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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月1日(土)
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駱為龍「北京日報」元東京支局長に聞く



――池田名誉会長が初めて中国を訪問してから今年(1999年)で25年。現在の、かつてない両国間の往来も、「金の橋」を築いた人がいればこそ。歴史の国・中国では、その“原点”を忘れません。そうした識者の一人、日中友好の黎明(れいめい)期にあって、日本研究家として、また記者として“現場”を見つめてきた駱為龍(らくいりゅう)さんに、今後の創価学会の役割なども含め、インタビューをしました。

(聞き手=聖教新聞香港特派員・加倉井恵一)


 ――年間170万人の日本人が、中国へ渡航する時代です。
 中国にとっては、海外各国と比べて群(ぐん)を抜く往来の数といえましょう。しかし、両国間に「平和友好条約」が締結されてから、ようやく20年を超えたばかりです。今年(1999年)は、池田名誉会長が初めて中国を訪れてから、ちょうど25周年。当時、国交正常化はなされても、まだ東京―北京間に直行便が飛んでおらず、香港経由しかルートがなかった。境界線の鉄橋を歩いて深セン<土へんに川>(しんせん)へ渡った、というのは有名な話です。

駱為龍氏 よく知っています。1974年5月のことですね。実は、私は同じ年の1月に日本に赴任しましたから、池田先生とは、ちょうど逆コースで日本に入った。いわゆる「鉄橋組」は、それだけで“両国友好の先駆者”。私にとっても、誇りです。

 中国では、特に親しい友人を「老朋友(ラオポンヨウ)」といいますが、「鉄橋組」の方々は、正真正銘の“人民の老朋友”。池田先生のことを、私たちがこうお呼びする時、そこには十分な根拠と実績があり、尊敬と感謝の念があることを知ってください。

 というわけで、残念ながら、名誉会長の第一次訪中の時期、私は北京にいませんでした。ただ、妻の陳耐軒(チンライシェン)が北京大学で日本語を教えていた関係で、来学された一行を案内しました。彼女にとっては、鮮烈な印象だったようです。そのことは、よく話題になります。

 率直で、誠実で、気さくで、学生からも学ぼうという真摯な姿勢。それでいて、包み込むような大きな心。池田先生は、一般の宗教家や政治家とは、あまりにも違っていた。「友好」と口でいっても、その実、中国の貧しさを見下す、尊大さ、傲慢さにイヤな思いをすることもあったので、際立っていたのでしょう。

 池田先生は、初訪中を終えて帰国するとすぐに、主だった新聞、雑誌に次々と「中国訪問記」を寄稿されていますね。相当な分量です。私は日本で、そのすべてを丹念に読みました。

 何としても多くの日本人に中国の実像を伝えたい。偏見を排して、まず知り合うことが、友好の第一歩である。こうした信念が伝わってくる内容でした。

 正視眼であり、50年、100年先をも視座に入れていた。どこまでも中国を“文化の恩人”として見る温かな眼差し。感動でした。こうした文章の場合は、どんなに良くても、評価と批判が一対二、一対三というのがふつうですから。周恩来総理が、“創価学会を大事にするように”と常々言われていた理由がわかったような気がしました。


【公明党訪中前すでに2人に信頼関係が】

 ――周総理は国交正常化のかなり前に、すでに中日友好協会の孫平化秘書長に「日本の高速道路建設をよく研究するように」「創価学会を重視し、友人をつくること」の二つの指示を出された、との証言があります(『日中国交回復の秘話』)。なぜ、周総理が、一宗教団体である創価学会に、特に関心を示したのか。名誉会長の「中国問題」に関するあの提言がなされる前からとも聞きました。

駱氏 その通り。二つの指示は唐突のようですが、総理の性格からして、ご自身で、さまざまな機会に日本の実情を調べ、正しい認識をした上での話だと思います。

 高速道路は、孫文先生が中国近代化に際して、全土に鉄道網をつくろうとしたことと同じ発想です。創価学会については、端的に言えば、民衆に基盤を持つ団体だったからでしょう。

 実は、総理の日本に関する発言や日本の友人との会見の模様は、数日を待たずして、私たち日本研究に従事する者に文書で伝えられますが、60年代初頭には「創価学会」に関する記述が見られました。

 ですから、あの「提言」の第一報を、北京で知った時は、驚きというより“さすがに創価学会”と、感激しました。むしろ、ショックを受けたのは、講演の全文を取り寄せて読んだ時です。

 まず、意義ある日(戸田第二代会長が『原水爆禁止宣言』を行った9月8日)に、未来を担う学生に訴えたこと。

 生命尊厳と絶対平和の大前提。「自国のために他国を犠牲にすることは絶対に許されない」との信念。武力侵略、覇権主義を否定する中国の立場も見極めていた。国交正常化への手順、プロセスも明らかにしている。

 「ほんもの」の人物の「ほんもの」の言、といいましょうか。

 改めて、周総理の眼力に敬服しました。なにしろ学会や池田先生については、うさんくさい団体、との情報も多かったですから。

 まさに「識英雄重英雄(英雄を知り、英雄に重じる)」「惺惺相惜(聡明な人は互いに大切にする)」です。

 私たちは、周総理のことを“人民の総理”と呼びます。「人民に奉仕すること」を第一義に考えた指導者だったからです。

 総理は、民衆を覚醒し、組織化することの難しさを熟知していた。人は号令では動かない。私欲を捨てた志の高さ、高潔な行動。希望を与え、励まし続ける。ときに正確な判断力も要求される。「長征」をはじめ、あらゆる困難のなか、人民の支持を得た総理だからこそ、学会の本質を見抜いたのではないでしょうか。

 民衆への温情、無私の精神。池田先生も似ていますね。私も長い年月、学会を見てきましたが、池田先生は庶民を“王”にした。

 周総理は、そこに絶対の信頼をおいたのでしょう。池田先生の周総理への敬愛もまた、その一点に集約されると思います。

 のちに公明党が橋渡しをし、政治レベルで中日の国交正常化がなりますが、基本のラインは、民衆レベルの絆、その民衆の心を知る、周総理と池田先生の信頼関係によって、すでに出来上がっていたといっても過言ではないでしょう。


【創価学会は日本の柱、新時代の胎動を予感】

 ――実は、「民」をもって「官(政府)」を促す方法で、日中友好の扉が開かれたというのですね。
 周総理は「日本軍国主義の犠牲者は、中国の人民にとどまらない。善良な日本の人民もまた、犠牲者である」とも言われています。
 駱さんは、記者として日本での10年間、庶民の生活に基づいた優れたリポートを発表していますが、やはり、そうした意識が働いていたのでしょうか。

駱氏 ええ。日本に来て、この国は上から見ていたのでは、何もわからない、と痛感しました。

 政治家や官僚は、決められた原稿を棒読みにする。すべてが横並びで、無責任体質。物質的な豊かさはあっても、満足しているようには思えない。学生時代に読んだ、日本の小説に出てくる人情は、どこにいったのか、と。

 ところが、アパートの隣近所と付き合いだし、盛り場で客と話したり、トラック野郎に同行取材をしたりするなかで、互いに助け合い、逞(たくま)しく生きる人々に出会えました。この人たちが実は、日本の驚異的な発展を支えている。そして、その中には決まって、真面目で明るい学会員の姿があったのです。

 更に驚いたことに、いわば無名のその人たちが、中日友好を真剣に願い、中国に対して温かな眼差しを持っていた。池田先生の思いが、そこまで浸透していたんですね。感激でした。

 当時は、共産国という理由で中国に対し、憎悪をむき出しにする日本人が多かった。遅れている国、自由のない国、恐ろしい国といったイメージが先行していた。私自身、蔑視と敵視にさらされることも、しばしばでしたから。

 学会の男子部の会合にも参加したことがあります。躍動感、清潔感、また向上心に満ちた雰囲気。日本の柱であり、新しい時代の胎動を予感させるのに、十分でした。文化祭にも招待されましたが、裏方のメンバーの主体的で健気な姿が目を引いた。

 中国は、この平和勢力と永遠に友好をもっていかなければならない。これが、私の日本滞在10年の一つの結論でもあります。

 それにしても、池田先生の大いなる勇気は、後世に伝えるべきものです。「提言」にしても、その後の具体的な「行動」にしても、まさしく命がけであった。私もその渦中に日本におり、ある意味で同じ立場にいましたから、大袈裟ではなくそう思います。

 更に、池田先生の博識にも、驚かされました。80年3月のこと。新華社の訪日団と池田先生が懇談した折に通訳をしたのですが、内容があまりに深く、随分と苦労しました。約二時間半、国際情勢から人材論、教育問題に至るまで。日本側の通訳の方と協力して、冷や汗をかきながら務めたことを覚えています。

 中国は、結局は、文化の人、魂の巨人を大事にします。日本の政治家や経済人の多くは、目先の利益ばかり。これでは、永続性はありません。


【友誼の青年が続いている!これは誰も真似できない!】

 ――更に、創価大学が真っ先に、中国の留学生を受け入れた時にも、取材に行かれたとか。

駱氏 75年4月のことですね。確か、池田先生は入学式の数日前、六人の留学生が寮に入る時に、わざわざ出迎え、懇談されています。その折だったと思いますが、留学生の前に、コップに入った水が出された。これを何と言うかと、突然、池田先生が試験をされたんです。

 留学生は当然、「みず」と答える。それは間違いではないけれど、「おひや」と言うんだよ、と池田先生がやさしく教える。生活が即、学習の場であることを伝えたかったんですね。

 これは、ほんの一例ですけれど、池田先生は、創大に来学するたびに、自ら留学生と語らい、何か不便なことはないかと、相談にのっています。

 ある時は、父が子に接するように。また、一国の首脳を迎えるように敬意を払いながら。

 創大としても、6人の中国の留学生のために、学習プログラムを新たに組んだり、専属の教員を雇ったりもしていますね。

 私は、中国からの初めての公費留学生なんだから、友好を重んずるならば、東大とか有名国立大学で受け入れるべきだと、その対応に不満でした。日本国内には残念ながら、留学生さえも「危険」と見なす雰囲気があったのは事実です。

 でも、ある意味で創価大学に受け入れてもらったことは、両国の友好発展のためにはよかったのかも知れません。何よりも、留学生がイヤな思いをせずに済んだ。皆、創大を“第二の故郷”と思っていますよ。

 次の世代、更にその次の世代が、池田先生がつくられた“金の橋”を渡っている。そこが何より偉大です。

 この“金の橋”というのも、池田先生が使い始めた言葉ですね。ロマンがあります。目に見えないが、最も大切な心の架け橋。今、真の友誼の心を持った青年が、池田先生のあとに陸続と金の橋を渡っています。それこそ最初の一人の思いの深さであり、これは誰も真似できない。

 ―― 一方で、先人たちが作り上げた友好交流の流れとは逆な動きも日本の一部にある、と中国から指摘されていますね。その点からも、今後の創価学会の役割について、どう見ておられますか。

駱氏 確かに現代は、中日関係において、重要な十字路に立たされている。

 私は、日本の週刊誌が好きで、今も欠かさず読んでいます。日本滞在が10年間に及んだおかげで、週刊誌の裏、別の意図するところを読みとることが出来るようになった。かえって、わかりやすい。

 その上で、日本の国家主義の台頭、右傾化は心配です。興味深かったのは、池田先生のことを名指しで嫌い、といってはばからない人間が、南京大虐殺はなかった、とか、侵略戦争ではなかったと言い出す。これなどは、池田先生が、日本の平和を守る旗頭である、との逆説的な証明ですよ。

 私は、こうした日本を覆う暗雲を打ち払うのが、創価学会であると期待しています。社会自体が病んでいる状態で、ほかにこうした健全で、脈動している団体は探すことは出来ないでしょう。

 もしかしたら、「創価学会を重視しなさい」との周総理の言葉が、一層の意味を持つのは、これからかも知れません。

【略歴】
駱為龍(らくいりゅう=ロウ・ウェイロン)
 1933年2月生まれ。浙江(せっこう)省杭州市出身。中国における日本研究の第一人者。中華日本学会副会長。中国社会科学院日本研究所研究員。
北京大学日本語研究科卒。新華通信社を経て、74年から86年にかけ「北京日報」東京支局長。
現在、中日新聞事業促進会副会長、中日民間文化交流センター首席顧問、中国太平洋学会理事、中国アジア・アフリカ学会常務理事など要職にある。


1999/06/29:聖教新聞より