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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月1日(土)
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創価学会会長  秋谷栄之助


 中国の陝西(せんせい)省芸術研究所・彫塑(ちょうそ)院が制作した「周恩来総理と池田先生のレリーフ」は、まさしく、日中友好の源流を象徴する作品です。 日中友好が結ばれる根底に、周総理と池田先生による「鋭い先見性」と「深き信義」の絆(きずな)があったことは、厳然たる歴史的事実だからです。 ここで改めて、中国と創価学会との交流の軌跡を振り返り、その事実を歴史にとどめておきたい。

 学会と中国の交流の始まりは、1960年代初めまでさかのぼります。

 日中友好の先達の一人であった高碕達之助氏(通産相等を歴任)から池田先生に、「ぜひ、訪中を」との話がありました。これが中国との交流の、そもそもの始まりです。

 また周総理も、早くから創価学会に注目しておられました。やはり60年代の初めに、孫平化(そんへいか)氏(後に中日友好協会会長)から日本の状況について報告を受けた際、特に二つの点を指示されたと伝えられています。一つは、日本の高速道路の研究。そして、もう一つが、創価学会との接触、交流でした。

 一方、池田先生は65年6月、中国に幅広い友人をもつ作家の有吉佐和子さんと懇談。その折、日中関係が話題になりました。

 その後、有吉さんから、当時、青年部長であった私に電話が入ったのです。「中国の代表の方たちと会ってみませんか」と。

 そこで、すぐに池田先生に報告したところ、先生は「日中友好を考える上で、重要な機会だ。君を中心に、青年部の幹部で会ってはどうか」とおっしゃいました。

 そして同年7月、有吉さん同席のもと、孫平化、劉徳有(りゅうとくゆう=後の文化部副部長)の両氏らと初めてお会いしました。これが、中国と創価学会の最初の接触です。私が、その当事者ですので、歴史の証人として、明確に申し上げておきます。

 その後、1968年9月の「第11回学生部総会」の席上、池田先生は、国内外の反発を覚悟の上で、歴史的な「日中国交正常化の提言」をされたのです。

 70年3月には、日中友好の先達であられた松村謙三氏と池田先生との会談が、当時、東京・渋谷区にあった創価学会分室で行われました。

 席上、松村氏は「あなたの提言は、百万人の味方を得た思いです」「私はもう高齢です。池田会長、あなたが中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい。私といっしょに中国へ行きましょう。周恩来総理に紹介したい」と語られました。

 これに対し、池田先生は「ありがたいお話ですが、私は宗教者であり、創価学会は仏教団体です。国交を回復するのは政治の次元でなければできません。したがって、私の創設した公明党に行ってもらうよう、お願いしましょう」と答えられたのです。

 そこで松村氏は「池田会長と公明党のことは全部、周総理にお伝えします」と言われ、会談の9日後に中国へ旅立たれました。

 さらに同年12月、菅沼正久氏(長野大学名誉教授)が北京で周総理と会見。総理から「創価学会は、どういう特徴のある団体か」「どういう日常活動をしているか」といった質問があり、約30分間にわたって学会のことが語り合われたのです。

 このように、歴史の水面下では、はるか日中友好の未来を見すえた周総理と池田先生の「先見」と「行動」が先行していました。それを受けて、政治次元で日中友好を推進したのが公明党です。

 64年の公明党結党に際し、党の創立者として、ただ一点だけ、池田先生が提案した事項がありました。それは、アジアの平和と安定のために、中国を正式承認し、日本は中国との国交回復に努めてほしい、ということでした。

 この提案は、党の活動方針の中に、「日中国交については中国を承認し、その国交回復に努める」と明記されたのです。

 そして、日中の国民の悲願であった「国交正常化」が72年9月、ついに実現。その懸け橋となった公明党の行動の根底には、こうした結党以来の池田先生の中国観、世界観があったことは、まぎれもない事実であります。

 周総理もまた、池田先生の信念、洞察があったればこそ、公明党を全面的に信頼し、できたばかりの小党に日中友好の橋渡しの使命を託してくださったのです。

 いち早く日中の国交回復を熱願し、はるかに心と心を結び合わせてきた周総理と先生の会見が実現したのは74年12月5日――周総理ご逝去の一年前のことでした。

 この会見について、周総理夫人のケ穎超(とうえいちょう)女史は、こう述懐しておられます。

 「あの時、恩来同志は、池田先生に会いたがっていました。
 しかし、恩来同志の健康管理をしている305病院の医師団は、全員が反対しました。『総理、もし、どうしても会見するとおっしゃるなら、命の保証はできません』と。
 恩来同志は言いました。『池田会長には、どんなことがあっても会わねばならない』
 医師団は、どうしてよいかわからなくなり、私のところへ相談に来たのです。会見をあきらめるよう、私から恩来同志を説得してほしいと。
 私は、答えました。『恩来同志が、そこまで言うのなら、会見を許可してあげてください』
 そうして、あの夜の出会いがあったのです」

 まさしく「一期一会」。しかし、互いの心の絆を永遠に刻みゆく出会いでありました。

 周総理と池田先生の友情は、その後も、だれよりも総理の心を知るケ女史によって受け継がれました。

 ケ女史と池田先生は、東京で、また北京・中南海のご自宅で、語らいを重ねました。

 最後の出会いとなった90年5月の会見の際には、女史から、周総理の形見である「象牙のペーパーナイフ」と、女史愛用の「玉製の筆立て」が先生に贈られました。

 女史はまた、「日本で一番行きたいところは、『周桜』のある創価大学」とも言われていたそうです。

 「周桜」とは、総理との会見の翌年、池田先生の提案で、創価大学の「文学の池」のほとりに植樹された桜のことです。さらに、79年には、女史の来日を記念し、「周夫婦(めおと)桜」の植樹も行われました。

 また一方で、池田先生は一昨年、周総理の母校である南開大学の「名誉教授」、周恩来研究センターの「名誉所長」に就任するなど、総理と先生の深き心の絆は、時を経るごとに、ますます光を放っているのであります。

 このように、今日の日中友好は、周総理と池田先生の深い友誼によって開かれてきたのであります。


第2総東京・北海道・九州合同総会での秋谷会長の話(2000.10.20)