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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
◎ 医師もなく薬もなく

木島千鶴子(59歳)


 ピカの当時

 当時共に体験した主人と語りあえたらもっと鮮明な事実を認めることができ るだろうにと思いながら、走馬燈のようにさまざまの事柄を想起している時、 奇しくも昭和三十六年九月離婚した主人の重体の報せを電話で聞いた。心筋梗 塞で意識も不明だという。私は滂沱として涙をとどめることができなかった。

 私の女盛りは戦争と原爆と私自身の重い宿命のくさりにつながれた地獄界で あった。ピカの当時、主人、私、二歳の次男との三人暮らしであったが、おな かには六カ月の胎児がいた。長男は日増しに空襲が激しくなるので、幼稚園に も行かれず疎開させた。当時病人、妊婦、幼児、学童等はできるかぎり疎開し ていったが、私はかなえられなかった。

 日本の重要都市が次々と大空襲を受けている日々であるから、軍部・広島市 が逃れられるはずはなく、今日は広島か明日は広島かと戦々恐々の怯えきった 毎日でした。

 とくに宇品に住む私たちは、港近くに糧秣省もあり、家の裏手には暁部隊と いう兵舎もあった。宇品は真っ先に敵の標的になるといわれていたし、そう信 じていた。戦局は末期の様相をおび、軍医の不足からか、歯科医の主人は軍医 としての教育を受けるために毎日武徳殿に通っていた。(この教育が八月五日 で終了して六日には出なかったために命拾いをしたのである)

 無防備同然の妊婦と幼児なのに、隣組から一軒に一人は建物疎開の作業に参 加を強制されて出かけていかねばならなかった。

 いつ空襲警報が鳴るかわからない状況の中で危険な家をこわす仕事を手伝っ た。サイレンが鳴ると皆は一生懸命に防空壕に走ったが、私はおなかと背中に 子どもがいるから、とうてい早く走ることはできなかった。そのうえに本土決 戦に備えて竹槍の訓練にも出させられた。宇品神田神社の境内で整列、号令が 厳しくかけられて、毎日絶体絶命だった。とうてい幼い子をつれて逃げのびら れることはできない、助かりっこないのだと鉛を飲んだような暗澹とした毎日 を過ごしていた。

こんな極限状態におかれていたある日、飛行機が旋回して雨のようにビラをま いた。「無辜の広島市民は殺さないから早く避難するように」と書いてあった というが、直ちに徴兵が来て、「読んではならぬ、拾って集めて差し出しなさ い、屋根の上のものまで残らず集めて出せ」と通達が伝わった。鬼畜米英の謀 略であるというのである。神風が吹く──神州不滅を信じて疑わなかった私た ちは、たとえ読んでも信じなかったであろう。原爆投下の数日前(だったか、 記憶不明瞭)の呉市大空襲の夜は、戦慄そのものであり、忘れがたい恐怖の一 夜だった。てっきり今夜こそ広島だと思ったからである。息をのんで幾重にも 続く戦闘機の大編隊の爆音に震え続けた。

 息をしていただけの私

 あの日の朝は相変わらずギラギラと暑かった。朝食が済んだ時、警戒警報の サイレンが鳴ったので急いでモンペをつけ身支度をした。が、まもなく解除に なったのでやれやれと思ってモンペや厚いさしこの上衣を脱いだ。何かを取り 出そうと押入れの戸を開けたとたん、ピカッと物凄い閃光、続いてドーンとい う地響きするような轟音がしたと思ったら、爆風で吹きとばされそうになった。 あたりは暗くなってしまった。次男をつれて防空壕に走ろうと、はだしで土間 に飛び降りたが、外は瓦や何かが飛び散っていて危くて出られないので、床下 に子どもを押し込み、自分もしゃがみこんだ。庭に出ていた主人の叫び声が聞 こえたが、壕に走っていったようすであった。

 とてつもない大型爆弾が暁部隊の兵舎めがけて投下されたのだと誰も思った という。原爆だと知ったのは大分後のことであった。やっと明るくなっておそ るおそる出て見ると、主人の顔も近所の人の顔も皆真っ黒にてっていた。家は 屋根と柱だけで建具もしきいも戸もなかった、部屋中ガラスとこわれた物が微 塵になっていた。窓の上と下のしきいがどこに飛んだのかわからなかった。

 やがて主人は顔だけ洗って救護カバンを肩に救護所に出かけた。見れば血を 流しながら続々と救護所に向かって歩いていく人びとが見えた。私は助かった のだと思う実感はあまりなかったように思う。放心していたのかもしれない。 夜になるまでどうしていたのか記憶にない。電気が止まって真っ暗になって、 恐怖でいっぱいになったので近所にいくと、皆ふとんをかついでやかんを持っ て海岸の砂浜で夜をあかすという。私はふとんを運ぶ力すらなかった。

 子どもを背にして救護所に行った。途中空を見ると街の方はあかあかと火が 燃え、煙が昇っているのが見えた。救護所はケガ人でいっぱいであった。焼け ただれて赤身の出た痛々しい人が、板の間にころがされてうめいている。「水、 水、水をくれー」と叫んでいる人に主人はやかんの口から一口ずつ順番に飲ま せて歩いていた。主人の厚い冬の国民服が汗でだくだくになって表までとおっ ていた。昼も夜も何も食べないで頑張っていたのである。話など出来るはずも なく、外に坐って子どもと共に夜をあかした。その夜も断末魔の叫び声をあげ て亡くなった人の数は知れない。翌日も翌々日も主人は救護所に出かけた。何 日続いたのか記憶にはない。息をしていただけの私だったのかもしれない。

 この頃、鷹ノ橋で歯科医をしていらした福地先生夫妻が、家の下敷きからか ろうじて脱出して救いを求めてこられた。奥さんは台所でカニのように押しつ けられていたという。何日か泊まってもらった。夏なので戸がなくてもよかっ た。食べ物らしい物はあまり食べたように思わない。

 十一日には主人の弟を宇品港に迎えに行った。彼は広島第五師団に入隊し、 広島城のところであの大きな黒い門の門衛として軍務に服していた。ピカドン の際、その門の下敷きとなって骨折とやけどをし、似島収容所に送られる寸前 に路傍の人に兄の所在を聞き、その方の好意で迎えにいけたのである。長くて 広い土間に、何百人かの被爆した兵隊さんがやけどで赤身の出たからだを横た え、うめきもだえていた。「水! 水! 水!」とここでも叫んでいた。地上 の地獄の世界であろうか。

 この世の悲惨の極を見たいように思う。筆舌に尽くしがたいこの痛ましい人 びとの列を一人一人見て顔を確かめて歩かねばならぬのであるから、まことに 心の痛む作業であった。やっと見つけてからでも軍はなかなか引き渡してはく れないのである。手続きが厳重であり、弟は家で苦しみ続けて十六日朝断末魔 の声を最後に世を去った。再びその遺骸を軍は持ち去った。そして後で大量の 兵隊さんと一緒に火葬にしたため、誰の骨ともわからない数片の骨をもらった のである。

 私のおなかで被爆した女の子は義弟の亡くなった同じ場所で一年あまりのい のちを終わった。次男は大豆のごはんを食べて原爆下痢症となり、日に十数回 の血便を排泄し骨と皮になって死を待つのみとなった。焼土と化した広島市に 医師はなく薬もなかった。「今日は別れる覚悟をしなさい」と主人がいった。 軽くなってしまった我が子を抱いて涙も枯れはてた。

 しかし生き運があったのであろうか、疎開してあった薬を福地先生が届けて くださって、次男は九死に一生を得たのであった。