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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年4月15日(火)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
極限の飢餓状況におかれて

久保田邦武(57歳)


 昭和十八年一月十日、私は、満州八〇二部隊の要員として松本第百五十連隊 に入隊した。二十歳の時である。当時は軍国主義の華々しい時代であり、私の ように甲種合格で現役として軍隊に入ることは大変に名誉なことだった。私は 若者らしく純粋に愛国心に燃える気持ちと、その反面、二度と帰ることはない であろうという不安が入り交じった複雑な心境で入隊した。

 入隊して、星一つの軍服を身につけた時はさすがに緊張した。また、入隊当 日から私は上官にビンタをくらって、軍隊は世間とはまるで違うという感じを 受けた。こんな小さな体験から始まって戦地では数多くの地獄絵図を目のあた りにし、残酷な戦争悪をいやというほど思い知らされた。戦争というものはけ っして映画のヒーローを見るような、かっこいいものではない。それは、人間 を人間が殺し合う醜い、残酷な地獄の姿そのものなのだ。誰一人として戦争を して得をした者はいない。戦争は全国民を不幸に陥れる悪魔の行為である。私 は、この世から戦争を一掃するという平和の砦を国民一人一人の心の中にしっ かり築くことが大事だと思う。このような考えから、私のトラック島戦記をこ こに綴った。

 私の最初の出征地は中国東北地方だった。そこで約一年ほど、私たちは本格 的に軍事訓練を受けた。ある日、南方戦線への動員命令が下り、私たちは中国 東北地方より、十九年の三月二十日に南方に向かって進撃した。

 ところが、当時は東京湾から瀬戸内海、さらには南太平洋まで敵の潜水艦が 昼夜の別なく、日本軍の船団を狙っていた。前線につく前に兵と食糧と武器を 沈めてしまうためであった。味方の船団が出航後、すぐに東京湾内で沈められ たこともあった。そこで、敵の魚雷を回避するために五分おきに十五度の方向 転換をしつつ進むという、やっかいな進行をしていった。

 しかし、このように注意深く進行していっても、行く手には敵の潜水艦が待 っており、われわれの船団の中に潜望鏡のマストを海面から わずかばかり突出させ、水しぶきをあげながら自在に割り込んでくる。憎らし いほどの図々しさだ。それをみつけた味方の巡洋艦が追い回し、戦闘をしなが ら、そのすきを縫っての南下であった。途中で魚雷にやられる船も出たが、ど うすこともできない。その場に置き去りにして、ただ、進む以外になかった。 沈んでいく船が鳴らす最後のドラを聞くたびに胸がえぐられるような憤りが込 み上げてきた。

 他の船ばかりでなく、われわれの乗った「はあぶる丸」も船首に魚雷を一発 見舞われ、海中に飛び込む覚悟をしたが、やられた個所から の入水は船の最下層部を満水にしただけで、なんとか進行できるということで、 飛び込み中止命令が出た。九死に一生を得たとはこのことかと、ホッとした。 もう、いつ死ぬかわかったものではないと、やけくそになって覚悟は決めたも のの、不安の方が強く、さすがに攻撃を受けた夜は眠れなかった。

 潜水艦の魚雷攻撃ばかりでなく、上空からは敵の戦闘機が現われては機銃掃 射し、船内に弾丸の雨を降らせる。このような容赦のない敵の攻撃に、船内の われわれの生活は地獄のようなものだった。

 寒い中国東北地方から、いきなり南洋上へ転戦したので、誰もが体の調子を おかしくしたり、船酔いでまったく食物を受けつけないという体になり、だれ もが半病人みたいだった。しかし、こんな体でも、くる日もくる日も、船内の 作業は休む暇もなくつづけなくてはならない。また、船内には風呂はないので、 体中がノミの巣になり、裸で寝ていてもかゆくて眠ることができない。こんな 状態だったので、トラック島が見えてきた時のわわれの喜びようは、経験のな い人には想像すらできないほどのものであった。

 島に近づくにつれ、緑のヤシの木々まで見えるようになった時は、みんなう れしくて歓声をあげたものである。これから恐ろしいことがそこに待っている とも知らないで…。

 四月十七日、われわれはひとまずトラック島のうちの月曜島に上陸した。常 夏の島、トラック島は本当に美しく、しばし、戦場であることも忘れて、はじ めて見る南海の景観に見とれてしまった。しかし、洋上に敵の大空襲でやられ た船の無残な残骸が見えてくるにつれ、悲しみと憤りに胸を焦がした。  上陸後十日ほどたって、島の生活にも慣れ始めた四月三十日に、突然、敵機 の攻撃を受けた。それはトラック島よりさらに南にあるサトウワン島に行く途 中だった。小さな船に乗っていたところを空襲されたのだから、ひとたまりも ない。たちまち、船内は修羅場と化した。

 甲板にいた者は船内に逃げたが、逃げ場を失った者はやられ、甲板は血の海 になった。味方も機関銃で応戦はするが、まったく当たらな い。そのうちに死者や怪我人が続出し、甲板は死人や怪我人 の山となった。私は一瞬のうちに船内へ逃げ込んで難を逃れたが、恐怖で胸は 早鐘を打っていた。この光景は阿鼻叫喚そのものであった。

 最後に敵機は爆弾を落としたが、幸い、煙突にあたり、すべって海中に落ち たため助かった。船にうまく命中していれば、全員戦死していただろう。そう 思うと背筋が冷たくなった。敵機が去った後、甲板に出てみると、一面、血の 海で足が滑って思うように歩けない。先ほどの爆弾で船が傾いており、船首の 方には十センチも血がたまっていた。

 やっとの思いでサトウワン島に上陸し、ここで空襲の犠牲者を火葬すること にした。命 がけで苦労を共にしてきた戦友だっただけに、こうした形で別れ なくてはならないと思うと、辛く悲しい別れだった。負傷者はかなりいたが、 これらの人たちはサトウワン島に残 して、丈夫な者だけで、最後の目的地で あるモートロック諸島のルクノール島に向かった。

 ルクノール島は海抜一メートルの島で、島にあるものはヤシの木だけ。この 島の警備をするのがわれわれの本来の任務だった。

 制空権も制海権もなく、内地との連絡も途絶え、物資の補給もなく持参した 食糧はとっくに底をついていた。このため戦友たちは皆、栄養失調になり、腹 だけが異常にふくれていた。現在では考えられないことだが、われわれは木の 芽や草の根など、口に入る物はなんでも食べた。

 島は小さく兵隊は多いので、島のものはすべて食べ尽くしてしまい、皆、飢 餓寸前で、とても任務の遂行どころではない。ついに島にい ることさえ不可能になり、トラック本島への引き揚げ命令がでた。われわれは こんどは秋島に上陸して警備をすることになったが、ここでも食糧が不足し、 警備より、まずサツマイモ作りが先決だった。そこで、サツマイモを作る班や 塩を作る班を編成し、これらを生産隊と名づけた。

 しかし、サツマイモを植えても食べられるようになるのは、早くて三カ月後 である。みんな飢えているので、芋が実るのを待っている時間はない。そこで 島にいたネズミやトカゲ、カニなどを食べては飢えをしのいだが、栄養のない ものを無理して食べるために下痢を起こす人が続出。ひきもきらずに便所にか よう人が相ついだ。ここでの便所はまことに理にかなっていた。海の中にヤシ の丸太を二本渡しただけのものだが、これだと一度に何人もの人が用を足すこ とができたのである。

 われわれの身につけているものといったら、いつもフンドシ一本、それも蚊 帳のすそを切りとって作った粗末なものだった。現地人からも笑われそうな格 好である。やっとイモが実るようになっても、一人に小さな芋が二本ずつ。こ れではとても足りたものではない。したがって、夜になると蚊帳の中から一人 ぬけ、二人ぬけしてイモを盗みにいった。飢えているから土のついたままの生 のイモにかじりつく。盗んで持ち帰っても、隠しておいて他人には絶対に分け てやろうとはしない。なかには盗んできたイモを盗む者さえでてきた。

 盗める者はまだよかった。栄養失調で寝たきりの者は盗みにいきたくてもい けないで、毎日一人、二人と亡くなっていった。こうして多 くの人が亡くなったが、こういう弱者をかばう者は一人もなかった。他の人に 食物やると自分が死んでしまうと、みんなが思っていたからだ。皆が、自分自 身、今日一日を生きるので精一杯だった。人間としての温かい思いやりとか真 心の入り込む余裕さえない、極限の姿をさらけだしてしまっていたのである。 人間は食物がないという状態に置かれてみると、人間性よりも生存本能の方が 強く出てしまうものだ。そういえばエンダービー島から秋島に引き揚げてきた 兵隊たちは、体で一番太い部分がひざで、本当に骨と皮になってしまっていた。 その人たちから聞いた話では、亡くなった人の肉まで食べたということだった。 真偽のほどはわからないにしても、人間にとって食物がないことほど恐ろしい ことはない。こうしてわれわれは食糧の確保に悪戦苦闘をしているうちに八月 十五日の終戦を迎えた。敗戦なんていうことは信じられなかったので、みんな 身体中から力が抜けてしまった。

 今、こうして振り返ってみて、こんなに多くの犠牲をして戦争から得られた ものはなんであったのか。全国民が地獄の苦しみを味わわねばならなかったこ の戦争に対する怒りと憎しみは、今もって激しく私の胸に燃えている。