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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年4月15日(火)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
泣くのは女ですわ

大野米子(68歳)


  元気デ居リ升ご安心下サイ
  私物ヲ取リニ来ル事
  面会日廿四日九時ヨリ拾壱時
  是非来ル事

「二度と戦争なんか起こしちゃなりません」と大野米子さん(関市在住)は、 四十年前の記憶をたどりながら当時の模様を語った。

──昭和十八年、戦争は日ましに激しくなっていきました。召集令状があの人 にもこの人にも渡されるようになって来ました。夫は自分で刀剣店を営む一方、 私の兄弟たちと共同で会社を設立し、わが家の手持ちのお金を大半投入して新 会社の副社長として経営に多忙な毎日を送っていました。夫は三十一歳、私は 二十九歳、長男は六歳、長女は四歳、そして私のお腹には三人目の臨月の胎児 があり、出産を今日か明日かと待ち望んでいました。折も折、ついに来るべき 日が来ました。私たちのもとに召集令状が渡されたのです。一瞬顔をこわばら せた夫は無言で私の顔を見つめました。涙を流すのみの私に、「心配するな」 と言ってくれました──。

 武雄さんはその日から、数日後の出征の日まで商売の整理のために深夜まで 奔走した。大きなお腹を抱えながら育児に追われている米子 さんとゆっくり話したり、実家で食事をする時間もないほどだった。 ──私は商売の整理にとびまわる夫を見守るのみで、何も手伝うことができず、 辛さ、切なさが募るのみでした。ただ何とかして主人がいるうちにお腹の子を 産んで、子供の顔を見せてやりたいと毎日祈るような気持ちでした。けれども 今日も生まれなかった、また今日も生まれなかったと言っているうちにとうと う出征の日が来てしまいました。出征の前日は不思議と何も話しませんでした。 夫も一言もしゃべりませんでした。出征の日は二月の中頃で寒い日でした。私 や子供たちを残して出征していく夫は断腸の思いだったと思います。けれども そんな顔を全然見せず、見送りの人にりりしくあいさつしてました。国防婦人 会の人たちが出てきて、旗を立てて見送ってくれました。私はといえば、いつ 出産するかわからない身体のために、夫の見送りは玄関からしかできませんで した。夫は私の方へ目もくれずに、みなさんへあいさつして出ていきました。 本当に切ない思い出見送りました。涙ながらに玄関でそっと見送った私には、 りりしく出征していった夫の姿は、今でも脳裏に焼きついて離れません。あの 日が、私と夫の最後の別れでした。

 二月二十二日か二十三日頃、夫から面会に来るようにとのハガキが来ました。 私は行きたかった。しかし今日生まれるか明日生まれるかという時で、当時は 歩いていかなくてはならなかったころですから、どうしようもありません。仕 方なく私の父や兄弟に頼んで面会に行ってもらいました。夫は、「途中生まれ てもいいから来てもらいたかった」と言っていたということを聞きましたが、 私にはそんな無茶なことはできませんでした。夫にしてみれば最後の面会で、 子供のこと、生まれてくる子供のこと、私のこと、商売のことを考えて少しで も話をしたかったんでしょう。後ろ髪ひかれる思いで出征していったんじゃあ ないでしょうか。まもなく夫が船上の人となり戦地へ向かった事を聞きました。 数日後、私は無事男児を出産しました。案じつつ征ったであろう夫。知らせる こともできないやるせなさ。乳房を含ませながら、とめどもなく涙がながれま した。その後、夫の私物を受けとり中身をみた私は、一枚のハガキを見つけま した。そこには、「あとのことを頼む身の用心 火の用心」とだけ書いてあり ました。夫の心を思って三人の子供を立派に養育しようと自分を励ましたもの です──。

 武雄さんは中支(華中)へ渡り各地を転戦中に発病し、野戦病院に入院した。 一方、三人の子供を抱えて育児に忙しい米子さんは、夫が残しておいてくれた 刀の残品と材料を売りながら細々と生計をたてていた。月日と共に生活物資は 乏しくなっていった。

──無我夢中の毎日でした。初秋の頃になって一通の軍事郵便が届きました。 「中支○○前線へ行軍中重病に犯され野戦病院に入院す」という戦友からの便 りでした。それまで夫からハガキも手紙も来なかったものですから、戦地での 様子が皆目わかりませんでした。夫が病に倒れたことを初めて知りました。夫 は幼少の頃から健康で、結婚してからも一度も大病したことなどなく、バイタ リティーにあふれて働き続けていました。その主人が出征後、半年で……と、 信じられない思いでした。その後、戦時下特有の大腸炎であるとの知らせも入 りました。三人の子供の養育と苦しい生活を送っている私にとって、幾千里離 れた異郷で、ひとりで病と闘っている夫を心配しつつも、なす術もありません でした。日を追って重くなる病状の夫は南京の第一陸軍病院に移されたそうで す。

 やせ細ってしまった体は八貫位になってしまったとの代筆の手紙も届きまし た。そしてひんぱんに病状を知らせる手紙が送られてきました。かまきりのよ うにやせてしまって、今日が危ない、明日が危ないという連絡がありました。 死期を悟った夫は、恥も外聞もなく妻子に会いたい、妻子に会いたいと、ベッ ドで駄々をこねて、付添いの看護婦さんや、みなさんを困らせていたそうです。 夫のことを思い、苦しみ、悶えていた私。行けるものなら飛んでもゆきたい。 しかし乳飲み児と、「かあちゃん、かあちゃん」とつきまとう二 人の子供を 残しては行けません。思いあまった私はある人の紹介で、岐阜県国防婦人会長 に相談に行きました。婦人会長は私の心中を察しつつも、現在の激しい戦争の 状況下では不可能なことであるとじゅんじゅんと諭されました。私は電話で南 京へ連絡をとり、夫の病状を逐一知らせてくださった方に、「とにかく私は行 かれませんから、頼みますから、そのことを主人に話して欲しい」と話しまし た。しかし通話の状態があまり良くないらしくて、時々音が途切れたり雑音が あったりで、私の言うことがしっかり届いていない様子でした。それで相手の 方は、「来るんだ、来るんだ」の一点ばりです。私も行けないことを話すんで すが、「来るんだ。とにかく明日が危ないんだ。奥さん来るんですよ」と言わ れました。私の言うことが伝わらないんですね。悲しくなって電話を切りまし た。私は生後六か月になって丸々と肥えた愛児の写真を、無事に夫に届くこと を祈りつつ急いで発送しました。幸い間に合って病床で初めてわが子と写真で 対面した夫は、「兄弟はあらそえん、よく似とる」と言っていたそうです。病 床で片時も離さず眺めて喜んでいたとか──。

 家族の祈りも空しく、昭和十八年十一月十五日、木枯しの吹きくる南京病院 で、武雄さんはわが子の写真を胸に抱きつつ、息を引きとった。後には妻と三 人の子供が残された。

──夫の容態が悪く、助かる見込みは半分半分と知らされていました。もしか したら助かるかもしれないと思いながら、夫のことを案じつつ、毎日の生活に 追われ気の安まる暇もない日が続きました。昭和十八年の末でしたか、私のと ころへ夫の戦死公報が届けられました。ある程度、夫の死は覚悟してました。 しかしその反面では、大丈夫だという思いもありましたので公報をうけとった とき、五体の骨がバラバラになってくずれおちるようでした。仏壇の前で、公 報を握って泣いてました。それしか覚えていません。

 夫は死ぬ前に私のところへ代筆してもらった手紙を送ってきました。それま で優しい言葉などかけたことのない人でしたが、「初めて家のありがたみがわ かった。お前に礼を言うぞ。僕も家へ帰れるようなことがあったら、お前を連 れて、一週間温泉へ連れていってやりたい。働いてお金をもうけて温泉へ連れ ていってやりたい」と書いてあって、そこに八重マルをつけてありました。悔 恨があったんだと思います。私もこんな短命ならもっと尽くしたらよかったと 思います。夫を喪った悲しみは言葉では言い尽くせるものではありません。二 度と戦争なんか起こしちゃなりません。二度と……。悲惨なものです。男の人 も辛いけれども、本当にあとは女が泣きますわ──。