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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
ある青年の死

東 庄平(56歳)


 終戦当時、私たちの部隊は旧満州の浜江省一面坡に駐屯していた。ソ連軍の 参戦によって武装解除され、そのまま捕虜となってシベリア行きを強制された のである。牡丹江街道を国境に向けて行進する虜囚の群のなかには、終戦の日 の前日召集された者も多数含まれていた。

 ソ連軍を解放軍として歓迎したマルクス主義者も、召集兵のなかにいたはず である。ソ連軍が一部の軍国主義者を除いて日本兵を開放し、そのまま内地ま で送還してくれるなどという彼らの甘い期待は冷酷な現実の前に音もなく崩れ 去っていった。終戦の前日に召集された補充兵といえども、日本軍国主義者の 一員であると断定して、シベリアの強制収容所に連行し、ソビエットの国家目 的に奉仕させることだけが、いわゆる一国社会主義者の貪欲な利己主義であっ た。一民族だけに通用する強制された忠誠ほど利己的なものがあろうか。それ は社会主義であろうと資本主義であろうと問うところではなかった。一人の人 間の生命は地球より重いなどという戯言は地獄へ行ってから聞けといったあり さまであった。日本の軍隊でも鴻毛より軽い生命観が強制されたが、別な意味 で私たちは不条理に消えていく生命への恐怖感、無常観に戦慄したのである。  国境へ行進する日本軍捕虜の胸中は、まさに屠所へ運ばれる羊のそれであっ た。昨日までの新戦場には激戦を物語るようにソ連軍の白い墓標が丘を縫って 点綴し、日本兵の屍体 は葬る者とてないままに夏の炎天下に死臭を放って叢 に埋っていた。なかには路傍に捨てられて人目を浴び、蛆蠅の餌食となった者 も多かった。いかに敗戦の憂き目を見たとはいえ、死後まで恥辱を残すことの 無残さを生き残った私たちは噛みしめていたのである。

 その時である。黙々と行進する捕虜の列を破ってあの若者が飛び出したのは ──。

 シャベルを片手に路傍の屍体に近づき、死者の恥辱を隠すべく一塊の土を手 向けるためであったろう。触発されたように私も一歩隊列を踏み出した。

 だが、次の瞬間、警護のソ連兵のマンドリン小銃が火を吹いて、あの若者は 屍体の上に倒れた。部隊は新しい屍体を残して振り返ることもなく行進を続け る。そして私も……。あれからもう三十年が経過している。あの時の青年の死 を、カミユなら「不条理」として説明したであろう。だが、彼を殺したのはソ 連兵のマンドリン小銃だけであっただろうか。あの時もし私たちが競って彼を 守るために隊列を離れたら、少なくともあの青年は殺されることはなかったで あろう。

 日本に帰還してからもこの問題は長く尾を引いて私の頭から離れることはな かった。

 そして、あれから後も私の周囲に、人間的に目覚めたが故に、春秋に富んだ 生命を犠牲にした多くの青年の死を見てきた。もちろん、彼らの死を讃美する 気持ちは毛頭ない。あの青年にしても、まさかあのことで殺されるとは考えて もいなかったはずである。広島や長崎での原爆犠牲者や、一握りの軍国主義者 を除く戦没者と同じく、二度と繰り返してはならない戦争犠牲者として彼の死 を位置づけ、未来への橋を架ける者として、生き残った者の心に銘記する以外 に冥福を祈る方法はないように私には思え、そこから私の反戦の叫びが始まる。  そういえはあの当時、戦争は私たちの周囲から親を奪い、友を奪い、子供ま で奪っていった。こういう私まで教師として生徒を同伴して戦争に協力したの であった。そして今になって戦争が罪悪であり、軍国主義教育が間違っていた などと反省している。ある意味では遅過ぎたのであった。この事実は取り返し のきかない重大な過失であった。この原罪ともいうべき十字架を背負わない限 り、私の反戦平和の運動はナンセンスとなろう。

 私たちの駐屯していた東満には国策に沿って日本から移住した開拓団が何カ 所かあった。沖縄の戦況が悪化する頃から、いわゆる体当たりで敵艦に命中す る特攻隊員の養成が急がれていた。昨日まで開拓村で魚釣りし、豚の尻を追い 回していた子供たちが召集された。なかには、十五歳にも達しない腕白小僧ま で員数に加えられた。極めて短い訓練のあとで若鷲たちは出陣して行った。出 陣を前にして振舞われた茶碗酒一杯に目元を染めて、彼らは両親との挨拶も許 されないまに飛び立って行った。

 当時、「若桜特攻隊の歌」というレコードが流行して、少年たちの意気を鼓 舞したが、十五歳くらいの子供にどれぼどの覚悟ができてい たかは、どう考えても疑問である。私と親しくしていた少年隊員が唱ってくれ た「若桜特攻隊の歌」と、その哀れなメロディーが少年たちの絶唱ともいえる 何かを伝えていて、今も忘れられない。

   「若桜特攻隊の歌」
   さらばと最期 またの日は
   桜花咲く九段でと
   笑みつつ哀し つわものが
   私かに交す酒杯や。
   神しろしめす国ならば
   神勅相違なけれども
   大和島根の男の子ゆえ
   ああ君は行く 若桜
   ああ君は散る 若桜。
             (作者不詳)

 子供たちは日本の敗戦を直観的に知っていたのではなかったか。大人たちの 面子のために、捏造された神勅のボロ隠しのために子供たちは犠牲にされたの である。そして今もなお、戦犯たちは生き残っている。生徒のなかには戦死し たものも多かったのに、教師であった私も生き残っている。魯迅の言葉ではな いが、若いもののために老いたものが記念を記すなどというのは、いかなる世 界であろうか。