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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年4月15日(火)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
親兄弟、最愛の一人息子までも皆殺しに
 ──城山の自宅表で被爆、0.9キロ

田中キミ子(当時28歳)


 髪の毛が手のひらに

 暦が七月から八月へと変わり、太陽が真上から照りつける季節になると、私 は朝、目がさめるのが恐ろしくなります。部屋にいるだけで、汗がじっとりと 毛穴から吹き出し、肌着をぬらしてしまう八月の暑さ。この暑さが、二十八年 前の“あの日”のむごたらしい光景を思い出させてしまうのです。

 それはもう、全くこの世の地獄でした。見渡す限り焼野原。あたり一面に死 臭が漂い、黒焦げの死骸が無残な格好で散乱し、息もたえだ えの人たちがあちこちでうずくまり、「水を、水を」と苦しい息の下からうめ いていました。川には、まるでイモでも干しているように、死体がプカプカと 浮いていたのです。あのにおいの臭さといったら……。今でも忘れることがで きません。

 私は、現在一人ぽっちの生活です。子供も夫もなく、頼るべき親戚もいませ ん。もし、あの戦争さえなかったら、あの原爆さえ落ちてい なかったならば、私も平和な楽しい家庭が持てたでしょう。最愛の一人息子を いためつけて、命までも奪いとり、親兄弟を皆殺しにし、私を不幸のどん底に たたき落とした原爆が憎くて憎くてたまらないのです。

 私が被爆したのは、二十八歳の時です。当時、私は爆心地から〇・九キロ離 れた城山一丁目に住んでいました。

 あれは警戒警報が解除になったすぐ後で、ソーメンでもゆがこうと思って、 外の水ガメにひしゃくを入れた、ちょうどその瞬間でした。「バチッ」ともの すごい光がして、私は水ガメの中に頭を突っ込んだ格好になってしまいました。  あわてて体を起こすと、あたり一面、一寸先も見えないほど黄色くかすみ、 煙がもうもうと上がっています。「あっ」という間もなく、グワーンと頭をか なづちでたたかれたようなショックを受け、意識が薄れていくような感じです。 ちょうど真っ赤に焼けた鉄の柱をすぐそばに近づけられたように、私の身体が ジリジリ、と焼けていくのがわかりました。

 どの位時間がたったでしょうか。私はすぐに気を取り直し、先程までおばあ さんと遊んでいた一人息子の功を捜しはじめました。当時、城山一丁目の住ま いには、私と二歳半になる功、それに私の母と姉が一緒に住んでおり、すぐ隣 りに弟夫婦、近くにおばあさんと養子孫夫婦が住んでいました。  爆風で家は倒れ、煙であたりもよく見えません。もう無我夢中で功を捜して いますと、最初に母を見つけました。

 母はまるで赤ハゲ同然で、頭の毛は一本もなく、赤く焼けただれていました。 次に見つけた姉は、頭がざくろのように割れ、血が吹き出していたのです。

 私も、ふと耳の後あたりに手をやってみると、ヌルッとした感触がします。 「あら!」と思って自分の頭に手をやってみると、今度はて のひらにバサッと髪の毛がついてきたではありませんか。それでも私は、他の 人に比べるとまだよかったほうでした。

 牛小屋の前で仕事をしていた兄は、両腕とももぎ取られ、立ったまま死んで いました。兄嫁もまた無惨でした。土間に倒れた遺体は、な んとまっ二つに裂けていたのです。

 功の姿がなかなか見つかりません。功と遊んでいたおばあさんは、十メート ル以上も吹きとばされて息絶えていました。私と母と姉の三人は、傷だらけの 身体で必死に功を捜し続けました。倒れた材木をはねのけ、土砂を除きながら 五時間も捜し回ったところ、石ウスに頭を突っ込んだ状態で倒れていた功をよ うやく発見しました。

 一人ぽっち

意識はありませんでしたが、どうにか息はしていました。かわいそうに、わず か二歳の小さな身体は、後頭部を中心に無数の傷とやけどを負っています。私 は近くの浦上川に抱いていき、そこで体を洗ってやりました。その途中、今で も忘れられないむごたらしい光景に出会ったのです。それは近所の顔見知りの 子供二人でした。橋のところで遊んでいたのでしょう。ちょうど橋のらんかん に抱きついたままの格好で、虫の息になっていたのです。その顔は焼けただれ、 かんかん照りの下で、らんかんにくっついたまま離れないのです。

「おばちゃん、苦しか」と苦しい息の下から助けを求めるのですが、私とて、 重体の息子をかかえて、一刻も早く先を急いでいた時です。どうするすべもあ りません。私は「ごめんね、どうもしやえんとよ」といっただけでした。

「警報、終わったんね」──被爆した翌日、ようやく意識を取り戻した功は、 私を見上げてそういいました。しかし、あの混乱の中では、満足な手当てもで きません。私の看病のかいもなく、二週間もたった頃には、一番ひどかった頭 の後半分がくされたようになって、ちょっとピンで押えると、まるでニワトリ のフンのような血ウミが、ぼたぼたと落ちてくるようになってしまいました。

 きちんとした治療を、と思って大分県の親戚にもいってみましたが、お金が 段々なくなってくるにつれて、次第に態度が冷たくなります。仕方なく、また 長崎に戻ってきました。その間、陸軍の軍医だった夫が大分に見舞いにきまし た。

 けれど、髪の毛は抜け、口はやけどで豚の口のようにはれ上がった私の姿を 見て、夫は「すぐ迎えにくるから」といい残したまま帰ってもきません。夫と はそれっきりです。あの原爆が、夫婦の間も引き裂いてしまったのです。

 功の容態は、次第に悪化していく一方でした。苦しさのあまり「母ちゃん痛 か、母ちゃんのバカ」と私を責めるのです。子供が目の前で苦しんでいるのに、 手当てはおろか、おいしいもの一つさえ食べさせることもできません。母親と してこんなみじめなことがあるでしょうか。「功、ごめんね、母ちゃん何もし やえんとよ」私は、そういうだけが精いっぱいでした。できることなら、自分 がその苦しみを代わってあげたい。そう思い詰めると、私は胸がハリ裂けるば かりにしめつけられました。

 苦痛にゆがんだ功の顔と、あのうめき声。あの声が今も私の耳もとから離れ ないのです。功をかかえて、何度汽車にとび込もうとおもったかわかりません。 それでも、そのたびに、もしかしたらなおるかも……と、かすかな望みをたく して、思い止まったのです。

 しかし、それもあえなく崩れてしまいました。忘れもしません。功は、昭和 二十一年の二月十四日、私を残してとうとう死んでしまいました。母もその年 に亡くなり、姉も十五年後に気が狂ったようになって死んでいきました。私は とうとう一人ぽっちになってしまったのです。

 二十九年前の“あの日”が、今年もまたすぐそこまでやってきました。あの 日のことを忘れようと思ってもどうしても忘れられないのです。いやそれどこ ろか、まるできのうのことのように生々しく蘇ってくるのです。もう二度とあ んな目にあうのだけはいやです。絶対にいやです。一時は私自身も髪の毛が残 らず抜けてしまい、歯ぐきをボックリやられて、ガイ骨のオバケのようになっ てしまいました。しかしどうにか身体ももち直し、このように元気になること ができました。いくたびか功をかかえて死のうと思った私ですが、今日まで生 き延びることができました。

 私はこう思うのです。私が九死に一生を得、捨てたも同然の命をながらえる ことができたのは、ひとえにあの原爆の恐ろしさ、悲惨さを世の人びとに訴え 続ける使命があったからではなかったかと。

 私は、今後も生きて生きて生き抜きます。そして一人でも多くの人に原爆の むごさを語り伝え「原爆反対、戦争反対」と叫び続ける決意です。それが、原 爆に子供を奪われ、肉親を奪われ、家庭を奪われた私のせめてもの復しゅうな のです。