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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
散る桜残る桜

橘保(57歳・会社員)


 昭和二十年六月九日、午後四時、陸軍特別攻撃隊第六十四振武隊国華隊の渋 谷大尉隊長以下十一機が、鹿児島県万世飛行場に着陸した。

 国華隊は、同年四月、福島県原町飛行基地で隊長以下十二名をもって特別攻 撃隊として 編成された。そして連日三陸の洋上に出て、急降下爆弾や超低空 の艦艇突入の訓練をしていた。編成当時の任務は、北方アリューシャン方面へ の出撃が予想されていたようであったが、敵軍の沖縄上陸に続いて日毎に激し くなってきた本土爆撃などという戦局の変化で、国華隊を含め、日本軍の総力 は沖縄に向けられはじめたのである。

 五月二十八日、原町基地を出発し大阪八尾飛行場を経由して佐賀県目達原基 地に前進して待機した。そしてその日、最前線基地の万世に、故障機の一機を 残して前機がつぎつぎと降り立ったのである。

 万世に着いた時は、あと一日か二日のうちに出撃命令が出るに違いないと予 期していた。

 編成以来約二ケ月、訓練を終えて宿舎に帰ると、毎晩のように地元の人々の 温かい慰問をうけた。我々が淋しい思いをしないようにとの心づかいから、乏 しい配給品を食べないで作って下さった御馳走だった。幼い子供達は神鷲とあ こがれ、お年寄りの中には生き仏様だと手を合わす人も……。

 隊員はその人々に自分達の肉親を思い浮かべて、その決意をより固くするの であった。そうした日々も、夜更けた静寂のなか「あと何 日の命か、いつ命令が出るか」と頭の中をよぎるものを消す 術もなかった。さあ、いよいよ来た。あと何十時間、何時間の命か。 口には出さぬが、誰もその胸中には、そんな思いが走っていた。

 宿舎にあてられた飛龍荘には、先着の隊員がいた。これから出撃する者、止 むなく引きかしてて、再度死に臨む者もいた。

 みんな、共通の運命を背負った同志の集まりである。そんなせいか普段の訓 練に集まったような雰囲気が、そこにもあった。九日の夜は満天の星空であっ た。翌十日、トラックで飛行場に送られ、作戦を練りながら終日命令を待った。 ジリジリとむし暑い初夏である。その日、命令は出なかった。今日も生きてい たか、そう言い合って宿舎に帰った。その夜、私は寝苦しいままに、うすあか りの外に出た。ふと今日は、命令が出るかもしれないと感じた。朝食後、規則 どおりトラックで飛行場へ。十二時集合命令。いよいよ出たのだ。第六十四振 武隊国華隊は、本日(六月十一日)薄暮(午後七時十分)を期して、沖縄本島 中城湾及び嘉手納湾の敵艦船を攻撃せよ。全員作戦室に集合して、最後の打ち 合せが始まった。

  十七・〇〇  全機エンジン始動
  十七・一〇  第二小隊 巽精造少尉以下三名離陸
  一七・一五  第三小隊 稲垣忠男少尉以下四名離陸
  一七・二〇  第一小隊 渋谷健一隊長以下四名離陸

 右のように、三小隊に分散して攻撃することに決まった。隊員は、今の今迄 全機が一緒だと思っていたので、とても残念がった。

 しかし状勢は最悪で、すでに沖縄に飛行場をつくった敵は、本島上空はもと より、徳之島周辺まで完全に制空し、上空八千メートルを三段階に戦闘機を配 して、常時滞空哨戒をしているとのことであった。

 今は味方戦闘機の護衛もない特攻機は、思い爆弾をかかえ、敵を避けながら 目的地に着き、任務を果たさねばならなかった。分散したのは、一機でも、そ の目的を達せんがための方法であった。

 今はもう思い残すことはなかった。肉親への遺書も、遺品の爪や頭髪も、み んな送った。心の整理もできている。

午後五時までの時間は刻々と迫ってくる。飛行場周辺の松林のなかに隠してあ った愛機が、つぎつぎに運ばれてならぶ。その一機一機の胴体に五百キロの爆 弾が装備される(五百キロ爆弾を積んだ場合、滑走距離は四、五百メートル長 くなる。操縦桿もそれだけ重みを感ずるが、高度に狂いは生じない。高度計は 正確な値を示すだけである)。燃料車や整備員が左右に忙しく働いて、静かだ った基地が俄に活気に躍ってきた。

 爆弾かかえ山中に墜落  いよいよ出発だ。別れの盃が交わされ、一人一人が堅い握手をする。しっか りやれよ、         成功を──靖国神社で逢おう、お互い目と目の訣別。そして愛機の側に駆けて ゆく。飛行場に一段と激しく爆音がひびきわたる。機付長から異常なしの報告 をうけ、最後の感謝の言葉をかけて機上の人となる。

 一七・一〇時、第二小隊から滑走が開始され、一機、また一機と思い機体が 浮かんでゆく。続いて第三小隊も。さらば戦友よ。永遠に、サァ、次は自分の 番だ。隊長機の離陸につづいて発進……。思い機体が二度と踏むこともなくな った地上を離れる。僚機も後を追てくる。高度を取りながらやがて編隊を組む。 眼下に薩摩、大隅の両半島が浮き出てくる。

 さらば祖国よ……父よ。妹よ。

 何故か目頭があつくなってきた。このぴんぴんした肉体が、あと二時間余り で機体もろとも粉粉に散るのか……。恐怖ではない。不思議な思いが走った。 次々と幼い頃のことや、両親、妹の顔が浮かぶ。それは僅かな時間であったが、 走馬燈のように頭の中をよぎっていった。

 機は九州を離れて海上に出ていた。梅雨前線の影響か、薄黒い雨雲が、波の ように押しよせてきた。翌日の新聞に

  「国華態神鷲 同期共に散らん
   喜びに震ふ さあ出撃だ
   母に限りなき感謝 悔いなし
   特攻機 敵艦突入」
 と、その戦果が大きく報道された。しかし、同じ宿命にあった十一人のうち 私だけが、生から死、そして再び生への運命をたどることになるのである。

 その日の九州南方海上は雲が厚くたれこめて、南下するにつれ雨となり、夕暮 れと共に視界は次第に悪化、最悪の条件だった。ちょうど、梅雨入りの前後だ ったのではなかったのだろうか。以後終戦まで、この基地からの出撃はあまり なかったのではないかと思う。

 雲の上と下

 渋谷隊率いる第一小隊は、この他、私、鈴木伍長、岸田伍長の四人だった。 三十分も飛んだと思われるころ、鈴木機が黒煙をはいた。エンジン不調だった。 私は隊長に合図、鈴木伍長に帰還を命じた。

 ところが、この後私の機もエンジントラブルを起こした。他の二機に、遅れ 出したのである。それでも何とかついていこうと操縦したが、悪天候下、とう とう先を飛ぶ二機を見失ってしまった。

 私は一路沖縄を目指した。しかし、相変わらず雲は厚く雨も本降りになって きた。いよいよ視界はきかなくなった。もうここらあたりが……。勘をはたら かして私は、雲の下に降りていった。しかし、着陸地は見つからなかった。

 また、雲の上に出てさらに飛んだ。雲の下に降りると、まだ見つからない。 羅針盤を北に向け左右にも飛んでみた。時間はたつ一方だ。かれこれ六時間は 飛んだであろうか。ふと灯を発見したのである。降りしきる豪雨のなか一気に 高度を下げた。おぼろげながらも、それは確かに灯であった。着陸地を探そう としたが見つからない。やむを得ず、一旦海上に出た。かかえていた爆弾を落 としてから、再度探そうと考えた。ところが、今度は爆弾が落ちないのである。 機を左右に振ってみたがダメである。私は必死に繰り返した。しかし、燃料は もうなかった。機は真っ逆さまに落ちていった。私は枕崎裏の川辺郡上山田の 山中に墜落した。

 あとで聞いたところによれば……。

 前夜の午後十時頃、突然低空をかすめる爆音がしたと思うと、つづいて大き な衝突音がして、ピタリは静かになった。土地の人々は、空襲警報も出ていな いので、もしや、敵機が墜落したのでは……。いや、味方の特攻機かも……と 救急用具やタンカ……それに、竹槍も用意して、夜を徹して雨の中の捜索を始 めた。

 翌朝うす明るくなった頃、日の丸の飛行機を発見した。機体は翼を折って、 雑木のまばらな平地に、その機体からはずれた爆弾が、十メートル程離れた柔 らかい山中に、不発のまま横たわっていた。一滴の燃料もなくなっての墜落で、 火災もなった。

 まさに奇蹟であった。その機体の中で、意識不明の私は、顔面裂傷で出血多 量の危い命を助けていただいたのであった。

 結局、川辺と知ったのはこの時で、はじめ私は朝鮮と思っていた。沖縄を発 見できなかった私は、沖縄近海から、大陸寄りに北上、川辺に突っ込んでいた のである。

 死すべき者が生き残った瞬間からあらたな苦悩がはじまった。戦友をはじめ、 多くの人達の期待に応えることの出来なかった恥ずかしさ、不甲斐なさ、申し 訳なさ……。

 散る桜 残る桜も 散る桜

 今一度いかねばならない。傷よ早くよくなれ。目よ、見えるようになってく れと祈る毎日が続いた。

 その頃、佐賀県目達原基地に、やっと手に入れた切符で、四国からたどりつ いた母と妹が、国華隊は十一日出撃、突入しましたと聞かされ、私に会えず、 重い足どりで帰っていったとのことである。その母も妹も今は亡い。 そして今、私は戦友を思い出す。とりわけ渋谷大尉のことは忘れることが出来 ない。

慈愛の人・渋谷大尉

 山形県出身の大尉は万世基地で、唯一の妻帯者であった。若い時から苦労を 重ねており、慈愛あふれる温厚な方だった。厳しくもあったが、隊員は親や兄 のように慕っていた。操縦もうまく、ベテランパイロットであった。大尉に次 いで私は飛行機をこなしていたが 、大尉も私をよく信頼して下さり、指示を 出されていた。

大尉はご家族に遺書を残されている。(苗村七郎編著。『万世特攻隊員の遺書』 から)

 倫子竝生れ来る愛子へ

  真に今は皇国危急なり、国の運命は只一つ航空の勝敗に決す。翼破るれば 本土危し。三千年の歴史と共に大和民族は永久に地球上よ り消へ去るであらう。

  先輩の偉業を継いで、将亦愛する子孫の為に断じて守らざるべからず、皇 土斯如にして全航空隊、特に空中勤務者全員昭和二十年桜の候と共に必ず死す 可く事に定りたり。父は選ばれて攻撃隊長と成り、隊員 十一名年齢僅か二十歳に足らぬ若桜と共に決戦の先駆と成 る。

  死せず共、戦に勝つ術あらんと考ふるは、常人の浅墓なる思慮にして、必 ず死すと定まりて、それにて、敵に全軍総当りを行ひて、尚且現戦局の勝敗は 神のみ知り給ふ。真に国難と謂ふ可なり。

  父は死にても死するにあらず、悠久の大義に生るなり。

  一、寂しがりやの子に成るべからず、母あるに存らずや。父も又幼少に父 母病に亡くなれど決して明さを失はずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死 せりと聞かば、日の本の子は喜ぶべきものなり。

  父恋しと思はば空を視よ。大空に浮ぶ白雲に乗りて父は常に微笑て迎ふ。   二、素直にそだて

 戦ひ勝ても国難は去るにあらず世界に平和のおとづれて万民大平の幸を受け る迄懸命の勉強をする事が大切なり。

 二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明く暮すは父に対しての最大の孝養な り。

 父は飛行将校として栄の任務を心から喜び神州に真の春を招来する神風たら んとす。

 皇恩の有難さを常に感謝し世は変る共忠孝の心は片時も忘るべからず。

  三、御身等の母は真に良き母にして父在世中は飛行将校の妻は数多くあれ ど共、母程日本婦人としての覚悟ある者少し。父は常に感謝しありたり。戦時 多忙の身にして真に母を幸福に在らしめる機会少く父の心残りの一つなり。御 身等成長せし時には父の分迄母に孝養尽くせるべし。之父の頼なり。

  現時敵機爆撃の為大都市等にて家は焼かれ父母を亡ひし少年少女数限りな し。之を思へば父は心痛極りなし。御身等は母、祖父母に抱かれて真に幸福に 育ちたるを忘るべからず。書置く事は多かれど大きくなったる時に良く母に聞 き、母の苦労を知り、決して我儘せぬ様望む。

 戦争、終戦、そして戦後の混乱から見事に立ちあがった今日の平和で自由な 日本……。それは我が戦友を含む多くの人々の尊い犠牲の上 に出来たものである。

 よかれあしかれ、その時代に生き歴史的な教育を受けた当時の多くの国民は、 余りにも純粋であったのではないだろうか。

 しかしそれを非難することは出来ない。私は五十三年六月十一日、靖国神社 で御遺族の方々と一緒に、亡き戦友の三十三年祭をすませ、幾分か心のやすら ぎを覚える昨今である。

 乞われるままに、古い傷にふれてみて、あらためて次の世代の人達には、二 度と戦争のない人生を過ごして欲しいと願っている。

 そのためにも、正しい教育のもとで、国民一人一人が自分の暮らしを大切に すると共に、他の人々の生活をも大事にして平和な祖国をつくり、それを護っ ていって欲しいと念ずるものである。

 それが、尊い犠牲になられた方々への慰霊ともなるだろうから。