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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月8日(土)
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 昨今、与党の一部政治家が、誤った「政教分離」の解釈を基に、創価学会の政党支援の活動が違法であるかのような論議を起こしています。「政教分離」、「信教の自由」とは一体、何でしょうか。ここでは、創価大学法学部の桐谷章教授に語ってもらいます。 

【プロフィル】
 きりがや・あきら 弁護士。創価大学法学部教授。宗教法を専攻。東京大学大学院修士課程修了。宗教法学会監事。53歳。著書に『信教の自由について』、『平和憲法を護るために』(編著)、『信教の自由を考える』(共著)、『政治と宗教を考える』(同)など

<1>信教の自由を考える
「信教の自由」は人権思想の根幹


 ――与党の一部議員が国会において、「政教分離」の問題を取り上げ、宗教団体の政治活動を制限しようと画策しています。こうした動きは「信教の自由」という観点から見て、問題ではないでしょうか。

教授 「信教の自由」は、人権思想の根幹にかかわる重要問題です。与党は「信教の自由』や「政教分離」の問題を曲解して、「政争の具」として利用しています。これは断じて許されないことです。 問題の本質は極めて簡単であり、憲法を正しく理解すれば、言うわれているような「政教分離」の議論は起こり得ません。まず、憲法20条を確認しておきましょう。

    『憲法20条』

  1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


◇国家が宗教を限定してはならない◇

教授 「信教の自由」とは、誰でも自由に信仰を持てること。それには「自己の宗教的信念に基づいて宗教的活動を行う自由」も含まれます。その活動には、信仰の発露として「世の中を良くしたい」「平和な社会を構築したい」と、平和運動や環境保護の活動など現実社会に積極的に働きかけることも当然、含まれます。そうした様々な行動が、政治的な運動につながるとしても、自然なことと言えます。そのような活動全般を「自由に行ってよい」というのが「信教の自由」の眼目の一つでもあるのです。国家が“宗教とはかくあるべし”というように、宗教の内容やその活動の範囲を限定し、宗教団体の政治活動を禁止する行為は「信教の自由」の侵害となります。



◇「政教分離」は国家に対して求められている◇

 ――では、「政教分離」の意味は何でしょうか。

教授 「政教分離」の「政」とは国家、「教」とは宗教または教会(宗教団体)を指します。つまり「国家と宗教の分離」を意味します。「信教の自由」を実質的に保障するために、「国は宗教的に中立でなければならない」「国が宗教の問題に口を出してはならない」というのが、本来の意味です。

 ――憲法では「政教分離」を、どう定めているのですか。

教授 “国はいかなる宗教団体にも特権を与えてはならない”、また“国はいかなる宗教団体にも政治上の権力を与えたり、行使させてはならない”とあります。更に、“国とその機関は宗教的活動をしてはならない”と定めています。

 憲法20条にある「政治上の権力を行使してはならない」は、“国家が宗教団体に、政治上の権力を行使させてはならない”という意味です。そして、この「政治上の権力」とは、国や地方公共団体が持つ「統治権」、すなわち法律をつくること、税金を課すこと、裁判を行うこと、公務員を任免することなどのような権限を指すというのが憲法学界の通説です。そうした権限を宗教団体に行使させてはならないと、“国家に向かって”禁止しているのです。「宗教団体の政治活動」はここでいう「政治上の権力」ではありません。宗教や宗教団体の権利行使を禁止したり制限するものではありません。すなわち、宗教の側に対して“政治的中立”を求めたものではないのです。



◇戦前の悲劇を繰り返さない◇

 ――憲法の「政教分離」の原則は、どのような考え方から生まれたものですか?

教授 国民が自由に宗教を選び、布教し、活動できる「信教の自由」を保障するために、国家は宗教に干渉しないほうがよい、との歴史的な教訓から生まれ、確立されました。この「信教の自由」には当然、宗教を信じない自由も含まれます。

 国家が宗教と結び付くと、国家は国民の宗教生活をコントロールしやすくなる。すると、国民の精神活動全般をもコントロールできるようになり、政治が独裁化する危険性があります。すなわち学問や言論の自由すらも圧迫を受け、自由にものを言えない社会となってしまう。つまり、民主主義が崩壊し、政治が独裁化する危険性があるのです。日本も戦前、国家が神社神道を利用し、国民を統治しました。その結果、最終的には軍部の独裁政治により第二次世界大戦へと突っ走ってしまったのです。そういう歴史的反省に立ち、国家による国民の精神的支配を厳しく禁じたのが「信教の自由」であり、それを実質的に実現するための「政教分離」原則なのです。

 ――かけがえのない人間としての権利である「信教の自由」が時の政府の都合で侵害されないよう、国に対して「政教分離」を命じているわけですね。

教授 そこが最も大事なポイントです。「政教分離」も当然、“国家を規制する”ものです。「政教分離」を理由に国民の「信教の自由」を侵害してはならないのです。要は「信教の自由」を守るために「政教分離」があるのです。「信教の自由」が目的であり、「政教分離」はそのための手段なのです。


<2>政治と宗教
政治活動はすべての国民に保障された権利


 ――では、宗教を基盤とする政党が結成された場合はどうですか。

教授 憲法制定の国会論議(1946年)の問答に、“例えばカトリック党のような、宗教を基盤にした政党が結成された場合はどうか”との質問が出されましたが、当時の金森国務大臣は、「政治上の運動をすることを直接禁じたものではない」と述べ、政党の結成についても問題は無いとしました。その後、幾度か国会で議論が行われましたが、「宗教団体の政治活動を禁止するものではない」との見解は、首相や内閣法制局長官(政府の“法律解釈の番人”ともいうべき立場)により繰り返し明言されています。

 信仰しているというだけて、国民に保障されている政治的自由が制限されるならば、宗教者や宗教団体には「表現の自由」(憲法21条)を認めないことになる。それでは憲法の「法の下の平等」(憲法14条)の精神に反します。また、宗教団体が政党を組織できないとすれば、これは「結社の自由」(憲法21条)を侵します。

 ――宗教団体が支持する政党が政権についた場合はいかがでしょう。

教授 これも問題ありません。政党が政権を目指すのは当然のことです。結果として宗教団体の支持する政党が政権についても、それは宗教団体が政権につくことではありません。1970年(昭和45年)の政府の答弁でも、94年(平成6年)の答弁においても、“宗教団体が支持する政党が、政権についても憲法違反ではない”と明言されています。

 ――次に、「宗教団体の政治活動は良いが、やり過ぎてはいけない」とか「おのずから限度がある」等の主張についてはどうですか。

教授 逆に、「どうすれば『やり過ぎ』なのか?」「『限度』とは何か?」と聞き返したい。国が「ここまではOK」「これ以上はやり過ぎ」などと、決定する権限は絶対にありません。そういう、曖昧な言い方は、国家権力の側の勝手な解釈につながり、信教の自由の侵害や政教分離の違反になりかねません。



◇宗教団体の社会的活動は当然の行為◇

 ――宗教法人法には「この法律において『宗教団体』とは、宗教の教義をひろめ、儀式(ぎしき)行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする」団体とあります(2条)。だから“主たる目的でない政治活動”を行ってはならないと言う人もいます。

教授 その考え方は誤りです。宗教団体が「主たる目的」以外に何もしてはいけない、ということは決してありません。儀式・行事、信者の教化育成に直接つながらないことであっても、宗教的信念から、平和運動等の社会活動を行うことは自由なのです。また、創価学会の規則には「目的」として「世界平和の実現と人類文化の向上に貢献すること」と明記されています。政治活動も、そうした活動の一環として捉えられます。故に、創価学会が政治活動を行うことはまったく問題ありません。



◇民主主義の根底には宗教的要素が◇

 ――自民党の加藤紘一幹事長は「宗教は一人の教祖の教えを絶対視して行動し、本質的に議会制民主主義と相いれない」などと述べています。つまり“宗教と民主主義は両立しない”と主張してますが。

教授 まったく宗教にも民主主義にも無知な考え方と言わざるを得ません。民主主義とは一体何でしょうか。端的に言えばすべての人が政治に参加することです。そのためには一人一人が主体性を持つ必要があります。更に、民主主義が目指すものは、一人の人間の神聖さ、尊さが最大限に尊重される社会です。

 宗教は一人の人間の可能性を最大に引き出し、一人一人の主体性を確立し、幸福な社会を築くためにある。ホイットマンも「民主主義の根底には宗教的な要素がある」と述べています。歴史的に見ても、近代民主主義は16、17世紀のプロテスタントによる宗教革命のなかで芽ばえてきました。このように、民主主義は宗教を抜きに考えることはできません。

 ――民主主義の発展に宗教が果たした役割は大きいのですね。

教授 その通りです。戦後、日本に民主主義や信教の自由などの基本的人権という考え方が導入されましたが、国民に根付かなかった。その時代、学会の草の根の運動によって、政治に無関心だった庶民が、どれだけ政治に目を向けるようになったか。日本の民主主義の発展に大きく貢献したと思います。この事実を無視することはできません。その意味で、学会の戸田二代会長の「青年は心して政治を監視せよ」との言葉は慧眼(けいがん)でした。

 ――今、世界的にも「精神性のある政治」への期待が高まってきていますね。

教授 地域紛争や人権問題、環境問題など、人類は今、解決が困難な数々の問題に直面しています。宗教は、そうした諸問題を解決する重要なカギとなるでしょう。民主主義や政治の根底には確たる倫理、哲学、精神性が必要であると思います。先日、池田SGI会長と会見した国際宗教社会学会のドフアーレ前会長、ボワイエ現会長も、「宗教団体が、その信条に基づいて“社会は、このままでよいのか”と問題提起し、政治に影響を与えるのは当然のことであり、これを“政教一致”とはいわない」と述べています。また、哲人政治家・ガンジーも「宗教というものは、すべての活動の根っこにあるべきもの、その中心に据えるべきものであると私は考える。ゆえに私は、政治と切り離して宗教にだけ専念することはできないし、宗教と切り離した政治をおこなうこともできない」と語っています。宗教が政治に果たす役割は、ますます大きくなっていくでしょう。



◇学会は国家権力を使って布教しない◇

 ――ところで、学会が支援する政党が政権を取ったら、学会の宗教を押しつけられるのではないか、などと言う人もいますが。

教授 そんな心配は、まったくありません。宗教は国家の助けなど借りず、自由に布教するからこそ活力があるのです。国家や権力と結びつくことは、宗教の自殺行為です。

 学会は政治にかかわる際に三つの原則を明示していますね。

  1. 国家権力を使って布教しない
  2. 国家から特別の保護や特権を求めない
  3. 支持する政党や候補者が宗教的中立であることを求める  

 これは、秋谷会長が参考人として国会の場でも明快に語ったことです。

 創価学会は牧口初代会長、戸田二代会長の時代に、「政教一致」の国家から弾圧を受けました。その歴史の上から、また、宗教の本質をふまえ、政治に関わる際の基本姿勢を明確にしたものといえましょう。「宗教を押しつけられる」等の危惧はまったく無用です。無論、国教化の懸念などもまったくありません。

 ――議論が混乱する原因は「政教分離」という言葉にもあるのでしょう。憲法の「政教分離」と、学会と支援政党との関係をいう場合の「政教分離」が、同じ言葉なので、まぎらわしいのかもしれません。

教授 そうですね。1970年に学会が宣言した“政教分離”とは、学会と公明党の「組織の分離の確認」です。人事、財政、政策決定については当然、それまでも分離していましたが、その上で、議員が学会の役職を兼任することをやめて、公明党の活動に専念するなど、組織面で完全分離したわけです。これは憲法でいう「政教分離」とはまったく違うのに、同じ言葉であるために議論が混乱するのです。


<3>今、権力による宗教介入が
“党利党略"で憲法解釈をねじ曲げるの?


 ――自民党の一部政治家は「宗教基本法」や「政教分離法」なる法案を国会に提出しようとしているようです。その内容は、報道によると、主として、宗教団体の政治活動を制限・禁止したり、宗教活動にも制限を加えようとするものです。

教授 そんな立法を本気で考えているとすれば、一言でいって、戦前の「治安維持法」に匹敵する悪法です。国が「信教の自由」を抹殺する憲法違反の立法です。まず、宗教団体の政治活動の制限・禁止は、再三述べてきたきたとおり、「信教の自由」の侵害・「政教分離」違反(20条)であり、表現の自由・結社の自由(21条)、法の下の平等(14条)にも反します。また、宗教団体の宗教活動を制限・禁止することは、「信教の自由」の侵害そのものです。

 ――自民党の亀井静香組織広報本部長などは“選挙対策の上で、創価学会、新進党と対決姿勢を明確にする必要がある”と、党利党略のためであることを公言したと報じられました。

教授 連立与党は、総選挙対策のために、憲法20条の従来の解釈を変更したいのでしょうが、学問的にも無理な話です。法の番人ともいうべき内閣法制局もYESとは言わない。そこで法律を作ってしまおうという、乱暴な発想なのです。このように、党利党略で、しかも政権の座にある与党が、「宗教への規制」を画策しすること自体、権力による宗教への介入そのものです。そんな人たちに国会議員の資格はないと糾弾したい。

 ――また、「過度の宗教活動はいけない」「特定の宗教が突出すれば、他の宗教が侵される」などと言う人もいます。

教授 「信教の自由」には「布教の自由」が含まれます。“布教は宗教の命”だからです。宗教同士の自由な切磋琢磨のなかで、宗教自体が活性化し、発展していくものです。そのような中で、活発に活動している宗教を国家が規制するなどということは、典型的な「信教の自由」の侵害です。



◇理由なき「証人喚問」は基本的人権の侵害◇

 ――自民党は、住専問題の審議をしている国会で、まったく関係ない池田名誉会長の証人喚問を要求しました。新聞の社説にもこうありました。 「自民党は、創価学会の池田大作名誉会長の喚問を持ち出して新進党をけん制している。こんなおかしな話はない。いま問われているのは住専問題である」「国民が求めている住専問題の解明より、党利党略を優先する態度であり、厳しく責められなければならない」(1996年2月21日付、朝日)

 誰が見てもおかしい。住専とは関係ありません。こんなことが許されていいのでしょうか。

教授 とんでもない話です。一体、何の必要があって池田名誉会長の証人喚問が必要なのか。理由もないのに池田名誉会長を呼んで、つるし上げようとする意図が見え見えです。創価学会のイメージを落とそうとする道具として証人喚問を利用している。これこそ国家権力の宗教への介入であり、基本的人権の重大な侵害です。その強権的な手法は、日本の民主主義を死滅させるものです。

 ――証人喚問について「国民に情報を提供するため」「世論を形成するため」という理由で池田名誉会長を国会に呼ぶよう、けしかける人もいます。

教授 証人喚問は「国政調査権」という議院に与えられた権能の一つであり、いうまでもなく国家権力の発動にあたります。したがって、民間人を安易に呼びつけることは問題です。政府などの不正を追及したり、ある法律をつくるために、どうしてもその人の話を聞く必要がある場合ならともかく、興味本位や、「政治的意図」をもって民間人を呼ぶのは許されないことです。とりわけ、「基本的人権」にかかわるような場合には、慎重な配慮が必要です。個人のプライバシーに関することや、思想・信条・信仰といった「精神の自由」の領域に立ち入ることはできないのです。特定の宗教団体を攻撃するために、証人喚問を要求するなど、権限の逸脱もはなはだしいと言えます。

 ――証人喚問も参考人招致も「全会一致」が原則になっていますね。−昨年の臨時国会で連立与党は、「全会一致」という大原則を破ってまで参考人招致を強行しようとしました。

教授 与党は、日本の民主主義を破壊しようとしているとしか思えません。多数勢力が、対立する勢力の関係者を国会に呼びつけることを許せば、国会では対立勢力を攻撃するための“つるし上げ”が続き、果てしない報復合戦が行われるでしょう。国会が現代における“魔女狩り”の舞台となってしまう。まさに恐怖政治です。そのようなことにならないように、ということから、国会が長年の慣行として確立してきたのが、「全会一致」の原則なのです。



◇課税制度の変更は学会攻撃が意図◇

 ――また、昨年から与党は「宗教法人の課税強化」を検討しようとしているようですが。

教授 一言でいえば、これも“選挙対策のために宗教を攻撃しよう”とする与党の一連の動きの一つです。そもそも、宗教法人の税制だけを切り離して論じるのは「法の下の平等」に反します。税法の観点から見た場合、宗教法人と同様の非課税あつかいを受けている法人や団体は、とても多いのです。税制を見直すのならば、日本の税体系全体を視野に入れ、国民の声にも耳を傾けたうえで、考えるべきです。宗教法人だけを、ねらい撃ちにする与党のやり方は税制を混乱させます。

 ――宗教法人に対する非課税などは、どのような根拠にもとづくものなのですか。

教授 現行の「法人税法」は、社団法人や財団法人などとともに学校法人、宗教法人、社会福祉法人、労働組合など百四十種類近くにおよぶ法人を「公益法人等」と定義づけ、一つのグループとしてあつかっています。それらの法人については、“収益事業から生じた所得”には課税するが“それ以外から生じた所得”には課税しない(非課税)と定めています(7条)。そうした法人は、会社などと違い、営利を目的としていないので、その収入を課税の対象とすべきではない、という考えに基づくのです。「公益法人等」とされている各法人は、公益に資(し)する−−何らかの形で社会全体の役に立つ−−という観点から非課税になっているという考え方もあります。

 ――他にも税の特別あつかいがあるのですか。

教授 法人税法では、収益事業の所得が法人の本来の活動や公益活動に使われることから、営利法人より税率を軽減したり、一定の寄付金控除を認め、税負担を軽くしています。こうした考え方は「所得税法」「地方税法」等にも反映されています。



◇「政治活動で非課税取消し」は暴論◇

 ――宗教法人だけが税の特別扱いをされているのではないのですね。

教授 その通りです。ですから、大蔵省なども含め、専門家は「宗教法人だけをねらって税制の見直しをすることは諸外国にも例がなく、とてもできない」と言っています。

 ――「宗教法人が政治活動を行うなら、税制上の非課税措置を取り消すべきだ」という主張がありますが。

教授 宗教法人を含む「公益法人等」は、憲法21条で保障されている「結社の自由」にもとづいて、政治活動を行う自由も当然、保障されています。

 政治活動を行うことを理由に、宗教法人にだけ課税することは、「法の下の平等」に反します。また、宗教法人の場合、「宗教活動」と「政治活動」の線引きは大変むずかしい。一口に宗教活動といっても、各教団の教義や歴史的経過などから、様々ある。「これは宗教活動」「あれは政治活動」と線引きするために、国家が宗教法人に介入し、その活動をチェックしなければならない。それこそ「信教の自由」「政教分離」を侵害し、国家の宗教統制につながる危険性があります。



◇会館での政治活動も問題なし◇

 ――「非課税の宗教施設で政治活動は許されない」という人もいますが。

教授 宗教団体が政治活動を行うことができる以上、その活動のために会館などの施設を使うことは、憲法上、何ら問題ありません。内閣法制局長官も国会で確認していることです。(平成6年10月12日)。日常的に宗教活動を行っている会館で、一時的に政治活動を行ったからといって、税法上も問題にはなりません。


<4>“精神の自由”を永遠に...




◇宗教者だけでなく国民全体の問題◇

 ――「信教の自由」の重要性、一連の政府与党の画策の危険性がよくわかりました。ただ、こうした議論について、「自分は無宗教だから『信教の自由』など関係ない」とか「どうでもいい」と思っている方が案外、多いのではないかと思いますが。

教授 私はこのままいったら“精神の暗黒時代”になってしまうのではないかと大変、危惧しております。信教の自由には「宗教を信じる自由」とともに「宗教を信じない自由」が含まれます。信教の自由がなければ、信じたくない宗教を国から強制される場合だってある。戦前の「神札をおがめ」等というのは、まさにこれです。「信教の自由」は「思想・信条の自由」「学問の自由」「表現の自由」等の、いわゆる精神的自由の中核をなす、極めて大切な人権なのです。

 ――信教の自由が侵されたならば、すべての国民の基本的人権が踏みにじられてしまいますね。

教授 結果的にはそうなってしまうでしょう。権力は、油断していると、いつのまにか増長し、気がついたときには手遅れになっている場合が、ままあります。「権力の魔性」といわれるゆえんです。ドイツのワイマール憲法(当時の理想的な憲法といわれておりました)のもとで、だれが、あのナチスの台頭を予測したでしょうか。ナチスによるユダヤ人への迫害も、はじめは「ユダヤ人を公職から追放する」という法律の制定から始まったといわれています。この法律ができたとき、世論も支持したため、ユダヤ人たちは「これくらいならしかたがない」と泣き寝入りしてしまった。次いで、ユダヤ人医師を国民健康保険から締め出す法律。ユダヤ人学生の就学を制限する法律等々。やがて、ユダヤ人が市民権を奪われる「ニュルンベルク法」が制定された。気づいたときには、すべてのユダヤ人が強制収容所に送られることになり、その結果、一説に600万人ともいわれるユダヤ人が虐殺されてしまったというのです。



◇「信教の自由」を永遠に守ろう◇

教授 「創価学会だけに対するものだから」とか「この程度の制限ならかまわない」などと言っているうちに、大変なことになりかねません。

 アメリカの公立学校の教室における聖書の朗読が、アメリカ合衆国憲法修正1条(政教分離原則)に違反するか否かが争われた事件で、クラーク裁判官は、次のように法廷意見を書いています。「政教分離の原則の侵害は、今日は滴(したた)る水であるかもしれないが、これはまもなく奔流する怒涛になるであろう」「侵害の程度を問わず、それをその最初の軽微な段階において阻止し鎮圧しなければいけない」と。原理原則の問題は、小さなほころびが、大きな崩壊になってからでは遅いのです。

 創価学会は牧口初代会長、戸田第二代会長が、自ら宗教上の信念を貫いたため、国家権力から弾圧され、牧口会長は獄死しました。あのような悲劇は断じて繰り返してはならないというのが創価学会の原点です。創価学会はその弾圧の歴史に立ち、民衆を守る人権闘争を繰り広げてきたのです。「信教の自由」の侵害は断じて許してはならない。私たちは「信教の自由」を、永遠に守っていきたいと考えています。