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英語版SOKANET中国語版SOKANET 2003年2月16日(日)
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<シリーズ・戦争を知らない世代へ>
◎ 毒ガスの中で生きのびる

末吉和子(45歳)


 吹きまくる鉄の暴風

 昭和十九年十月十日、午前六時頃、キーンという金属性の音と共に、パチパ チという異 様な音がして、私たちはびっくりして目をさましたのです。米軍 機動部隊艦載機による初めての沖縄空襲でした。私たちは久しぶりに友軍の練 習と思い空を見上げていたら、いきなり降ってきた爆弾、飛行機による機銃掃 射、やっと、敵機による空襲と気がついた時には、もう一面が火の海となり、 またたく間に那覇の街に燃え広がったのです。

 みんな恐怖に青ざめ、ふるえあがり、抱き合ったまま、ただ右往左往するの みでした。家の前に作られた防空壕は、何の役にも立たず、 初めて受ける空襲の恐ろしさに泣き叫ぶ人、傷つき倒れる人、ヒステリックに わめき散らし逃げまどう人。一瞬にして焦土と化してしまったのです。

 焼け出された人は路頭に迷い、田舎の親せきの家や、知人、友人の家に難を 逃れました。哀れな沖縄の人たちは、この不幸がどこからやって来るのか、こ の原因も知ることができず、あらゆる神々に願をかけ、ひたすら平和を祈りま した。

 10・10空襲で自信を得た米軍は、早くも上陸の準備を整え、明けて三月には 沖縄慶良間列島へ、四月一日沖縄本島に上陸を開始して来ました。その時、海 軍山根部隊馬天派遣隊に、記録員として勤務していた、当時十六歳の私は、部 隊と共に小禄の本部の壕へ移動したのです。近くには豊見城の海軍司令部の壕 があり、司令部からの指示で部隊は動いていました。

 日増しに戦いは熾烈をきわめ島全体を吹きまくる鉄の暴風は、当時五十万と いわれた沖縄県民を、地獄の底に叩き込んでしまいました。四月の末頃にはい よいよ敵は私たちの所まで近づいて来たのです。

 日本軍と、米軍の物量の差はひどく、鉄の暴風が吹きまくる中、非戦闘員ま でも、竹槍の練習をさせられてしまいました。上から網を張って、その上に木 の葉をのせて擬装し、その中に入って竹槍で突撃の練習をさせられました。

 圧倒的な化学兵器の破壊力に、自信をもって進んで来る米軍と、竹槍でもっ て戦わせようとした友軍、まったく狂人のかぎりで、人殺ししか教えない戦争 は、もういやだ、といいながら死んでいった少年たち、戦争のために急に徴収 された少年たちは、最後まで神風日本を信じて死んでいったのです。それでも 海軍の兵士はまだ良心的でしたが、陸軍はとてもひどかったようです。

 十四、五歳の少年たちで結成された、護郷隊という、あどけない童顔の少年 たち、鉄砲の背たけもない少年たちがわれらの郷土は自分の身で守るのだと教 育され、憂国心にもえて、武器も与えられないまま、この身をもって敵上陸の 前に防波堤となり、石や手榴弾を持って応戦し、また、地雷をかかえて敵戦車 に肉弾となってぶつかり、散っていった幾百の少年たちのことであります。あ のいたいけな少年たちのことを思いおこす時、胸がしめつけられる思いが致し ます。

 私は今、南部戦跡に建てられた、琉歌を思い出さずにはおられません。

  国ぬたみとむて 咲ちゆる花散らち
  後身失なたる 親ぬくちさ

 この歌は、苦労してやっと育てあげた我が子が人生の春もみず、知らず、国 のために若い命を散らして行ったその後に残った、身寄り、頼りのない一人の 老母が、誰れ頼って生きていったらよいのか、悲しみを歌にたくして、歌われ ている様な気がしてなりません。それから、艦砲射撃の激しい攻撃の中で、私 たちはグループをつくり、食事の運搬をしていたのですが、炊事の方まで行く 途中、すぐ目の前に爆弾が落ち、私たちは土砂の中に埋まったこともあります。

 夜になると激しい攻撃はなく、わりと静かでしたので、ある時友だちと一緒 に山にかこまれた壕の近くの、水たまりで体を洗っていますと、急に破片が飛 んで来て、私の隣にいた友だちの片うでの肉塊が、もぎ取られました。その友 だちは一週間位、もだえ苦しみ、悲痛な叫び声をあげ続け、死んでしまったの です。次第に戦いも激しくなり、五月の末か、六月の初め頃、とうとう私たち の目前に米軍は攻めて来たのです。

 其の時から連続的に壕の中に、毒ガスがまかれ私たちは防毒マスクをかける 間もなく、医務室にある脱脂綿を水につけ、軽くしぼって鼻 にあてて、それで防いだものです。現在のような恐ろしい毒ガスであれば全滅 していたことでありましょう。  海軍の生き残った兵士は果たして全員自決命令がでたかどうか知りませんが、 軍医をはじめ、防衛隊の人もほとんどの人が、司令部の壕に移り自決して散っ てしまったのです。国家のために死ぬということが、最高の名誉であると考え ていた時代です。

 いかなることがあろうとも、人間が国家のために犠牲になってよいものであ りましょうか。軍医は司令部に引き上げる前に、傷ついた兵隊を、全部注射で 殺してしまったのです。傷ついた兵隊のうめき声で、一晩中眠れなかったのが、 急に静かになり、そのかわり死体がいっぱいになりました。悪臭は鼻がつまる 程苦しく、私たちは隣の壕に移ったほどです。外はまだひどく、壕の入口は死 人の山、食糧を探しに行くにも、死体の上を通らなければいけない程、ものす ごい惨状でありました。まさに地獄図さながら、想像を絶する悲惨な情景であ りました。

 日増しに戦いが激しくなるにつれ、次第に横暴をきわめた日本軍国主義は、 つぎつぎに捕虜になって行く沖縄の人たちをみて、スパイだ、非国民だ、この 野蛮人め、と悪口雑言をし、最後には沖縄人のために我々は戦ってるというの でした。殺気だった友軍は、もう何をするかわからない、誰が野蛮人なのかま ったくわからなかったのです。もう私たちにとって敵は米軍ではなく、日本兵 に変わってしまっていました。

戦争とはこういうものなのです。私たちの近くに陣取った米軍は、毎日の様に 毒ガスをまいていくのです。生きのびることのできた人はほんのわずかであり ました。私はたえず生命の危険にさらされながらも不思議と守られてきました。

 燃える壕

 八月十五日の終戦も知らず、壕の中で生活していた私たちは、あまりにも静 かな外の様子に、ただ不思議さを感じていましたが、まさか終戦になっていた とは知らなかったのです。

 ある日どこからやって来たのか、具志堅兵曹という沖縄出身の兵隊が、私た ちの前にやって来ました。この人は日本兵に対して、とても憎しみを抱いてい ました。とても優しい人だったので、私たちだけその人と共に、別の壕に移っ て行ったのです。兵隊は具志堅兵曹一人、あとはみんな非戦闘員だけでした。 医務室には、看護婦だった友二人と、わずかな人が残りました。

 まだ戦いが続いているものと思っていたある日のこと、虫が知らせたか、無 性に残してきた友人のことが気になり、医務室の壕に行ってみたくなりました。 あぶないから行くなと、みんなが止めるのも聞かず、夢中で医務室めがけて走 って行ったのです。着くと同時に夜が明け、その日はそこに泊まりました。私 たちは夜は起き、昼眠るのです。

 医務室ではなかなか眠れず、こわい夢ばかりみたのです。なんとなく気にか かり、暗くなると同時に、具志堅兵曹や、友人のいる壕に帰ってみました。す るとどうでしょう、真っ赤に壕が燃えているのではありませんか、昨日まで共 に過ごした友だちが、みんな死んでしまったのです。あまりの恐ろしさに、ど うして逃げ帰ったかわかりません。火は二、三日も燃え続けたのです。火が消 えてから、中に入ってみると、真っ黒になって、焼け死んでいました。その時 は、八月も末であり戦争は終わっていたはずです。戦いが終わっても、なお多 くの同志が殺されていました。なんと、むごいことでしょう。それにしても数 時間の差で、私は命が助かったのです。今でもほんとうに不思議に思っていま す。

 九月五日、私たちは捕虜になりました。母も姉も元気でいることがわかり、 ほんとうに生きていてよかったとつくづく思ったものです。  私の母は五月頃捕虜になったそうですが食べ物がなく、海草や、青い木の葉 や、草はなくなるまで食べつくし塩もなく、海水でおつゆをわかし、命をつな いだそうです。沖縄戦で受けた、住民の犠牲は、軍人をはるかに凌ぐものであ りました。

 勝った国も負けた国も、互いに大きな犠牲をはらうものです。二度とあの悲 惨な戦争をくり返したくありません。母親の目の前で、愛する我が子を友軍に 殺された、あの恐ろしい戦争、この戦いで受けた沖縄の人の悲痛な叫びを、ぜ ひ聞いてもらいたいのです。私以上に苦しい悲劇を経験した人が、まだたくさ んいます。あまりの悲惨さに戦争体験を語らない人もたくさんいます。しかし、 私は折りにふれ、自分の戦争体験を子供たちに話します。すると「そおう、そ んなこともあったの、私たちはいいね」とこわそうな顔をして聞いています。 中学生の子は「なぜ、戦争をするのかね」と聞きます。しかし、戦争は起こっ てしまえばどうしようもないものです。

 尊い生命を散らした、沖縄二十万の人たちの犠牲を決してむだにしないで下 さい。