Make your own free website on Tripod.com
創価学会公式ホームページ
SOKANET 栄光・大勝の年
SOKA GAKKAI official website
英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
トップページ創価学会紹介平和・文化・教育視点聖教コーナー

<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
疎開も戦争だった

渡辺妙子(45歳)


 昭和十九年の秋がこようとするころ、六年生の私は福島県須賀川へ学童疎開 しました。妹といっしょとはいいながら大好きな父や母と別 れ別れになるのが悲しくて、私も、友だちも、大声で泣き叫んだものです。

 須賀川は白河と郡山の中間にあり、牡丹の名所です。楽しいことの一つもな い生活にあって、けんらんと咲きほこる十五センチはある見事なこの花に皆で 大はしゃぎして喜んだことを記憶しています。「戦争に勝つため」「天皇陛下 のため」と教えられ、私たち子供は一生懸命でブドウ園のてつだい(樹木の皮 むき)、秋はシイタケ狩り、柿の皮むき、またはコウリ豆腐つくりなどに頑張 りました。これらの作業がほとんど日課となり、勉強などそ っちのけの毎日はつづきました。

 身体を丈夫にするためといって毎朝、早くから体操とか駆け足とか。子供の 体力をはるかにこえるスパルタ訓練。ましてや深刻な食糧不足で、生きている のがやっとの状態にもかかわらず。私は人いちばい身体が弱く、毎朝の駆け足 のたびに心臓が激しく鼓動し、呼吸困難におちいって真青になり、倒れてしま うことが何度もあった。でも、担任の先生は、道ばたで苦しむ私を見つけても 平気な顔で通りすぎてゆくのです。「身体の弱い子供なんてお国の役に立たな いぞ」と厳しく、冷たく言われたことされありました。

 先生との衝突もよくありました。また、お金のない親を持った子供たちは、 親がする先生へのプレゼントの少ない理由で差別を余儀なくされました。いか に子供とはいえ、六年生ともなればそれくらいは手に取るようにわかり、心に 痛く感じます。親から離れ、過酷な生活を懸命に耐えている子供たち。貧乏で あろうと、裕福であろうと、いっさい関係なく平等に子供たちを優しく面倒み るのがほんとうの先生ではないでしょうか。

 シラミの大群には悩まされ、眠れぬ夜。ときどき、「空襲だーッ」。階段を 昇る人、反対に下る人。みんな寝ぼけ眼で右往左往の大混乱です。

 牛乳当番は忘れられない。友だちとともに朝早く一クラス分の牛乳を牧場に 取りにいくのですが、靴が古びて破れてしまった私は裸足で山道を歩きました。 根雪の厚い福島の山道、やがて足の感覚はまったくなくなります。牧場の主人 は私たちにしぼりたての牛乳を飲ませてくたさり、さらに、真赤にふくれあが った足をゆらゆら燃える火で暖めてくれました。

 毎月の八日は、雪の日も、雨の日も、風の日も、森の奥にある八幡神社で必 勝の祈願をおこないました。参加しなければ、“国賊”とののしられ大変なこ とになります。そのときの身体の調子などいっさい無関係に引き立てられ、連 れていかれました。こんなことをしていて戦争は勝つのかな……子供心に思っ たことです。多くの友が、つぎつぎに倒れていきました。親たちが東京から駆 けつけたときは、すでに虫の息。ぐったりした子供をかかえ、悲痛な表情で東 京へ帰っていった親は何人いたことでしょう。

 私の妹も例外ではありません。六年生だった私は卒業のため二十年の早春に 東京へ帰りましたが、そのまま須賀川に残っていた妹は、とうとう肋膜をわず らい、急いで帰京して下谷病院に入院したのです。ところが栄養失調と疎開で の度のすぎた無理がたたって回復は容易でなかった。そして昭和二十九年二月 十八日、十八歳の生涯を閉じてしまいました。

 戦争とは敵国と戦うだけをいうのではない、と私は思います。疎開の私たち だって戦争でした。食料難、諸物資の不足、それらもさることながら、私や妹 にとって最大の敵は先生でありました。規律に外れる行為にはそれこそ針小棒 大に騒ぎたて目くじらをたてたくせに、子供たちが、妹が、最悪の状態になる までなぜ放っておいたのでしょう。親が“袖の下”を使わぬからといって、そ の子供をなぜ底意地わるく差別したのでしょう。「一致団結、勝つまでは」な んてスローガンも、それでは泣こうというものです。

  ふるさとの 空をと見れば悲しさの
   なみだ流れて今日もすぎゆく