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雑誌掲載文(4)

<目 次>

独学のすすめ (講座・人生の探求 5、教養の探求 大和書房)1967年
無知、無道横行する大学教師を信用するな (社会人) 1967年9月号
加藤友三郎という男 (中国郵政だより) 1967年12月25日
現代における日蓮聖人の意味 (泉の光) 1969年2月号
沢庵の今日的意味 (中日新聞) 1972年
松下村塾の灯〈萩〉(歴史の旅10 長州・薩摩・土佐 小学館)1974年
私の教育闘争 (現教研通信) N-ro27a 1975・1・31

< 目 次 >

「独学のすすめ」

1 独学の必要性

独学という場合、普通には、学校にゆかない者、ゆけない者が、自分で独力で勉強することを意味する。また、そのように、使用されている。しかし、ここでは、そういう意味に使っていない。自分で独力で勉強するということは同じだが、学校にゆこうとゆくまいと、それに関係なく、勉強というもの、学問というものには、本来、独学の姿勢がなくてはならぬもの、むしろ、学校教育の中でこそ、独学が必要であると強調したいのである。
というのは、今日程、本来、独学であるべき勉強に、学問に、独学の姿勢、独学の性格が絶無になっているときはないと思うからである。例えば、「人が高校にいくから、私も高校にいく」「人が大学に入学するから、私も大学に入学する」というふうに、自分自身の目的も希望もないままに、全く、附和雷同があるだけで、どこにも、自分というもの、個性的なもの、独創性というものがない。戦後のこういう風潮はどこからきたのか。それこそ、同一年令の70%が、高校に入学し、20%が大学に入学する。高校に入学するために、大学に入学するために、教師におんぶしつつ、それを暗記しなければならない。そのために、中学、高校となるにつれて、徐々に、自分で感じ、自分で考えだした芽を抑圧して、同じような教科書を暗記し、記憶するのに、朝夕努力し、いい成績をとることしか考えていなければ、誰も同じようなことを考えるようになり、同じようなことしか考えられないようになる。自分自身の考えは生まれないし、自分自身で考える力はつかない。
学校教育とは、その年令に応じた知識を、これだけは必ず必要と、大人達がきめ、それを無理矢理にたたきこもうとすることである。そこでは、子供一人一人の必要度や発展段階について全く無関心である。唯もう、与えようとする。その結果、多くの知識は、子供達の精神、内的要求とは結びつかないままに、子供達の中に集積される。暗記課目という学科があるのも、そのためである。年令の発達につれて、そういう教科を教えておく必要がある、そのうちにほかの機会に必要であろうという、大人達の期待で、無理矢理に、おぼえこむことを要求されるのである。興味がもてる子供はいいが、その他の大部分の子供は、試験のために、しかたなくおぼえようとする。こうして、学校教育の中で、子供たち、少年たちは、試験の奴隷になり、試験がなかったら勉強しない子供や少年が、全体性や自主性のない子供ができてくる。学校を卒業したら、全然、勉強しない大人が生まれるのである。
学校教育は、一方で、勉強し、学問する人間を作っているようで、大部分の人間を、勉強ぎらい、学問嫌いにしている。
しかし、ここで、人間誰でも、独学の姿勢を本来もっているということを考えてみることも必要であろう。小さい子供のとき、きまって、「なぜ」「どうして」を連発する。それは恐ろしい程である。だが、周囲の大人達は、大抵、返答ができないために、また、うるさいために、適当にごまかすようになる。時には、そういう質問をする子供達を叱る。そのために、子供達は、だんだんと質問をしなくなる。質問をやめてしまう。実は、この時、子供達は、自分に即して、自分にわからないことを一生懸命知りたがっている。強烈に知ろうとさえしている。だが、不幸にして、その芽はつまれてしまうのである。
学校教育は、それに輪をかけるように、個人、個人の興味と関心を無視し、小学生、中学生として、高校生として、客観的に必要だときめた知識、それだけを与えようとする。独学の姿勢を無視するのである。

2 高校生の独学

小さい子供のとき、いろいろの質問をする。知りたいことを求めて質問するが、たびたび、叱られると質問をしなくなる。
だが、中学生の後期から、高校生になると、一人一人の高校生のなかに、いろいろの事件に遭遇し、いろいろな事実にでくわすと、そこに、強い疑惑が、興味が、究明したいという要求がおこる。その要求は、小さい子供のように、叱られたりすることで、弱まりはしない。まして、消えることはない。教えられなかったり、拒否されたりすると、いよいよ強くなりさえする。それは、中学生から高校生にかけて生ずる興味と関心は、その少年自身の内部から強くおこるものだからである。小さいときの要求とは、全く違って強い。
少年自身の内部から、強くおこるとは、少年自身の感情や感覚がからみ、少年自身の欲望に根拠をおくということである。その感情、感覚、欲望は、まだ、生のままで、十分に洗練されたものではないが、それ故に、強烈であるということもできる。
こうして、少年自身は、そのことをきっかけとして、再び、自分自身の興味と関心を強力に持ち、自分自身を、自分自身の考えを、自分自身の人生を歩み出そうとする。自分に即した人生、自分の能力、自分の識見にもとづいた人生を歩みはじめようとする。そこには、当然、自分で感じたものを中心に、自分で考え、自分で学ぶという姿勢が基調になる。即ち、独学の姿勢が基本になる。
自分で感じ、自分におこった興味と関心を中心とする生活が始まる。少年時代が独立の時代であり、自立の時代であるというのは、そういうことである。当然、独立、自立のために、自分自身のための独自な勉強が、学問がいるということはいうまでもない。自分自身にあった学習が、自分の興味と関心を中心に進められる学習が必要なことはいうまでもない。それに、子供が、なぜ、どうしてを連発することを考えれば、人間とは、本来、独学の姿勢をもつものと理解できるだろう。
では、高校生が何かを感じるということはどういうことであろうか。その心に、ずっしりと感じるとはどういうことであり、高校生の心におこった興味と関心とは何であろうか。今日の高校生の多くは、大学入試に追われている。そのために、人生について、友情について、幸福について、自由に感じたり、考えたりすることができない。そういう暇があれば、英語の単語を一つでも余計おぼえたらいいと、教師や母親にいわれる。大学受験のために、全てを我慢せよといわれる。そんなことを考えるのは、大学入試に、邪魔にこそなれ、少しもプラスにならないとまでいわれる。
そこに、高校生の悩みがある。深い疑問がわいてくる。前述したように、高校生は、独立と自立を求めて、人生について、友情や幸福、その他について、自分で考えはじめるときに当面している。それにもかかわらず、それを禁止される。とすれば、疑問をもつのも無理はない。また、高校生のそういう内面生活と前後して、高校の無味乾燥な授業、大学受験のための勉強、自分の内面的なものとは、全くかかわりのないところの知識の修得に興味がもてなくなる。高校生には、自分の感情や感覚、欲望と結びつかないものには、強い関心がもてない。無意味、無価値にみえてくるのである。
例えば、偶然遭遇した交通事故の方が、彼にはより、重大なのである。その問題をつきつめて考えないではいられない。だから考えぬく。ある高校生は、交通道徳の面から追求するかもしれないし、ある高校生は、政治の面から究明してみようとする。自動車の構造、機能の面から、その問題を考えてみようとする者もあるかもしれない。
要するに、一つの交通事故に直面して、高校生は、深いショックをうけて、各人各様に考えはじめる。考えてみずにはいられぬほどに、その事件が高校生の心においかぶさるのである。
独学の姿勢をもつ者は、そういうことを、徹底的に追求する。そういう問題から究明を始めていくものである。そういう問題と徹底的にとりくまなくてはいられぬ者である。そういう問題を持つということ、それは高校生なら誰にもあることだが、その問題にとりくみはじめるということが独学の姿勢をもつ者の出発点である。
大学を受験しない高校生は、教師が大学受験のことにのみ熱中して、自分達を省みない、自分達を犠牲にしていることに、鋭い疑問と強い怒りをもつかもしれない。吃度、もつ。そういうときに、その高校生は、その疑問、その怒りの問題と徹底的にとりくまなくてはならなくなる。そういう体験をもとにして、社会や歴史の教科書を読んでいくとき、社会や歴史の教科が違ったものにみえてこよう。差別ということが、民衆の怒りや悩みということが、人事ではなくなってくる。実感をもって、いろんなことが理解されてくる。勿論、そこから、もっと深く広く、社会の矛盾を具体的につかみたい、知りたいという希望もわいてくるし、教科書には、自分が知りたいこと、見究めたいことは、出ていないということも知るようになろう。当然そういうことについて書いたもの、研究しているものを読みたくなる。
交通事故から、政治や機械のことを研究する。高校生活への疑問や怒りから、社会矛盾の問題へと発展的に研究する。このときに初めて、自分自身と、その研究が一つに結びつくのである。試験のための勉強、大学入学のための勉強から解放されるのである。自分自身のために、社会のためにする勉強、学問になったのである。独学の姿勢が身についたときである。
しかし、高校で学ぶ教科が、自分が研究したい問題と重なりあうときはいい。しかし、重なりあっても、直に、高校の教科には不満を感じはじめる。というのは、高校の教科は、高校生一般を対象にし、その平均的知識を考え、それをあたえようとしているに違いないからである。どの教科も、良い成績をとろうとする者には、その程度でいいが、一つの問題点を深く、徹底的に追求する者には満足できない。そうなると、自分で自分にあった研究をしていく以外にない。ますます独学の姿勢が強烈になるといえよう。
唯、その場合、その疑問や究明したい問題点を内攻させて、大学生活まで待てるものはそれでもいい。勿論、受験生活の間中、その疑問に悩まされて、受験勉強をしなければならない。だが、その中で、その疑問はより深くなり、強くなる。そういう高校生が大学生になった場合、大学生活が充実することはいうまでもない。彼は憑かれた者のように、その疑問の究明にむかって、研究生活をはじめる。
だが、大学生活まで、その追求を待てない者はどうするか。その悩み、その疑問が徹底して、深く鋭いときは、実際には、大学生活まで待てるものでないし、そのぐらいに深く鋭くなくては、なかなか独学者になりきれぬということもある。
そういう高校生は、時間の許すかぎり、能力の許すかぎり、その悩み、その疑問と取りくむことである。大学受験と自分自身の考える生活を平行させることである。受験のための勉強は、そういう生活につかれたとき、気分転換のために、丁度いい。そして、自分の受験能力で許容してくれる大学に受験すればいい。学問は、人のために、就職のためにするものでなく、私のために、社会のためにするもの、そして、大学在学中にしかしない勉強でなく、一生涯、しなければならぬものということ位、自分自身の道を、自分流に歩もうと考えた高校生は容易に知るであろう。
勿論、学問を有効にやるためには、設備もよく、教授や学友もすぐれている必要があろう。だが、設備はともかくとして、簡単に、教授や学友がいいという判断はできないのではないか。学問は独学であると知った者には、単に、学校秀才として、どの教科にも成績がよかったという人達よりも、自分自身を出発点にして、自分自身の研究テーマをもち、自分独りで、じっくりと考える人間、試験とか大学の評判とかを考えない人間こそ、必要なのでないか。
大学にいかない者はどうするか。教師や同級生が、大学受験に血眼になり、自分自身を失っている生活をしりめに、それこそ、悠々と、自分の悩みや疑問にとりくむとよい。精一杯、力一杯に取りくむとよい。自分のもてる情熱のすべて、その悩みに、その疑問にとりくめばいい。
それは何であってもいい。何から始めなくてならないということはない。悩みの深いもの、疑問の強いものであれば、なんでもよい。それを徹底的に追求してみることだ。そのテーマについての本を徹底的に、繰返して読んでみる。わからない所は、それにかかずらわずに先を読んでいく。読み終わったら、もう一度読み返す。こうして、繰返して読むうちに、わからない所、理解できない所、おかしい所もだんだんとわかり始める。その本についての解説的な本も読んでみる。そして、また、もとの本を読んでみる。そうすると、全く別の理解が批判が自分にできることを知ることもできよう。次には、その本とは違った立場で書かれたものを読んでみるということが必要だし、その本を書いた著者のものは、全部読んでみるということも必要であろう。そういう段階、過程をくりかえしている中に、自分の思想ができてくる。自分の見識がでてくる。
大事なことは、誰々の意見がどうかとか、誰々がどういっているかということではなくて、自分がどう思い、どう考え、どう言うかということである。何についての知識をもっているということではなくて、何々についての見識をもっていることである。そういう人間は、自分の見識を発展させるために、無限に学問し、発展していく。自分の考えをも批判し、克服していく。そういう人を、もし、社会で、学者といわなくても、こういう人こそ知識人である。反対に、学者といわれている人は、知的職人みたいなものである。
高校だけを卒業した者でも、独学の姿勢を身につけ、独学をする者は、知識人になれる。本当の意味での知識人になれる。そして、その知識を、現実にかえすことの出来る人となれる。いいかえれば、現実を変革し、発展させることの出来る人となれるということである。

3 大学生の独学

大学生は学問するという立場にある者として、比較的に独学の立場をとりやすい。そして、高校生のときに持った悩みや疑問を学問的に究明すればよい。
だが、今日の大学には、学問は本来独学であり、独学によってのみ、その学問は発展するという認識がない。普通、学者とは、学校の成績が抜群であった者が、自然になるものと考え、学問とは何か、何のために学ぶかという問いを、痛切に自分自身に投げかけ、苦悶したかどうかということは問題にされていない。そのために、学者の多くは、専門の研究テーマを書物の中に発見し、また、その研究結果を書物にかえすということを繰返している。だがそれは、本当の意味での学者ではない。
本当の学問とは、先にも述べたように、現実の中から問題を発見し、それを研究し、それを現実の中にかえしていくものである。その意味では、大学生が高校生のときに持った悩みや疑問、研究テーマこそ、学問のテーマになり、学問のテーマとしなければならないものである。
しかし、実際には、大学生が高校のときにもった悩みや疑問は、殆んど、学問的テーマになることもない。その悩み、その疑問を発展させて、学問的テーマになるような指導が大学ではなされていない。なぜなら、大学教授のうちに、学問とは独学であるという認識をもつ人が少ないからである。
それでは、折角芽ばえた独学の姿勢、自分自身を出発点として、自分自身の内からおこった疑問を、自分自身にあった方法で究明するということは、再び、挫折することになる。挫折するように、独学ができないように、講義はやたらと多いし、試験も非常に多い。もっと愚劣なことは、出席日数を勘定している。これでは、高校と同じように、勉強の奴隷でしかない。
といっても、大学というところは、比較的自由であり、自分の研究テーマを追求し、発展させる自由はある。
そういう報告が、そのまま、大学の成績になるという便利さもある。そういう意味では、大学は、高校と違って、それだけ、独学できる余地がある。周囲もわかってくれる。
それに、数多くの研究会もあって、独学の姿勢をもつ者がともすると陥りがちな、自己陶酔と錯覚を防いでくれる。しかし、なんといっても、そのような者は、自分一人で生きぬく覚悟が必要であるし、そのために、試行錯誤を恐れてはならない。試行錯誤を恐れる者は、独学者にはなれない。だからといって、それは、協力者や助言者を必要としないという意味ではない。逆に、一人で生き抜く覚悟、試行錯誤に徹して生きていくからこそ、協力者や助言者がいるともいえるし、大学で得る友人が大切になってくるのである。
そういう意味では、大学でこそ、独学はできる。本当の意味での独学は、高校でなくて、大学でこそ、できるということも言える。では、独学する大学生とはどういうことであろうか。一言でいうなら、自分自身の足で立つ人間、それ以外のいかなるものも、一度は疑ってみるという人間である。教授のいう意見も批判し、独学で証明し、納得できるまでは、決して肯定しない人間である。自分自身以外、誰でも疑ってみる人、ときには、自分自身までも、徹底的に疑ってみる人である。
普通なら、自分自身までもふくんで、徹底的に疑い、批判する者は、生きることはできないが、大学というところは、大学生というものは、それも許される。それが、学問の出発点であることを知っている教授達で、大学は構成されているのである。こうして、独学者である大学生は、教授とならんで、助教授と一緒に、真理を追求する者となる。真理探求の使徒になる。
そこには、先輩も後輩もない。だから、大学生であっても、教授や助教授にまさる研究がでてくるかもしれないのである。とくに、その悩みや疑問を、高校生活より内攻させ、育ててきた学生、現実の問題から、その問題意識なり、研究テーマを発見し、その究明をぎりぎりの形で、究明することを迫られている学生は、単なる学校秀才から学者の道に進んだ教授とは、その覚悟、その心構えが違う。現実から学び、現実にかえそうと念ずる独学者は、その意気込みが違うといってもいい。
それに、独学者が独学の条件をそろえ、満たすためには、一人で生きぬく覚悟、試行錯誤を恐れぬ覚悟からも、意志と気力と勇気がなくてはならない。自分一人で考えぬくということは、ある場合には、非常に強い意志がいる。障害にうちかつのも意志であり、誘惑にうちかつのも意志である。
自分の考えを貫こうと思っても、必ずしも、うまくゆかないことがある。そういうときに、挫折感を感じさせないで、それをのりこえさせるのは、気力の充実である。頑張り通させるのは気力である。また、ときには、敗北感に陥ることもあろう。そのとき、立ちあがれるのは気力である。
自分の考えを貫こうというとき、勇気がないと駄目なときもある。ことに、強力な反対者、ときには、暴力に近いものを以て反対する者に立ちむかっていくためには、勇気が決定的に必要である。
普通、この意志や気力、勇気などは、人間生得のものであると考えがちであるが、独学者は、それを必要とすることから、それらがつくられるものであるということを発見する。そこから、人間の質の変革にも積極的にとりくんでいく。

4 独学の喜びは大きい

独学には、試験がない。試験があったとしても、試験の意識から解放される。そんなもので、自分自身の力が検査されるものかという自信がある。試験のためでなく、自分自身のために、勉強せずにいられないから、するという考えだから、試験の結果にも煩わされない。
他人との競争もない。あるのは、自分自身との競争だけである。現在の自分との競争と戦いがあるだけである。自分の理解の度合いにあわせて、自分の速度で、自分のペースで、徹底的に研究し、学習していけばよい。わからない所で、どんなに時間がかかっても、完全に、自分のものにするまで、トコトン時間をかけてもいい。その反対に、自分の理解がどんどんと進む所は、無駄な足踏みをすることはない。学ぶ中心は、自分にあるのだから、あせることも、急ぐこともない。終始、自分のペースで、充実した、手応えのある学習である。
好きなときに、好きなことを好きなだけ学ぶということが、どんなに喜び大きいものか。そんなとき、どんなに生き生きした気持、充実した気持になるか。誰でもそういうことは経験しているであろう。試験から解放され、読んでみたいと思ったとき読む教科書は、案外すてきなものである。また、いいことを書いているということも知る。しかも、いろいろのことがよく理解されてくる。一頁や二頁をコマギレにして読むのでなく、二日三日とかけて、通読すれば、通読できるような教科は、通読した方がずっと面白いし、よく理解できるということもあるし、この中で、自分の興味を強くひくものは何かということもよくわかる。そこから、研究が、学習が深まることはいうまでもない。
独学は自分自身のためのものだから、嫌いな教師、尊敬できないような教師とつきあう必要もない。自分の選んだ、自分の最も必要とした知識を持っている人を、自分の教師にすればよい。比較的選択がきく大学でも、このような自由はあるまい。選んだとしても、二、三名である。それ以外は、すべて、できあいで我慢しなければならない。まして、中学校、高等学校では、殆んどそれが出来ない。与えられた教師から、知識を切り売りされたんでは、学ぶ喜びなど生まれっこない。せいぜい試験の成績がいいとか、大学の入試に受かるとか、大会社に入るとかいう位である。そこには、真理を究め、法則を知るという喜び、それを実践するという喜びはない。
しかし、独学者には、その喜びがある。その喜びを、独学者は知っている。その喜びを知っているから、学ぶことをやめられない。大学に入るとか、大会社に入るということは、単に結果でしかない。独学者と、そうでない者とは、目的と結果が全く異なるのである。人生の意味と価値が全く違うのである。だから、高校や大学を卒業してなお、学問をする者とやめる者との違いがでてくるのである。
その意味で、独学者は、永遠の旅行者、永遠の開拓者ということもできる。人の歩んだ道でなく、人のきめたコースでなく、独自の道を歩むから、独自の道を開拓していくから、そこには、冒険もスリルもある。自然、生き生きしたものになる。喜びも無限におこってくる。こういう人が、新しい発見をし、新しい思想を創造し、人類の方向をきめてきた人である。現実の発展と変革に取りくんできた人である。独学者の道をつき進む者だけが、手に入れることのできた栄光であり、歓喜である。
これは、唯一つ、独学の姿勢を身につけ、独学の道をつきすすむか否かにある。それは誰も容易に入れる道であり、歩みだせる道である。高校生や大学生が、自分自身の現実に、現代に、忠実に、勇敢に、忍耐強く向き合う限りは、誰もが、歩みはじめなければならぬ道である。しかも、一度ふみこんだなら、歩みだしたならば、永遠にとどまるところのない道である。歩みつづけなければならない道である。
独学の姿勢を身につけるとは、そういうことである。

<雑誌掲載文4 目次>

「無知、無道横行する大学教師を信用するな」

七千から十万人へ増えた教授たち

昭和四十二年の現在、大学の総数は八百余で、大学の教師は約十万人になっている。これは、戦前の中学校、女学校の教師よりも多いし、戦前の大学生の総数をはるかに越えている。そうなると、自然、大学教師の中にも、すぐれた学識の人、そうでない人といろいろあることも考えられてこよう。だが、日本の社会は不思議なことに、戦前、七千人しかいなかった大学教師の権威と価値が、戦後十万人にふくれあがった今日もそのまま通用しているということである。
しかも、戦前の七千人の大学教師といっても、あの民族破滅の大戦争というか、大東亜戦争をくいとめなかったばかりか、逆に、多くの大学教師はそのお先棒をかつぎ、その教え子を戦場に送り出し、殺した人達である。その意味では、戦前の大学教師の多くは、その権威と価値を喪失した者達である。わずかに、少数の大学教師が、その権威と価値を維持したにすぎないし、戦後、その権威を回復するために、血みどろの格斗をした者もわずかである。血みどろの格斗を今猶つづけている者になると非常にすくない。
そういう事実を前にしながら、七千人から十万人にふくれあがった大学教師が、何故に、その権威と価値をもちつづけるのか不思議でならない。それこそ、現代七不思議のトップにたつ不思議といえるのではないか。
しかし、話をそういう昔にもっていくこともあるまい。皆さんの心に、今なお、なまなましい記憶の残っている、安保反対斗争を指導した大学教師のことを考えてもよい。彼等の情勢分析とその分析の上に立つ見通し、そして、指導的発言がいかに狂っていたか、いかに、誤っていたかということは、ここに、とりたてて書く必要もないほどに明白なことである。そのことを思い出していただくなら、そういう学者、失格者でしかない学者が相変わらず、発言し、指導しているという事実を発見するであろう。当然、その権威と価値を喪失した筈の大学教師が大学教師群の中の優秀分子として、相変わらず通用しているということは、なんとしても不思議である。その事実を知らない者は自分で研究してほしいと思う。

一流であることの意味を考え直す

私たちは、普通、世の中で一流大学といわれている大学の教師をすぐれた学者、学識のある一流の学者と考えがちである。果して、そうであろうか。勿論、私たちには、その専門の知識を評価する力がない以上、そう思うのもしかたないことかもしれない。しかし、一流の大学とは、入学試験がむづかしい、入学試験が一流であるということ以外、他に意味があるであろうか。
たしかに、大学で、高度の学問、深淵な学問をするために、高度の理解力、認識力、判断力さらには創造力を求められる。しかし、大学の入試試験は、理解力、認識力、判断力、創造力も調査されるかもしれないが、より多く、暗記力、記憶力をためされる。学問を学び、学問を創造する上で、全く関係のない暗記力、記憶力だけで、一流の大学に入学している者が非常に多いのである。これは、全くおかしなことである。
一流の大学とは、一流の暗記力、一流の記憶力の持主が入る所であって、一流の理解力、一流の認識力、判断力の持主が必ずしも入学する所でないということはおかしなことである。しかも、一流の暗記力と記憶力しかない者が将来、一流の学者として、世間に通用しているのだから、猶更、不思議である。勿論、数ある学者の中には、理解力も判断力も創造力もある者もある筈だから、一応、学問も成立し発展しているものの、すべての学者が一流というレッテルをはられるのは全くばかげている。
だが、もっとおかしいのは、一流の大学は一流の人間、一流の青年を入学させるところではないということである。単に、暗記力、記憶力が一流であるということ、たとえ、一流の理解力、判断力、創造力のある少数の人間、青年を入学させたとしても、人間として、青年として一流の人物、いいかえれば、暗記力や理解力などの知力のみでなく、人間としての感覚、情緒とか、人間としての意志力とか決断力などが一流である人間、青年を入学させていないことである。
社会人として一流であるということは、知力とともに、情緒、感覚とか意志力、決断力が一流でなくてはならない。その一つが欠けるということは、人間として、社会人として一流でないということである。一流の大学を出た者程、その高い地位を利用して、普通人が到底できないような汚職をしたり、国民を不幸に導くのも情緒感覚の欠落しているためである。
一流の大学が、一流の人間、一流の青年をいれていないということほど、馬鹿げたことはない。私達は、今迄の一流の学者、一流の大学という考えを、ここで、もう一度、考えなおしてみる必要がある。一流であるのは、何であるかを徹底的に考えてみる必要がある。
もしかすると、私のこういう発言に疑問をもつ者もいるかもしれない。反対する者もいるかもしれない。そこで、私は、次の事実、皆さんもよく知っている事実を更めて、述べてみたいと思う。

人殺しの手伝いをした日本の学者たち

今年六月の各新聞は、一斉に、東京大学、京都大学、大阪大学などの二十五の一流大学が、アメリカ陸軍から研究費として、約四億円を支給されていたという報道をした。これは、医学部、理学部関係だけに限られているが、現在、ヴェトナムで、広範な人殺し作戦を遂行しているアメリカ陸軍のために、しかも、生物兵器の基礎研究の分野で、日本の最縞の頭脳といわれる人達が協力しているということである。
生物兵器とは、この世には現実に存在しない病気をつくりだし、治療法のないままに、人間を永遠の苦悩におとしいれようとするものである。医学部、理学部関係の学者は、平気で、なんの苦痛も反省もなしに、それに協力していたのである。
ここには、完全に、人間に一番必要な良心や愛が欠落している。それが欠落しているのを少しも疑わない無神経と無感覚とがある。これが、一流の学者として通用している人達の実態である。権威と価値をもって、一般の人達から尊敬されている学者達である。それも、人間の病気と四つに取くんでいると思われていた医学者達である。これほど、人類を人間を裏切る行為はない。人間としては最低である。
次のような言いかたは語弊があるかもしれないが、それこそ、中学校だけを卒業した人達には、こういう極悪人は絶対にでないであろう。中学校だけを卒業した者には絶対にできないことである。また、中学校を卒業しただけで、こういう行為は決して人間に許されないことを知っている。一流大学を、立派な成績で卒業した者のみがなし得る行為である。
アメリカ陸軍から援助をうけていた中に、昨年以来、教授と業者とのくされ縁が問題になっている東京大学宇宙航空研究所が入っていたということも象徴的である。でたらめに近い経理ばかりか、その研究さえ、いいかげんと攻撃をうけはじめている研究所が、アメリカ陸軍の援助をうけていたということは、彼等がいかに人間として失格しているかを示している。そして、それは、結局、学者としても失格しているということを示している。
人類の先頭にたって、人間の幸福を追求し、その幸福の増進のために働く役割をになっている学者、そのために、十分でないにしろ、日本としては多額な研究費と人件費をうけている学者たちの実態がこれであるとしたら、私たち一般国民は、何といったらよいのであろうか。何と考えたらよいのであろうか。陸軍の援助をことわるということで問題は解決しない。援助をうけたということで、人間が失格したという事実はどうにもならないのである。

教育者失格の教授の発言

これは、医学部、理学部関係の一流の学者の実態であるが、今度は、少し、角度を変えて述べてみたい。
皆さんは、「女子学生亡国論」とか「女子大無用論」ということを聞いたことがあろうか。この意見を吐いた人達がどういう立場の人か考えたことがあるであろうか。いうまでもなく、この意見を吐いた人達は一様に大学教師であった。たとえ、マス・コミ的発言であったとしても、こういう発言は、「女子学生の教育は絶望的である、私にはその教育は出来ない」という発言である。いいかえれば、女子学生の教師として、自分は失格者であるという告白である。
失格者であると表明した者が、大手をふって通用しているのもおかしいし、通用させているマス・コミも他の大学教師もまた、おかしい。たまたま、この論を発言した人達は、女子大学の教師ではなかったが、女子大学の教師はこれに反論を加えるでもなく、この論をみとめることになった。たとえ、馬鹿らしいと思った人達がいても、それに反論することもなく、「女子学生亡国論」を普及させたという責任はまぬがれることができない。
「女子学生亡国論」や「女子大無用論」を認めつつ、女子大学に、大学教師としてつとめているということはどういうことであろうか。ここにも、私は疑問をもたないではいられない。
であればこそ、多くの女子大学の女子学生は、その疑問やて悩みを、大学教師に相談せずに、母や姉に、上級生に相談しているのである。いくつかの大学を調査したが、どこの大学でも、教授、助教授に相談する者は非常に少ない。
しかし、非常に少ないが、それでも、あるということは、女子大学の教師の中に、良心的で、女子学生を指導している人達が、深い尊敬をうけている人達がいるという証拠である。ただ、彼等女子大学教師の、力量不足ということがいえるのであろうか。それを発見して取りあげなかったマス・コミの責任もあろう。

一流学者の名にたぶらかされるな

非常に少ないが、まともに、学生を本当に指導できる学識と能力と人間味をもった大学教師がいるということは、先に述べたように、おかしな学者、妙ちきりんな学者が全部でないということでもある。それこそ、学者の中には、日本の良心といえるような人、日本の慧知ともいえるような人がいることも事実である。大事なことは、十万人の大学教師がすべて、そういう人であるという錯覚をもたないことである。
むしろ、日本の良心であり、日本の慧知といえるような学者は非常に少ないということを知ることが必要である。一流の大学の教師が人間として、社会人として一流でも何でもないということを知ることが非常に大切である。そればかりか、人間として失格する者は、学者としても、結局は失格する場合が多いということを知る必要がある。
名は一流の大学、一流の学者であってもいかに、多数の大学、多数の学者が失格し、二流、三流の大学、学者よりも、ずっと程度がわるく、ときに、悪質であるかということを知る必要がある。それは、一流の学者のすべてを否定しろということでなくて、日本の良心であるような一流の学者、日本の慧知であるような一流の学者を、自称、他称の学者の中より、選択しなければならぬということである。
そういう学者だけを択びだして、その協力をうけ、常識的判断に随って、一流の学者、一流の大学というものを認めないことである。大学教師という言葉にたぶらかされないことである。それが、似而非的一流の大学、似而非的一流の学者を抹殺していく道であるばかりか、私たちの幸福を、国民の幸福を私たち自身の手にとりかえす道である。

学者に絶望することからはじめよ

私たちの幸福を私たち自身の手にとりかえすということは、この似而非的大学教師の指導の外に、自分を自分達をしっかりと確立することである。いいかえれば、大学教師に絶望することである。大学教師の指導に絶望することである。その指導に絶対の信頼をよせてきた自分自身に絶望することである。
その中から、初めて、私たちのささやかな生活が始まる。誰も指導者としない生活が始まる。勿論、その生活は厳しいし、試行錯誤も多いかもしれない。だが、その時に、初めて、私達は、学者の中の誰が、本当に私達に協力できるか、協力できる識見をもっているかも知るようになる。
私達が私達自身の頭脳と手足で、私達の生活を始めようとする時は、私達は学者の指導でなくて、協力だけを必要とするようになる。学者を指導者としてでなく、協力者として、仲間として、発見する。協力者となり、仲間となり得る学者のみが、また、真の指導者にもなれる者である。一流の学者でもある。
私達が私達の生活を始めるということは、私達一人一人が、自らの主人となって、充実した生活、充実しきった生活を始めるということである。誰をも指導者としない生活を始めるということである。誰の追随者にもならない生活を始めるということである。その時、初めて、私達が私達一人一人の、主人となって生活することができるのである。それはそのまま、誰をも追随者にしない生活である。
こういう生活をすることは、こういう思想生活、精神生活をするということは、先述したように、たしかに、厳しい生活であり、苦しい生活である。責任を伴った生活である。しかし、それこそが、人間として生きるということである。人間として充実した生活を送るということである。
現代は、こういう時代である。こういう時代に直面している。人々は、容易に、政治家に絶望することは出来る。政治家がいかに、美辞麗句をならべても、政治家が本当には何を欲し、何を考えているかを、誰でも容易に想像できる。その結果、政治家には絶望できる。
だが、私達は、容易に、学者には絶望できない。大学の教師には失望できない。私達が自らの主人に容易になれない理由でもある。そこに、私達の悲劇がある。しかし、今、皆さんは学者に絶望し、大学の教師に失望するところに立っている。その絶望、その失望を心の底からの絶望や失望にするのは皆さん自身である。皆さん自身が徹底的に考える以外にない。皆さん自身が徹底的に思いつめる以外にない。私に出来ることは、せいぜい、その門口に、皆さんを導くことである。まして、思想的に自立し、皆さんが皆さん自身の主人になることは、皆さんの決意と努力にまつ外ない。それは、学者に絶望する以上に困難な道である。

<雑誌掲載文4 目次>

「加藤友三郎という男」

明治、大正、昭和の三代の宰相について、ある雑誌に連載中だが書きながら私はつくづくといやな気持になっている。それというのは、宰相といわれるほどのポストについた人物が、あまりにもくだらないということを、発見させられたからである。
最近は、明治百年などといって、明治という時代、明治の人物を無条件に讃美しようとする傾向にあるが、どうみても明治、大正、昭和の宰相は、そんなにほめられたものではない。平民宰相といわれて、これまですばらしい人物と聞かされていた原敬ですら、調ベてみると汚職を肯定している。堂々と議会で、その子分の汚職を弁解している。原が殺されたのは、それからまもなくである。暗殺は好ましくないが、ある意味では、汚職を肯定するような宰相は、殺されてもしかたないともいえる。
「板垣死すとも自由は死せず」と言った板垣なども、単に閣僚のポストがもうひとつほしかったばかりに、せっかく合同して藩閥政府に対抗しながら、たった半年で再び分裂させてしまった。勇気がない宰相、地位に恋々する宰相、国民のことを少しも考えない宰相、名誉と富に汲々する宰相、識見らしい識見を持たない宰相と、書いていったらきりがない。
だが、そういう宰相の中で、加藤友三郎のことを書くことになったとき、私は全く驚いた。日本にもこんな宰相がいたのかと、今さらのごとく感動した。それまで、くだらない宰相ばかりを書いていたからなおさらである。
加藤といえば、広島郵政局とも縁の深い広島の産であり、日清戦争、日露戦争にすぐれた戦術、戦略を披露し、その後は海軍大臣として、日本海軍の拡張にとりくんだ男である。だが、彼はその中で、軍備が国民生活の犠牲の上に、成り立つものであることを痛感し、軍備拡張競争が続いているかぎり、国民は永久に幸福にならないということを発見した。
こうして、加藤はワシントン軍縮会議に積極的に参加し、軍縮に向かって、世界各国を導いていった。それは、日本の加藤から世界の加藤になることであった。現に世界中の新聞記者が、加藤の発言と行動に注目し、また、加藤に声援を送った。
帰国後、加藤は宰相となった。だが、その年の暮れにはガンのために、寝たり起きたりする身となり、その翌年には宰相の地位にあるまま死んだ。わずか一年三ヵ月しか総理の地位についていないが、その間に、海軍の軍縮のみでなく、陸軍の軍縮までやってのけて、陸軍に文句をいわせない。シべリア出兵や山東出兵も解決している。しかも、その結果あまった金はすべて、国民生活の向上にまわしている。もし、加藤がもう少し生きていれば、大東亜戦争にむかって破滅の道をつき進むこともなかったであろう。
明らかに、こういう加藤のような宰相は少なかった。しかし、明治、大正、昭和の国民大衆も愚劣であったということを、言おうとするのではない。むしろ逆であったことを言いたいのであるが。

<雑誌掲載文4 目次>

「現代における日蓮聖人の意味」

今日における日蓮の意味を問うとすれば、なんといっても、まず第一は、日蓮がどのようにして、学問をし、その思想的宗教的真理を見究め、その真理に到達したかということであろう。というのは、日本の思想風土には、自ら学問して、自らの思想を確立するという姿勢は殆んどない。多くの人が、他の人の思想に依存追従し、エピゴーネン(追随者)でしかないというような有様である。その中で、日蓮が思想的自立を闘いとり、彼自身の思想を創造したということは、どんなに称讃しても、しすぎるということはない。
それに、今日は、思想が混沌としている状況の中にあって、人々は迷い、苦しみ、自らの自立を求めて、模索しているという状態である。ことに、学生たちは、自らの思想を求めて苦悶している。既成の学者や知識人に絶望し、あるいは、既成の政党に失望して、なんとか、自らの思想をつくりだすことに、自らが自立したいと強く希望している。誰にも依存しないで、誰にも支配されないで、自分たちが自分たちを支配し、自分たちが自分たちの主人公になりたいと全存在で希求している。大学闘争を果敢につづけているのも、自分たちの思想を創造できる大学、自分たちの世界観をつくりだすことの出来る大学に、現状の大学を変革したいというのもそのためである。大学紛争がおこるというのも、今日の学問が、今日の思想が時代を指導することができなくなっているためであり、学生たちが教授とその学問に満足できなくなっているためとみるのが正しい見方である。
それこそ、今日、学問と思想を求める学生たちも、更に、自ら信じ、従える思想と理論を求めている人たちも、ともに、迷い、苦しんでいる時に、日蓮が自らの思想を創造していった足跡は、現代人にとって、無関係ではない。無関係などころか、非常に深い意味をもっている。日蓮が日本人であり、私達現代人の先輩であるということにおいて、猶一層の意味をもっているといえる。
では、日蓮の学問的姿勢とは、思想創造の姿勢とは、一体どういうことであろうか。
ご承知のように、日蓮は、平安時代の仏教諸派にも絶望し、道元や親鸞の仏教にも失望した。彼は、それらの思想と信仰では、自分も救われないし、救いを求めている人たちも救われないと思いつめた。彼の学問の出発点、思想と信仰を模索する出発点は、絶望にあった。その場合、当時の状況の中で、仏教とは、今日いうところの宗教の中の一仏教ではなく、学問であり、思想であった。人間と社会のすべてを包含し、究明するものであった。いいかえれば、今日の政治学、経済学、社会学、文学、哲学、歴史学などの専門科学をすべて包含するものであった。学問そのものであった。このことを認識しておくことは、当時の仏教、当時の日蓮を知る上で大事なことである。そういう意味で、彼は当時の学者、知識人、思想家に絶望したということである。しかも、絶望した後、絶望のままに、解決を見出されないままに、人生の意味と価値を発見しないままに、惰性で生きるということができなかったのが、日蓮である。これは、今日の学生たちの中のある者に共通する姿勢である。日蓮は、自分自身の納得のいく人生の意味と価値を、人生の理想をはっきりと掴もうとしたのである。その意味では、彼は自分を、自分の人生を、人々の人生を大事にする人であった。そこから、彼は、仏教聖典を自ら丹念に読みなおす作業にとりかかった。誰かの解釈をたよりにして、仏教書を読むのでなく、あくまで、彼自身を中心にして、彼自身の頭で考えていった。それは、仏教書を新解釈していくことであり、仏教書の中に、自分の悩みと疑問を解決してくれるものを発見しようとする作業であった。
こういう生活が三十二歳までつづいた。十数年の学究生活がつづいたことになる。その間、文字通り、ひたすら、勉学した。自分自身の悩みと疑問を解決するために、ある時は京都の寺にでかけ、ある時は奈良の寺にもでかけ、直接、倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、華厳宗、禅宗などをより深く学ぶということもした。安易な批判、軽々しい批判をしないためである。漢学、国学などを学ぶことも怠っていない。無智無学を最もおそれたし、そこに、彼自身の悩みと疑問を解決するてがかりはないかという気持が強く働いたからである。ありとあらゆるものを学んだというのが当時の彼である。
その結果、日蓮は、「法華経は諸経にすぐれ、諸経は法華経のためにあること、そして今の日本に必要なことは、この法華経を弘通することである」という結論に到達した。それは、彼自身の人生に目的と意味を見出したことであり、その目的にとりくむことが同時に、人々を救うことになるという発見であったから、それまでの彼自身の悩みと疑問を解決することでもあった。十数年の研究の結果、到達した結論であるというところに、日蓮にとって深い意味がある。ことに、万巻の書をよみあさって得た結論であったから、彼の自信は強烈であり、絶対である。誇りにみちていたということもできる。
このことは、今日、非常に重要なことである。現代人は思想的自立を戦いとろうとしている人でも、自らの思想と理論を求めている人でも、日蓮のように、十数年の模索と思索をやらない。更に、彼が、国学、漢学にはじまって、仏教諸派を徹底的に研究したようには、今日適用している諸学説を広く深く研究しない。勿論今日は、当時と違って、諸学説が比較にならない程に増えているから、それを学ぼうとすることは大変である。大変であるが、それをしなくては、思想的自立など思いもよらない。思想的自立を欲し、自らの思想を求めようとする程の人は、人間と社会を自分で徹底的に究明する学究生活がいかに困難でもやる以外にない。それに、例えば、仏教学というものが成立し、研究も進んでいるから、日蓮が要した程の時間を、仏教研究に費す必要もない。うんと短縮できる。日蓮のようにやって、やれないことはないということになる。

日蓮は、「法華経を発見し、法華経を弘通することが、自分の課題である」ということを発見したが、それは、同時に、国内が平安でないのは、法華経が弘通しないで、邪教がひろまっているためであるという発見であった。ということは、邪教を信じる者をどんなことをしても説得し、法華経に改宗させねばならないという結論に到達することでもあった。そこから、折伏という姿勢、しかも、どんな迫害に遭遇しても折伏の姿勢をゆるめないという立場が生まれてきたのである。
ご承知のように、日蓮の一生が、その全力、全精力、全智力を投入して、他宗批判に集中したことは、あまりにも有名であるが、その時、彼の折伏の姿勢を支え、貫きとおしたものは、彼自身の自信であり、誇りであったということは、いうまでもない。弾圧が強まれば強まるだけ、困難が重なれば重なるほど、彼の折伏への勇猛心をわきたたせ、いよいよ、それに熱中した。それも、彼がひろく学び、深く考えた結果である。
日蓮には、戦争中のマルキシストのように、マルクスのエピゴーネンのように転向することがなかった。彼等の転向の主な理由は、日本の思想と伝統を全く知らなかった。日本の思想と伝統を学んで、マルキシズムの不十分さ、不完全を始めて知ったというものであったが、日蓮には、彼の思想を捨てて、転向するということは思いもよらなかった。彼には、もう、彼の思想以外に、救いや助けを求めるものはもうなかった。知りつくしてしまった後の結論が彼の思想であったからである。
その確信に支えられたために、転向はなかったし、折伏は徹底していたのである。他宗派を信ずる人を折伏をしなくてはならないと考えたのである。ここに、日蓮の現代における意味の二番目がある。彼が彼の思想として創造したものが、彼だけでなく、ひろく、人々を救うものだと考えたとき、彼は自信と誇りをもって、その思想を普及しようとしたのである。
それは、自らの思想に対する、学問に対する日蓮の自信であり、更には、思想と学問に対する彼の責任と義務であった。それというのも、彼が、思想と学問というものは、人々のためにあり、人々の悩みに答えるものでなくてはならないという考えをもっていたためである。人々の要求に答えられないものは、思想や学問の名に価しないと考えていたためである。
そういう考えをもつ日蓮は、思想や学問をすることは、そのまま、行動的であり、実践的でなくてはならないということでもあった。行動や実践にでていかないものは、思想や学問の名に価しないと考えていたということであった。いいかえれば、行動的知識、実践的知識でなくてはならないということであった。行動的知識、実践約知識にでていく知識を信仰といっていいのかもしれない。単に知るということでなしに、その知識を人間が体得し、その知識と一体となったということにおいて。
もし、人間が政治的社会的存在であり、政治という枠外にでることができないという考え方にたてば、また、多くの人々が、政治の貧困、政治の暴力の中で苦しんでいるということを考えれば、人々を救うということは、自分自身を救うということは、政治的知識にうらづけられた行動をし、政治的実践をするということである。その意味では、日蓮の折伏という行動は、政治的行動であり、政治的実践であったということもできる。
しかし、今日、学問を研究し、思想を追求する学者、知識人の何割が、学問と思想の窮極の課題は、行動的知識や実践的知識、更には、政治的知性と行動であり、人々の悩みや苦しみを解決するものだと考えているであろうか。彼等の多くは、単なる物知りにすぎない。学問といえば、訓詁と解釈の学であり、祖述の学であると考えている者が多い。甚しい者は、趣味、コットウの学だと思っている者さえいる。しかも、その学者の大部分は国民の税金でやしなわれているのである。それでいて、国民に還元しようということを少しも考えない。
だから、日蓮の学問とは、思想とは行動的知識であり、実践的知識であることを強調した意味は大きい。学者、知識人に、学問、思想への責任と義務のあることを訴えた意味は大きい。
ことに、今日の学者、知識人は、他人の学問や思想がどんなものであったとしても、極端にいって、人々に苦痛をあたえ、人々を悩ませるものであっても、その学問と思想を批判しようとしない。追求をしようとしない。自分の専門外のことだから、わからないという名目で。日蓮は、それを許せないと思った。断罪する必要があると考えた。
これは非常な違いである。今日、学生たちが大学紛争をおこし、教授とその学問を批判し、追求しているのも、実は、日蓮と同じ立場であり、非妥協的であることも、彼の徹底した折伏に通じている。行動や実践にでていかない学者・知識人の学問と思想を批判しているのも日蓮の精神を継承するものということができる。日蓮の意味が、今日、再検討を要するのも再評価を要しているのもそのためである。矢内原忠雄(元東大総長)も、
「学問研究に際し、ある真理に近づけば、必然に、研究者の思想および感情に迫って、実行的努力に向わしめる。これを如何にコントロールするや否やは、人々の性格及び判断によるが、人々の心を動かして実行に傾かしむるだけの力がないものは、真の学問でもなく、また、学問を研究するものともいえない。学問は遊戯でもなく、銭勘定でもないのだ。研究と信念と実行とは、本来きりはなすことの困難なもので、殊に、在学中は、研究、卒業後は実行という風に、使いわけることは、余程むつかしい。それ故、純真で勤勉な若い学生たちが理想にもえて実行方面にたづさわることあるも、むしろ自然の事柄である。……社会は、批評によって進歩するというが、実は批評的実行によって進むのだ。旧き革袋をいつ迄も維持せんとする程の社会に対する暴行はない」といっている。
日蓮と如何に共通するか。しかも、現実の学者、知識人は、自らも行動しないし、また、人々を動かし、行動させるような学問と思想をもっていないのである。日蓮が今日にあれば、いかに怒号することか。

最後は、現体制の国家原理にたいして、別の国家原理が存在することを力強く主張したことである。日蓮は次のようにいう。
「国王となって、悪人を愛し、善人を科にあつれば、その国、他国に破らる」と。
また、次のようにもいう。
「諫臣、国に在れば則ちその国正しく、争子家に在れば、則ちその家直し。国家の安危は政道の直否に在り」と。
日蓮によれば、現体制の支配者、指導者が主張する意見が必しも正しくなく、別の考え方もあるというのである。時には、その考え方が正しいということもあるというのが彼の意見である。このことは、二十数年前の太平洋戦争のことを考えてもよくわかる。当時、政府に反対する者は、すべて国賊であり、売国奴であり、その存在を許さないという態度に出た。政府はそういう人を抹殺に出た。抹殺できないときは獄にいれた。その結果が、国をほろぼしてしまった。そこには、正しいことを主張する人々を抹殺し、罪におとしいれてしまうということしかなかった。
他方には、現政府に反対する人をも国賊といわれ、売国奴といわれると、ひるんだ。それを批判する声も弱々しく、はては、なくなってしまった。消えてしまった。もしも、政府批判をする人々が、日蓮のこの考えと立場を知っていれば、もっと、自信と勇気をもって、その批判を主張したであろう。そればかりか、政府の人々こそ、逆に、国賊であり、売国奴であるということも言えたであろう。諫臣にあたる私達を、抹殺しようとするのは、投獄するのは、国をほろぼすもとであるといいきったであろう。
しかし、それも、結局、数百年前に、こういう発言をした日蓮という存在がありながら、その考えが日本人の中に定着してこなかったことが、その考えを日本人の思想と感覚の中に根づかせることを怠ってきたことが、太平洋戦争中の国民の無力と悲劇を生みだしたといえる。明治以後、何人もの人が、国賊という名の下に、政府批判を言論を抑圧されてきた。その国賊の言葉の前に、皆あまりにも弱かった。せめて、明治以後、日蓮のこの言葉を思いおこしていれば、また、思いおこすことによって、日本人の中に、国民の中に、それが定着することを心がけてきたなら、あれほど、みじめな状態を太平洋戦争中にもたなくてもよかった筈である。
しかも、最近、再び、愛国心といい、祖国愛というとき、その内容は、現政府の主張するものであって、それ以外には、愛国心も祖国心もないかのような風潮がだんだんと強くなっている。再軍備反対論者は、売国奴かの如き意見が出はじめている。更には、現政府に鋭く反対し、激しい対決をしている全学連を不逞のやからであるというような意見がたかまりつつある。
だが、ここで大事なことは、日蓮が「国は亡ぶとも、謗法はうすくなりけん」といっていることである。彼によると「正義が、真理がおこなわれないような国は亡んでもいいといいきっている」ことである。真理や正義が行われるためには、国は亡んでもいいといいきっていることである。それこそ、彼には、一国の存立よりも、正義と真理の方が大切であった。国よりも、正義と真理を愛した。まことに徹底した考えということができる。侵略戦争をするような国なら、亡んだ方がいいというのだ。これほどに徹底した考え方の出来るものが、当時、幾人いたであろうか。
今日もまた、太平洋戦争中の状況にだんだん似てきている。この時、国民が国民の中に、自らの学問と思想を強く主張していくとともに、それは、現体制の政府が主張するものと併存するものであること、それは、むしろ、政府の主張するものよりもすぐれている、勝っているという確信に支えられることが必要である。勿論、そのためには、その学問と思想は、日蓮のように、広く深いものであることが不可欠である。

以上、述べたように、現代における日蓮の意味は非常に大きい。学問と思想に対する日蓮の姿勢を生かし、発展させることは非常に大事である。ことに、日蓮が、仏教諸派のなかにいて、それを継承し発展させて、新しい仏教を創造した意味は大きい。いいかえれば仏教諸派からみれば、日蓮は反逆者であり、その当時の政府からみても、完全に反逆者であったということである。
このことは、そのまま、今日、日蓮宗に対し、浄土真宗に対し、禅宗に対して、日蓮のように反逆者になる必要があるか、なりうる余地があるか、新しい仏教を創造しうるかという課題を、鋭く提供しているということでもある。仏教諸派ばかりでなく、日蓮が国学や漢学にも彼自身の悩みと疑問を解決するものを求めたように、キリスト教やプラグマチズム、マルキシズム、実存主義の批判をふくめて、そこから新しい思想と理論を創造しなくてならないかどうかという課題の前にたっているということである。これが、今日、日蓮に学ぶということの、日蓮の現代的意味の最大のものであろう。私は、その課題を私達現代人になげかけているということの故に、日蓮に猶一層かぎりない尊敬と愛着をいだく。また、彼が今日に生きつづけていると思うものである。

<雑誌掲載文4 目次>

「沢庵の今日的意味」

戦後民主主義の虚妄

ここ二、三年、宗教書がよく読まれている。厳密に言えば、宗教書が読み直されようとしていると言った方が正確かもしれない。要するに、現代という混乱した時代に直面して、人間とは何か、思想とは何かと、もう一度、根本的に問い直そうとする動きと無関係ではない。
勿論、これは、敗戦直後、民主主義を無謬のものとして、無批判的にうけいれたことと関係している。本来なら、あの時に、民主主義を問い直し、人間と思想について、根源的に問い直し、その上で、戦後の思想を構築すべさであった。それをしなかった所に、今日、戦後民主主義の虚妄の時代が現出したのである。その意味で、今、宗教書を読み直し、徳川時代を通じ、仏法に生き、仏法とともに死んだ仏法者として第一人者であった沢庵の今日的意味を模索することは、当に時宜に適したことと言うべきである。

沢庵といえば、普通人々は沢庵漬の沢庵のことを考えるか、吉川英治の描く所の宮本武蔵の師としての彼を思いおこすだけで、将軍と対立して自らの考える仏法を少しもゆがめなかった人間として思いおこす人は少ないであろう。だが、沢庵の真骨頂といえば、将軍の政治的権力にも屈することなく、だからとて朝廷の宗教的権力にも妥協することなしに、あくまで、その信条を貫きとおすためにその生命を堵した所にある。

政治権力におもねず

そのために遠く今の山形県に流されることも甘受したのである。しかも、それは彼が年とってからの出来事であったのである。その後、将軍家光の時、赦されたが、柳生但馬守や堀丹後守が強いて、彼を将軍に会わせようとしても、頑として応じなかった程である。沢庵にとっては、将軍家光も、門前の小僧ぐらいにしか見えなかったのである。
特に、家光が彼を迎えるにあたって、彼の宿舎をつくらせたり、彼を諸宗、諸寺を取り締まる最高の地位につけようとしたのを沢庵は笑止とみたのである。これは、いかにも政治権力者らしい遇し方であったが、沢庵はそれらをことわり、草庵に住む姿勢を変えようとはしなかったのである。彼の心には、仏法を追求し、仏法を実現するということしかなかったのである。
別言すれば、政治の世界を拒否するということであるが、だからとて、政治の世界に無関心に生きるということではなく、あくまで、政治という人間にとって、最も現実的、具体的なものを正面に見据えて、人間の全的救済、人間の全的向上をはかろうということしかなかったのである。政治の世界に仏法の精神と思想を貫こうとしたと言ってもよい。それが、彼にとって、仏法をもとめ、仏法にいきるということでもあったのである。

家光とあくまで対立

だから、沢庵は「今の世に順ずれば道に背く。道に背くまじとすれば、世に順ぜず」とも言ったのである。沢庵には政治が仏法をリードするのでなく仏法が政治をリードしなくてはならないと思えたのである。彼が将軍家光とあくまで対立したのは当然である。仏法に背く政治なんて考えただけでも腹が立つ。そんな政治なんて政治でも何でもないのである。同時に政治をリードできない仏法も彼には仏法と思えなかった。しかし、現実にそのような政治と仏法がはびこっている。沢庵はそれらを正しい位置にもどさなくてならないと覚悟した。

沢庵の一生は、それにつきたと言ってよい。秀忠、家光に真っ向から対立したのも、また友人の柳生但馬守に「不動智神妙録」を書きあたえたのも、すべて、そのためであった。彼は、そこで剣禅一如を説いている。日本兵法の確立に大きな影響を与えたものとして、昔から評価されている。
彼は、その中で仏法を通して剣を説き、剣に生きる姿勢を説くなかで、人が人として生きるには、どうすべきか、どうあるべきかを説いている。兵法家柳生と同時に、政治家としての柳生、多くの家来を使う主人としての柳生、人間としての柳生の生き方、在り方を説いている。なかでも自分が自分になりきる、徹しきるには、どうすべきかと言うことを説いた。彼は、その一例として、千手観音のことをあげて説いている。即ち千の手が自由自在に使え、その各々が十二分に機能を果たすためには、一の手に心がとらわれることなく千の手に残りくまなく心が通い、千の手を隙なく支配するところまでいかなくてならないと言う。
要するに、個としての自分が、他者としての人間を知り抜き、他者としての人間を自分がのみこみ、支配するということである。そうなれば、他者にひきずられることもないし、他者にまどわされることもない。彼は剣禅一如を説いたが、それは、生活即禅の一如を説くはじまりであった。いずれは、政治即禅の一如を説く筈であった。此のように考えると、沢庵の存在は大きい。特に、仏法本来の意味が見失われている現代においては。

<雑誌掲載文4 目次>

「松下村塾の灯〈萩〉」

村塾をたずねて

汽事の便の非常に悪い山陰線の萩駅で下車して、車に数分乗っていると、松下松下村塾に連れていってくれる。ここには吉田松陰の住んでいた家も残っており、彼が幽閉されていた一室もそのまま残っている。明治以後になって建てられれ松陰神社もある。
わずか二間の村塾があの有名な松下村塾であり、明治維新をなし遂げる原動力となった人物を多数生みだした所であると聞くとうそのように思う。村塾には久坂玄瑞・高杉晋作などの遺影がかざられている。
明治以後、学校の建物はりっぱになり、設備は充実しながらも教育の実はそれほどあがらず、人々を嘆かせている事実を思うとき、教育とは建物や設備ではなく、師たる人と弟子たる人との出会いにこそあると思う。
松下村塾の教育は、それが閉鎖されてから百年余の間、一度も継承されたことがない。吉田松陰に帰れといわれたことは今までに何度かあるが、それは松陰の形骸化した思想をそのままに、時代状況を無視して再現しようとするだけで、彼が全存在で時代の課題に対決し、取り組んだ生き方そのものを、現代に自ら生かそうとする人はほとんどいない。
ここを訪れる人々の数は、年間百万を超えるが、彼らの多くは、単にその事実に感嘆するだけに終わり、吉田松陰の、久坂玄瑞の、高杉晋作たちの、現代に生きるわたくしたちに対する痛切な訴えのことばを聞こうとする者はいない。
松下村塾を少し行くと、吉田栄太郎(稔麿。1841〜64)の生家がある。吉田栄太郎という人間はあまり知られていないが、数十人の弟子の中で最も出色の人であり、師の松陰の思想を発展できたかもしれない唯一の人間であった。ただ、不幸にして、早く逝き、ためにその真価を発揮することのできなかった人間である。久坂玄瑞や高杉晋作の前にかすれてはいるが、その彼らが師の思想を矮小化して継承したのに対して、発展させることのできた唯一の男かもしれない。
さらに、吉田栄太郎の生家より2〜300メートル行った所に松陰の叔父であり、師でもあった玉木文之進の家がある。玉木文之進といえば萩の乱(明治九年十月、萩で起こった前参議兵部大輔前原一誠ら不平士族による反政府の反乱)の後、割腹した男である。そこから少し行くと、萩城と相対する山の中腹に団子岩という所があり、そこに松陰の生家がある。この家は彼の小さいときに焼け、その後村塾近くの家に移り住んだものである。半農半士にすぎない吉田家の跡はいかにも小さい。
それにしても朝夕、城を目にして大きくなった吉田松陰は、その城の主人公にもまして、歴史的巨人となり、今なお多くの人をこの地に招き寄せる人間に成長したのである。団子岩の地はおそらく、城の天守よりも少し高い所にあったと思われる。そのかたわらに松陰の墓があり、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田栄太郎の墓が師の墓を守るようにしてある。
昔のたたずまいがそのまま残っているのが、萩の町である。高杉晋作の家は、今もそのまま町のはずれにあるが、久坂玄瑞の家は残っていない。久坂・高杉・吉田とともに、村塾の四天王といわれた入江九一(高杉晋作とともに奇兵隊を創設、のち蛤御門の変で参謀として活躍したが、飛弾にあたりのち自刃した。1838〜64)の家は残っている。
松陰が教育家になる夢を固めた野山獄の跡は、その面影を少しも残していない。だがこの跡は市の中央にあり、松下村塾と生家と並んで、松陰をしのぶ所となっている。
団子岩に相対してお城があったというが、そのお城のあった所は指月山の麓であり、三方が海に囲まれている。いかにも景勝の地であったろう。その城の主人よりも、松陰が、どのようにしてすぐれた人となり、教育の原点ともいえる松下村塾の教育をどのようにして生み出したか、ということを明らかにしたいのが本稿の目的である。
吉田松陰は、日本におけるペスタロッチにも比すべき教育者である。だが今日、日教組はほとんど彼をかえりみない。第二次大戦中、吉田松陰があまりにもゆがめられて宣伝され、その苦い思い出があまりに強いからである。しかし、そのために彼ほどの巨人を見忘れることは許されない。かえって今こそ、彼の真の姿を正当に見直し、現在のゆがんだ学校教育を正すべき時である。
わたくしが現在の学校教育の中で、松下村塾の教育を取り上げるべきだと強調するのも、実は今日の形骸化した思想の中でこそ、彼の教育思想が、有効であると思うからである。

兵学者から革命家へ

吉田松陰が海外脱出を試みて失敗し、獄の人となったということは、彼の人生に決定的転換をもたらした。
すでに述べたように、半農半士の貧しい家庭に生まれた彼は、日々天守を見おろして育った。城主の子に生まれたというだけで城の主となっても、自分は貧しい武士の家を継ぐ。それによって、人間だれしももっているはずの尊さを抑圧されたままでいる。ましてや農民・町人の尊さはまったくかえりみられない。この矛盾に満ちた社会に目を開くようになる芽は、おそらくその生まれをみつめるところから始まったにちがいあるまい。
彼が叔父吉田大助の家を継ぎ、兵学者となったころ、ヨーロッパ諸国は、たまたま東洋諸国への帝国主義的侵略の手を着々と伸ばし、日本もその対象の例外ではなかった。九州地方を旅することによって、そのことをひしひしと胸に感じた彼は、東北旅行にあたって、こんどは藩の規約を破って旅立った。そのために長州藩の兵学師範の地位を失ってしまった。
松陰は藩の兵学師範の地位を失ったが、逆に日本の兵学師範として誕生した。東北旅行も兵学者として、日本を正しく自分の目で見るためであった。このころから彼は急速に、ヨーロッパ諸国の帝国主義侵略から日本を守り、人々の尊さをゆがめているような社会を、どのようにつくりかえねばならないかを模索し行動する革命児に変貌していった。松陰は日本の兵学者から日本の革命児になったのである。
日本を侵略しようとするヨーロッパ諸国を正しく知ろうと考えた彼は、国禁を犯して海外に行こうとした。それは、どこまでも兵学者兼革命児の目であった。しかし、すでに述べたように、その試みは失敗に終わり、獄につながれる身となった。彼の変貌はそこから始まる。すなわち兵学者兼革命児の彼に、いま一つ教育者の資質が加わるのであった。彼はそれをどのようにして発見したのであろうか。

獄中の教育

まず初めに、吉田松陰は、海外脱出に失敗して下田の獄にとらわれたときや、護送される途中、さらには江戸獄において、獄中の人々や当時の社会で人間の屑のように蔑視されている獄卒の中に、かえって彼の話に真剣に耳を傾け、心を動かす者が多いことを知った。
次に、野山獄の囚人となった松陰の目に映ったのは、野山獄の囚人たちの「再び出獄の見通しもないままに、絶望と孤独のあまりに酒を飲み、酒の力を借りて怒り、喧嘩することのうちに自分の生きていることを確認し、わずかに自分の心をなぐさめている」姿であった。彼らは全部で十一人、その中の二人を除いて、あとの九人はいずれもこれという罪もないままに入獄させられ、その一生を牢獄の中で送るように運命づけられていた者である。のちに松陰の片腕となり、松下村塾の教師となった富永有隣(1821〜1900)のように、親戚から忌避されて入獄した者もいたが、そのほかの者も大同小異であった。それも在獄四十九年を筆頭に、平均して在獄十年というありさまであった。それこそ、自暴自棄となり、洒を飲まずにはいられなかったのも無理はない。
松陰は自らも罪人のひとりとして、彼らの身近に置かれ、彼らを親しく見ることになった。松陰はそのとき、彼らの中に声にならない声であるが、救いを求める切実な声を耳にした。しかし、不当に放置されている彼らを見たとき、松陰は自分の中に激しい怒りと彼らへの強い愛が起こってくるのを禁じえなかった。彼は教育という手段によって彼らを救おうと決心した。
松陰は、絶望の果てに自暴自乗となっているこれら獄中の人々を相手に、教育活動を始めた。獄中の者に、真の人間らしく、理想を求めて生きるように教育することは至難である。だが、それを松陰はやり抜いたのである。
では、松陰はそれをどのようにしてやり遂げたのであろうか。
まず松陰は富永有隣に目をつけて、彼に『靖献遺言』(浅見絅斎著。二巻。義理の学を説いた修身書で、楚の屈原から明の方孝孺に至る八人の忠臣の遺文・略伝を記し、あわせて日本の忠臣・義士の行状を記したもの)という一書を提した。そして、「この書物は読む者を感奮興起させ道理を求める心を起こさせる。ぼくは思わず、傍らに人のいるのを忘れて声をあげ、読むほどに興奮し、感動した。この書をあなたに贈る。きっとあなたもぼくのように感動するにちがいない。日ころ、あなたとことばを交わすことがあっても、まだ胸の中を披歴し、心を通い合わせたことはない。しかし、さいわいにこの書によってあなたの意見を聞くことができたら、ぼくにとってまことに喜びである。もしぼくのいうことなどなんの益もないというなら黙るしかないが、ぜひ御意見を聞かせてほしい」と、あたかも理想に生きる大丈夫の士がそこにいるかのように、語りかけたのである。そこには、終身刑の囚人に対するような暗さはまったくみられない。
つづいて彼は、「あなたは見識があるために、そうでない人を見るときは敵人を見るようになる。そのために周囲から退けられたが、見識ある者は必ず始めは独善になるものである。それに才能ある者は才なき者に忌まれ、能ある者は不能者に嫉かれる。だが隣人なくばなにごともできないし、徳がなければ隣人を得ることもできない。いまやあなたとぼくは相許す仲となった。獄中に友を得た、あなたはもはや友人がいないことを嘆くことはなくなった」と書き送った。
松陰は、このような手紙を書き続けることによって、ついに富永有隣に希望の灯を点じたのである。
松陰はこれを突破口として、徐々に囚人全部を教化していった。そればかりではない。彼らの出獄にも力を尽くし、それにも成功している。この経験の自信が、松陰に教育者になることを運命づけたのである。
もちろん松陰は出獄しても禁足となり、行動はできなかった。革命児がその手足をもがれたとき、自分の手足となって行動する人間を発見するかつくるしか方法はない。彼は獄の経験を生かして、人間をつくる道に踏み切ったのである。こう考えると、自分の同志をつくらんとする彼の教育が、真剣そのものであったとしても不思議ではない。

塾の興り

松下村塾というとき、人はともすると吉田松陰が終始主宰した村塾であるかのように思っているが、実は松下村塾の名は天保十三年(1842)に叔父玉木文之進の家塾につけたのが始まりで、松陰自身もここに学んでいる。文之進の家塾はその後、嘉永二年(1849)まで続き、のち閉鎖になった。
嘉永六年、こんどは叔父久保五郎左衛門が家塾を開き、その名を踏襲した。安政三年(1856)九月、松陰は、叔父久保五郎左衛門のために書いた『村塾記』に、次のように書いている。
すなわち、「萩城の東部に我が松下村がある。人口一千、士・農・工・商の皆が住んでいる。萩は今では大都会になったが、それは真にりっぱになったとはいえない。もし将来、萩の名がおおいに現われるときがあるとすれば、きっと松下村から興るであろう。叔父は、わたくしのいうことは大きすぎる、自分は賛成できないなどというが、村人皆を勧めて専心道理を実現するように努力するなら、わたくしのいうことが大きいと心配することはない」と書き、「もし将来自分が村塾を経営することがあれば、おおいにつとめるであろう」ということばで結んでいる。
松陰は、そのころすでに塾生のみを指導するものとしての村塾だけでなしに、一村の人をすべて教化する、文字どおり村の中心となる村塾の夢をいだいていたと思われるが、彼の言うとおりに、その後、日本中に知られるようになった。
松陰はこの『村塾記』を書く中で、おそらく禁足の身である自分のことを思い、行動することを止められた自分が、あくまで思想家として、革命家として、兵学者として生き続ける道は、ただ、自分に代わって、自分の手足となって行動する革命家を育てることしかないと考えるようになったであろうことは想像できる。
すでに、松陰は獄中で囚人たちを前にして、「諸君といっしょに学を講ずるわたくしの意見をまず申しあげたい。わたくしたちは囚人として学び、再び世の中に出て太陽を拝することはないかもしれない。たとえ学んでおおいに進んだとしても、世間的にはなんのききめもないといえるかもしれない。しかし人間として必ずもっているものは、人として人の道を知らないことを恥ずかしく思う心である。この気持がだれにもあるとすれば学ぶほかない。そしてそれを知ることがどんなに喜びであるか」と言いきり、「学ぶということは人が人たる義務で、ただ自分のために学び、その学んだところに従って行動すればよい」と言っている。
今日のように、立身出世のためや、よい成績のためや、他人のために学ぶ者は、学ぶ必要がなくなるとさっさと学ぶことをやめる。それに反して、松陰は学ぶことが人間としての務めであると言い、また自分自身のために学び、人がなんと言おうと、ただその学んだところを実行するだけだと言ったのである。
安政二年の暮れに出獄した松陰は、そのまま獄中での講義を近親者を対象にして続けていたが、彼の講義を聞く者も徐々にふえていった。そこから彼の村塾経営の夢はしだいにふくれあがる。
十一月二十日に、相模(神奈川県)にいる小田村伊之助にあてた手紙には、彼の帰来を待つ松陰の心情がよく出ている。彼は小田村伊之助・久保清太郎や獄中にいる富永有隣のメンバーで村塾を経営しようとした。松陰の尽力で獄を出た富永有隣はさっそく彼の片腕となった。こうして安政四年三月には、久保清太郎の帰国とともに、七月ごろから松陰を中心とする村塾ははっきりした形をとりはじめた。
初め、その名をなんと呼んだか知れないが、久保の松下村塾の名はしだいに、松陰の私塾に移っていった。だが家学教育の許可を得られないので、久保の名義のままであった。松陰が正式に村塾の指導者になったのは、翌年七月のことである。しかもその十一月には再び下獄する。だから松陰が私塾を経営し指導した期間は、実際には非常に短い。しかも、村塾が始まったときには、わずか八畳一間であり、その後、狭くなったので一間を建て増したにすぎない。それがあれほどの教育の実をあげたのである。以下その秘密を明らかにしたいと思う。

折られたきせる

吉田松陰は、「妄りに人の師となってはならない。本当に教えなくてはならないことがあって初めて人の師となりうるのである。また妄りに人の弟子となってはならない。師を求むる前にまず自分の心や目標が定まって、それにこたえてくれる師を求めなくてはならない。学問するうえでいちばん大切なことは、思うことがありながらその思いが達せず、なすべきことがありながら、その方法が明らかでないためにとまどっている状態にあることである。この時こそ学を求め、師を求める時である」と言っているように、師となることも弟子となることも軽々しくあってはならないと強調している。そして、松陰は「生徒のために句読を解釈してやるだけで、その本当の意味を教えようとしないだけでなく、単に書をよく読み、書をよく説明できる者を才能ある者と評価して、そうでないものは心が純朴で誠実であっても、それをせいぜい付随的にしか認めることめできない教師、智も勇気の裏づけなしには過渡期の力にならない程度のことさえ理解できない教師は失格だ」と言いきった。今の教師のほとんどは松陰に言わせれば失格者となる。ことに単なる物知りを秀才だと決めている今の教師は落第ということになる。
このように、教師になることも、弟子になることも軽々しくなすなと戒めた松陰ゆえに、彼自身、師になることをきびしく自分に求めたし、弟子を求めるにあたっても、どんな志をもって学ぶのかということを、きびしく調査した。その点では、今の入学試験のように、物知りの程度を試験するのではなく、志の有無だけを問題にした。志さえあれば、それを達成するために必要な知識はおのずから身につくと考えていたのである。なぜなら、志のない知識こそ方向のない知識に終わり、単なる物知りの人間に終始することを知っていたからである。
松陰が志の有無ということで最も感動したのが吉田栄太郎であり、次いで高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・前原一誠・松浦松洞たちであった。こうして集まった師と弟子は、ともに日々に成長したことはいうまでもない。
師である松陰は、塾生ひとりひとりをわが党の士として見、わが党の士として遇した。彼らの進歩が目覚ましかったのはいうまでもない。なかでも松陰自身の進歩が最も著しく、松陰を先頭にして塾生全員が必死に学んだ。
夜の更けるのも知らずに松陰の講義は続き、夜明けとともに、松陰の母の用意した朝御飯を食べて散会するということもたびたびあった。村塾を村人の教化の中心にしようと考えていた松陰の志を受け継いで、三人のチンピラを塾に連れてきたのは吉田栄太郎である。松陰の教化が彼らのうえに及んだことはいうまでもない。
ある日、たまたま松陰は富永有隣を相手に士道について論じはじめた。そばには、増野徳民、吉田栄太郎、かつてチンピラであった市之進・溝三郎がいた。話が多門の喫煙のことになると、松陰は憂いのあまり顔をくもらせてしまった。松陰の憂いようがあまりに強かったので、皆もそれに引き込まれて、座は瞬間シーンとなってだれも口をきかない。かなりの時間がたったとき、栄太郎が座の空気を打ち破るようにきっぱりと発言した。
「ぼくはただいまから禁煙する」と。そう言いながら自分のきせるを折った。すると徳民たちもそれにならってきせるを折ってしまったのである。それを見ていた富永有隣まで、「君たちはきせるを折るぐらいの覚悟をもって学ばんとしている。師たるわたくしがどうして折らないでいられよう」と言ってきせるを折った。
これをじっと見ていた松陰は、「たばこはなれると性になってしまう。ぼくとしてはそれを憎んでいる。しかし諸君が一時の感情で一生の退屈をすることを逆に心配する」と言うと、こんどは塾生たちが怒って、「先生はぼくたちのことばを疑われるのか。ぼくたちは多門のためにでなくぼくたち自身のために決心したのです」と言って松陰につめよった。松陰が心から許しを請うたことはいうまでもない。
多門には翌日そのことを伝えた。多門は涙を流して禁煙を誓った。
これが当時の村塾の師弟一体の空気の一端である。文字どおり、弟子は師に学び、師は弟子に学ぶという、真の共学体制があったのである。

志と胆力と行動

村塾の空気は以上のようであったが、今ここでは村塾の教育のありようを、まとめて要約してみたいと思う。
第一は、人間が現代に生きるということは、求道者として、革命家として、精いっぱい生きるということである。それによって歴史は刻々に発展するし、その人の生もあいまって充実する。しかも幕藩体制は、すべての人に、生まれながらにある尊さを抑圧しているような社会である。特に下級武士・農民・町人・工人は人間扱いを受けていない。ぜひともこの社会を変革して、すべての人の自由が解放された社会をつくることが必要である。それに日本はヨーロッパ諸国から侵略の危機にさらされている。その危機から日本を守るためには封建体制でなく、統一国家をつくることしかない。
こうして松陰は、自分が生きるには革命家になる道しかないと思い定めた。
彼が革命家の道を全存在で歩んだことはいうまでもない。しかしその道をはばまれて、彼は牢獄の人となり、行動の自由を奪われた。そうなると、自分の代わりに革命家を育てるしかない。彼は自分の同志、自分の仲間をつくろうとして教育を始めた。その教育は自分のことのように真剣にならざるをえなかった。そこに塾教育成功の第一の秘密がある。
第二は、革命家を教育しようとするとき、「単に革命的言辞を弄し、革命的知識を知っているだけで革命的行動を起こさない人は真の革命家とはいえない。真理や道理を知っている学者といわれる者はたくさんいても、それを実行しようとする者は非常に少ない」という反省のうえに立つ松陰は、革命家を育てるには知識・思想をもつことも大切だが、それ以上に志と胆力が重要であると考えた。「胆力がない者は、いざというとき、その知識もにぶる」と言っているように、彼は胆力の養成、志の育成に最も力を注いでいる。
だから「いつもおしゃべりしている者は、大事な時に唖のようになるものだ。いつも大気焔をあげているものは、いざというときに火の消えたようになるものだ。平時は用事のほかは一言もいわず、一言するときは温和な婦人のように静かに語る。これは気魄をつくるもとである。ことばや行動を慎しみ、低い声で語るぐらいでなければ、いざというときに大気魄は出てこない」と言い、あるとき、高杉晋作が時世を嘆ずるあまり、刀を抜いて柱に切りつけ、悲憤慷慨したのを聞いて、そんなものは本当の悲憤慷慨ではないと戒めている。
また、次のようにも言っている。「静座して外物におおわれない自分の本心を発見するか、行動の中で自分の本心をはっきりつかむようにする。書を読んで意中の人に会い、意中の事をみたら、これについて同志の人と激論するのもよい。また山野を歩いて気力を発動させ、自分の気力を実験してもよい」と。
第三は、松陰は知識・思想を自分のものにし、知識・思想が自分の存在そのものになることを強調している。「行動しないのは知らないのと同じである」と言いきったし、行動しない学者を無知の者よりなお悪いと思ったし、徹底的に軽蔑している。
彼ほど転向しない知識・思想を重んじた者はいない。大きな障害や大きな弾圧を乗り越えてこそ、知識・思想は、初めて自分のものになると考えた。
青年のとき、たまたま抱いた思想とはいえ、障害や弾圧ですぐに絶望したり、年をとると、あれは若気のあやまりであったというなどは、その人の知識・思想とは決していえないというのである。現代人はあまりにも軽々しく知識・思想を口走るが、生命を賭けた者だけが思想を自分のものにしたといえるのではないか。人間の思想とは松陰のように、時々刻々に発展し、死ぬ瞬間まで自己否定を繰り返して得たものではないか。松陰はこのような知識や思想を塾生たちに要求したのである。
第四は、松陰が教育の中心に感情教育をおいたことである。知識教育や思想教育を重視したことはいうまでもないが、行動の方向や内容を決定するのが知識・思想であるとするならば、行動そのものを起こすのは人間の感情である。彼が志や気力・胆力を重視したことは先述したが、それらとともに、意志・決断力・忍耐心・実行力などの感動をことのほか重視し、感情の育成・陶冶に特に心を用いた。
松陰が好んで歴史上の人物の行動を取り上げて、塾生の感動を強化するように努力したのもそのためであるし、かつて高杉晋作の頑質を先輩・知己が矯めようとしたとき、それこそ革命家の条件であるといって、矯めさせなかったことでも明らかであろう。
人は往々にして、人の頑質を欠点として矯めようとするが、松陰は革命家をつくるという立場から、これをみたのである。これはむしろ性格といえるものだが、厳密には感情と重なったところに成り立っているものである。

革命家の条件

第五に、松陰は自分自身を正確に知るためには藩史を学び、それから日本史を学んで、藩史が日本史の中にどのように位置づけられているかを知る必要があると言った。今でいうなら、組合史・地方史を学んで自分を正確に知り、そのうえで、日本と世界の歴史を学んで日本と世界の方向がどうなっているかを知れ、ということになる。
言いかえれば、藩の現実を知り、そこに生きる自分の本当の課題をつかめということであり、それは、書物から学ばずに、現実から学べ、ということでもある。最近の教育界はようやく地方の現実から学ぶということが一般化してきたが、今までは、いたずらに東京から出される抽象的論議に引き回されて、地方の現実から学び、地方の現実をふまえることがなかった。必要なのは、各自が、自分の変革プログラムをもつことである。現実をふまえた変革プログラムをもつことである。
松陰はそれゆえに、武士は武士の立場から、農民は農民の立場から、それぞれなしうるところからなせ、と言った。そればかりでなく、松陰はヨーロッパ諸国が産業国家の道を歩み、その帰結として帝国主義的侵略の道をつき進んでいるのに対して、日本は道義国家・平和国家の道を進み、ヨーロッパ諸国の歩む道を改めさせなくてはならないと思った。だから塾生たちをそういう国家をつくる人間に育てようとしたのである。
第六に、松陰は兵学者の態度をもって塾生たちを教育した。兵学者とは自分のなんたるかを見究め、敵の実力を十分にとらえたのちに初めて行動を起こし、戦えば必ず勝つものであり、そうでないときは敗死するしかない。このように彼は自分を知り、塾生たちの求めているもの、塾生に必要なものを的確につかんだうえで、初めて教育活動を起こし、塾生を変革したのである。そうでないと教育の実はあがらない。言いかえれば、生命がけで教育に取り組んだのであるから、彼の教育の実があがったのも当然である。
第七に、松陰は塾生たちをすべて政治的・経済的・社会的存在とみなし、同時に歴史的・精神的・個性的存在とみた。当時の社会がそれらを満たしていないことはいうまでもない。これらの諸能力を生かすように指導すれば、必ず幕藩体制を否定するようになったはずである。
今日でも人間が政治的存在であることを考えず、政治に無関係な人間がありうると思っている人が多い。しかし存在すればいずれかの立場にたっているのである。概して政治教育とは、ある特定の思想を与えることだと思っている者が多いが、そうではない。日本では本当の意味での政治教育は、松陰以後にはない。
第八に、松陰は三人一組にして、その長所・短所を補いあい、決して転向しない人間を育てようとした。塾生たちのほとんどが転向しないで革命行動を貫けたのも、松陰のこの配慮があったからである。
第九に、松陰は寸暇を惜しんで勉学するように求めた。八歳の少年が正月二日に教えを請うたとき、彼は口をきわめて讃美しているし、品川弥二郎(1843〜1900)が塾を休んだときなどは、彼を叱咤している。今は非常の時で勉学をさぼっていられないはずだというのである。年始の挨拶とか時候の挨拶など無用で、その暇に勉学せよというし、勉学はどんなにしてもしすぎることはないと言うのである。
第十は、『飛耳長目』という冊子をおいて、常に的確に情勢判断するとともに、現実を学ばせ、志を固めるように指導したことである。彼らの知識・思想が観念的・抽象的になることなく、常に具体的・現実的であり、それを実践するようにした。現実に対して的確に行動する人間はこうしてつくられたのである。
最後は、松陰自身、死の教育をやってのけたということである。志の固まらない塾生たちをみて、松陰は無理はないと思った。「弾圧の激しさはわたし自身が招いたもので、わたしが攻撃の手をゆるめれば弾圧もその激しさはなくなろう。革命家とは一度その弾圧をくぐりぬけた者である」と言ったが、そのことばだけでは満足できず、彼自身死んでみせた。「わたしが死ねば、動揺している諸君の志も固まるにちがいない」と言って……。
事実これが契機となって、今まで動揺していた久坂玄瑞や高杉晋作たちの志が固まり、あの明治維新を敢行する原動力となったのである。ひとりの吉田松陰が死ぬことにより、何十人の松陰が生まれたのである。
以上の諸点は松下村塾の教育を要約したものだが、ほとんどが今日の教育に欠けたものばかりである。それゆえに、単に村塾を歴史的に懐古するだけでなく、今日にそのまま生きているといえるのである。

死の教育

吉田松陰はこのような教育をする途中で、幕府権力によって殺された。そのとき彼は死に先だって、門弟たちに次のように書き残した。
「わたしの死を悲しまないでほしい。わたしの死を悼むということはわたしの志を継いで、それを実現させることである。それ以外にわたしの死を悼むということは決してないのだ。諸君の協力した行動だけを切望する」というものであった。これによって、塾生たちの動揺する心を引き締めたのである。
この師の死を聞いた高杉晋作は、周布政之助(1823〜64)あてに、「わが師松陰の首を幕府の役人の手にかけたことは残念でなりません。わたくしたち弟子としてはこの敵を討たないではとうてい心も安まりません。といっても、人の子として主君に仕える者、この身体は自分の身体のようであっても自由になりません。いたしかたもないままに、日夜松陰先生の面影を慕いながら激嘆していましたが、このごろやっと次のような結論に到達しました。すなわち隠忍自重によって、人間の心はますます盛んになるということばの意味をよく理解して、朝には武道、夕には学問して、自分の心身を鍛え抜いて父母の心を安んじ、自分の務めをやりぬくことこそ、わが師松陰先生の敵を討つことになるということであります」と書き、勉学と武道に今まで以上の情熱を注ぎはじめた。
師の松陰があれほど書を読みながらも、それはほとんど日本と中国のものに限られ、経済的知識に比較的暗かったのを思って、高杉は特に西洋の書物、それも経済の本を主として読み、国政を変革する方向と方法を必死になって究明した。そこには久坂玄瑞の助言もおおいに働いている。
その久坂玄瑞は、師の死を聞いたのち、入江九一あてに「先生の悲命を悲しむことは無益です。先生の志をおとさぬことが肝要です」と書き、高杉晋作の最近む努力と成長を合わせて報告し、その自重をうながしている。この手紙を受け取った入江九一は、さっそく久坂に手紙を書いた。
「先生はすでに去ってしまった。望むところはあなただけである。これまで先生に望んだところを今後はあなたに望むだけである」と書き、入江は三つ歳下の久坂玄瑞を師として、おおいに学んでいこうという決意を披歴する。
この手紙を受け取った久坂玄瑞は入江九一に次のように書く。「『洗心洞箚記』(大塩平八郎著、三巻。天保四年成立。随筆の形式をとった儒書)読了しましたか。読み終わったら王陽明(中国明代中期の儒学者。1472〜1528)の『伝習録』を読みたまえ。黙霖(宇都宮黙霖。1824〜97・幕末の尊王僧で、安芸〔広島県〕長浜の人)と松陰先生の往復書簡を反復して熟読すると意気軒昂になります。心をふるいおこして気力を養ううえになかなかいい。お読みになるなら送ります」
入江九一から久坂玄瑞あての手紙。
「黙霖と松陰先生の往復書簡ほんとうにありがとう。一枚の紙片がこれほど人を感奮興起させるものをもっているというのは驚きです。実にひとすじに生きる心の持ち主です」
久坂玄瑞から入江九一あての手紙。
「今年は中国の沿革、各国の事勢に目を注ぎ、来年からは陽明学を学ぶといい。『坤輿図識』(幕末の地理学者箕作省吾が、弘化二年に著した世界地誌)・『蕃史』を送るからだいたいのことをつかんでほしい。魏源(中国清朝後期の思想家。1794〜1856)の『海国図志』『聖武記』も送ります。あなたが来年から『二十一史』を読むという意見には反対です。明・清の大略を知ったら『温公通鑑』を読むべきです。それから『通鑑記事本末』を読むとよい。これで中国の大勢をつかめぬようなら読書は無益です。歴史は自分の識見を長ずるけれども、どんなことがあっても驚かぬようになるために経学(国家・個人の理想を追求する学問)を学ぶ必要があります。『二十一史』を読むには普通でも三〜四年かかります。暇人の勉強にはいいが、あなたのような人間はそんなことをすべきではない。今日役に立たない学者のように、いかにたくさん書物を読んでもだめです」
まことに熱のこもったやりとりである。このほかにも塾生間には、いくつものやりとりがある。そして塾生たちは暇をつくっては塾に集まり、松陰亡きあとも久坂玄瑞を中心に、あるいは高杉晋作を中心にして輪読会を開き、師のことばを味わい直し、各自の志を固めたのである。
松陰は亡くなったが、それを機にして、塾生たちは松陰の指導から、さらに松陰に依存してきた態度から解き放たれて、自分自身にたよるしかないという方向に大きく踏み出したのである。松陰が死んで、何十人かの自立した思想家・革命家が育ったということができる。

維新への原動力

吉田松陰は若くして、権力に抹殺された。しかし松陰の死後、塾生たちは飛躍的に成長する。その一部は前節に書いたが、塾生たちは師の手紙を塾に持ち寄って、それを味わった。そしておそらく、彼らの心深く師の敵を討とうと覚悟したであろう。
文久元年(1861)には塾生たちを中心に、その志を同じくする者が集まって一燈銭申し合わせをつくっている。一燈銭申し合わせとは、「各人の力を尽くして日ごろわずかでも貯金しておけば、非常の時や不意の急に遭ったときに役立つ。ことに時勢が逼迫して有志の者が下獄し飢餓に陥ったのを助けるために、たとえわずかずつでも村塾に持ち寄っておこう。貧者の一燈ゆえに一燈銭と名づけよう」とその趣旨に書いているように、不時不急の場合に備えたのである。
この趣旨も非常に貴重だが、それ以上に重要なのは、この一燈銭申し合わせを中心にして塾生の心が団結し、ともに行動する集団として革命に向かって共同歩調をとりだしたことである。
文久二年になると、塾生たちは真剣に革命の情勢づくりを考えはじめる。イギリスの公使館焼き討ち事件の計画もその一つである。彼らは、そんなことで戦いに勝てないことをすでに師を通じて十分に知悉していたが、革命の情勢づくりには役立つと考えた。この計画は、長州藩世子(毛利元徳)に止められて中止するほかなかったが、そのあと、改めて攘夷血盟の誓いを塾生を中心につくっている。
そこには次のような誓いがたてられていた。
「同志として、いったん連結したうえは、進退出処ことごとく同志と謀り、決して自分一個の考えに従わないこと。
同志の中に意見のちがう者が出たときはどこまでも討論して、決して面従腹背のないようにつとめること。
秘密のことは父母兄弟でも決してもらすことなく、もしつかまったら八裂きになってもしゃべってはならない。
同志の中の一人が恥辱を受けても、それは残りの者の共通した恥辱である。皆で死力を尽くして、その恥辱をそそぐようにしたい。
わたくしたち死生をともにし、その志を遂げようとする者は、たとえどんなことが起ころうともその志を途中で屈してはならない。離合集散する者は人間でない」
彼らの意気込みがいかなるものかわかろう。それを証明するように、塾生のひとり松浦松洞は公式合体を唱え、一時日本の世論をリードした長井雅楽(長州藩士。1819〜63)を革命の敵として刺そうと決心したが、同志に止められて果たさず、ついに自刃している。塾生の中で最初の犠牲者であった。
次いで、吉田栄太郎は師の松陰を離れて自分ひとりでとことん考えていたが、その後他の塾生たちと行動をともにしはじめ、高杉晋作が奇兵隊をつくったとき、彼は部落民を結成しようとする。彼の死で、その志は中途で消えたが…。
久坂玄瑞は坂本竜馬(1835〜67)に「尊藩も弊藩も大義のために滅びるならそれもやむをえない」と言ったように、彼は早くから藩を超えた国中の志士の連合を計画し、ほとんどそれがなるかという矢先に、倒れてしまった。まさに松陰の志を継いだ者といえる。
高杉晋作は革命の拠点となる所をつくらんとして、生涯を戦いぬいた。農民・町人・工人・下級武士を一体とする奇兵隊をつくり、身分制の打破に向かって大きく第一歩を踏み出すとともに、その奇兵隊を拠り所として長州藩のクーデターを敢行した。死中に活を求めたこのクーデターがあったればこそ、のちに薩長同盟もできたし、明治維新もできた。松陰が「十年後生きていて、事をなそうとするときは必ず高杉晋作と謀る」と言ったとおりの人間になったのである。
入江九一が松陰の死後、いかに深く学んだかはすでに述べたとおりである。松陰は生前彼に大学をつくるように依頼したが、その志を継いで塾生たちの中心となって活躍し、のちに禁門の変(蛤御門の変)で久坂玄瑞とともに倒れている。
入江九一の弟野村靖が晋作の片腕として、あのクーデターを成功させたひとりであることを知る者は意外に少ない。品川弥二郎も、クーデターを成功させるうえに重要であった小郡地区の豪農を一本にまとめて味方に引き入れた。塾生ひとりひとりの行動を数えあげたらきりがない。要するに、彼らはその時代人として、その生の限りを生きぬいたのである。それがそのまま松下村塾の教育の結果である。その灯は今いっそう光輝を放っているし、今こそいっそう必要となっている。
歴史は過去を単に知り、懐古するためにあるのではなく、現代に生きるわたくしたちがいかに生きるべきかを知るためにこそある。萩の松下村塾はそれをわたくしたちに語りかけている。

<雑誌掲載文4 目次>

「私の教育闘争」

今世界中は一つの転換点にさしかかっています。このままでゆけば人類は滅亡するしかありません。今日の邪悪な資本主義を克服しようとしている共産主義はそれなりにある意味をもっています。しかし、それによっても戦争と公害はたとえ少なくなっても絶滅することはできません。私は戦争直後、大学闘争をおこして、新しい時代をおこそうとしました。しかし、学生も教授も誰一人として、私を狂人視するだけです。もし、あの時大学闘争がおこっていれば、戦後の民主主義は虚妄であったとかという質問もなかったし、あのように無残に大学闘争が敗れることもなかったと思います。それ以後、私は大学を拒否し、塾教育によって日本の学校教育を根柢から正す以外にないと思いました。
その塾とは今のように学校教育に依存しているものでもないし、塾そのものによって、学校教育を正すものであります。いってみれば、吉田松陰の松下村塾が当時の藩校や寺子屋の教育を正したものに似ています。今日ではあまりに塾教育がその理想を失い、乱れています。戦争中、吉田松陰はあまりに利用され、曲解されてきました。そのために、四十代以上の人達は一種のアレルギーをもっています。私がまずその是正のために幾多の松陰論を書いたのもそのためです。此の頃、やっと松陰をみなおす動きがでてきたのは本当にうれしいことです。かつて私は松下村塾を見ならった教育をやり、時の権力によってつぶされたことがあります。そのことの経緯は「人間変革の思想」にくわしい。だが、当時のそれは松下村塾の亜流でしかなかったのです。二十余才の私にはそれ以上のことは思いもよらなかったことでした。今日には今日にふさわしい塾教育が考えられてよいと思います。とくに教育は人間そのもののものである以上、被教育者が教育の費用を負担することなく、ただでなければならない。その時こそ、被教育者はその教育を社会に還元し、自分一人の出世にとりくむことをなくすでありましょう。だから、まず、「教育環境をよくする会」をつくり、そのための教育環境をととのえることにとりくみます。そのために、さしあたって、一口千円以上、五万円以下を寄付する人々をふやしていく運動をしたいのであります。五万円以下としたのも、一部の人々によってそのような教育が独占されないためであります。此の運動は永遠につづけられます。つづけなければなりません。
他方、塾は全国に最低十位つくる予定であり、それによって、今の学校教育を正していくのです。勿論塾は塾生と塾長が起居をともにします。諸生活を塾生で担当します。それは塾の目標にも明らかなように塾生の創意と行動を尊ぶからです。それによって、創意と行動を尊ぶ精神が育成されると考えるからです。それに、塾には志をもつ青年のみを選んでいれます。今日あまりにも志のない青年、頭だけの青年が多いからです。学校当局も志の有無を問題にしていません。次に塾の教育目標を書いておきましょう。既に、この計画に賛成してくれる若い人達からどんどんお金がよせられています。新聞にものったために、わずかですが反応もでています。
一、従来は世界ともに、自国の富強のみをうちだしてきましたが、今や敢然と此の政策をふりすて、道義、教育、平和、調和の社会の実現に取り組む人間を養う。
一、学問の姿勢は独学にあることを体認し、自分を生かすことがそのまま世界を生かすことを知って、独り学び、考え、創造する姿勢を生涯持ちつづける人間を養う。
一、感性を悟性同様に重んじ、理論と実践の統一をはかるとともに、つねに現実を変革しうる理論を創造しようとする人間を養う。
一、美的教育をすべての教育の中心におき、美意識に反する行動には自分の全存在で抵抗する人間を養う。
一、人生論智は各科学の総合統一した結論であり、それこそ学問の出発点であり、終点であることを体認し、今日のような知識は人間を全的に生かしえないことを知った人間を養う。

<雑誌掲載文4 目次>

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