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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月1日(土)
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 1968年9月8日、池田会長(当時)は「第11回創価学会学生部総会」の席上、日中国交正常化の早期実現を訴える提言を行ないました。当時は、ベトナム戦争が「東西冷戦」の舞台となり、戦線の拡大が危惧されており、日本政府は中国の国連加盟に反対するなど同国を敵視する政策に傾倒していた時期でした。

 中国と日本をめぐるそうした状況下であったため、池田会長によるこの発言の内容は中国首脳をはじめ、多くの人々を驚かせました。当時、日本に駐在していた中国の報道記者が直ちに打電したのです。「アジアの安定こそが世界平和の鍵である」――平和を求め、“やむにやまれぬ思い”から発したこの提言が、その後の日中復交へ、大きな原動力の一つとなっていきました。

 この提言から4年後、日中の国交は回復。1978年には「日中平和友好条約」が締結されました。池田会長は「平和創出の強き信念」で、提言の後にも、「信義」と「誠実」の行動を続け、中国との交流を深めていきました。こうして、「真の友好関係」への道が築かれていったのです。

 「日中提言」は、新世紀を目前に、平和と人道の世紀をめざし、イデオロギーや思想・宗教の違いを乗り越える“人間交流”の第一歩でした。

<第11回創価学会学生部総会>

第11創価学会学生部総会で日中国交正常化を提言
▲ 第11回創価学会学生部総会で日中国交正常化を提言

 提言が行なわれた総会は、1968年(昭和43年)9月8日、午前11時から、東京・両国の日大講堂において、1万数千人の代表が参加。席上、池田会長(当時)が1時間17分にわたる「講演」を行ないました。

 なかでも、当時、国際問題として大きくとりあげられていた中国との関係に触れ、「世界の平和なかんずくアジアの平和を実現する上において、どうしても解決しなければならない問題である」と前置きした上で、「日本のとるべき道」として「日中首脳会議の早期開催」による解決法をとるべきであるとの具体案を示し、「日中国交回復」への提言を行ないました。

<提言が行なわれた当時の世情>

 1949年、中華人民共和国が成立しましたが、日本は、台湾の中華民国を中国の正統政府とみる立場から、1952年4月、日米安保条約発効と同時に、日華平和条約に調印しました。

 一方、日本はアメリカの反共政策に追従し、中華人民共和国を正統政府と認めず、また、国連への加盟にも反対の姿勢をとりました。当時、準政府間的民間協定の成立など、心ある人々による日中友好の積み重ねは存在したものの、1960年代の中華人民共和国における文革による混乱のなか、そうした交流も停滞していました。

 「日中提言」が行われた1968年、ベトナム戦争は東西冷戦の舞台となり、戦線は長期化の様相を呈していました。アメリカはベトナム戦争を「ベトナムを共産主義の侵略から守る」と位置づけ、他方、中国は反米政策をとっていました。日本も、依然としてアメリカの反共政策に追随しており、日本において日中国交回復を訴えようものなら、多くの非難を浴びるほどの状況でした。

 そのようななか、池田会長(当時)は、日中関係の正常化こそが、アジアの平和、そして世界平和の鍵であるとの思いから、日中提言を行なったのでした。


「日中国交正常化提言」(要旨)

▽1968年9月8日第11回学生部総会 池田会長(当時)

 中国問題は現在の世界情勢において、平和実現への進路の上で非常に重大な隘路(あいろ)になっております。

 第二次大戦後、東西二大陣営が軍事的に真向から衝突し、悲惨な戦争を引き起こしたのは、ほとんどがアジアの地でありました。その一つは朝鮮戦争であり、もう一つは現在も続いているベトナム戦争であります。共産主義側の後ろだてはソ連より、むしろ中国なのであります。

 しかるに、その中国の国際社会における立場、お互いの実情がばく然とし、わからない。

 このいわば国際社会の異端児のような中国を、他の国と同じように、平等に公正に交際していくような情態にもっていかなければ、アジア、世界の平和は、いつまでたっても実現できない。

 それでは、そのために必要なことは何か。

 その一つは中共政権の存在を正式に認めること。第二には、国連における正当な席を用意し、国際的な討議の場に登場してもらうことであります。

 現在、かたくななまでに閉ざされてきた中国に対して、それを開かせようとする最も有力なカギを握っているのは、歴史的な伝統、地理的な位置、民族的な親近性からいっても、我が日本をおいては絶対にないのです。



両国に崩れぬ「友好の橋」を――「叫び」と現実の「行動」

 日本は、自らが長年、文化を学んできた大恩ある師匠の国・中国を武力で蹂躪してしまいました。誠実な謝罪と共に、「不幸な歴史を繰り返すまい!」「さらなる日中友好の道を築こう!」と叫び、行動する人は、残念ながら稀でした。そのような中、池田SGI会長は30年前に、日中友好のために声をあげ、離れ離れになってしまった両国に、崩れぬ「友好の橋」を懸けようと行動を開始したのです。

年譜:「10次」に及ぶ訪中
――信頼と友誼の歴史を重ねつつ

 池田会長は1974年5月、香港から深センを経て、中国へ渡りました。この「第1次訪中」の同じ年に、「第2次訪中」も12月に。この時、周恩来総理との会見が実現。更に、ケ小平副総理との会見も。「対話」のなかから、両国間の真実の友好・理解を深める一歩を踏み出しました。

1974年12月、中国の周恩来総理と
▲1974年12月、中国の周恩来総理と

 翌75年4月、池田会長が創立した創価大学に、第1期の中国人留学生が入学した月に、「第3次訪中」を。また、「第5次訪中」の80年4月には、池田会長は北京大学において『新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察』をテーマに講演を行ないました。そして、84年6月の「第6次訪中」では、同大学から「名誉教授」の称号が贈られ、学位記授与式の後、『平和への王道――私の一考察』と題する記念の講演を。

第3次訪中 {ケ小平 副総理と(1975・4 北京)
▲第3次訪中 小平 副総理と(1975・4 北京)

 また、90年5月の「第7次訪中」でも、北京大学において、『教育の道 文化の橋――私の一考察』のテーマで記念講演。一貫して「平和」「教育」「文化」推進の重要性を訴えていきます。

北京で開催された“自然との対話”
▲北京で開催された“自然との対話”写真展に
江沢民総書記を案内(1990・5)

 94年1月の「第9次訪中」。この時は、深セン大学において、『「人間主義」の限りなき地平』と題し講演。「宗教」や「文化」、イデオロギーの差異を超えた、「人間主義」のSGIの理念をもとに、人類が「平和」創出に向けて進むべき道を論じ、揺るぎない日中和平を訴えます。

周総理夫人の{ケ穎超女史を
▲周総理夫人の穎超女史を
自宅へ表敬訪問(1990・5北京)

 そして、香港が中国に返還された97年には、「第10次訪中」(5月)を。その折、上海大学から「名誉教授」が贈られましたが、学位記授与の席上、池田SGI会長は「謝辞」のスピーチを行ないました。近代中国の精神の父・魯迅(ろじん)の言葉を通し、「生命を民衆のために捧げる人間」「わが身を捨てて真理を探究する人間」について言及。一緒に、さらに力強く、「人民の新世紀」をつくりあげていきたいと訴えました。

世界的に著名な画家のホウショウリン女史と
▲世界的に著名な画家のホウショウリン女史と




「日中国交正常化」提言から今、友誼を永遠に
――中国・中央テレビがSGI会長にインタビュー

 中国の中央テレビは1999年2月19日、沖縄研修道場において、池田SGI会長にインタビューを行いました。これは、本年の「建国50周年」の記念番組、「中国外交風雲録」制作のための取材。SGI会長が1968年に行なった、「日中国交正常化」提言を中心に、インタビューが進められました。

インタビュアーによる質問の一つに、次のような「問いかけ」が――。

――「68年9月、当時の歴史的背景の中で、なぜ、あそこまで踏み込んだ内容で、国交正常化を提言したのですか?」

これに対して、SGI会長は次のように回答を。

――「当時、中国は孤立状態でした。しかし、中国には十億の人民がいる。中国との友好なくして、アジアの安定も、世界の平和もありえません。中国は日本の文化の大恩人の国です。その中国を侵略した罪を償わなければ、日本の正しい未来はない。そういう人道上の観点も強くありました。多くの政治家の中には、利害で動く人もいる。しかし、両国の人民のためには、今、勇気をもって、新しい歴史を開くしかない。あらゆる観点から考えて、日中の国交正常化は、実行すべき必然の進路であると思いました。」 

 インタビューの始終、池田SGI会長は、「日中友好への永遠の信念」を語りました。