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ジャーナリスト 西園寺一晃氏



ジャーナリストの西園寺一晃氏が専門部のセミナー(平成12年10月26日)で、「私が歩んだ日中友好の道」と題し講演しました。同氏は、池田名誉会長の日中国交正常化提言に注目した周恩来総理が、病をおして名誉会長との会見を望んだ事実等を語りました。ここでは、その講演の内容を紹介します。



【国交回復前夜の国際情勢】

 中華人民共和国の成立(1949年)から51年、日中国交正常化(1972年)から28年がたちます。この間の日中関係で、一番ドラスチック(劇的)で、感動的な部分をお話しさせていただきたいと思います。

 それは1960年代から70年代にかけての、日中国交正常化の前後の状況です。

 日本から見ると、60年代というのは、日米安保条約改正の大騒乱の中で幕を開けました。その時の岸内閣は反中国的でした。ところが、次の池田内閣は、経済的な面で対中関係を重視し、腹心の高碕達之助氏と、周恩来総理の腹心の廖承志(りょうしょうし)氏の間で、LT貿易(廖氏のLと高碕氏のTから命名)という半官半民の貿易協定が結ばれ、日本輸出入銀行の資金を日中貿易に使用できる形が出来上がり、ある程度、日中関係が進みました。

 しかし、その次の佐藤内閣で、また、日中関係は壊れてしまった。佐藤内閣は、いわゆる吉田書簡(吉田元首相が台湾に送った、日中貿易は進めない、輸銀は使わせないという書簡)を盾にとって、輸銀の使用にストップをかけてしまった。こういう非常に厳しい状況が日本の国内で生まれつつあった。

 また、相手の中国でも、厳しい状況が生まれていた。それは、文化大革命がぼっ発して、急進派、極左が台頭し、対外的には、いわゆる革命外交という急進的な外交がとられるようになった。

 それが三つの結果を生みました。一つは、周恩来総理をはじめとする、必死になって日中関係を改善しようとしている人たちが大打撃を受けたこと。廖承志氏ら、周総理の部下たちが次々と失脚し、周総理自身にも、急進的な人たちの鉾先が向けられ、危険な状況に置かれた。

 もう一つは、急進的な革命外交の結果、中国は国際的に孤立した。

 三つ目は、日本の国内で、せっかく盛り上がった日中友好の高まり、日中国交正常化への要求の高まりが、文化大革命によって、しぼんでしまうという状況が起きた。また、反中国派の人たちがこの状況を利用して、反中国の大宣伝を始めたわけです。

 さらに、国際的な状況として、60年代はベトナム戦争が激化の一途をたどります。ベトナムに介入した当初、アメリカは「半年もあれば解決する」と言っていた。ところが、どんどん泥沼に足を突っ込んでいく。その結果、アメリカにとって、三つの状況が生まれた。

 一つは、アメリカがベトナムで消耗戦を強いられている間に、西ヨーロッパ戦線で対峙(たいじ)していた、アメリカを中心とする北大西洋条約機構(NATO)とソ連を中心とするワルシャワ条約機構の力関係が逆転する心配が生じてきた。ベトナム戦争が起きた後、少なくとも数の上では、NATOが完全に劣勢になった。

 つまり、アメリカは、最も重要な生命線であるこの西ヨーロッパ戦線を立て直さなければならないという状況が生まれた。

 二つ目は、世界におけるベトナム反戦運動の盛り上がり。

 三つ目は、アメリカ国内、そしてアメリカ軍の中における厭戦(えんせん)気分の蔓延。


【米中の水面下での歩み寄り 】

 そのなかで、登場したのが最もタカ派と言われたニクソンです。そのニクソン大統領と佐藤首相が会談し、共同声明が出ます。

 その内容とは、一つは、沖縄返還がうたわれた。もう一つは、過去になかったような強硬な反中国声明です。中国を断固として国際社会に入れない、国連に復帰させないという最も強硬な論調でした。

 ところが、ニクソンはその一方で、大統領補佐官のキッシンジャーに秘密裏に命じて、なんとか中国との話し合いのきっかけをつかめと指示していた。

 これ以上、アメリカがベトナムで消耗戦をしていると、その他の重要な地域がおろそかになる。足を抜きたい。そのためにはベトナムの最大の後方支援国になっている中国と話をつける必要があった。

 キッシンジャーはパキスタン・ルート、ワルシャワ・ルート、タイ・ルート、ルーマニア・ルート等々、あらゆる工作をとります。

 一方、文化大革命という過激な極左路線を敷いている中国の中でも、変化が起こっていた。60年代末ごろ、人々は絶対的指導者であった毛沢東の意外な面を見ます。それは、毛沢東がある会議で、ため息をついて、「われわれは孤立してしまった。どうしていいのか私には分からない」と、初めて弱音を吐いた。

 みんな唖然とします。当時の中国は、最大の軍事国家であるアメリカとソ連を同時に敵に回して、突っ張っていたんですね。しかし、毛沢東は実は、大変、孤立感を味わっていた。そして毛沢東は、当時、軍を握っていた林彪(りんぴょう)とか、のちに四人組と呼ばれる江青(毛沢東夫人)の一派に内証で周総理を呼び、ある密命を下しました。

 それは、林彪に排除され、失脚した百戦錬磨の元帥たちの中から、えりすぐった何人かを集めて、あることを検討してほしい。一つは、今の中国の外交、戦略は正しいのかどうか。二つ目は、中国にとって最大の脅威は何なのか。アメリカなのか、ソ連なのか。三つ目は、中国は今後、どうしたらよいのか。

 そこで、周総理は失脚した四人の元帥をひそかに呼んで、これを早急に検討せよと言います。彼らは、3カ年かかって周総理と毛沢東に答申をします。

 今の中国の外交、戦略は間違っている、今の中国の最大の脅威はアメリカではなく、何千キロという国境を接しているソ連である。ソ連と対抗し安全保障を得るためにアメリカとの関係を改善すべきである、という答申を出します。

 毛沢東も、素直にこれを聞き入れる。そして、まさにニクソンがキッシンジャーに命じたように、毛沢東もひそかに周総理に、アメリカとの接点を探れ、と命じた。

 全く、これは偶然というか、ある意味では必然なんですが、同じ時期に中国とアメリカは同じことを考えていたという状況があります。


【命を賭して発表された日中提言】

 ところが、残念なのは日本です。日本はかたくなにアメリカの反共性、反中国性を信じていた。そして、ひたすらアメリカのアジア戦略の中心であった中国封じ込めに忠実に従っていた。アメリカの変化も、中国の変化も全く気付かなかった。

 ところが、こういう状況の中で、国際情勢、あるいは日中関係について画期的な提言をした人がおります。

 私はここで二人、挙げたいと思います。一人は、自民党の宇都宮徳馬氏です。今年、93歳で亡くなりました。この人は、生涯かけて、軍縮と平和と国際友好、特に社会制度や政治体制の違う国との平和共存のために尽力した人です。

 宇都宮氏は、本当に日中関係を改善し正常化するためには、アメリカの対中政策が変わらなければならないと主張して、アメリカに働きかけました。1969年1年には、日米のハト派による、中国問題に関するサンタバーバラ会議を開いた。そこで、アメリカは対中政策を変えなさい、日本は日中関係の改善を図るべきだ、中国はアメリカとの関係改善を図るべきだ、との提言を出します。

 もう一人は、創価学会会長(当時)の池田大作氏です。1968年、第11回学生部総会で真っ向から中国問題を取り上げました。当時、中国は文化大革命で大混乱です。日本とアメリカの政策というのは、大変な反中国政策で、日本の日中友好運動もしぼんでしまった時期でした。

 まさに、その一番悪い状況の時に、池田氏は日中友好の提言をした。

 「ここで私は、中国問題についてふれておきたい……日本の置かれている立場からいっても、遅かれ早かれ、中国問題を避けることは絶対にできなくなるのであります。また、我々の世界民族主義の理念のうえからも、どうしてもふれなければならない第一の根本問題なのであります」と前置きし、

 「日本はこれまでのように、アメリカの重要事項指定方式に参加するのではなく、北京の国連での代表権を積極的に推進すべきである」「なによりもまず政府は、この吉田書簡の廃棄を宣言し、貿易三原則に従って一歩でも二歩でも貿易を拡大する方向に努力を積み重ねていくべきである」

 「世界的な視野に立って、アジアの繁栄と世界の平和のため、その最も重要なかなめとして、中国との国交正常化、中国の国連参加、貿易促進に全力を傾注していくべきである」と、こう言っているんですね。

 当時としては、全く少数派です。こういうことを言ったら、当時は右翼から暗殺されるかもしれない。今では考えられないことです。その証拠に社会党の浅沼委員長は、アメリカの対中政策を批判し、日中国交正常化を声高らかに叫んだために、右翼の凶刃に倒れて亡くなりました。そういう状況のもとでの、日中国交提言であったわけです。

 日本のマスコミは残念ながら、この提言をほとんど無視しました。右翼は目の敵(かたき)にしました。大変などう喝、恐喝が相次いだと聞いています。

 しかし、この学生部総会における発言を真っ向から取り上げて重視した人がいました。それは、残念ながら日本人ではなくて、中国の周恩来総理でした。日本にいた新華社通信の記者が、これを翻訳して周総理のもとに届けました。周総理は熟読しました。このことを私は、直接、ご本人から聞きました。

 また後に、私は周総理が「池田会長の講演内容は大変、素晴らしいものであった。尊敬と感動に値する内容だった」と語ったと聞きました。


【国交正常化の謎がここに! 】

 この日中国交提言が、周総理の頭には、ずっと残っていました。それで、ご自分の部下、特に対日関係をつかさどっているブレーンの人たちに命令を出しました。

 「創価学会を研究せよ」と。そして、「機会があれば、接触して友人になる努力をせよ」と。

 しかし、この時、この周総理の意味を分かっている人はほとんどいなかったそうです。中日友好協会の会長を長く務め、最も日本を知っている親日派といわれた孫平化という人が、こういうことを後で書いています。

 「率直に言って、周総理の創価学会を重視せよという指示を当時の私は本当に理解していたとは言えません。池田先生が中国にみえるまで、われわれは創価学会に対して、認識が足りませんでした。誤解をしているところも多々ありました」と。

 しかし、周総理は創価学会を非常に重視していました。

 その後、国際的には、キッシンジャーの隠密外交があり、ニクソン訪中がありました。日本も船に乗り遅れまいとあたふたしたし、日中国交正常化に向かうわけですけれども、佐藤内閣にはできなかった。その後に、田中内閣が、日中国交正常化を促進することを最大の公約に掲げて出てきました。

 田中内閣ができたのが、1972年7月です。その時は、田中首相、大平外相ですけれども、全く中国と接点はなかった。ところが、わずか2カ月後の9月には国交正常化が実現したんですね。

 これには、強力な国民運動、大衆運動がバックアップになったということが一つ。それから、自民党内の古くから苦労して日中友好を進めてきた人々や、野党が協力したということもありますけれども、当時、私たちマスコミ人にとって、一つの謎(なぞ)がありました。それは、中国が使った最大のパイプが公明党だったということです。

 公明党というのは、新しい党で小さな党です。何の日中関係の実績もない党です。その公明党に中国がパイプ役を託した。公明党が苦労して橋渡しをして、国交が正常化された。

 田中内閣は幸運でした。内閣に国交正常化するという決断はあったけれども、三つの心配、つまり国交正常化のカギとなる三つの課題がのしかかっていました。

 一つは、台湾政府をどうするか。日本は台湾をそれまで、唯一の合法政権と認めて、中華人民共和国は、その存在すら認めていなかった。

 二つ目は賠償問題です。戦争の被害というのは、お金では換算できません。しかし、日本が中国に与えた戦争被害は、当時、国際社会の中で、5百億ドルと言われていました。その時の日本の外貨保有高はせいぜい20億ドル。この天文学的な数字の賠償金を取られたら、とてもではないが日本はもたない。その後の日本の成長もありえなかった。

 三つ目は、もし中国が国交を正常化する条件として、日米安保体制に支えられた日米関係の現状の変更を求めてきたら、これは日米関係の現状からして無理だ、と。この三つの大きな心配があったんです。

 それをいろんな人たちが、特に公明党が事前に中国と話し合い、お膳(ぜん)立てして、全部、取り払ってきた。だから、何もとっかかりがなかった田中内閣が、わずか2年で、国交正常化できたんです。

 なぜ公明党か。当時、マスコミでも謎だったんです。それは、さかのぼって考えれば、1968年の池田大作氏の学生部総会における提言、それを重視した周総理、そこに原点を求められると思います。


【病室を執務室に超人的な仕事】

 こうして、日中国交正常化が実現します。その過程で、周恩来総理は、大変な苦労をしています。まだ文化大革命は終わっていません。まだ急進的な、極左的な人たちがいて、いろいろと邪魔をすることもありますし、もう一つ、周総理にとって最大の敵が現れます。

 それは、体調が崩れたということです。

 1972年9月の国交正常化の前、4月か5月ごろから周総理は微熱が出て、血尿が止まらない、身体がだるい、そういう症状が出始めます。

 周りの人たち、そしてケ穎超夫人が、とにかく医師に診てもらうことを勧めますが、周総理は断固、拒否します。「そんなヒマは私にはない。日中国交正常化、米中関係の改善は、何としてでもやりたい」と言って、医師に診せようともしない。

 それで、日中国交正常化は何とかやり遂げる。しかし、周総理が言っていたのは、「国交正常化は日中関係にとって、いままでマイナスのところにあったのをゼロに戻す、つまりスタート地点に戻したに過ぎない。日中平和友好条約を結んで、初めて日中の永遠の平和の礎ができる。だから、平和友好条約の締結までは何が何でも頑張らなくてはいけない」ということでした。しかし、身体はどんどん悪くなっていく。

 そこで、ケ穎超夫人が必死になって、それこそ命をかけて夫を説得する。それで初めて、周総理が病院で診察を受けます。

 すると、ある日、主治医がケ穎超夫人のところに来て「困ったことになりました。周恩来総理はがんです。相当悪くなっています。これを告知したほうがよいのか、しないほうがよいのか」と尋ねてきました。その時、ケ穎超夫人は「分かりました。私が言います」ということで、夫人が言いました。

 周総理は、ほとんど自分でも分かっていた。しかし、「自分はまだ死ぬわけにいかない。まだ、やり残したことがたくさんある。平和友好条約を日本との間で結ばなければいけない。アメリカとの国交正常化もまだだ。ニクソン訪中がやっと実現して、その延長線上に、本当の意味での米中国交正常化をやらなくてはいけない。だから私は入院している暇はない」と言って、入院を拒否します。

 だれが説得してもダメなので、この時、毛沢東直々の命令で、組織の決定として、周総理は入院せよ、と命じられます。周総理も組織の人間ですから、組織の決定には逆らえない。1974年6月に初めて入院します。

 入院しても、結局、自分の執務室を病院に移動したにすぎない。ここで、当時、秘書の方が記録を付けていまして、入院する直前、1974年の1月から5月までの5カ月間(151日間)に、周恩来は139日、仕事をしている。

 そのうち、1日に12時間から14時間、仕事をしたのが9日あります。15時間から18時間、仕事をしたのが74日。19時間から23時間、仕事をしたのが38日。24時間、寝ずに仕事したのが5日。1日の仕事量が12時間以下の日は、13日しかない。

 身体のいたるところにがんが転移していたため、入院してから76年1月に亡くなるまでの間に、大手術を10回、小さな手術を8回受けた。大量の抗がん剤を副作用があるのを承知のうえで、投与しています。その状況のもとで、これだけの仕事をしています。もう驚異的な人です。


【第一次訪中の時/「会えなくて残念」と総理 】

 国交正常化後、日本では大中国ブームになりました。かつて中国と国交を結ぶべきだという親中国的な人は少数派でした。反中国的な人が多数派でした。

 ところが、おもしろいもので、本当に骨身を削って、日中正常化、日中友好のために働いた人は、自己宣伝はしない。何も言わない。しかし、きのうまで反中国だった人は、きょうになって、私は一貫して親中国だったと大きな声で言います。国交正常化した途端に、われもわれもと北京詣でをします。そして私こそ、生まれてからこのかた一貫して、日中友好を推進してきたみたいな話をしました。

 その時、たくさんの心ある人たちが、本当に苦しいなかやってきた人たちが、池田会長にぜひ中国に行ってくださいと言います。これだけ努力して、大きな貢献をしたんだから、中国に行ってぜひ周恩来総理に会ってください、と。

 池田会長という方は、行かなかったんですね。つまり、われもわれもと北京詣でしている時に行かなかった。少し熱が冷めたころ、つまり1974年5月に、中国側の要請もあって、初めての訪中をされます。その時、たまたま周総理は大手術をした直後でしたので、全くの面会謝絶で、会えませんでした。

 後で、周総理ご本人からもお聞きしましたけれども、「大変、残念だった。ぜひ会いたかった」と。

 それで、池田会長の第二次訪中(同年12月)だったと思います、寒い時でした。周総理はがんがもっと悪化して、ほとんど全身に転移していました。もう身近な方でも面会謝絶です。

 その時、周総理に代わって、池田会長を接待し、会見したのがケ小平副首相(当時)です。その時、ケ副首相は、「周恩来総理は病気で人に会えません。私が代わって接待いたします。大変、申し訳ない」と言われたそうです。

 ところが、その日、送別会が終わった後、周総理の腹心の廖承志氏が池田会長のところに来て、「これから周恩来総理のところにご案内します。周総理がぜひお会いしたいと言っております」と伝えました。

 その時、池田会長は辞退したそうです。「私が会うと身体にさわる。そういうことは避けたい。お会いしたいけれども、身体にさわるのを避けるために、私は辞退いたします」と。

 そうしたら、廖承志氏が非常に厳粛な顔で、「周総理がぜひ、ぜひお会いしたいと申しております」と、再度、懇請し、それで、入院先の病院に行かれたわけです。

 ほとんど立つこともできない状態だった周恩来総理が、入り口で立って出迎えて、会見が行われた。会見終了後も、立って歩いて、入り口まで見送られたと聞いています。

 実は、このドラマの後ろに、もう一つのドラマがあったんです。

 医師団、秘書団、それから党の方針として、周総理の身体を思って、外国人には会わせないことが決まっていた。

 だから、池田会長が来た時にも、「残念だけれど会わせられない。だから、ケ小平副首相が出てきて代わりに会った」と。


【“永遠の記念”創価大学の周桜 】

 ところが、その時、周総理は病院の中で、「私はぜひ会う。ぜひ会うから呼んできてくれ」と。それで困ってしまったんですね、医師団が。会えば、身体にさわる。命が完全に縮まる。保証はできない。秘書団も反対しました。

 しかし、周総理は大変、頑固に、「どうしても会う」と。

 医師団、秘書団も困ってしまって、「これを止められるのはケ穎超夫人しかない」ということで、夫人のところへ訴えに行く。もちろん、ケ穎超夫人が周総理を止めると思ったんですね。もちろん奥さんですから、夫の身体にさわって命を縮めるわけですから、これは当然、止めると思った。

 そうしたら、ケ穎超夫人がじっと聞いていて、「会わせてあげてください」と言った。「ぜひ会わせてあげてください。本人もそれを希望しています。命を縮めてもやらなければならないことがある。命を縮めても会わなければならない人がいる。それが、今です。ぜひ、会わせてあげてください」と。

 夫の命が縮まることは分かっているわけです。それでも、「ぜひ会わせてあげてください」というのがケ穎超夫人の言葉です。

 それで仕方なく、医師団も秘書団も納得して、この周恩来・池田会談というのが実現したんです。それが見えないところで行われていた、もう一つのドラマです。

 創価大学のキャンパスにその時の会見を記念して、創価大学の学生と同大学で学んでいる中国人の留学生が一緒になって、桜を植えました。「周桜」という名前がついています。

 その後、同じように、両国の学生たちが周恩来、ケ穎超夫妻の「周夫婦桜(めおとざくら)」というのを植えました。毎年、立派な花を咲かせ、観桜会が開かれます。しかし、その桜の花びらの後ろには、そういうドラマがありました。

 もちろん、日中友好を推進した人はたくさんいます。しかし、宇都宮徳馬氏や池田大作氏に代表されるような人たちの努力で、今の日中関係がある。もちろん、いろんな問題がまだあります。しかし、今、日本から中国に毎年行く人は、150万人です。中国もやっと今年、日本への観光旅行団が解禁されました。

 今、中国の対外貿易の1位は日本です。日本の対外貿易の1位はアメリカ、2位は中国です。好むと好まざるとにかかわらず、つまり好き嫌いは別にして、もう日中両国は相手がなければ生きていけない。日本は中国を必要としている、中国は日本を必要としている。こういう切っても切れない仲にあります。

 しかし、今の日中のこれだけ緊密化した関係の裏には、そういういろんなドラマがあって、それで今日があるということ――その一端を私は言いたかったわけです。

 【略歴】西園寺一晃:さいおんじ・かずてる 1942年生まれ。58年、中学3年の時、一家で中国へ。北京大学卒業後、67年に帰国。父公一(きんかず)氏は国交正常化以前の中国で交流の“窓口”的な役割を果たした。著書に『青春の北京』『中国辺境をゆく』『ケ穎超――妻として同志として』など。


2000/11/06 07 聖教新聞より