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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
紋甲イカの消しゴム

井上康子(59歳)


 ウオー、ウオー、ウオー。

 不気味に断続して鳴るサイレン、「また警戒警報が出た!」児童たちはバタ バタと、机上の教科書や粗末な紙のノートをカバンにしまいこむと、すばやく 昇降口へかけ出す。

 昭和十九年の春、徳島市では毎日午前十一時になると、決まったように警戒 警報が発令され、やがて耳覚えのあるB29のうなりのある爆音が、青空を北東 へと消えていく。大阪がまた爆撃されるのだ。

 学校では、警戒警報発令で授業を中止し、即刻下校させなければならない。  このように、毎日三時間足らずの授業では進度は遅れる一方で、とても学年 相応の学力をつけられる見通しはないが、当時は、それよりも途中無事に帰宅 してくれるようにと、そればかり念じて校門から見送ったものだった。

 あるとき、帰宅したはずの二年生の女児が息せき切って駆け戻ってきた。 「あのね、あのね、消しを忘れたの」

 消しとは今の消しゴムのこと。警報下に取りに戻るほどの物ではないのに… …と思うのは今の感覚で、当時の乏しい学用品の中では、ノートに次いで大切 な物とされていたのだ。その子は教室へ駆けこむと、机の周囲を探し回り、や っと床から拾い上げた消し──それは消しゴムではなく、紋甲イカの甲らの干 した物であった。

 天然ゴムは百パーセント輸入に頼っていた日本では、南方からの輸送が絶た れると、ゴムは宝石的価値になる。とても学用品の消しゴムなどに回されるは ずはないのである。児童たちは生活の知恵で、魚店に頼んで、紋甲イカの甲ら を分けてもらい、干して使うと、カサカサと白い粉を残して、鉛筆の字は消え るのだった。

 今日、このイカの甲らは、セキセイインコにつつかせるカルシウム源として、 一個百円ほどで売られているのを見て、感無量である。

 ある日、例のごとく警報で全校が下校し、教職員は定められた通り、両陛下 の写真が納めてある奉安殿と、非常搬出の書庫警備に当たっていた時、外から 戻ってきた校長に、われわれ一年生担任四名が校門前へ呼び出された。

 何事だろうと不審に思いながら出ていくと、待ち構えていた校長は、いきな り、
「空襲警報発令。あんたら、どうするか」
 と、かみつくようにどなりつけた。一同、あっけにとられたが、とっさに最 年長の女性学年主任が、
「目、耳、口をおさえて、低い所へ伏せます」
 と答えた。これは学校だけでなく、広く全国に伝えられた空襲下での待避姿 勢で、一年生に対しても再三、教室や運動場で訓練してあることがらであった。

 すると校長は、
「よし、じゃ、ここでやってみよ」
 と、意地悪い笑みを浮かべながら命じた。四人の女教師のうち、年長者二人 は和服で袴姿である。しかし、やむなく一人が路上に伏せると、校長は、 「もっと低い所があるじゃないか」
 と、そばの溝を指さした。幅三十センチでおとなの体の幅よりは狭い上、深 さは四十センチばかりで、泥水が流れている。
「何をぐずぐずしている。早くせんか」
 と、せき立てられて、三人は狭い泥水の溝に伏せ、顔まで泥水に浸した。  新任間もないわたしは、この光景に、ただぼう然と立ちつくしていた。その 引きつった驚きの表情が、よほど意外だったのか、さすがの校長も苦笑して、 「いくら若いからといって、高見の見物してはいかんぞ。さあ、あんたもここ でやってみなさい」
 と、道路上を指さした。
 べっとり泥水につかった三人と、まだぼんやりしているわたしに、校長は、 「さっき、下校中の一年生を自転車で追いかけて“空襲だぞ、敵機が来たぞ” と言ってみたのに、だれも伏せようとはしないで、ポカンとわしの顔を見とっ た。これは担任の指導不足のせいだから、それで今、あんたらにやらせてみた のだ」

 と言い捨てて行ってしまったが、われわれは納得できなかった。子どもは正 直なものである。警戒警報だけで、まだ空襲警報も出されていないのに、いき なり後ろから“空襲だ、敵機だ”と叫ばれても、びっくりして立ちすくむだけ で、とっさに校長の期待するような「伏せ」の行動がとれるはずはない。まし て一年生である。要領よくやってほめられようなどとは考えないであろう。

 一方的に指導不足と決めつけて、溝の中に浸けさせる罰は、当然、行き過ぎ であり、人権侵害である。今日なら即座に抗議もできるが、情けないことに戦 時下では、上下の序列は厳然として犯すことは許されない。不当と思っても、 泣き寝入りをしなければ、続いて加えられる罰則は、なお苛酷なものと覚悟し なければならない。

 このように、頭ごなしに一方的な命令で実施されていた戦時中の教育は、特 に体育面を重視し、その内容も、「少国民の練成」という目標で、戦争に対応 できる子どもを養成するねらいが強かった。

 その体育の時間といっても、運動靴は一年に一足しか配給券が当らないので、 通学は下駄か、わらぞうり。したがって体育ははだしである。ボールなど、見 ることもできないので、現在のような球技種目は、全然、学校では行なえなか った。今の子どもたちのように、ソフトボールやサッカーに打ち興じるという 経験は、皆無だった。

 男子は、少年航空兵志願を期待して、体育の時間は平衡感覚をつけることが 大切であったから、運動場の一隅に、山脈の尾根のような土盛りをして、バラ ンスをとりながら頂上を走ったり、駆け降りる訓練の反復、また、何十回も回 転させて、よろけず直立できる練習や、フープに入って前後転する訓練ばかり。

 そのうち、竹やりを持たせて「突き」の特訓をしなければならなくなった。 男女児童に竹やり訓練とは何の目的だろうか。

 昭和十九年後半には、戦局も険悪となり、うっかり物資不足のぐちや、戦争 に批判的な言葉を警察関係者に聞かれたら、反戦論者として逮捕される危険が 濃厚になってきた。そんな時勢だったが、やはり、どこからともなく「この児 童竹やり訓練のねらいは、子ども一人ずつに竹やりを持たせ、海岸にタコつぼ のような穴を掘って、底にひそませておくのだ。敵が上陸してきたら、穴の中 から竹やりを突き上げ、かなわないまでも相手に損傷を与える、そんな役を果 たさせるらしい」といううわさが伝わってきた。

 非力の子どもと、大きな米兵との対決に竹やりとは……。結果はどんな光景 が予想されるか明白である。軍部にとって子どもは、戦争末期にはもはや、単 なる消耗品としか考えられなくなってきたのではないか。「産めよ、増やせよ」 と子福者を表彰までしたのも、こうした冷たい計画が根本にあったのではなか ろうか。

 しかし、いくらこの教育方法に疑問や反感を抱いたとしても、一言の抗議も 許されはしない。それどころか、真剣に竹やり訓練を実施しているかどうか、 校長はカーテンの陰からそっと目を光らせて、運動場を監視していたのである。 当時の校長は、軍国主義教育実施の現場監督的役割りを果たしていたと言える。

 いろんな訓練に体力は消耗していくが、食糧事情も極度に欠乏してきて、基 準量は一人一日二合一勺、茶碗二はいほどの米の予定が、さらに芋や豆に代替 され、あの餓死された山口判事の例も、いつわが身に起こるかと不安な情勢だ った。上半身はだかで運動場に並ぶ児童たちの腕は細く、肋骨も目立ち始めた。

 お米の弁当を持ってこられるのは農家の子だけで、非農家の子の弁当は、そ っと隠すように開く新聞包みから、じゃがいも二個がのぞいたりしていた。

 わたしは、たまりかねて県へ陳情文を書いた。「やせた体の児童に、きびし い体育訓練は酷です。何とか栄養補給を考えてください」と。一介の新米教師 の陳情など何の効果もあるまいと、なかば諦めていたが、一カ月後、おじや給 食が開始されたのだった。麦飯にみそ汁をかけてまぜただけの物だったが、孟 宗竹を輪切りにした竹碗に一膳。これは、厳格な統制下で、何のゆとりもない 学校生活に、ふと行政の温情を感じた、たった一つの思い出である。

 学区内のある孤児施設から通学していた男児Aは、寒いみぞれの日の体育に、 どうしても黒の学生服をぬごうとはしない。冬は、シャツ一枚で行なうことに なっているので、つめ衿の学生服では困るからと、むりにぬがせると、なんと 下は丸はだか。もう施設には着がえのシャツ一枚の余分も手に入らなくなって いたのであろう。頬もこけて、血色も悪いAだったが、朗読は上手で、算数も よくできたけれど、どうやら結核に侵されていたのではなかったか、ツベルク リン検査もない時代である。

 昭和二十年七月、市は十万の人口だったが夜十一時、B29五十機の焼夷弾攻 撃で、一夜にして灰燼に帰し、八月に終戦。あの少年航空兵の訓練も、竹やり 作戦も無用となってしまった。われわれ四人が伏せた校門も校舎も完全に灰に なっていた。

 その後、郷里のこの滋賀県へ帰ったわたしの所へ、当時の教え子から便りが 届いた。

「先生、A君を覚えていますか。彼は結核で施設で死にました。あまり優しく もしてもらえなかったのに、最後には、院長さんや保母さんひとりひとりに“あ りがとう、お世話になりました”とお礼を言って息を引き取ったそうです……」

 戦争とは、前途有為な若人たちや、ひたすら誠実に生きようとする人たちを 苦しめ、地上から抹殺までしてしまう地獄図を展開するものであり、残った者 の心に、終生消し切れない悲しみを刻みつけるものなのである。