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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
格子なき牢獄

匿名(60歳)


 戦争──それは、人殺し、略奪、火つけの組織的、計画的行動であることを、 私の青春は知っている。

 昭和十四年五月五日、私は和歌山第六一連隊に入隊した。「上御一人の為」 との教育が骨髄に刻まれていた。いよいよ「御国の為」に働けると、勇んで故 国を出発、華南の黄埔港に到着した。そこから貨車に乗り、西村という地に駐 留したのである。

 そこで、現地教育となった。普通は、六か月間の訓練であったが、戦争激化 のため、わずか三週間で切りあげられ、敵味方相食む戦場へ送り込まれた。

 初戦は、花県討伐への行軍の途中で起こった。私達初年兵が中心となって食 事の準備をしている時であった。松林の中にあった水くみ場で、飯盒炊爨をし ていると、突如、

「ダッダッダッーン」

 銃声が鳴った。敵の襲来であった。一人の初年兵が、キリッキリッと数回回 転したかと思うと、もんどり打って倒れた。敵弾は、彼の後頭部から口喉を突 き抜け前歯を砕いていた。即死であった。私の頭上からは、バラバラと松の葉 が落ちてきた──。

 たった一発の銃弾で彼は死んだ。戦場への尋常ならぬ戦慄が走った。同時に 戦争に対するぼやけた認識は、人間同士の殺し合いであることを自覚させた。 (なぜ、殺し合うのか?)

 その疑問は解明されないまま、以後、私の脳裏に居坐り続けたのである。  花県に到着するや、通商“すりばち山”の敵陣地を攻略した。その時、私達 は五名の捕虜を獲得した。

「戦闘の度胸をつける!」

 古兵の命令で処刑が準備された。一名の捕虜に四、五名の初年兵が割り当て られ、代わるがわる銃剣で突き刺した。飛び散る鮮血、絶叫、凄まじい形相、 苦悶のうめき──悲惨極まる光景であった。それは、私にとって初めての殺人 であり、地獄であった。

 ところが、私の突き方が悪かったのか、何かの拍子に縛ってあった縄がほど けて、血みどろの捕虜は、銃剣の先を必死の形相で握りしめてきた。私はその 重みを感じた。

(俺は、殺している!!)

 泣きたいような恐怖が全身を走り抜けた。あとは分からなかった。私は捕虜 を殺した。(これが戦争なんだ)

 慰めにもならなかった。こみあげてくる慙愧はどうしようもなかった。

 私は、その後、行軍の苦しみと大規模な修羅場を経験した。それは「英徳作 戦」といって、華南から華中までの進軍であった。武器弾薬を背負って、完全 武装の行軍の苦痛は、筆舌に尽くし難い。歩くことは死ぬほど苦痛であった。 また、一人とどまることは、これまた死を意味した。歩かねばならない──も とより武器を捨てるわけにはいかない。葉書を一枚、安全剃刀の刃を一枚、と 捨てて歩いた。紙一枚にどれほどの重みがあったというのだろう。ところが、 葉書を一枚、また一枚と捨てるたびに、非常に身軽になったという実感が沸き、 元気が取り戻せたのであった。

 こうして、大関の地に到着したのは十六年十二月三十一日であった。そこは、 第八連隊が敵から奪った陣地を、私達六一連隊が引き継いだものだった。故国 では明日は一月元旦という忘れる事のできない晦日の夕であった。恩賜の菊の 御紋の付いた煙草を頂き、吸った。盃一杯の酒も出た。翌日は大関にある敵主 力部隊の攻撃であった。酒と煙草は体にしみ入るように心地よかった──。(あ あ、俺の命も明日までか。)

 翌朝五時、友軍の援護射撃を得て、私達は突撃した。敵も一斉砲撃を開始し た。轟々たる地響き、舞い上がる土煙、無数の雷が一か所に落ちたかと思われ るような耳をつんざく轟音のなかで、私は風圧に飛ばされ、打ちどころが悪か ったのか気絶してしまった。

 誰かのうなる声に目を覚ました。そこには、十二、三名の日本兵が置き去り にされていた。私は不思議にも無傷であった。周囲に死体が転がっているなか で「水をくれ」と叫んでいる重傷兵、親兄弟かの名を呼び続けている負傷兵な ど、まさに地獄絵図そのものであった。

 それらの負傷兵のなかに高山(仮名)という戦友がいた。彼は、何かの破片 が股の付近に当たって出血しているらしかった。股間から多量の出血があるの か、軍服は真っ赤に染まっていた。

「どこをやられた!」

 私は、高山の肩を抱いて何度も聞いたが、彼は、激痛に耐えようとしてうな るだけであった。私は、高山を背負って、空家になっている中国人の家へ入っ た。そこで、三角巾を仮包帯して、彼の傷口をあらためようとした時、「アッ」 私は息をのんだ。彼の睾丸が引きちぎられ、なくなっていた。

(鋭利な破片が、物凄い勢いで回転しながら当たったものに違いない)

 私はそう思った。高山は苦しそうに(水をくれ、水をくれ」と言った。「水 を飲んだら死ぬやないか!」飲ましてやりたいけれど、重傷の時水を飲むと死 ぬと思った。私は彼の頼みを無視した。

 一方、空家とはいえ、いつ敵兵が現われるともかぎらない。私は、それを警 戒しなければならなかった。手榴弾の安全弁をはずし、小銃の安全装置をはず した。日没が迫っていた。戦友の怪我と、夜襲の警戒との板挟みになって一人 苦しんだ。

 小一時間、黄昏の薄暗い空が広がっていた。彼方から、人の声らしきものが 聞こえた。初めは分からなかったが、すぐ友軍の衛生兵であ ることが分かった。高山は担架に乗せ後方へ、戦死者はその場で焼くことにな った。

 農家を壊して木材を取り、その上に戦死者を乗せた。たくさんの藁を積み上 げ火をつけたが、藁はすぐ燃え尽きてしまうので、時々、水をまきながら焼い た。手足はすぐに焼けたが、腹の部分がなかなか焼けない。そうしているうち に出発命令が下った。火を消し、戦死者達の所持していた飯盒に、彼ら自身の 骨だけを入れ、あとは埋葬した。

(いつか、俺もこうなるのだろうなァ)

 そんな思いが胸いっぱいに広がっていった。そして、英徳へ着いたのは旧正 月二日であった。敵の死体が無残に散乱していた。私はそこで、死体整理をさ せられた。ところが、ここでは、後方からの補給がうまくいかないということ で、私達は数日して転進命令が下って、元の竜口荘へとって帰した。

 それからしばらくしてから、広東州の中央憲兵隊へ補助憲兵として私は派遣 された。野戦補助憲兵といって、憲兵と同伴の時だけにかぎって憲兵の資格を 有していた。主な任務は、保全地区(駐留日本軍の勢力圏内)での治安維持で あった。特に、思想犯に目を光らせた。思想犯を捕え、拘留し、洗脳するので あったが、そのやり方は目を覆うものであった。

 コンクリートの上に、真っ赤に焼けた木炭を敷きつめ、その上に裸にした“囚 人”を転がした。喚き、のた打つ“囚人”は隅へ隅へと転がってくるが、周囲 には日本兵がいて、それを蹴飛ばして再び中央へ戻した。“囚人”の反応の仕 方は、もはや人間のものとは思えなかった。多くの“囚人”は三日目を境に死 んでいった。

 女に対してもその残虐度は同様であった。やはり全裸にして、獣のように四 つん這いにさせ、丸太で打ちのめした。私は、そればかりはどうしてもできな かった。すると、

「これしきのこと、できんのかッ」

 一人の憲兵が私を蹴飛ばしてから、丸太で渾身の力を込めて女を打ちすえた。 中国人は人間に非ず、否、生き物にさえ非ずとでも思っているような拷問であ った。彼らの抵抗は死以外の何ものでもなかった。

 このほかにも各憲兵隊から思想犯や囚人を寄せ集め、毎年四回位実施され、 その大半が殺されていったことを記憶している。

 白雲飛行場では、大量の“囚人”を斬首した。斬首の前に教誨師が彼らに言 い渡した。「お前達は日本の兵隊に反逆した。これは、自ら 招いた罪の結果である。今度生まれてくる時は、日本軍に忠実な“善良”な中 国人になることだ」

 何と勝手な言い分であろうことか!!。末期の水を飲ませ、煙草を一服させると、 一人一人の“囚人”の名を呼び、刑は行使されていった。「日 本鬼子打倒!!」と最後まで節を曲げなかった者、泣き叫ぶ者、 気が転倒してしまった者、反応はさまざまであった。斬首の刑は冷徹に続行さ れた。

 当時、大陸では日本軍が物資を買い占めるため、物価が暴騰していた。農民 の食糧、とりわけ動物性タンパク質の価格は急上昇していた。普段なら、捨て てしまう豚の腸でも、彼らは野菜と一緒にして、いためて食べていた。カエル、 ヘビなども常用していたためか、田植えの時期になっても、カエルの鳴き声を 聞くことがなくなっていた。

 そんなある日、憲兵伍長を中心に私達十人ほどで、三、四里先の部落へ豚を 買いにいったことがあった。

 部落へ着くと、老夫婦二人住まいの一軒家へ入った。伍長と老人との間で取 引の交渉が始まった。

「豚一斥、二タイヤン」

 老人は静かに言った。

「バカヤロウ!! 多量に買うんだゾ。半額にしろ、半額に。それ以上では買え ん!」

 憲兵伍長は高飛車に怒鳴りつけ、老人をにらみすえた。

「二タイヤン以外では売れません」老人はまた静かに言った。

 「半額にしろ」「二タイヤン」と、二人の間でしばらく押し問答が行われて いたが、やにわに伍長は小銃で老人の顔から肩にかかる部分を殴りつけた。 「ウッ」と一声、老人はその場に倒れてしまった。伍長は、石でも蹴るように 老人を蹴飛ばし、庭先の池へ落とした。そして、老人めがけて小銃を発砲した。 「パーン」という音とともに、小さな池に赤い血が広がっていった。

 銃声を聞きつけてきたのか、老婆は髪を逆立て、怒りとも悲しみともつかぬ 必死の形相で、喚きながらこちらへ走ってきた。伍長は、彼女をもたたき殺し、 池へ蹴り込んでしまった。

 私達は、トラックに豚を乗せ、駐屯地に向かった。皆、先程の光景が脳裡に 焼き付いて離れないのか、物思いに沈んで語らない。その空気を察知したよう に伍長は言った。

「我々は殺し合いにきたのだ。言い値で買っていたら、金はいくらあっても足 らん。殺しても取ってこい」

 私は黙っていた。ただ、弁解めいた伍長の言い分を聞いているうちに、怒り が沸いてきた。(なぜ老人までも殺すんだ。目的のためなら何をしてもよいの か! 無抵抗な老人を殺してもいいのか!)

 そう思うだけで言葉にはならなかった。ここは戦地であり、私は軍人であっ た。上官の命令遂行だけが善であり、思慮深い者は、すなわち臆病者であった。 私は「格子なき牢獄」の“囚人”であった。