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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
“今日死ぬか、明日死ぬか”

中川誠一郎(仮名)(69歳)


 私が応召で第六師団野砲第六連隊に編入されたのは、昭和十二年七月十二日 のことだった。六日後の十八二日に出動命令が出て、熊本駅から門司、門司か ら釜山へと軍用船で渡 り、軍用列車で京城、平壌、天津を経て北京の南西の 豊台で下車、戦闘への第一歩を踏み出した。

 私は、分隊長の立場であった。野砲兵の一分隊は分隊長を中心に砲手四人、 弾薬車長及び兵三人、他に野砲と弾薬車をけん引する馬の御者兵六人の十五人 編成が通常であった。馬は六頭で砲と弾薬車を引き、予備六頭、それに分隊長 と弾薬車長の乗馬を合わせて十四頭である。

 われわれ野砲兵の主な任務は、先兵の歩兵の進軍を後方から援護射撃するこ とと、逆に、歩兵の援護のもとに、陣地や城塞などを破壊することにあり、い ずれも歩兵より数キロメートル後方にあるため、常に歩兵が進攻した後を進み、 勝ち戦さつづきの日中戦争では比較的に危険は少なかった。ただ、敗残兵や便 衣隊(住民に変装した敵のゲリラ)がいつどこにひそんでいるかがわからない ため、緊張感は同じだったと思う。

 豊台から北京、北京から保定へと進軍が始まった。豊台から先は延々とつづ く見渡す限りのコウリャン畑である。華北の八月は雨季とかで、道路が川にな ってしまい、降りしきる雨の中、たわわに実をつけて刈り入れを待つ背丈ほど のコウリャン畑の中を作物をなぎ倒しながら行軍した。ぬかるみのため、一日 数キロメートルしか行軍できない日もあった。そうしたなかに立ったままで寝 たり、雨と汗で濡れた軍服にはシラミがわいて、苦しい行軍だった。

 永定河に向かう柳各荘鎮というところで警備についた時のことである。野砲 兵二人が近くの村へ調達に出かけた。人数が少なかったため、その村で住民に 襲われ、初年兵が一人だけ転げるように逃げ帰ってきた。

 ただちに、もう一人の兵の捜索隊が編成され、初年兵に案内されながらその 村へ走った 。最初は白ばくれていた住民を脅して白状させたところ、「コウ リャン畑に埋めた」という。案内させてそこに行き、「ここだ」という所を掘 ってみると、指までバラバラに切り刻まれて埋められていた兵を発見した。そ の場で長老格の村の有力者十人ほどが見せしめ のために銃殺された。それで も飽き足らず、猛り狂った兵たちは、「皆殺しにしてしまえ」と口々にいう。  そうしたどさくさのなかで、一人が民家に火を放ち、あとはつぎつぎと村中 に火が放たれて村を焼き尽くし、住民もほとんどが殺された。私はこのことを、 そこに行った歩兵から聞いたのである。われわれ野砲兵は分隊長と弾薬車長以 外は丸腰なので、いつも報せを聞く立場だった。

 やがて、私にとって最初の戦闘となる永定河渡河から保定会戦に移っていっ た。永定河 畔に着くと、河の北岸の高い堤防の上にわれわれ野砲の砲列が、 堤防の下にはカノン砲と重砲も土嚢で陣を築いて並べられた。双眼鏡で見ると、 対岸の洲に敵の散兵壕が無数に見える。敵兵の姿はない。「撃て!」の号令で 轟音とともに砲列が火を吹いた。野砲は最大十二キロメートル先まで飛ぶとさ れている。砲撃がつづくと、砲身の先を中心に半径十メートル以上は地面の草 がちぎれ飛んでしまうぐらいの衝撃波が起こる。われわれは耳に綿で栓をして 撃つが、それでも慣れないうちはしばらくは何も聞こえなくなる。

 私は分隊長として双眼鏡で着弾の確認にあたる。第一弾が炸裂した時、何人 かの敵兵が土砂とともに吹き飛ばされて宙に舞い上がったのを確認した。と同 時にいっせいに敵が散兵壕から飛び出し、クモの子を散らすように逃げ始めた。 砲弾を散弾に切り替えて追い撃ちをかける。敵の迫撃砲は届かないため、小銃 の流れ弾にやられない限りわれわれは安全地帯にあった。

 そうしたわれわれの砲撃で敵陣を破壊し尽した後に、待ち構えていた歩兵が いっせいに 渡河を始めるのである。われわれの渡河は歩兵が向こう岸を占領 したあとになる。ただし、敵が逃げる時に橋を破壊してしまうので、工兵隊が 舟を並べ、板を敷いて架橋を作ってからである。永定河ではわれわれもその作 業に加わった。

 こうして永定河につづき、数日後には次の大清河も渡河に成功した。そうし た戦闘を通し、敵の野砲は旧武で上下角の調整ができないものがあり、砲身の こう線が磨滅しているため、遠くまで弾が飛ばず、われわれが有利に戦闘を展 開できることもわかった。そのまま夜営のため一つの村に入ろうとしたとき、 突然、鐘や太鼓やラッパの乱打とともに、一斉射撃がわれわれに浴びせられた。 私のそばの歩兵が敵弾に下顎を後ろから顔面へかけて撃ち抜かれ、即死した。 月明かりで三方を包囲されているのがわかる。敗残兵が集結していたのだろう。 われわれ野砲兵はただ、窪地に身を隠すだけだ。周囲に並べた私の乗馬が敵弾 を浴びてドウと倒れた。

 やがて歩兵が応戦を始め、われわれも砲を立て直し、信管をつけないまま、 距離ゼロの砲撃で反撃した。信管をつけないと炸裂がないため破壊力はないが、 砲撃の轟音は敵を威嚇するには充分だった。弾を撃ち尽くすまでの乱射で、や っと敵が静まり、そのまま夜明けを待った。夜が明けたときには敵は逃げてし まっていた。幸い、わが分隊員は無傷だった。私は乗馬を殺されたので付近の 民家から駄馬を調達して乗馬にあてた。

 こうした恐怖の経験を味わいながらも、保定を占領した。つづく石家荘会戦 も勝利のうちに定県、正定城、石家荘へと進攻していった。石家荘でも敵が逃 走の際に川の橋を落とし、工兵隊が補修するまで立ち往生したことがあった。 川床は大変なぬかるみで、戦闘で逃げ惑った牛がぬかるみに入り込んで立ち往 生していた。兵の一人がその牛の尻の肉を生きたままえぐり取り、その夜の食 事に供された。私も食べた。

 さらに、「この肉もうまいぞ」と出された肉を何人かの兵が食べた。後で「今 のは人間の肉だ」となり、確かめにいった兵から、戦闘で死んだ中国人の大腿 部の肉が大きくえぐりとられていたことを聞いた。

 華北の戦いを終えて、趙県から渤海湾の塘沽へと引き返したのは十月末のこ とである。そのまま内地へ帰れるのかと思ったが、乗船した 軍用船は、われわれには行き先も告げないままに南下し、新しい戦場に送られ ることが予期できた。

 船は杭州湾に入り、金山への上陸らしかったが、敵が川の堤防を切ったため 一面泥海と化していたので、先に上陸した部隊は身動きできなくなり、馬や車 輛などを泥海のなかに放棄したことを耳にした。われわれの船は北上して、上 海付近への上陸となったのである。

 上陸後、太湖の南を回って南京へ向かい、十二月上旬、南京攻略作戦に参加 することになった。われわれは中華門側からの攻撃である。はるか前方に南京 城の高い壁が遠望できる小高い丘へと砲を進めた。“講和条約の締結が進展中 で戦闘はないかも知れない”といったことをわれわれは聞いていた。

 そんなことを話しながら第一分隊を先頭に砲列を敷こうとしていたとき、南 京城内の砲台から一発の砲声が轟き、第一分隊を直撃、野砲兵の何人かが砲も ろとも吹き飛ばされて二人が即死した。「これが、敵の回答だ!」ということ で、そこから一斉攻撃が始まり、南京城攻撃の火蓋が切られたのである。

 とにかく撃ちに撃った。猛攻を浴びせて、「撃ち方やめ!」の合図とともに、 最前線の歩兵が突っ込んでいく。城外の敵を追い散らしながら城壁に向かって 壕から壕へと進む。次の壕に入ると、そこで日の丸の旗を振り、歩兵が敵、味 方を間違えないよう合図された。また砲撃が始まる。

 その何度目かの繰り返しのあとだった。再び、「撃ち方やめ!」の号令が発 せられ、私が砲手に反復したのと砲手が砲を発射したのと、ほとんど同時だっ た。“しまった”と思って双眼鏡を目にあてた。その視野のなかに、砲撃の間、 身をひそめていた歩兵が身を起こし、いっせいに城壁に向かう姿が映った。わ が砲から発射された最後の一弾は、その真っ只中に炸裂、何人かの味方の兵が 吹き飛んだのである。激戦の最中であれば誰も咎められることはない。味方の 砲撃を浴びて死んだ兵も“名誉の戦死”となる。われわれはその兵の家族の悲 しみなど考えるゆとりもなく、次の砲撃へと移っていった。

 さしもの南京城もついに陥落した。われわれ野砲兵は正規の入城はなかった が、私は冒険心で城内に入った。城壁の上から自分たちが戦った地点を双眼鏡 で見ると、大きな石で十文字が描かれており、その交差点で第一分隊がやられ たことがわかった。現場では一つの大きな石の横を通過したつもりが、それは 敵が何度も試射を試みたであろうところの照準点だったのである。私の分隊が 先頭だったら私たちが死んでいただろうと身震いした。われわれは南京城を素 通りして、ただちに蕪湖へと向かった。南京市内の揚子江の港である下関を通 ったとき、延々と約八キロメートルにわたって何百台という自動車が破壊され、 黒焦げになっており、その左右に、これまた何百人にのぼるであろう住民の死 体が老若男女を問わず、転がっているのを見た。南京城が陥落する前に、港へ 逃げた住民たちが揚子江上の日本陸軍戦隊から機銃の一斉掃射を浴びて大量に 殺されたことを聞いていたので、その住民たちだと思った。

 蕪湖に向かう途中、兵の宿舎や馬屋を作らせるために野砲兵から設営隊を出 したことがある。そのときは二十五人の設営隊が、労役をさせるための地元住 民を連れに近くの村へ出ていった。途中で一人の敗残兵を捕え、「もっといる はずだ」と追及したところ、その捕虜の呼び掛けで、白旗を掲げた敗残兵が二 百人近く出てきた。

 二十五人でその捕虜群を率いて、歩兵の駐屯地へ行ったところ、歩兵の上官 から、「お前たちが捕虜を連れ回って戦さができるか!」と 一喝され、捕虜を歩兵に引き渡すことになった。その場で二十歳ぐらいの若い 中国兵が逃げ出した。歩兵の何人かが拳銃を抜き狙い撃ち、なかなか当たらな かったが、そのうち一発が命中した。若い中国兵は声もたてずにパタッと倒れ、 そのまま動かなくなった。

 そこで残りの捕虜を歩兵に引き渡したわれわれ野砲兵は、そのまま目的地に 向かったのだが、数日後、あのときの捕虜はみんな殺されたと聞かされた。そ の前日にも、三百人近い敗残兵や住民が捕虜となり、鉄道線路に添って並ばせ られ、歩兵による機銃掃射で皆殺しになったと聞いたばかりだった。

 第一線を行く歩兵は、われわれ野砲兵のように後方から、また敵の敗残兵と ではなく、強力な敵の正規軍と銃火を交えることが多い。文 字通りの白兵戦で“今日死ぬか、明日死ぬか”という危険に直面している。そ れだけに気が立っており、やることも残酷なことが多かった。

 私が直接、目撃したことでは、こんな場面があった。日時や場所は定かでは ないが、強行軍中のことである。われわれは騎乗兵であるからそう疲れないが、 歩兵は重装備で徒歩の行軍であるため、足にはつくつもの豆ができ、本隊から 遅れるものがでてくる。

 そうした数人の歩兵が、後方を進むわれわれの隊列といっしょになった。道 端には、逃避することができなかった高齢の中国人農夫たちが坐り込んで、進 軍するわれわれに、「大人!大人!」と繰り返しながら合掌して、何度も頭を 下げていた。

 そのしつこさにたまりかねたのか、足を引きずりながら歩いていた歩兵の一 人が突然、一人の老農夫に歩み寄り、「えーい! やかまし か。お前たちのおかげで俺たちがこぎゃん目にあわにゃんた!」と叫ぶが早い か、金具がついている小銃の台尻で、その農夫の頭を力まかせに殴りつけたの である。

 ガツン! と鈍い音とともに農夫の頭が割れ鮮血が飛び散った。鼻からも血 が吹き出し、農夫はそのまま地面につんのめり、ピクリとも動かなくなった。 殴った歩兵は死んだ農夫をチラリと見ただけで、そのま本隊を追いかけていっ た。

 蕪湖に入って、そこで駐留すること約四カ月。その間、私は野砲を離れ、宣 撫班の班長になり、宣撫工作にあたった。住民の人心を安定させる任務である とともに、敗残兵や便衣隊の潜伏を許さないようにするのである。土地の有力 者たちも使って全家庭の戸別調査を行ない、門戸に戸籍標を下げさせ、住民の 一人ひとりの胸にも標識をつけさせた。

 この調査で、住民の多くがアヘンに冒されていることを如実に知ることがで きた。中年以上の住民は男を主にして多くが中毒症状にあり、仕事もせずにぶ らぶらしているのである。屋内では寝台に寝そべって、長い水ギセルでひっき りなしにゴボゴボとアヘンを吸っていた。見つければアヘンを没収したので、 少しは住民のためになったらしく、駐留を終えて、武漢三鎮へと出発するとき、 刺しゅうで作った日の丸の旗に、これまた刺しゅうで、「無敵皇軍 恵存記念」 と書いたものを住民から贈られた。多分に媚を売る目的もあったのだろうが… …。

 それから先は安慶、九江、広済、田家鎮などへ討伐戦をつづけながら進軍し、 漢口から岳州方面の警備に当たった。そして昭和十四年三月には、武寧から南 昌作戦の修水河渡河作戦にも参加した。修水河渡河は砲兵にとっても大きな戦 闘だったが、規模が大きかっただけで戦いとしては楽な方であった。

 渡河後は武昌へ帰り、さらに南京に集結した。われわれは華中での戦いをす べて終え、中国東北部へ向かった。目的地に着いてからも警 備がほとんどで、約一年後の昭和十五年初夏、そこから軍用列車で釜山に向か い、六月に三年ぶりで生きて内地の土を踏むことができたのだった。

 当時の私は野砲兵ということもあり、また大陸にあった間に曹長に進級して いたせいもあり、現地で自分が直接に調達に行くこともなかったが、二十代前 半の若い兵は野砲兵であっても、さまざまな略奪行為をしていることは、私の 当番兵などから聞かされて知っていた。

 戦場でのそうした行為は、ごく当たり前のことであり、慣れっこになると、 敵を殺し、住民を蹂躪しても特別の感慨もわかないものであ る。今、考えると誠に慙愧に耐えない恐ろしいことである。