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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
泣きながら焼死体の上を歩いた私

山口富士枝(55歳)


 私は当時城東区亀戸町二の一三六番地(現在の江東区亀戸町二丁目)に夫と 長女(当時四歳)の三人で住んでおりました。ちょうど今から三十年前私は二 十五歳でした。夫は知り合いの工場へ責任者として務めておりました。

 昭和二十年三月九日の東京大空襲以前にもB29の爆撃がたびたびあり、毎日、 毎日、大変不安な日々を過ごしていたことを覚えております。

 その日(三月九日)もいつもと何ら変ることのない日でした。しかしその晩 があれほど恐ろしい日になると誰が予想したでしょうか。私はフトンをしきお わり、今考えると八時か九時頃かと思います。いつもの通り警戒警報が発令さ れ、私は長女を抱いて早めに防空壕に入りました。

 B29のもの凄い爆音が聞こえはじめ、あたりが、だんだんさわがしくなり、 警報も空襲警報に変り、夜の空が真っ赤に染まっておりました。私はここにい たらやられるのではないかと直観しました。長女にも防空頭巾をかぶせ(その 時配給で貰ったミカンを一つ胸にしまい)、急いで背負い、夫は自転車に柳ゴ ウリをつんで一緒に亀戸駅へ向かって逃げたのです。

 それまで吹かなかった風がそれこそ台風のような風となり、うなりをたてて おりました。火の粉が飛びかい亀戸駅付近は沢山の人の波が右往左往しており ました。私は今だかって経験したことのない異常な光景の中をただ夢中で走っ たのです。後になって考えた時、あの困難の中で、夫とよくはぐれなかったと 思います。

 夫は関東大震災を経験した母から「このような異常な時には人ごみの中でま ごまごしていてはだめだ。」とよく聞かされていたそうです。五の橋の方へ逃 げる人、小松川の方へ逃げる人、線路上を逃げる人、それは様々でありました。 私達は錦糸町の方へ(現在の京葉道路)と走ったのです。そして十間川のとこ ろまでたどりつくことができ、その場所で朝を待ちました。

 私の記憶が正しいかどうかわかりませんが、私達の避難した場所は、火にま かれるようなこともなく、またB29の爆撃にもあいませんでした。ただ空一面 が昼間のような明るさで真っ赤に燃え上がっておりました。まんじりともせず に一夜を過ごし、朝(三月十日)家が焼けずに残っていてほしいと願いながら 疲れた足を家の方へと運びました。

 その途中のありさまはほんとうに筆舌に尽しがたい光景でした。行く所、全 てに死体がごろごろところがり、ちょうどマネキン人形のように髪毛のない死 体、子供を背負ったまま焼死している母親、子供をかばいながら、うつ伏せに なった死体、私は泣きながらその上を歩きました。

 死体の上を歩かなければ家へ帰ることができないのです。このたくさんの死 体は、兵隊さんによって、トラックであちこちへ運ばれました。人間の死体を 運ぶというより、焼け跡の焦げたものでもかたすように、ほんとうに哀れな光 景でした。私は自分の家の焼け跡に立ち呆然としました。何一つありません。

 これが昨夜まで私たちが生活してきた家なのか、想い出多い品、大切な物す べてを失いました。ミシンと機械の焼残りがわずかに焼ける前の家を想い出さ せてくれました。ここにタンスが、鏡台が、本箱がと私はしばらくの間ただ泣 いたままその場に立ちつくしておりました。

 幸いなことに私の親戚は全員無事でした。しかし家は私と同様に全部焼かれ てしまったのてす。また隣組でもあった質屋さんの家族は(たしか五人だった と思います。)ことごとく焼死してしまいました。その他たくさんの友人、知 人を亡くしました。空襲にあった後、消息のない人はこの晩亡くなられたので しょう。

 家や物は、お金を出せば買えます。しかし人間の生命は一度失えばもう二度 と戻りません。一体この戦争は私にとって何だったのでしょうか?

 私の心に今でも強く印象づけられていることは、火の海、亀戸駅の人の波、 強い風そしてマネキン人形のような死体の山です。二度と戦争はいやです。こ の悲惨な戦争が、再び繰り返されることのないよう、心から願うものです。