Make your own free website on Tripod.com
雑誌掲載文(3)−1

<目次>

三代宰相論 田中義一 (人物往来)1964年12月号
日本の財界人<1>近藤荒樹氏 (栄)1964年4月号
<2>松下幸之助氏 (栄)1964年5月号
<3>市村清氏 (栄)1964年6月号
<4>小川栄一氏 (栄)1964年7月号
<5>川鍋秋蔵氏 (栄)1964年8月号
<6>本田宗一郎氏 (栄)1964年9月号
<7>木川田一隆氏 (栄)1964年10月号
<8>犬丸徹三氏 (栄)1964年11月号
<9>河合良成氏 (栄)1964年12月号
<10>小佐野賢治氏 (栄)1965年1月号
<11>小田原大造 (栄)1965年2月号
<12>黒沢酉蔵氏 (栄)1965年3月号
<13>松田恒次氏 (栄)1965年4月号
<14>武藤絲治氏 (栄)1965年5月号
<15>石原広一郎氏 (栄)1965年6月号
<16>上原正吉氏 (栄)1965年7月号
現代虚人列伝 松下幸之助 (現代の眼)1965年3月号
東竜太郎 (現代の眼)1965年7月号
内藤誉三郎(現代の眼)1965年10月号
五大出世男の共通点 (社会人)1966年6月号

<目 次>

「三代宰相論(5) 田中義一」

堂々たる演説

陸軍大将田中義一は、大正十四年五月十四日、政友会総裁に推され、その時、次のような就任の挨拶をした。
「我が国の現状を考察しますると、政治も教育も経済も軍備も総ての方面に於いて充実を欠いて居ります。此処に国民の不安が生じ、種々の憂慮すべき現象が生ずるのであります。即ち、欧州大戦は世界の国際関係を変動し、吾々は一等国の虚名を握ったまま、旧式政治の舞台に取り残されたと言うも過言ではあるまいと思います。今や欧州諸国は戦勝国たると敗戦国たるを問わず、斉しく戦争の惨禍を痛感して、政治経済の改造復興に絶大の努力を費して居ります。私は敢て、列国の前途を占って、改造復興の遅速を予想せんとするものではないが、侵略的軍国主義の悪夢から醒めた彼等が改造復興の絶対的必要に出立して、烈しい産業競争の経済戦を起すに従って、我が国の産業危機、経済危機が誘発さるることを憂慮せざるを得ませぬ。それでなくとも、吾々は今甚だ憂慮すべき環境に直面し、如何にして、之を匡救すべきかは、総て実際政治に当る吾々の手によって解決せざるを得ない。
茲に於いて、私は産業立国を以て、吾が立憲政友会の主要なる政綱の一つに数えたいと思う。(略)
国防は国家の絶対要件にして、大権を尊重し、組織の堅実を期すべきは勿論である。然し、国防は外敵を防禦する専門的事業ではなく、国民が国家の安泰を保障し、併せて、国民自身の生活を安定し、国際平和を支持する為、国民共同の事業である。この理解によって名実共に国民の国防たらしむる努力が、即ち軍備問題の正しき解決をもたらすことを確信致します。(略)
今や普選実行の時代となり、議会政治の基礎も亦著しく拡張されたのであります。この機会を善用して吾々は、万機公論に決し、上下心を一にして、盛んに経綸を行う維新の宏謨を翼賛し、由て以て、更始一新の明るい政局を打開せんと欲するものであります。」
まことに、堂々として、立派な意見であった。これは、政友会前総裁高橋是清が、政友会幹部の要求した四十万円の手形に裏書を書くことをこばんだため、党幹部は高橋を見捨て、田中が三百万円の持参金で総裁の椅子を買ったといううわさには似つかわしくない演説であった。総裁就任に当たって、田中は本当にそう思っていたのかもしれない。
だが、三百万円の持参金で総裁の椅子を買ったといううわさを裏づけるかのように、大正十五年三月四日、元陸軍大臣官房付二等主計三瓶俊治が、大正九年当時の陸相田中義一、次官山梨半造の両将軍を背任横領で告発した。

うやむやに終った田中の告発

その時、憲政会の中野正剛が、議会で、田中政友会総裁の陛相時代の機密費事件と金塊事件をとりあげた。金塊事件というのは、シベリア出兵当時、分捕った砂金のその後の処置にからむ問題である。しかし、陸軍大臣宇垣一成はそれを議会で否定するとともに、陸軍の面目威信にかかわるものとして、憲政会内閣でも反撃に出たため、中野も腰くだけにならざるを得なかった。
だが、三月八日になると、陸軍予備飛行中尉の川上親孝が、更に、田中、山梨に加えて、当時、軍務局長だった菅野尚一、高級副官の松木直亮の四人を告発した。問題は大きくなるかに見えたが、その年の十月三日になって、事件担当の石田検事が、田んぼの中で、変死体となって発見されるにおよんで、事件はうやむやのうちに葬られたのである。
石田検事の死体は他殺と目されるに十分であったが、これまた、過失死として葬り去られた。勿論、機密費は陸軍大臣、陸軍次官の裁量にまかされていることであり、このやりとりも政党間の泥試合の観がしないでもなかったが、総裁田中義一の周辺には、なんとなくおかしな空気が漂うのである。

私の統制に服従されたい

総裁田中に対する疑惑を一挙にはねかえして、田中を首相の位置につけようとする計画が、政友会ではすすめられていた。
おりもおり、翌年の昭和二年三月、金融恐慌が日本を襲った。
若槻内閣は休業一歩手前まで、追いつめられた台湾銀行を救おうとして、二億円の救済緊急勅令案をだしたが、みごとに、枢密院で否定され、内閣をなげださなければならなかったのである。これは、政友会の鈴木喜三郎らが、枢密院の伊東己代治を動かして、うった芝居である。その証拠には、憲政の常道に従って、若槻内閣に変わって、四月二十日、登場した田中内閣は、モラトリアムを実施するとともに、若槻内閣をはるかに上まわる五債円もの特別融資をして、この危機を救っているし、それをやらせた枢密院での伊東己代治の演説が、なによりも、それを示している。
即ち、伊東己代治は、
「若槻内閣の緊急勅令案は臨時議会を招集せずして、財政上の緊急処分をせんと企てしのみならず、当時の財界は未だ憲法第八条の要求する公共の災厄を避くる為、緊急の必要という要件を備えていなかった為に、枢密院は違憲として否決したのであるが、今日の財界は波瀾其の極に達せんとし、緊急に何等かの施設を要する。此の時に当り、新内閣は支払猶予令を公布して、緊急処分をなし、一面、臨時議会招集の手続きを執らんとするのであるから、若槻内閣の緊急勅令案とは、其の性質、事情に於いて、著しい相違がある。故に今回の緊急勅令案は憲法第八条の要求する公共の安定を保持し、又は共の災厄を避くるため、緊急必要という要件を十分備えている。本案は可決すべきである」
と、苦しい賛成演説をしている。
これによって、どうにか、財界はおちついた。これに先だって、四月十九日、組閣を前にして、田中が、
「私の統制に十分に服従して下さって、全党一致の御後援を願いたいと思う。私をして、後顧の憂なく、安んじて、国家の為に十分な御奉公をせしめらるる事が、やがて諸君が国家に対する御奉公であり、政友会が政党として、国家に尽す道であると信じます」と述べたところは、総裁就任にあたってのべたところとは大いに違っていた。服従を説く当り、軍人田中をまるだしにしていた。結局、田中は軍人以上の何者でもなかったのか。

軍人田中の歩んだ道

田中義一は文久三年六月二十二日、山口県萩市菊屋横町に、父信佑、母みよの三男として生まれた。
父は藩主毛利公の駕篭かきをつとめる軽輩であったが、武術にはなかなか秀でており、藩公御自慢の家来の一人だった。明治維新になってから、多くの士族が辿ったように、雨傘の製造販売をした。
義一は八才の時、桂太郎も学んだことがあるという岡田謙道の育英塾に学んだ。人一倍腕白であった彼は、余りの悪戯のために、師の岡田を怒らして、塾から逐いだされたこともあったという。
十二才の時、役場の給仕となったが、十三才の時には、政府のやり方に反対して蜂起した前原一誠の乱に参加した。反乱は一敗地にまみれ、前原以下主だった人達は断罪にされたが、義一は少年の故に、その処罪からまぬがれた。それから、小学校の教員。ついで、長崎で、英語と支那語の勉強をした。
明治十六年、二十一才の時、上京して、陸士に入学。明治二十二年には、陸大に入学して、田中の軍人としての道がはじまった。
明治二十六年には第一師団の副官となり、翌二十七年、日清戦争に参加して大いに活躍。明治三十一年から、四年間、ロシアに留学して、ロシア陸軍について研究する。その結果は、ロシアと開戦した日本陸軍にあって、大いに武功をたてる。
明治四十二年一月、陸軍省軍務課長に抜擢され、軍隊教育の改革にのりだす。なぐる教育の一掃に乗りだす。同時に、軍隊と国民は一体でなくてはならないという立場から、帝国在郷軍人会をつくる。国民の模範としての在郷軍人をつくろうというわけである。第二旅団長のとき、軍閥打倒を叫ぶ大隈重信から、軍閥と軍隊は違うという言質をとり、麻布三連隊に大隈を迎え、彼の軍隊に対する認識をあらためさせるようなこともやってのける。
明治四十四年、軍務局長となった田中は、朝鮮警備のため、二コ師団増設が必要という案を以て闘い、ついに、軍隊増設に反対する西園寺内閣を倒すのである。二コ師団増設案は、大隈内閣になって成立する。軍隊に入る前の青年の教育という立場から、青年団の結成にのり出すのもこの頃である。
大正七年には、全陸軍の期待をになって、原敬内閣の陸相になる。しかも、原とは、三浦梧楼を通じて、既にかたく結ばれていたから、事実上の副総理であった。
陸相在任中の大正九年十月には、男爵となり、十年六月には大将に昇進。原首相が東京駅頭で兇刃に仆れる前に、陸相の位置を病気のためにやめていたが、大正十二年九月には、再び山本権兵衛内閣の陸相となるのである。しかし、これは、難波大助の皇太子狙撃事件がおこり、内閣が倒れたので、同時に陸相の地位を去る。
長州閥のバックというか、山県有朋、桂太郎、寺内正毅などの応援はあったにしろ、このように、軍人として歩んだ田中の人生は、まことにあざやかであった。軍人として、有能すぎる程の軍人であった。そのポストを十分以上にこなして、充実しきっていた。
おそらく、政友会の総裁になった時に演説したものは、彼の本音であったろう。だが、それは、軍人田中が軍隊という組織の中で考えたことであった。その組織からはみだし、政界という汚濁に満ちた世界に一人で棹さした時には、彼にはそれだけの信念も識見もなかった。そのため首相になった時の挨拶は、軍人田中のわるい面だけがあらわれたのである。
そして、普通選挙から、治安維持法改正とゆがみにゆがむのである。

弾圧につぐ弾圧の政治

「旧式政治の舞台に取り残されている」といい、「いまこそ、普選実行の時代である」といった田中総裁のかつての言葉はどこへいったのかと思われるように、いざ、待望の普選が行なわれた昭和三年二月の選挙には干渉と弾圧が荒れ狂ったのである。
ことに、内務大臣鈴木喜三郎の選挙干渉は強引であった。彼は検事あがりの政治家で、無産政党への干渉はひどかった。
長谷川如是閑が、
「これで、大山郁夫君が当選すれば、黙って突立っている琴平神社の石燈篭でも当選するだろう」といって、歎いたのはこの時である。「政府の選挙干渉の手は、相当露骨に無産政党をはじめ、在野党の言論文書に加わり、あるいは三百万円といい、機密費と言えば、演説を中止し、これに関するパンフレットを差し押え、その他ポスター、ビラにたいしても、安寧秩序の維持を名とし、治安警察法と出版法と選挙法とをもって、言論圧迫を加え、民心を激発せしむるものがあった。」(朝日新聞社編「普通総選挙大観」1928年)
選挙投票の前日には、鈴木内相は議会否認の演説までする始末であった。
「わが憲法上、内閣の組織は、かしこくも、大権発動に職由し、政党員数の多寡をもって、ただちに、内閣が生まれるというがごとき、他外国の例と対比するを許されない。民政党はその政綱において、議会中心主義を徹底せしめんことを要望すと高唱しているが、これは極めて穏やかならざる思想であり、神聖なるわが帝国憲法の大精神を蹂躙するものといわねばならぬ。(略)
議会中心主義などという思想は、民主主義の激流に棹した英米流のものであって、我が国体とは相容れないものである」と。
二月二十日の開票の結果は、政友会218、民政216、中立17、革新3、実業同志会4、社会民衆党4、労農党2、日本労農党1、地方無産党1であった。
選挙後の議会で、鈴木喜三郎はついに辞職においこまれる。だが、これより先、三月十五日には、共産党関係者一千余名が検挙されるのである。この検挙は一道三府二十七県にわたる大規模なものであった。
ついで、四月二十七日には、田中内閣は治安維持法改正法律案を議会に提出した。これは、第一条の「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として、結社を組織し、又は情を知りてこれに加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す」とある点を改正して、
「国体を変革することを目的として、結社を組織したる者、または結社の役員その他の指導者たる任務を担当したる者は死刑又は無期若は五年以上の懲役、若は禁錮に処し、情を知りて結社に加入したる者または結社の目的遂行のためにする行為を為したる者は二年以上の有期の懲役または禁錮に処す。
私有財産制度を否認することを目的として、結社を組識したる者又は、情を知りて結社に加入したる者若は結社の目的遂行の為にする行為をなしたる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す。
前二項の未遂罪はこれを罰す」。
となしたものである。この改正案は翌二十八日、本会議に上程せられたが、直に委員会附託となり、結局、委員会も開かず握りつぶしとなった。
そこで、こんどは緊急勅令で政府案どおりに改正し、つづいて、特高警察網を全国的に整備した。
こうしておいて翌昭和四年四月十六日には、またも、共産党の大検挙がおこなわれ、この時の検挙数は六百余名にのぼった。
まさに、田中内閣は弾圧の内閣と化したのである。新しい政治はすっかりどこかへ消え去ってしまった。

関東軍の謀略に泣く

これと平行して進んだのが、外交における侵略的な立場である。かつては、侵略的軍国主義の立場を笑った田中であったのだが……。田中は組閣すると同時に外相を兼任した。
組閣直後、田中は、
「もし、それ支那における共産党の活動に至りましては、その結果如何によっては直接もっとも影響を受くるおそれのある我が国の立場として、又東亜全局保持について重大なる責任を感じている日本として、全然これに対して無関心である訳にはまいらぬ」と、アジア政策についての所信をのべたのであるが、五月二十八日には、「居留民保護」という名目の下に、中国の内戦に対して、山東省に出兵した。六月には、東方会議を開いて、
「万一動乱満蒙に波及し、治安乱れて同地方に於ける我が特殊の地位権益に対する侵害起るのおそれあるに於いては、その何れの方面より来るを問わず、之を防護する」という対華政策を声明した。
幸いに国民政府軍が北伐を中止したため、日華の衝突はなく、九月には、日本軍は山東から撤退した。
翌昭和三年四月には、再び、国民革命軍は北伐を再開した。田中は再び山東省に出兵。
そして、五月三日、済南を舞台にして、日華両軍が衝突。そのため、中国には、猛烈な排日運動がおこるのである。
他方、田中内閣は国民政府軍の山海関以北への進撃は絶対に阻止することとし、張作霖の軍隊といえども、国民政府軍と戦って退却するときは、武装解除するという方針をきめるとともに、中国本土を国民政府に、満州を張作霖にそれぞれ統治させ、これと提携する方針で、張作霖を北京から奉天にひきあげるように説得した。
だが、六月四日早朝、北京をひきあげてきた張作霖の列車は、奉天直前の京奉満鉄両線の交叉点で関東軍高級参謀の河本大作によって、爆破された。これは、田中内閣の立場とは、全く相異なるものであり、関東軍の一部の陰謀であった。
陸軍省は六月十二日になって、一応、便衣隊員のしわざとして発表したものの、その後始末をめぐって、田中内閣は大ゆれにゆれたのである。
「白川陸相は日本軍人がやったことだという事実をなかなか信じようとしなかったが、自分でひそかに奉天へ人をやって関係者に尋問させ、その報告で、はじめてまちがいないことを確信したので、田中首相に報告した。それは事件後五ヵ月を経た十月の陸軍大演習のときだ。田中首相は、そこで事件の犯行者を軍法会議に附し、軍紀を粛正しようと決心したんだ。それには、西園寺さんの考えがたぶんに作用している。
そのころ、西南寺さんは、たいへんに心配して、田中首相を呼び、
『この事件の真相をいくら日本人だけに隠したところで、舞台は満州であり、満人はもちろん、欧米人にまでこれを秘密にすることは不可能だ。いまのうちに責任者を厳罰に処してしまえば、張の息子の学良も親の敵を日本が討ってくれたと納得するだろうし、世界も日本の公正を認めることとなる。うやむやにすれば、必ず将来に禍根を残すことは明らかだ。どんな反対があっても、必ず決行するように』といわれたそうだ。
田中はその意を体し、これほどの事件を陛下に奏上しないのはいけないと思い、参内して、陛下に事件の犯行者は日本人らしいこと、犯人は軍法会議に付する方針である旨を申しあげた。
『軍紀は特に厳粛にするように』との御言葉があり、田中首相は誓って仰せのとおりいたしますとお答へした。」(田中内閣の海相岡田啓介の回顧録より)
しかし、「当時、この事件に関しては、政友会の幹部のほとんど全部は、もしこれが事実日本の軍人の所為であったとしたら、闇から闇に葬ってしまえという意見で、閣僚の有力者達も田中総理に、
『処罰するが如きことは断じてならぬ。日本の軍人がしたということが処罰したために明らかになれば、それは所謂陛下の軍人がかくの如きことをしたということになるので、そういう事が外国に知れたら、陛下のお顔に泥を塗るようなもので、何の面目あって、外国の大公使なんかにお会いになれよう。一体、西園寺公の言うようなことは間違っている』
と言って、この犯罪を闇から闇に葬ろうとする運動がさかんであって、田中総理も思いきって処断することを非常に躊躇していた」(原敬日記)とあって、田中首相は天皇と与党の間の板ばさみになる。信念のない田中のゆれ動くさまが手にとるようである。

天皇の勘気にふれる

「田中ははじめの志と違って途方にくれ、白川陸相のいう行政処分に同意しなければならなくなった。その案というのは、事件現場が日本の守備隊の守備区域であったのに、その晩は一人の守備兵もいなかったことを取りあげ、守備区域放棄の責任を問い村岡司令官、河本大佐等を行政処分することで解決し、あとはうやむやにしようというものだった。
田中はさきに陛下に、取調べの上、厳重に処分しますと申しあげたてまえ、その後のことを御報告しなければならないので、参内し拝謁を願った。陛下は、田中が読み上げる上奏文をお聞きになっているうちに、みるみるお顔の色を変えられ、読み終るやいなや、
『この前の言葉と矛盾するではないか』
とおっしゃった。田中は恐れいって、
『そのことについては、いろいろ御説明申しあげます』と申しあげると、御立腹の陛下は
『説明は聞く必要がない』
と奥へおはいりになったそうだ」(岡田啓介回顧録)
ついに、田中は、出身の陸軍からも、ソッポをむかれ、はては、天皇の機嫌までそこねるのである。昭和四年六月二十七日のことである。
ここまで追いこまれては、田中としても内閣をなげださないではいられない。七月二日、とうとう、総辞職する。
そして、三ヵ月後の九月二十九日の暁、麹町の別宅で、持病の狭心症で急逝した。自決だといううわさがとんだほどである。
もし、軍人田中が軍人として終わっていたなら、立派すぎる一生であったであろうが、疑惑につつまれた政友会総裁、そして信念のないままに、押し流されるままに押し流され、果ては天皇の勘気までうけてしまったのである。しかも、日本がアジアへの侵略を始める一番最初の時点にたつという、ぬぐいきれない汚点にその身をさらさなければならなかったのである。その身が汚点にさらされるのはよいとして、民族がその汚点にさらされることは許されない。その意味では、田中義一の罪は永遠にきえることがないのではあるまいか。

<雑誌掲載文3 目次>

「私の会った財界人<1> 恐ろしい人 近藤荒樹」

近藤荒樹といえば、今は誰知らぬものもないほどに有名になったが、この金融王の名前も数年前は殆んど一般には知られていなかった。彼の名がクローズ・アップされたのは、その息子が池田勇人の娘と結婚したのがきっかけであった。当時の池田は池田師団の総師として、次期首相候補と目されていたし、総裁公選には数億の金がいるとささやかれはじめていた時だけに、池田と近藤の縁結びはマス・コミの好材料になり、いろいろ推察しまちがいの記事が書かれたのである。
少なくとも、その時の近藤を紹介する記事は好意的なものではなかった。故意に金を軽視してみせる傾向をもつジャーナリストに、金貸業の近藤が好意的にうけいれられるわけもなかった。彼の名は、多くの人達に記憶の中にとどめられたまま、まもなく、マス・コミの世界から消えていった。彼の名は、新聞社で発行するどの年鑑にも名前がのらないままに今日におよんでいる。
高利貸近藤でかたづけられた以上、「金色夜叉」以来、庶民の中に育ってきた高利貸のイメージが、そのまま近藤のイメージと重ねあわされたのもむりはない。かつて、高利貸の世話になった者は、近藤とは無関係でありながら、彼を畏怖し、憎悪する言葉を吐いた。たまたま、雑談の中で、近藤の名を口にした私の友人達も例外なく、その名を口にするのさえいやらしいといわんばかりに、はきすてるようにいった。
そんなとき、きまって私は彼を弁護する側にたっていた。私とはなんの利害もない、むしろ思想的には鋭く対立している彼であったが、私には時々初対面の人に変に感動し、その人にのめりこむクセがあり、彼もその一人で、その意味で懐しい人間の一人であったので、いつのまにか、彼を弁護しているのであった。
同じ一橋大学出身で、風変わりなのは、ドアーマンや皿洗いをやりながら、各国のホテル業の勉強をした帝国ホテル社長の犬丸徹三だが、犬丸氏の方が、帝国ホテルの主導権をめぐる争い以来、何かと、マス・コミの話題になるのと違って、近藤老人の方は静そのものというところがある。
地味で、自分を積極的に売りだすことを少しも考えていない。総理を利用して何かをやろうなどというケチな根性を全くもちあわせていない人であるだけに、マスコミの話題になりようがない。
毎週日曜日はテニス、夜の会合は一切おことわり、たとえ総理の招待でもその方針を変えないという徹底した生活。ことに金銭問題で、池田総理の周辺に妙なウワサのおこらぬように細心の注意を払っているからなおさらである。
私との初対面の夜、彼は老人とも思えぬ元気さで、私を相手に何時間もしゃべった。驚いたことには、その日も、いつものように、若い人達にまじって、一日中テニスをやったあとであった。その元気の秘密を尋ねると、近藤老人は、
「朝風呂は決してかかさない。会社へのゆきかえりには、雨の日も風の日も必ず途中で下車して一定距離を歩くし、お茶や間食は、朝夕の食事以外の時は決してやりません」と応えてくれた。日曜日のテニスを欠かしたことがないのはいうまでもない。
「夜の待合ほど、精神的にも肉体的にも消耗のはげしいものはない」というにいたっては全くスカッとしている。勿論、若き日から一度もいかなかったというのではない。体力の衰えを意識しはじめると、ピタッとやめたのである。やめたとなるとどんなことがあっても、その姿勢を崩さぬあたり、最も老人らしいところといえそうである。それでいて、老人の頑固さと違っている。
その徹底ぶりは、社員待遇にもよくでている。数字であきらかにしたわけではないからあやしいといわれればそれまでだが、彼は、「日本一の賃金ペースである」と確信をもって断言する。「自己資本だけでやっているウチは他人の金を廻している銀行とは比較にならぬほどもうかる」というのである。もっともである。どんな好況の会社でも、利子のついた金を使っていないところはない。まして「税金にもっていかれるよりも、どこの銀行員よりも優秀な社員にわたした方が合理的である」と考えている彼である。
かつて、ボーナスをだしすぎる、と税務署から文句をいわれたことがあったという。何ヵ月分か知らないが豪勢なことはまちがいがない。だが、この老人は、なんとなく寂しそうにみえた。どうも、今日の税制にしばられて、明治の岩崎のように無限に大きくなれないためらしい。自らの欲望を制御している老人ということになる。恐しい人である。

<雑誌掲載文3 目次>

中小企業ほど強いものはない…松下幸之助氏」

「とにかく考えてみること、工夫してみること、そしてやってみること。失敗すればやりなおせばいい。やりなおして駄目なら、もう一度工夫し、もう一度やりなおせばいい。
同じことを同じままに、いくらくりかえしても、そこには何の進歩もない。先例におとなしく従うのもいいが、先例を破る新しい方法を工夫することの方が大切である。やってみれば、そこに新しい工夫の道もつく。失敗することを恐れるよりも、生活に工夫のないことを恐れた方がいい」
この言葉は、「工夫する生活」と題して、松下氏が書いた文章の一節である。今日の松下王国も、彼がこの人生哲学を強力に、しかも大胆に実践し通してきた結果が生みだしたもの、松下氏を一言で批評するならば、最も深く考える人、最も効果的に考える人ということになるかもしれない。
彼が、ある社員のために特別に時間を割いて話してやったことに対して、授業料を請求したという話やオランダのフィリップス社と合併会社をつくったとき、フィリップス社の特許料に対して、経営指導料を要求したという話など、彼がいかに深く考え、同じところには一日もとどまっていないという確信をよくあらわしている。松下氏は自ら深く考えたがそれを社員に対しても求めたし、それは誰にもできるという確信でもあった。それが、社員への信頼になってあらわれた。
この信頼は、松下氏が病弱のために、陣頭指揮ができず、初めはしかたなく、まかしてやらせた結果がうまくいったことで、一層強化されることになったが、それは彼の事業哲学に次のようなプラスをもたらせることにもなったのである。
「自分の代理に仕事をやらせる。番頭を使えば十人でも百人でも使えるし、非常に多くの仕事ができる。自分が先頭に立つとなったら一人だ。一人のできる仕事なんてたかが知れている」
松下氏のこういう考え方は「中小企業ほど強いものはない」といういい方にもよくあらわれている。即ち「中小企業の方々は、世間からおびやかされています。第一、新聞や雑誌からも、評論家からもおびやかされています。それは、中小企業は弱いといわれていることです。しかし、私の考えは正反対です。私は中小企業ほど強いものはないと思っています。なぜかといいますと、ある程度適性をもった経営者であれば、人を十分に生かすことができると思うのです。今日の大企業はだんだんと官僚的になってきて、百の力のある人を七十にしか使っていない。これは事実です。二、三十人から二、三百人という中小企業であれば、その主人公の一挙手一投足によって全部の人が動く。七十の力が百五十になって働くのです。だから、私は、中小企業が一番強い、ということを知っています。いちばん、よかったのは二、三百人のときでした。楽しいし、希望に満ちているし、従業員もいうことをよく聞いて、よく働いてくれます。大企業にも決して負けなかった。
そのためには、大企業ではできない何かをつかんで徹底的にやることです」(昭和三十七年十月の講演)
昭和四年の大不況にまきこまれたときがたまたま、松下電器の従業員450名という中小企業の段階にあった。
その不況をのりきるには、従業員を半減するしかない、というのが、大方の判断と見透しであった。
だが松下氏のとった解決策は違っていた。彼は病床から「生産は半減する。しかし、従員業は一人も解雇しない。その方法として、工場は半日勤務として生産を半分にする。しかし、月給は全額支給する。その代り、本社員は休日を廃して、全力をあげてストック品の販売に努力する。そうして、経済界の推移をみよう。将来ますます、発展を期さなければならない松下電器にとって、半日分の工賃の損失ぐらい問題ではない」という命令をだして、従業員と一緒になってこの危機をのりこえている。
松下氏とはそういう男である。だが、大企業主となった彼は、戦後一万五千人の従業員を三千五百人に整理する立場に追いこまれている。
そこから、彼の中に生まれたのが、繁栄を通して、平和と幸福をもたらそうという運動である。
しかし、この「生産を高め、分配を豊かにして、すべての人の消費に不自由なからしめよう。貧困は罪悪である。われわれは、経済のしくみを向上させ、生産と消費を逐次たかめていこう」という彼の願いを、本当に生かしていくのは、これからであるといえそうである。

<雑誌掲載文3 目次>

考える人 市村清氏」

三愛の市村清と云えば知らなくても、リコーの市村清と云えば思い出す人があり、市村学校の市村清として記憶している人もあろう。市村清の全貌を知らない人は多いが、たいていの人が、何らかの形で市村清の名をおぼえており、あるいはその製品名や社名とかかわりあっている。むしろ、記憶させられ、かかわりあわされているといった方がよいかもしれない。
そこには、心憎いまでに緻密に計算された鋭さがある。そして、この鋭さこそ、市村が長い人生を、その全身で貪欲なまでに生きぬいてきた過程で、自然に身についたものであったといえよう。学歴や門閥をもたない彼が資本主義社会という、非情なまでに弱肉強食の論理が支配する環境の中で、自らの力だけで、貧しさと訣別するために武器とし得たものは、彼自身の頭脳であり、その頭脳から生み出されるアイディアだけだった。彼が彼として生きていくためには、考えなければならなかった。考えなければ、その生活を維持できないばかりか、悪くなるほかはなかった。考えることは、生きていくための至上命令であった。彼は考えに考え、その考えを煮つめていった。
その煮つめた考えが、彼を東京へ、さらに北京へと追いやることになる。北京では、新しく設立された銀行に勤め、のちに上海へ転勤するのだが、この上海時代も最後になって、とんでもない事件にぶつかることになった。彼の勤めていた銀行は、昭和二年の金融恐慌のあおりを食って、あっさりと潰れてしまった。その直後、彼は横領罪の疑いをかけられて、逮捕されたのである。身に覚えのないことだった。市村は、何を調べられても、いっさい云わないことに決めこんだ。
こうして彼は、百三十五日間にわたる監房生活を送るはめに追いこまれたのである。真夏をはさんで四ヵ月半の監房生活に耐え抜けたのは、彼が、考えるということを通して、その心身に複雑な変化を与えることができたためだといえよう。それがまた、彼を何時いかなる場合にも、考えぬくことのできる人間に育てあげた。釈放され、裁判を受けて帰国した後、熊本での保険外交に成功し、将来への道がひらけたのも、この基礎あればこそであろう。
だが、本当の意味での、今日の市村清という経営者は、熊本時代のセールスマン生活から生まれたと云ってよい。彼はその激しいファイトを燃やしてぶつかったにもかかわらず、はじめの二ヵ月間というものは、一つの契約もとれなかった。今でこそ、セールスマンは、企業の第一線としての評価を受け、花形的存在でさえあるが、昭和初年の頃セールスマンといえば、最低の職業とみなされていた。人間的にも、能力的にも、信頼されることからほど遠いものだった。一度は兜を脱ぎそうになった市村が、その苦衷の中で考えたことは、まずこの職業を愛するということだった。次に考えたのは、セールスマンを軽視するばかりか、軽視する人達を愛することだった。人を愛することの難かしさを感じながら、いかに愛するかを考えつづけたのである。
市村を支える三愛主義の、人を愛し、職業を愛するという考え方は、実にそこから生まれたものである。と同時に彼は、人々と共に歩み、人々とかかわりあって生きることの強固さと発展性をつかんだのである。
現後、多くの経営者が、いたずらに右往左往している時、市村はいち早く、今後の日本で繁栄する道はサービス業であるという結論をだして、伝統のある老舗の立ち並ぶ銀座に、強引に割り込んで店を出す。店の名は“三愛”。長い戦争で、愛という言葉に遠ざかり、飢えていた人々に好まれそうな名前である。食料品店から出発した“三愛”がゆきづまりそうになると、市村はさっさと婦人オシャレ専門品店に変えてしまう。考える彼には、現状への執着もなく、だから停滞もあり得ない。あるのはただ、前に向かって考えつづけることだけである。三愛石油も、ホテル三愛も、日本リ−スも、市村の頭脳から生まれた。市村事業団の発展と市村ブームが何処まで続くかは、一寸想像もつかない。今の彼は、竜が雲に昇るほどの快調さである。
だが、市村の三愛主義にしても、まだまだ計算された臭いを脱しきれない。そんなところに、彼を危ぶむ声もチラリと聞こえてくるのかもしれない。同時に、彼が財界の主流に乗り出すいとぐちも、そのへんの脱皮にあることを、考える市村清のことだから、じっくりと考えているに違いない。

<雑誌掲載文3 目次>

自由人小川栄一氏」

小川栄一氏には、「財界のフルドーザー」「財界の怪物的存在」「山師・水師」「傲慢無礼な男」「大衆主義者」など、いろいろな呼び名がある。だが私の見るところ、彼は財界には珍しい自由人であり、これらの呼び名も自由人小川の、それぞれある一面に冠せられた形容詞以上には出ないように思われる。資本主義社会の経営者ともなれば、もともと自由主義者であるはずのものだが、自由主義者である経営者が極めて少ないのが日本の特徴。まして、主義者の立場を超えて自由人となると、正にマレな存在となる。そして小川氏は、そのマレな存在の一人であるようだ。
私が彼を自由人の仲間に入れたのは、彼が若き日に、作家、新聞記者を志したという事実によってではない。そんなことは別に珍しいことでも何んでもない。意味のあることでもない。それは、彼が安田信託に入社してから、今日の国土総合開発株式会社の社長になるまでの、彼の生き方の中を強烈に貫いている自由な精神と姿勢を発見したことによる。
小川氏の自由な精神と姿勢が、まず現われたのは、彼の安田信託入社の際だといってよいようだ。大正十五年という不況時代、就職難の時に京都帝大を出た彼は、日本観行に勤めている叔父の世話で、安田信託に入った。いってみれば裏口就職である。このことでは、彼は縁故によって、やっと社会への足がかりをつかんだ人間にすぎない。だが、彼の彼らしいところ、他と違っているところは、この裏口就職への自己合理化のしかたである。
「就職できない皆には悪いが、おれは就職して、自分の出世よりも皆の職場をつくろう。職場をつくって、一つ一つ分けてやることがおれの仕事なんだ」
と考えたという。
後に小川氏は、当時のことを回想して、「まことに世間知らずのうぬぼれであった」といっているが、就職できない不自由から、いろいろと派生する不自由の状態にある人々を、その状態から解放するには、新しい職場をつくるしかないと考えたところは、うぬぼれどころか、たいしたものである。
「貧困は罪悪である。すべての人の消費に不自由をなくそう」
といったのは松下幸之助氏である。小川氏は、もう一歩その根源につき進んで、すべての人々に消費できる自由、いいかえれば、すべての人に職場を与えようという姿勢をもったのである。
これほどに意気込んで実社会入りした彼であったが、ひそかな毎夜の残業にもかかわらず、二年間、全く昇給をさせてもらえない。唯一の無能行員として、レッテルを貼られてしまう。無能行員は周囲から同情や慰めを受ける。
その後、彼に対する上役の評価が変わると周囲の眼も一変した。同情は脱落者に対する優越感と喜びの現われに過ぎず、出世コースにのったとなれば、突端に、ねたみ、うらやみに変わってしまう。彼はサラリーマン根性のいやらしさ、奴隷根性のみじめさを、まざまざと見せつけられて、サラリーマン脱出を考える。
さらに自由人小川の面目を現わしているのは、外国旅行を終えて帰国した一課長にすぎない彼が、オール安田の重役を前にして行なった講演の内容である。
「地球でさえ、無限にあらずして有限であったのです。果てしなき荒野とか、限りなき道ということは、単なる言葉で、人生はまさに有限であることを知らねばなりません。われわれは五十五才の停年になれば、いやでも二万円の退職金でこの財閥を去らねばなりません。しかるに財閥は天下の秀才を集め、しかも確実にして有利、有利にして確実な投資を求めて、無限の富をきずいています。大衆が火事や地震にあっているときでも、その投資した利息は日々にふえてゆきます。
税金や寄付金も、財閥から百%の富を奪うことはできません。この結果、わずかな有限の富しか築けなかった大衆と無限の富を築いてゆく財閥との間には、おのずから、大きなギャップが生まれてくるのではないでしょうか。ギャップの末にくるものは大衆の恨みというか、思想というか、共産主義の如きものでしょう。
そこで私が思いますのは、有限の財閥を志して、限度をこえた富は、やがての成長産業に融資する。そうしないと、おそらくは、財閥もまた大衆の恨みで滅びるでしょう」
ここには、すべての人に職場をという彼の願いが、彼なりに精一杯現われている。その後、観光事業にうちこんだのも、それが大衆のためのオアシスづくりという社会事業だと考えたためだったし、昭和三十五年、日本ドレッジングKKの名で出発した国土開発KKにも、日本の国造りを通じて、すべての人に職場と同時に富を与えようとする彼の願いがある。自由人小川氏が、今後どれだけ新しい自由人を育てていくか、それは彼のこれからの課題といえよう。

<雑誌掲載文3 目次>

執念の男川鍋秋蔵氏<日本交通社長>

此の世で、その人らしい人生を生きたといわれるほどの人は、誰でも一度は自分の人生に対する深い“疑い”をいだいた過去をもっている。その疑いの深さと克服の程度如何がその人間のスケールを決定し、その仕事の性格を左右するといってもいい。川鍋秋蔵もその例外ではない。彼がとりくんだ疑問は努力ということであった。自分と社会にとって、努力が果してどんな意味をもち、どんな役割をもっているかということについて考えないではいられなかったのである。
それというのも、九人兄姉の一人として生まれ小学校を終えた川鍋は、貧しい者のつねとして、すぐに実社会に出なければならなかった。そのことについて、何の疑問もいだかなかった川鍋も、国鉄の工機部二務めながら、六年間というもの、それこそ雨の日も風の日も毎夜、休むことなく夜間学校に通学した結果が、せいぜい職長にしかなれない事実を知ったときは、心底から悩まないではいられなかった。
学歴がないということだけで、これというポストをあたえられることもないままに、いいかえれば、力一杯自分で仕事にとりくんでみるというチャンスもないままに終わるしかない自分の未来を考えたとき、努力するということの空しさ、無意味さを思いしらされたのである。報われることのない努力というものがあることも知ったのである。
二十一才の川鍋がその頭脳の限りで考えたことはどんなにしても独立するということであった。独立以外に、自分の努力が実ることはないという確信であった。こうして、川鍋のその後の人生はすべて、この独立への執念に貫ぬかれるのである。
とはいっても、何になるか、どうして生きていくかということで、すぐに妙案がうかぶわけもなかった。東京にでた彼は、毎日のように、適当な職、将来性のある職を求めて、市中をみて歩いた。その結果、彼の心をとらえたのが自動車である。
しかし川鍋は運転手になってみて驚いた。酒と結婚したような、のんだくればかりである。一番厄介なのは、酒のさそいをうけてことわることであった。それは苦しいことではあったが、そんなことをしていては、独立できるはずはない。なんとしても自動車一台を買える資本をつくろうと更めて決心する。
一台のハイヤー用の自動車を買って独立したのが昭和四年、念願かなって独立したのである。しかも、彼は、その時運転手一人、女事務員一人をやとって、同時に経営者としての第一歩もふみだすのである。彼は発展していくには、なによりもまず、自分自身が、業界全体の方向や景気の動向をしっかりと把握して、経営に専念しなくてはならないと考える。彼のこうした考えと姿勢が、年末にはもう一台を購入させ、翌年には八台にもふえていくのである。だが、この時期は浜口内閣の緊縮政策の時期にもあたっていた。自動車の利用者もへり、自動車会社もつぎつぎとつぶれていった。川鍋は創業まもなく、この試練にぶつかることになる。父親からは帰郷をすすめてくる。しかし、彼としては折角つかんだ独立を、その醍醐味をむざむざと捨てることはできなかった。その時、川鍋は、手持ちの高級車を売り払って、小型車にかえ、大衆車として、逆攻勢にでていく。それが成功であったことはいうまでもない。その車のシーツがつねに白く、シワがよっていないという評判をとりはじめるのもこの頃である。
昭和十四年、政府の自動車業界整理の通告にあたって、現在の日本交通の前身である日東自動車株式会社設立に成功して、業界第一にのしあがる。だが、今度は、四社に統合しろという政府命令がでた。当時、業者は五十八、車は四千台であった。川鍋としては、三百台の車をもっていたが、生き残るためには千台にしなくてはならない。しかもこの時京成電鉄社長の後藤国彦が、自動車株の買占めをはかり、そのねらいを川鍋につけたのである。そのため、彼の独立は危くなった。一日、後藤を訪れた川鍋は、自分の意見がきかれないときには、後藤に熱湯をあびせ自分は死ぬつもりでいた。こうした、川鍋のすさまじいまでの独立への執念を前にして、後藤は退くほかなかったのである。だが、戦後になると、今度は東京急行の五島慶太から再びねらわれる。出資者である五島は、営業が十分でないときには、東京急行がひきうけるといいだしたのである。川鍋はそれにもうちかった。乗取り魔といわれた五島との勝負にうちかったものは、彼の独立への執念以外のなにものでもないといってもよかろう。

<雑誌掲載文3 目次>

きかん気な男本田宗一郎氏」

未だ、飛行機がひどく珍しい頃のことである。ある時、浜松の連隊で飛行機を見せるというので、小学校二年生のその少年は、その日のために大枚二銭を用意した。当日は学校もサボッて飛行場に出かけるが、どうしたことか、入場料は十銭だった。やむなく松の木に登った彼は、心ゆくまで飛行機を見ることができる。本田技研社長、本田宗一郎氏の少年の日の一コマである。氏は、こんな頃から、自分に興味のあることには徹底的に興味をわかし、関心のないものには振り向きもしなかった。その為、学校の成績も、あまり香ばしいとはいえなかった。
東洋精機株式会社をおこして、ピストンリングの製造を始めた時、その時氏は二十八才であったが、頼んで浜松商工の聴講生となる。その理論を習得する為だった。ピストンリングの研究と、仕事の成功とで頭が一杯の氏は、他の学生達が講義のノートをとるのにも無関心だったし、試験も受けない。そこで進級できないことになった。その時氏は、こう云っている。「免状なんかどうでもいいですよ。私は免状の為に来ているのではない。仕事の為に来ているのですから」
氏はこうして、ピストンリングの製造を続けていたが、昭和二十年に浜松地方の地震と敗戦が一度にやってくる。敗戦を迎えて氏が考えたことは、「何をするか」であった。今迄のように自分を伸ばさない仕事は厭だ。思いきり自分を伸ばせる仕事をやりたいと考えた。一年間も考え続けた。
周囲の人達が、戦争ボケ、敗戦ボケとなっている中で、一筋にその方法を考えた。そして考えたのが、戦時中に軍が使用していた通信機の小型エンジンを自転車に附けて走らせることだった。これが大評判になって売れた。月、二、三百台の生産が、たちまち千台になった。
次はオートバイである。どうしても強力なフレームを持った、強い馬力のオートバイをつくりたい。衆知を集めて完成したのが“ドリーム”だった。スピードに夢を託するという意味である。
氏が広く人材を集めることは、あまりにも有名だ。性格の違った人とはつき合わないような人、親類縁者に人を求めるような人は、下の下だと思っている。だから、本田技研の次期社長は、日本人であろうと、外国人だろうと構わんと考えている。しかも氏は万事自分流だ。自分のペースを乱すものには我慢できない。東京に仕事を移したのも、その為である。狭い部室では窒息してしまう。アイデアも浮かばない。氏の活躍はこうして、耐えず前進を続けていく。
前進といえば、氏は、昭和二十九年三月、世界的オートレースであるTTレースに参加することを宣言した。その意味の一つは、TTレースで優秀な成績をあげ、オートバイ市場に輸出の念願を果すことであった。
準備のためにマン島に出掛け、実際のレースを見て驚いた。そこで争われているオートバイは、実に本田の三倍の馬力を持っていたのである。メリコムようなショックであった。研究部から研究所へと発展するにつれて、研究は着々とすすめられ、遂に昭和三十四年に初出場、昭和三十六年には優勝を飾った。思えば、昭和二十九年に宣言して以来七年目、オートバイに賭ける執念。
三重県鈴鹿に新工場を作った時、その設立の披露宴に招待したのは、県知事、市長など数人を除いて、あとは全部、オートバイに関心を持ちそうな人達ばかりであった。形式的なことは嫌いなのである。庶民と生きる、庶民と共に歩む人といえよう。
ホンダは今や世界のホンダとなり、各国に出張所を持っている。これらの事業所では、現地の人を採用しているのが特徴である。それは本田氏の考え方、生き方からして、当然なことといえる。氏は「会社の為に働くなんて、およそナンセンスである。自由人として立派にすごせるために働くのだ」と云っている。また、「徳川家康」が実業人の間にもてはやされた時、これを笑って、「こんな時代錯誤の本を読むのはどうかしている。家康なんか、殺さず、生かさずに人を作った人ではないか。このような人に教えを乞わねばならないとすれば、その人の頭の程度が知れようというものだ。読物としては面白いが、完全に過去の人間になっている」という意味のことを語っている。
たわむれに、「氏を通産大臣にしてみたい」といった人があるが、もし実際に頼まれたら多分氏は、「俺には興味がない」とあっさり断わるのではあるまいか。

<雑誌掲載文3 目次>

企業の社会性を説く木川田一隆氏<東京電力社長>

大正十五年、東大経済学部を卒業した木川田一隆氏は、三菱鉱業の入社試験を受けて失敗した。試験委員と労働問題で激しく論じ合ったのが、不合格の原因らしい。やむなく知人の紹介で入社したのが、東京電灯(東京電力の前身)である。
学閥、門閥など、背景となるべきものを何一つ持たずに、身体一つで波乱に富む半生を送って現在の地歩を確立した人たちに比べて木川田氏にはエピソードが少ない。その数少ないエピソードの中で、三菱鉱業に入りそこねて東京電灯に入ったという、このエピソードは、重大な意昧を持っている。
氏はその後ずっと電力畑で育ち、電力界をリードすることになったのだが、それも、もとはといえば三菱鉱業をすべったためだし、すべった理由といえば、その労働問題への関心の深さに根ざしている。さらに付け加えるなら、戦後、関東配電の労務部長として、当時の電産を相手に、大いにたたかったことが電力業界での木川田氏の存在を大きくクローズアップさせることになったのである。その意味からいっても、たいそう象徴的な事件だったといえる。
戦後の電力業界の最初の大きな課題であった、電力再編成問題で、官僚統制色の濃い日発の全国一社案と、私企業をたてまえとする松永安左ヱ門案が対立すると、氏は松永案を支持し、松永案の線に沿って電気事業再編成の実施機関である公益事業委員会では、日発と九配電の資産を、新しい九電力に公平に配分する仕事に取組み、これをみごとにやってのけた。それは、電力業界の長老松永安左ヱ門が、将来の電力業界を背負って立つ男と折紙をつけたほどのものであった。
大学時代、氏は河合栄治郎から社会政策を学んで、資本主義経済に根本的に取り組んだ。大正末期の混乱した時代に生きて混乱のなかに一つの理想を描き、その達成に協力するところに人間的価値をみるという、河合栄治郎の立場に深く共鳴した木川田氏は大学卒業の際、労働問題研究所入りを希望したことさえある。その立場が、戦後の混乱した、個性と人間性を喪失した社会において、いかにして、人間を主人公の位置にもどすかということに取りくませることとなった。
木川田氏の、経営者の社会的責任というテーマは、そこから生まれたともいえる。つまり、経済活動の主体は経済人であるということの自覚から資本主義経済の中に新しい秩序の概念を入れようとする。それは、戦前の自由放任主義の、競争一点ばりの考え方を改め、経済の共通の問題、技術の共用や国民的な教育訓練の問題を共に考える、いわゆる“協働”行為をやるということである。積極的意味をふくめて協働ということをうたって、その協働と自由競争の理念が調和した、秩序ある経営を考えるのである。
今一つは、企業の社会性の問題である。自己の利潤を追求するとともに、社会における企業のウェイトを自覚することを考える。
氏は、西ドイツの経済の基礎をつくったものも、協働と競争だとみる。それが社会進歩の基調になっているともみる。そして、それが日本経済のなかにとりいれられれば、新しい資本主義の方向をつくることにもなるとみるのである。協働を忘れた競争は、足を食うタコのようなもので自滅しかない。
「電気事業をやっていると、企業の社会性ということをつくづく考える。早い話が、九電力は地域的に独占的な動きをしている。そうした立場にある電気事業をみた場合、どうしても、社会的な、労働・資本というものの効率をあげ、コストを安く、またサービスをよくすることを考える。つまり、経営の社会的自覚が要請されてくる」ともいう。
そしてそれは、私と公をどこでどうやって調和させていくか、言葉をかえていえば、生産者と消費者の利益をどこでどうやってマッチさせるかということでもある。両方の利益が一致するということ、それは両者の共通なものをつくろうとすることである。
だが、日本の経営者の頭は古い。企業の社会性をいい、あるいは「協働」と「競争」の概念をいうことはむつかしい。経済同友会の代表幹事としてそれを説きながらも、それが具体化することは、むつかしいのである。だが、新しい資本主義に向かって進むためには、やらなくてはならない。そして木川田氏は、
「いかにして人間を主人公の位置にもどすかということ、そのためには経営者は経営技能者でなければならず、労働者は経営者のアシスタントなのだ」と考え「中間層の人達こそが、今後の社会を担う中核体である」と考えるのである。

<雑誌掲載文3 目次>

意志の人犬丸徹三氏<帝国ホテル社長>

この文章がおおやけになる頃には、オリンピック選手村OA委員長としての大任を、犬丸氏が果たした頃かとも思われる。氏は御承知のように、帝国ホテルの社長であり、オリンピックにそなえて、浜松町から羽田空港にかけて建設されたモノレールの会社の社長でもある。それは、名実ともに、ホテル業界の大御所的存在である。だが、氏がここに辿りつくまでには、なみなみならぬ試練があった。それは、血を吐くような悪戦苦斗といってもよい。
犬丸氏は明治二十年六月八日、石川県能美郡根上村に生まれた。生家は機織り工場を経営。尋常科を卒業した犬丸少年は、往復十六キロもある道を歩いて、小松町の高等科に通った。往復八キロの場所にも、高等科はあるにはあったが、所謂程度が高いという理由で、小松を選んだのである。それから小松中学へと、前後九年間も、往復十六キロを歩きつづけたのである。少年の根性も知らず知らずのうちに形成されたといえよう。雨の日も雪の日も無遅刻、無欠席だというから、驚くほかはない。
東京高商(一橋大学の前身)に入学した犬丸氏をまっていたものは、ストライキであった。それは、本科を卒業した者が進学する専門部を文部省が廃止しようとしたことに端を発した。多感であった青年犬丸氏も、指導者の一人として活躍。ついに文部省は大学昇格を約束してケリがついた。だが、首謀者は退学になり、緒方竹虎もまた学校を去った。この事実を前にして、犬丸氏は悩まないではいられなかった。昨日までの優等生は、今日の劣等生となり、彼は、学業を放棄して、禅と読書にうちこむ月日がつづく。このために外交官への夢もどこかへ消しとんでしまった。
明治四十三年七月、どうにか、学校は卒業したものの、就職という問題を前にして、犬丸氏の心は暗かった。どこへいくあてもない。心の安定も得られない。やっとみつけたのが、長春(満州)のヤマト・ホテルのボーイの職であった。やけのやんぱちに近い気持で掴んだ職業といってもよかろう。だが、いつのまにか、彼の中に、ホテル事業への興味が湧いてきた。
ヤマト・ホテルに三年間つとめた彼は、次に新しい天地を上海に求めた。勿論コックである。此の時、上海在住の一橋出身によって「わが光輝ある一橋の気を汚すも甚しい。一つの理想を抱いて、コック修業をしているというなら、それをわれわれの前に説明しろ」という吃問状が提出された。だが、犬丸氏はそれにこたえることもなく、ひとすじに修業にうちこむ。ロンドンゆきの船に投じたのが大正三年七月。切符を買った後には、当時の英貨にして、わずか四ポンド半しか残らなかった。決意と節約をかねて、禁煙にふみきったのは此の時である。煙草は二度と口にしなかった。
ロンドンでは、やっとホテルの雑用係のクチをみつけた。次は、窓ガラスふきである。「決意して、ホテル修業にきたものの、求める仕事を得られぬままに、ともすれば、心が空虚になるのを抑えることはできなかった」と後に犬丸氏は述懐している。しばらくして、待望のコック見習になり、一年間というもの、わきめもふらずに英国料理の研究をする。それから、包丁一本を片手に、フランス、アメリカと修行の旅をつづけ、大正八年一月、始めて故国の土をふんだ。長い修業の旅であったともいえるし、また、放浪の旅であったともいえるものである。
日本での犬丸氏のポストは、帝国ホテルの副支配人。彼は存分に、長年にわたって得た知識をひれきした。
大正十二年四月、支配人。
この頃から、ホテル建設の話は、殆んどすべてと言っていい様に、犬丸氏のところに、相談がもちかけられるようになった。氏のてがけた仕事に、新大阪ホテル、名古屋観光ホテル、川奈ホテルなどがあった。折りも折り、昭和十五年には、オリンピックが東京で開催されると言うので、それをあてこんで、次々とホテルが建設された。そのいくつかに、氏の足跡がきざみこまれた。だが、戦争のため、オリンピックは中止。
戦後、帝国ホテルの社長となり、再びやってきた東京オリンピックには、文字通り、ホテル業界の王として、その仕事に取りくんだのである。
「宵越しの金は使わないと自慢している奴がいるが、裏返しにすれば、独立心がなくて、依頼心だけが強いということだ。自分の金がなくなって、しかも金が必要になった時、他人になんとかしてもらうことになってしまうからだ」とは、犬丸氏の経済哲学である。

<雑誌掲載文3 目次>

老成の人河合良成氏<小松製作所社長>

共産圏貿易をいう場合、必ず、翌場してくるのが、小松製作所の社長河合良成氏である。一昨年は、ソビエトに経済使節団の団長として訪ソしたが、日中貿易でも欠かせぬ人である。たしかに、共産圏貿易になると、政治問題が複雑にからんできて、普通の財界人ではつとまらない。周囲をみながら、右顧左眄する人にはつとまらない。あくまで自己の信念にむかって、猪突猛進するぐらいの人でなくてはだめだ。その点、老境にはいって、意気益々盛んな河合氏の場合は、まさに適任というところか。高崎達之助氏のなくなった今、氏の存在は一層大きい。では、今日の河合氏はどのようにして生まれたのであろうか。
河合良成氏は明治九年五月、富山県福光町に生まれた。同じく、日中貿易の打開に努力している松村謙三氏は、彼の隣家の生まれである。父親は、当時、汽船会社を経営していた関係で、小学校一年の時、一家をあげて、港町伏木に移り、そこで、小学校、中学校を終えた。
金沢の四高時代は、哲学者西田幾太郎の主宰する三三塾にはいり、そこで、西田から、自覚と意志の力を学んだ。意志の弱さは罪悪だという思想を教えられたのである。富山という、雨と水田のなかで、泥土と戦う生活環境を自覚的にうけとめることによって、強い意志をいやがうえにも、強い意志に育てあげていったのである。
東大を卒業したのが、明治四十四年、農商務省にはいった。そこで、とりくんだのが米価問題であった。外米課長のとき、米騒動がおきる。それがもとで、寺内内閣が仆れたが、此の時、一課長にすぎなかった彼が、その責任を感じて、その職を退いている。責任感の旺盛な男でもある。
次に、郷誠之助が理事長をしている東京株式取引所にはいり、大正九年のパニック、大正十二年の関東大震災では、郷の片腕として活躍。しかし、ここも、郷が大正十三年東株をやめるのに伴って、彼もやめた。郷は彼を日華生命に世話した。日華生命というのは第百生命の前身で、河合氏はここで、八千代生命、万蔵生命、福徳生命の合併をやってのけた。彼の仕事は順調にすすむかにみえた所に、帝人事件がおきた。
帝人事件というのは、鈴木商店がつぶれ、台湾銀行に担保としてはいって帝人株二十万株の買受をめぐる贈収賄容疑である。帝人株二十万株は保険会社で買ったが、其のとき、五千株の引受け手がないということで河合、長崎英造、小林中、永野譲の四人でひきうけた。百十二円で買ったのが、百八十円にはねあがり、彼等はボロ儲けした。そこであやしいということになったのである。たまたま、「番町会を暴く」という記事を十数回にわたって書いた時事新報の社長武藤山治が殺され、一層、問題は大きくなった。
番町会というのは、郷誠之助を盟主に、河合、永野の外に、正力松太郎、伊藤忠兵衛、中野金次郎、渋沢正雄などが参加し、財界の一勢力となっていた。時事新報によると、「番町会は政財界の裏面に暗躍し、帝人乗取りを策し、その金力と権力を背景に策謀している」というのである。遂に、番町会の主なメンバーは捕われの身となった。河合も市ヶ谷の刑務所に二百日を送る身となったのである。結局、無罪の判決で出所したものの、世間の疑惑はとけない。満州にわたったが、そこも一年でひきあげざるを得なかった。こうした不遇の中で、彼は心身ともにきたえられた。
内地にひきあげた彼は、鮎川義介を助けて、観光事業にのりだしたが、これもだめ。今度は、東京市の助役生活をはじめたが、ここも十ヵ月でやめる。
次は、運輸省の船舶局長。
戦後は農林次官、厚生大臣、そして追放。古巣の第百生命にかえり、小松製作所のストライキをきっかけにして、同所の再建をひきうける。それというのも、復興金融公庫から七千万ほど、小松製作所のために借りてやったのがきっかけである。その後、迂余曲折はあったものの、見事に小松製作所は再建した。河合氏は、その間、十五年余も社長をつづけている。一ヵ所に落着けなかった彼が、晩年になってはじめて落着いたのである。それも十五年余という長い年月にわたって。
長い年月にわたって蓄えた実績をもとに、河合良成氏が本当に雄飛するのはこれからである。
日中貿易は氏の活躍をまっている。

<雑誌掲載文3 目次>

事業の鬼小佐野賢治氏<国際興業KK社長>

小佐野腎治は謎につつまれた男だというのが、世間一般の批評である。ことに、その前身は、誰にもわからないといわれている。おそらく、敗戦までの彼のことであろうが、大正六年二月十五日に山梨県勝沼町に生まれた彼の事故、敗戦の時はわずかに二十八才の青年であった事を思えば、それは当然であるともいえる。中学校から高校・大学へ、更に名ある大会社とその経路をはっきりしている人達に比して、水呑百姓の子として、高等小学校を終えて、鍬をふる生活から、人生の第一歩を始めた彼に、その経歴を求める方がどだい無理というものである。
一見謎につつまれた過去は、彼の後半生のあの神秘なまでに、することなすことすべて成功してゆく彼の事業を理解する上で、むしろすてきでさえある。要するに、彼は事業の成功者である。
彼の経営しているのは、バスの保有台数三千数百台、運行系統二百を超える国際興業をはじめとして、クライスラー社の日本総代理店、北海道いすず、札幌いすず、菱和オート、それにホテル・タクシーなど、数えあげていけばきりがない。個人資産も二百億をこえるという噂である。どこまで成功していくのかわからないというのが本当である。しかも、彼はまだ、五十才にみたない男である。
敗戦のどさくさに乗じて「濡れ手に粟」の商売でためこんだともいわれているが、軍の物資で、そのような商売をしたのは、何も小佐野一人に限ったことではない。敗戦のどさくさに乗じて、国盗りという大事業までなそうとした人達もいることを思えば、小佐野の仕事はたかが知れている。
二十才まで、田舎にくすぶっていた小佐野も、徴兵検査をうけ、兵隊となってから次第に道が開けてくる。二年間の軍隊生活を終えた彼は東京にでて、自動車の部品を販売している店につとめ、翌年には独立。ついで軍需省の民間嘱託となる。軍需景気で誰もが雪ダルマ式にふとったが、彼もその一人にすぎなかった。違っていたのは、敗戦のどさくさで、多くの人達が呆然自失しているときに、軍から、ただのような値段で、多量の自動車部品やガソリンを払いさげてもらったことである。小佐野はそれで、しこたま、もうけた。今一つは、「戦争は終った。これからは平和産業、観光事業がよくなる」ということに眼をつけたことである。
昭和二十年に早くも根津嘉一郎の熱海ホテルを手にいれている。ついで、一万坪の敷地に、鉄筋五階建の強羅ホテル(箱根)を手にいれた。強羅ホテルは、五島慶太の所有であったが、越冬資金にこまって五島が売りに出したものである。彼はこの事が縁で、その後何かと五島の愛顧をうけるようになった。三番目に購入したのが山中湖ホテルである。
ひょんなことから、小佐野はバス経営に乗りだすことになった。これより先、熱海ホテル、強羅ホテル、山中湖ホテルは占領軍に接収されて、家賃をもらっていたが、占領軍がバスがほしいといいだした。そこで、五島のところにバスを借りるためにでかけた所が、その彼に、五島がバス会社を経営してみないかといいだしたのである。東都乗合自動車の買収はこうしてきまったのである。
昭和二十二年六月には、国際興業KKとして、すべての事業を包括して新発足した。だが、昭和二十三年にはMPから偽証罪および政令違反で拘留される事件もおきている。占領軍にプレゼントしながら、していないと答えたためである。加えて、バスのために配給されたガソリンを自分の乗用車につかったのがけしからんというのである。しかも、この拘留中に、脱税が摘発されている。おそらく、彼にとって最も手痛い体験であったろう。
その後の彼は、すべてなす事があたり、順風満帆というところ。昭和二十五年には、元伯爵堀田正恒の次女英子と結婚して、水呑百姓の家柄にハクをつける。
昭和二十八年には、中古外車三百台を日比谷公園で売りだして、またたくまに売りつくすという芸当もやってのける。
山梨交通の株の入取に当っては、敵である西武鉄道の堤康次郎のどぎもをぬく一幕もあった。しかも、小佐野の夢はとどまるところを知らない。とうとうハワイのプリンセス・カイウラン・ホテルを買収するところまでいくのである。プリンセス・カイウランはハワイ一の高級ホテルである。
頭をテラテラに光らした、全身これ精気のかたまりのような小男小佐野は、次に何をねらっているのであろうか。猛禽のような眼をして。

<雑誌掲載文3 目次>

平等を説く男 小田原大造<久保田鉄工社長>

大阪の経済的地盤の沈下をなんとか食いとめようと近畿経済圏の構想など、いろいろと取り組んでいるのが、大阪商工会議所会頭小田原大造氏である。氏は御承知のように久保田鉄工の社長でもあり、会頭就任にあたっては、土井正治住友化学社長と激しく争ったことはあまりにも有名である。それも、会頭の椅子をもぎとったという表現があてはまる強引さで、手にいれたのである。広島県人には珍しい強引な男といえるかもしれない。
小田原氏は尾道の向島に明治二十五年に生まれた。父親は「先生」の名で通った漢学者で、家業は家族や雇い人に任せきりで、終日漢籍をひもといているような人だった。小学校にあがった大造少年は一年生を二度やるほどに身体が弱かった。尾道商業に進んでからも、一年休学している。この身体が弱いということが、上級学校への進学を断念させた。だが、学びたいという欲求は、その故にかえって強まった。
代用教員をしながら、次々に、中等教員の検定試験をうけて合格した。この事は、情熱をもって自主的に学ぶ、という姿勢を身につけさせることにもなったのである。強い意志を身につけていったことも事実である。彼が後年、会頭の椅子を強引に自分のものにする素地はこの時にできたといってもよい。もちろんそれは、弱い身体をいたわりつつ、六年間の長い苦斗の生活でもあったのである。
商業科の試験に合格し大造青年がその時に考えたことは、平安な教員生活よりも、もっと生き生きした生活、働きがいのある生活をしたいということであった。彼には、教員生活はなまぬるい生活に思われたのである。
こうして、今の久保田鉄工尼崎工場の前身である関西鉄工にはいった。ここでも、彼の独学の姿勢は大いに役だった。てあたり次第に、書物を読んで、可能なかぎりの知識を頭につめこんだ。しかも、幸いだったことは、入社した翌年、関西鉄工は久保田鉄工に買収され、支配人として関西鉄工に乗りこんできたのが、向島とは目と鼻の位置にある因島出身の須山会三氏であった。
須山氏は、氏を別室に呼んで
「実業界という所は、学校とは違って生存競争が激しい所である。事業で成功しようとすれば、実力のある社員を持たねばならない。したがって、会社の経営者は、実力のある社員を探している。君もそのつもりで勉強しなさい」
といった。彼はこの言葉に導かれて、ますます努力していった。
大正十年、第一次世界大戦後の不況をうけて、労働争議は東京から名古屋、大阪、神戸とひろがり、久保田鉄工もはじめて、その渦にまきこまれた。小田原氏は当時、工場長代理の位置にあったが、この時の団体交渉には出席しなかった。しかし、大正十二年、二度目の争議の時は、全部を一任されて交渉した。
彼は、争議による解雇は絶対にしないという条件の下に、徹底的に話しあい、労使が協力して、生産性をあげて、賃あげする約束をして、円満に解決したのである。工場はその後、能率が急に上昇したのである。
それというのも、小田原氏は、金光教の信者として、自分たち人間は皆等しく神の氏子である。富める者も、貧しきものも、他位高きものも、低いものも、皆区別なく、神の前には平等な神の氏子である。労働者を奉公人として、金でどうにでもなるという考え方はおかしい。人生にこんな不公平な差別があることは、許されないと考えていたのである。神の氏子として、経営者も労働者も平等にしあわせにならなくてはならないという思想をもっていた。大正十年、工場長代理としてストライキを体験したとき、労働組合がムチャを言うこともあるが、だいたい、資本家の方が悪いことが多い。労働組合の方が筋が通っているということを感じ、大正十二年の争議にあたっては、それを生かしたのである。
その後、労働問題に関する経験を積み重ねていくうちに、労働組合はなくてならぬもの、会社の発展に必要なものと思うようになっていく。すでに、戦前に「工場委員制度」という、今でいう労使協議会も開いていたのである。
東京の隅田川製鉄所の汚職事件にまきこまれた氏は、その取調べにあたり、激しい拷問がなされたことを知り、東京控訴院に検事を告訴した。その陳述にあたっては
「忠良無垢な国民に対して、天人共に許されぬ悪逆無道の権力を悪用した罪は決して許されない」
とのべ、とうとう、主任検事を免職、他の検事を地方に左遷するということをやってのけている。
これらは、若き日の小田原大造氏の面影であるが、老いて愈々盛んな氏のこと、一層、筋を通されるのではないかと思う。

<雑誌掲載文3 目次>

闘魂の人黒沢酉蔵氏<北海タイムス社長>

黒沢酉蔵という名前をきいた人は、少ないかもしれない。たしかに、ポピュラーな名前ではない。だが、北海道の黒沢といえば、どこかできいたことのある名前だと思いだす人も多いのではないか。
それほどに、黒沢氏は、北海道の発展と歩みを一にしてきた人であり、北海道の開発を語るうえに、欠かせぬ人である。しかも、現在、数え年八十一才の高令を以て、二十代、三十代のような情熱を傾けて北海道開発審議会の委員長をつとめるかたわら、北海タイムスの社長として、また、酪農大学の学長として、その先頭にたって活躍しているのである。
二十才の時北海道にわたって牧夫となってから六十年、文字通り、斗魂の人として、人生を斗いぬき人生を勝ちぬき、そして、今もなお、斗いつづけている男、それが黒沢酉蔵という男である。
黒沢氏は、明治十八年、茨城県久慈郡の農家に生まれた。その年は、後年、彼が師事した田中正造が、国会ではじめて、足尾銅山の鉱毒事件を訴えた年でもある。
十五才のとき上京して、アルバイトをしながら中学に通ったが、田中正造が明治天皇に直訴したことをきいて、やもたてもたまらず、正造を新橋の旅館にたずねた。彼が十七才の時である。
正造の話に深く感動した黒沢は、今後この事のために人生をささげようと決意し、それからは、学業を捨てて、鉱毒の村を歩きまわるのである。そのため、とうとう逮捕され、前橋監獄に未決拘留六ヵ月の生活を送ることになるのである。このとき、聖書を読む機会に恵まれるとともに、「まず生活の安定が先だ、世の中への奉仕はそれからだ」と考えるようになる。黒沢氏の挫折であり、同時に、第二の人生をあゆみはじめることになるのである。
北海道にわたった黒沢氏は、当時、札幌を中心に有名だった宇都宮仙太郎の牧場をたずねた。
それというのも、この宇都宮氏は「酪農には三つの徳がある。第一には、役人に頭をさげなくともよい。第二には、相手は牛だからウソをいわんでもよい。第三には、牛乳をいくらでものめる」ということを説いており、それに深く共鳴したためである。挫折したとはいえ、正造に対した姿勢は、その時も失われていなかったのである。
明治四十二年、はじめて、家屋敷牧地つきの貸家に乳牛一頭を借りうけて、独立の第一歩をふみだした。それから五年、朝は三時に起きて、牛の乳をしぼり五時には、牛乳の配達にとびだすという刻苦勉励の結果、乳牛二十頭に十八町歩の山林畑地を持つ身の上になる。三十才の時、結婚したが、結婚の日も、新婚第一夜、も朝三時におきるということはかわらなかった。氏の力斗ぶりがうかがえるというものである。
だが、黒沢氏の前途は平坦な道ばかりではなかった。それは、第一次大戦中、乳製品は海外からの輸入が絶えてどんどん売れたが、戦争が終わると、外国品がどっとはいってきた。そうなると、質も悪く、値段も高い国産品は競争にならない。煉乳会社は買いしぶり、乳価は暴落した。農家はその被害をもろにうけたのである。黒沢氏もその被害をうけた。しかも、本格的に乳牛をふやした時だから、たまったものではない。どこかに打開の道を求めねばならなかった。
こうした危機の中から北海道製酪組合が誕生したのである。即ち、煉乳会社が買ってくれない牛乳を組合が買取り、バターをつくる計画である。勿論、その組合をつくるために、黒沢氏は、足を棒のようにして、一人一人説得してまわらねばならなかったのである。だが、製造したバターやチーズを売るのはもっと大変なことだった。東京で、宣伝に配ったバターは石けんに間違えられる始末だったから。
が、とにもかくにも、黒沢氏の斗魂は北海道製酪組合を立派にみのらせ、戦後の雪印乳業の基礎をきずいた。その間には、札幌駅頭で、暴力団の襲撃をうけるというようなこともあった。
北海道タイムスの社長となったのは、朝日・毎日・読売各紙が北海道にファクシミリ攻勢をかけた時である。北海道新聞は勿論だが、創刊して日も浅い北海タイムスは、その被害をもろにうけざるを得なかった。その時に、黒沢氏は北海タイムスの社長となったのである。ここにも、被害をうけてたつ、黒沢氏の共通の姿勢が発揮されたといってよい。それは、遠く、前橋監獄において、聖書を読み、そして洗礼を受けたキリスト者の精神であるといった方がよいかもしれない。
社長に就任してから数年、四階の社長室にエレベーターを便わずにトコトコのぼっていく姿勢には、身体を鍛錬するということばかりでなしに、新聞経営というハデな経営を地味なものにしていこうとする氏の配慮がうかがえるのである。
黒沢氏は生きているかぎり、その斗いをやめないであろう。

<雑誌掲載文3 目次>

合理主義の人松田恒次氏<東洋工業社長>

最近十年間に、売上高は十倍、利益金は十四倍というふうに、確実に、それも非常な成長率をみせているのが東洋工業である。商売の神様といわれる松下幸之助氏を総帥とあおぐ松下電機にまさるともおとらぬ業績をしめしているが、その中心になって、この企業を推進しているのが松田恒次氏であることを知っている人も多かろう。
松田氏は明治二十八年に大阪に生まれた。父親重次郎は機械の虫で、その技術を深めるために、大阪の藤孫という鍛冶屋をかわきりに、呉の造船所、神戸の造船所、大阪の砲兵工廠、長崎の造船所、佐世保の海軍工廠、更に呉の造船所、大阪の砲兵工廠と転々と職を変えていった変り者である。少年恒次の心にやきついたのは、どこまでも求めてあくことのない父親の生きる姿勢であったろう。しかも、父親重次郎は経営者になった後も、決して、エンジニアの立場を離れない人であった。青年恒次は、それを身近かに感じながら成長していった。
二十一才の時、松田氏は大変な経験に直面しなければならなかった。それは、結核性の関節炎のために、左足を膝の上から切断しなければならないということである。「片足になる位なら、死んだ方がましだ」と思い悩むが、この冷厳な事実に直面する以外にない。松田氏のしんの強さ、運命を達観したような逞しさはこうした経験のなかから、次第に身についていったものであろう。
だが、松田氏が一本立ちして、そのような心境に到達するまでには数年を要した。その間には、いろんな道草も経なければならなかった。長いつらい生活ではあったが、立ちなおった。立ちなおったら、そんな経験をもたない誰よりも、強かった。逞しかった。
昭和二年七月に東洋工業に入社。ある日、使いに出た松田氏の眼に、横転した荷馬車がうつった。馬は脚を折ったらしく、もがきくるしんでいる。我が身をふりかえって、馬に対する同情が強くわいた。同時に荷車を馬にひかせなければよいのだがとも考えた。そこから生まれたのが三輪トラックのアイデアである。
父親は双手をあげて賛成した。昭和五年三月に2サイクル、250ccの単車の試作に成功、昭和六年十月、待望の三輪トラックが完成した。これが非常に評判がよくて、飛ぶように売れた。そうなると工場も拡張しなければならない。
彼の活躍につぐ活躍がはじまった。鹿児島ー東京縦断の大キャラバンという宣伝をしたのが昭和十一年、昭和十三年には取締投になった。
だが、この頃から、しだいに、東洋工業も戦争の渦にまきこまれてゆき、銃などをつくりはじめ、ついには、三輪トラックの生産は完全にストップするところまでおいこまれた。
戦後になって、父親の仕事を子供がつぐのは封建的だという社内の空気を察して、会社を辞職したが、昭和二十五年、労組などの要望もあって、取締役に就任、昭和二十六年には、社長になった。
彼は早速、ムダをはぶいてゼイタクをしよう。公私の別をはっきりさせようという、二つの命令をだした。コスト・ダウンしてお客に喜ばれる車を作るには、これ以外にないと考えたのである。
重役や部課長宅の電話料なども全部自分もちである。基本料金は会社が負担するが、奥さんがウドン屋にかける電話料は払えない、というのである。クルマも私用は絶対に許可しない。
変っているのは、会社に赤電話が多いことである。これも公私の別をあきらかにすると共に、限られた電話線を私用のためにふさがないという配慮である。
こういうことを数えあげたらきりがないが、要するに、すべてはコスト・ダウンに通じている。三十万円の乗用車「マツダR360クーペ」もこうした中から誕生した。
現在は、西ドイツのNSU社、バンケル社と技術提携して、ロータリー・エンジンの開発に会社をあげてとりくんでいる。もし、ロータリー・エンジンが実用化される段階にはいれば、自動車業界は新しい時代に突入するだろう、といわれているものである。東洋工業が、トヨタ自動車、日産自動車の生産台数、販売台数に食いこんで、天下を三分できるかどうかは、一にロータリー・エンジンの開発如何にかかっているといってもいいすぎではない。
「みんなで同じに働こう」「みんなで分とう」ということをスローガンにした松田恒次氏、もし、本当に心からそう思い、それを実践していくなら、天下を三分することも夢ではあるまいが。

<雑誌掲載文3 目次>

人間本位を地で行く武藤絲治氏<鐘淵紡績社長>

武藤絲治氏は昭和三十九年五月六日、創立七十七年の記念日を迎えて、大要つぎのように演説した。
「本年は、グレーター・カネボウ(より偉大なる鐘紡)建設計画の終了の年であります。いま静かに社中の戦友とともに、波乱にみちたグレーター・カネボウ建設発足以来の二年有余の歳月をふり返ってみますと、まさに戦いに明け、戦いに暮れた激戦の連続でありました。
鐘紡七十七年の歴史は汗と脂の労働のそれでありますが、この輝かしい歴史を今後守りぬき、さらに輝かしい歴史たらしめるものは実に社中戦友の皆さんであります。社中戦友の皆さんこそは、鐘紡の宝であります。また鐘紡繁栄の担い手であります。私は従業員の繁栄を通じて、鐘紡の繁栄をはかりたいと思います。そのために、現行の定年制を廃止したいと思います」と。
武藤氏は終身雇傭制の日本で、労働者が夢にまでみた定年制を廃止したのである。これが、社の内外に、異常な昂奮と反響をまきおこしたのも無理はない。それこそ、労働者が切望してやまなかったものであるからである。
多くの問題をかかえながらも、武藤氏はそれをふみきり、自らパイオニアの道を歩みはじめたのである。この精神はどこから生まれたのであろうか。
明治十六年四月二十五日、武藤山治氏の二男として生まれた絲治少年は生まれながらにして、絲に縁があったのかもしれない。
山治氏とは、御承知のように、鐘紡を日本有数の会社に育てあげ、後、時事新報の社長として活躍中、昭和九年に兇弾に仆れた男である。絲治氏はこの父から、正義と考えたら、それを断固と実行することを学んだ。
慶応普通部を四年で中途退学。学校にみきりをつけたか、それとも学校から追われたかのいずれかであろうが、福択諭吉のいない慶応には、それほど魅力を感じなかったことだけはいえそうである。
二十一歳の時に渡英した彼は、私塾の教育を求めて、寺小屋式の小さな組織の学校に入学した。どこまでも、先生の人間教育に接したいという彼の切なる願いによるものであった。試験といえば、せいぜい記憶の試験でしかなかった日本の学校を離れて、思う存分、自分で思索する生活を送った。
そこで求められたことは、とことん、自分で考える生活であった。そういう生活を五年間も送ったのである。馬鹿でないかぎり、自分で考え、自分で行動する姿勢を身につけようというものである。
加えて、自由というものには、非常に厳しい責任というものがあることを教えこまれた。自由と責任を本でなく、生活の中から体得したのである。それは、責任をとるかぎり、どこまでも自由であるということをも意味した。知らず知らずのうちに、日本の教育の形式主義に対して批判的となり、本当の自由を身につけていったともいえる。
昭和四年の春、日本に帰ってきた絲治青年にむかって、父親山治氏は「自分の道は自分で択びなさい。お前が択んだあとで、親としてなんらかの援助を与える必要があれば、援助してあげよう」といった。
英国での教育は自分で考えることであったが、父親の言葉もそれを更に促すようなものであった。絲治氏が新聞記者になろうか、あるいは文筆家・学者になろうかとあれこれ考えたのもむりはない。
その思考は一年間も続き、やっと、彼が択んだのは、製糸事業をやる昭和産業という会社であった。まもなく、昭和産業が鐘紡に吸収されることになって、結局、父が育てた鐘紡の、社員となったのであるが。
京都の下京工場長になったのが、三十一才の時。「工場の食堂はレストランではない。働く人のカロリーを科学的に計算して、できるかぎり栄養のある、うまいものを食べさせるように、努力しなくてはならない。工場の食堂が黒字だなんて一つも感心したことではない」といって、赤字を出すように厳命したのはこの時である。
また、当時の帰省者は45%もかえってこない。それというのも、工場側の都合でなかなか帰さない。まして、退社しますなどというと、余計帰してくれない。自然、ちょっと帰省するといって帰省するようになる。そのために45%が帰ってこないという数字になってあらわれていたのである。
彼はこれを狂っていると診断した。相互の信頼のない所に会社が発展するわけもないと考えた。そこで帰りたい者にはすべて申し出させて、往復切符代と八つ橋(京都名産)をもたせてやったのである。この信頼には皆感激した。はじめて、相互の人間信頼は生まれたのである。
今日の彼は、すべて、この下京時代が基礎になっている。それを導いたのは、英国での生活で身につけたものといえそうである。

<雑誌掲載文3 目次>

使命感に生きる男石原広一郎氏<石原産業社長>

戦前・戦中にかけては、その殆んどの事業を南アジアの地域にもっていた石原産業であったが、終戦で当然のことながら、その全てを失ってしまいながら、二四ーD除草剤の製造販売を通して、見事、会社をたちなおらせた男が石原広一郎氏である。氏は現在七十六才の高令にありながら、会長兼社長という要職について、除草剤を通じて、日本の農業革命にとりくむパイオニアである。
石原氏が生まれたのは、明治二十三年、農業に生きる長太郎の長男としてであった。
十五才の時、京都の農林学校に入学した広一郎少年は、卒業とともに、父を助けて農業にはげむ。朝は六時に家を出、夕方は六時に家に帰るという毎日であった。農耕の出来ない雨の日には、わらじを作り、なわないに精を出した。
土を相手の仕事には、人間関係のわずらわしさはなかったが、それがかえって、青年広一郎には不満でならなかった。
彼は、つてを求めて、京都府庁の農業技手になった。勿論、農業技手の仕事に甘んずる彼ではなかった。役人になった以上、高等文官の試験に合格したいという一念で、立命館大学の専門部に入学した。
だが、中学卒業程度のものは、英語の高文予備試験がある。しかも、語学は不得意ときている。いくら勉強しても自信が生まれてこない。そのため、どうしたものかと、日夜、煩悶する始末であった。
たまたま、南方にいっていた弟新三郎から、独立して、ゴム栽培を始めるという便りがきた。彼はわたりに船と南方にいくことを決心。時に大正五年、石原氏が二十七才の時である。
妻子をともなっての南方ゆきであった。そこで、ゴム栽培に従事するかたわら、鉄鉱石の調査にとりかかった。それというのも、シンガポールの植物園の丘で、無意識ににぎったバラストが褐鉄鉱であったということ、この土地には、必ず鉄鉱石の山があるという確信をもったためである。
鉄の原料が殆んどない日本に、もしそれを運べるならどんなにすばらしいことかしれないと思った。
石原氏は、それこそ、足を棒のようにして、一年間、山野をはいずりまわった。そこは人跡末踏であったし、虎や象のなまなましい足跡がある所でもあった。だが、石原氏の努力はなかなかみのらなかっった。しかし、それであきらめるような人ではない。
彼の忍耐強い努力は、とうとう、大正八年になって鉄山を発見させた。しかも、その鉄山は宝の山というか、全部鉄鉱石で、石コロは一つもないというほどに、みごとな鉄山であった。
鉄山を発見したが、次は、果して採掘許可が外国人におりるかという心配があったし、採掘して採算があうかどうかということも心配であった。だが、石原氏には、鉄鉱石のない日本に、どんなことをしても運ばなくてはならないという使命感があった。それが、発見したものの務めであるとも考えた。
日本に帰った石原氏は文字通り、東奔西走した。紹介状もなく、八幡製鉄所長官の白仁武に面会を申しこんで協力も願ったし、立命館大学の関係で、台湾銀行頭取の中川小十郎にも尽力を乞うた。
こうして、徐々に道は開けていった。出願中の採掘権も降りた。幾多の紆余曲折はあったにしろ、それからの石原氏の進む道は順風満帆であったといっていい。お金もどんどんもうかっていった。そうなると、欲もでてくる。違った使命感もわいてくる。いつか、石原氏は次第に政治に近づいていった。
徳川義親をかわきりに、大川周明、橋本欣五郎という人達に交わり、昭和七年には、とうとう『神武会』を組織し、会長に大川周明が就任するとともにその顧問になった。一切の費用を石原氏がうけもったのである。
昭和十一年の衆議院選挙には、京都二区から立候補したが落選、それから数日後に二・二六事件がおきた。石原氏は、蹶起将校に資金五千円を援助したということで、六月に東京憲兵隊本部に留置されたが、翌年一月には、無罪という判決をうけた。
その後、昭和二十年まで、陰に陽に政治にかかわっていくが、結局これという決定的なことをなし得ないままに終わった。
十数年間 政治運動に参加しながら、何もなし得なかったという反省、そこから、石原氏の戦後の人生がはじまる。彼は、自然の法則に反した政治運動であったから、実らなかったと思う。
昭和二十四年二月、巣鴨を出所すると、その足で、石原産業のために南方でなくなった人達の冥福をいのって、日本中を歩きまわった。深い自責から出たものであった。
今、石原氏は、若き日に、父を助けて農業をいとなんだ如く、使命感に支えられて、農業になくてはならぬ除草剤の生産にとりくんでいる。おそらく、彼の中では、そのことが一になってとらえられている筈である

<雑誌掲載文3 目次>

商売ほど面白いものはない上原正吉氏<大正製薬社長>

毎年所得第一であった松下幸之助氏をぬいて、とうとう、昭和三十九年度の所得の王座についたのが上原正吉氏である。
それを裏づけるように、昭和三十四年度の売上高35億円、利益高5億円が昭和三十八年度には売上高が171億円、利益高が44億円という異常な発展をしめしている。しかも、奥さんの小枝夫人も名目だけの副社長でなく、実際に経営にタッチして、その二人三脚ぶりを十二分に発揮しており、どこまで発展するか想像つかないというのが現在の大正製薬の実情である。
上原氏は明治三十年十二月二十六日、埼玉県杉戸町に生まれた。父親は小学校の教師であったが、正吉少年が八才の時になくなった。母親もその前年になくなっている。そのため、お兄さん夫婦に育てられた。
高等小学校を終えた正吉少年は、今度は東京に住んでいる兄さんをたよって上京。そこから、神田の錦城商業学校に入学した。大正三年に、そこを卒業した彼は、自分に相応しい、それでいて将来性のある職場を求めて、一年間さまよっている。
彼は、人生はやり直しがきかない以上、就職先の選択は慎重でなくてはならないと考えたのである。毎日、新聞の求人広告を読み、職業紹介所も訪ねて、経営者と事業の二つに将来性のあるところをさがし求めた。これはと思われる就職先は、手あたり次第訪ねた。経営者の人物試験をやってまわったのである。こうして、一年目に、やっと、彼は大正製薬所の石井所長とめぐりあうことになった。
経営者と仕事を択んで入社した彼に、仕事と職場がおもしろくないわけはない。仕事は自分から求めてやる。石井所長とは呼吸があうというぐあいで、会社も面白いほど発展した。
彼の仕事は外回りの販売であったが、そのなかで「問屋をやめて、小売店直接に改めるべきである」という考えに到達した。「問屋や卸商は不況に弱い。倒産するものもでてくる。そうなると、その損害をもろにうける。それに、商売の基礎である製品の販売網が借りものではいけない。問屋が長年かかってつくった親近感や信頼を、大正製薬そのものでももつべきである。」と考えだしたのである。
勿論、社長も同僚も始めは反対した。「問屋を敵にしてはまずい」といって。しかし、彼は忍耐強く説得していったのである。
大正製薬の今日のチェーン店は、当時の小売店がかたまったものといえる。そうこうしているうち、大阪に進出することになった。勿論、上原氏が初代の大阪支店長である。
大阪といえば、薬業界の本場であり、大正七年にも大阪支店をつくったが、その時は敗退している。
だから石井社長(株式会社にあらためている)の決意もなみなみではない。だが、大正製薬が、日本の製薬会社となるためには、どうしても、大阪に地盤をもつ必要があった。
支店長として上原氏が考えたことは、結局、誠実な努力を重ねていくということであった。商売はつねに対等で長続きする取引きでなければならないということであった。彼は、取引き先にムリをいったり、商品を押しつけることを厳禁した。
当時のビラにはつぎのように書かれている。
「押売り防止に御協力下さい。押売りは返品の原因となり、返品は生産原価を高騰させ、経営を悪化させる最大の原因となりますので、つぎのとおり、御協力のほど願いあげます。お伺いした外商員に御注文下さるときは、必ず外商員が持参する注文用紙を用いさせ、品目数量をお確めの上、最後の行に『次下余白』と記入させ、あとから品目を追加できないようにして、それから、ご判を押して下さい。『以下余白』と記入してない注文書には、決してご判を押して下さらぬよう、くれぐれも願いあげます」と。
総勢7名から出発した大阪支店は、五年目には140名になり、八年目には、東京本社の売上高をうわまわるまでに成長するのである。
とうとう、昭和十三年には、東京本社の営業部長となり、東京本社の体質改善にのりだす。それまで140種類もあった紙箱の型が30種に、150種類ぐらいあったビン型が四分の一に整理される。直営の印刷工場をもつ。徹底的に合理化にとりくんだのである。
昭和二十一年に社長になってからは、文字通り、順風満帆というところである。
「昔は私も商売というものは、金もうけが目的であると考え、金もうけに一生懸命になったが、さっぱりもうからなかった。そのうち、製薬という商売そのものが、おもしろくて、おもしろくてたまらないようになってきた。そうしたら、事業はドンドン伸びていった」
というとき、上原社長の笑いはとまらないようにみえる。

<雑誌掲載文3 目次>

「松下幸之助・絶対無責任の“哲学者”

「松下幸吉という人の本にありませんか」
「松下幸之助とちがいますか」
「あ、そうでした。松下幸之助というんでした。その人の書いたものなら、何でもいいんですが、ありませんか」
このやりとりは、偶然、ある本屋にたちよったとき、耳にしたものである。松下の書いたものなら、何でもよいというのである。それほど評判なのである。それを裏書きするかのように、鉄道弘済会の売店はどこでも松下幸之助の書いた書物を売っていないところはない。どの本か、必ずある。それほどに、松下の書いた書物は多い。しかも、その多くはベストセラーにまでなっている。今では、中高校生の理想の人物は松下幸之助が圧倒的に多いという。中学校の道徳教育のてびきにのったためでもあるまいが、その人気はたいしたものである。
だが、松下がそういう人気を得たのも一面無理はないかもしれない。

商売の神様から哲学者に

松下幸之助が、昭和七年五月五日、
「……実業人の使命というものは貧乏人の克服である。社会全体を貧より救ってこれを富ましめるにある。商売や生産は、その商店や製作所を繁栄せしめるにあらずして、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。社会が富み栄えて行く原動力としてその商店、その製作所の働き、活動を必要とするのである。その意味においてのみ、その商店なり、製作所が盛大となり、繁栄して行くことが許されるのである。商店なり、製作所の繁栄ということはどこまでも第二義的である。しからば、実業人の使命たる貧之を克服し、富を増大するということは何によってなすべきか。これはいうまでもなく物質の生産に次ぐ生産をもってこれをなすことができるのである。いかなる社会状態の変化があっても、実業人の使命たる生産に次ぐ生産を寸刻を忽せにせず、これを増進せしめて行くところに産業人の真の使命があるのである。
あの水道の水は加工され、価あるものである。今日、価あるものを盗めば、咎を受けるのが常識である。しかるに道端にある水道の水の栓を捻って、あまりの暑さに行人が喉を潤さんとて存分にこれを盗み飲んだとしても、その無作法さをこそ咎める場合はあっても、水そのものについての咎めだてはないのである。これはなぜであるか。それはその価があまりに廉いからである。何が故に価が廉いか、それはその生産量があまりに豊富であるからである。いわゆる無尽蔵に等しいがためである。ここだ。われわれ実業人、生産人の狙い所たる真の使命は、すべての物質の水のごとく無尽蔵たらしめよう。水道の水のごとく価を廉ならしめよう。ここにきて始めて貧は征服される。……」(「私の行き方、考え方」)と述べてから、三十余年、松下電器は生産に次ぐ生産で、新製品の開発に次ぐ新製品の開発で、日本の企業の中では、十指に数えられる所までこぎつけたのである。例えば、昭和三十年における総売上高二百二十一億円が昭和三十五年には一千億円をこえるという有様であった。五年間に五倍になったのである。池田前首相は十年間に所得が二倍になるといって物議をかもしたが、松下電機のそれははるかにそれを上まわっている。
といっても、松下がどれだけ、現実の貧乏の克服と取りくんで貧乏をなくしたか、甚だ疑問だが、要するに、彼は一大の成功者となり得たのである。毎年所得第一位の位置をしめつづけているのである。この実績を前にして、いつしか、松下は商売の神様にまつりあげられていった。
いろんな所から、講演をたのまれるようになり、頼まれればいやといえない彼はのこのことでかけていった。それは、彼の説く社会奉仕にも通じていた。そして、いつか、経営者というよりも、人生哲学を説く哲学者として、人間教育を説く教育学者として、演壇にたつようになっていた。その立場から、「物の見方、考え方」「仕事の夢、暮しの夢」「みんなで考えよう」「繁栄のための考え方」などの著書が書かれはじめ、前述のように非常な売れゆきをしめしているのである。
だが、そうなると、松下には、人生哲学者として、また、人生の教師としての責任がかぶさってくることになる。読まれることが多ければ多いだけ、いよいよ、その責任は重大である。責任を説く松下に、果してそれに堪えうるだけのものがあるのであろうか。

戦争協力の口をぬぐって

電気業者の松下は、戦争中、軍の命令で船を造り、飛行機まで作った。全面的に戦争に協力したのである。それは多くの人が歩んだ道ではあるが、哲学者松下には、少なくとも戦争のすんだあとに、戦争そのものについての根本的な問いがなければならなかった。それが、人生の教師を志す者のぎりぎり最低の良識であり、姿勢である筈である。だが、数多くの著書のどこをさがしても、戦争に対する根本的問いもなければ、反省もない。あるのは、ただ「さあ、これから再建だ」という言葉だけである。勿論「無謀な戦争はしない方がいい、戦争よりも平和の方がいい。これからは平和でいこう」という程度の、誰でも持ったような意見は持ったであろうが、要するにそれだけである。
「戦争下、国家に御奉公するのは当然である」という自分の考えに一度も疑問を懐いたことのない、おめでたい男である。国家が正しい方向に歩んでいるか、間違っている方向に歩んでいるか、ついに問うてみることはなかったのである。
そのために、松下が著書の各所で「祖国を愛そう、社会秩序を守ろう、義務を果そう」と訴えても、それはうつろにしかひびかないのである。祖国を愛することに反対なものはいない。だが、どんな祖国かが問題なのである。どんな社会秩序かが問題なのである。義務についても同じことがいえる。それも、結局、戦争をめぐって、二つの祖国が生まれ、二つの秩序があり、そこから、異なった義務が生ずることを学ばなかったためである。戦争を思想的にうけとめ、そこから学びとっていくことは、戦後に生きる日本人の当然のつとめであるが、哲学者を志す者であればなおさらである。
戦争から、何も学びとらなかった人間は、哲学者として、人間の教師として落第である。資格を欠いているといってもいいすぎではない。松下もまたその一人であると私は断じたいのである。

お粗末な信念哲学

このこととは別に、松下の考え方のいいかげんなところを次にのべてみたい。
松下は「仕事の夢、暮しの夢」の中で、
「社長の月給はやすすぎる」と題して、
「私はアメリカに行ったときに、RCAの会社を訪ねて、そこの人たちと話をしたが、その時に、
“ミスター松下、あなたの国は、各会社または役人の収入の上下の格差はどのぐらいありますか”と聞かれた。私が、
“あなたのところはなんぼあるのですか”と聞いたら、
“私のところは五十三倍です。ところがソビエトでは三百倍だ”という話だった。ソビエトのことは調べたわけじゃないけれども、聞くところによると、どうもひじょうに格差が多いようだ。
私は他の会社では、どうか知らないけれども、日本では大学を卒業した人が一万二千円だとすれば、その五十三倍といえば六十五万近いことになる。いま、社長や専務の収入がそんなにあるところはほとんどないのではないか。官史の場合は総理大臣の収入は大学出たての者の十五倍くらいでしょう。そういうことを考えてみると、日本は収入の差がなさすぎるのではないか。これはどっちがいいかということになると、なかなか論議があると思うが、一番平等で差がないように考えていたソビエトが、三百倍だということは一大発見だった。この差がなんぼあることが適当かということは、むずかしい問題だけれども、われわれの常識から判断すると、少なくともアメリカあたりの差額は、まず許されていいのではないか。そこに経営者としての責任も十分に果せるだろうし、また新しく入った者にも、自己の努力によっては、五十三倍までいけるのだという希望をもって、仕事をはげむことができる。
たかだか十五倍くらいでは、そういう意欲は湧いてこないのではないか」と書いている。
ソビエトの場合、もし三百倍であったとしても、それは全収入の比較であり、最高と最低の比較である。とすれば、日本もアメりカも、その全収入を比較しなくてならない。日本に即して言えば、大学卒業生でなしに、中学卒業生、厳密には、中学を中退して働いている者の収入と高額所得者の収入と比較しなければならない。例えば、松下氏の昭和三十八年度の収入は四億八千四百三拾五万円ということになっているが、それを比較しなくてならない。最低十五万の収入とすれば、約三千五百倍である。十五倍でなくて、三千五百倍というのが本当である。アメリカの場合、年間収入が一千万ドル以上とすれば、三千五百倍どころではないであろう。到底。ソビエトの三百倍の比ではない。本来なら、比較できないものを比較してみせ、平等である筈のソビエトが最も格差があるという価値判断までしてみせるのである。
松下がここでいわんとしたことは、社長の月給がやすすぎるということであるが、果してやすすぎるか。また、高かった場合、責任を果せるかどうか、検討の余地がありそうである。また、昭和三十七年、東北大学の学生二千名を前にして、「運と人生」と題し、松下は自分は運がつよいという信念をもつに至った経緯を一時間半にわたって、次のように講演している。
「……十七才のときに、私は奉公をやめましてセメント会社の工夫に入りました。その工場が大阪築港の出島にありましたから、毎日巡航船でかようのであります。ある日、仕事を終えて巡航船に乗って築港まで帰る時に、私は巡航船のふちに腰をかけて、ちょうど夏でありましたので涼んでいました。その時にその船べりを船員がやってきて、私をまたいで通ろうとした。その時にどういうものか踏みはずしまして、海の中へ落ちた。その落ちこむ時に思わず私を抱きこんだのであります。あっという間に、私はその船員とともに海の中へ落ちた。あまり泳ぎを知らなかったのですが、とにかく、もがいて水面まで上がった時は、もう船は大分向こうへ行っていました。無我夢中でした。幸いに夏でもありましたので、その船がもどってきて助け上げてくれましたが、その時に私はおれは運がつよいぞと思いました。これが冬であったら死んでいるな、幸い夏だったから助かったのだ。そうすると自分は運がつよいのだと思ったわけです。ここで、ああ助かったと思っただけならばそれだけの話です。しかし、私は、こういうようなことに直面して死なないということは、おれは非常に運が強いなと思いました。これほどに運が強ければ、私は容易に死なないぞと思いました。そして、ことに処して自分はある程度のことはできるぞというように何気なく考えたのであります。
皆さんはさきほど申しましたように、いくたの関門を通ってこの名誉ある東北大学の学生になられた。そのことが皆さんについている運なのです。運のない人は、この大学へははいれなかった」(「みんなで考えよう」)
松下には、夏であったから、船べりで涼んでいたのであり、冬であったら、涼んでいないことが考えられないのである。海には、夏には落ちても、冬には滅多に落ちることはないと思いつかないのである。こういう、たわいない体験をもとに、俺は運が強いという信念を持ったことを得々と語っている。
成程、信念をもつことは良い。信念はもたねばならない。だが、東北大学生を前にして、信念を持つにいたった経緯を語るには、あまりにもお粗末であり、お手軽である。少くとも信念は思考にたえうるものであり、思考の極に到達するものである筈である。偶然の、それも盲目の思考から生まれるものは、到底、信念の名に価しない。知識人の信念にはなり難いものである。
このような個所は、著書のいたる所に見える。長所を見ないで短所を見るのは、人間として最低だという松下の声がきこえてきそうなので、このぐらいにとどめたいが、要するに、松下の話は、この類である。なかには、ぴかっと光るところもないことはないが、それは体験に根ざした経営を説く限りにおいてである。人生哲学を説く哲学者、人間の教育を説く教育学者としては、お粗末というしかない。本が沢山売れることにおいて、お粗末といってすまされないものがある。責任を説く松下氏として、哲学者、教育学者としての重大な責任をどうしようというのであろうか。社会や人間に対しての責任をどうしようというのであろうか。それを考えきらないほどに、哲学者松下の頭は非哲学的なのであろうか……。

崩れかけた偶像

商売の神様はあくまで商売の神様に徹してこそ、その輝やきを増すのではないか。現に、哲学者、教育学者として、その体験を書き、話をしている間に、本家本元の経営は留守がちとなり、会長でありながら、営業本部長という職にカムバックする(?)という変則的なことまでおきたのである。それは、需要が頭うちして、在庫がどんどんたまってきたためであり、松下氏もついにがまんしきれなくなったのである。
「凡夫の浅ましさ、さっぱりワヤですわ。日本の企業は力もないのに設備ばかり広げると三年前の文芸春秋に苦言を書いて、読者賞をもらった。ところが、それを自分で忘れとった」(朝日新聞、昭和三十九年十二月二十一日)と、はずかしげな顔をしていわねばならなかったのも、哲学者ぶって、ウツツを抜かしていたからである。
松下が本当に貧乏をなくすることに取り組むのはこれからである筈である。「水道のごとく物資を無尽蔵たらしめよう。水のごとく価を廉ならしめよう」と言ったが、物資は水道のごとくにならないうちに滞貨し、水のごとくに廉価にもならないうちに大きな璧にぶちあたってしまった。松下の素朴な経済論をあくまでつらぬこうとすれば、なにかを考えなくてならないし、その意見を捨ててしまうなら、また、何かを考えなくてなるまい。いずれにしても、松下はいま、その壁の前にたっている。崩れかけた偶像が再び復活するかどうか、すべてはこれからにかかっている。
しかも、それは、哲学を通してではないことははっきりしている。

<雑誌掲載文3 目次>

「東竜太郎・無責任と非良識の転落一代

政治的ロクデナシの出発

昭和三十八年四月二十五日の読売新聞は、東竜太郎が東京都知事選に当選して、都民の前に第一声を放った時の様子を、
「真黒に日やけした東さんは、数寄屋橋前で、都民の前にたった。『私が皆さんの信任を得て、東京都知事になりました東竜太郎です』との第一声は本当にうれしくてうれしくてたまらないようにはずんだものだった」と報道している。
当時、数寄屋橋前で、直接に、東知事の声をきいた者も、新聞でこれを読んだ者もオヤと首をかしげたものである。
ここには、どうみても、十二年間にわたって都政を壟断して、腐敗の極になげこんだ安井都政をその泥沼からひきあげようとする東の決意というよりは、むしろ、名誉欲を最高度に満足させた東しかなかったからである。「なによりも名誉欲のつよい男」という風評をうらがきするような東の姿であった。
東を支持した者は勿論、東を支持しないまでも、安井よりは、まだましと思っていた者も、東の喜びようがあまりにも手放しなので、こんなことで大丈夫かなと思ったものである。
だが、多くの都民のこの不安は適中した。都知事になった東は、その日から、転落を始めたのである。転落するしかなかったのかもしれないが……。
都知事選にでるまでの東について、ささやかれた言葉に「可もなし、不可もなし、金もなし、責任もなし、子分もなし、なしが五つつくので、もう一つつけば、ろくでないということになる」というのがあるが、東は、その最後の一つを良識をなくするということで、とうとう、ろくでなしとなったのである。
おそらく、東大名誉教授で、茨城大学長という立場は、良識の持主という別名でさえあったろうが、東は都知事になることによってそれを捨ててしまう。そして、無責任と非良識を車の両輪にして転落していく。それは、文字通り、とどまるところを知らないというふうに……。

都民への徹底的な面背腹背

私はさきに、都知事になるとともに、良識をなくしたと書いたが、厳密には、都知事に立候補した時が、東の良識を失う第一歩であったといえる。
東はずうずうしくも
「二月ごろ、自分を都知事候補にということであったが、政治にはしろうとではあるし、本気にしなかった。ところが、六月ごろから、話が再燃し、各方面からの大手、からめ手からの交渉があって、ことわることができなかった」(毎日新聞・三十三年九月二日)と言っている。
東がいうように、もし、東が政治にしろうとであるなら、たとえ、各方面からの要請があったとしても、一千万都民の政治の責任者となることを、どのようにして、自分に納得させたのであろうか。
東大教授を経て、茨城大学長にまでなった東に、それを考える能力がなかったと思えない。現に、都知事の職にふさわしくないと、始めは拒絶しているのである。だが、彼の名誉欲が、結局、その判断に優先したのであろう。彼の中の無責任野郎も動きだしたにちがいない。こうして、東は、都知事に立候補したのである。
当時の自民党総裁岸信介から、どのような好餌をもって、さそわれたかを知るよしもないが、岸信介の誘いにのることによって、一千万都民をだましたということができる。彼は自民党の方にむかって立ち、都民に尻を向けた。そして、それによって、良識をまもるという立場、いいかえれば、良心を売りわたしたのである。
この日から、政治にとらわれない、純粋なスポーツ界の大御所東竜太郎は、永久に姿を消したのである。
良識を捨て、良心を売りわたした者の辿る道は、魂のないロボットでしかない。自民党のロボット東竜太郎しか存在しなくなったのである。
だから、選挙に、
「政治や行政について、青年の信頼をうることがなによりの対策である。清潔な政治、正しい行政がいろいろな社会教育に先立って必要である」
と、まことに、もっともな政策をかかげて闘いながら、その選挙はいたって汚れていたというしかなかった。選挙告示前だというのに50万枚の年賀状、百万枚のポスターなど、数えあげたらきりがない(日経・三十四年一月四日)
「役票の三日ぐらい前から、江東の密集地帯に一億円近い金を区会議員に渡して、働きかけたといううわさもある。……なにしろ、資金の面でも、十億円とか、二十億円、衆議院戦につかう位の金を都知事選につぎこんだといううわさ……」(週刊朝日・五月十日号)
対立候補有田八郎を誹謗するパンフレットも沢山印刷された。それは、到底、270万の法定選挙費用のなかで闘われた選挙ではなかった。
青年の信頼をかちとる政治をかかげた東が青年を裏切るような、政治への不信を倍加するような選挙で、政治家への第一歩をふみだしたのである。
しかも、東は「私は何も知らない」といって逃げたのである。だが、逃げることによって、自民党やそれに連る人達と共犯者になった。共犯者の位置に転落したのである。
東が共犯者ではなく、弾劾者になる道は、汚れた手によって戦われ、そうして得た都知事の椅子を拒絶することであった。良識をもち、良心があるなら、都知事の椅子にはつけなかった筈である。
だが、東は都知事になることによって、そのチャンスを捨ててしまった。昭和三十八年の都知事選の時はもっと甚しかったともいえる。
この時の都知事選はもはやいかなる意味でも選挙といえるものではなかった。対立候補にまぎらわしい人物を幾人も立候補させ、得意でない東のために、立会演説会の演説時間は少なくする。演説会場では妨害する……。
はては、ニセ証紙を沢山つくって、東のポスターをはる。選挙用ハガキは横流しするなど、無法街の選挙であった。
問題は、法的にみて、東に責任があるかどうかではなく、また、東が知っていたかどうかでもない。こういう無法を東が認めるかどうか、こういう無法の上に、東があぐらをかけるかどうかという良識の問題、良心の問題である。
法の不備は、良心や良識で補って、どうにか、かっこうのつくもの、もし、その不備につけこんで、それに乗ずるなら、もはや、法はあってなきが如きものである。
だが、東は、
「選挙はフェアーにやってきたつもりだ」とうそぶいて、またも、都知事の椅子についてしまったのである。
こうなると、法の不備につけこみ、“悪法のうえに居なおった東”というしか、他にいいようがない。
少なくとも、東に良識があり、失われた自己の復権のチャンスをさがしていたなら、東にも復権のチャンスはあった筈である。昭和三十四年の都知事選の醜さを熟知した東は、昭和三十八年の都知事選では、絶対に不正をうけいれない決意ができた筈である。不正のうえに闘われる都知事の椅子は決してうけいれない。と前もって、自民党に通知することもできた筈である。
それが、東の立場であり、選挙の立場でもあった、失われた自己の復権ばかりか、自民党を正す立場にも通じていた。共犯者であることをやめる道でもあった。だが、東は、その道を択ばないことで、もっともっと、ひどい奈落の世界におちこんでいくしかなかったのである。

海軍司政長官の経歴

この選挙に先だって、東は、ある雑誌の座談会で、
「僕は水についてはシロートで、水のことはあまり考えたことはないんですよ」と放言した。
無神経というより、こうなると、ずうずうしいというしかない。要するに、東は、しろうとを売りものにしているのである。
だが、果して、東は政治にしろうとなのであろうか。
東は戦時中、セレベス、マカッサルで海軍司政長官をし、戦後は、厚生省医務局長をしていた。どんな司政長官であったかを知ることはできないが、その名誉心を満足させながら、何かをしたであろう。医務局長時代は、かなりの抵抗の中に、医療団解散をやってのけているし、ことに、昭和二十五年、ウィーンのIOC総会にオブザーバーとして出席した時など、IOC委員永井松三を引込めて、自分をIOC委員にするよう東京に要請し、その諾否をまたずに、永井と交代して出席し、日本が国際オリンピックに復帰できるよう運動している。
たしかに、東は都政にはしろうとであろうが、政治には決してしろうとではなかったのである。
かけひきを知っている男ということもできる。その東が、政治にしろうとだということは、しろうとであるポーズをとることは、二重の意味で、都民をだましていることになる。
自民党は、東は政治にしろうとであるから、その手はよごれていないという印象を都民にうえつけようとし、東自身も積極的にそのポーズをとったのである。だが、東は戦犯にこそならなかったが、海軍司政長官であることによって、決定的にその白い手をよごしている。もしかすると、洗っても洗っても、きれいにならないほど、その手はよごれているかもしれない。
決定的な形で、戦後を再出発することのなかった東は、容易に再び、政治のよごれに身をひたすこともできたといえるのかもしれない。学者でありながら、珍しく学者的潔癖さのないのもそのためかもしれない。
だから、不正や汚職を正すポーズをとりながら、東が知事になって以後も、全然、汚職や腐敗がへらないのである。
例えば、都が出資金・補助金を出している外郭団体はおよそ470団体。金額も300億をこす。これらの外廓団体を整理するというのが東知事のはじめの態度であったが、一向にそれが整理されず、毎年の監査では、その経理がルーズなこと、使途不明の金があることで監査の対象になったいくつかの団体が指摘されているのである。
加えて、昭和三十七年十二月には「愛都運動協会」という新しい団体が発足した。都民に東京都を愛する気持をうえつけようというのである。会長は当時、都議会議長であった建部順で、その時の交付金は2500万円。ところが、建部が昭和三十八年五月汚職でつかまった。そうすると、建部はこの協会からも三百万円せしめていたことがわかった。経理がこんなにルーズだから、そのほかに、車代その他で、その出費は、非常に多額にのぼっている。この協会に、都は昭和三十八年度1900万円交付し、さらに昭和三十九年度には2000万円を交付しようとしたのである。
東のいいぶんは「同協会は役員をかえ、組織を建直したので、目的を果たしうると思って、新年度も補助金をだすことにした」というのである。これでは、東も同罪どころか、同じ穴のむじなというしかいいようがない。外郭団体が整理されるどころか、その悪を助長さえしているようなものである。
このほか、江東区有明町にある40万平方メートルの土地を、三・三平方メートル当たり、26円という、到底信じられないような値段で、昭和二十七年以来、貸していた例もある。もちろん、それを貸している相手は、元都長官松井春生、元港湾局長高橋登一が重役をしている会社である。こうしたものを数えあげたらきりがない。
しかも、こうしたでたらめさが、都職員の不正や退廃を誘発するのである。都職員それも下級職員が汚職するのもむりはない。しかも、そのために迷惑をうけるのは都民である。

腐臭に居直るウジ虫の末路

議長の交際費数千万円、そのために、この椅子をめぐって現ナマがとぶ。現在、都民の怒りをかっているのも、此の議長の椅子のために、贈収賄がおこなわれ、十数名が逮捕され、起訴された。
腐敗しきった自民党議員もさることながらそれには関係がないような顔をしているのが東である。
しかも、その東都知事の交際費が、これまた、四千三百万円ときている(三十九年度)。最近、世論の攻撃で、昭和四十年度は、七百万円を削ったが、簡単に七百万円をけずる程に、いいかげんなのである。
議会費のなかに、委託費、需要費という名目の金が、七千万円もあるが、これなど、ほとんどが、くいぶちであるのだから、驚くほかはない。
外廓団体には無用の多額な金を出し、都の物品は安く貸し、議会や理事者は宴会にあけくれる。それでいて、東は東京都には金がないと二言目にいうのである。それで、各方面の値あげをされたら、都民はたまらない。
ひどいのは水道の値あげ。さんざん、断水に苦しめられた上に、給水制限中の値あげである。しかも、議員を説得してまわるのに、二千円相当の手みやげを持参した。それが税金であることはいうまでもない。どこまで、腐敗しているというべきか。
これなど、結局、東がさせているというしかないものである。
池田首相もたまりかねてとうとう「東京都政には政治がない」というまでになった。逆説的に言えば、自民党に見捨てられるほどの東の政治力である。政治にしろうとではのないである。水道のねあげで、水道を敷設するというなら、誰にでも出来る。値あげによらないで、資金を作ってくるのが、都知事の政治力というものである。
すべて、このように、東の政治力とは、つまりは何も出来ないということである。六年間唯一つ出来たオリンピックを除いて、何もしなかったというのが当っている。
清潔な政治をかかげて、清潔な政治を何一つ出来なかった東。その東に多くの都民は同情さえしている。「東さんは清潔な人、だが、東さん一人に都庁の浄化を望んでも気の毒である」と。
果して、そうだろうか。
私には、東は都知事として、最限なく、汚職という共犯者の道を歩んでいると見えるのである。以上に見てきたどの一つを取ってみても、不正を正す東の姿勢は全然みあたらない。不正を助長さえしている。
まして、公的地位にいて、なにもしないということは、最大の悪でさえある。たとえ、個人的には、どんなに善意であろうと、善意だけで、なにもしないということは、多くの人が悪におちいるのを防ぐことは出来ない。
東自身が不正をはたらいて、私腹をこやすということはおそらくなかったであろう。東個人としては、それは立派なことかもしれないが、都知事東としては、少しも立派なことではない。
東は二口目には、「私は知らなかった。私には関係がない」というが、知らなかったり、関係がないことで、都知事の職がつとまると錯覚しているところに、問題があるのではないか。「東は清潔だ」「東は気の毒だ」と都民に、思われること自身、都民をだましているのである。
東を信じてきた都民ほど、みじめなものはないといえそうである。しかも、なお、今日東を信じているというに至っては……。
よくもここまで、東は都民をだましたものである。東はこの六年間、良識を捨て、良心にそむいて、共犯者の道を歩んだ。しかし、此の辺で、良識と良心をとりかえして、自己復権をはかるときである。それが何によってか、聡明な東にわからぬ筈もなかろう。七十歳をこえた東は、そろそろ、清潔な人生にたちかえっても、よさそうである。罪ほろぼしをする必要がありそうである。

自民党では、次期知事候補に某警視総監を予定だと聞く。都庁の腐敗を党内のコンチハ相撲で片づけるつもりか、政治の季節への配慮か、東の花道も多発である。

<雑誌掲載文3 目次>

「内藤誉三郎・思想も節操もない官僚の典型

内藤誉三郎という人物が、果して、此の欄で取りあげられるに価いするほどの男かどうかはわからないが、東京文理大を出た彼が、先輩の福田繁をおいぬいて、文部次官となったばかりでなく、文部官僚としては、まれにみる能吏として、戦後の文部行政を意欲的に手がけてきた男として、たしかに、戦後の彼を除いて、文部行政を語ることはできない。
しかも、この七月には、参義院議員となり、文部行政に精通する者の少ない自民党議員の中にあって、今後は、そのチャンピオンとして、一層の活躍が期待されている。その意味では、優に、きょじんの名に値しよう。
ただそれほどの彼ではあるが惜しいことには、同じきょじんでも、巨人ではなくて、虚人の部類に入るように見える。そうであれば、巨人でなくて、虚人を先頭におしたてていこうとする自民党もまた、悲劇というしかない。

庶務課長・三十七歳の夢

昭和二十四年八月に、内藤が「学校教育法について」と題して書いた論文には、
「人は生れながらにして平等であり、そこには支配する者と支配される者との特別な関係はなく、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されないのである。しかも、国民一人一人が個人の尊厳と価値の下に、永久に侵すことのできない権利として憲法において基本的人権が保障されているのである。
帝国憲法におけるがごとく、法令によって信教の自由、言論集会結社等の基本的人権が如何ようにも制限されることはあり得ないのである。この基本的人権が、国内政治の面においては主権在国民の思想となって現われ、『そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、この福利は国民がこれを享受する』民主主義の政治原理が生れたのである。他面国際的には平和主義の思想となって現われ、戦争抛棄を中外に宣明して恒久平和の実現に努力せんとしたのである。従って新教育の目的もこの新憲法の線に沿って確立されたのであって、従来の、如き『皇国の道に則る皇国民の錬成』という劃一的形式主義の教育を排して、個人の尊厳と価値の誠識の下に、人格の宗成を目指し、真理と平和を希求する人間の育成に重点が指向されているのである。従って個性尊重の教育が行われなければならない。
人格の尊厳、個性尊重の観点から従来の教育を見るとあまりにも中央集権的であって、教科書、教科内容授業時数に至るまで、細大もらさず規定され、その枠から一歩も出ることができなかった。従って教育は劃一的、形式的に陥り、地方の実情と個性の発達に適応することができなかった。教員も生徒も、創意、工夫研究により天分を十分に伸ばす、伸び伸びした教育が行われなかった。この度の改革においては、特に教育における地方分権の方向を明示して、高等学校以下は原則として教育委員会の監督に委ね、中央においては最低の基準を示すにとどまり、教員自ら地方の実情と個性の発達に即応できる余地が十分残されているのである。教育者は、政党や官僚の不当なる支配に服することなく、安んじて、人間育成の大業に精進されたいのである。ただ教育の自主性も、教育が直接国民に責任を負って行われなければならないのであって、教育者の独善は許されないのである。ここに、学校の経営を管理し、教育上の重要問題を審議する為の公選による教育委員会の設置が要望されるわけである」(「新教育基本資料と其の解説」学芸教育社刊)と、述べている。
これは、彼が三十七歳の時の論文で、当時学校教育局の庶務課長のポストにあった。三十七歳といえば、もう、自分のいったことに責任をもたねばならないし、あの時は、若気の至りであったということが許されない年齢である。そればかりか、思想する者には、それなりの結論に到達する年齢でもある。
もし、内藤が思想する人間なら、まさに、そういう年齢に達していたことになるし、その後は、その思想の深化とその実現に邁進した筈である。
だが、内藤のその後は、それとは全く逆の道を歩んでいる。その立場を全くふりすてて省みようとしないばかりか、その立場を一歩一歩とつきくずす方向に進んでいる。内藤にとって、三十七歳の思想的立場とは、一体、如何なる意味をもっていたのだろうか。それは、彼のポーズにすぎなかったのであろうか。

変わる、変わる、また変わる

戦時内閣の内相であった大達茂雄が、長い追放生活の後、昭和二十八年五月、文相としてかえり咲いた。戦争というものを、如何なる意味からも反省した形跡の見えない、この男は、文相になると、早速、教員の政治活動を禁止する教育二法を成立させて、文部省と日教組の対立を決定的なものにした。此の時大達を助けたのは、内務官僚から文部省に移ってきた田中義男であり、緒方信一である。内藤は、文部行政に暗い彼等を補佐することで、その信用を深めたといわれている。教育二法が、国会が審議されている間は、大臣官房庶務課長というポストで、彼等とともに、常に国会に出席していた。
教育二法の成立に、力があったかどうかはわからないが、何かで、その実力が大いに買われたことはたしかで、それからの内藤は、立身出世の道をひたばしりに走る。即ち、昭和三十年四月、調査局長、同年九月、社会教育局長、昭和三十一年十一月、初等中等局長、昭和三十七年一月、文部次官というふうに。しかも、その間、一貫して、一歩一歩と大達の文部行政をおしすすめる役割をになってきたのである。
内藤が、初中局長として、あるいは、文部次官として、やってきたことは、どの一つをとって見ても、昭和二十四年に、彼がのべた立場とは全く相反する。
かつて、帝国憲法の限界を鋭く指摘した彼が、文部次官になってからは、
「明治憲法があの時代にできたのは画期的のことであった」(家永三郎著「教科書検定」)というふうに変わっている。この立場の違いは決定的でさえあるが、すべてがこの調子である。
文部省が、官僚がやる文部行政に対して、断乎と反対することを求めたのは、内藤であった。そして、教科書や教授内容を統一することの不可を説いたのも内藤であったし、皇国民の練成という形式主義を排したのも内藤ではなかったか。
その内藤が、教授内容を規定する教科書法案を通し、形式主義的な錬成を考える道徳教育を設け、その教授の如何を見守る学力テストを実施する。
そこには、地方の実情に即した教育が行われる余地は全くない。そういう教育を、画一的な教科書と学力テストが阻むということを賢明な内藤が知らない筈はない。
教員の勤務評定にいたっては、全く最低である。内藤の考えるような「使命感に生きる教師」(選挙公報)が勤務評定のなかから生まれると考えているのであろうか。
子供を信頼しない所に教育が成立しないことは、教育学の初歩であるが、同じように、教師を信頼できないところに、教育は成立しない。勤務評定でおいたてられる教師の教育が本物であるわけがない。本物でない教育を内藤は、求めているのであろうか。
大学の管理問題についても、同じことがいえる。内藤は、昭和二十四年には、
「大学は法律に基かないで監督官庁から特別の指揮監督をうけることはない。ここに大学の自治が存在する訳である。この大学の自治を保障する機関として教授会をおき、重要事項を審議することとなっている」
といっていたのを、昭和二十七年には、
「大学の自治と学問の自由とは勿論密接な関連があるが、その取扱いは一応別個に考えるべき問題であると思う。少くとも、国立大学については、文部大臣は大学に対して拒否権を持つことができる。即ち、国民に対してある程度責任を持ち得るという体制が必要である。国立及び公立の大学は、国民の税金によって維持されている以上、納税者の意志を反映しなければならないのであって、直接各大学が国会に対して責任を負うという立場がとれない以上は、文部大臣がある程度権限と責任を持たなければならない」(「日本教育の課題」三一書房刊)と変わっている。
それも、大学管理法案が、国会に提出されたのをきっかけに変わっているのである。
ということは、彼の意見とみえるものも、結局、文部官僚として、その時、その時にあった意見をのべているにすぎないということになりそうである。
昭和二十四年の意見も、一見立派に見えるが、英語ができるということで、GHQへの連絡官となり、その立場から、そのような意見を持ったにすぎないとみる方が妥当であろう。時代が変わり、立場が変われば、その意見はどんどん変わるのである。変わるほどに、彼自身、思想といえるものは少しも持たないのである。そのために、無節操でもある。思想のない者に、果して、無節操ということがいえるかどうか疑問だが……。

“道徳”とのあざやかな癒着

このことは、今度の参議院議員の立候補のしかたにもよくあらわれている。
内藤は、六十五万票をとって、第十二位で当選したが、始め、彼は危いということであった。危いと知るや、当選という目的のためには、恥も外聞もなく、どんなこともやってのける。それは、思想のない者のつねといえ、内藤はあざやかにも、それをやってのけたのである。
というのは、彼はクリスチャンということであるが、(この事実を、内藤氏に質問しようとしたが、会見を拒否され、電話に出たものにもわかりませんといわれた。そこで、文部省内の有力すじからきいた事実による)、その彼が、立正佼成会の支持をとりつけたことである。思想を持たない内藤といえ、異教徒の票まで貰って、議員になろうとする無恥さかげん!
ある者は、これを彼の弾力性といい、政治性というらしいが、それは、思想なき者、精神の純粋性のない者のそれでしかない。精神の純粋性なき者が、精神の昂揚を説くほど、滑稽なことはない。
クリスチャン内藤にとって、このことは、堕落としかいいようのない者である。立正佼成会もこの事実を知っていたのであろうか。知って、応援したとは思えない。彼の票は、比較的に、西日本に多かったが、西日本の信者票とは無関係ではなかろう。
そして、内藤と立正佼成会を結びつけたのは、教科書会社である教育出版株式会社社長北島織衛という話である。教育出版といえば、八年近くもつづいた宗像社会を、当時の内藤初等中等局長から、「宗像社会ではね」といわれて、宗像誠也を著者の位置からひきずりおろした会社である。
かつては、教員の支持率が高いということで、無理矢理、宗像をひきだし、都合がわるくなると、さっさとひっこめる。そこには、教科書という公器を作っている自覚もなければ、良心もない。あるのは、唯、商売のうまみということだけである。そういう会社の社長によって、立正佼成会に結びつけられたということは、いかにも非良心的、非道徳的のようにみえる。
非道徳的という言葉が出たが、道徳科学研究所も、今度の内藤の重要な票田であった。六十五万票のうち、四十万票は、ここから出たという説さえある。
道徳数育をおしすすめたから、道徳科学研究所と結びついたように錯覚されるが、これとの結びつきも選挙を前にしてのものでしかない。その仲介をしたのが、国立教育研究所所長平塚益徳である。
今一つ、内藤の大きな票田は、八千校もある各種学校総連合会である。会長は迫水久常で、六月には、全国大会が行われ、内藤は、そこで演説している。
「これからは、各種学校を充実すべきときであり、そのために努力したい」と。
三十年の文部官僚の間、ただ一度も、各種学校のために尽力しなかった男が、選挙を前にして、急拠各種学校にくいつき、選挙公報にも各種学校の改善を堂々とかかげる。それにだまされて、票をいれた者こそ、気の毒というほかない。

知らぬ顔の能史

内藤の六十五万票は、立正佼成会、道徳科学研究所、各種学校連合会で三等分され、彼が手がけてきた教育界からの支持票は得られなかった所に、彼の票の性格があるようである。
各地にある教育委員会は、内藤の支持票であったかもしれないが、それは、上層部だけで、下部には、侵透しなかったであろうし、まして、家族にはおよばなかったであろう。彼等にも、内藤のおしすすめた道徳教育や学力テストが、本当の教育でないぐらいはわかっていたのである。
子供の躾にこまっている親たちも、道徳教育で子供がよくなると考えるほど無智ではない。それは、自分達がうけた修身教育を考えただけでもわかることである。
修身に、甲や優をもらった人ほど、悪に汚職にうき身をやつしていることを知っている。たとえ、道徳教育を支持する者も、下策でしかない道徳教育を推進するような男を支持するわけにはいかないのである。
学力テストにしても、内藤は、
「試験の弊害というお話がありましたが、そんな弊害があるなら、今日、希望参加で、60%もやるわけがない。
このテストの結果が、学習指導の改善に役だったからこそ、60%が現在希望している」(国会答弁)とのべている。こんなことを平気で答える男に、誰が支持票をいれられるであろうか。試験にうちかつ強い子供を育てることを願っている親達も、それを試験でやるという策のなさには気づいている。弊害の方がもっと多いことをも知っている。指導上、試験が必要としても、文部省が、学習条件の違う所の子供達の一斉テストの意味はどうしても納得できない。文部省に必要なのは学習指導の改善に必要な資料よりも、学習環境、生活環境の改善ではないか。
60%とあるということは、文部省がやっているということ。その強制力が60%の数字になってあらわれていることであるのを全然気づいていない。気づいていないというよりは、知らぬ顔をしているといった方が当たっているかもしれない。
そういう内藤に、教育関係者も親達もついていけなかったのである。そういう人達がついてこないと見るや、彼は先述したように、その魂を異教徒にうりわたすことによって、参議院議員になるという目的には到達した。その意味では、政治家内藤の前途は容易ならないものがあるといえそうである。
河野派といわれる内藤が、参議院議員になったとたんに、河野一郎を失なった。変り身の早いという評判の内藤は、これから、どんな変り身をみせることか。その点、無思想、無節操という武器がある以上、どんな変わり身をやってのけることもたやすいことであろう。
内藤が、東京文理大という、まがりなりにも、教育を考える学校を卒業して、文部省に入り、文部行政を担当したことは、法学部出身で、教育を政治に従属させ、法律的にしか理解できないような人達に数段まさることはいえよう。
しかし、内藤のように、東京文理大を出ながら、東京文理大の悪い一面、事大主義、形式主義、思想性のなさ、劣等感だけを持って卒業したというのもこまったものである。そんなところにも、東京文理大同窓会が一本になって、内藤をおさなかった理由がありそうである。
こういう、思想も節操もない男を、文部行政のチャンピオンとして、おしたてねばならないところに、自民党の悲劇もありそうである。しかし、内藤にも、生きる活路はある。虚人でなくて、巨人になる道は開かれている。それは、今一度、昭和二十四年当時にかえって、その思想と立場を深くかみしめてみることである。

<雑誌掲載文3 目次>

「五大出世男の共通点」

実業界における明治、大正、昭和三代の成功者を数えあげるとなると、まことに大変である。まして、何人かの人に、それら多数の成功者を代表させるとなると、もっと大変である。だが、私はあえて、そのことをやってのけ、そこから成功者というものに共通する内容、共通する条件をあきらかにしてみたいと思う。

官を棄て、銀行を起した渋沢

まず、明治の人というか、日本の資本主義の創設期の人として、渋沢栄一をみてみたい。栄一は天保十一年、農・商をかねる家に生まれ、十四・五歳の頃より、父に従って藍玉の買入れに従事していたが、十七歳の時、父の代理で、二、三の者と一緒に代官所に出頭した。そこで、彼は、御用金をたのむ代官から、かえって、不当に軽蔑されたのである。
「このとき、始めて幕府の政治がよくないのだという感がおこったのであった。いま、領主は、年貢をとりながら、返済もせぬ金を用金とか何とか勝手な名をつけて取立て、その上、人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返すように命令するという道理は、そもそもどこから生じたのであろうか。
察するところ、かの代官は言語といい、動作といい、けっして学問があり、知識のすぐれた人とは思われぬ。かような人物が人を軽蔑するというのは、いったい、官をかさにするという徳川政治からそうなったので、もはや弊政の極度におちいったものであると憤慨した。尊卑はその人の才能によるもの、家柄をたのんで愚者の威張るはずはない。何故に武士と百姓とは人類に等差があるか。すでに、政記、外史、日本史等を読んでいた余は、王朝より武人の手に政権の移れることの有様を知っていたから、不思議と考えた念は、かえって不快の思いと変わり、さらに、わが身の上の先々をも考えられた」
と、その時の怒りをぶちまけている。
やがて、彼はその怒り、その不満をいだいて、封建制の打破運動に参加していく。彼には、良い商品をつくり、組織的に販売していこうとする意欲を阻害するような封建制にはがまんがならなかったのである。
明治新政府につかえた栄一は、大蔵省の役人として、種々の改革を進めてゆく。だが、その仕事に従事すればする程、日本の国民の中に、ただ、上からの改革についていくだけで、自ら日本の改革を下からおしすすめようという主体がないことに気がついた。上からの改革だけではどうにもならないと考えた。ことに、従来、商工業にたずさわってきた者には、長い封建制の中で培ってきた卑屈の風が一掃できないから、役人に唯々平身低頭するだけで、学問もなければ気力もない、新規の工夫とか、物事の改善とかに全く心を使わないという有様であった。これもまた、彼には、我慢のならないことであった。
そこで、栄一は、心の底から、自分の力をふりしぼって商工業の発達にとりくもうと決心し、栄達を約束されていた役人の生活をやめてしまう。彼の中にある農民の血がさわぎだしたともいえるのであろう。
こうして、明治六年八月、第一国立銀行を創設し、銀行業務をはじめる。といっても、英人を講師として、何から何まで教えてもらわなくてならなかったし、新聞・雑誌を通じて銀行というものを知らせることもしなければならなかったのである。同時に、王子製紙、東京鉄道などの会社もおこすのである。それだけでなく、海運、織物、製鋼、造船、電気、石油、セメントと、ありとあらゆる産業に関係し、その育成につとめるのである。文字通り、明治の産業をおこした巨人であり、成功者でもあったのである。

ぞくぞくと世に出た福沢門下

中上川彦次郎が、徳川時代からつづいている三井組に入社し、三井組の体質改善をやり三井財閥の基礎を確立したというのは、あまりにも有名な話である。それによって、彼も亦、成功者の第一人者に数えられる人になっているが、では、どのようにして、三井組の体質改善をやってのけたのであろうか。
彦次郎は、福沢諭吉の甥として生まれ、福沢の慶応義塾で学び、始め、学校の教師をしていたが、福沢の世話でイギリスに留学。そこで、井上馨にみとめられる。そして、井上の推せんで役人生活をはじめるが、井上が退官するとともに、彼もまた退官し、井上の依頼をうけて今度は三井組に入社する。
というのは、井上は三井組の最高顧問の位置にあったが、その頃、三井銀行は巨額の不良貸付のために四若八苦、それを彦次郎になんとかしてほしいという、井上の頼みであったのである。井上がいかに、彦次郎を信頼していたかということである。その時、彦次郎は三十七歳。
彦次郎が調べてみると、東本願寺の百万円、第三十三銀行への七十五万円、角堅吉への三十六万円、堀田瑞松への二十万円、田中久重への十数万円が不良貸付として回収できないことがわかった。彼は早速厳しい談判を開始した。東本願寺には、枳殻殿を一年後に差押えると警告した。枳殻殿というのは豊臣秀吉が寄進したという宏壮なもの。寺は驚き、彦次郎を織田信長の再生で破戒無慙の仏敵とののしる始末。しかし、彦次郎は一歩も退かない。やむなく、東本願寺は寺をあげて遊説運動をおこし、信者に喜捨を求めた。喜捨は予想外に集まって、東本願寺は直に借金を払うことができたということもあった。第三十三銀行などから回収したのはいうまでもない。
それは、そのまま、政府となれあっていたこれまでの三井組の性格をあらためて、三井組を三井独自の基礎の上に確立する第一歩でもあったのである。こうして、彦次郎は、三井銀行の合理化を断行するとともに、銀行内に工業部を置いて、抵当として回収した工場を中心に積極的に生産事業にのりだした。そして、各方面の事業を担当させるために、少壮の知識人をどんどんいれたのである。
これまで、福沢は教え子たちに実業界に進出するように何度か強調してきた。賤商主義を克服して、知識人が実業界に入ることをすすめてきた。学問がなくては、実業は絶対に発展しないと考えたからであるが、学生たちは、それは町人の列に加わることであると考えて肯じない。官吏か学者になることを望むのである。実業界も一般には、知識人を必要としなかったし、商売にはむしろ学問はじゃまだと考える風があったのである。さすがの福沢もさじを投げる始末であった。
だが、福沢のさじを投げた翌年に、彦次郎が三井組に入り、次々と若手の知識人を三井に入社させるのである。しかも、その知識人は、いずれも、新聞記者上りであり、覇気に富み優秀であった。それは鈴木梅次郎であり、柳荘太郎であり、藤山雷太であり、武藤山治であり、池田成彬であり、藤原銀次郎であった。福沢にできなかったことが、彦次郎にできた。それは、福沢が学者として実業界入りをすすめたのに対して、彦次郎は、自ら実業界に入り、その先頭にたって歩んだためであろう。

合理的経営の先駆金子直吉

この三井を相手に、どうどうと渡りあったのが鈴木商店の金子直吉である。直吉が入社したとき、鈴木商店は彼の外に、店員一名という小さな店であった。しかし、直吉の成長とともに、鈴木商店もまた大きくなり、大正八、九年頃には三井物産をぬく大商社となっていた。しかも、鈴木商店は一商社という所にとどまらず、製鋼、造船、化学、金属、繊維、製糖、製粉、製油、ビールなど各種の製造工業を支配していたのである。
無数にある小商店から脱けだして、これほど大きな商店にしあげた直吉という人間は、どんな人間であったのであろうか。どんな実力をそなえた人であったのだろうか。
まず、直吉は、樟脳、薄荷など、独占度の高い、それだけに高利潤の商品に眼をつけたということである。彼は、台湾が軍政時代に早くも大工に化けてのりこみ、樟脳製造にのりだしたが、製樟業者が濫立気味になると、官製樟脳に一役買い、その販売権を一手ににぎるという工合である。常に時代より一歩先じていく姿勢で貫ぬかれていたのである。次に、眼をつけたのは、製糖である。これもまた独占度の高いものである。しかも、当時、日糖が独占体制をとり、利益をひとりじめにしていたが、立地条件を考えて北九州に製糖会社を設立して日糖に挑戦。たまりかねて、日糖が合併を申しこむと、建設資金の数倍で買いとらせて、自分はさっと身をひく。変り身の早さも徹底していた。
第一次大戦が始まると、三菱造船所に一度に一万トン級の貨物船を三隻注文し、鉄の買占めに出る。その思惑がまたあたるのである。あたるのが当然である。直吉は、勘にたよるというよりも、徹底的に調査したのである。彼は、早くから電信暗号を買い、思いきった電信料をつかって、世界の動きをキャッチしたのである。勿論、各方面に専門家を置くことも忘れない。
彼の行動はすべて調査にもとづいたのである。その上、彼の行動を支えたものは、日本の金をふやすということであった。外国から金を獲得してくることであった。それを商人の生甲斐としていた。
「お互いに、商人として、この大乱の真中に生まれ、しかも世界的商業に関係せる仕事に従事しうるは無上の光栄とせざるを得ず。即ちこの戦乱の変遷を利用し、大儲けをなし、三井、三菱を圧倒するか、然らざるも彼等と並んで天下を三分するか。これ鈴木商店員の理想とするところなり。小生、これがために、生命を五年、十年早くするも更に厭う所にあらず。要は成功如何にありと考え、日日奮戦まかりあり」
とも書いている。
新商品の開発にも、直吉は徹底していた。無名の青年研究所にも惜しみなく研究費を出す。彼は、「ひとができないことをやるのが面白い」と若い研究員を激励する。できることをやるのはつまらないと歎く。こうして、次々に、新製品をつくりだし、それを工業化していく。工業化せずにはおれないのだ。
「損しても得しても、そんなことはかまわない。大事なことは生産することだ」という直吉は、典型約な事業家ということがいえるのであろう。人間能力の限界き生きぬいた事業家ということがいえるのかもしれない。

創意と努力の人、松下幸之助

戦後の事業家となると、誰でも松下幸之助と本田宗一郎を第一にあげるのではあるまいか。二人はともに、高等小学校しか出ない。その意味では学歴もなく、徹頭徹尾、庶民の一人にすぎなかった青年である。そして、庶民の願いである生活の繁栄と充実につらなる商人を庶民に提供しながら、成功者となった今日も、庶民感覚を失わず、庶民とともに、庶民の先頭にたって歩んでいるという点で、まさに、庶民の英雄であり、現代の理想像でもあるといえる人達である。
幸之助は、家の倒産もあり、小学校の四年生を卒業すると、すぐに、大阪にでて、丁稚奉公をした。当時は、それが普通であったとはいえ、親の保護の下に学校に通っていた者達も相当いたことを考えれば、厳しい生活であったということはいえよう。
しかし、幸之助は、その下積み生活の中で、自分の仕事に習熟するために、必死になって勉強した。夜学にも通って研究した。その結果、二十四歳で、独立できる所までこぎつけた。自分の改良したソケットをもって独立したのである。
苦心惨憺の末、ソケットは出来あがったが、全く売れない。そのために、折角集まった工員たちも散り散りになっていったが、どうすることもできない。次に、六ヵ月かかって、自転車ランプをつくったが、これも全然だめだった。幸之助のつくるものは、すべて、改良品か新しい品物なのだが、どうしても売れない。彼はしみじみとわかってもらうことのむつかしさ、信用というものの重要さを感じないではいられなかった。
幸之助は、大阪市中の小売店に、二、三個のランプをあずけ、実験してもらうことにした。そして、いいとわかったら買ってほしいという戦術に出た。そうすると、面白いほどに売れだした。もともと、品物には絶対自信をもっていた彼も、これほど売れるとは予想もしていなかった。
こうした中で、彼は、販売店をがっちりとかためていったのである。ことに、販売店組織は戦後になって確立され、松下電器の発展を支えたものであるが、それはすべて、幸之助が先頭になって作りだしたものである。しかも、その場合、彼の庶民性というか、大衆性というか、そういう人物が非常に幸いしたのである。インテリでない彼の人柄が、インテリ嫌いの商人にうけて、信用を得たのである。だからといって、彼がインテリでないということはいえない。むしろ、すぐれてインテリであったが、彼にはインテリ臭くもなく、インテリ的な用語もないのである。
幸之助は、すべて、仕事と平行し、生産と平行して身につけ、学んでいった智慧であり、形式約な知識、解釈学的な知識をすべてふりすてた知識人であったのである。
今一つ、幸之助の成功を助けたのは、財閥系がやろうとしなかった消費財部門の仕事に、彼の創意と努力を集中したことである。財閥系が生産財部門に集中していた間隙をぬって、大いに努力したということである。それはそのまま、戦後、消費財部門にのりだしてきた財閥系の大企業が、なかなか、販売活動の感覚と知識をもつことができずに、長い間、松下電器の独走を許さねばならなかったことでもある。その意味では、彼は運のいい男ということにもなろう。

へこたれない本田宗一郎

宗一郎が小学校をでて、はじめてつとめたのは、自動車の修理専門の工場であった。六年間の修行であった。独立して、浜松に修理工場を作ったのが二十二歳の時である。始めは、開店休業に近かった工場も、他の修理工場で直らなかったのが、彼の工場にくると、ピタリと直るという評判がたつと工場は繁昌しだした。勿論、宗一郎の技術である。よく遊びもしたが、研究熱心でもあった。その頃の車輪のスポークはすべて木製であったが、いもの製のスポークをつくって、海外に輸出するという離れ業をしたこともある。
宗一郎は、だんだんと修理という仕事にあきたらなくなる。修理なんかは子供にもできるという不満である。自分の手でつくって、世の中に役立つものをと考えるようになった。
こうして、ピストンリングを作る東海精機という会社を始めた。といっても、それを作る方法は知らない。しかも、修理工場時代からの工員は沢山かかえている。彼は、眠る間も惜しみ、工場にとまりこんで研究したがどうしてもできない。しばらくたって、始めて、自分に知識がないということに気づく有様であった。浜松工専の教授を訪ねてきいてもみた。ますます、自分の知識が不足していることにきづく。彼は早速たのんで、浜松工専の聴講生にしてもらう。必要に応じて学ぶ彼の知識がぐんぐんと進まぬわけがない。
試験にせかれて勉強したり、いい成績が欲しくて勉強する学生とは違う。知りたくて学ぶ学生となったのである。
ピストンリングもやっとできあがったものの、トヨタ精機に検査してもらうと、五十本のうち、たった三本しか合格しない。散々な目にあう。しかし、不屈不撓の男である宗一郎には、へこたれるということがない。そういう時に、益々元気がでるのが彼である。
戦後一年間は、ぶらぶらと遊んでくらしていたが、友人が「これは何かに使えたいか」と通信機の小型エンジンをもってきたことから、それを自転車にとりつけて走らせることを思いつく。その小型エンジンというのは、焼けあとにゴロゴロしているという代物である。それに、人々は敗戦で足を欲しがっているということに気づいたのである。
それからあとの宗一郎は、順風満帆で伸々と生き、伸々と機械の改良にとりくんでいる。どこまで発展するのかと思わせるほどに発展をつづけている。日本の本田から、世界の本田へと発展している。庶民のスピードという夢をのせて、どこまでもどこまでも走りつづけてゆく。

歴史の進歩を信ずること

以上、渋沢栄一、中上川彦次郎、金子直吉、松下幸之助、本田宗一郎をみてきた。栄一は、日本の商工業を発展させたいという切なる願いに導かれて、商工業者の意欲をかきたてるように仕事に取りくんだ。独立の精神に支えられた商工業者をつくることを考えた。それは、いいかえれば、意欲のある独立精神に満ち満ちた商工業者がいないということでもあり、そういう人達があれば、商工業はどんどん成長し、発展したということでもある。渋沢栄一はそこに眼をつけ、商工業者の先頭を歩んでいった。成功するのは当然ともいえる。
彦次郎は三井家の古い組織をかえて近代的なものにしていった。新しい知性によってリードされている組織にしていった。すぐれた知性の協力関係ができあがると、いかにすばらしいものができあがるかという見本をしめしたようなものである。
直吉は人間の欲望、執念がいかに強烈であるか、その欲望、執念を生ききる者には、不可能という文字はないかのようにみえる好見本である。すさまじい欲望は、人間を如何に聡明にし、賢くするかという例でもあろう。
幸之助、宗一郎を見ていると、本当の正直者は最後には勝つという思いにさせてくれる。地味な努力をつみ重ねたものの勝利、最後の勝利、輝やける勝利を見る感じがする。ここには、庶民や大衆とともに歩むという姿勢を崩さない人の本当の勝利がある。
このようにみてくると、彼等は一様にバカでもないし、ナマケモノでもない。きわめて研究熱心であり、気力も意志も充実しきっている。一つのことに集中する集中力は狂的なまでに近い。自信も時に傲慢不遜と見えるほどに強い。
ということは、成功者といわれるほどの人は、すべて、歴史の進歩を確信し、自分の歩みは歴史の歩みと一つであるという確信にうらづけられているからである。富や金を異常に求めるにしても、それはつねに、庶民大衆に還元する金として、富として求めているという確信があるからである。そうしてこそ、始めて自分の中に平和や安心が生まれるし、本当の意味での成功者ともいえるのである。

<雑誌掲載文3 目次>

<目 次>

記事転載等の場合はご連絡下さい。 Copyright 1997 池田諭の会

isk97@a.email.ne.jp