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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年4月15日(火)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
引き裂かれた運命

匿名=女性(当時17歳・北安市在住)


 戦争を美化や英雄視したようなテレビや映画が放映されることがありますが、 そのつど、私は胸が締め付けられる気持ちになります。なぜなら、私たち戦争 体験者にとって、その傷跡は決して古い傷跡とはいえないからです。

 古里、奥能登の町で昭和十九年十二月、南方から復員した青年と結婚しまし た。当時は毎日のように警戒警報が鳴り響き、食料も日増しに乏しくなってき た折りです。いつ赤紙がくるかもしれない、本土にいるより国策で宣言されて いる満州へ渡れば食べるものにも困らずきっと今より幸せな生活を送れると、 翌年一月、古里を後にしました。

 奉天から北安に着き、興農合作社の事務所に就職することができました。満 州での生活は物資も豊富で新婚生活は甘いものでした。しかし、それもつかの 間、その年の六月には夫は現地召集。残された私は不安な日々を過ごすはめに なりました。そして満州にいた日本人にとっては運命の八月九日──。ソ連軍 が突如、攻めてきたのです。私たちの生活はこれを境にすべて言葉では表わせ ない悲惨な世界へと一変していったのです。

 進駐してきたソ連軍の暴挙はひどいもので、日本人の女を見れば毎日暴行を 繰り返すという始末でした。婦女子のなかには自殺した人も続出しました。略 奪も激しく、日本人の家々は家財道具から被服、建て具、畳と根こそぎ持ち去 られした。それでも私たちの合作社の社員は収容所で団結して暮らし、恵まれ たほうでした。私たちは十数人でソ連兵の社宅の掃除や洗濯を請け負い、それ で生命はかろうじて保障されたのです。しかし、賃金は無料で少しでも文句を いったり、掃除の仕方が悪いと問答無用で銃殺される危険さえありました。

 被服も着のみ着のまま、食料も乏しくなってきたのです。たまりかねた私た ちは、九月中旬頃、北安から新京へ、そして哈爾浜へと脱出しました。途中、 貨車が止められ、窓を割って匪賊が飛び乗り、着ている服や手荷物は、ほとん ど持ち去られる目に何度も会いました。手向えばたちまち殺されてしまいます。

 厚手の服は、全部はぎ取っていきます。薄着だけになった私たちは心細さが つのりました。満州は冬でなくても夜は冷え込み、凍死者がでるほどです。“い っそのこと銃殺されてひと思いに……”と愚痴をこぼすもの、いざとなるとど んなに苦しくても少しでも生きていたいというのが人情でした。

 この頃から私はお腹が目立ち始めました。身ごもっていたのです。そして新 京に到着。ここでは、小学校の講堂で集団生活をしなければ ならなかったのです。妊娠して大きくなったお腹のところに、お金を隠し持っ ていたため、売りに来る中国人から大豆、コウリャンの粕などを買って、皆で 飢をしのぐことができました。

 混乱の地は支配者が目まぐるしく変わりました。ソ連軍から八路軍へ、八路 軍から蒋介石軍。再び八路軍へと……。私たちも難民収容所から少しでも条件 の良い収容所へと移り、必死で生きました。冬には死者がばたばたと出ました。 夜になると収容所をぬけ出し、昼間は兵隊が食べ残し、道端に捨ててあるもの を拾って食べたこともありました。また、麦や米を空き屋から捜し出し、風呂 の水で洗って食べたことも……。飲み水は、昼となく夜となく井戸端に兵隊が いて一歩も近づけません。濁った泥水が私たちの飲料水でした。満鉄の独身寮 に着いて、ようやく人心地を取り戻すことができました。親切な人から貴重な 毛布を頂き、臨月の近づいた身体を包み、食事も一日一食を確保することがで きました。二十一年三月のこと、暗くした部屋で男児を出産しました。産声も 口に手をあてて外に聞こえないようにしました。いつなんどき、誰が襲ってく るかわからなかったからです。

 こうして生まれた子も栄養失調のため、二か月で死亡。私は産後の肥立ちが 悪く寝たきりの状態になってしまいました。そんな折りに帰国の話があったの です。みんなは二十一年六月、内地へ帰国……。「日本へ一緒に帰して」と必 死の頼みでしたが「その身体では日本を見ないで、死んでしまう」とついに取 り残されてしまったのです。

 私たちの仲間の若い女性のなかには、もう帰国を諦め、現地の中国人と結婚 した人も何 人か出てきました。そんな中国人妻となった友人の紹介で、編み 物機械の技術者である中国青年を知り、その家で世話になることになりました。 体を丈夫にし、日本へ帰れる日まで織り物工場で働こうと決意したのです。そ の中国青年は日本語の話せる青年で、私に好意以上のものをもってくれていた のです。

 また日本人が歩くと“トクム(スパイ)”とののしられ、自由に歩くことも 出来ない状態が続きました。また、織り物工場にも兵隊が臨検に来ることもあ りました。私が困った 折りは幾度となくその中国人青年が救ってくれたので す。誠意と真心に心の中で手を合わせる思いでした。

 能登の姉に昭和二十八年頃、ようやく文通することができました。返事には 「みんな元気でいる」とだけ書いてありました。実はこれは私にショックを与 えないための偽りで、夫は、私が死亡したものと思い再婚し、二十六年には父 が死亡していたのでした。その後真相を知ったとき、今更ながら戦争とわが身 の不幸をうらまずにはおれませんでした。悲嘆の日々を過ごす私を、中国青年 は、どこまでも温かく見守ってくれたのです。そして、ようやく彼の胸の内を 知る思いで「この人の妻になろう」と決心しました。

 二人の間では、幸福な家庭築くことができ女児をもうけることができました。 ところが、四十八年に母死亡の知らせ……。“帰りたい”と思わず泣き崩れ てしまいました。望郷の思いがつのり、五十年三月に十三歳になった子供を連 れ帰国してきました。現在も一時帰国の届けを一年に一回行なっています。引 き裂かれた肉親の別離の苦を思うとき、戦争ほど人の運命を狂わし、残酷なも のはないと思わずにはいられません。