってきた。このときは、藤原都議のほかに、当時、聖教新聞主幹の秋谷栄之助(現・創価学会会長)も一緒だった。

私としては、何度、話し合っても返事は同じことなので、できるだけこうした会談は避けたかった。このときも、しかたなく会ったようなものである。私は自衛措置として、隠しマイクで会談の模様をテープに録音しておいたほどだ。

そして、九月十九日には、再び日新報道側を、今度はホテル・オークラに呼んで、再三にわたって、前回同様の要求を繰り返し、企画の変更を迫った。この日は、とくに「藤原弘達の本を出すなら、あらかじめ原稿を見せてほしい。また、もし出さないということになったら、かわりに創価学会・公明党で、より有利な儲かる仕事を依頼し、決して損のないようにする」ということを強調したという。つまり、事前検閲の要求と利益誘導である。

もちろん、日新報道はそのような誘いには、一切とり合わなかった。その後も、かずかずの妨害工作があって、十月四日の早朝、田中角栄からの電話となったわけである。

「公明党に恩を売っておくと、将来、俺にメリットがある」

「そいつは、出版の自由にかかわる大問題だよ。なんぼ角さんがいってきても、そう簡単にはいかんよ」

私は電話口で、田中角栄にいった。

「いや、それはわかっとる。だから、わしは竹入にもいったんだよ、弘達つあんのところに行って、君が三拝九拝、土下座してこいってね」

「そんなことをしたって、できんことはできんよ」

と、私は突っぱねた。

「まあまあ事情はわかってる。とにかく一度会ってくれないか。今夜はどうかな」

「いや、ちょっと……」

「じゃあゝ明日は」

「………」

「じゃあ、明後日は」

どんどんたたみ込んでくる。しかたなく、一応、会見には応ずることにした。会見の日は十月十一日、場所は料亭・千代新、時間は夜の七時半ということになった。

正直なところ、なんでも率直にいう性格の田中が、この問題ではどう出てくるか、非常に興味があった。また、自民党の幹事長といえば、総理大臣の次に位する最高の実力者である。自民党と公明党の癒着の程度を知るうえでも、都合がよかった。

隠しマイクを使って会談の模様を録音しておこうかとも思ったが、この問題で彼と会うのははじめてだから、それはフェアではないと考えて、やめることにした。しかし、ただポンとはねつけてしまうのではなく、とにかく相手にいいたいことはすべて喋らせて、よくきいておくことにした。

会談の席では、まず簡単な世間話のやりとりがあった。向こうからなかなか本件を切り出さないので、こちらから水を向けてみた。

「あんたがこうして出てきていることを、竹入以外では、どのへんまでが知っているのかね」

「池田会長は知ってる。それから、矢野(公明党書記長)も知ってる。その線までだ。こっちのほうは、俺と君だけだ」

「へえ、そんなもんかね。それだけであんたが出てくるとは、ちょっと考えられんなあ」

「いや、ぜったいにほかの者は知らない。だから、約束してくれれば、秘密は守らせる」

こちらにはやましいところはなにもないのだから、守ってもらわねばならない秘密などなにもない。

どうも田中は、自分のことを他人事のように錯覚しているらしい。

「だがね、角さん、すでに予告の広告も出ているんだ。俺が本を出すということは、世間が知っているんだよ。この段階で、俺が本を出さなかったら、どうなると思うんだい。言論人としての自殺に通じるよ。つまり、俺に死ねというのと同じことになるんだぜ。そんな無茶をいってもらっては困るな」

「いや、それはわかった、わかった」

どうやら私が簡単に引っ込みそうにないことを察したらしい。そこで一段落−。

「ところで、あんたは池田大作とも親しいの?」

と、私はきいた。

「ああ、あれとはツーカーだよ。彼の家にも行ったことがある」

「竹入なんかともつき合ってるのかね」

「そりゃもう、ずいぶんとつき合ってる。彼らはね、君がいうように、ファッショだとかなんとか、そんなこわいもんじゃないんだよ。まあ、未熟児だからね、わしが政治の指南をしてやっているのさ。親切にしてやると喜ぶから、いろいろと教えてやるんだ」

「どうして公明党と……」

「公明党に恩を売っておくと、将来、俺の政治生活のうえでメリットがあると考えているんだ。俺のような党人派は、野党の中に味方をつくっておかなければ、なかなかやっていけないからな。だから、こういうこともやるんだよ」

田中角栄らしい実に単純明快な論理であった。

「NHKなんかどうだ。ほかで儲けさせる」

「角さん、あんたはそれでいいかもしれない。公明党に恩を売って、福田に対抗して、将来、総理になれるかもしれないんだから。だけど、この俺は一体、どうなるんだ。あんたに口説かれて、ここでおりたら、弘達は金で買収されて落ちたといわれて、言論人としては、もうおしまいだ。たとえ金をもらわなくったって、買収されたといわれるんだよ。それじゃあ、私は生きている意味がなくなってしまうじゃないか」

「まあまあ、だからさ、なにも出版するなといっているんじゃなくってさ、初版は出しなさいよ。しかし、初版でやめる。少部数を関係者に配って、残りは公明党が買いとる。こういうことにしておけば、あんたの面子もつぶれずにすむだろう。初版を何部、刷るのかね。部数と値段をいってくれ。その分はちゃんと払おう。決して損はさせん」

やはりこの男は、貸し借りとか、損得でしかものを考えられないらしい。私にとっては、金のことなどすでに問題ではなくなっていたのだ。それが、理解できていないのである。さらに、田中はたたみかけてきた。

「NHKなんかどうだ。あるいは、公明党も、君にいい条件でものを書いてもらうとか、ほかのほうで儲けさせるともいっている」

ここで、私はちょっとカッとなった。

「とんでもない話だ!」

私の返答を聞いて、田中は、これは意外だというような顔をした。こんなにいい条件を呑まないお前はバカだとでもいいたげである。

「うん、よっしゃ、わかった……。よくわかったけれど、要するに、わしのほうがこうやつて頼んでいるんだから、いっちよう俺に借りをつくらせてくれんか。これだけ無理なことを頼むんだから、この借りは絶対に忘れん。これをきいてくれれば、君が今度、俺になにをいってきてもなんでも無条件できく。どんな無理でもいいぞ」

「どんな無理といっても、俺からあんたに頼むことなんかないではないか」

田中にとっては、政治評論家とかジャーナリストなどは、なんらかの見返りを用意すれば、いうことをきかない者などいないというくらいの自信をもっていたようだ。

結局、その日は、その程度の話し合いで、会談は終わった。というより、私のほうから、打ち切った形であった。私が席を立つと、田中は、「今度の場所と時間は電話するからね」といった。

二回目の角栄会談−「覚悟は決めてきたんだな」

田中との二回目の会談は、十月二十三日、赤坂の〃のぶ中川〃という料亭で行なわれることになった。といっても、田中のほうがいつぼう的に決めたことである。

私がその場に行くと、先に来ていた田中は、私の顔を見るなり、ひと言いった。

「覚悟を決めてきたんだな」

見ると、六人分の席が用意されている。どうも手打式の準備らしい。私はその場の雰囲気から、今日は早めに切り上げたほうがよさそうだと判断、すぐさま用意してきたメモを読み上げた。

「一、言論、出版の自由を妨害しないこと。これは憲法違反の疑いがあるだけでなく、刑法の営業妨害、脅迫、独禁法違反の疑いがある。

二、 『創価学会を斬る』の出版にあたって、第一の点を厳守すること。初版は十万部。この本をどういう形態で買い占めようと自由であるが、一切のヤミ取り引きはしない。

三、田中幹事長、あなたの依頼もあったのだから、この際、初版十万部で打ち切る。

一、二の点は妥協できない。これで終わりだ、いくらなんといわれても駄目だ。これ以外のことでお話してみても無駄だと思うから、これで引きとらせていただく」

額にタラタラと汗を流す角栄

いうだけのことをいうと、私は席を立とうとした。すると、田中は、

「待ってくれ、それは困る。八時に向こうのほうから連絡が来るので、それまで待ってほしい」

といって、おしとどめた。私は座りなおした。それから三、四十分、雑談しながらビールを飲んだ。仲居さんから連絡があって、田中が階下におりていった。

電話口で喋っている声が聞こえたが、その内容まではわからない。田中と電話の相手は、二十分ぐらい話していた。

そして、なんとなく気の抜けた表情でもどってきた田中は、こういった。

「これ以上、交渉はしない。いずれあちらで検討したうえで、わしを通じて、あんたのほうに返事をする」

どういう意味なのか、私にはわからなかったが、いずれ田中からなにかいってくるのだろうと考えて、その場を辞することにした。

だが、私はもともと田中という人物が嫌いではなかったし、田中ともあろうものが、こんなくだらないことに首を突っ込むのは、彼のためにもいいことではないと思ったので、ひと言いってやりたくなった。

「なあ、角さん、このあいだの話では、あんたはこれから総理大臣を狙うといった。まことに意気さかんなものだと思う。しかし、いやしくも自民党の総裁になり、総理大臣になろうとする者が、このような言論の自由を妨害するようなことにひと役かうというのは、あんたの将来にとって、決していいことじゃないと思う。これはあんたの汚点になる可能性がある。ここのところのけじめは、きちっとしておいてもらいたいと思う」

田中は額にタラタラと汗を流すだけで、なにもいわない。黙って私をにらみつけるだけであった。

私としては、田中が公明党をたしなめてくれることを期待したわけである。しかし、田中はこれっきり、この問題からさっさと手を引いてしまって、「俺はもう知らん」といい出した。私の最後の言葉がこたえたのかもしれない。

実に奇妙なもので、この問題に田中が交渉者として登場してからは、私に対するいやがらせはまったく影をひそめていた。ところが、田中が手を引いてしまうと、まさにタイミングを測ったように、ものすごい妨害が再開されたのである。その間の脈絡はまことに一貫していたといっていいだろう。

「方針は、百八十度、転換だ」

田中との交渉が決裂したあと、私は日新報道の綿祓社長と今後のことについて話し合った。この社長は、当時、二十九歳、田中とは同県の新潟県は直江津の出身である。

「田中角栄があいだに入ったうえで決裂したのだから、政治的にもゆゆしき問題になるおそれがあるが、この先、どうしたらいいと思うかね」

と、私はきいた。

「そうすると、創価学会・公明党とだけでなく、田中角栄をも敵にするということですか」

「事態の進展いかんでは、そうなるかもしれん」

「私はもう自信がありません」

「じゃあ、やめるか」

「やめるわけにもいかんでしょうし……」

あなただけが頼りです―綿祓社長の顔には、そう書いてあった。私はいった。

「この問題は、単に本を出版するとかしないとかいうことではない。なるべく君には迷惑をかけないように配慮する」

そのときの私の心情は、この問題が自民党の中枢におよんだことで、政治学者、政治評論家の私に〃天与のヒノキ舞台〃が用意されたわけだから、これは万難を排してやらなければならないというものだった。私はスタッフに宣言した。

「いままでは、向こうからケチをつけられないように留意し、ややアカデミックな内容の本にするように表現を抑えてきたが、こうなった以上、表現をできるだけ激しく、私の怒りが読者に伝わるようなものに書きなおそう。ときにはエゲツないと思われるような表現も使う。方針は、百八十度、転換だ」

この本が出版されたあと、当時の毎日新聞政治部の三宅久之副部長は、このようにいった。

「これでは、創価学会嫌いな人は読めるけれども、学会の人が読めば、反省の前に、こんちくしょうということになると思う。本当に反省を求めるということで書くのであれぼ、もうちょっと書きようがあったと思う」

むろん、私が創価学会・公明党の研究をはじめた意図もそこにあった。しかし、事態がそこまでいった以上、どうせ学会は私の本も学会会員に読ませないようにするだろう。そうした学会のやり方との闘いなのだ。

田中角栄が登場したことで、圧力は最高潮に達しているのだから、ここで論調をゆるめたのでは、妥協を意味し、一歩後退したことになる。私が決意したのは、毒をもって毒を制す―つまり、劇薬療法であったのだ。

そんなわけで、ほとんどでき上がっていた原稿に急速、手を入れ、激しい調子の本につくりなおす作業に取りかかったのである。

超満員の会場から上がった歓声

談判決裂とともに、彼らの電話によるいやがらせば、猛然とエスカレートした。

「交通事故に気をつけろ」

「火の用心はいいか」

「創価学会・公明党を批判した政治家や評論家はみんな早く死んでいる。お前の命も長くはないぞ」

「お前の家を爆薬で爆破するぞ」

「俺は右翼だ。 一週間以内にお前を抹殺する」……。

主として私の自宅に、 一日二十回以上、そのような内容の電話がかかってきたし、同様の内容の脅迫状状も来た。ここに、創価学会・公明党の〃抹殺の論理〃というものがはっきりと出てくる。とどのつまりは、「邪魔者は消せ」ということなのだ。

脅迫がさらにエスカレートするにつれて、私や家族の身に危険を感ずるようになり、たまりかねた私は警察に相談した。警察は、電話機に録音撥をつけて、電話のやりとりを録音しておくようにという。そこで、テープレコーダーをセットした。

そして、私に電話がかかってきたときに、「この電話は録音しているんだ」と告げると、彼らのやり口は、ひと言も喋らずにガチャンと電話を切る方法に変わった。夜の夜中に、一時間ごとにかかってくる。不眠戦術というわけだ。

出版社にもいろいろないやがらせが仕掛けられた。出版社の周辺には見張りが出るようになり、動けば尾行がつくようになった。

いつまでもこういうことが続くのではたまらないと考えて、私は出版を急がせることにし、十一月中旬刊行予定を十一月六日刊行に変更した。編集部は徹夜の強行軍、私自身も一日三時間、寝たか寝ないかの状態である。

そして、広告代理店に依頼していた車内ポスターの掲載日が十一月十五日から八日間と決まった。十月三十一日には、やっと見本刷りができ上がってきた。そのとき、私は講演を頼まれて、青森県三沢市に行っていた。その場に、綿稜社長が見本刷りを持って駆けつけてくれた。私は会場で、その見本刷りを高々と掲げ、叫んだ。

「皆さん、ただいま本ができました。ぜひ読んでください」

私がいい終わらないうちに、超満員の会場から、「やったあ!」という歓声が上がった。私は、「これはいけるぞ」という感触をはっきりと味わっていた。

二台の宣伝力―「この本を読んで下さい」

しかしながら、ここで大きな問題に遭遇することになった。はじめから予想していなかったわけではないが、大手取次店のほとんどが、『創価学会を斬る』の新刊委託扱いを、理由にならない理由で断わってきたのである。引き受けたのは、中央社のみ、あとは「書店から注文があれば扱う」という、ちょっと文句のつけようがない返答で、実質的な拒否である。

日新報道はにわかづくりの出版社だ。この本が売れないとなったら、つぶれるしかない。会社の存亡がかかっている。そこで、社員が手分けをして、都内の書店を片っ端からまわって注文をとって歩くことになった。

広告、とくに新聞広告も、創価学会の圧力を恐れて、引き受けてはくれない。これまた当初から予想されたことであった。そこで、なんとかこの本を世の中に知らせるためによい方法はないものかと思案した結果、都内を宣伝力−で走ることにした。出版としては異例の宣伝活動である。

はじめは私自身が宜伝カーに乗って、マイクで呼びかけるつもりであったが、これでは効率が悪いし、私にはほかにやる仕事もある。そこで、あらかじめ私の声で宣伝文を録音しておいて、二台の宣伝力−でそれを流しながら走るということになった。

「……この本を読んでください。というのは、私は、創価学会・公明党は、いまや自由な言論の敵であると確信するからです。……この本を出すうえには、いろいろな圧力がかかってきました。憲法に違反するのではないかと思われるような圧力です。その圧力をはねのけ、生まれてきた、いうならば、〃難産の子〃であるともいうべきこの本を、できるだけ多くの国民大衆の人に読んでいただきたいのです。……

言論・出版の自由のないところに、民主主義はあり得ません。現状を憤るだけの人が、なにゆえに、公明党・創価学会の行なう言論に対する卑怯な圧迫を憤らないのでしょうか。私は、創価学会・公明党がこの本に対して加えた圧力に憤り、あえてこの『創価学会を斬る』なる本を、国民大衆の皆様に送ります。……」

ショックだった大宅壮一の拒絶

私は、この本の推薦文をだれか知り合いの有名人に依頼する必要を感じ、かねて親交のあった大宅壮一に頼んだ。大宅は一度は引き受けながら、翌日になって、「こんな本の推薦はできん」といって、断わってきた。

それまでに私が出した本にはいつも気軽に推薦文を寄せてくれた大宅が、一夜にして態度をがらりと変えたことに、私はショックを受けた。

そこで、日新報道を通して、当時、TBSテレビ「時事放談」のレギュラーをしていた評論家・小汀利得に依頼する。小汀老は二つ返事で引き受けてくれた。実は彼も〃被害者〃だったのだ。推薦文は次のようなものであった。

「かつて私は、創価学会・公明党の欺臓性を指摘したことがあった。ところが、それに対する反論たるや言論の次元を越えた、まさに狂気の沙汰だった。 個人でもそうだが政党なり、団体の真の姿は、批判に対する反論の態度をもって知ることができる。憲法で、言論・報道・表現の自由を保障されたこの日本において、かかる暴挙を敢えて行なう創価学会・公明党のヒステリックな態度こそ、国を亡ぼす因であり、絶対に許せない行為だ。

今度、藤原弘達君が蛮勇をぶるって『創価学会を斬る』という本を書いたが、豊富な資料を駆使したその内容といい、見識といい、創価学会・公明党を斬るにふさわしい。

日本国民必読の書として本書を推薦する」

そして、十一月九日の「時事放談」では、この本に言及、「今度、藤原君が思い切ったことをやってくれた」と発言してくれた。これがきっかけとなって、ものすごい反響を呼ぶことになる。

故・小汀老は頑固一徹の人であったが、言論人として、一本、太いバックボーンをもっていた。私は小汀老の反応に、涙が出るほど感激したものである。

こうして、『創価学会を斬る』は世に出ることになった。そして、かねて手配ずみの車内ポスターの出る時期になった。ところが、広告代理店から、車内ポスターができないといってきた。その理由は、「斬る」という表現が穏当ではない、「本格的批判のテキスト」というサブタイトルがアジビラ的であるというものであった。

まったくわけのわからない理由で、要するに創価学会・公明党から圧力をかけられたことを証明しているようなものである。

そのほかにも数々の妨害があって、一時は出版社も「資金が続かない」と、音を上げたこともあった。私も、自己資金を二千万円ほど、いつでもおろせるように、普通預金に変えて用意しておいた。

かなり行きづまった状況になったところに、不思議なことに、『創価学会を斬る』を売りたいと申し出てくる書店があいつぎ、そして、決定的ともいえる「時事放談」における前述の小汀老の発言である。十一月中には二万部、十二月には、ピッチがぐんぐん上がって、八万部の注文があった。「これで、なんとか年を越すことができる」と、出版社も私も、安堵の胸をなでおろしたものである。

佐藤栄作の激励電話

『創価学会を斬る』が出版されてまもない十一月十八日、ときの佐藤栄作首相はアメリカを訪問、二クソン大統領との会談の結果、昭和四十七年(一九七二)中に沖縄施政権返還の歴史的な声明を発表されたわけだが、訪米に先立つ十一月十四日、佐藤首相から、斎藤一郎秘書官の電話を通じて、

「よくぞ勇気ある本を出された。夫人ともどもに読んで大変に感動した。これからも頑張ってください」

という伝言を受けた。

佐藤首相は、訪米前の党首会談で、当時、民社党の西村栄一委員長に会ったとき、

「あんた、藤原君の『創価学会を斬る』という本を読んだかい。公明党はナチスが台頭したときのやり方とそっくりだと書いてあるぜ。お読みでなかったら、手もとに余分なのがあるから、なんなら差し上げましょうか」

といわれたという。

その後、西村委員長は私と旅先で会ったとき、わざわざ握手を求めてきて、「総理に勧められて読んだよ。おそれいったね、あんたの勇気には」と、激励してくれた。

この年は年内に解散・総選挙が決定的な状勢であった。事実、十二月二日に解散、十二月二十七日に憲政史上初の師走選挙が行なわれた。そのために、公明党としても、私の『創価学会を斬る』の出版に対して、躍起になって妨害を試みたわけだ。

その総選挙の直前、私は飛行機の中で、たまたま社会党の成田知巳委員長とも一緒になった。成田委員長は私を見つけると、声をかけてきて、「名著拝見、すぼらしい。感激しましたよ」という挨拶を受けた。

同じ社会党の佐々木更三元委員長とも飛行機の中で隣り合わせに座ったとき、「あの本は売れるよ。学会・公明党に対する本格的批判の書というサブタイトルをつけるといい」などと、きわめて〃資本主義的〃な忠言までしてくれたものである。

いっぽう、公明党の竹入委員長は、「藤原という人物も、その仕事のことも知らない」と公言してはばからず、 一切の言論・出版の妨害の事実を否認し続けようとした。

ところで、昭和四十四年(一九六九)十二月の総選挙では、実に驚くべき結果が出た。

自民党二百八十八、社会党九十、公明党四十七、民社党三十一、共産党十四で、自民党は無所属から十二名の追加公認をして、三百の大台に乗せた。

自民党の解散時二百七十二議席からの躍進は、佐藤首相が昭和四十七年の沖縄返還の約束をとりつけた直後だったことからうなずけないことはない。社会党は解散時百三十四議席から、なんと四十四議席を減らしたことになる。民社党が現状維持、共産党は解散時四から十名増、そして、公明党は解散時二十五から二十二名の増加である。

この公明党の大幅議席増をみて、私はますます危機感を強くしたものである。

政治権力と商業マスコミの腐れ縁

私は『創価学会を斬る』の「まえがき」では、「政府与党の最要職にある有名な政治家」という表現を用いて、田中角栄の名前そのものを書いていなかった。

実は十月二十三日の料亭・のぶ中川における角栄との第二回目の会談のとき、私は、「約束さえちゃんと守ってくれれば、あなたのことは自分の腹におさめておいてもいい」と、彼にいっておいた。

私なりに筋を通したわけであるが、私が田中の名前を伏せたのには、もうひとつの理由があった。

それは、ことさら名前を伏せることによって、マスコミに対して、ひとつの問題を提起するという意図である。「さあ、政府与党の最要職にある政治家がだれか、あなた方が調べなさい」ということで、この本と、言論・出版の自由の問題に関して、マスコミの関心をつなぎとめておこうとしたわけである。

ただし、これは、私が「まえがき」を書いた時点での、私の考えである。とくに、田中との〃約束〃については、第二回日の会談以後、田中はさっさと手を引いてしまい、田中を通じて創価学会・公明党側から来るはずになっている返事は、まったくなかった。それだけでなく、田中との交渉決裂の翌日から、再び私や日新報道に対するいやがらせが再開されたわけだから、もはや田中の名を私が伏せておかなければならない理由はなにもない。

ただ、マスコミの関心を引きとめるという意図で、私のほうから進んで田中の名前を明らかにすることはしなかったまでである。

ところが、大手新聞は、『創価学会を斬る』の広告を拒否した関係上、バツが悪いのか、この本を明らかに黙殺する態度に出た。一片の記事はおろか、私なり日新報道のところに、取材にも来ないのである。

もっとも早く反応を示したのは、『週刊文春』で、それでも私のところに取材に来たのは十一月二十日、本が出てから二週間もあとのことであった。そして、その後、いくつかの週刊誌から取材があった。

しかし、週刊誌にしても、「政府与党の最要職にある政治家とはだれか」という質問をストレートにぶつけてくるところはまったくなかった。

政治権力と商業マスコミとの腐れ縁的関係のなせるわざであろう。

待ち受けていた「赤旗」からの取材

そのころ、公明党と共産党との対立がかなり激しく行なわれるようになっていた。

選挙を前にして、お互いにビラで攻撃し合い、ののしり合うような状況であった。それだけに、私は、この問題で共産党がどのような態度に出てくるか、楽しみだった。

私は、一般商業紙とは違って、若干の処女性をもった「赤旗」になにがしかの〃期待〃をし、その出方をじっと待ったわけだ。

当時の共産党については、私は昭和四十二年三月号の『新評』のシリーズ「にっぼん検察」の第一弾で取り上げ、かなり手厳しい批判をしている。その中で、私は、創価学会・公明党との関係に触れて、次のように書いている。

国内では、一体どのような方向がとられるであろうか。しばらくは、合法面の活動が強められることは間違いないだろう。党員と「赤旗」購読者層の拡大が大きな当面の目標であり、そのためにはいろいろな手が打たれることだろう。

第一は選挙対策である。当選者と票を伸ばすため、党の宣伝をするため、派手な大キャンペーンが展開される。それと同時に、票の重なり合う面のある公明党、創価学会対策がそれなりに強められることは間違いないといえる。

第二に選挙で伸びるための前提として、 一種の世論対策がクローズ・アップされる。具体的にはマスコミ対策である。

これまで、日共はマスコミを支配階級の言論機関としてさんざん悪罵をあびせてきたものだが、ここしばらくは、そのホコ先をやわらげて、できるだけマスコミに好感をもたれるようにふる舞うことが予想される。

第三は労組対策の強化と未組織労働者の組織化。目下のところ、支配下労組は二十三単産約八十万人と推定されているが、総評をはじめ各種労組の左傾化、共産党化をはかるというオーソドックスな方向である。

第四は大衆組織の拡大強化とその利用があげられよう。

その他、基地闘争とか平和運動とか、いろいろあるだろうが、おそらくは合法活動ギリギリのわく内で、いわゆる「反米帝、反独占」の闘いを進めることになるだろう。「自主独立路線」なるものでしみついた外国追随の印象をまずふり払い、合法闘争に重点をおいて、暗い非合法的イメージを後退させ、できるだけ大衆の日常的要求にタイアップする日常闘争も積極的に取り上げるというわけであるから、まず日共は当分は伸張しそうである。

そのうえ、保守政界のさまざまな腐敗は、日共に「正義の味方」という顔をさせるチャンスを増大させる。日共にとってその種の〃黒い霧〃は大いにプラスになることは明らかであろう。本当に日共にとって頭の痛い問題は、創価学会が、今後どう伸びてくるかという点にあるという気がする。

ともかく、こと日本の共産党に関する限りこれまでのやり方はまことに卑劣であり、しかも陰険でさえある。ヤミ討ちとか背信などは当たり前のことで、しかも常に陰に隠れて、同調者を操ることを当然視しているのである。

社会党、総評はもとより、労働者、さらには国民すべてまでも、日共の眼からみれば、利用するためだけに存在する「手段」にすぎないといってよいだろう。

となれぼ、共産党がいっそう〃正義の味方〃面をするために、保守政党のさまざまな腐敗を暴露してくることが考えられる。

つまり、共産党機関紙「赤旗」でセンセーショナルなキャンペーンを張る可能性の大なることが、予想されたわけだ。しかも、その段階では、創価学会・公明党批判のキャンペーンを真正面から正々堂々とできるのは、「赤旗」だけだったといえる。

十二月十三日、総選挙を控えて、NHKが「公明党対日本共産党」という三党間討論を放映した。その中で、共産党の政治・外交政策委員会副委員長・松本善明が、私の名前を出して、「創価学会・公明党による言論圧迫の事実があるのかどうか」と追ったところ、公明党の政策審議会長・正木良明は、「それはまったくの嘘で、事実無根である」と、きわめて明確に否定した。

私はこのテレビ放送を見ていて、「ああ、これだ」と、思わず大声をあげた。かたい番組とはいえ、NHKの全国放送である。何百万の視聴者がいたに違いない。その前で、地動説を否定し、天動説をとって、「天が動いている」といったようなものである。

思っていたとおり、その直後の十二月十五日、「赤旗」の木谷という記者が私のところに取材に来た。共産党がこの問題を公明党批判に利用できると判断していたことは間違いない。しかし、こちらとしても、歯に衣を着せることなく創価学会・公明党を批判できる立場にある「赤旗」を利用することができるわけだ。

「よう、僕は『赤旗』が来るのを待っていたんだよ」

私はいささか芝居がかった台詞で、「赤旗」の記者を迎えたものである。

「よし、こうなったら、某政治家の名前を公表しよう。それは、自民党の田中角栄幹事長だよ」

「田中幹事長……」

一瞬、木谷記者は放心したような表情を見せた。少なくとも共産党に批判的な言論をしている私が、自分に対して本当のことをいってくれるとは思っていなかったのかもしれない。

「そうだ。大体、NHKテレビの討論会という公の場で、公明党の代表が、出版妨害はしていない、全部嘘だといったのだから、私も黙ってはいられない。一切の事実を突きつけようではないか。闘いの火蓋は切られているんだ」

田中角栄には若干は気の毒なことをしたと思わないでもなかったが、しかし、彼が約束を破って逃げを打ったことからこうなったのだから、それ以上、彼の名前を伏せて闘うことはできない。そこで、私はきっぱりと、田中の名前を出したのである。

そして、そもそもの問題の起こりから、田中が登場してきて、二度にわたって会談がもたれたこと、その内容の一部始終を、私は「赤旗」の木谷記者に話したのである。

木谷記者は、その後、述懐している。

「藤原氏の口から田中の名前が出たとき、背中からタラタラと汗が出るし、全身がカッカ燃えるし、筆を持つ手は震えるしで、これは大スクープだと思った」

イデオロギーを越えたタイ・アップ

これ以後の共産党・「赤旗」のやり方は、私にはちょっと異様に映った。とはいえ、まったく予測していなかったわけでもない。

木谷記者はただちに党本部に、「私から聞いた事実」をもって帰り、宮本顕治書記長(現・中央委員会議長)をはじめとする党幹部がそれを検討したであろう。当時の「赤旗」編集長は、現副委員長の上田耕一郎である。そこで、彼らは、藤原弘達のいっていることは嘘ではないと判断した。

この時点から、彼らは、イデオロギー政党でありながら、イデオロギーにかかわりはないという立場を敢えてとるわけである。たとえば、「赤旗」は、大新聞が一切無視する中にあって、まさに商業新聞顔負けのスクープ精神をもって、私に肉薄してきたのである。

したがって、私としても、その努力と情熱を買って、イデオロギーを越えて、タイ・アップすることにしたのである。

このことに対して、私は、保守陣営、あるいはその筋の評論家から、「共産党に利用された」という批判を受けることになる。たとえば、政治評論家・御手洗辰雄は、『創価学会を斬る』の何版目かの推薦文で、「すばらしい本を出した、感動した」といってくれながら、ほかのところでは、「藤原は共産党に利用された。それが気にかかる」というようなことをいっている。

結果からいえば、それはまったく逆であるといえる。大手商業マスコミは頼かぶりを決め込み、創価学会・公明党の言論弾圧を暗に是認しているといってもいい態度をとっていたのだ。「赤旗」はこの問題に関しては、一時、共産党の機関紙であるという立場を〃忘れて〃、事実のみに即して報道を行なったことにより、言論・出版の自由の問題が社会に一大センセーションを巻き起こす火つけ役になったという事実をみれば、それは明らかであろう。

俗事的にいえば、『創価学会を斬る』は百万部の大ベストセラーになって、私の懐も潤ったし、小さな出版社の日新報道も、巨額の利益を得ることになったのだから、「赤旗」さまさまである。

しかも、共産党がそのような態度でことにあたるだろうことをはじめから予測していたのであるから、〃利用〃したのはむしろ私のほうといえるのではないだろうか。

ただ、当時の「赤旗」の記事の中で、「日本共産党は戦前から言論自由のために一貫して戦ってきた政党である」という彼らの常套句を、さも私がいつたかのように書いていたので、これにはただちに訂正を求めた。私は、「日本共産党が言論の自由を重んじるという立場に立ったということは、ひとつの成長であり、進歩であると評価する」といったにすぎない。これは、全世界的に、共産党といえば言論を弾圧することを旨としているという事実を下敷きにした言葉である。私の訂正要求を、「赤旗」はいとも簡単に受け入れた。共産党がそれほど柔軟とは思ってもみなかったが、それは、この際、私と争っては損だとの計算が働いたためであったのかもしれない。

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