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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
南京大虐殺

法城家安男(仮名・65歳)


 私は昭和十一年に徴集されました。配属された部隊は姫路の野砲第十連隊で す。野砲隊とは十センチメートルカノン砲、六頭立ての馬で引く野砲等を備え た部隊です。

 私は昭和初期旧制中学在学中の頃から反戦思想を有し、専門学校時代には反 戦思想グループの活動家となっていました。このような私でありましたから、 危険思想所有者として軍当局からにらまれ、野砲隊の中でも砲列の最前線に位 置する観測班に任務させられました。

 観測班の仕事は敵軍陣地までの距離、装備、人数をさぐり、後方の砲隊に連 絡する任務を持ち、その性質上三〜六人の編成で、部隊の中でも最も敵に会い やすく、死と隣り合わせの危険な任務です。部隊の中において通信班、観測班 とも専門的知識が要求されるため 、大部分の者が大学出身者でありました。 私の場合はそれに加えて学生時代に平和主義思想を抱いていたために、なおさ らこのような危険な任務につかされたのです。当局は早く抹殺しようとでも考 えていたのだと思います。

 昭和十三年に出兵したわれわれの部隊の最初の任務は中支方面の上海、呉淞 の敵前上陸作戦でありました。この戦闘は支那軍の何百台もの砲列を前に、海 の中を胸までつかりながら、砲弾の雨の中を強行突破しようとするものでした。 この戦闘は味方の勝利に終わりましたが、実に部隊六千人のうち約四千人が戦 死してしまいました。赤紫部隊と呼ばれた部隊の突撃の後に続いたのが私の所 属した野砲第十連隊です。その時私は初年兵でした。初年兵の私が上海に上陸 してみて体験したものは、「戦争の悲惨」ということを事実まのあたりにする ものでした。

 たとえば、占領したという安心から日本兵が一人で市内を歩いていると、必 ず民間人が拳銃で襲撃して射殺してしまうのです。反対にそれに対し日本兵も 民間人を射殺し虐待するという“血で血を洗う”という言葉がぴったりの残酷 な状況です。そのうえ、上海内の租界地区(合衆国、英国、ロシア領事館等所 有地)から、重機関銃により、大砲の行列をつくり進軍しているわれわれ野砲 隊をめがけて撃ってくるのです。支那兵を退却させて安心して進んでいたわれ われにとって思いがけないこの襲撃には仰天しました。この時の死者は二百七 十人、負傷者は千人にのぼりました。

 反戦思想をもちつつ徴兵された私は、軍隊の中で実際に戦闘に加わっていな がらも、内心はこんな戦争はするべきではないと常に思っていました。しかし、 いざ敵に襲撃され銃弾にわが身がさらされるとその考えも忘れてしまいます。 その上、同僚が千人、目の前でバタバタと倒れていく無残な姿を目にすると、 敵に対する憎しみが炎のように燃えあがり、上官の命令一下、敵に対して大砲 により攻撃を加えていました。この租界地区に対する砲撃が後になって考えま すと、日本を太平洋戦争へと泥沼の中にひきずりこむ一因となっていたようで す。

 次に徐州へとわれわれの部隊は進軍していきましたが、この行軍も悲惨なも のでした。たとえば、食事を例にとりますと、われわれにと って唯一といっていい楽しみは食べることでした。しかし、食べるべき食糧が 十分になく、わずかにあった米を炊くのはいつも夜間です。昼間には煙を出せ ば即座に敵に攻撃されるからです。そのため夜に米を炊いて食べたあと朝にな って周りを見ると、敵、味方の兵隊が戦闘によっておびただしい数で死んでお り、なお、その死体は半ば腐敗しかかっている状況です。その中を流れてきた 水を使って米を炊いていたこともたびたびありました。

 次に、南京陥落直後に歩兵の後に続き南京へ入城しました。私たちの部隊は 南京城南門から入城しましたが、そのとたん目に入ってきたものは戦闘によっ て倒れた累々たる死人の山となった列です。その屍は延々と南門から約十キロ メートルの長さにわたって続いておりました。敵、味方の兵士が折り重なって おり、戦闘の激しさを一目でわからせるものでした。屍の重なりあっている道 路をわれわれの野砲隊はガラガラと重い迫撃砲や野砲を運びながら、進軍する のです。倒れている兵隊の胴や頭や足、手などの上を行軍して行きます。陥落 直後なので死体の中に混じって、まだ息をしている人もいます。しかし彼らが 生きていようともそんなことにはまるで無頓着で、重い車輪でバリバリとひき 殺しながらあとから続いてくる津波のような行軍に押されて、進んで行きまし た。たとえ助けを求めて叫ぶ兵士がいてもその声は行軍の軍靴、軍馬の音にか き消されていったのです。

 南京に入城した後、しばらく駐留しましたが、いわゆる南京大虐殺が行なわ れました。私はその時伍長でした。この期間における日本軍 の行為は全く残酷、非道そのものでした。私自身思想的な面、および剣道が六 段という腕をもっていたため、常に上官から命令され、部下四〜五人で敵兵の 虐殺にあたらされました。今、思い起こしても身の毛のよだつ思いがします。

 ある時は、敵便衣隊の捕虜の焼き殺しを命ぜられたことがあります。民間人 が使用していて空き家になった民家に、逃げないように捕虜を後ろ手に縛って 閉じ込めました。全員入れてしまうと家に油をまき火をつけました。捕虜の数 は十人や二十人ではありません。何百人という数です。炎がまわってくると叫 び声が聞こえてきました。戸を破って出てこようとしても外からは鍵がかかっ ているし、また、たまたま外に飛び出して来た者がいても、見張りの兵隊によ って即座に撃ち殺されてしまうのです。炎に全身をつつまれた捕虜が、断末魔 の叫び声、悲鳴をあげてのたうち回りながら焼け死んでいく様は、いくら“戦 争だ!”と上官から言われても、同じ人間として見るにたえたものではありま せん。まさに、

「紅蓮地獄」
 を目の前で見るありさまでした。
 このようなことが、その後も繰り返し行なわれました。
 また、私自身が剣道六段の腕だということで、上官から、
「敵の捕虜を切り殺せ!」
 と命じられたこともたびたびありました。
「上官の命令は天皇の命令と思え!」
 の軍隊ですから、絶対服従の上官の命令に背こうものなら自分自身が反対に 殺される危険があります。
 上官は自らは手を降さず、部下にばかりやらせるのです。
「お前は腕に覚えがあるのだからやれ!」
 と言っては捕虜を連れてきます。
「腕を切れ!」
 と言っては腕を切り落とさせ、
「耳を切り落とせ! 鼻をそげ!」
 と言っては、耳、鼻をそぎ落とさせ、
「首を切れ!」
 と言っては上官の目の前で私に、捕虜の首を切らせるのです。
 人間の首はそう簡単に切り落とせるものではありません。それでも上官は平 気で指示をします。私はこのように腕に覚えがあるばかりに残酷なことばかり 命令され、良心の呵責をいつも感じていました。思いあまって上官に、
「私にばかりさせないで他の者にやらせてくれ」
 と申し出ましたが、全然とりあってくれず、
「いいからお前がやれ!」
 の一言のもとに拒否されました。
 何回も同じ命令をされ、がまんならず何度も交替を申し出ましたが、聞きい れられず、時には私自身が上官より制裁をうけ、生死にかか わるようなけがを負わされたこともありました。

 このように、戦争に反対しながら徴集され日中戦争の最前線で戦っていた私 にとって、このような人間性を無視した残酷な行為を戦争と いう二字のもとにやってもいいものであ ろうかと痛切に感ずることばかりで した。現在思うのは、日本は戦争に負けて結果的によかったのではないかとい うことです。もし、あのまま日本軍が勝利して支配していたら、狂気の軍国主 義時代がまだ続いていたことでしょう。

 今後、私自身として特に平和を愛し、二度と戦争が起きないよう多くの人と 共に戦っていきたいと思います。