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「燃えるアジアと日本の原点」

< 目 次 >

序章 アジアと日本の不幸な関係

遠ざかるアジア 天心の理想 アジアのこころ アジアと平和主義
日本の悲劇 岡倉天心の復権のために

プロローグ……吉田松陰・勝海舟・西郷隆盛と岡倉天心

吉田松陰の日本国観 勝海舟のアジア連合諭
アジアのこころを説いた西郷隆盛 世界をみすえるさめた目

1 岡倉天心とアジアの原点

倉の中で生まれる 孔・孟思想との対決 青年時代 中村正直との出会い
大学で独学する大志 文人画を学ぶ 漢詩にも挑戦
アーネスト・フェノロサ 若い天心、若いフェノロサ 幻の名著『国家論』
文部省に入る 日本画とフェノロサ 西洋の開化は利欲の開花なり
狩野芳崖の発見 天台宗への傾倒 浦啓一と中国の夢を語る 浦啓一の死
美術にも思想がある 日本は日本、それが私の覚悟である
人間の本質は感情にある 中国へ行く あたらしい試練 狂い、酔う天心
東京美術学校を去る 新しい仕事への自信 日本美術院の創設
意気あがる同志たち 王道に生きよ 奇なることを恐るるなかれ
美術品より、美術思想が大切だ 美意識が日本人をかえる
インドへの旅立ち 日本人は茶を愛する国民である アメリカ旅行
五浦の地に日本美術院を移す ボストン美術館東洋部長時代
デーヴィ夫人との恋 愛弟子菱田春草の死 永眠

2 「アジアは一つ」の思想

人間存在の本質は“美意識”にある
諸学の出発点、諸学の到達点としての宗教
資本主義に欠けているものは宗教と美意識である 美と宗教の国家を求めて
偉大なり朝鮮文化 権力は美を追放する 真の統一国家=唐
東洋の王道、西洋の覇道 抵抗の歴史を誇るインド
侵略した国民が偉大なのではない 抵抗詩人タゴールとの友情
ヨーロッパ文明は政治的文明である 東方アジアの文明は人間の文明である
アジアは侵略者を全否定する 天心とヴィヴェカーナンダ
宗教は心の底の大自覚である 東洋と西洋の調和 アジアの兄弟姉妹たちよ
人間の内面のたたかい アジアに根づく偉大なる自由 ゲリラ戦法を説く
東洋の理想 物心合一の理念 アジアの栄光は平和の鼓動のなかに
進歩の意味 戦争はいつ根絶されるか アジアに侵略の思想はない
日本よ、アジアの心に帰れ 茶道の思想 美と宗教の道
「アジアは一つ」の思想的原点

3 幸徳秋水と燃えるアジア

岡倉天心と幸徳秋水 西洋覇道の全否定からの出発 社会主義への傾斜
我は社会主義者なり 愛国心とは憎悪のことである 帝国主義の非義不正
西洋的秋水とアジア的天心の一致 日露戦争 非戦論の訴えと革命の志
敵国の兵士も人の子なり 新聞を斬る 幸徳秋水とレーニン
暴力革命の道 社会主義は人間を真に解放するか
革命のあと、得られるものはなにか 直接行動論者 アジア諸国の生きる道
平和、正義、自由そしてアジア 科学や生産ではなく、博愛と平和の道

< 目 次 >

序章 アジアと日本の不幸な関係

遠ざかるアジア
岡倉天心は明治国家が西洋諸国を先進文明国として、そのすべてにわたって無条件に追随している時代に、一人敢然と美と宗教の統一的な追究をおこない、それを実現しようとしたために、その晩年はアメリカに亡命同然の逃避をなした巨人であった。幸徳秋水も天心の思想を継承発展させようとして、ついには明治国家によって抹殺されてしまった巨人であった。天心の考える美と宗教の統一的追究とは、たんに美術における美ではなく、政治的、経済的意識の中につらぬかれた美意識そのものであり、美意識の中に政治的、経済的意識がつらぬいているような美、いわば生活意識である。また宗教といってもいわゆる宗派宗教でなく、人間そのものに根源的・普遍的に存在する霊性そのものを対象にしていることを意味し、これら二つのものを統一させようとするのが天心の願いであった。これらの力が発揮されるかぎり、世界は変わらざるを得ないというのが天心の考えであった。
天心のこのような理想、夢はどのようにして、彼のものとなったのであろうか。従来はともすれば、天心を右翼であるとみなしたり、せいぜい、天心の美と宗教を分裂的にとらえ、その美を美術の中におしとどめるということに終わった。天心を真に綜合的、具体的に把握するということはこれまでほとんどなかった。第二次大戦後も多くの天心像がでたが、いずれも真の天心像、とくに明治日本の進路の中で、その進路を正そうとした天心を描く者はほとんどない。まして、幸徳秋水との関連の中で、彼を追求しようとする者は絶無である。だが、秋水ほどに天心の思想、生そのものを継承しようとした者はいない。要するに、彼ら二人の生と思想が正しく評価されないかぎり、日本は、今なお誤りの多い道を進むしかないのである。そのために、田中首相が東南アジアを訪問すれば、“田中かえれ”のデモの中に立たされるし、韓国では反日デモの嵐も巻き起こるのである。そこには、当面する他の理由があったにしても、東南アジア諸民族から総反撃をうけるのも当然である。それほどに、日本は明治以後一貫して、アジア諸民族をみすて、ただ西洋諸国の道を追随することしか知らなかったのである。
第二次大戦中、日本はアジア諸民族を政治的、軍事的に侵略しようとしたが、それに敗れると今度は経済的に侵略しようとしている。政治的、軍事的侵略も経済的侵略も要は一つのものであり、その目標とするところは同じである。この侵略をこれまで長い間、文明国とか、先進国とか、産業国家の名の下に、西洋諸国がなしてきた。岡倉天心も幸徳秋水もそれに敢然として、身をもって反対し、その結果、日本にいることもできなくなり、ついには抹殺されるしかない運命の道をたどったのである。まさに、その生は悲壮というしかない。しかも、われわれ現代人は彼らの生の一部に名誉回復をあたえても、その生のすべてを、今日まで生かそうとしていない。私が岡倉天心と幸徳秋水を書かなければならなかった理由はここにある。

天心の理想
では、どうして、岡倉天心はこのような思想を自分の中に育てたのであろうか。天心といい、秋水といい、このような思想を己れの全存在で実現していこうとする強い意思をどうしていだいたのであろうか。
岡倉天心はその乳母を通して、思想を全存在で生きる橋本左内を知った。その左内は己れの思想のために若くして死んだ。その左内を通して天心は吉田松陰を知った。松陰といえば、道義国家、平和国家、教育国家の道をはじめて見すえた人間であった。邪悪な人間によって指導される国家に亡ぼされてもよいと断言した人である。不幸にも松陰に指導形成された逸材は明治国家の成立を待たずして、ことごとく死んだ。残った者は明治政府を樹立したが、だれ一人として、松陰の思想を継承発展させようとせず、西洋諸国の侵略の道を継承したのである。たしかに、西洋諸国は産業国家としては卓越していたし、産業国家として発展するために、十分な武力をもっていた。西洋諸国の道を模倣した日本はそのために他国から侵略されることもなかったが、反対にアジアの孤児になってしまったのである。これまで、アジア諸国がいかに西洋諸国から悲惨な侵略をうけていたか。それはあまりにも残忍なことであった。その残忍さをまねたのが第二次大戦中の日本である。吉田松陰はその西洋の道を断乎として否定したのである。彼の思想は勝海舟のアジア連合論に、西郷隆盛の「西洋諸国は野蛮だ」という言葉に形を変えて継承されたが、岡倉天心の登場した当時はすでに声としてなかった。そこに、天心の悲劇がある。まして、秋水の時代には、西洋諸国の道をひた走る日本人しかいなかった。ここに、秋水の悲劇がある。
明治国家の中で、ともすれば異端者の道を生きるしかなかった岡倉天心は進んで支那(中国)、インドの旅に出た。それは日本文化の源流にふれることをねらったものであったが、そこで彼は伝統的な平和主義の潮流をみた。その伝統的な平和主義は西洋諸国の侵略を前にして、いよいよ深化され、強い底流になったものである。ことに岡倉天心はインドでヴィヴェカーナンダやタゴールと出会うことによって、その思想を浄化していった。ヴィヴェカーナンダといえば、人間の霊性を中心に世界中の諸宗教を統一しようと努力した人であり、タゴールといえば抵抗詩人として世界的に有名な人である。彼らと出会うことによって、天心の悲劇性はいよいよたかまった。それというのも、天心を理解する空気はますます当時の日本には少なかったからである。だが、そんな中で、天心は「アジアは一つ」と書き、アジアの伝統的な平和主義で世界中を変えようとしたのである。
西洋諸国の人びとの中には、この天心の雄叫びを認めようとする人びとはいたが、祖国日本の中にこれを認めようとする人はまったくなかった。日本はそれほどに荒廃の道を辿っていたのである。天心のなくなった後に、タゴールは日本に期待してやってきたが、絶望して日本を去るしかなかったし、支那(中国)の孫文も日本のどこにも明治維新の理想を発見できずに、日本を去ったのである。それこそ、日本はあげて表面的な欧化のまっただなかにいたのである。

アジアのこころ
第二次大戦後、戦争に敗れた日本は一時、平和国家、道義国家、教育国家の道を進むかにみえたが、長い間にわたってしみこんだものはぬぐいきれずに、またも安易な経済侵略の道を歩み始め、今再びアジアの孤児になろうとしているのである。日本人に与えられているエコノミック・アニマルという言葉こそ、なによりもそのことを示している。アジア諸国への援助にしても経済的援助より一歩も出ていないし、アジア諸国のいくべき道は、西欧化の道を辿った日本の道しかないと考えていて、そこになんの反省もないのである。吉田松陰も岡倉天心も幸徳秋水も見失われたまま、まったく生きてこないのである。もちろん、松陰や天心や秋水の生と思想を生きようとする人、発展させようとする人たちはいるにしても、それはせいぜい点を形成しても、一つの流れには決してならないのである。
日本は明治以後、百年余、原点を見失ったまま今日にきているのである。最近アジアを見なおす動きが大きくなってきたが、それらもほとんどは西欧的発想から出たもので、アジアを真にアジアに即して生かそうとするものはほとんど出ていない。私が声を大にして、松陰、天心、秋水をみなおせというのはそのためである。
たしかに、今アジア諸国はそれぞれの道を歩み始め、発展しようとしている。その点では、まさにアジア諸国は燃えている。北ベトナムの国民のように長い間の戦いの中で、アメリカ帝国主義を駆逐した国もあるが、その他のほとんどの国は西洋諸国から与えられた開発途上国という名称をありがたく戴いて、いわゆる先進国への道を必死に歩んでいる。
その道こそ、資本主義への道であるか、共産主義への道であるかは別として、すべて経済優先の産業国家の道である。ある程度の公害を認める道である。人間の幸福を犠牲にする道である。であるとすれば、必ず第三の道を発見しなくてはならないはずである。その第三の道を模索する所に、真の人間の幸福がある。経済優先、物質優先する所に人間の幸福はあるという幻想が生まれ、人殺しの戦争がいつまでもつづくのである。経済優先の、人殺しの戦争に対する幻想は、この辺でそろそろ捨てるときである。必要悪だといい、人間の欲望をみとめるかぎり、これらはなくならないという常識は捨てさる時である。人間の欲望を生かしつつ、それを人間の生のために生かすことを真剣に考えるときである。人間がこの平凡な問題に今までどれだけまともに取りくんできたかは怪しい。
アジアは燃えている。そのエネルギーをたんに経済発展の道だけにむけることは惜しい。とくに日本人のように、経済発展の道だけが進歩、前進の道だと信じこんでいるのはこわい。すでにアジア諸国民の中には、それだけが人間の幸福の道だと考えていない者がふえつつある。その時、相変らず、経済発展の道しか考えない日本人は、あらゆる意味でアジアの孤児になろう。そうすれば、松陰、天心、秋水の考えてきたものがまったく無駄になってしまう。
北べトナム人民はたんにアメリカの帝国主義を駆逐したのでもないし、北べトナムの共産主義がアメリカの資本主義に勝利したのでもなく、北べトナム人民は今新たなる平和と自由と平等と調和をどのように実現していくかという課題の前にたたされているのである。この課題はあまりにも大きい。

アジアと平和主義
伝統的な平和主義の上に立つインドが核実験を敢行したということは、インドの民衆にどのようにうけとめられているのだろうか。しょせん、民衆と権力者は達うのであろうか。それにしても、インド民衆が平和を求める心には根強いものがある。ヴィヴェカーナンダは人間の霊性を中心にして世界宗教の実現に努力したが、今日のインドには彼の思想をうけつぐ者が何千万人といる。この霊性こそ、人間の肉体と精神をのりこえたものであり、諸学問の出発点であり、終点になるところのものである。いろいろの主義、思想を人間そのものの主義、思想にし、人間そのものを、全人類そのものを、生かすところのものである。だが、いつ頃か、この霊性が忘れられ、諸学問そのものが横行するようになったのである。今日ではこの霊性を蔑視し、学問そのものの敵であるかのような常識がはびこってきたのである。そこに 公害で苦しむ現代ができたのである。この霊性をもう一度取返えさなくてはならない。そうしないかぎり、世界人類には真の平和と幸福はない。
北ベトナムにもインドにも中国にも、それが長い歴史となっている。荒廃しきった日本人にもその伝統はある。まして松陰、天心、秋水の伝統がそれなりに生きている。その他のアジア諸国にもそれが生きているはずである。今こそ、その伝統にめざめる時である。各民族がその原点をしっかりとふまえて立ちあがる時である。おそらく、その時の日本の前途はもっとも至難の道であろう。だが、松陰、天心、秋水の気力があれば必ずしも困難ではなかろう。
たしかに、西欧諸国は今なお侵略の道を歩んでいる。国家の名において侵略の道をやめない。資本主義には侵略の必然性があるし、侵略の中で発展したこともたしかである。だが、それに劣らず長い世紀にかけて、西欧諸国を侵略してきたのはアジアであった。インド、中国の伝統的平和主義といっても、この長い間の侵略、被侵略の経験からやっと民衆のものになったのである。

日本の悲劇
今日、西欧諸国の中にまともにアジア諸民族を全的に生かそうとする者がいるとすれば、それはやはり被侵略、侵略の経験の中から生れたものである。アジアの開発途上国という名があるにしても、西欧諸国の援助が日本よりまともであるのはこの体験をふまえているからである。日本人にはこの経験がないのである。三十年前までは金甌無欠の国として、誇らしげに言っていたが、それが逆に生きているのが今の日本である。いいかえれば苦労が足りないのである。援助してかえって軽蔑されているのが今の日本である。日本はそのことに気づいていない。そこに日本の悲劇があるし、絶望がある。
日本は永遠にめざめないのかもしれない。岡倉天心や幸徳秋水を全的に評価することがないのかもしれない。竹内好は日本の魯迅たらんとしたが、最近までの彼は魯迅の絶望には無縁であった。やっとこの頃少しずつわかり始めてきた。それほどに体認するということはむづかしい。その竹内好にも岡倉天心論があるのは一般に知られているが、その天心論は不十分である。ここに、天心論のむづかしさがある。
天心には魯迅と共通する所の絶望があった。秋水にもそれがあった。だが、その絶望とまったく無縁にあるのが、今の学校である。とくに学校秀才といわれる者ほどその傾向にある。今日まで、天心や秋水が真に理解されなかったのもむりはない。

岡倉天心の復権のために
私は天心を継承発展しようとした者は北一輝であり、細川嘉六であるとみた。さらに、孫文、ネルーであるとみた。最初彼らにもふれようとしたが、紙数の関係で省略した。結論も書かなかった。結論は読者一人一人に出してもらうためであった。とくに、岡倉天心や幸徳秋水のように、一般的評価の出ている者に対し、大胆に否というのはおこがましいと考えたからである。
私はぜひとも岡倉天心や幸徳秋水について、読者一人一人の評価をおねがいしたいのである。それが岡倉天心、幸徳秋水の評価が変わり始める第一歩である。どんなことがあっても天心、秋水の評価が変わり、日本の進路を変えてほしいのである。アジアの中の日本の進路を変えてほしいのである。そうして最後には世界の進路まで変えてほしいのである。
アジアの伝統的平和主義にはそれがある。中国は今日必死になって、その伝統を吸収し、のりこえようとしている。孔子を批判しているのもその形骸化した孔子像、民衆の中にゆがんで生きている孔子像をのりこえようとしているからである。伝統を吸収した時の中国こそ、今後に生きつづける国である。平和な国、中国である。その意味では、より大いなる課題をになっている。
中国とインドが正常な姿をとり返えさないかぎり世界の平和は実現しない。その前には、日本はどうなろうともしかたない。ことに、吉田松陰、岡倉天心、幸徳秋水の生と思想を殺しても平気な日本人である。日本の進路があやまるのも当然である。彼らの生と思想が本当に正しく生きた時、日本は再生するのである。第二次大戦後の日本の再生は虚偽であった。それを今なお手放しで喜んでいる日本人は、救いがたい所まで落ちている。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

プロローグ……吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛と岡倉天心

吉田松陰の日本国観
ふつう、吉田松陰といえば幕末の志士であり、教育家として評価されるだけでなく、アジア侵略をなした西洋諸国についで、そのあとに追随した日本のアジア侵略の先駆をなす人間としても(高い評価)をうけている。それが今日といえども定説のようになっている。
それというのも、吉田松陰が嘉永六年(1853)「朝鮮満洲、支那(中国)をきりしたがえ」といい、さらに、安政三年(1856)には「北海道、琉球を開墾し、朝鮮をとり、満洲をひっぱりつけ、支那(中国)や印度を味方につけ」といったことによる。とくに、彼のこの言葉は大東亜戦争中に盛んに持ちあげられたし、今もそれがつづいているのである。
だが、吉田松陰が安政六年に「西洋列強にたちむかうためには航海通市以外にない。だから、朝鮮、満洲、支那(中国)を訪ね、ジャバ(ジャワ=インドネシア)、ボルネオ、オーストラリアを訪う」と言いきった言葉を読みとろうとする者は少ない。安政六年(1859)といえば、若き日の吉田松陰であるが、嘉永六年となると、さらに若く、血気盛んなときである。彼の思想がどんどん成長していったことをここに見なくてはならない。とくに、吉田松陰が、安政三年以後、孟子を講義していくなかで、いわゆる弱少国家が強国のなかで生き抜く道を考えに考えたあげくに、到達した結論というのは、道義国家の道であり、平和国家の道しかないということであった。
道義国家、平和国家とは、一国の政府そのものがつねに道義と平和を追い求め、全国民を道義的、平和的存在として、あつかう国であった。
だから、道義、平和の実現のためには、それを無視して他国の侵略をはかる国家は、たとえ表面上いかに平和や進歩をかかげようとももっとも邪悪な国家と見た。ここには、言外に、アジア諸国を侵略する西洋諸国に対する否定があった。アジア諸国を侵略する国家は、武力国家として、産業国家として、いかに卓越していても、人道的には最低の国家であり、進んだ国家ではないと思ったのである。
幕末から今日にかけて、一貫して武力国家、産業国家として秀でた国を、非常に進んだ国家と考える迷妄が世界中の人びとをおおっている。しかし、松陰はそれはおかしいと考え、そう考えることに待ったをかけたのである。だが、今日もなお、その考えはあらたまらない。
吉田松陰はこのような武力国家、産業国家という一見、強力そうにみえる国家にとりかこまれたなかで、弱少国家の生きる道を終始さがし求めた。そして、彼の得た結論というのは、彼らの侵略にまかせながら、あくまで、道義と平和を欲する人たちが手を握りあって、侵略を意にかいさないような政府と、そして、その政府を助ける人びとを倒すということであった。それこそ侵略国家のなかにも必ずいるにちがいない、道義と平和を求める人びとと協力することであった。
吉田松陰は、文字通り、西洋近代化の道でなく、世界各国の道義化、平和化の道を求めた人といえる。西洋近代化の道が、地球の破滅への道であることを知っていたともいえる。だが、日本は、吉田松陰の生き残った弟子たちによって、その道を歩まず、逆に、西洋近代化の道をひた走り、今日では、エコノミック・アニマルといわれるようになったのである。

勝海舟のアジア連合論
このような、吉田松陰の思想を直接継承したとは思えないが、勝海舟は彼の思想の延長線上にいる。もし、独自に考え、主体的に自分の生き方を究明する者、世界の現実を直視し、無条件に他人の言うところに従わない者なら、必ず、吉田松陰の思想にゆきつくようになる。こうして、勝海舟の到達した考え方は、日本、朝鮮、支那(中国)が対等に合同して、西洋列強にあたるというものであった。勝海舟はこのような考え方をすでに幕末当時にもち、明治以後も一貫してもっていた。日清戦争にたいしても彼が精一杯の反対をしたことを知る者は案外に少ない。
要するに、明治以後、日本政府の政策が西洋諸国の方をむき、アジア諸国を無視するという風潮のなかで、表面だって、「アジア連合論」を唱えることは、死を意味していた。それほどに、西洋諸国はのさばり、日本はあげてそれに追随して、アジア諸国を無視していたのである。それが今日までつづき、日本人の多くには、いまなお反省のきざしすらない。勝海舟の「アジア連合論」が幕末から明治にかけて生きていたことをいま、はっきり知る必要がある。

アジアのこころを説いた西郷隆盛
反革命の巨星であるというレッテルを今日もなおはられている西郷隆盛が、西洋諸国の歩みを否定したことを知る者は多いが、その意味を考える者はほとんどいない。彼は「文明とは道のあまねく行わるるを賛称せる言にして、宮室の壮厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うに非ず。世人の唱うる所、何が文明やら何が野蛮やら分らぬぞ。予、嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮じゃと言いしかば、否文明とぞ言う。否野蛮じゃとたたみかけしに、何とてそれ程申すにやと推せし故、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈悲を本とし、種々説諭して開明にみちびくべきに、未開の国に対する程、むごく残忍の事を致し、己を利するは野蛮じゃと申せしかば、其人口をつぼめて言なかりきとて笑われけり」(南州遺訓)といって、断固として、西洋諸国を文明国でないと言いきったのである。西郷の未開の国とか、開明にみちびくというような言葉にはひっかかるものを感ずるが、いずれにしても、西洋諸国を文明国、進歩した国でなく、偽文明国といいきった点は、卓見というしかない。
西郷がこのような考え方を持ったのは、勝海舟と同様に、自分自身で世界史の現実をみ、具体的に事象をみて、他人の言葉に無条件にひきずられなかったためである。だから、西郷が征韓(朝鮮侵略)をしようとしたのではない、といいきった勝海舟の言葉も納得される。
だが、西郷の死に先だって、明治政府の要人たちは、西洋諸国を文明国と錯覚し、日本はあげて西洋諸国の道を追随し、アジア諸国を無視する方向に走ったのである。人びとはともすれば、単純に、西洋諸国から侵略されなかった国として、日本を誇らかにほめるが、むしろ、そんな国には侵略されていたとしても、少しも不名誉でないことを知るべきである。国民を苦しめたということの責任は別として。

世界を見すえるさめた目
こうした空気を陰に陽にうけて岡倉天心自身「アジアは一つ」という言葉を吐くにいたったのである。西洋諸国を文明国として、盲目的に追随する者には、この天心の言葉の重さはわからないのみでなく、ただ地球の破滅にむかって猛進するだけである。この天心の言葉を徹底的に考えてみようとする人たちが、日本人を再生させ、さらにヨーロッパ人を再生させ、地球の危機を救いうるのである。
「アジアは一つ」ということは、たんにアジアはヨーロッパに対して一つであるべきだとか、一つにならなくてはならないとかという意味でなく、もっともっと大いなる意味をもっている。それをさぐるのがこの本の目的である。これまで、その言葉が天心なきあと、いたずらにいろいろと解説されるだけで、正確に探ろうとする人もないばかりか、深めようとする努力がなかったところに、多くの悲劇がおこっているのである。今の地球の危機を救いうるものは、この言葉の重さを理解する人たちの手のなかにあるといってもいいすぎではあるまい。
天心の再評価は、日本の今後の進路をきめるためには、ぜひとも必要だが、わたしは吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛も、彼とともに、正しく評価されることを望んでやまない。いま緊要なのは吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛のように、自分の目で、とことん現実を具体的にみきわめることである。そうすれば、明日への道が確かなものとなるはずである。かりに誤ったとしても、そうであればじょじょに是正されてくるであろう。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

1 岡倉天心とアジアの原点

倉の中で生まれる
福井藩第一の見識をもっていたといわれていた橋本左内は、わずか二十六歳で安政六年(1859)に刑場の露と消え、その雄図もむなしくなったが、岡倉天心はそれから三年後の文久二年(1862)に、同じ福井藩士岡倉勘右衛門の次男として生まれた。天心は、左内のように夢多き、情熱的な青年であった。
天心に関係の深かったインドの風習によれば、さしずめ左内の生まれかわりということになろう。
ただ、同じ福井藩士といっても、岡倉勘右衛門は、貿易港横浜において、藩経営の貿易商店の店主をつとめる者であった。また、それにより、貿易立国を主張していた橋本左内とはより深い関係にあった。しかも、岡倉天心の乳母つねは橋本左内の縁者で、左内が刑場の露と消えたときには、その地に行って、わざわざその死を悼むほどに、左内に傾倒していた者であったから、天心の養育にあたっては、事あるごとに、左内という人間の言動を誇らかに語るのがつねであった。それが、少年天心の心にいかに深くやきついたかは想像にかたくない。幼少にして、天心は乳母つねをとおして、この不世出の人物橋本左内にめぐりあい、心ひそかに、左内のような卓越した人物にならんと志したことは十分に想像できよう。左内の見ることのできなかった夢を自分自身が達成してみようと考えたかもしれない。その橋本左内を吉田松陰は非常に高く買っていた。彼らはお互いに一面識のない間柄であったが、ともに互いを認めあっていた。
岡倉天心は橋本左内に傾倒し、左内の傾倒していた吉田松陰の思想、とくに彼のアジア諸国の貿易通商論、それによって西洋諸国にあたるという考えに共鳴していたと思える。それに、天心は元来、貿易をつかさどる武士の子である。たんに、利潤を追う商人というより、貿易のなかに、正義を通そうとする人間であったと考えた方が事実に近かろう。
はじめ、天心は、十二月二十六日という、年末のあわただしいときに、倉のなかで生まれたということから、角蔵と名づけられたが、それではあまりにもひどいというので、覚蔵にあらためられた。

孔、孟思想との対決
当時の横浜では、西洋人を異人と呼び、一般の人びとは、西洋人をみるのに、異様な怪物をみるようにおそれたし、敬遠もした。そのような傾向は昭和二十年の敗戦までつづいた。要するに、日本人のなかには、西洋人に対して、いわれのない劣等感をもつ者が多くいた。しかし、天心はそのような西洋人に親しく接し、英語も日本語以上にしゃべり、書けたから、西洋人に対する違和感もなく、日本人同様、悪もすれば善もする、普通の人間とみたのである。勝海舟のように、現実をあるがままにみた。西洋人はすべてえらい人間でもなかったから、まったく彼らにひけめをもたなかった。後年の彼の思想の素地は、こんなところから生まれたのである。
天心は七歳ころから、当時横浜にあった高島学校の教師ジョン・バラーというアメリカ人について英語を学んだ。日本語の学習に先だって、英語を学んだことになる。このことは自然に英語が、彼の語感となって、彼そのものとなり、別々のものでなくなることにもなる。
天心の生母このは、彼が九歳のとき病没。父勘右衛門は再婚した。このために、天心は付近の大谷という所にあずけられたが、その後数ヵ月して、長延寺の住職玄導和尚にあずけられた。この長延寺というのは、生母このの菩提寺であり、玄導和尚は漢学に非常に深い知識をもっていたので、『大学』から始めて、『論語』『中庸』『孟子』などを学び、東洋の王道に憬れ、西洋の覇道を憎む心を心に深くやきつけるようになった。
後年天心が西洋の覇道を心から憎み、東洋の伝統的思想である王道を慕うようになったのも、このときの玄導和尚の導きがあったためであろう。人びとがたんに、『大学』『論語』『中庸』『孟子』などの言葉だけをおぼえたのに対して、天心はあくまで、それらの言葉を味読し、全身で読んでいったのである。おそらく、そういうのが、玄導和尚の教育であったのであろう。天心はたんに書物を読むのでなく、直接、それらの書物を書いた孔子や孟子と対決していったのである。
乳母を通して、橋本左内と出会い、その生きた思想と対決し、さらに左内を通して、吉田松陰の思想と対決し、玄導和尚を通して、孔子、孟子と出会い、その思想と対決したのである。その人物、その思想と対決するということは、全存在で、その人物、思想にぶつかり、自分の頭脳だけでなく、自分自身をその人物、思想にまでたかめ、対置して生きるということである。それは厳しい道かもしれないが、また、やりがいのあることでもある。
こうして、天心は幼くして、英語と日本語を学び、自然に、主体的、自立的人間として成長していったのである。多くの者が、西洋人にいわれのない劣等感をいだき、表面のはなばなしさに思い迷わされていたときに、事実を事実として、あるがままに見る態度を養っていた。これこそが、天心の最大の長所であり、強味であった。橋本左内、吉田松陰のように彼が早熟であり、すぐれた道を歩みつづけたのも無理はない。しかも、いわゆる秀才であればあるだけ、西洋諸国への劣等感になやまされていた時代に、天心一人、その劣等感の枠外にいたということはまったく驚異であり、彼に非常に幸いしたといえる。
「アジアは一つ」といえたのも、無理はなかった。文字通り、世界をふまえての天心の発言であった。
天心の幼い魂にやきついた、これら東洋の先哲たちが、全身で天心を育てたといってもいいすぎではない。彼らが全身で育てたということは、天心が全身で彼らから学んで、生きたということである。

青年時代
王制復古で、福井藩が経営する横浜の商店は消滅し、それとともに、勘右衛門は地位を失ったので、彼は一家をあげて、東京に移った。当然、天心もそれにしたがった。時に、明治四年(1871)であった。
東京に移った勘右衛門は、居を日本橋蠣殻町に構え、旅館業をはじめた。もともと、福井藩の下屋敷のあった所で、その好意ではじめたものである。だから、旅館には福井県から上京する者がほとんど泊まり、なかなか繁盛した。
当時、天心をとりまく者は、勘右衛門夫婦と弟と妹、それに岡倉家の養子となった八十八という者と倉二郎という名の青年であった。そのほかに、番頭と雇人十余人がいた。勘右衛門は八十八、倉二郎の二人を、将来をみこんで養子にしたほどの人柄であったから、勘右衛門のつくる一家の雰囲気は向上の気に満たされていたし、人間をそれなりに生かさんとするものがみちみちていた。天心はそのような空気を意識的、無意識的に吸収して、青年時代を過ごした。そのことが後年「アジアは一つ」と叫び、アジア人をアジア人として、アジア人らしく生かさんとする立場を自然に身につける一因になったものと思われる。人間を表面的に見、評価するのでなく、人間そのものを、人間の内実を見得る人間に育てることになったのであろう。
天心は、東京移転と同時に、神田一ツ橋にあった外国語学校に入学したが、明治八年には、神田錦町に新築開校された東京開成学校に移っている。開成学校は幕府時代の蕃書調所が発展したもので、これがさらに東京帝国大学となり、今日の東京大学となったものである。明治十年には、学制の改革があり、あらたに、開成学校は東京大学となり、学部も法学部、理学部、文学部、医学部の四つになった。
総理には、加藤弘之がなり、副総理には、浜尾新がなった。総理とはいまの総長である。浜尾新と天心との深い結びつきは、このときにはじまったといってもよい。

中村正直との出会い
天心は文学部に入り、政治学、理財学を学ぶことになった。当時は各学科が今日のように整理されておらず、各科の間には聴講の自由があり、天心は国文学、漢文学、英文学など、相当に各学科を学んでいる。とくに中村正直の漢文学、ウイリアム・ホートンの英文学は好んで聞いたということである。
中村正直は、周知のように、敬宇と号した人で、『西国立志編』の著者としても有名だが、どんな人に対しても尊敬の念が強く、決して人と争うということのなかった人である。しかも彼は漢学者というだけでなく、キリスト教、儒教、仏教にも深く通じ、それらの思想が相互に相通じ、真に人間を生かし、何が人間のためのものであるかを見きわめていた人でもあった。
だから、天心は中村正直を通して、富とか、地位に関係なく、その人そのもの、人間にはだれにもある天爵をみることのできるような人間としての素地を身につけた。そればかりでなく、キリスト教、儒教、仏教が互いに相通じ、人間を生かすものであるということを知り、後年「アジアは一つ」と叫ぶ素地を形造ったということができる。インド精神というか、東洋の精神というか、それを受け入れることのできた素地は、中村正直によってつくられたのである。
また、ウイリアム・ホートンは英文学に秀でたイギリス人で、彼の影響をうけて、イギリス、アメリカの文学を原文のままで耽読するようになった。もちろん、当時の東京大学の教授のほとんどは外国人で、講義も試験の答案もすべて英語であり、その点、幼時より日常的に英語に親しんでいた天心には非常に都合がよかったともいえる。
ある日、天心は同学の福富孝季と一緒に、牛肉屋の二階で大いに英文学を論じていたら、たまたま、その隣りに、坪内逍遥と高田早苗がやってきて、彼らも盛んに英文学について語るのをきいて、ついに一緒になって語りあったということがあった。それが縁で、お互いの交友もはじまっている。文字通り、天心はよく食べ、よく学び、よく吸収したというべきである。

大学で独学する大志
同学の牧野伸顕が語るように、天心は「多情多感の青年であり、そのころからすでに美術に対する関心も人一倍強く、それをうけいれる感受性もことのほかに強かった」。自分の全身で、全存在で、美を求め、美と対決するような青年であり、たんに観念的美をもてあそぶような青年、たんなる知識として誇るような青年ではなかったようである。いってみれば、美を求めることが、そのまま、彼の生であるような青年であった。
美に対してこのような青年であった天心は、たんにそれだけでなく、すべての面にわたって、人生を積極的に自分のものとしていくような生活態度をもっていた。天心は美そのものを普通の人のように狭く極限することなく、すべてを美との関連において求め、広め、深めていこうとしたのである。人生そのものを限りなく広め、豊かにしようとした。それは橋本左内に学び、吉田松陰によって徹底され、中村正直によって彼の軌道となったものである。その生そのものを重視し、知識そのものを生そのものに奉仕するものとしてとらえた彼の独自性が、そこにある。
だから、天心は大学在学中といえども、大学当局の定めた課程にのみひたりきるということなく、自由に、思う存分に、他のものを求めていった。もちろん、彼は、大学の課程にひたりきることのできなかった青年といえるかもしれない。それには、彼の血はさわぎすぎたのである。こういう人間は、自分で自分の道、自分の世界を創造していく以外にない。他人の定めたレールの上を歩むことは単調でやりきれないのであった。彼は新しいものを創造していく者として、現代を否定する反逆児であり、現代を真に発展させる天才であった。

文人画を学ぶ
その第一歩として、天心が求めたのは文人画の世界であった。レオナルド・ダ・ヴィンチが総合的天才であったように、彼も総合的天才の道を求めて、文人画の世界を克服せずにはいられなかったのである。その師中村正直がキリスト教、儒教、仏教を己れのものにしたように、一歩一歩と自分の世界を広めようとした。宗教家といっても、せいぜい、キリスト教しか自分のものにできない人びとが多いときに、中村正直はよく儒教、仏教をも自分のものにした。このように限りなく自分を勉励して一歩一歩、世界そのものを己れのものにしていこうとする天心のそれは、この師から学びとったものである。
当時、文人画にたずさわる文人画家は下谷一帯に住んで、人気を集めていた。なかでも、独自の存在であったのが奥原晴湖という女性で、男装をして、すベての点に男性を圧倒するという傾向があった。彼女は絵を描くだけでなく、書にも詩にも秀でていた。
天心が注目したのはその女性で、彼女に入門して、文人画を習得した。彼が習得したものがどの程度かわからないが、おそらく、彼はここでも、その自由闊達の心をますます深める方向にあったと思われる。彼の意図したものは、他人にみせるための文人画ではなく、あくまで自分のための、自分の志操を養うための文人画であった。

漢詩にも挑戦
天心は文人画を習う一方で、それに前後して漢詩を学んでいる。その当時は文人画とならんで、漢詩も非常に隆盛で、漢詩をやらないものは人でないというくらいの空気であった。彼は青年らしい客気をもって、当時隆盛の文人画と漢詩に挑んだが、それは同時に現代の空気をそのまま自分のものとしてみせるという満々たる自信のためでもあった。自分のものにできないはずはないという自負からでていたが、同時に、総合的天才を夢みる彼の態度そのものであった。
こうして、天心が漢詩の先生としてえらんだのは、森春濤という女性であった。彼女は当代一流の漢詩家として有名であった大沼枕山に対し、別派をたてるという風変わりで非常に個性的な女性であった。彼女についたということは、天心があくまで、時流に流されないで、自分の心に感応する詩をえらんだということであろう。ここにも、文人画と同様に、自分自身のための漢詩であったということができる。
奥原晴湖は小西湖詩酒社という名前の社を経営していたが、天心もたびたびそこに会合して詩を作ったり、酒をのんだりしていた。そのことが後に天心を酒豪にしたとも考えられる。いずれにしても、天心は詩をつくり、中村正直の講義中に、その詩をみせて、先生を驚かしたこともあるという。それほどに、感情豊かで、自由な青年であった。
天心は文人画、漢詩のみでなく、さらに、加藤桜老について、琴曲を学んだ。桜老は水戸に生まれ、のち常陸笠間藩士加藤惣蔵の養子となったが、水戸にいて藤田東湖、金沢正志斎らに深く学んだ幕末の志士。一時、高杉晋作も彼に学んだし、長州藩明倫館の講師をしたこともある。維新後は京都大学につとめたり、湊川神社の宮司をした人。漢学に造詣が深く、それに、音楽にも秀でていた。それというのも、彼は一国の治世は、詩によっておこり、礼楽によってなりたつという信念のもとに、漢学とともに琴を教えた風変わりの人というよりも、非常に見識のある、すぐれた人物であった。ここにも、橋本左内、吉田松陰に因縁の深い加藤桜老に学び、おのずと、国家の、政治の理想について学び、自得した青年として、天心が育った背景がある。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

アーネスト・フェノロサ
この意味で、天心は普通の青年とは異なり、非凡な青年としてめぐまれていたことになる。とくに中村正直、加藤桜老に接したことは、別人のような青年に育っていったといえる。
さらに、天心のこのような方向を決定的にしたのは、アーネスト・フェノロサとの出会いである。いうまでもなく、彼との出会いは天心の大学時代のことであり、人間形成の上に、人との出会いがどんなに大きな意味をもつかということを、明確にしめしている。
天心は橋本左内、吉田松陰を思う人間から、中村正直、奥原晴湖、森春濤、加藤桜老たちに育てられ、最後にはフェノロサによって、その方向を定められたのである。まさに、めぐまれた青年時代というべきである。

若い天心、若いフェノロサ
フェノロサによって、天心はその人生行路を定められたし、それは終生変らなかった。しかし、それは中村正直、奥原晴湖、森春濤、加藤桜老らが培ってきた上に、結実し、開花したものである。人はともすれば、これらの人の存在を無視し、あるいは過少評価しがちであるが、天才天心、創造的人間天心はこれらの人を離れては決して生まれなかったのである。これらの人間の長所を総合し、統一したところに、天心という天才は誕生したことになる。とくに、「アジアは一つ」と叫ばしめたのは、フェノロサとの出会いだけからは決して生まれず、中村正直、奥原晴湖、森春濤、加藤桜老たちの延長線上にはじめて生まれた雄叫びであった。
では、天心の一生を決定し、天心を大きく羽ばたく人間にしたフェノロサという人間とは、どういう人であったのであろうか。
フェノロサはアメリカのハーバード大学を卒業したアメリカ人で、東京大学の文学部の講師として来日したのは、明治十一年(1876)、彼の二十六歳のときであった。アメリカにいたときから、東洋哲学や仏教に深い関心をいだいていた学徒であった。東京大学では哲学、論理学、理財学、政治学、経済学などを講じたが、とくに宗教論には彼独自のものをもっていた。いうなれば、宗教社会学といえるものであった。
そのとき、天心は十七歳。彼はフェノロサの説くところに深く魅了された。だが、フェノロサが日本上陸とともに、その伝統的な古書画、古什器にかぎりない好感と強い興味をいだくようになり、そのために、その道の大家を訪ねたり、古書、古典をひもとく必要が生じたとき、彼のかたわらにあって、通弁、翻訳の役を果たす人が必要になった。それにえらばれたのが天心であった。だから、フェノロサと天心の交わりはたんに師弟の枠をこえて、非常に深いものとなった。
天心はフェノロサとともに行動することによって、しだいに古書画、古什器への興味も深まり、鑑識眼も高まっていった。もちろん、そこには奥原晴湖、森春濤、加藤楼老からいろいろの手引きをうけていたことも幸いしたであろう。フェノロサとともに、天心その人もいつか日本古美術について、卓越した意見をもつ人間として成長していった。フェノロサも若いし、天心も若い。ともに目的を一つにして、若い情熱をそそぎこんで、日本の古美術についての理解を深めていった。
ことに天心の場合、その漢詩にも書いているように、汚濁にみちた現実の社会を憎むことが、人一倍強く、その憎しみがそのまま大自然への没入、憧憬となっていたが、いま、日本古美術という対象を得たことにより、彼の情熱はますます燃えさかったということができよう。日本古美術を正当に理解し、それを今日に再現し、さらに発展させなくてはならないという思いは、彼のなかに燃え上がったのである。

幻の名著『国家論』
とくに、漢詩そのものに書いているように、天心は元来反権力傾向の強い人だから、世のなかの人びとがすべて無条件に西洋諸国を謳歌し、それに追随する風潮をみれば、日本古美術の伝統を生かそうと考えたのも当然である。それはたんに伝統に固執し、西洋化、近代化に異をとなえたのとは違う。天心は漠然と、日本には日本の道があり、盲目的な模倣は好ましくないと考えただけである。
天心ははじめ卒業論文として、「国家論」を書いた。それは政治学を専攻する学生としては、当然のテーマといえよう。しかし、この論文は前年結婚していた妻もとのヒステリーにあって、火中に投げこまれてしまったという。このとき、もとは妊娠中で、痴話喧嘩がこうじて、強いヒステリー症状をおこしたのである。
そのために今日、天心の「国家論」をみることはできないが、おそらく、玄導和尚を通じて東洋の王道にめざめていった経緯が根幹になって、吉田松陰の道義国家、平和国家の構想が西洋諸国への覇道に対して練られていたにちがいない。インドを無残にも征服し、統治しているイギリス、西洋諸国の代表とみなされるイギリスの現実をみて、天心は今後の日本の進路はいかにあるべきかを理念的に追求したと思われる。日本の権力者が無条件に、この事実を省みず、たんに西洋化の道を盲目的に歩んでいればいるほど、彼のような理想に燃える青年は激しくそれに反対し、世界史のなかで、あるべき国家の理念を描かずにはいられなかったであろう。
卒業成績はあまりかんばしくはなかった天心であるが、それは、そのようなものが大事なものと思わなかったためであって、自分のための勉学は人一倍にやった青年である。昔も今日も、学校秀才とは、学校当局のきめた課題だけに熱心で、学校当局の考えに追随した人間のことをいう。それに対して、天心は自分のための勉学をもっとも重んじ、自分を肥えふとらせることが、日本を肥えふとらせることにもなると考えていたのである。大学の成績を云々することは、真に、大学の教育を考えていない者である。彼が中村正直、奥原晴湖、森春濤、加藤桜老、フェノロサらとの出会いから、つねに学んだということは、どんなに高く評価しても評価しすぎることはない。
フェノロサが天心の一生に深いかかわりをもったことはすでに述べたが、同時に、彼の親友福富孝季が自決して亡くなったという事実は、彼に強く生というものについて考えさせたにちがいない。それでなくても多感の青年天心に与えた影響は強かったと思われる。福富がなぜ自決したかは明らかでないにしろ、自決という最後の姿をとった福富の生きる気魄というものだけは、なみなみでなかったと思われる。おそらく、生きている間も天心に影響をあたえ、死んでも影響をあたえたであろう。天心がその生を可能なかぎり、充実させようとつとめたのも当然である。橋本左内の刑死といい、吉田松陰の刑死といい、天心の生への燃焼と無関係ではないと思う。

文部省に入る
いずれにしても、フェノロサをはじめとして、多くの会いがたき人たちに出会って、天心は東京大学を卒業した。「国家論」を焼かれた彼は急遽「美術論」を書きあげて、卒業した。私からみると、「国家論」も「美術論」も大同小異にみえる。一つは、国家、政治に力点をおき、一つは美術に力点をおく。彼のなかでは、美術に力点をおかない国家は空虚にみえたにちがいない。むしろ、「国家論」を焼かれてみて、美術そのものをいかにすべきかを考え、対処するのが先決となったのであろう。
文部省に入ったのも、美術によって、日本人を変え、現実の日本を変えていこうという情熱に燃えていたためであろう。「国家論」は焼けたが、天心の心のなかには、それが生々しく生きていたのである。
文部省に入ったときの天心は、文字通り、野心に燃えていた。彼を文節省に推挙したのは、大学の副総理浜尾新である。その浜尾新はのちに文部省に入り、専門学務局長になった。
天心が入ったのも、この専門学務局に属する音楽取調係りであり、師弟ともに専門学務局に籍をおいたことになる。浜尾新の方はその後、東京大学総長になり、文部大臣もつとめ、枢密院議長にもなった男。以後、陰に陽に天心を助け、天心をひいきにしたことはいうまでもない。天心が東京美術学校をつくり、若くして校長になったのも、天心の才覚があったればこそではあるが、浜尾新が天心の才覚を非常に買っていたという事実も見逃せない。彼はすぐれた師とともに、つねに引き立ててくれる人びとにも非常にめぐまれていた。それがいよいよ彼を大きく育てたともいえる。

日本画とフェノロサ
天心が東京大学を卒業して、文部省につとめたのが、数え年十九歳の明治十三年(1880)であった。彼はそこの音楽取調係りに籍をおいた。音楽取調係りは、その前年の明治十二年に新たに設けられたもので、そのころ、アメリカの有名な音楽教育家ルーサー・ホワイテン・メーソンが招かれ、その係りの指導とともに、音楽学校設立の準備をすすめていた。
天心はそこにポストを得て、メーソンのために通訳の仕事をし、さらに公私にわたってメーソンと交わり、彼の日本における寂寥をなぐさめたという。さらに、黒川真頼たちの作ったものの音楽調整にもあたった。黒川真頼はのちの東京大学の教授であり、美術学校の講師であった人。そのときの縁で美術学校につとめたのかもしれない。
だが、伊沢修二が明治十四年(1881)に帰朝して音楽取調係長になると、ことごとに天心との間がうまくいかなくなった。もともと、伊沢は音楽教育のためにアメリカに留学した新進気鋭の男。その自信過剰がことごとに、同じく年の若い天心と衝突したのである。伊沢は西洋一辺倒の男であったから、日本の古代音楽の理想を日本人の現実的感性に即して、徐々に伸ばしていこうと考える天心との間がうまくいかないのも無理はない。そのために、天心は一時、同局の内記課勤務と兼務になったが、まもなく、音楽取調係りをやめさせられ、内記課勤務一本となり、そこで改めて、美術に専念することになる。
卒論に、「美術論」を書いたほどの天心。音楽はもちろん無関係ではないが、美術に専念できたことは彼の喜びであったろう。彼とフェノロサとの関係は大学在学中以来のものであったが、フェノロサの日本古美術から日本美術全般に対する知識が深まれば深まるほど、天心のそれもともに深まっていった。とくに、天心が美術を専門的にやるようになってから、彼らの間の交情はさらに深まり、ときには、一体化するまでになった。
フェノロサは明治十五年(1882)に、佐野常民や河瀬秀治らの主宰する竜池会に招かれて、「日本画は洋画よりすぐれており、真の美術である」と説いた。これはだいたいヘ−ゲルの哲学にもとづいての所論であったが、要するに、陰影、色彩にこそ洋画はすぐれているが、洋画には妙想が忘れられており、妙想を練ることに徹している日本画は真に美術の名に価するといって、日本人の日本画に対する自信と誇りを振起し、浅薄な西洋画追随を攻撃したものである。
これは『美術真説』という名で、一般に公刊されたが、なんでも西洋のものは優秀であるという声がみなぎっていたとき、アメリカ人のフェノロサにこの声があったということは驚異である。だからとて、その声に耳を傾ける者はほとんどいなかった。ただ、天心は一種の感動をもって、その言葉をきき、心にきざみつけた。おそらくそのとき、橋本左内、吉田松陰の素朴な声、自信と誇りにみちた声が思い出されていたにちがいない。たとえ、貧しくとも、日本人は日本人の道を歩み、それを世界に通用するものにしなくてならない。日本人を根底から変えなくてはならない。西欧化への道は、日本人の根底に目をつぶって、表面だけを変えてみせる道だと。しかも、いまフェノロサによって、さいわいに日本美術の優秀さを洋画との比較の上でしめされたと知ったときの天心の感動が、いかに大きかったか。
ただ、フェノロサがいったものが、妙想という訳語で十分であったかどうかはわからない。それに、彼のように、性急に洋画にはそれがないと断定し、日本画にはそれがあるといいうるかどうかは疑問である。現に、その当時の彼は、美術学校の設立には反対していた。それというのも、妙想をもつ美術家がいないから、教育の実はあげえないと考えていたためである。彼の妙想は幻想を、いでなかったようである。

西洋の開化は利欲の開花なり
そのことはともかくとして、このころ、天心はフェノロサの『美術真説』に啓発されながら、洋画家小山正太郎の「書は美術にあらず」という所論に対して、「書は美術にあらずを読む」という題で反論を書いている。いうところは、「小山氏は美術の利益を一般の工芸に比し、“書は高価を以て海外に輸出する能わず”また“工芸を進むるの基と為て百般の事業振起”するの幇助たらざる以て、之を無用のものなりと断定せり。余読みて此に至り、慄然として言うに堪えざるものあり、嗚呼西洋の開化は利欲の開花なり、利欲の開化は道徳の心を損し、風雅の情を破り、人身をして唯一個の射利器械たらしむ。貧者は益々貧しく、富人は益々富み、一般の幸福を増進する能わざるなり。この時に当り計をなすに、美術思想を流布し、卑賎高尚の別なく、天地万物の美質を玩味し、日用の小品に至るまで思想を歓悟するの具に供せしむるにしくはない」という意見である。
彼にいわせれば、西洋の文明開化はたんなる利欲の開花で、人間を人間たらしむるものこそが美術であるというのである。このときの彼は、美術をいわゆる美術品の枠内にみているが、美は美そのもののためにあるといいきったものである。西洋の文明開化では人間は美しくならないといいきったのが天心である。西郷隆盛の意見と期せずして一致していたのである。小山正太郎は工部大学の美術部門で洋画を学び、日本における洋画の定着、発展に非常につくした人である。
いずれにせよ天心は、そのような小山正太郎に食いついたのである。
しかし、天心がそのころに起こってきた国粋化の方向、反動化の方向にいかず、あくまで、日本を基調とした世界主義への方向を歩んだことはめずらしいといわなくてならない。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

狩野芳崖の発見
そのころ、天心は、来日したアメリカの富豪ビゲローや、フェノロサとともに、京都、奈良地方を見てまわり、また文部小輔九鬼隆一の視察に随行もした。それが繰り返されることによって、ますます天心の美術への関心は深まり、その目は肥えていった。しかも、それをいよいよ助けたのは、フェノロサと狩野芳崖との出会いであり、さらに天心と芳崖との結びつきであった。
狩野芳崖は長州藩の支藩豊浦藩のお抱え絵師の子として育ち、その後、狩野家に入門。一時帰国したこともあるが、のち再び東京に出て絵筆をにぎっていたが、世の中に認められず、貧しい生活を送っていた。だが、そのなかにあって、絵に対する情熱だけには激しいものがあった。フェノロサに絵がみとめられ、この人こそ妙想のある画家だと思わせたのは、第二回絵画共進会のときである。だれも認めようとしなかったとき、彼こそ画家であるとフェノロサはいいきったのである。
狩野芳崖を見出したフェノロサも非常に満足だったし、フェノロサに認められた狩野芳崖もまた幸いそのものであった。これを期に、竜池会に対する鑑画会が発足し、これより狩野芳崖は魚が水を得たごとくに、つぎつぎと彼の代表作をつくってゆく。鑑画会に天心が参加したことはいうまでもないが、同時に天心と芳崖の交際も深まり、ともに酒を汲み、美術を語った。二人の結びつきが、天心の美意識につらぬかれた自意識をみがき、高めたことはいうまでもない。
これより先に、文部省に図画教育調査会が生まれ、天心はその委員となり、翌年図画取調係ができ、その係員となり、ついで、その主幹となるが、まもなく美術取調委員として、ヨーロッパ各地を視察してまわった。すべて美術学校設立の準備のためであった。

天台宗への傾倒
そのころ同時に、天心は園城寺法明院の敬徳阿闍梨について、天台宗を学びはじめている。おそらく、美を求める心と宗教を求める心は相通じたものと考えたことによるのであろう。彼は雷信の戒号をうけるほどに熱心であったのみでなく、天台の教学を通じて、仏教の原理そのものに至らんとするものであった。ここにきて、中村正直がキリスト教、儒教、仏教を求めていたことが非常に参考となった。一つの宗派仏教に埋没することなく宗教そのものをながめえたのである。宗派仏教にとことん埋没することによって、はじめて宗教の本質に迫りうることも彼はよく承知していたのであろう。しかも、日本古美術の復興をはかる彼としては、天台宗という比較的古いものに迫って、それをもとに発展させたものを現代に生かそうという思いもあったにちがいない。

浦啓一と中国への夢を語る
天心が、専修学校の講師となり、出講したのは明治十五年(1882)以降であり、文部省専門学務局内記課につとめていたころである。専修学校とは、いまの専修大学の前身で、そのころは終業年限二年の学校であった。
そこに、浦啓一という青年が長崎県平戸より上京し、天心に出会い、その指導によりその一生に決定的な影響を受けたのである。浦が故郷の父にあてた手紙には、つぎのように書いてある。
「さて不肖今般都合により左記の所に下宿仕候。日本橋区北島町二丁目二十一番地 布留川卯之助方。不肖平生の志たるや固より一の専修学校にとどまらず、これは只余業にて、その心志のそそぐ所は政治学に在り、あまねく英、仏、独の原書を講じ、政事の原理を究めんと存居候。
これもとより膝下御諒知遊ばされ候通りにて今又諜々せず。ついては良先生を得て之に従い学ばんことを熱心まかりあり候処、今度幸に専修学校の教員に岡倉覚三君なる人あり(三年前大学校卒業せし人にて文学士なり。今文部省にあり)。その人懇篤善く教う。故にこれに従学せんと欲し、平生の志を話し、希望の意を述べ候処、熱心勉学致すべきとならば、自分も公事に鞅掌(文部省は実に繁忙、夜に至って退庁すること時々ありと云う)閑暇少なけれども、都合を見合せ、講習しくれるべき旨了承あり、実に幸の至にこれあり候。而して先生は早朝或は夜間にあらざれば、閑暇なき趣につき、不肖方今の塾に居り候ては道隔り、且つ幾分か束縛をうけ、朝夜来往意の如くならず、是に於て先生の近辺に下宿し、その閑暇をうかがい、朝夕来往英書を学び、而して専修学校へは毎日通学授業仕候つもりにて前記の所に移寓仕候儀にこれあり候」
当時、天心は二十一歳。浦啓一は二十二歳の青年。師弟の関係をこえて二人の青年はともにかぎりない情熱と深い尊敬を感じあって、相会したのである。浦啓一にとっては下宿を変わり、天心のかたわら近くにいて、彼から学ばんとするほどの打ち込みようである。天心にとっても、浦啓一にとっても、これほど愉快なことはなかったであろう。
天心から何を学んだかは明らかではないが、浦啓一は、その後まもなく支那(中国)にわたり、奥地調査にでかけたまま消息を絶っている。明治二十二年のことである。三十歳にならない青年のまま死んだことになる。
天心が支那(中国)旅行を志し、生命をかけて、それを敢行したのが明治二十六年、浦啓一はそれに先だって実施し、生命を絶ったのである。弟子が師に先だって敢行し、生命をおとしたことになる。この事実から考えてみて、二人はともに支那(中国)への夢を語りあい、大陸への踏査を語ったのかもしれないし、天心がその夢を浦啓一にそそいだのかもしれない。案外逆に、浦啓一が天心に働きかけたのかもしれない。
いずれにしても、二人の間に支那(中国)への夢がこの出会いのなかからわきおこったのである。もちろん、浦啓一は平戸に育ち、朝鮮や支那(中国)を身近かに感じて育ったし、専修学校を卒業した後にも、支那(中国)への夢はさらにふくらんだと思える。それは、故郷へのつぎのような手紙からもうかがえる。すなわち、彼は、「即今支那(中国)におもむき、その語学を修め、英豪に交わり、山川風土人情風俗の形勢に通暁し、以他日支那(中国)の不振をおこし、日支の間に立って事をなすの基を立てんと存じ候」とか「今日の満清朝廷を亡ぼし、その弊政をあらため、人心を振起して国勢を盛んにし、我国と相扶け、東洋の大勢を挽回せば、欧州と対峙するに足るべく候」と書いている。
とすれば、天心に支那(中国)の夢を吹きこんだのは、弟子の浦啓一であったように思われる。
世界のなかの日本ということに非常に熱心であった天心に、世界のなかの東洋というもの、その東洋の一角を占める日本というものを天心の心にうえつけたのは浦啓一であったろう。そして、それが本物として、天心のなかに育つために、浦啓一は生命をかけ、死んだのである。「アジアは一つ」と言った天心の雄叫びは、同時に、浦啓一と共同してつくりあげたものである。それは、橋本左内、吉田松陰が天心にもたらしたイメージよりもさらに強烈であり、具体的であった。

浦啓一の死
ちなみに、浦啓一が探査しようとしていたことをつぎに記してみよう。彼の注意していたことがどんなに高く、その考えもいかに卓越していたかがわかる。すなわち、各地で会う人物をどのように評価するかということでもある。
「君子、豪傑、豪族、長者、侠客、富者、この六つの者は十分心をつくして、その住所、姓名、年齢、行跡等をつまびらかに記載しておくべし、いま左に各人物の異同を記して参考に供す。

一 君子の志左の如し。
イ 道を修めて、全地球を救う。(第一等)
ロ 道を修めて、東洋をおこす。(第二等)
ハ 国政を改良して、その国を救う。(第三等)
ニ 子弟を鼓舞して道を後世に明かにす。(第四等)
ホ 自朝に立ち、国を治む。(第五等)
へ 独り自淑して、機の至るを待つ。(第六等)

二 豪傑の志左の如し。
イ 政府を顛覆して新政をしく。(第一等)
ロ 兵を起して、一方に割據す。(第二等)
ハ 西洋人の跋扈をこらして国外に逐う。(第三等)
ニ 西洋の利器をとらんと欲する者。(第四等)
ただし豪傑の行は、君子より或は小にして一方に偏す。故に国を治むるの一器を得て満足するもの多し。その志多くは道を存する少くして、功名栄利を主とす。右の志のみにては未だ豪傑となすに足らず。その行跡中に左の行跡あって始めて認むべきなり。
イ、行は人の儀とするに足る。 ロ、知は嫌疑を分つに足る。 ハ、信は約を守らしむるに足る。 ニ、廉は財を分つに足る。 ホ、義に処してめぐらず。 ヘ、危を見ていやしくもまぬがれず。 ト、利を見ていやしくも得ず。

三 豪族
豪族は古来の名家の後か、或は古来の富家なり。故に豪族の名ある者にして、敢て賢ならず、又敢て俊ならず、凡あり愚あり、然れども、多くは人望あって忌まるるもの少なければ、一人を得て一郷の人を得べきなり。

四 長者
イ 家とんで貧をめぐむを好む。
ロ 郷人を愛して善にみちびく。
ハ 或は学才あり、或は無くして質良なり。
ニ 或はその志世を済うにあるも大ならず。
ホ 君子の学識なき者ににたり。
この長者も一郷の仰望する所なるを以て、一人を得ば一郷の人を得べし。

五 侠客
侠客はおよそその気剛なり。然れども真の剛にあらず。私欲あればなり。故に多くは名誉を主とす。かつ権の道を知らず。これを以て小義大義あわせて此をなさんと欲し、却って大義をあやまることあり。しかれども、その気剛なるを以て名利のためには死を恐れず、故に命をなげうって人を救うこともあり、財をむなしうして人の窮をあわれむものあり、是を以て、俗人の尊敬をうけ、浮薄の徒が仰ぐところとなる。若し、その一人を得ば、これも亦一挙あまたの人を得べきなり。
富者については、省略するとして、浦啓一がこういう基準で、人びとをみようとしていたことは明らかである。そして、彼自身、君子たらんとしていたことはたしかだし、つねに道を修めて全世界を救うという所までいかなくても、東洋を救うことを志していたにちがいない。少なくとも天心には道を修めて全地球を救う人になって欲しいと思ったにちがいないし、全地球を救うためにはまず東洋をおこして欲しいと思ったにちがいない。そうなると、浦啓一はますます天心のその後を規定した人間として、大きく浮かびあがってくる。それなのに、二十数歳にして倒れてしまったことは、なんとしても残念である。しかし、天心には、浦啓一という人物との出会いとその死があり、彼自身生命をかけた支那(中国)各地の踏査があったればこそ、後になって「アジアは一つ」という言葉が結実したのである。その意味で、「アジアは一つ」といった意味は深く味わわなくてならない。かりにも、「アジアは一つ」ということは西洋に対していわれたことでもないし、アジアは一つにならなくてならないという希望をもっていわれた言葉でもなく、もっともっと深遠なのである。
だが、その言葉を明らかにする前に、なお天心がたどらなくてならなかった迂余曲折の道を詳細に語りたい。その言葉は単純に述べられたものではないからである。

美術にも思想がある
天心は、明治十九年の終わり、文部省の美術取調委員として、フェノロサとともに、九ヵ月のヨーロッパ旅行に出発した。すべて美術学校設立の準備のためであり、日本に絵画教育をおこさんとする夢からでたものであった。もちろん絵画教育は昔からあったが、それは一部の者に独占され、一部の者の絵画であり、決して日本人一般の絵画教育になっていなかったし、日本人一般の絵画にはなっていなかった。
すでに、小山正太郎との論争のとき、「美術思想を流布し、卑践高尚の別なく天地万物の美質を玩味し、日用の小品に至るまで思想を歓悟するの具に供せしむるにしくはなし」といい、後年の天心がすべての事物のなかに美を見出し、美そのものは生活美、全体美でなくてはならないといった考えの萌芽をしめしているように、彼は美の追求、実践を重しと考えたが、それ以上に万人のための美思想が確立し、それが万人に普及することを考えていた。
普通、ともすると、美は美術の枠のなかのことと考えて、美を美術品の枠内におしこめようとするが、天心は美は万人のためのものであり、それは日常的な生活のなかにあると考えていた。もちろん、このころは明確にそのような考えを打ち出してはいないが、その萌芽は明きらかに出ていたのである。彼はこういう観点からヨーロッパ美術をみてまわった。
天心はフランスからイタリア、イスパニア、ドイツ、オーストリア、イギリスと各地をまわってみたが、すぐれた絵画、美術品は、その固有の伝統に即して、それを忍耐強く育てた所にのみ、結実していることを知った。いたずらに新奇を追い、他をまねるところには、本当に美しいものは育たないことを知ったし、たとえ一時的に美しくみえようとも、一時のあだ花にすぎないことを知った。だから伝統的な絵画を発展させ、それを伸ばしていく以外にないと考えた。フェノロサの認める日本美術がそこにあるとすればなおさらである。
日本固有の美術を育て、それを世界性のあるものにするとき、日本人そのものを美そのものに高め、世界美、最高美にもっていくことも困難でないと考えたのである。日本人の絵画は日本人自身の道を歩んで日本人そのものを高めていく以外にないのだという結論に到達した。
だから、外国流行中、天心が好んで、和服の正装で押し通したということも、ともすれば国粋主義的精神の発露というふうにいわれているが、彼にとっては国粋主義的というよりも、それが日本人の育ててきた服装の美の極致として、自然に着ていたにすぎない。
このころ、面識のある九鬼隆一が駐米公使としてアメリカにいたので、訪問して敬意を払ったが、天心の服装をみて、痛烈に批判したという。彼の心を知らない九鬼隆一の発言であった。
そういったいきさつもあって天心は、当時妊娠中の九鬼夫人初子をまかされ、ともに帰国することになった。この出会いが、のちに、天心と初子との大恋愛に発展することになる。

日本は日本、それが私の覚悟である
横浜についた天心は、文部省さしまわしの二頭立ての無蓋馬車にのり、神田猿楽町の自宅に帰えった。胸中に、日本絵画をおこし、それを万人のものとしてみせる、というなみなみならぬ決意を深くきざんで。
すでに、そのころには、彼の帰国をまたずに、東京美術学校設立は本決まりとなり、その校長には、文部省専門学務局長浜尾新が決定し、天心は幹事となるように定められていた。弱冠二十六歳の青年、彼の心がどんなにうちふるえていたかは想像にあまりある。
まもなく、フェノロサとともに、帰朝報告会にのぞんだが、そこで彼は「ヨーロッパにはヨーロッパがなく、自分を見失っている。日本もまたそれに似た面をもっているが、今後大いに発奮して新美術をおこさねばならない。それが私の覚悟であり、決意である」とその抱負を熱情をこめて語った。そのときに語ったいまひとつの重要なことは、イタリア十五世紀の美術は欧州美術の頂点であるが、それは支那(中国)の唐宋時代にすでにあるといいきったことである。
すでに東洋への自覚が、天心のなかで形になりつつあったといえる。それからの一年は、彼の絵画教育への夢を具体化するために、まったく多忙な日々であった。第三回内国博覧会の審査官となるとともに、その翌月は浜尾新とともに関西出張、それにつづいて、フェノロサや九鬼隆一としばしば美術調査にでかけている。
他方、宮内省臨時全国宝物取調係委員となり、東京博物館学芸委員にもなっており、その活躍の場は次第に広がっていった。それを徹底的に広げたのは、東京博物館の理事、美術部長になったことであり、高田早苗、森田思軒たちと日本演劇協会を創立したことである。高田早苗とは、学生時代、牛肉をつつきながら、大いに文学を語りあった仲である。のちに彼が大隈重信を助けて、今日の早稲田大学の基礎をつくったことはあまりにも有名な話。天心より二年おくれて、東京大学を卒業。森田思軒は慶応義塾に学び、卒業後は郵便報知の記者として、あるいは翻訳家として十二分に活躍した男、ただ惜しいことにかれは三十七歳で病没している。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

人間の本質は感情にある
天心はまず、美術教育をなすにふさわしい所として、風光明媚な場所を物色して、上野公園にめぐりあった。いかにも天心らしい着想といわなくてはならない。建築が終わって、開校に踏みきったのが明治二十二年(1889)二月であった。
はじめ、絵画、彫刻、図案の三科がおかれ、修業年限五年、はじめの三年は普通科とし、のちの二年を専攻科とした。
服装など、天心の意見で、教師、学生ともに同じで、様式は奈良朝の朝服にのっとって制定されたもので、たんに教師と学生はその地質だけを異にしていた。当時の雰囲気からすれば、多くの人に異様の感をあたえたが、天心はこの服装のまま、馬にのるのが得意であった。まさに 世俗、世情をみおろすというところであった。
そればかりでなく、一月一日は教師と学生がともに集まって酒をのみ、春、秋の二回は全校で大自然の空気を満喫し、一同の志気を昂からしめるようなこともやってのけた。天心はたんに美術の技術をみがくだけでなく、妙想をみがき、たかめることに全力を傾けたのである。
他方で、天心は高橋健三と協力して、雑誌『国華』を創刊し、古美術の顕彰とともに、一般の人びとのなかに美術尊重の考えを普及しようとした。高橋健三は松方内閣の書記官長をつとめた男で、新聞『日本』を創刊した人物。当時は官報局長の要職にあった。
これらについで、日本青年絵画協会を設立し、積極的に青年画家を育成する方向に動く。思うに、美術学校を卒業した者たちが自然に入っていく美術界の整理と発展をすることによって、彼なりに卒業生を迎えようとする心が働いたのだろう。彼は、たんに作家を養成するばかりでなく、美術界そのものを覚醒せんとしたのである。
明治二十三年(1890)には、天心は文字通り、東京美術学校長となった。ときに二十九歳であった。同校で、「美術史」を講ずるとともに東京高等師範学校、早稲田専門学校、慶応義塾でも講義をした。天心の説くところは、「歴史は死物でなく、古人の悲しむ所は吾も悲しみ、吾の笑う所は古人も笑う。この情が発して美術となる。それをみて吾等は古に生き、復今に生きる資とせねばならぬ」という一語につきていた。要するに、彼のいわんとする所は、美術は古も生き、今も生きるもので、つねに美を通して各時代が生かされねばならないというのである。美がない所には各時代はともに死滅しており、美のある所に、はじめて各時代は開花するというのである。天心は人間の本質を感情において、知識というものは、その感情を方向づけ、その感情に内容を与えるものとみた。いってみれば、感情が主で、知識は従であった。人間の感情を離れて美術はなく、徹頭徹尾、美術は人間の感情のためのものであり、人間そのものに奉仕するものであった。極言すれば、美意識、美的感情の欠けたものは、人間という名はあっても、真の人間にはほど遠いということになる。
だが、今日の学校教育では、こういう天心の考え方は片すみにおしやられ、まったくといってもよいほどに生かされていない。そのために知識教育のみに終わって、しまいには人間の本質を失い、エコノミック・アニマルになるしかないような人間だけを養成するようになったのである。いまこそ、天心の考えが教育のなかで見直されなくてはならない。

中国へ行く
いま一つ、天心の美術学校長時代、特記にあたいするのは、支那(中国)旅行である。彼の弟子の浦啓一が支那(中国)を旅行し、途中で倒れたことはすでに記した。どちらが支那(中国)への夢を相手にうえつけたかは明らかでないが、天心の場合「日本美術史」を講じていくなかでますます、日本美術の源流を支那(中国)の地に直接ふれようとした心がつのったといえる。その意味では、浦啓一の関心とは異なっていたかもしれないが、天心は天心なりに、その思いをさらに明確にし、深めたということができよう。
天心の準備は周倒をきわめた。浦啓一の死があっただけになおさらである。彼はまず早崎コウ吉という青年に徹底的に中国語を習わせ、写真術をも習熟させた。
宮内省よりの出張という形で旅費をととのえ、日本を出発したのが1893年七月。いよいよ、支那(中国)の旅に出たのは八月。だが、その旅行は予想外に困難で、文字通り命がけの旅であった。十二月に、一応無事に旅を終えたが、各地を直接みてまわった収穫は非常に大きかった。失望する所も多かったが、感激する所も多々あった。ことに、竜門の石仏を発見したときの感動にはなみなみならないものがあった。彼はそのことを「諸仏の妙相忽ちにして喜歓の声を発せしむ」と記して喜んでいる。
いずれにしても、この旅行は後に天心に「アジアは一つ」と発言させる契機となったもので、彼の思想を育てる上で、必要不可欠であった。のちのインド旅行もこの支那(中国)旅行の上にはじめて成立しえたものである。

あたらしい試練
帰国後、天心は奈良に美術学校の分校を設置しようとしたり、古社寺保存委員、パリの万国博の臨時博覧会評議員になったり、青年彫塑会会長になったりして、大いに活躍した。その間、住居を転々として移動し、根岸に移り住んでからは、いろいろの文人、風流人とも交わりはじめ、相当に脱線したようでもある。
機会をつくっては大園遊会を催し、仮装行列までして打ち興じたという。若くして美術学校校長となり、いろんなことが自分の思うようになっていったことが、いつか天心におごりの心をおこさせたのであろう。自由になったというのは、校長としての権限内のことが自由になったということである。しかし、天心には美術界そのものが思うように進んでいるかに見えたのである。
だが、世の中はそれほど単純で安易ではない。美術界そのものが異様であり、さらにそれをとりまく社会はまったく異様というか、複雑怪奇そのものである。それを見忘れた所に、落とし穴があったということができる。「アジアは一つ」の叫びをあげる所まで成長するには、天心そのものが、天心の全存在を一度奈落につき落とし、彼自身の力で、そこよりはいあがることが必要であった。
天心のその後の失意の生活は、天というか、自然の摂理が彼に与えた課題である。その試練に取り組むことから「アジアは一つ」という言葉が生まれたのである。一度も失意のどん底を味わわないで生きているものには、このような真理にみちた発言は生まれてはこない。
その意味で、天心をおそったおごり、そして失意の生活は「アジアは一つ」といった彼の陣痛の苦しみであったといえよう。

狂い、酔う天心
天心が九鬼隆一夫人初子と知りあったのは美術取調委員として、ヨーロッパ、アメリカをまわったときである。そのとき、初子は妊娠中で、その身重の身体を托されて、アメリカから日本まで船で同行したのである。
初子という女性は、生まれながらの美形というタイプではなかったが、しとやかで大変教養があり、その教養が身体全体ににじみでるのを感じさせる、といった女性であった。
最初、九鬼隆一が京都の花柳界からひかせて男爵夫人にした人だけに、魅力のある人であった。九鬼隆一のために、彼女はつねに苦しみ、悩んでいた。そのとき、相談相手になったのが天心である。そのころ、彼女はその苦しみの解決を宗教に求めていたが、いつしか、二人の間に愛がめばえ、とうとう結ばれるところまでいった。天心は二人が結ばれ、その恋が結実するためには妻子を捨てて、新生活に入る以外にないとまで決心したが、友人、知己の反対でついにその恋をあきらめるところまでいった。
仕事に生きる男性はよかったが、恋だけに生きていた初子は逃げ場所もなく、とうとう狂死した。このとき、すでに初子は九鬼隆一と離婚していたが、狂死するほどに恋に打ちこみ、恋に生きていたのである。じつに激しい女性であった。
初子のなくなったあと、天心の心は荒れに荒れた。酒を飲んで、酔ったまま学校にでることもあったばかりでなく、服装の乱れたまま真夜中に酒屋をおこすこともしばしばであった。
天心は自分の心の不徹底さが、ついに恋に生きる女性を殺してしまったことを、心の底から恥じ、苦しんでいたにちがいない。どんな狂態も酔態も、一人の女性の死を思うときどうにもならない。その死の重さはそれ以上のものである。
天心は徹底的に苦しみ、泣いた。そのなかで、彼は自分に徹底し、人間の心をほんとうに知るようになった。これこそ後年「アジアは一つ」と叫ばしめた一里塚であり、彼はほんとうに人間的にも、思想的にも成長したのである。ほんとうに、自分一人が歴史のなかを歩んでいくという強い人間になったのである。

東京美術学校を去る
だが、そんな天心に追い打ちをかけるように、仕事の上でもこなみじんにされる事件が起こるのである。それは、東京美術学校長を免職になるという形で訪れた。天心は東京美術学校長時代、弟子の育成にはとくに気をつかい、横山大観、菱田春草など優れた弟子を多く育てた。それらの成果はすべて、彼が技術の形に堕していた従来の態度をはなれて、まったく各自の理念にもとづいて、自己自身を最高度に発現し、それがそのまま、時代の要求にも一致するようなものを描け、と強調してきたものが実ってきたためである。フェノロサのいう、妙想の豊かな作家を育てようとしてきた結果ともいえる。大事なのは自分自身であり、妙想と一体になった自分自身である。だが、ともすれば、技術の末に走り、自分自身を、自分自身の妙想を、自分自身の生活を忘れるところに一般の傾向はあった。ことに、西欧化、近代化の過程にあった当時、ともすると人間そのものを、美意識を、忘れて、たんなる観念的知識の対象にする傾向があった。天心は当時、西欧化と国粋化という近視眼的対立のなかにあって、国粋化の側に属していたというよりも、その二つの勢力の外にあって、あくまであるべき美、日本美、世界美を求めたといっていい。美そのものを発展させ、普及したいと考えていたにすぎない。だが、この天心の心は多くの利欲に目のくらんでいる者には理解されない。その結果起こったのが、校長辞職である。
いうまでもなく、天心にもその弱点につけこまれる点は多々あった。さきに述べたように、酒にうつつを抜かしていたし、初子との恋で自分を失うような狂態を演じていた。それに、いま一つ、洋画を無視して、日本画のみを重視したことである。その後、美術学校の教科にも洋画を採用したが、そのことは大変誤解をまねくことになった。それでなくても、洋風一辺倒の時代、美術学校と比肩される東京音楽学校は西洋音楽でぬりつぶされていた時代である。人びとはともすれば、西欧化と国粋化との戦いとみがちである。その点で、彼は国粋化の総帥とみられ、非常に損をしたといえる。その一身に、西欧化陣営の攻撃をうけたのである。
最初、福地源一という人間の小才を、天心は重要視し、寵用した。このために彼の支那(中国)旅行中は、ことのほかに福地源一の専断が目立ち、帰国後はじめて、天心も彼をさけはじめ、そのため彼を京都地方に追わんとする態度にでた。その態度は天才の彼にふさわしく、極端から極端であった。小人福地は大いにそれを不満とし、積極的に天心の排斥運動をはじめたのである。
たまたま、博物館長九鬼隆一はパリの万国博覧会の日本の臨時博覧会の副総裁であった。九鬼の反対派は彼を副総裁の位置よりひきずり落とし、あわせて、博物館長の地位を奪わんとしていた。この反対派がいわゆる欧化派と目される人たちで、九鬼は国粋派の巨頭と目されている天心にその鋒先きをむけさせようと考えた。こうして、福地と九鬼は共同戦線をはるのである。このために、天心は博物館の理事兼美術部長のポストを失うことになる。そればかりでなく、読売新聞の三月十八日号には「美術教育についての私見」という記事がのり、天心を攻撃したばかりでなく、「岡倉覚三なる者は一種奇怪なる精神遺伝病を有し、常に快活なる態度を以て人に接し、又巧みに虚偽を飾るも時ありて精神の異常を来すに及びては非常に残忍の性をあらわし、米人フェノロサの虚構の妄説を信じ、又狂画工狩野芳崖と計りて奇僻なる美術の復案をおこし、その統を橋本雅邦に伝えて、怪物的の図画をつくらしめ、又彫刻以下の工芸に応用せしめて遂に幾多の教師、生徒を邪路におもむかしめたり」という怪文書が各方面にくばられて、文部省も放置しておくことができなくなった。ことに、事なかれ主義の文部省は、昔もいまも変らないとみえて、このようなみえすいた妄信に迷わされたのである。しかも、当時の文部省は、西欧化の波にのる人たちで占められていただけに、なおさらであった。

新しい仕事への自信
はじめ、文部省は天心を非職にしたが、彼はそれをいさぎよしとせず、辞職したのである。そのとき、洋画家の黒田清輝たちをのぞいて、全員が彼の辞職に追随したのである。文部省は極力慰留したが、それに応じない者十七名が免職となった。橋本雅邦をはじめとして、川崎千虎、六角紫水、後藤貞行、剣持忠四郎、下村観山、新納忠之助、関保之助、寺崎広業、小堀鞆音、西郷孤月、横山大観、岡部覚弥、桜井正次、山田敬中、桜田三四郎、菱田春草の各氏であった。これだけ多数の者が連袂辞職したことは、この前にも後にもない。いかに、この人たちが天心を認めていたかということがわかる。
天心は極力、彼らがやめないように説得したが、十七名の意思はかたく、初志をつらぬいたのである。当時の文相は西園寺公望、次官は都築馨六で、天心の親友であったがどうにもならなかった。
彼らが天心と、行をともにしてくれたということは、彼に想像を絶するほどの感動をあたえた。校長のポストを失っても、かえって、一美術評論家として、一人間として、思いきって、美を追求し、普及できるという確信をあたえた。これを好機にできると考えたのであった。そこに、彼の楽天性と天才ぶりが生きていたといえる。
十七人もの人間がやめるということは奇跡であった。せっかく得た生活の安定と名誉を失って、これからどうして生きてゆくか、という難問にぶつかることになるのである。他人のために、そのような道をえらぶということはいい易くして、行いがたい所である。それをなさしめた天心という男は、非常に偉大であったということができよう。
戦争前、時の権力によって不当にやめさせられた人に、何人の人が殉じたかということをかえりみても、この事実はまことにおどろくべきことといわなくてならない。天心は美術教育において、彼らの心をしっかりと掴んでいたのである。

日本美術院の創設
美術学校の校長をやめた天心は、それにかわるものとして、美を追求し、美を普及するものをつくらなくてならないと考えた。それが彼の生きる、ということであり、存在するということであった。それに、自分とともに、美術学校をやめてしまった人びとへの友情でもあった。彼はこれまで以上の情熱と決意をもって、この新しい仕事に取り組んだ。
天心は大学の終了課程を終え、さらに学問の奥義を究めるために進まんとする者に大学院の設備があるように、美術学校のあと、進むべきものとして、美術大学院が創設されなくてはならないという考えをもともともっていた。意見具申を文部省にしたこともあった。だが、それは実現されないままに今日に及んでいた。だから天心は美術大学院にあたるものを創って、美術界の方向と内容を天心の理念でぬりつぶそうと考えたのである。彼の夢はかぎりなく大きい。
数年前に、天心が「美術教育施設の方案」と題して構想した案がそれである。そのなかで、特記に価することは、「美術家に徹底的な自由をあたえ、妙想が自然に実り、自然に開化するのをまたなくてはならない」といいきったことである。優秀な者をえらんで海外留学生にするということなど、まったくのつけたしであったろう。それこそ、優秀というものは歴史がきめ、時代がきめることで、二、三の美術家、美術評論家のきめるような単純な作業ではない。二、三の美術家、美術評論家がきめるところに、美が永遠ではなくなり、醜い権力争奪闘争もおこり、福地源一のような男も出現するのである。
明治三十一年(1898)七月、湯島天神に日本美術院の創立事務所の看板があがった。時の参謀総長川上操六からは、当時の金で三百円の寄付があった。それに勢いを得た天心たちは、七月十五日を期して、披露会をひらき、その席上で、創立資金三十万募集計画を発した。聞く者はあまりにも額が巨額なのに驚いた。天心は早速このことを、アメリカのビゲローに報告。彼からはただちに一万ドル、日本の金にして二万円の寄付があった。
天心はこの金をもとにして、谷中初音町に日本美術院をつくった。木造二階建のこの建物は南館、北館の二棟で、南館は階上、階下ともに絵画研究室とし、北館の階下は工芸室と事務室にし、階上は天心の居室と講堂を設けた。
十月十五日盛大な開院式をあげ、同時に、創立記念展覧会をひらいた。そのときの展覧会は華々しいもので、参加者は橋本雅邦をはじめとして、二百名ばかり。そのなかには京都からの参加者もあった。
当時、横山大観の「屈原」と下村観山の「闍維」はとく有名であったが、なかでも、大観の「屈原」は節に生き、節に死んだ屈原の徹底した生き方が、天心の節に生きる雄々しい生き方と重なりあって、人びとの心をひきつけた。この一作で非常に有名になった横山大観のことは別として、日本美術院に参加した人びとは、天心に殉じて日本の美術界をもりあげずにはおかないという熱気にみちていた。速袂辞職のあとだけに、人びとの意気込みはすごかった。その中心にいたのが天心である。
ちょうど二度目の来日中であったフェノロサは、新聞にこの展覧会評を、「日本美術界に明確な道をきり開いたのは岡倉覚三であり、その理想が更に固まるのは日本美術院においてであろう。日本美術院において、団結した存在の基盤をえたのである。その理想にはまだほど遠いが、現在の段階では、むしろそれを誇りとすべきである」と賛美している。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

意気あがる同志たち
「日本美術院は同志相会し、本邦美術の特性にもとづき、その維持開発を図るところとす」と規約に書いているように、日本人の本性というか、現実から出発しながら、それを高めることにあった。中心幹部は、橋本雅邦、剣持忠四郎、西郷孤月、横山大観、寺崎広業、菱田春草、六角紫水、岡部覚弥、新納古拙、岡崎雪声、下村観山、小堀鞆音、山田敬中、川崎千虎、関保之助、桜井正次、尾形月耕、前田香雪、新海竹太郎、田辺源助、塩田力蔵、岡倉覚三、松本楓湖、滑川貞勝、府川一則、黒川栄勝の二十六人で、橋本、岡崎、剣持、寺崎、西郷、横山、岡部、菱田の九名を評議員とし、院の事業運営にあたった。代表者には橋本雅邦がなったが、事実上は天心であった。
日本美術院は大別して、学術部、実技部の二つがあり、実技部には絵画、彫刻、漆工、図案、金工の各科が属し、それぞれ独自の制作をし、事業もなした。なかには、銅像の委託もうけたし、国家や特別建造物の修理営繕をもひきうけた。
だが、日本美術院を代表するのは絵画科で、研究会員をつのったり、講演会や批評会をもったり、春秋二回の展覧会をもったのも絵画科であった。絵画科のおもな者は、みな画室をもち、毎日登院し、制作につとめたし、研究員の指導に当たった。
この間に、できあがった作品はことごとく院のものとし、各自はそのなかから月々二十五円もらった。一種の共産社会である。さらに、美術院の近くに、道をはさんで八戸の家を作り、おもな会員の住居にあてることによって、いよいよ共産社会の色あいをつよめた。それによって、新画樹立を志す人びとの意欲はますます高まった。制作につかれると、料亭に行って、

谷中鶯 初音の血に染む紅梅花
堂々男子は死んでもよい
奇骨侠骨 閑落栄枯は何のその
堂々男子は死んでもよい

という、天心作の歌をうたったという。なかには、「閑落栄枯は何のその」という言葉を「懲官免官何のその」に変えてうたった者もある。いかに彼らの意気が盛んであったかをしめしている。
なによりも、天心はつねに前進を考えて、一ヵ所での停滞を肯んじない人間として、その全存在をかけて進まざるを得ない人間として、日本美術院を創設したころは、その全身で快哉を叫んでいたろう。しかも、彼をとりまく人たちはどこまでも彼とともに生きてゆこうとするのである。彼とともに自爆することを決意し、覚悟した人たちである。これほど、天心にとって満ち足りたことはなかったであろう。恋を失った苦しみも美術学校長の椅子を失ったことも彼にはもう我慢できた。それらを失ったために、いま、この幸せをつかめたのである。

王道に生きよ
世をあげて、欧風化、近代化するなかで、自分の本質を失って、たんに異質のもので自分を装わんとしているとき、天心ただ一人、それに流されることなく、あくまで自己の本質にたって、限りなく、その本質を発展させようとする態度はまったく立派である。決して、国粋とか欧米親酔とかいうものでなく、人はみな、そのように生き、発展しなくてならないのである。その考えを彼にもたらした者が橋本左内であり、吉田松陰であり、加藤桜老であり、中村正直であり、フェノロサの生き方であった。
画家、美術家である前に、まず自分自身に徹せよ。美に生き、王道を目標に生きたアジア人であれと叫んだのが、このころの天心である。そのことに最大の誇りと自信をもたなくてはならないと絶叫したのが、このころの彼である。彼は覇道をつき進んでいる西洋諸国を蔑視していた。だからとて、偏狭な排外主義も独善的な国粋主義もとらなかった。目指すところは時代とともに限りなく進展することであった。それがそのまま、王道の上をつき進むものでなくてならなかった。時代とともに進んでも、王道に反するものは進歩とはいえなかった。一見して進歩にみえる西洋諸国の歩みは、王道に反することによって、似而非的進歩であり、偽りの進歩であった。天心の西洋諸国を見る目は、西郷隆盛のように鋭く激しかった。
だから、天心は画家たちに徹底的に流派を追い、技巧や形骸にとらわれることなく、自分自身の妙想だけによりかかれ、未来の、人類の理想だけを見つめよと強調した。天心は自分をのりこえろ、我が道を踏襲するなといったとき、自ずと画壇は活気に満ちてきた。

奇なることを恐るるなかれ
明治三十二年(1899)には、読売新聞と日本美術院との共催で、広く一般に歴史画題を求めた。「屈原」のこともあり、歴史画論は世間をにぎわした。第一席には、「素盞嗚尊」がなったが、これは横山大観が描き、「西行」を下村観山が描き、「蓮如」を寺崎広業が描いた。
翌明治三十三年(1900)には、音曲画題を募集したが、これは歴史画題ほどには世間の評判をうけなかった。だが、これらの動きと平行して、横山大観、菱田春草が天心の意のあるところをうけて、新しい日本画の理念を求めて、大胆に「没線描法」という手法を採用した作画にふみきった。「没線描法」とは、いままでの日本画の特質であったところの描線をやめて、色彩のみをもって洋画を圧倒しうるような日本画の開発をなさんとするものであった。こうして、横山大観の「長城」、「木蘭」が生まれ、菱田春草には「菊慈童」、「雪中放鶴」があった。だが、「没線描法」による作画は理解されず、一般に社会の不評をかい、やがては「化物絵」とか、「泥絵」とかののしられ、日本美術院に属する人たちを朦朧派とそしるものもあらわれた。朦朧画でもあるというところからでた言葉である。ただ、わずかに、「没線描法」という徹底した態度をとらず、漸進的に従来の描線をとりいれながら歩んだ者として、下村観山がいるが、彼の「日蓮」とか、「修羅道」とか、「大原の露」は、いたって好評であった。
日清戦争の勝利と相俟って、世はあげて洋風一色にぬりつぶされ、自己の本質から出発し、自己の本質を高めんとした天心たちは、いたずらに国粋派と呼ばれて、洋風の雰囲気のなかに立ち消えようとする有様であった。没線描法にしても、彼らのあがきとしかうけとられなかった。日本美術院に属する人たちへの風当たりは非常に冷たかった。
明治三十四年(1901)には、横山大観に「老君出関」、菱田春草に「蘇李訣別」があったが、世評はますます悪い。天心は読売新聞に展覧会評をつぎのように書いて、支持したがどうにもならなかった。
「曰く奇なることを恐るるなかれ。怪なることを憂うるなかれ。奇なるもよし、怪なるもよし、奇ならざるもよし、怪ならざるもよし、生存の秘訣は新境遇に応ずるの変化力に在ることを忘るるなかるべきのみ」と。
こういう情況のなかで、天心たちの心は怏々として楽しまない。そんなときに東京美術学校長になった正木直彦が、日本美術院の幹部を教授に迎えたいといってきた。天心はこれをうけて寺崎広業と下村観山を教授として送りだした。西郷孤月は橋本雅邦とあわず放浪の旅にで、川崎千虎は工業学校の教師として去り、横山大観と菱田春草も、広業と観山が美術学校の教授になったことを不満として長い旅にでた。
そうなると、日本美術院は空中分解してしまい、雄々しく雄叫びあげて出発した日本美術院の姿はないに等しくなった。天心を中心に夢みたことは、いまはその影すらない。こんな情況のなかで、天心はインドに旅立ったのである。

美術品より、美術思想が大切だ
天心たちは日本美術院の開設以来、東京で春、秋二回の展覧会を盛大にひらき、自分たちの主張をあきらかにしたが、そればかりでなく、それらの作品をもって、地方をまわり、美術品というものに一度も接したことのない人びとに美術品をみせて歩いた。
開院の翌月には、もう東北の中心地仙台で十日間の日程で大展覧会を開催している。天心も、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業と大挙して仙台にのりこんでいる。
この催しは地方の人びとから思わぬ歓迎をうけ、来観者も非常に多かった。いままで、新聞紙上でのみ、わずかに読んでいたことが、現実に自分の目でみることができるとなれば無理もなかった。仙台に分院設立の声まであがり、彼らの意気はいよいよ盛んであった。
仙台開会のあと、さらに、盛岡、秋田、大曲、横手と開催し、予想以上の効果をあげた。
翌三十二年(1899)には、広島と福岡で開催し、大阪、横浜でも開いた。天心の「美術と九州」と題する講演会はこのときのものであり、「九州の特殊性をあげて、美術との関係」を明らかにした。
明治三十三年(1900)には、岐阜、新潟、前橋、明治三十四年(1901)には神戸、岡山、津、和歌山、高松とひらき、その足跡は全国に及んだ。これまで、地方で政治演説会などは華々しく開かれていたが、美術展覧会などはまったくなかったし、地方の人は想像もしていなかった。それに先鞭をつけたのが天心である。
天心はかわるがわる、数多くの作家とともに地方を訪れ、地方の人びとに交わったのである。天心にとってみれば、世の中の人びとが政治的存在としての自分を認めるだけにおわり、中央の政治家も政治的に彼らを利用することに汲々とするだけで、人間としてもっとも重要な、美的存在であることを気づかせようとすることには意を払わないこと、また人間の美的意識を高めようとすることには、まったくといってよいほど意を払わないことほど苦々しいことはなかった。
このころやっと、人間が社会的存在であることを認めるようになったが、まだ人間が経済的存在として生きているだけで、明治以後一貫して取りあつかわれてきた、政治的存在としての人間としても、まだ不十分であった。まして、美的存在としての人間はほとんどなかった。そうだとすれば、エコノミック・アニマルになるしかない。
日本には、昔もいまも、金で生き、金に支配される経済的存在としての動物しかいないことになる。天心はすでにこの当時、日本人を改革して、美意識の旺盛な人間、美意識を人間の本質と考える人間に育てようとしたのである。
「衣食足って礼節を知る」という言葉があるが、礼節というものは衣食足った人だけが知ればよいものでなく、人間たるもの礼節を知って、はじめて人間といえるのである。礼節のない者は人間ではない。
礼節を知るとは、いいかえれば美意識があるということであり、暇と金のある者のみが、審美眼があればよいというものではない。
すでに、天心は小山正太郎との論争で、「美術思想を流布し、卑賎高尚の別なく天地万物の美術品を玩味し、日用の小品に至るまで思想を歓悟するの具に供せしむるにしくはなし」といったごとく、彼は天地万物のなかに美をみて、すべてのものを美にまで高めなくてはならないと思っていた。彼には秀れた美術品よりも、まともな美術思想こそ問題であり、それが万人に普及することがなによりも重要であった。
まず美術品を地方の人びとにつきつけて、彼らの審美眼を養い、美意識を高めることがまず先であり、それから後にはじめて、天地万物のなかに美をみ、天地万物を美にまで高めうると考えたのである。

美意識が日本人を変える
これまで、人間の本質ともいうべき美意識と無縁にあり、また、そのことをだれもがあやしまなかった地方の人びと。天心は彼らのなかに美意識を高めようとしたのである。それには美術品に接し、審美眼、鑑賞眼を高めることからはじめなくてはならなかった。天心は美術品をみる目だけでなく、万人の美意識が重要であり、万人が美意識をもたなくてはならないと思った。天地万物のなかに美をみようというのであった。政治も経済も社会も、さらに自分自身さえ美でなければならなかったのである。
いってみれば、美術の美は、あくまで美の探求であり、実験であり、モデルにしかすぎないもの。大事なのは日常美であり、生活美なのである。そうした意味で、天心が地方巡業した意味は大きい。美によって日本人を改革しようとしたのであり、産業国家の名のもとに、東南アジアを侵略する西洋諸国がきたなくみえたのも無理はないし、西洋諸国を見習うことを極度にきらったのも当然である。
いかに、産業国家、文明国家といっても、これまでの西洋諸国の進む道は美そのものを排除するところにしかなかった。その政治といい、外交といっても美そのものを無視するところにのみ成立していた。経済の発展、進歩といっても公害を生みだす以上、決して美ではない。これまであまりにも、西洋人は美意識を欠き、美術品のなかにしか美をみなかった。しかし、美術品はたんに美の入り口であるにすぎない。
これほど美そのものを無視している例はないといってよい。天心の高邁な理想を知れば、たんに国粋主義とか欧化主義とはいっていられない。要するに、天心はいままでの美に対する考え方を、根本的に変えようとしたのである。私の天心理解はひいきのひきたおしであり、拡大解釈だと思われる読者もあるかもしれないが、そうでないことを示すのがインドで発見した彼の思想に、また彼の著述に明らかである。それについては後述する。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

インドヘの旅立ち
明治三十四年(1901)の暮れにインドに旅立った天心は、日本美術院の失敗ということもあったが、それ以上に明確な目的があった。美を一貫して求め、それを普及してきた彼は先に支那(中国)の旅をやってのけた。すべては美そのものの具体的なもの、日本美の根源的なものを求めての支那(中国)の旅であった。だが、いま世界的宗教である仏教その他を生みだしたインドの地を訪れてみるということは、日本に伝わった仏教諸派をみなおす意味において、ぜひとも必要であった。いたずらに仏教諸派が相争っていることは、果たしてどういうことなのかということも考えてみたいし、今日宗教というものが正しい位置を与えられているかということもインドの地で静かに考えてみたかった。日本の地を離れてみることは、彼にとって雑音が遠ざかり、一人になりきるということでもあった。また、何故にインドがイギリスのもとに呻吟しているのかも知りたかった。
たまたま日本美術研究のため来日していたミス・マクラードが急にインドを経由して、イギリスに帰るというのに同行することになった。
インドでは各寺院を訪れ、ヴィヴェカーナンダにあい、インド思想の本質、宗教の本質にふれることができたし、さらに詩聖タゴールと会い、インドの夢と現実について、心から語りあうこともできた。約一年間のインド旅行は天心に多くのものを与えたし、考えさせもした。彼に深い共感をもたらしたヴィヴェカーナンダとタゴールについては後述する。
天心の旅行中、日本美術院の展覧会はひらかれたが、ますますふるわなかった。帰国後やむなく、彼は茨城県の五浦に逃避する。この間に、横山大観、菱田春草をインドにおくる。思うに、彼の収穫が大きく、ぜひとも彼らにその収穫を得てほしいと考えたためであろう。
天心の著書『東洋の理想』がイギリスの出版社から出たのもこのころで、彼がインドで書いたものである。そのなかの「アジアは一つ」という言葉は、彼がインド旅行のなかではじめてつかんだもの、インド旅行がなかったら、けっして生まれなかったものであろう。

日本人は茶を愛する国民である
それと平行して、万国博覧会の開催を機にしてセント・ルイスで開かれた学術大会に天心は出席した。はじめ、天心は参加することになっていなかったが、たまたまフランスのルーヴル博物館長が欠席し、急にその代わりとして彼が推薦されることになったのである。天心はその講演のとき、例によって紋つき袴の姿で壇上にあがり、「絵画における近代の諸問題」と題して講演した。
それを要約すると、「美そのものが機械文明のなかにまきこまれて、ついに西洋画は美そのものをゆがめているのに、日本はまだその弊害をほとんどうけず、日本画は順調に発達しているから、今日の欧米の美術に一大反省をうながしている」というものである。彼の流暢な英語とともに、その論旨はまったく予想外のこととして、聴衆から歓迎された。
いま一つは、英文著書『日本の覚醒』を書いて、欧米文明を批判しながら、今日の日本の覚醒は東洋精神の発揮であるといいきったことである。東洋には東洋の道があり、それは欧米の道に一歩も譲るものでないどころか、かえってすぐれているというのである。
これらのことが相まって天心の人気はにわかに上昇し、『日本の覚醒』に対しては、大統領ルーズヴェルト夫人まで賛辞をよせたという。彼がボストン美術館のために毎年半季をすごすという契約ができたのも、そのためであるといえよう。このように、アメリカでの成功に比し、日本における天心の位置は、いよいよ惨憺たるものであった。
日本美術院は経営困難となり、ついには木炭を販売するところまで落ち込んだ。天心は五浦を、今後日本にいる間の本拠と定め、工事にとりかかった。その途中でアメリカに着いた天心は英文著書『茶の本』を書きあげた。多忙のなかで、この本を書きあげた天心は、日本人こそ茶を愛する国民で、茶を愛する心とは美それ自身を、日常美を愛することであり、日常美を愛するとは平和を求めることであると書いて、当時おこってきた黄禍論に真向から対抗せんとしたものである。
この本は、アメリカ人の間に広く読まれただけでなく、フランス、ドイツにも翻訳刊行され、天心の名をいよいよ世界的にした。だが、残念なことに、これが日本人の間に一般に読まれるようになったのは、天心が死んで十七年もたってからである。

アメリカ旅行
明治三十七年(1904)になると、天心は横山大観、菱田春草、六角紫水たちをつれて、アメリカに向けて旅立った。まず、シアトルに到着して、それから汽車で大陸を横断し、ニューヨ−クに入った。一行の服装は紋つきの羽織に袴という純和服であった。それで大道を闊歩したのである。
天心はビゲローに導かれ、その仲介によって、ボストン博物館の首脳とあい、ガードナー女史とも会った。彼女は、当時ボストン女王の異名をもつ社交界の花形でもあった。
ボストン博物館は東洋美術品を集めていることでは有名で、世界第一という評判であった。維新後のどさくさのなかで、集められるだけ集めたものである。
天心はこの博物館の東洋部顧問に迎えられたのである。はじめ、その分類や修理を六角紫水と岡部覚弥にやらせている。先にガードナー夫人と会ったと書いたが、彼女はその富にものをいわせて、イタリアの中世貴族の家を買い取って、これをそのままボストンに移し、そこに蒐集した美術品を陳列、彼女自身はその隣に住み、フェノロサやビゲローを集めて日々を送るという有様であったから、自然、ボストン市はアメリカ有数の文化都市になった。その意味で、文字通り、彼女はボストンの女王であった。その彼女に天心は心よく迎えられたのである。
はじめ天心は、インド以来の旧知であるオソ・ブルの家に泊まっていた。
この間、天心は、横山大観、菱田春草の展覧会をニューヨークで開き、予想外の好成績をあげた。つづいて、ボストン、ワシントンでも開会して、日本画の優秀性をしめし、あわせて、日本人のなかにある美的感覚の鋭さをしめしたのである。

五浦の地に日本美術院を移す
アメリカでの天心は、東洋部顧問から、東洋部長になり、館長同様の待遇をうけた。先述したように、彼は日本にいるときは茨城県の五浦に住んだ。この五浦というのは三方を丘陵にかこまれ、一方だけが太平洋に面したところで波も高く、景勝の地である。天心はことのほか、この地が気にいった。日本美術院をここに移し、横山大観、菱田春草に移住をすすめ、のちに、下村観山、木村武山を呼んだ。
その一方、越後高田の赤倉の高原があまりにも美しいので、ついにこの地も購入した。この赤倉は東に米山山脈をのぞみ、北は頸城平野をへて佐波ヶ島がみえ、さらに南は黒姫、飯綱の高峰にかこまれて野尻湖をみるという景勝の地であった。一時は赤倉に日本美術院を移そうとしたほどである。いずれにしても、五浦と赤倉を手にいれた天心の得意は想像以上であった。
第二回目の支那(中国)旅行をすませた天心は五浦の地に落ちつき、盛大な披露宴をひらいた。その披露宴というのは日本美術院が五浦に移転したことを祝うものであった。当時すでに一流の名をほしいままにしていた横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の四人が一家をあげて移住し、彼らの天心へのうちこみようの探さをしめした。それは天心の偉大さをしめすとともに、彼らがいかに非凡であるかをしめしたものだった。
日本美術院は昔日の面影をとりもどすかにみえた。それゆえに、その披露宴は華々しかった。
その後、天心はアメリカに立つが、昔日の日本美術院はやはり、かえってこなかった。

ボストン美術館東洋部長時代
ただ、このころ、文部省主催の美術展覧会、いわゆる「文展」がひらかれることになった。「文展」第一部は日本画であったが、第二部の洋画、第三部の彫刻と異なって、だれを審査委員にするかということで大問題になった。それというのも、審査委員の顔ぶれが絵を左右するからである。
はじめ、中沢岩太を主任に松井直吉、高嶺秀夫、塚本靖、大塚保治、藤岡作太郎、今泉雄作、中川忠順らがあげられて、天心はその選にもれていた。文部省としては天心をきらっていたからむりもない。しかし、画壇の最高峰にいる橋本雅邦に相談したところ、天心をいれざる審査委員会など無意味だから自分も参加しないという返事。しかたなしに天心を加えることになったが、今度は横山大観、下村観山を審査委員にするなら自分もなっていいという返事。
こうして、青年作家も加わる委員会が誕生することになったのである。
学者委員はともかくとして、天心、大観、観山が審査委員になったことに、美術界の一部から反対の声があがった。いわゆる保守的立場にある人びとの声である。天心たちを朦朧派ときめつけた人びとである。だが、第一回の「文展」はどうにか終了したが、第二回の「文展」のときはそうはいかなかった。反対者のなかから数人、新たに審査委員が加わったのである。
天心は文部省の無定見、事なかれ主義を怒り、ついに審査委員をやめた。これは彼が投げつけた日本への縁切り状でもあった。
アメリカでの天心は、日本に対して絶望すればするほど、その仕事に力がこもる。第二回目のインド旅行にゆくのもこのころである。博物館にいるとき、「東洋美術のなかの自然」、「東洋美術のなかの宗教」などの論文を作成して、いよいよ美のために天心独自の世界を展開していった。
天心は日本に生きたというより、あるいはアメリカに生きたというより、美そのものを生きぬいたといってよい。まだ実現していない美の国に生き、美の国の実現のために生きぬいたというほうが当たっている。それがボストン美術館の東洋部長時代の天心の真の姿である。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

デーヴィ夫人との恋
天心はインドへの第二回の旅をしたとき、そこではじめてデーヴィ夫人と知りあい、彼女に深く魅了された。彼女は詩聖タゴールの姪で、タゴールと同じく詩人であった。彼女はそのとき、すでに夫を失って、ただ一人で生きている女性であった。彼女は文字通りインド思想を体現し、それを全身で生きているような女性であった。霊性そのもののような存在であった。
日本に絶望し、さらにアメリカにも絶望していた天心にとって、このような女性を知ったとき、そのすべてをあげて、彼女にひかれないではいられなかった。というよりも現実の日本に絶望し、美の国を求め、美の国の創造、建設に全存在をあげて生きる彼と、インド思想そのものに生きる彼女の生き方がたまたま一致して、互いが互いのなかに自己を見出して、互いの全存在が共通しあったのである。
これは恋というには、あまりにも恋をこえたものであり、相手のなかにそれぞれ神をみ、理想の人間をみたのである。天心が最後になって、このような人を発見し、このような人を得たということは最上の喜びであり、感動であったろう。彼はたしかに美の国の建設には失敗し、多くの人から放りだされたが、美の国の住人として自分を発見し、デーヴィ夫人を得たのである。橋本雅邦もその一人であり、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山たちもそのように生きる人びとであった。
彼女が全身で生きることそのままが、美を求めて生きることであるばかりでなく、天心がそのまま生きるということであり、天心がその心のままに生きるということがそのまま彼女が生きるということであった。彼らは完全に生を共有し、その心が一致していたのである。
それは恋以上の恋、まさに至上の愛であった。尊敬と信頼にうらづけられた絶対の愛で、おそらくこの世に存在する愛の最高のものだった。彼らの恋は現実のものとしては、一年足らずのもので、天心の死によって終わりをつげたが、この世に人間のあるかぎり、永遠につづくであろう恋であった。
天心がデーヴィ夫人に送った手紙は十九通を数えるが、デーヴィ夫人の天心に送ったものも相当数あろう。
天心が彼女に送った手紙のなかに、
「声の性質というものは、その人の思想というものよりは、その人のなかにある感受性によって伝えられるものです」と書いている。感受性を美感といいかえてもよい。要するに、思想はつくられたもので、そこには嘘が介在する余地があるが、感受性や美感には嘘がないというのである。
さらに、天心の手紙につぎのようなことが書かれている。「貴方は観音さまの化身、貴方は私に言う、自由であれ、他人を助けよ、そして自分に忠実なれ」と。
こんな文面もある。「私達は一つなのです。私達が高山の頂であい、そこで東洋の統一について東洋を結合体にすることについて書くのです。なぜ私達はもっと前にあわなかったのでしょう。でも終に私達はあったのです。感謝します」と。
二人の愛情がいかに純粋で美しいものであったか想像にあまりある。とくに、天心に「私はいま宇宙と完全に一体です」といわせたのはデーヴィ夫人である。デーヴィ夫人が彼に最後の安息をあたえたのである。
かつて、天心は星崎初子と灼熱の恋をして、ついに彼女を狂死させた。それはあくまで彼女の肉体との恋であったが、今度の恋は霊性の恋であり、先の恋が破滅の恋とすれば、今度の恋は無限に前進し、向上する恋、飛翔する恋である。そのような恋ができるようになったのも破滅の恋のなかで成長したればこそである。徹底的に自由で、自分に忠実に生きることが本当に他人のためになるということを知ったためである。
ほんとうの恋は、徹底的に自分に忠実なところに芽生え、互いの生き方が自然に一致すると発見したときに芽生えるものである。あまりにもこの世には似而非的恋愛が多い。それゆえに、二人の恋は、永遠のものとなるのである。

愛弟子菱田春草の死
さて、明治四十四年(1911)九月、愛弟子菱田春草を失ったころより、急に天心は元気をなくしていく。そのとき天心は、ちェうど五十歳であったが、菱田春草は横山大観とともに天心の弟子の双壁であった。なかでも彼はもっとも革新的な画家で、その意味ではもっとも天心の心をうけつぐ人間であった。横山大観、下村観山のような才がないために、天心からは、ほかの二人のように愛されていないようにみえたが、天心の心のなかではもっとも期待された人間かもしれない。それは吉田松陰の弟子のなかで高杉晋作と久坂玄瑞が非常に可愛がられ、ことあるごとに問題になったが、その実、吉田松陰の精神と思想を継承し発展できた者は吉田栄太郎で、松陰も心のなかではもっともかっていた。菱田春草はその吉田栄太郎に似ている。若くして死んだ吉田栄太郎のように、菱田春草も若くして死んだ。その死がいかに天心にこたえたかは想像できる。天心にとって、彼の死はデーヴィ夫人の死のごときものであった。天心と春草は切っても切れない仲で、人間の関係をこえた霊的結びつきであった。離れんとして離れえない存在であった。天心にとって、春草は決定的な存在であった。
じつはデーヴィ夫人と知りあったのも春草の死の直後であった。だから、天心はあたかも春草の再来かのごとく、彼女を認め愛したのである。菱田春草の追悼の会ののち、インドを経て、アメリカのボストンに帰ったが、そのころよりとみに元気を失った。周囲のすすめで転地療養したが、相変わらず悪いので、予定を早めて帰国し、五浦に落ちついた。

永眠
ここで、天心は一艘の船をつくり、竜王丸と名づけ、大いに喜んだが、船にたびたび乗るほどの元気はもうなかった。八月になって古社寺保存会(文化保護委員会の前身)に出席したが、身体が思わしくないので意を決して、赤倉に移っている。そのとき、したがったのは実妹の山田てふ子であった。
山荘についた天心は、一時もちなおすかに見えたが、四日後発作をおこして、多くの人の見守るなかで永眠した。デーヴィ夫人あての最後の恋文もこの赤倉にきて書いたものであった。最後の手紙には、「私にはもう戦う気もありません」と書いている。悲壮そのものである。五十二歳であった。
天心自身も書いているように、「これから本当の喜びを味わえる」ときに永眠したのである。三、四の人をのぞいて、天心の夢と理想は本当には理解されないままに。それが天才というもののもつ宿命かもしれない。
数少ない知己の一人ビゲローは「東と西は永遠に逢うことなかるべし。されどその二つは岡倉覚三によって相会した」と追悼の辞をのべている。まことに天心を知る言葉というべきか。「アジアは一つ」といった天心は「世界は一つ」というように理解されたのである。
アジアは一つといいきった天心ゆえに、世界は一つといったと理解されたのである。美が世界を一つに統一する日はいつのことか。ただそれだけを夢みて生きた天心であった。
天心の夢と理想はいま一度、正しく見直される必要がある。戦争中の天心ブームは、日本のアジア侵略を合理化するものであった。その戦いは形を変えていまもつづいている。だから、「田中かえれ」のデモがおこるのである。
天心の夢と理想を、正しく紹介するのがこれからの章であるが、その夢と理想がどのようにして生まれたかを明らかにしたのがこれまでの章であった。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

2 「アジアは一つ」の思想

人間存在の本質は“美意識”にある
美というものが美術品のなかの美だけでなく、本来、人間の本質であり、人間の全存在を支えるものである、という考え方に天心はたっていた。
美術品の美はあくまで美そのものの探求であり、深化であり、新しい美を模索するための実験であった。だから天心は美術品そのものよりも美の思想を愛し、美意識を大事にしたし、生活のなかの美、日常の美を尊んだ。万人のなかに芽生える美意識を問題にし、美そのものが、全生活に貫かれることをなによりも欲した。全生活が美に高められることを求めた。美術品のなかだけに発揮される美的鑑賞眼は、美意識の第一歩でしかない。しかし普通にはそれが美だと思い、その常識が一般化している。そこに天心のいらだちがあり、怒りと悩みがあった。
これらのことはすでに述べたが、このことは、いくらくりかえしても書きすぎにはならないし、天心の美の本質はここにあったと私は強調したいのである。天心死してなん十年、いまなお、この点が明瞭にされないままにきているのである。
政治屋は政治家にならず、たんに権力の亡者として、にごりきった政治をおこなっているのも、また日本人の多くが経済的動物としてふるまい、アジア諸国民の反日感情をいたずらにあおっているのも、さらに多くの人が病気と貧困に悩んでいるとき、自分たちの生活ができるからといって、なんの反省もなく、子どもをつぎつぎに生んでいるのも、すべて美意識を欠いているためである。
明治以後百年間、一貫して西洋流の教育をとりいれることのみに汲々として、人間の本質が美意識にあることを忘れた結果である。アジア諸国をかつて侵略したのも、今日経済的侵略とともに公害を輸出しているのも、みな美意識を欠くためである。西洋流の教育の弊害はとどまるところがない。それというのも、無批判にそれを受け入れてきたからである。
天心はそれを覚醒せんとしたのである。彼を国粋派というのは皮相な見方である。彼は、国粋化、西洋化という潮流をこえて、美を追求し、美を人間存在の本質にしようとしただけである。それが、東洋には伝統としてある、といったまでである。

諸学の出発点、諸学の到達点としての宗教
いま一つ、重要なことは美意識とともに宗教意識にめざめたことである。これはかつて天心が天台宗を学んだということと、それほど関係はない。彼にとって宗教とは人間の本質である霊性にめざめさせるということであった。人間の霊性とは、人間が肉体的存在であること、あるいは精神的存在であること以上の存在であるということである。人間は足や手を使い、頭脳をつかうことによって、ほかの動物と異なるが、それ以上の何かであるということである。
美意識や美感をもつこともその一つであるかもしれない。いずれにしろ、宗教とは、人間の霊性、人間の尊さを知らしめるものである。そのことではどの宗教も変わりない。それなのに、ある宗教のみが絶対であり、優越していると強調することによって、ほかの宗教を排除しようとする。宗教戦争までおこる。
自分の教義をドグマ化し、それに人間ががんじがらめになっているのが、いまの宗教界の現状である。カール・マルクスはこの宗教の現状をみて、宗教は阿片なりといったのである。いわれても仕方のない面がいまの宗教にはある。
だが、天心のめざめた宗教とはドグマ化した宗教でもなく、阿片化した宗教でもなく、宗教本来の、人間の霊性をめざめさせる宗教である。
天心は人間の霊性をめざめさせる宗教として宗教を重んじたのである。一般に、西洋には宗教があるというのが常識になっているが、宗教がないからアジア諸国を侵略するという暴力をふるったのである。侵略の手先になるような宗教なんてとんでもない。西洋に真の宗教なしと、天心はいいたかったのであろう。細々として生きている宗教精神はあったかもしれないが、現実に力のあった宗教は真の宗教ではない。
西洋では昔より哲学が諸学の総合の学であり、統一の学といわれ、またそれなりの努力がなされてきた。日本でもそれをうのみにする者が多かったが、諸学のなかで、哲学が総合の学、統一の学であろうとしたことはほとんどなかった。
哲学が統一の学、総合の学であろうとするのはよい。しかし、そのために、人間を理性的存在というか、悟性と感性の統一的存在におとし、理性以上の霊的存在であることを考えさせなくなったのである。霊的存在とは悟性、感性をふくみながらそれ以上の何かであるということである。
宗教こそ諸学の総合の学であり、統一の学である。いいかたを変えると、諸学の出発点であり、終結点である。諸学の原点であり、到達点だといってもいい。だから宗教は本来、時代とともに発展してとどまるところがない。しかし、多くの宗教はドグマ化して、人間の伸び伸びとした発展を阻んでいる。カール・マルクスは現実の宗教を否定し、共産主義を宗教化したのである。というのは、人間たる者宗教を離れては一日も存在できないし、なんの行動もできないからである。もちろん、そのときの宗教とはキリスト教とか、仏教とか、ヒンズー教をさしていない。人間のよりどころとなるもののことである。
いまや、もう一度、宗教は問いなおさなくてはならないときにきている。政治、経済、社会、教育と併存する宗教は宗教そのものではない。諸学の起点であり、終点となるような宗教だけが宗教の名に価するのである。自分の宗教のみをよしとして、ほかの宗教を否定し、批判するものは真の宗教ではない。
天心はまさに、このような宗教観にめざめていたのである。天台宗を学び、仏教各派をみることによって、このような点に達したのかどうかは知らない。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

資本主義に欠けているものは宗教と美意識である
いずれにせよ、インドに行き、ヴィヴェカーナンダと会うことによって、彼の宗教観、このような考えに共鳴するのである。ヴィヴェカーナンダによって啓発されたか、それ以前にもったものかはあきらかでないが、要するに天心にはそれを受け入れ、共鳴するだけの素地はできていた。ヴィヴェカーナンダの宗教論については後述するが、天心がそれと同じようなものをすでにもっていたということは驚くべきことである。
このような宗教観にたてば、美意識は宗教意識と別のものでなくなる。その美意識は宗教意識の一部であり、それが派生したものである。宗教意識が人間を支え、人間を人間たらしめるものであることはいうまでもない。これが不十分なところに、戦争がおこり、公害がおこるのである。資本主義社会の生産するものが戦争であり、公害だというところも当たっていよう。
しかし同時に、真の宗教意識を喚起することを怠ったところに、いまの資本主義社会が生まれたということも事実である。宗教意識、美意識を喚起することは歴史をこえた課題である。天心が自信をもって、西洋化、近代化に反対したのは、その西洋化、近代化に宗教意識、美意識がないということを知っていたためである。
東洋には、アジアには、宗教意識、美意識の伝統があると気づいたとき、東洋を、アジアを発見したのである。アジアのみでなく、世界そのものの革命を、アジア精神によってなそうとしたのである。
宗教意識、美意識を万人のなかに喚起せんとした天心。その夢と理想は大きい。それが脈々と伝わっているのがインドである。それを知ったときの天心の感動。しかもそのインドそのものを体現する女性、デーヴィ夫人と恋に落ちたのである。おそらく、そのときの天心は、インドの伝統に恋をし、美と宗教を愛していたのではないかと思われる。それほどに、彼のなかでは美と宗教が根強いものとなっていたのである。

美と宗教の国家を求めて
私は天心ほどに深く、徹底して美と宗教を愛した人をほかに知らない。彼ほど徹底して美と宗教が実現されることを念じた人を、ほかに知らない。まさに美と宗教に殉じた者こそが彼であった。五十二歳という若さで死んだのも、美と宗教を切実に求めたためであろう。インドは結局他国。彼としては恋こがれて死ぬ以外になかったのかも知れない。
要するに、天心は数十年前にいち早く第二の宗教改革を求めたのである。政治改革も経済改革も社会改革も、すべてそのなかにふくむような改革を求めていたのである。トータルな社会と人間の改革を実現するのは、政治、経済、社会の起点でもあり、終点であるような宗教改革しかないという認識に立って。
共産主義革命は資本主義の路線の宿命であり、必然性かも知れない。西洋化、近代化の別名が資本主義社会であった。だが、それとは別の道もあるはずである。その別の道を歩いている国はないが、それにしても、世界はあまりにも西洋化、近代化でぬりつぶされている。別の道をさがしながら歩いてもいいはずである。
資本主義社会は美と宗教を無視している。たんにそれらでカムフラージュしているにすぎない。カムフラージュに利用される美と宗教は、真の美と宗教とはいえない。天心の歩もうとしたのは、この美と宗教の国であり、それにふさわしい人々のつくる国家であった。

偉大なり朝鮮文化
天心は前後二回、支那(中国)への旅を敢行しているが、行きも帰りも朝鮮を経由している。だから都合四回朝鮮の地を通ったことになる。支那(中国)の文明が彼をひきつけたといっても、たんに朝鮮を無関心に通りこしたとは思えない。まして彼は美術家であり、美術史家であり、支那(中国)文明が朝鮮を経て、日本にまで伝わったことは十二分に承知している。とすれば、朝鮮文化に、朝鮮の美術品に無関心であるはずがない。第一回目のときはまだ別として、ア
ジアの文明、アジアの精神に異常な関心をいだいていた第二回の支那(中国)旅行には、朝鮮に異常な関心をもっていたに違いない。事情が許せば、ゆっくり朝鮮旅行もしたかったに違いない。そのことは彼の思想を考えたときおのずと納得できる。
天心はみずからの足で朝鮮の文化、朝鮮の美術品をみて歩かなかった。しかし最少限その知識をもっていたに相違ない。それをもふまえて、「アジアは一つ」の思想が生まれたのである。
では、天心の知る朝鮮の文化、朝鮮の美術品とはなんであろうか。彼はそれをどのようにみていたのであろうか。
朝鮮には、インドで生まれた仏教が支那(中国)を経てはいってきたが、それにつづいて支那(中国)の儒教がはいってきた。それは相当に昔のことであり、それ以来、朝鮮は仏教、儒教を中心に発展することになる。いいかえれば、インド文化圏、中国文化圏のなかにはいることになる。
はじめ、仏教を準国教とし、ついで儒教をそれにしたために、仏教も儒教も急速に発展し、それが今日にまでおよんでいるのである。一部にはそれらを排除する動きがあったとしても、大多数の人はそれらの影響下にある。
もちろん、仏教も儒教もたえず、新時代に即応するために、その内部から改革の火の手があがったが、要するに仏教文明、儒教文明の枠内にあったのである。その仏教、儒教が朝鮮を経て、日本に伝わり、空前の発展をしたことを思うときいまさらのように、インド文化圏、中国文化圏の偉大さを思わずにはいられないであろう。
仏教、儒教にみちびかれて作られたものは、数多くあったにちがいないが、まだこのころは現代のように発堀されておらず、天心の心をひきつけるところまでいっていない。
ただ、豊臣秀吉の朝鮮侵略で、多くの美術品、建築物、書物などが灰になったということを知ったとき、美と宗教を欠いてたんに動物的衝動、権力衝動のままに行動するときに、どんなに尊いものを失ってしまうかを思ったであろう。
そして、朝鮮侵略の戦利品として、朝鮮の陶工をつれてきてから、有田焼、萩焼、平戸焼、帖佐焼など幾多の有名な焼物が日本に生まれたのである。これを思うとき、朝鮮文化の偉大さが、当然、天心の脳裏をよぎったにちがいない。
もし、天心が今日まで生きて、高句麗古墳をみたらどんなに感動したことであろう。そこには、作者の理想とするところが、現実をこえてのこりなく出ていたのである。失われたものに思いをはせるとき、政治を無視して一日も生存できない人間は、美と宗教にみちびかれた、美と宗教につらぬかれた政治を求める以外にないのである。いまはたしかに、西洋諸国にアジア諸国は政治的に抑圧されている。その政治とは美と宗教のないものである。経済にしても美と宗教に支えられていない。そんなものは、進歩でも発展でもないが、人びとはそれを進歩、発展と呼んでいる。アジア人までそう呼んでいる。西洋人の発想にまきこまれてしまっているのだ。
朝鮮の歴史は、文字通り、抵抗の歴史であった。それは、アジアに美と宗教の伝統はあっても、現実には美と宗教の支配した国は実現していないからである。朝鮮を通るとき、天心の心は痛切にこのことを感じたにちがいない。

権力は美を追放する
天心は支那(中国)に二度旅行しているが、はじめは五ヵ月、二度目は三週間の短い旅であった。しかし、直接彼の目でみ、体験した意味は大きい。「アジアは一つ」という天心の雄叫びはこれらをふまえて生まれたもの。天心の旅行記によると、彼はまず北京を出発して天寧寺の古塔を望んだ後、白雲観をみる。タク州に至るとはじめて支那(中国)に来た感じがしたと語っている。そこから一望千里の平原にでる。そして、昔の面影をつよく残している邯鄲に達する。それから、彰徳府、銅雀台を通って湯陰県にでる。衛輝府はさすが一省の城、その立派さに驚く。黄河を渡った天心は開封府に到着する。かつて宋時代の都のあった所だけに美術品も多い。洛陽には昔の面影をみることができないのを天心はなげいている。だが、かつて仏教がはじめて支那(中国)に伝わった所として白馬寺の塔だけは残っている。よく知られているように、洛陽は漢、唐時代に都のあったところである。
陝州に出た天心は秦の始皇帝がつくったという十二金人を訪れたが、期待したほどのものでなくがっかりしている。函谷関、潼関の要害の地を通りすぎて華山を望む。華山は想像していたのと違って低い山であることを知る。長安にでた天心はそれなりに華やかな長安をみる。
それから五丈原に出、桟道を通過する。さすが桟道だけあって、その周囲は山また山なのに驚く。宋人、元人が盛んに描いた渓水を通ったときには、山水画がなぜ生まれたかも納得できる。四川にでた天心は、この山間の村でかくも富貴なものを感じさせるのに感心する。それを昔からつづいた富貴であると知ったとき、さらに驚く。それを証明するのが、昔からある立派な橋である。
蜀の道を通って、もっとも感じたのは唐の玄宗が通った道であるというということであった。それから成都にでた。成都は蜀の玄徳の都。いまなお盛んな所であるが、兵乱が美術品をなくしている。改めて、たんなる権力的衝動が、美と宗教のない動物的衝動が、美を失わせたことを思う。しかし成都の近くには函相祠堂もあり、昭烈の恵陵もあって、なんとなくゆかしいものを感じる。
嘉定府は蘇東坡の詩にも詠まれた所であり、有名な凌雲寺もある。そこから揚子江を下る。その途中に、三峡があって、その景色はなんともいえないほどいい。天心も船でその三峡を下ったのである。三峡をすぎると宜昌で、ここからは蒸気船もあり、天心はやがて上海につく。
天心がこの旅で強調したことは浦啓一のなくなった直後であっただけに、「危険はない」ということであった。そうだとすれば、浦啓一の死は不慮の死ということになる。ことに探偵のような仕事をしていただけに、平和な旅人、美と宗教を求めての旅人ということはできなかった。
この旅行を通じて、天心の学んだものはなんであったのだろうか。

真の統一国家=唐
その一つは、支那は黄河と揚子江とで、いちじるしく異なっているという発見である。しかし、唐のように統一国家に近いものが出現すると、この二つのものは合して、すぐれたものを生みだすということであり、両者の合体した唐時代の文明が、もっともすばらしいということであった。黄河中心にできた漢、周も、揚子江中心にできた五代、宗も本当には支那(中国)を代表していないということであった。金、元、明も本当の意味では統一国家ではなかった。そこに支那(中国)の悲劇をみた。
その二つは支那(中国)がもっともヨーロッパ的であり、日本よりも西欧的であるということであった。このころは、日本はアジア的でなく、もっともヨーロッパ的であり、ヨーロッパと一つであるという説が妙に歓迎されているが、天心の時代には支那(中国)こそヨーロッパ的であり、ヨーロッパに近かったのである。
その三つは日本の美術はすべて支那(中国)よりきて、完全に中国文化圏のなかにあるということである。ただ支那(中国)との交通が不便であったために日本独自のものを育てることになったが、その源流は支那(中国)にあったということである。それなのに、支那(中国)を無視して西欧のみに目をむけるということは、自己自身を無視するということである。かつて中国一辺倒であった日本人が、いまは西欧一辺倒になる。これもおかしなことである。
数世紀以上にわたってうけ入れたものを、わずか一世紀で払拭し、西欧化できるわけがない。できるとすれば、おかしなものができるだけである。天心は西欧化を排除せよといったのではない。ただ数世紀以上にわたって、中国文化圏のなかに育った日本人は、その事実を大事にし、それをふまえて発展すればよいというだけである。
天心が真の統一国家として憧れた唐は、太宗の発展させた国家である。太宗はよく賢臣を用い、さらに賢臣の言をいれて、「民落ちたるを拾わず、外戸閉じず」という社会を実現した。ことに民と直接に接する地方官を重視して、民の生活を第一とし、自分の身を軽く考える王道を実践した。
玄宗もまた太宗におとらず、民の生活を第一とし、自分を二の次にする生活をした。王道の継承である。そのために、民はいかに長い旅をしても、己れの身をまもる武器を持つ必要がなかった。だが、次第に政治にあき、民の生活よりも自分の生活を大切に考えるようになり、王道にそむくようになるのである。玄宗のなかから、美と宗教が消えたことを意味する。
支那(中国)では支那(中国)に発生した儒教、道教、それにインドから伝わった仏教が支那の人民を支配した。それは各国家の興亡をこえて支配したものである。しかもそれらの思想が、王道を陰に陽に支えたのである。王道とは儒教、道教、仏教の混合したなかから生まれたのである。
天心がこれらの思想を思い、王道のすばらしさに憧れたのも無理はない。日本に王道を伝えたのも儒教、道教、仏教である。ただ残念なことには、日本は王道を実現した時代がほとんどない。王道こそ美と宗教で貫かれた政治である。
二度目に天心が支那(中国)に行ったのは辛亥革命直後であった。王道を目標とする革命であろうとしたのが、当時それに携わる人たちのねがいであった。
だから、十分に落ちついて旅はできなかったが、それでもボストン美術館のために数多くの美術品を集めている。そのために莫大な金を必要としたが、天心の電報に対して、ボストン美術館からはただちに金が送られており、当時天心に対する信頼がどんなものであったかを知る手がかりになる。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

東洋の王道、西洋の覇道
日本の明治維新も、はじめは王道の実現をめざしたものであったが、途中からその王道を捨てて西洋諸国のたどった道である覇道を歩みだしたから、最後には天心を失意させたのである。なぜ覇道というかといえば、資本主義の発展、進歩のためとはいえ、アジアを侵略し、アジアからしぼりとることによって達成した、発展と進歩であったからである。
当時の支那(中国)は西洋諸国に分割されて支配され、疲弊しきって、王道はどこにもなかった。だが、王道を理想とし、王道の実現をなしたことのある支那(中国)民衆は、必ずいまの状態を脱することができるはずである。それが伝統の強さというものである。
人びとはともすれば、いまの現象をみることのみに心奪われて、民衆のなかに伝わっている伝統を、思想を、みようとしない。そして支那(中国)民衆を軽んずる。しかし、このときの天心のなかには、勝海舟の東洋連合論が思い出されていたはずである。同じく王道を理想とした、中国文化圏に生きてきた日本の進路を夢みていたに違いない。王道は言葉をかえれば美と宗教につらぬかれた政治である。ここでもう一度、私が宗教といい、天心が宗教といったものは、現実に私たちがみる、いがみあっている宗教、己れの宗教のみをよしとしている宗教でなく、人間の霊性を悟らせる宗教そのものであるということをいっておきたい。
その意味で、天心のこの旅行は、彼の思想形成、人間形成を考える上で非常に大切なもので、たんに美術品や古物をみてまわったのとは全然異なる。美と宗教に貫かれた政治を考えるものだけが、天心を正しく理解できる。

抵抗の歴史をを誇るインド
天心がインドに旅行したのは、支那(中国)旅行と同じく前後二回で、最初の旅は長く、後の旅が短かったのも支那(中国)旅行と同じである。
天心はまずセイロンのコロンボからトウティコリンに上陸し、マドラスに着いている。マドラスでは従来外国人に見せなかった寺院の内部を、はじめてみることを許されている。翌日はシャガルナット寺を訪れた後、カルカッタに到着。ベルル寺を訪ねただけでなく、そこでヴィヴェカーナンダに会う。ヴィヴェカーナンダは近代インドの生んだ最高の宗教家であり、当時、強力に宗教改革をおしすすめていた人物である。「真理は一つ、すべての宗教は人間の霊性をめざめさせるもの、だから寛容でなくてならない」と説き、ヒンズー教、イスラム教、キリスト教などをインド教の名の下に発展させようとつとめていた人物であった。かつて数世紀以上にわたって、アジアはヨーロッパを席捲した。いまは逆にヨーロッパにアジアは席捲されている。たしかにインドには宗教の伝統はあったが、それはまだ真の宗教ではなかった。ヴィヴェカーナンダはアジアによるヨーロッパの席捲、ヨーロッパによるアジア席捲という歴史的事実から本当にめざたのである。美と宗教は一つにならなくてはならないし、多くの宗教も一つの真理をめざしているということであり、すべての宗教は人間の霊性を悟らせるためにあるという確信をいだく男であった。
天心はヴィヴェカーナンダに会えたことを喜んだ。さっそく東洋仏教大会を計画した。しかしヴィヴェカーナンダの急死にあって、東洋仏教大会は実現しなかった。これは後のことである。まもなくタゴール家と親しくなった天心はそこを根城としてインド各地を歩くようになる。
天心の足跡は仏陀の初説の地として有名であるベナレス府をはじめとして、タンジョール王の離宮におよぴ、それから西インドに向かい、イギリス領インドの最北端、麻耶跋池に至る。
昼は象の背にのり、夜は虎の咆哮をききながら休んだこともあるという。このときの天心は、たんに美術品をみて歩くというより、インドの民情調査に興味をもっていた。とくにイギリスによって分割統治され、徹底的にしぼりとられて疲弊の極に達したインドの民衆が、彼の注意をひいた。インドの民衆はイギリスの侵略のなかで、ますます宗教の真理の一つである安定と存続を求めるようになったことを知ったのである。
西洋的な物質的進歩よりも、かえって精神と肉体の安定と存続を求め、進歩と発展よりも真、善、美の完成を求めていることを知ったときの感動。イギリスの侵略を憎む心よりもインド民衆の心に感動した。
インドはイギリスの侵略を前に、セポイの反乱をはじめとして幾多の抵抗の歴史をもっているが、インド人は次第に暴力による積極的抵抗をやめ、非暴力による消極的抵抗の姿勢を学んだ。それらを代表するのがガンジーである。
美と一つになった宗教を説きはじめたのがヴィヴェカーナンダである。それまで、インドには宗教の輝やかしい伝統があったが、それはヨーロッパを侵略する行動とともにある宗教に堕したものであった。ヨーロッパの侵略を肯定する宗教もインド侵略を許す宗教も真の宗教ではない。しかも、イギリスの分割と対立の政策により、ヒンズー教とイスラム教は互いにいがみあっているのが現状である。そのことに気づいたのがヴィヴェカーナンダである。

侵略した国民が偉大なのではない
美と一つになった宗教、真の宗教が、いまインドに芽生えつつあるのを知ったときの天心の喜び。すぐれた宗教を生んだインドであるだけになおさらその喜びは深い。そういう思いをいだいて、アジャンタの壁画やエロラの石窟、さらに仏陀伽耶、舎衛城をみて歩いた。
仏陀伽耶とは釈尊が悟りを開いた聖地であり、舎衛城は釈尊が説法した所で、城はその中心となる所である。また、アジャンタの壁画とは仏教壁画のことであり、エロラの石窟とは十二の仏教石窟と二十の他の宗教の石窟とからできている。
天心の歩いた所はほとんど全インドにおよび、その間に機会をみてはインド青年と語りあった。いまのインドには、ふがいない国民だけがいるという日本の通説が、まったく嘘であることを知ったのもこの旅行を通じてであった。イギリスに侵略されているという事実だけをみて、インドの実情を知ろうとしないのは日本人の浅薄さである。侵略している国民が偉大ではないし、侵略されている国民がだらしないとはいえない。要は真の美と宗教をもつかどうかである。
天心の著書『東洋の理想』はインド青年と交わるなかから生まれたものである。彼らの燃えるような理想に感化されてできたものである。もちろん、インド各地を歩いて、偉大な伝統がいまなお生きている事実をみたからである。
詩聖タゴールは天心より一歳上。この抵抗詩人とはインドの将来とアジアの将来について、とことん語りあったことであろう。二度目のインド旅行のとき、タゴールの姪デーヴィ夫人と知りあって熱烈な恋におちる。それは明治四十五年(1912)で、死期の近づいたのを感じた天心がタゴール、その他旧知の者に最後の別れの言葉をのべるための旅行のときであった。
いずれにしろ、天心その人の主要著作『東洋の理想』が、インド旅行のなかから生まれた意味は大きい。しかも、その巻頭言で「アジアは一つなり」といいきり、「内からの勝利か、しからずんば外からの大死のみ」と結んだ天心の覚悟はまさに壮烈というほかはない。いまに至るまでこの言葉が本当に理解されず、実践されないということは誠に残念である。
なぜ、理解されないかというと、西洋諸国の歩む道に否といいきる人がいないからであり、天心の美と宗教についての人びとの意見が、あまりに常識的な理解に終わっているためである。
ヴィヴェカーナンダを理解しないで、天心を理解できるわけはない。少なくともタゴールまでは理解してもヴィヴェカーナンダを理解しようとはしない。理解したとしても、天心との関連で理解しようとしていない。そこにいままでの天心理解の浅さがあるように思える。

抵抗詩人タゴールとの友情
天心とタゴールとの出会いについて、タゴール自身つぎのように書いている。
「幾年か前、私は日本からやってきた偉大で創造的な人物にであったとき、真の日本にであった様に感じました。彼は長い間私達の客となり、その頃の若い人達に強い感動を与えました。それは私達の国の中に、国民の自覚が急速にたかまる直前のことでした。東方の声が此の人によって若い人達に伝えられたのです。これは意義ふかい事件であり、私にとっても記念すべき出来ごとでありました。
彼は東洋の真価にふさわしい、人間の精神に雄大な表現を与えることを青年たちに求めました。東洋の特質である理想に対して、素直な心をもちつづけるならば、輝やかしい未来を信じて、殉教者として試練に耐えていく力を持ちつづけることができるといいました。これの一例として彼は偉大な歴史について語りました。
私がここに語った友人は真の日本人でした。真の日本人故に、他の東洋の民族をも理解できたのだと私は思います。彼が私達と共に過した日々は青年達にとって、歓喜と熱情にあふれた、すばらしい日々でした。熱烈な愛をもって彼は当時の青年達と一体となり、青年達は今も彼をおぼえています。彼が原動力を与えた運動は今私達の地方で進んでいます」。
タゴールは天心を偉大な独創家とみただけでなく、さらに偉大な革命家、啓蒙家ともみている。天心もまた彼を偉大な詩人、抵抗家とみたのである。だから二人は完全に意気投合した。「タゴールがいないと寂しい」と愚痴をこぼすくらいの友情が国境をこえて燃えあがったのである。
タゴールはまた、ボストンで天心に再会したときのことをつぎのようにも語っている。
「私はアメリカで、彼がボストン美術館の東洋部長をしていたときに再びめぐりあいました。これが私たちの最後の出会いとなったものですが、このとき彼の病気はほとんど致命的で、故国に帰るつもりになっていました。彼は私に支那(中国)を訪れることをすすめ、彼自ら私を案内し真の中国を見せようと約束しました。彼は支那(中国)に対して非常に深い尊敬の念をもっていました。このことがまたも私に彼の偉大さを感じさせました」と。
天心の言葉にしたがって、タゴールは天心なきあと、支那(中国)を訪れるが、そのきっかけをつくったのは天心である。このように二人の関係は非常に深い。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

∃ーロッパ文明は政治的文明である
天心のなくなったあと日本を訪れたタゴールは、日本人の聴衆をまえにしてつぎのように語っている。「日本によせるインドのメッセージ」と題してヨーロッパの土壌から芽生えて、いま世界を支配している政治的文明は、なにか多産の雑草のように独占に基礎をおいています。それはいつでも他者をおいつめよう、あるいは絶滅しようと待ち構えています。それはその傾向において肉食的、食人鬼的であって、他民族の資源を栄養とし、彼らの未来社会をのみこもうとしているのです。それは常に他民族が優秀さをあらわすのをおそれ、それを害毒と名づけて、あらゆる偉大さの徴を自己の領域外で阻止しようとし、より弱い民族を制して永久にその弱さの地位に固着せしめるのです。
この政治的文明が勢いをしめして、そのどんらんなあぎとを大きく開いて、地上の偉大な大陸をのみくだすまでは戦争や略奪や王朝の交換やそれに続く悲惨はありましたが、決して国民による国民の全的な食いつぶしというごとき、怖るべき絶望的などんらんの光景、地上の大きな部分をひき肉と化すあのような巨大な機械、そのみにくい歯と顎とでもって、互いの生身を引き裂くべく、いつまでも身構えているような嫉妬は見られなかったのです。この政治的文明は科学的であっても人間的ではないのです。それは己れの魂を犠牲にして、金をつかもうとする百万長者のように自分の力を一個の目的に集中するから強いのです」といい、西洋諸国に対して誠に厳しい言葉をなげかける。たしかに、西洋諸国の進歩といっても、それはつねに他民族の犠牲の上になり立つものでしかない。イギリスの労働党といえども、つねにその上にたって成立していたものである。いいかえれば、彼らの唱える進歩は虚偽の進歩であり、自分たちだけの進歩であった。それが近代化、西洋化の名の下に通用していたのがおかしい。しかもだれもそのことを疑問としなかった。だが、いま天心もタゴールもそのことをいいはじめたのである。そこに二人の共鳴があり、兄弟以上の結びつきが生まれる理由があった。
タゴールが西洋諸国の文明というか、思想というか、精神というか、それを政治的文明だと指摘した言葉はまったく鋭い。政治的文明とは美と宗教のない文明であり、人間の本質を見失った文明ということになる。私たちはそのような政治的文明だけをみて、美と宗教をみなかった。人間の本質をみなかった。そこに最大の誤謬がある。かつてアジアが政治的文明の下にヨーロッパを侵略した。政治的文明に生きる人びとには真の新生はない。美と宗教に接近することはできない。

東方アジアの文明は人間の文明である
タゴールの言葉は以上のような鋭い指摘につづき「しかし、こんなことがいつまでもつづくわけはないと予言しても、まちがうおそれはないはずです。なぜなら、この世には個人とともに、組織された人間集団にも適用される道徳律があるからです。この掟を国民の名において蹂躙して進みながら、しかもその利益を個人として享受するわけには参りません。公衆の倫理的理想をこのように磨滅させることは、じょじょに各成員の上に反作用をおよぼして、目にみえぬところで、次第に弱さをはぐくみ、人間性にそなわるすべての聖なるものに対する皮肉な不信を結果しますが、これこそ衰弱のまちがいない徴候であります」という。
タゴールはこう述べたあと、それなのに日本人は西洋諸国のほうをむいたまま、なぜ明治維新の理想をいま一度ふりかえり、アジアの現状を見ないかという。おそらく彼はなぜ天心を忘れるのかといいたかったのではないかと思われる。そこに近代日本の誤りがあると、はっきりいいたかったのであろう。だが、もし、タゴールがはっきりそういったとしても、その当時それに耳を傾ける人はいなかった。敗戦後の今日ですら、日本人の目は西洋諸国をむいたままである。アジアの孤児になる理由は十分にあるのである。
もちろんタゴールは、ただ盲目的に西洋諸国を排除する人間ではない。認めるところはちゃんと認めた上で、足らないものを足らないとするだけである。彼はいう。
「私はヨーロッパの偉大さがどこにあるか、これを認めるのに躊躇する者ではありません。疑いもなく彼女は偉大なのですから。我々は心のすべてをあげて彼女を愛し、我らの最上の賛歌をささげずにはいられません。その文学と芸術において、つきざる美と真実の滝をそそいで、あらゆる国土と時代を豊かにしているヨーロッパ。その倦むことのない力をもった巨大な精神で、宇宙の高みと深みをさぐり、無限大および無限小のものから、その知識の賛歌をくみとって、これまで我々が絶望的なあきらめの気持ちでうけとることに満足していた人間の様々な悲惨を緩和し、病いをいやすために、その偉大な知性と心情の力を用いているヨーロッパ。自然の偉大な力を人間に委任させるべくなだめ、また矯正して、可能と思われたより以上の果実を大地に生みださせたヨーロッパ。このような偉大さはその源泉を精神の力にもっているはずです。ただ、ヨーロッパがその権力をきずきあげるために忙しがって、彼女のより深い本性を否定してそれを嘲弄している場所で、彼女は神の復讐を呼び出しながら天まで害悪をつみあげ、美と善に対する感覚をその心なき所業で無残にふみにじりながら、地球の面を物理的および道徳的魂りの病毒でおおっているのです。彼女の顔を人間性全体にむけているところでは、ヨーロッパはその慈善においてこの上なく善く、その顔を単に己れの利益にむけてその偉大な力を人間のなかの無限なもの、永遠なものに反する目標に用いているところでは恐るべき様相を呈してこの上なく悪になっています」と。
要するに、西洋諸国を認めることでもタゴールは人後におちないが、それの断罪においても人後におちないのである。そしてつぎのような言葉でその講演をおわる。
「東方アジアはそれ自身の文明を展開させながら己れの道を辿ってきました。その文明は政治的でなく社会的であり、略奪的でも機械的でも能率的でもありませんが、精神的で人間性の多様で一層深い諸関係のすべてを基礎にしています。民衆の生命の問題の解決は、世俗をはなれたところで考えぬかれ、王朝の交代も、外敵の侵入にわずらわされぬ超然の安全境で行われました。しかし、いまや我々は外の世界にとらわれて、あのかくれ家は永遠に失われたのです。」

アジアは侵略者を全否定する
タゴールのいうことはなかなか鋭い。畏敬する岡倉天心を生んだ日本のなかには、それに応ずる人間も何人かはいると期待した彼であったが、だれもそれに応じなかった。
タゴールは絶望して日本を去るしかなかったのである。タゴールが死の床を前にして、悲痛にもイギリスの断罪についてくりかえし語ったことはつぎの言葉と内容を一にするが、私たちは涙なしには聞けない。もう一度その異なる声で死の床から呼びかけた言葉をききたい。
「惨虐の悪魔は仮面をかなぐり捨て、乱暴狼藉のうちに、人類を引き裂かんものと牙をむいて立ち現われている。世界の果てから地の果てまで、大気は憎悪の毒煙のために暗い。西方の心理の奥底におそらくは眠っていた暴力の精神は、ついに奮いたって人間の精神を冒涜した。……運命の歯車はいつの日かイギリスに迫って、インド支配を断念させるであろう。だが彼らは立ちさるあとにどんな姿のインドを、どんなにか無惨な惨めさを、置きみやげにすることであろうか。彼らの数世紀にわたる統治がついに枯れるとき、何たる泥土と汚物の荒廃地を彼らはあとに残してゆくことだろうか。私は、かつて文明の泉はヨーロッパの心臓からほとばしるものと信じていた。しかし私が世界に別れをつげようとしている今日、その信念は完全に破れ去っている。……むしろ私は大変動がすぎ、埃りがしづまったあとに、奉仕と犠牲の精神をもって、歴史の新しい章が開かれるのを期待しよう。恐らく夜明けはこなたの地平線から、太陽ののぼる東方からおとずれるであろう。やがて征服されない人間がすべての障壁をのりこえて、現われる日が来るであろう」と。
タゴールの信念はあまりも強く、根深かった。アジアを侵略したという点で、ヨーロッパの歩みは、彼によって徹底的に全否定される。そのヨーロッパのあとを性こりもなく追っている日本が、アジアの民衆によって全否定されるのも無理はない。反日デモがわきあがっても少しも不思議ではない。
タゴールとは、徹底してインドの美と宗教の伝統をうたいあげた詩人であり、それを実践しようとした人物であった。

天心とヴィヴェカーナンダ
天心は織田得能あての手紙に、ヴィヴェカーナンダにあった感動をつぎのように書きおくっている。「過般当地に参り、ヴィヴェカーナンダ師に面会致し候。師は気魄、学識、超然抜群、一代の名士と見え、五天至るところ師を敬慕せざるはなし。しかして師は大乗をもって小乗に先ずるものとなし、目下インド教は仏教より伝承せることを説き、釈尊をしてインド未曾有の教主となせり。師はまた英語をよくし、秦西最近の学理にも長じ、東西を総合して不二宗門を説破す。議論風発、古代論師の面目あり。実に得がたき人物と存じ候。」
ヴィヴェカーナンダも天心のことを「彼はわれわれの人間だ」とも「われわれはもっとも相反する遠方からきて、再会した二人の兄弟である」といったともいう。巨人の心は巨人のみが知る。二人の巨人はこれ以上にないほど、お互いを知りあったのである。
では、ヴィヴェカーナンダのどこに天心は深く魅了されたのであろうか。ヴィヴェカーナンダの言動を辿ってみよう。
ロマン・ローランの『ヴィヴェカーナンダの生涯』によるとヴィヴェカーナンダは「諸君の自慢をよしたまえ、諸君のキリスト教は剣なしに何を世界でなしたか、諸君の宗教は贅沢の名において説教された。いっさいが偽善である。ここで説教されるのを私が聞いたところでは、この富のやま、それはキリストの意にかなうのか。キリストは諸君の家のなかには頭を休らうべき石ひとつを見出さないだろう。諸君はキリスト教徒ではない。キリストに帰りたまえ」と語ることによって、多くのキリスト者の怒りを買ったと書いている。
さらにヴィヴェカーナンダはキリスト教徒のみでなく、西洋の社会そのものを「西洋の社会生活は哄笑のようなものです。しかし、その下は呻き声です。哄笑はしまいには啜り泣きになります。活気と浮薄は表面にしかありません。実際はヨーロッパの魂は強い悲劇にみちています」と指摘し、「狼のむれにどのような偉大さがあるのか」とまでいったと書いている。
タゴールと同じく、否それ以上に、ヴィヴェカーナンダは西洋というものに絶望していたのである。西洋諸国をのろった言葉はいくらでもある。ヴィヴェカーナンダはそれらの言葉をふまえたうえで「そうだ、どの男子も女子もどの子供も、身分や階級や弱さや強さの区別なく、弱い人びとや強い人びとのうしろにも、有力な人びとや卑しい人びとのうしろにも、無限の魂があって、それが偉大さと慈愛との無限の可能性と、無限の能力とを万人に保証していることを学び知るべきである。目をさませ、目標に達するまでは立ちとどまるべからず。目をさませ、弱さのこの催眠術から目をさませ。誰も本当に弱いものはいない。魂は無限で、あまねく存在し、全能で、全知である。起て、我々に必要なのは人間をつくる教育である。我々に必要なのは宗教である。肉体的に知的に霊的に我々を弱くするものはいっさい捨てるべし。それは毒である。生命は決してそこにはない」といいきったとロマン・ローランは書いている。
なんと雄々しい言動であろう。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

宗教は心の底の大自覚である
ヴィヴェカーナンダは、人間に必要な宗教をどのように考えていたのだろうか。先に述べた『ヴィヴェカーナンダの生涯』のなかでもヴィヴェカーナンダは「彼らがインド教徒であろうと、回教徒であろうと、あるいはキリスト教徒であろうと、私にはどうでもよいことだ。火のなかに飛びこみなさい。諸君がどんな信仰をもとうとも、いっさいは諸君のもとにくるであろう。貧窮のために、坊主どもや暴君どものために、奴隷になっている幾百万人の打ち砕かれた人びとのために昼も夜も祈ってください。私は決して哲学者でも聖者でもない。インドで無知と貧窮にあえいでいる二億の男女に、誰がそれから脱する道を示すだろう。貧しい人びとのために心の血をしぼる人だけを、私は偉大な魂と呼ぶ」と書いている。
まことに、ヴィヴェカーナンダが「宗派間に議論や争いがある」というその事実が、彼らが宗教についてはなにも知っていないことを示すのである。「彼らにとって宗教は書物にのせるための、空虚な言葉の山づみにすぎない」(信愛の道)といっている通りである。すべての宗教が人間が神に至る道を説いたものであり、たんに言い方が違うだけである。だが、人びとは互いに相手をけなし、軽蔑する。自分の宗教のみを絶対に正しいと考える。そして宗教の課題を忘れてしまう。
だからヴィヴェカーナンダも「各自が立ち上がって“私のあがめる予言者が唯一の真の予言者である”というときそれは正しくない。その人たちは宗教のイロハも知ってはいないのだ。宗教はおしゃべりでない、理論でもない、知的同意でもない。それは心の奥底の大自覚である。それは神にふれることである」(世界の偉大な教師)といいきらなくてならなかったのである。
なぜ各宗教がこのように堕落し、混乱したかというと、自分の宗教ばかりみて、ほかの宗教を正しくみないからである。自分の宗教ばかりを研究して、ほかの宗教を真剣に研究しないからである。それにもっと悪いことには、ヴィヴェカーナンダもいっているように「人は知的に巨人でありえても霊的には赤ん妨である」(信愛の道)ということを考えないで、霊的にも巨人だと思いがちであるからである。
ヴィヴェカーナンダはくりかえし、「高度の知的発達は、その人の霊的な面の同等の発達をしめすとは限らない」といましめている。いまの学校には宗教教育はほとんどないし、もしあったとしても、それはある特定の宗派宗教についての知識をあたえることだと考えている。これでは、人間はますます堕落し、霊性を失い、エコノミック・アニマルになるしか道がない。
もちろん、ヴィヴェカーナンダはネルーの『インドの発見』によると、「我々が霊性と呼ぶものは理性の発展であり、理性と矛盾するものではない。理性と矛盾する場合、それは霊性でない。もしもある宗教が理性に反するなら、それは価値のない迷信である。そんなものはすみやかに消滅するとよい。人間が誰かの権威に従って神を盲目的に信ずるより、自分の理性に従って無神論者である方がよい」。とまでいったという。文字通り徹底した人といえよう。だが、ここで大切なことは、いまの多くの学校数育は、たんに悟性のみの開発に主力をおき、理性を支えるいま一つの要素である感性の開発を軽視しているばかりでなく、一番大事な霊性の開発につとめないで、せいぜい理性の開発に終わっているということである。
では真の宗教はどのようにして得られるかということについては、「みなさんがこの渇望、この願いをもつまでは、知性や書物や儀式によって、どんなに努力を重ねても宗教を得ることはできない。この渇望がみなさんの心のなかにめざめるまでは、みなさんはいかなる無神論者とも、変わりはない。ただ無神論者はまじめであり、みなさんはそうではないというだけである」(信愛への道)と語っている。

東洋と西洋の調和
そして、ヴィヴェカーナンダが最後にいうところは「世界を一人で楽しむようにさだめられた民族はない。誰もこれを否むことはできないであろう。それぞれの民族が、この全人類の神聖なる調和のなかで演ずべき役割をもっている。果たすべき使命をもっている。これらの総和が偉大な調和なのである」(世界の偉大な教師たち)ということであった。
こういう思想をもつヴィヴェカーナンダを、天心が認めないわけはない。まさに新しい時代というか、真の美と宗教を求めて、それを創造しようとしている人物を発見したときの、全身からの感動はどうすることもできなかっただろう。
天心は帰国のとき、ヴィヴェカーナンダを連れていこうと考えたし、彼も承知した。だが三十九歳でヴィヴェカーナンダはあっけなく死んでしまう。そのときの天心の悲しみはいかほどであったろう。五十二歳でなくなった天心といい、三十九歳でなくなったヴィヴェカーナンダといい、二人がもっと生きていたら、その後のアジアの辿った道ももう少し変わっていたかもしれない。
「インドの宗教をもつヨーロッパ的社会をつくれ」ということをだれにもはばからずいい、また確信をもっていたヴィヴェカーナンダの死は、あまりにも早すぎる。東洋と西洋の調和を考え、世界は一つだといった彼。それを一つにするものこそインド精神であるといった言葉のもつ意味は大きい。

アジアの兄弟姉妹たちよ
『東洋のめざめ』は天心の最初の著作と思われるが、ほかの著書とは違って、長く彼の筐底に埋もれていたものである。原ノートに書かれたままになっていたものを、後に完訳して、本にしたものである。この本は「アジアの兄弟姉妹よ」という言葉を、くりかえし強調している。では、天心は「アジアの兄弟姉妹よ」といいながらなにを訴えようとしたのであろうか。
天心はまず、「我々の父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。いまや東洋は衰退の同義語になり、その民は奴隷を意味している。たたえられている我々の温順さは、礼儀をよそおった異国人の卑怯なあざけりにほかならない。我々は商業の名のもとに好戦の徒を歓迎し、文明の名のもとに帝国主義者を抱擁し、キリスト教の名のもとに残酷の前にひれふしてきた」。
「我々はさまざまな理想のあいだを、長い間さまよってきた。さあ、再び現実にめざめようではないか。我々は無感という河をただよい流れてきた。さあ、もう一度現実という苛酷な岸に上陸しようではないか。我々は結晶のような生活を誇りとして互いに孤立してきた。さあ共通の苦難という大洋のなかで溶けあおうではないか」とまえおきする。
天心からみたとき、いまのインドの沈退ともみえるものが正常とは思えないし、我慢のできないことであった。せめて、何人からみても、そういう言い方がなされる状態は脱さなくてならなかった。それこそ、いまインドをふくめて、全アジアはわずか二、三世紀にわたって沈退させられているようにみえるが、それ以前の数世紀、否それ以上の世紀は逆に西洋諸国がアジアのために沈退させられたようにみえた事実があったではないか、と思ったとき、いよいよいらだたしくなる。
たしかに、この世のことは、二、三世紀の単位でみてはならない。まして結論づけるようなことは、決してできないはずである。西洋諸国がアジアの数世紀以上の桎梏を脱して、いま盛んに活躍しているようにみえるではないか。たとえその活躍が本物でなくても、活躍して盛んなのは事実である。天心はそれらを思ったとき、心よりインド青年の酢蹶起を呼びかけずにはいられなかったのである。
だからとて、「諸君に暴力を呼びかけているのではない。私は諸君の勇気に訴えているのであり、侵略をよびかけているのでなく、その自覚をもとめているのである。ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である。歴史の過程は西洋と我々の、さけがたい敵対関係をもたらした記録である」と書いているように、これまでのヨーロッパがなしたように、アジアの屈辱によって得られる栄光でなく、暴力にむくいるに暴力を以てし、果てしない闘争をくりかえそうとしているのではなかった。ここには数世紀以上にわたって、ヨーロッパを侵略し、いま逆にヨーロッパに侵略されている事実の反省がある。侵略のない世界、美と宗教につらなる高度の政治が行われる世界を天心は求めているのである。
この天心のほんとうの声を聞かないで、彼には民衆の発見がないとか、たんなるブルジョア民主主義にすぎないとかいう批判は、それこそ西欧的知識、西欧的見方ですべてを割りきっていこうという姿勢である。

人間の内面のたたかい
美と宗教の使徒ということは、政治の使徒であり、歴史の使徒であり、さらに剣の使徒でもある。人びとはともすれば、政治や剣が美と宗教と反するものと考えている。ここに根本的誤謬ある。剣ほど美と宗教に一致するものはない。後にそのことは論ずるが、天心が一度も政治運動に入っていないからといって、政治に無関心であり、無知ということにはならない。天心の美と宗教の運動こそ、すぐれて政治的なのである。それはヴィヴェカーナンダの進める宗教運動が、そのまま政治運動であったということである。彼の一番関心のあることは二億の民衆が文盲と貧窮にあえいでいることであり、彼らをどうするかということであった。
天心はそれらの意味を含めて、西洋諸国がなぜアジアを政治的に侵略する行為にでたか、アジアがなぜかつてヨーロッパを侵略したかということをみつめた。侵略による経済の発展ということを盛事とか進歩の名で呼ぶ者には、天心の苦しみもアジアの苦しみも、そしてそれを契機として天心が新生したことにも気づかないであろう。同次元で考えている者には、天心の叫びも一時的な興奮のためにでた叫びとしかみえない。
天心が「近代の精神は神を離れ、黄金にむかってはばたく。人間の内面の戦いに敗れた彼らはちがった征服にのりだす」というとき、まったく悲壮そのものである。これまでは、たんに資本主義の発展が帝国主義を生みだした、というのが定説のようになっていたが、天心はそうでなく、自己との内面的戦いに敗れたためであるという。敗れたために資本主義になり、帝国主義になったのである。もし、美と宗教のなかに生きていたら他人の犠牲のなかで成立するような資本主義、帝国主義にはならない。あきらかにキリスト教の敗北であり、敗北のなかに自分の存在を保ったから、帝国主義の尖兵の役割りをいとも軽々と引き受けたのである。

アジアに根づく偉大なる自由

その結果、西欧中心の帝国主義の時代になり、アジアは西洋諸国に隷従することになったのである。そのことを天心はつぎのように表現する。「政治的敗北の刑罰は隷属であり、経済的征服の結果はしめ木の苦痛である。十八世紀の後半、東方の略奪から生まれた信用と資本によって、ヨーロッパ産業主義の発明的エネルギーが活動をはじめる」といい、また、「ヨーロッパの模倣と崇拝はついに我々の自然な制度となった。ロンドンの最新流行を誇示する、カルカッタや東京の貴公子連の姿はこっけいを通りこして悲しくなるほどだが、彼らは一般的なこの観念のあらわれにすぎない。流行をおう我々の学者たちが、近代哲学の借り物の文句のなかに求める保護色を、彼らは衣裳にもとめている」ともいう。
なぜアジアが、西洋諸国の政治的経済的侵略の毒芽にいともやすやすと屈したかについて、天心は「アジアの国々は互いに孤立しているために、アジアが、真におそるべき状態におかれていることの全体的な意味を理解できない。各国は王朝の衰退、個々の政権の失政、特殊な災厄などの問題を、自己特有のものと考えている。彼らは目のまわるような自分の苦労に心をうばわれて、おなじ不幸が隣人たちを見舞っていることをみようとしない」「我々が今日、互いに知ることの少いことは、驚くほどである。我々はヨーロッパのすべての言語を話すが、我々のうちで自国語のほかに、東洋の言語の一つでも習ったことのある国があるであろうか」と分析する。
しかも、その侵略を当然のように許したものが、アジアのなかにもあった。天心はそのことを、「その完成そのものが、外での戦争より内での調和にむかわせたのであった。彼らの自由と寛容の本能が、結果についてはほとんど考えることなしに新しい要素の流入を奨励し、彼ら自身の道徳がアジア人には想像もできない裏切りを許し、彼らの文明が最後の手段として以外は、侵入に対決することをつねにおくらせ、彼らの個性の成熟そのものが外国の侵略を撃退するような、民族的統一の感覚をそだてなかったのである」という。それはたしかに長所であるが、その結果、西洋諸国の侵略を許し、現在膨大な人びとが無知と貧窮に苦しむことになった以上、いま一度それらについて考えなおしてみる必要があるというのが、天心の意見である。
「東洋の生活の底流をなしている統一性」ということを天心は「ヴェーダの哲学は仏教をつうじてインド、中国、日本、シャム、ビルマを、その高遠な理想主義によって一つにむすびつけた。また、もともと親戚の関係にある回教を通じて、全インドを同種の思想からなる単一の織物におりあげた」といっている。この統一をいま一度自覚せよというのである。
「東洋の社会、東洋の理想は厳密に検討しても、西洋にくらべて少しもおとるものでない」というのが天心の結論である。その一例として自由の観念について語る。
「西洋は、東洋には自由が欠けているといってたびたび非難する」。そして人びとはヨーロッパ人のみでなく、アジア人のなかにもこの言葉をなんの疑惑なしに受け入れている者がある。だが、これに対して、天心は「我々の自由はこうしたものよりはるかに高いものである。我々にあっては、自由とは個人の思想をそれ自身のなかで完成する力である」といって反対する。
「なるほど西洋の栄光であるように思われている粗末な観念、相互の主張によって守られている個人的権利の観念は我々にはない」というのが天心の考えである。たしかに、第一歩としてはそのような自由も必要であろうが、この自由には完結がなく、人をおしのけるものがあるだけである。今日のゆがんだ世の中は、無限に西洋的な自由を求めた結果であるといっても過言ではない。果てることのない闘争も、西欧的自由が導びきだしたものといえる。だから「東洋の偉大な自由」と天心にいわせるのである。この反省がまた天心に「社会的なものと超社会的なものの調和は、我々の文明の全思想を完成するものである」ともいわせている。彼にとって、西洋の歩みには完結がないというわけである。人びとは刻々に死ぬるし、刻々に完結するものである。永遠の歴史のなかに生きると同時に、刻々の現実に生きているのが人間である。だから人間の人生は尊く、革命が尊いのではない。

ゲリラ戦法を説く
そして、天心は「剣をもってたちあがれ」と結論づける。それはつぎのような言葉でもある。
「アジアには山や河が多い。ここではゲリラ戦によって外国優勢の呪文をやぶり、こうして市民や兵士たちをめざめさせて、救国の戦いに参加させることができる。ヨーロッパは、我々を完全に威圧するにたる大兵力を送ってよこすことはできず、我々の土地に対する支配は、必然的に、飼いならされた現地人の連隊にたよらねばならない。だがしかし、これらの軍隊は我々の軍隊ではないのか」
「時はきている。自由の旗は、我らのすべての土地にひるがえるであろう。市場には、霊感をうけた歌の荒々しい喜びが鳴りひびくであろう。鋤は愛する土地の復讐のために再びふりあげられている」
だが、そのときの剣とは自衛のための剣であり、平和のための剣であり、戈をおさめるための剣であって、暴力に対する暴力、無限にくりかえす暴力ではない。天心のいうように、己れのなかに完結を求める戦いである。美と宗教の普及した国を創造するための戦いである。これこそが『東洋のめざめ』のなかで天心が、訴えたことである。このような戦いをインド青年に求めたということ自身、たいへんに意味がある。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

東洋の理想
「アジアは一つである」という書き出しではじまる、天心の『東洋の理想』は先述したようにインド青年と語りあうなかで、彼らに刺激されて生まれたものである。天心はその言葉につづいて、「ヒマラヤ山脈は二つの偉大な文明……孔子の共産主義をもつ中国文明と“ヴェーダ”の個人主義をもつインド文明をただきわだたせるためにのみ分かっている。しかし、雲をいただくこの障壁でさえも、究極と普遍をもとめるあの愛のひろがりを、一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教を生みだすことを可能にさせ、また彼らを地中海やバルト海の沿海諸民族……特殊的なものに執着し、人生の目的でなく手段をさがしもとめることを好む民族……から区別しているものである」と書いている。
そして「この民族にこれら二つの源泉からくみとり、アジア精神のすべてを映しだすことを可能にさせた、生まれながらの能力があった」と日本に対する誇りと使命を書いている。いいかえれば、インド文化圏と中国文化圏の両方に位置させ、それらを融合させたものとして日本があるというのである。しかるに、その日本がそれらのことを忘れ、いたずらに西洋の模倣に走っているのが現状だともいうのである。それも、西洋の道である覇道をまねているというのである。天心でなくても全身の怒りをぶつけたくなろう。
ここから、天心は中国への反省、インドへの反省に入ってゆく。中国文明、インド文明がどんなにして日本に入り、日本人にどんな影響をあたえたか、を論じてゆく。
まず、中国文明についてであるが、天心は孔子についてつぎのようにいう。「彼は人間に対する人間の神聖化である。倫理の宗教の実現に一身をささげている。彼にとっては人間性が神であり、人生の調和が究極のものである」そして、音楽こそ、政治を高め、政治に不可欠なものであると即断されていたというのである。いいかえれば、社会的人間をとことん問いつめ、人間性を神にまで高める宗教を生み、政治のなかで美を重要視するのが中国文明の真髄であったというのである。
それに対して、インド文明とは仏教によって代表されるとする。仏教をつねに成長発展しているもので、それがつぎつぎと適応と成長を生みだすという。天心はさらに適応と成長の力こそは、この体系の偉大さを形づくっているのであって、それはただにアジアを抱擁するだけでなく、遠い昔シリアに種子をはこんで、そこに花を咲かせ、さらにキリスト教という形で愛と克己の芳香を放ちながら、世界一順を完結しているのである」ともいう。こういう見方は、今日、仏教についてもっている一般通念とはあまりにも異なっている。というのは仏教は固定化し、過去のものほどすぐれているというのが常識になっている。いずれにせよ、仏教は自我を拡大深化することによって、自己の対立物を同化し、それと調和することを教えているし、そのなかに自己のたえざる生成と発展をふくんでいるというのである。

物心合一の理念
こうした中国文明とインド文明が、日本に入ってき、飛鳥、奈良、平安、藤原、鎌倉、足利、豊臣および徳川初期、徳川後期の各時代を通じ発展し融合してきたというのである。独自の統一した文明を育成してきたというのである。それらがどのように発展し、統一し、融合し、独自のものになったかについて、天心はつぎのように述べている。
「仏教の全精力は、感覚と現象の世界の科学的探求であった。だから有限な魂が発展して、ついに解脱に達して、無限に達する科学をつくった。全宇宙が一つ一つの原子のなかにあらわれ、したがって、いかなる変化もひとしく真正であり、事物の統一性と無関係な真理は存在しないということが、今日、科学を専門化のかたい殻から解き放つことになっている」
「物心合一の理念は、日本の思想において一層強力になり、ついには二つの概念(心と物)の完全な融合が達成される運命にあった。この融合の中心がむしろ物質的なものにおかれ、象徴が成就を見なされ、平凡な行いが至福のように考えられ、この世がそのまま理想の世界とみなされているのは注目すべきことである。結局幻想はないのである」
「宗教感情の波は藤原時代には日本全土に波及し、男女は熱狂的な愛に陶酔し、町や村を捨てて喜々として阿弥陀の名号を唱えながら空也、一遍のあとを群れをなして追っていったのである」
「日本の芸術は足利の名匠時代以後、わずかに退歩したとはいえ、着実に東洋的浪漫主義の理想……すなわち芸術における努力の結晶たる精神の表現……を固守してきた。この精神性は我々にとっては、キリスト教初期の教父の禁欲的純粋主義でもなければ、擬ルネサンスの寓意的な理想化でもなかった。またマンネリズムでもなければ、自己抑制でもなかった。精神性とは事物の神髄あるいは生命、万物の霊の特殊化、内に燃える火と考えられたのであった。美とは宇宙に遍在する根本原理であった」
「このような永遠の声なき旋律からひびく判然としない発声は、知らない人には奇異で粗野に思われるかもしれないが、それが偉大な芸術のしるしをなしていることは、少しも疑いえないところである。それは能が心から心への直接的な訴えであることを、すなわち、語られざる思想が役者の背後から、聴衆の心のなかの聞かず聞こえざる知性へとみちびかれる様式であることを、つかのまも忘れさせない。」

アジアの栄光は平和の鼓動のなかに
こうした日本文明の特殊性もインドを離れ、中国を度外視するところには、決して生まれなかったのである。いま西洋のために、まったくといってよいほどに沈退しているかにみえるアジアを、真に覚醒させるのは日本の使命であり、アジア人自身の覚醒である。それによって、進歩と発展の名のもとに、暴虐の限りをつくしている西洋そのものに、その誤りを悟らせるのがアジアの課題でもあると天心はいうのである。だが、天心はそれ以上に明確な言葉をもって、アジアの課題をつぎのように語り、結論づけるのである。
「このような見聞方法によって、円熟かつ活きた知識としての、また堅固でしかも温順な人間の調和した思想感情としての、東洋的な個性の概念が培われるのである。そしてこのような交流方法によって印刷された指針でなく、真の教化の手段としての、人間的交わりの東洋的観念が維持されるのである」
「反措定の鎖は、無限に延長することができるであろう。しかしアジアの栄光は、これらよりもっと絶対的なものである。その栄光はすべての人の心に脈うつ、平和の鼓動のなかにある。それは天子と農民とを結ぶ調和のなかにある。あるいは、あらゆる共感、あらゆる礼儀の念をおこさしめるあの崇高な一体感の直感のなかにある」
「自国の伝統からきりはなされたインドは、その国民性の精髄たる宗教的生活を不毛にされ、卑しいもの、偽れるもの、新しいものの崇拝者になろうとしている」。
「今日アジアのなすべき仕事は、アジアの様式をまもり、これを回復することにある。しかし、これを行うためには、アジアはまず自らこの様式の意識を確認し、これを発展させなければならない。なぜならば、過去の影像は未来の約束だからである。いかなる木も種子のなかにある力よりも大きくなることはできない。生命はつねに自己への回帰のうちにある。
なんと、天心のいうところは堂々としていることか。それらの言葉によって、アジア人に活をいれたのである。日本人はその例外であったかというと、決してそうでない。日本人はいかにも例外であるかのように思わせるものが、当時の風潮のなかにはあったのである。日本のなかで、インド文明と中国文明が融合し、統一し、発展したことは事実であるが、いまでは、それがまったく失われようとしている。
私は逆に、明治以後の日本をほめればほめるだけ、それが日本人に投げかけられた警告だという感じがする。たしかに、インド、中国は自らの伝統を忘れて、西洋諸国の下に呻吟している。天心は、それが明日の日本の運命だと予言したのである。事実、日本は西洋諸国と同じ誤りをおかし、今日西洋文明そのものの下に苦しんでいる。それでいて、その誤りに気づこうとしていないのである。『東洋の理想』とは、あくまで日本をふくめた東洋の理想であった。それを読みきらなかったところに日本の悲劇があった。いまからでもおそくはない。天心を、『東洋の理想』を腰をすえてほんとうに読むことである。
勝海舟ほどの男でもおおっぴらに東亜連合論を唱えることのできなかった時代である。岡倉天心一人に時代の空気を無視して、たんに正論をはくことを求めても無理である。それはいたずらに孤立を深めるだけであり、反発をさそうだけである。世論をみちびくものは世論に合わせながら、そこで自覚させることである。
私は天心の深謀遠慮を感ずるだけである。当時の日本は、要するに彼にとっては幻想でしかなかったということであり、美と宗教はどこにもなかったということである。

進歩の意味
『日本のめざめ』という天心の本は、じつは『東洋のめざめ』の続編として書かれたものである。ただ彼が強調したかったのは、東洋それ自身のめざめは、日本を先頭にして勝ちとる以外にないということであった。東洋の先頭にたって、東洋のめざめを勝ちとるべき日本が、いまは逆に西洋諸国の後について東洋を苦しめている側にいる、というのが天心の事実認識である。日本は幸福にして西洋諸国の侵略をまぬかれた。その偉大さと同時に、西洋の波にのみこまれそうになっている日本への警告がある。いままでそれを読みとらなかったところに、近代日本の悲劇がいまなおつづいているのである。
たしかに、天心のいうように、東洋は西洋のよいところを学ばなくてはならない。しかし、その否定面は断じて学んではならない。それを同時に学ぼうとしているのが、日本であるというのである。
では、天心は西洋の否定面をどのようにみているのであろうか。彼はまず「明治の指導者たちは、西洋の政治の否定面についてはまだ知らなかったので、彼らの理想を実現したかに思われた西洋諸国民の事業を賛美した」と前置きして西洋諸国の否定面を次のように指摘する。
「西洋は進歩を信じているが、いったい、何にむかっての進歩であろうか。アジアは尋ねる。完全な物質的能率がえられたとして、そのとき、いかなる目的が果たされたというのであろうか。
友愛の熱情が高まり、世界の協力が実現されたとして、それは何を目的とするのであろうか。もしそれがたんなる私利私欲であるならば、西洋の誇る進歩は果たしてどこにあるのか。
西洋の栄光には不幸にしてこの裏面がある。大きいだけでは真の偉大ではない。ぜいをつくした生活がすなわち文化であるとはいえない。いわゆる近代文明を構成する個人は、機械的慣習の奴隷となり、自らがつくりだした怪物に容赦なく追いつかわれている。西洋は自由を誇っているが、しかし富をえようと競って真の個性はそこなわれ、幸福と満足はたえずつのっていく渇望の犠牲にされている。西洋はまた中世の迷信から解放されたことを誇っているが、富の偶像崇拝にかわっただけのことではないか。現代の、きらびやかな装いのかげにかくされている苦悩と、不満はどうなるのか。社会主義の声は西洋経済の苦悶の声にほかならない。」さらにいう。

戦争はいつ根絶されるか
「いつの日に戦争はなくなるのであろうか。西洋では国際道徳は、個人道徳の到達したところにくらべてはるかに低いところにとどまっている。侵略国は良心をもたず、弱小民族迫害のために騎士道はすてて省みられない。自らを守る勇気と力のない者は奴隷になるよりほかない。悲しいことに我々が真にたのむことのできる友は、いまなお剣である。ヨーロッパが見せるこの奇妙な組合わせ……病院と魚雷、キリスト教宣教師と帝国主義、膨大な軍備と平和の維持……これらは何を意味しているのか。このような矛盾は東洋の古代文明には存在しなかった」
このような西洋諸国の否定面に対する指摘は『東洋のめざめ』『東洋の理想』に書いたものより鋭い。西洋諸国のインチキ性、ごまかしをこれほど正確に指摘したものはあるまい。文字通り、彼らの唱える自由と進歩も、みんな自分の行動を合理化するものでしかない。自由と進歩のあったことも事実だが、それは彼らの残忍さと私利私欲をかくすものでしかなかった。
日本はさいわいに歴史精神にめざめることによって西洋の毒牙からまぬかれ、その独立と自由をたもつことができた。天心が、日本が独立と自由を守りえたのは、歴史的精神の発露であったという指摘はなかなか鋭い。ましてこの歴史的精神を培ったものこそインド文明であり、中国文明であったのである。インド文明と中国文明に育てられることがなかったら、この歴史的精神も発揮しようがなかったものである。そうとすれば、日本はインド、中国と一緒になって、その独立と自由を勝ちとったといっても過言ではない。日本の独立と自由は、日本人だけで勝ちとったものでなく、インドと中国と日本の三者で勝ちとったものである。そのすばらしさは、日本人だけが独占すべきものでなく、インド人も中国人も、ともに共有すべきものである。

アジアに侵略の思想はない
しかし、それほどのインドや中国が、西洋諸国になぜ蹂躙されたのであろうか。天心はそれを分析して「もともと平和的で自足的な性格の東洋文明は、外からの侵略にたいしては常に弱かった。我々はモンゴルがアジアの統一を破壊するのを許したばかりか、インド、中国の文明を彼らの抑圧にまかせた。北京とデリーの王座にすわったジンギス汗の後裔たちは、彼らが征服した国に、伝統に反する専制制度をおしつけた。征服者と被征服者の心は通じあわず、外国語が公用語として強制され、被征服民族は行政の重要な地位につくことを許されず、民族の理念や信仰はまっこうから衝突した。こうしたことがインド人と中国人のうえに、いまだ癒えることのない衝撃と苦痛をきざみつけた。生きのこることを許された学問は、蛮族の庇護に甘んじた御用学者の専有物となった。民族本来の知的活力は野にこだまする絶望の声か、市井のなかにひびく荒々しい笑いのなかに、わずかにこれを認められるにすぎなくなった。学芸は以来まったく因習的なものか、あるいは怪異奇形のものとなり果てた」と書いている。モンゴルの征服はアジアを寸断し、ふたたび統一させなかったのである。
そればかりでなく、天心が「儒教は中国の農耕文化の縮図であり、本質的に自足的、非侵略的である。孔子の教えがうけつがれた広大な平野は肥沃であって、自然の境界をこえる必要がなかった。聖賢の教えは土を愛することと、労働を神聖視することを合わせて説いた。孔子とその系譜につながる人びとは温順と融和という家庭的な徳を説いた。のちに仏教が伝わって自足自制の根本思想をさらに強化した」と書くように、インドも中国も、本来他国を侵略するのにむいていなかったのである。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

日本よ、アジアの心にかえれ
いまこそ、この平和的で調和的なことを目標とする東洋文明の伝統を声高らかに叫び、復興するばかりでなく、西洋諸国民に反省をうながすときであるというのが天心の考えである。
日本における明治維新も文字通り、復古であり、伝統にかえり、伝統を発展させることにあった。東洋文明を再認識し、再確認し、それをいまに生かすことであった。だから、天心のなかでは日清戦争は朝鮮の独立と平和のために、日露戦争は日本、朝鮮、中国の独立と平和のために戦われたのである。天心が「我々は祖国のためにのみ戦ったのではない。維新の理想のため、高貴な古典文化のため、全アジアの輝かしい再生を夢みた平和と融和の理想のために戦ったのである」というとき、天心自身はあきらかにそう思っていたにちがいない。
だが、維新達成後の日本の指導者は、西洋諸国のみあることを知って、東洋を、東洋の伝統を忘れて西洋に追随した。日清戦争も日露戦争も天心のいう一面をもっていたにしても、より多く西洋諸国の侵略をまねして起こした戦争であった。そこにはより多く、日本の利益が求められていたのである。日清戦争、日露戦争は日本が西洋諸国のまねをした、最初の具体的行動である。そこに天心の弁解ともとれる自己合理化があった。
しかし、天心自身、日本政府から放りだされ、国をあげて、西洋化の道を歩み、東洋の伝統をふりすてている日本を知らないわけはない。彼の苦しい弁明は、当時の風潮のなかでやむなく生まれたものであり、日本の進路が誤っていることを祈りににた気持ちで書いたものと思われる。明治以後から今日までの日本の歩みを、彼の美と宗教の信条からも肯定できるわけがない。
西洋諸国を否定するよりも、もっと強く日本の歩みを否定したと思われる。それを読みとらない以上、天心の苦痛はわからないし、彼の雄叫びも死んだままである。
天心が『日本のめざめ』の結びで「侵略は王政復古の理想でもなく、維新の目的でもなかった。……ヨーロッパは我々に戦争を教えた。我々はいつ平和の恵みを学ぶのであろうか」といった言葉は、もう一度考えなおしてみるときにきている。「我々はいつ平和の恵みを学ぶか」というところは、厳密には「彼ら」となっている。しかし、我々も彼らのなかに入っている。我々についての反省のないところで、ヨーロッパ人をいくら責めても無意味である。平和の伝統を忘れている我々こそ最大の責任があるのではないか。
自分を責め、自分の使命にめざめることを書いたのが本書ということになれば、いよいよ我々ということになるし、西洋にむいた目が、東洋にむくのはいつの日かということになる。異邦人の目であるかぎり、東洋に目をむけたということにはならない。

茶道の思想
『茶の本』で天心がいおうとしたことは、なんであったのであろうか。先に私は、天心は美と宗教について、それは日常美であり、生活美であるという考えをもっていたと書いた。我々の政治生活、経済生活、社会生活は美と宗教につらぬかれていなくてはならない。美と宗教に支配されたものでないと、人間の政治生活、経済生活、社会生活はできないということである。それが天心に対する拡大解釈でないことを、後述するといったが、この茶の本こそ、天心のこのような考えをもっともよく示したものである。
天心はまず、「茶道は日常生活の俗事のなかにあって、美を崇拝するための一種の儀式である。それは純潔、調和、相互愛の神秘、社会秩序のロマンティシズムを人の心に植えつける。茶道の本質は不完全なものを崇拝することにある。いわゆる人生という複雑ないとなみのなかにあって、せめて可能なものを成就しようとする、優しい試みなのである。茶の原理は普通いわれている意味での、たんなる審美主義ではない。というのは、茶道は倫理や宗教とともに、人間と自然についての我々の一切の見解をそこに表現しているからである」と述べて、茶道の目的とするところは日常美、生活美であり、宗教そのものであると明言する。そればかりでなく、芸術のなかの美だけが美そのものでないとも極言するのである。これほど、天心の美と宗教についての、一般的見解と異なるものを打出しているものはない。真の美と宗教を創造することによって、この世界を革命せんとした天心ほど、偉大な革命児はいないと断言してもいい。
しかも、天心はその日常美、生活美を生きることが真の美であり、真の宗教なのだということをつぎのようにいう。
「彼ら(西洋人)は日本が平和な文芸にふけっていたころは、野蛮国と見做していた。しかし日本が満州の戦場に、大殺戮行動をおこしてからは文明国と呼んでいる。……茶道は、我々の生の術を多く語っているにもかかわらず、ほとんど関心が払われていない。もし文明がおそろしい戦争の栄誉に依拠しなければならないというのなら、我々はあまんじて野蛮人としてとどまるだろう。我々の芸術と思想に対して、しかるべき尊敬が払われるそのときまで、じっと待っている」
要するに、西洋人の文明観は誤っていたともいうのである。それがいまなお気づかれないままに今日に至っている。今日アジアを後進国といい開発途上国というのも、その狂った文明観の上にたって、西洋人の発想を、なんの疑いもなく世界の人びとが使っているからにすぎない。天心が生きていたら笑うにちがいない。
天心はたんなる形式美と、観念美でなく、生き方としての美、行動美でなくてならないということを、さらに、「茶は我々にとっては、飲み方の形式を理想化する以上のものであった。それは生きる術についての一種の宗教である。茶は純潔と風雅の崇拝のための口実……主客が一体となって、そのさい俗世から無上の幸福を生みだそうとする神聖な儀式……にまで高められた。茶室は寂寞たる人生の荒野にむけるオアシスであった。……茶室の調子を乱す一点の色もなく、もののリズムをそこねるそよとの音もなく、調和を破る一指の動きもなく、周囲の統一をこわす一語とてなく、動作はすべて単純に、自然に行われることが茶の本旨である」といっている。
また、「美とともに生きた者のみが美しい往生をとげる」ともいっている。天心の真の美と真の宗教にかける期待が、いかに大きかったか。それこそ、彼は美そのものに、宗教そのものに憧れ、なりたかったのであろう。
美を、茶道を、芸術を自分の生き方とするためには、つぎのようなことに心がけなくてならないと天心はいう。すなわち、「芸術家に必要な精神的共鳴は互譲の精神にもとづかねばならない。芸術家が伝達の方法を知っていなければならないように、観客はその伝言を受け入れるための態勢をととのえておかねばならない。……傑作を理解するためには、そのまえに身をひくくして息を殺し、片言隻句も聞きのがすまいと待ちうけねばならない」
「芸術の面においても同様に、うぬぼれは芸術家、大衆いずれの側たるとをとわず、共感にとって致命的である。芸術において同質の精神が結合することほど神聖なものはない。出会いの瞬間に芸術愛好家は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない」
「芸術の価値はあくまで我々に訴えかける力の程度によるということである。もし我々自身の共感が普遍的なものであるならば、その芸術は一つの普遍的言語であろう。我々の限定された性質、伝統と因襲の力は、先祖伝来の本性はもちろん、芸術的鑑賞能力の範囲を限定する。そして我々の審美的個性は、自己の類似性を過去の創作のなかに見いだそうとする。……しかし、結局のところ、我々は宇宙のなかに自己の姿をみるにすぎない」

美と宗教の道
「茶人の考えによれば、芸術を真に鑑賞することは、芸術から生きた感化をうける人にとってのみ可能であるという。そこで彼らは茶室でえた風雅の高い水準で、日常生活を律してゆこうとつとめる」というのである。
こうして、はじめて、実験としての芸術美は自分のものとなり、茶道美そのものも、自分の日常生活に生きてくるようになる。日常生活のなかに生きてこないような美は、まだ美の入口にあるものでしかない。同じように政治生活、経済生活、社会生活を支配できないような宗教は、いまだ真の宗教とはいえない。だが、現実には、いかに多くの偽宗教が宗教として存在していることか。ヴィヴェカーナンダが偽宗教家よりも無神論者の方を高く評価したのもそのためである。美と宗教が危機にひんしているのは、現代がもっともひどい。公害がはびこるのも美と宗教がないためである。
だから、天心は「東西大陸が互いに警句をなげあうことをやめにして、各半球の相互利益によって、より賢明にならずとももっと真剣になろうではないか。我々の両者は互いに異なった線に治って発展してきたのであるが、相互に補いあうことが必要ではなかろうか。諸君は進展したが、心の安定を失った。我々は侵略には無力ではあるが、一つの調和を創造した。諸君は信ずるであろうか。東洋はある点では西洋よりもまさっているということを」と、警告する。彼の警告はさらに、「今日の産業主義は、世界中いたるところで真の風雅をしのぶことを、ますます困難ならしめている。今日ほど茶室を必要としているときはあるまい」とつづく。
茶道がいかに平和的で日常的なものかは、ここにあらためて説く必要はあるまい。要するに茶道そのもののの偉大さを、ここで再認識しようとしたのである。それは秀吉の生き方を否定し、利休の生き方を賛美することによっておこなわれた。
茶道は偉大である。だが、美と宗教を離れ、形骸化した茶道がいかに多いことか。茶道の姿を、本来の茶道にかえすことが重要である。茶人にして、あるいは茶をやる人で、天心の『茶の本』を知り、読んだ人はあまりに少ない。たとえ読んだとしても、そのこころを、真に理解する人は、あまりにも少ない。茶道の精神が生きてこないのも無理はない。

「アジアは一つ」の思想的原点
「アジアは一つである」という言葉で、天心はいったいなにをいおうとしたのであろうか。アジアそのものが一つであるというのか、それとも、アジアにおけるなにかが一つであるというのか。これまで、アジアに対するものとして、常に西洋が想定され、その西洋に対してアジアは一つであるべきとか、西洋の侵略に対してアジアは一つになって抵抗すべきであるとか、アジアの愛と理想主義において一つになって西洋と戦うべきとかがいわれてきた。これに対し、判沢弘は「岡倉がアジアは一つというとき、それはヨーロッパが、歴史的にも文化的にも一つの共通の世界であるといわれているほどの意味においていわれているのではないことは、明らかであろう。そうではなくて、“西洋の栄光はアジアの屈辱”、つまり西欧社会の繁栄はアジアヘの侵略とその犠牲の上にきづかれたものであり、そのような被侵略という事実において、アジアは共通の悲劇的運命を共有しているのだということ、しかしながら、アジアの諸国、諸民族のそれぞれの文明の内包する、内在的価値の底探さと多彩さは、やがて近い将来において相互に接触し、融合し、統合されて、人類文明史上いまだ比類のない高次の文明を形成してゆくに相違ない……という意味での“アジアは一つである”なのであり、彼のアジア文明の可能性への期待であり、一種の悲願なのであろうと思われる」(アジアヘの夢)と語って、なかなか鋭いものを感じさせた。私が読んだ天心について書いたもののなかでは、もっとも鋭いものであった。だがこれとても私には不満である。
「アジアは一つである」と天心がいったとき、西洋に対して、アジアそのものが一つであるといったのでないし、西洋の侵略に対して一つになって抵抗せよと叫んだものでないことはもちろんである。アジアの美と理想主義を一つにして戦えといったのでもない。美と理想主義などアジアのどこにもない。アジア諸国の現実は、もっとも美と理想主義をふみにじっている。
天心がいわんとしたものは、西洋の侵略的な政治姿勢、経済姿勢のみでなく、自然をも征服して、ただ無限に富だけを追うのを否定し、アジア文化圏の平和的、自足的、調和的なものを追う伝統を再建し、アジアのみでなく、西洋諸国をめざめさせなくてはならないといったものである。
平和的、伝統的、調和的なものを求める伝統はあるにしても、それはどこにもない。それどころか数世紀以上にわたって、アジアはョーロッパを政治的、経済的に侵略し、暴力のかぎりをつくした。いまその反省の上に立って、まずアジアがめざめ、しかる後、ヨーロッパがめざめなくてならない。そうでないかぎり、地球上には真の発展も、真の平和もこないというのである。
まったく新しい美と宗教、より高次の日常美、生活美を普遍化し、政治に支配された宗教でなく、政治を支配した宗教、それも政治、経済をつらぬき、包含するような宗教を創造しなくてならないと天心は考えたのである。
それを、タゴール、ヴィヴェカーナンダとともに創造しようとしたのである。彼はアジアは一つであるといいたかったのではなく、世界は一つといいたかったのであり、そのためにはまず日本がめざめ、東洋がめざめ、さらに西洋がめざめる以外にはなかったことをいいたかったのである。ヴィヴェカーナンダを書くことによって、ロマン・ローランはめざめつつあった西洋人の一人となったといえよう。
西洋文明のなれの果てが地球の危機、人類の危機をまねいている。今日の日本はあたかも西洋文明の尖兵のごとく、ふるまっている。実は東洋文明の尖兵として、東洋をめざめさせ、西洋をめざめさせなくてならない使命があるのに、明治以後一貫して、逆の道を歩んできた。
岡倉天心はそれをすでに明治時代に気づき、日本よめざめよ、東洋よめざめよ、世界中よめざめよ、との第一声をあげたのである。それは資本主義そのものの行きづまりから、共産主義を絶叫したカール・マルクスに決しておとるものではない。むしろ、それ以上である。というのは、天心は資本主義という近代化、西欧化の道でなく、ほかの道があるはずだと予言したからである。
その道がどんな道であるかは、もし、もう少し天心に生命があれば、あきらかになったかもしれない。あるいはだめだったかもしれない。
それはいずれであっても、要はアジア諸国が模索して進まなくてならないものである。今日アジア諸国民がみずから後進国とか開発途上国とかいっている以上、まだアジア諸国民の真のめざめはほど遠いというしかない。
ますます天心の存在は重くなってくる。ヴィヴェカーナンダとともに。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

3 幸徳秋水と燃えるアジア

岡倉天心と幸徳秋水
幸徳秋水が岡倉天心の「アジアは一つである」という主張をどのように発展させようとしたかはまったくあきらでない。しかし、天心の主張を間接的に継承し、西洋の資本主義という近代化の道を否定し、さらに資本主義のはてにたどりついた帝国主義の道をその全存在で拒否したことは事実である。その意味で天心の思想を継承したものとして、幸徳秋水をとりあげたい。
天心は真の美と宗教を強調し、そのような世界ができあがることを待望したし、西洋のただ自分たちの富のみを追求し、アジアの犠牲の上に富をつくっていこうとする態度をきびしく批難した。そして東洋文明の伝統のなかにこそ平和的で、自足的で、調和的なものがあることを声を大にして叫んだ。
これに対して、幸徳秋水は、資本主義の道を歩むかぎり侵略的になることはまぬかれないし、資本主義の発展のためには帝国主義の道をたどるしかないのだと、より現実的に、より具体的に西洋の道を攻撃したのである。その点では天心の思想をより具体的に発展させたといってもよい。
西洋の覇道にたいして、東洋の伝統であり、理想でもある王道を実現しようとしたのだといってもよい。王道とは民衆を第一とし、民衆を他のいかなるものよりも重いと考える思想である。東洋にはそのような伝統があり、理想があり、現実にその理想に一歩近づこうとした時代はあったが、ほとんどそれは実現されえなかった。王道の実現を念じて、覇道を倒す大義名分として昔から易姓革命の伝統もあったのである。覇道とは君あるのみを知って、民衆をただ君のために存在すると考えるだけでなく、他民族、他国民の存在をただ我のために存在すると考えるものである。インドも中国もその他アジア諸国もただそのためにいためつけられてきたのである。覇道が、今日の言葉でいえば資本主義であり、帝国主義である。

西洋覇道の全否定からの出発
では、幸徳秋水はどのようにして資本主義、帝国主義をその全存在で拒否するようになったのであろうか。
秋水がはじめて社会主義の思想にふれたのは、明治三十年(1897)かれが二十八歳のときであり、シェッフレの『社会主義真髄』の英訳本を読んだときであった。社会主義こそ、西洋諸国の侵略主義、資本主義をのりこえようとして、そのなかから生まれた思想であり、主義である。またそれなりに、東洋の伝統である平和主義、自足主義、調和主義などを生かしうる思想であり、主義である。
明治三十年(1897)四月、「社会問題研究会」が発足し、秋水も発起人の一人である石川安次郎の紹介で一会員となる。その会には、中江兆民の友人である小島竜太郎や片山潜がいたが、これということもなく、たんにいろいろの人びとを集めたものにすぎなかった。
秋水は中央新聞の記者として参加したが、まもなく中央新聞は伊藤博文に買収されて御用新聞となってしまった。かれはそこにとどまることをいさぎよしとせず退社にふみきった。中江兆民はそのことを聞いて、秋水の短慮を「何分此の社会は衣食という必要条件これあり、幾分の志を曲ぐることはやむを得ず」と書いていましめているが、すでにこの頃の秋水は自分の思想を全存在をかけて生きる人間として成長しており、全存在で生きようとしない思想は自分のものでないという考えをもっていた。すなわち、思想はたんなるおしゃべりでなく、死にものぐるいで実践しなくてはならないものと考えていたから、兆民の忠告を無視して退社してしまったのである。
ここに彼の真面目がある。

社会主義への傾斜
中央新聞をやめた秋水は明治三十一年(1898)二月、『万朝報』にはいる。そこには内村鑑三、堺枯川などがいた。そして秋水は『万朝報』の論説に「社会腐敗の原因及びその救治」と題して、「今日の社会は実に生産力が発達し富の増加するにも拘らず、貧困窮乏亦随って増加するという極めて不正不道理の社会なり、是れ一に現存の制度組織が資本家に向って莫大の保護を加へて、しかも富の一部を集積するを制限することなきが故に貧富の懸隔をして益々大ならしむればなり。」と書いている。
これにたいして、片山潜が早速はがきを秋水におくり、「社会主義研究会」に参加を呼びかけている。秋水がそれに応じたことはいうまでもない。明治三十二年(1899)六月の「社会主義研究会」の例会で「現今の政治社会と社会主義」と題して、秋水は話をし、「主義も理想もない野武士の集まりである現在の政治家」と、鋭く時の政治家を攻撃している。
天心の言葉をかりていえば美と宗教のない政治、現実にただ流されている政治に、全身をとっぷりとつけている政治家ということになろう。あるいは王道を捨てて覇道に生きている政治家ということになろう。
秋水はさらに言葉をついで「社会主義こそ唯一無上の主義である。今日政界の腐敗堕落が資本家の跋扈、平等の破壊、社会的公僕の欠乏より来れりとすれば、真に平等博愛の精神による社会主義をおいて他にない」と強調する。こう表現することで、秋水は社会主義にしだいに近づいていく。
しかも、その社会主義運動を抑圧するために生まれた「治安警察法」の中でいよいよ秋水は社会主義が正しいことを確信してゆく。政府と資本家の癒着ということが真なればこそ、社会主義運動を政府が弾圧する態度にでる。かつて、美と宗教の支配する国は現実のどこにもなく、ただこれから作りあげるしかないというのが天心の立場であったが、秋水もまた社会主義国家をこれから作りあげる以外になかった。それはたんに社会主義体制を標榜する国家でなく、国民一人一人が社会主義者であるような国家であった。一人一人が真に社会主義者となるということ、一人一人が社会主義的生き方をするということは非常にむづかしい。だが、なんとしてもそれをやりとげなくてはならない。

我は社会主義者なり
その最初の実践が、秋水の「自由党を祭る文」である。そこでかれは次のようにいう。
「鳴呼自由党は死せり。而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ。……想うに二十余年前、専制抑圧の惨毒滔々四海に横流し、維新の宏謨は正に大頓座を来すの時に方って祖宗在天の霊は赫として汝自由党を大地に下して其の呱々の声をあげ、其の円々の光を放たしめたりき。而して汝の父母は実に我乾坤に磅磚せる自由平等の正気なりき。実に世界をしんとうせる文明進歩の大潮流なりき。是を以て、汝自由党が自由平等のために戦い、文明進渉のため斗うや義を見て進み正を踏んで懼れず、千挫屈せず百折挫まず、凛乎たる意気精神真に秋霜烈日の慨ありき。而して今安くに在るや」と。
これを書いた秋水の筆は秋霜烈日ように厳しく、社会主義への確信にみちている。資本主義、帝国主義を社会主義にしなくてはおかないという厳しさにみちている。それに恐怖した政府によって、秋水自身が抹殺されることになるのであるが、それは後のこととして、その精神から、「我は社会主義者なり」という論文が生まれるのである。
「近世社会主義は実に此のような制度組織を根本的に改造せんとして生れてきたのである。……故に再び断言す。天下公衆に向って公々然として“我は社会主義者なり、社会党なり”と、宣言するの真摯と熱誠と勇気とある人にあらざれば未だ労働問題の前途を托するに足らざるなり」と幸徳秋水は書く。
我そのものが社会主義者であるという発言は我という全存在が社会主義であり、我の全生活が社会主義的であり、全情熱をあげて社会主義を生きるということである。今日おうおうにして頭だけ社会主義でも、体では社会主義を実行しない者、たんに社会主義の知識を持っていても、人間そのものは社会主義と遊離している者が多いとき、この秋水の言葉のもつ意味は大きい。
このあと、社会民主党の結成届を出したが禁止になり、日本平民党の名で届出したがこれも禁止になり、やむなく教育を主とする社会主義協会を発足させている。以上が秋水の社会主義接近の概略である。

愛国心とは憎悪のことである
幸徳秋水の『二十世紀怪物帝国主義』はレーニンの『帝国主義論』にさきだつこと十五年であった。しかも、彼は「所謂愛国心は即ち外国人の討伐を以て栄誉とする好戦の心なり。好戦の心は即ち動物的天性なり。しかして此の動物的天性や好戦的愛国心なり。是れ実に釈迦、基督の排する所、文明の理想、目的と相いれざる所にあらずや」と文明論、人間の本質論から説きおこして、世界各国がみなそれを賛美し、崇拝し、奉持している現状、日本もその例外でないことを心底から否定する。それを進歩といい、発展というに至って少しも反省のないのがにがにがしくてたまらない。全存在で徹底的に憎んだからこそ、帝国主義の信徒である日本政府によって抹殺されたのである。帝国主義とともには生きられないと確信した彼は抹殺されたことによって、かえってその思想信条に忠実であったということができる。その憎みようの激しさはそれほどまでに徹底していたのである。日本政府から放逐された天心といい、日本政府から抹殺された秋水といい、真の思想家であり、生きる達人はかくあらねばならないと思う。
それはともかく秋水が『二十世紀怪物帝国主義』の中でいおうとしたものはなんであろうか。彼はまず、西洋諸国の代表ともいえるイギリスをとりあげてその愛国心なるものを批判して「しかれども思へ、此の時英国民をあげて、その胸中何の理想ありや。何の道義あるか。何の同情あるか。彼英国民をあげて、狂せる英国民をあげて、有る所のものはただ仏国に対する憎悪のみ。ただ革命に対する憎悪のみ。いやしくも一毫革命的精神、もしくは仏人の理想に関連するの思想あらんか。彼らはただに之を嫌忌するのみならず、競うて之を侮辱せるにあらずや。ただに之を侮辱するのみならず、群起して之を攻撃し、之が処罰に全力を注げるにあらずや。」という。この時というのが英仏戦争の時であることはいうまでもないが、愛国心とはおしなべてこういうものである。たとえ自衛のための戦争であっても、愛国心としてかきたてるものはこのようなものである。われわれは悲しいことに真理や道義のために起ちあがれ、死ねということはほとんど聞いたことがない。そのような歴史があったことを知らない。

帝国主義の非義不正
秋水は一転して、イギリスを代表とする西洋諸国が、お互いに共倒れするのをおそれて戦わず、その武力をアジア、アフリカにもちいようとしていることを指摘する。その武力はただたんに虚栄の心であり、好戦の心であり、野獣的天性に支えられ、教練によってますます煽揚されたものだという。
しかも、「外国に対する愛国主義の最高潮は内治における罪悪の最高潮だ」ともいうのである。まさしく国内政治におけるごまかし、不正、矛盾から国民の目を他国にそらしたものである。英仏戦争の後、西洋諸国の代表イギリスがアジア、アフリカをいかに残酷に蹂躙したかを「土人の惨状にいたってはとくにあわれむべし。彼らが英人のために虜囚となって既にセントヘレナに竄せられる者六千人。セーロン島に流さるる者二千四百人、今やキツチエネル将軍は更に一万二千人を印度に送らんとす。而して両共和国の壮丁は殆んどつき、田園は全く荒廃し、兵馬すぐる所野に青草なしという。鳴呼果して彼ら何のとがあるか。何の責あるか」といい、さらに、「彼少数の軍人、政治家、資本家はあわれむべき国民多数の生産を妨害し、その財貨を消滅し、その生命をすら奪うて大帝国の建設を試みつつあるなり。多数の自国国民の進歩と幸福をぎせいとして、彼の貧弱なるアジア人、アフリカ人を脅赫凌虐つつあるなり。而して名づけて国民の膨脹という。妄も又甚しというべきなり。仮に此の政策に国民の多数がくみせりとするも豈に是れ真個の膨脹ならんや。ただ彼らが野獣的好戦心の巧みに煽起せられたるが為のみ、愛国的虚栄と迷信と狂熱との一時の発揮にすぎざるのみ」と断言する。
秋水の、西洋諸国の侵略を断罪する姿勢は少しも天心に劣るものでない。むしろ、帝国主義の名において、これを責め、批難することはさらに徹底しているといってよい。
秋水の言葉はここにおいて、秋霜烈日よりもきびしい。「かくの如くしてなお今の帝国主義は非義不正ならずというか。暴横害毒ならずというか。高尚なる道義を有する国民のいるべき所なるか。二十世紀文明の天地にいるべき所なるか」という彼の言葉は西洋諸国の道の全否定である。帝国主義の道を歩んでいる西洋諸国の全否定である。
「故に我は断ず。帝国主義なる政策は少数の欲望のために多数の福利を奪う者なり。野蛮的感情のために科学的進歩を沮礙する者なり。人類の自由平等をせんめつし、社会の正義道徳をショウ賊し、世界の文明を破壊する元凶なり」ともいう。たとえ、これと並行して、帝国主義の歩みを糊塗するような学問の発展とか、芸術の進歩とか、自由の進展とか、さらに平和の実現への営みとかいうものがあっても、すべて帝国主義を美化し、合理化するために存在するということである。帝国主義への道を変えないかぎりは一切は虚偽であり、虚像である。秋水はそれほどに徹底して西洋諸国の進歩という名の帝国主義の道を拒否したのである。平和条約という名の下におこなっている動きもうそだというのであり、道徳、倫理というものは言葉や知識としてのみ存在するものではないというのである。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

西洋的秋水とアジア的天心の一致
そこから、秋水の結論がでてくる。「鳴呼二十世紀の新天地吾人は如何にして之が経営を完くせんか。吾人は世界の平和を欲す。而して帝国主義は之を撹乱するなり。吾人は道徳の隆興を欲す。而して帝国主義は之を残害するなり。吾人は自由と平等を欲す。而して帝国主義は之を破壊するなり。吾人は生産分配の公平を欲す。而して帝国主義は之が不公を激成するなり。文明の危険実に之より大なるなし。……フレデリック・ハリソンは日く将来政治上の危険は欧州列国が過甚の軍隊、兵艦及び軍資を蓄積するに在り。その結果は即ち彼らの統治者及び人民を誘うて主としてアジア、アフリカの野にその覇権を争わしめんとすればなり」と。
秋水の帝国主義論は天心の侵略主義をより現実的にし、より具体化したものである。帝国主義というも侵略主義というも、その意味する所は同じであり、愛国心という動物的天性というのも、美と宗教のない政治的、経済的侵略というのも同じである。だから、秋水の理想も天心の理想もせんじつめると同じということになる。
ただ天心の理想は東洋の伝統思想を自覚する所から生れたのにたいして、秋水のそれは西洋の帝国主義を反省した所に生れた西洋人の思想である。天心は世界の平和と自足と調和は日本人のめざめ、アジア人のめざめ、西洋人のめざめからはじまるといったが、その意味では日本人よりも、アジア人よりも、西洋人のめざめの方が早かったのかもしれない。それだけ西洋諸国家よりうけた被害が西洋人にとって大きく、それだけに自覚的にうけとめたといえる。
アジア人よりも、アフリカ人よりも、より自覚的であった所に西洋人の救いがあったのかもしれない。

日露戦争
秋水は日露戦争にたいして終始反対の態度をとりつづけた。日清戦争のときは文筆をとりはじめたばかりであったが、当時はまだ戦争というものにたいして明確な認識をもっていなかった。しかし、一度戦争というものにたいし、明確な認識をもっと、断々乎として進んで退くことがなかった。文字通り、彼にとって知るということは行うことであって、たんなる観念的知識をもつものとはまっく違っていた。そればかりか、障害や困難にぶつかれば、いよいよ戦争否認の声を高め、姿勢を強くするだけのものであった。その障害や困難が彼の志をとぎすましていったといっていい。まさに大丈夫の志である。
秋水はようやく、日露戦うべしの声が高まった明治三十六年(1903)頃より、非戦論を展開し、戦争に反対してきたが、ついには非戦論を唱える新聞は彼の勤める『万朝報』一紙となる始末であった。だが、それも長く続かず十月には堺枯川、内村鑑三らとともにそこを退職する以外にはなくなるのである。彼らの去った『万朝報』が開戦論を展開したのはいうまでもない。秋水は堺枯川と一緒に『平民新聞』をはじめ、非戦論をつづいて展開した。
これよりさき、『万朝報』時代の秋水は日清戦争そのものにふれて、「日清戦争は仁義の師だとか、膺懲の軍だとか、余程立派な名義であった。しかも是がために我が国民は如何程の利益恩沢に浴したのであるか。数千の無邪気なる百姓の子、労働者の子は命を鋒鏑に落して、多くの子を失うの父母、夫を失うの妻を生じて、而してアマし得たり。伊藤博文の大勲位侯爵、陸海将校の腐敗。御用商人の暴富である。ひとり是のみとどまらぬ。ついで来るものは所謂戦後の経営、租税の増加、投機熱の勃興、人心の堕落、道徳の頽廃、国民多数の大困難ではないか。日清戦争にして猶且つ然り」といい、これから起ろうとしている日露戦争に断乎として反対の声をあげている。

非戦論の訴えと革命の志
日清戦争当時、まだ二十五歳そこそこの青年であった秋水はそれを思いだすだけでも断腸の思いであった。数千の子どもが父を失い、妻が夫を失うの悲劇、それに反して伊藤博文とそれに連なる人びとが栄誉に輝やく戦争。秋水は清国にはふれていないが、同じように数千それ以上の子どもが父を失い、また妻が夫をなくして非常に苦しんだのである。国民道徳の頽廃にいたっては戦勝国も敗戦国もかわらない。
これが西洋諸国が進歩の名の下に歩んできた帝国主義の道であり、侵略の道であった。失うものがあまりにも大きく、得るものが少いのが戦争というものである。そこから徹底的な搾取が生まれるのである。
その西洋の道を日本が歩みだした結果が、日清戦争であったし、いま起ころうとしている日露戦争である。秋水が全力をあげて反対しようとしたのも当然であった。だが当時の日本国民のほとんどは日本政府とそれに連る学者たちにだまされて、日露戦うべしとうそぶいていた。秋水の情熱がいよいよたかまったのはいうまでもない。
秋水はまず戦争そのものに反対して論陣をはる。日露戦争開始前のことである。
「真理のために、正義のために、天下万生の利福のために戦争防止を絶叫すべきの時はきたれり。それ人類博愛の道をつくさしめんがために人種の区別、政体の異同をとわず世界をあげて軍備を撤去し、戦争を禁絶するの急務なるは平民新聞の創刊の日吾人既に宣言せり。……吾人はあくまで戦争を否認す。之を道徳にみて恐るべきの罪悪なり。之を政治にみて恐るべきの害毒なり。之を経済にみて恐るべきの損失なり。社会の正義は之がために破壊され、万民の利福は之がために蹂躙せらる。吾人はあくまで戦争を否認し、之が防止を絶叫せざるべからず。……戦争一度破裂する、その結果の勝と敗とにかかわらず、ついで来るものは必ず無限の苦痛と悔恨ならん。真理、正義のために、天下万生のために半夜汝の良心に問え」(吾人はあくまで戦争を否認する)と。さらに次のようにもいう。
「それ戦争の起る、たとい巳むを得ずとするも既にその罪悪たるを知らば、吾人はあくまで之に反対し、之が防止に尽力すべきにあらずや。……予は直に聖人君子たる能わざる故に、罪悪を行うも可なりといわば、是れ自暴自棄の甚しきもの、断じて之を許すべからず」(戦争と道徳)と。
だが、秋水の論陣は開戦前のみでなく、戦争中も同じように苛烈であった。
「彼の満州の野における数十万の兵士及び家族が現に受けつつある無限の疾苦悲痛の惨状に比し来れは吾人に対する紛々たる憎悪、嘲罵、攻撃、迫害の如きは寧ろ一発のへのみ」(非戦論をやめず)とか、「非戦論の趣旨、目的は極めて簡単なり。曰く、速に現戦局を了して平和を克服せしめんと欲す。曰く、一般戦争の起因たる経済的競争の制度を変革して、将来の戦争を防遏せんとす」(非戦論の目的)というふうであった。

敵国の兵士も人の子なり
一方、秋水は筆を転じて兵士、子ども、婦人にも訴えた。「めざめよ、兵士、子ども、婦人」というのである。かれのいうところに耳を傾けてみよう、まず兵士にたいしては、「諸君今や人を殺さんがために行く。しからざれば即ち人に殺されんがために行く。……諸君は思想の自由を有せざるなり、体躯の自由を有せざるなり。諸君の行くは諸君の罪にあらざるなり。英霊なる人生を強て自動機械となせる現時の社会制度の罪なり。……ああ従軍の兵士、諸君の田畑は荒れん、諸君の業務は廃せられん。諸君の老親は独り門に倚り、諸君の妻児は空しく飢に泣く。而して諸君の生還は元より期すべからざるなり。而も諸君はゆかざるべからず。行て諸君の職分とする所をつくせ。一個の機械となって動け。しかれども露国の兵士も人の子なり、人の夫なり、人の父なり、諸君の同胞なる人類なり。之を思うて慎んで彼らに対して残暴の行あることなかれ。……吾人のなし得る所は唯諸君の子孫をして再び此の惨事に会するなからしめんがために、今の悪制度廃止に尽力せんのみ。諸君が朔北の野に奮進するが如く吾人も悪制度廃止の戦場にむかって奮進せん」(兵士を送る)といい、子供にたいしては、「おそるべきや。各地の小学校は少年少女の智徳の練磨、性情の陶冶の場にあらずして殆ど一種の狂熱煽揚の具とならんとす。見よ今や小学の児童が日々口にする所は征露の軍歌なり。みる所は陸海軍の図画なり。行う所はもぎの戦争なり。而して只管戦争を謳歌し、戦争を尊重し、戦争に随喜して狂するが如し。甚しきは独り遊戯において此をなすのみならず、実際に金銭を政府にけんじて以て報国の志を致すと云う者頻々たるに至る。教師は之を賞し、父兄は之を喜ぶ。……それ彼等少年少女いづくんぞ政府国家の何ものたるを知らんや。戦争の何ものたり、共の原因、影響、結果のなにものたるを知らんや。既になにものたるを知らず。安んぞ謳歌し、貴重するを得んや」(戦争と小学児童)といい、婦人にたいしては、「余は今日我が国婦人の地位の低きを以て、直にこの戦争に起因するものと断ずるなり。もし昔時において戦争というものがなかったならば、婦人の地位はかほどまでに低くなって居らぬ筈。即ち知る。戦争は婦人一つの幸福をも運ばなかった。戦争は婦人にとって悪むべき不利益をかもさせた。此において余は再び問題を提起する。戦争そのものが出現する所の理由にいたってはしばらく論ぜず。只何故にその戦争の結果が一般の婦人を圧迫して今日の如き低き地位に屈従せしむるにいたったか」(婦人と戦争)といったのである。

新聞を斬る
さらに、秋水の筆は世論を形成する上で重要な役割りを果たしている新聞そのものに深くきりこんでいく。
「今の新聞紙をみよ。彼ら果して所謂社会の木鐸たり、所謂公益のためにするの言説あるか。戦争開始以来彼らは単に戦争を謳歌し、露国を嘲罵し、軍人に阿諛し、献金を煽動するの外何事を為せりや。彼らは戦争に関する事実を記すという一事の外は殆んど其の本領を喪失せるにあらずや。彼らはもはや一個の新聞紙にあらずして、一部の日露戦争記、征露戦報と化せるにあらずや。軍歌となれるにあらずや。陣鐘、陣太鼓となれるにあらずや。彼らも亦実に酔うて狂せるなり」(戦争と新聞紙)。
その言葉は鋭い。新聞がつねにその時代の権力の方向を宣伝することは昔も今も変わらない。太平洋戦争中の新聞にたいしていわれた言葉ではないかと疑わせるほどである。要するに、秋水の戦争否認の態度は一貫していたし、徹底していた。いくたびかの弾圧の中でもひるまなかったのが秋水である。牢獄に放りこまれて、やっと彼の言論活動は終止符をうつ。

幸徳秋水とレーニン
秋水の平和論がもっとも光彩を放つのは、戦争中に敵国ロシアの人民にたいして平和を目標としておたがいに立ちあがり、手を握ろうと訴えた時であろう。世界中どこの国にも平和を愛し、平和を求める人間はいるものだという彼の確信からでた言葉であろう。天心は人間にめざめ、真理にめざめた者の中から平和を求める人間が生まれるし、それは決してアジア人の独占物ではないが、アジア人の中にはその伝統があるゆえに西洋人よりそれだけめざめ易いのではないかといったまでである。それに、アジアは現に西洋諸国の侵略のために呻吟しているだけに、めざめる機会はより一層あるにちがいないと言っただけである。
秋水は露国社会党に「我等の同志よ、兄弟姉妹よ」とまえおきして、「諸君よ、今や日露両国の政府は各々その帝国的野望を達せんがために漫に兵火の端をひらけり。しかれども社会主義者の眼中には人種の別なく、地域の別なく、国籍の別なし。諸君と我等とは同志なり。兄弟なり。姉妹なり。断じて戦うの理あるなし。諸君の敵は日本人にあらず、実に今の所謂愛国主義なり、軍国主義なり。我らの敵は露国人にあらず、而して亦実に今の所謂愛国主義なり、軍国主義なり。しかり愛国主義と軍国主義とは諸君と我等の共通の敵なり。諸君と我等と全世界の社会主義者は此の共通の敵にむかって勇敢なる戦闘を成さざるべからず。而して今日はその最要時機にして亦実にその最好時機にあらずや。……ああ諸君と我等とは同志なり、兄弟なり、姉妹なり、断じて闘うべきの理由あるなし。諸君と我等の共通の敵なる悪魔は今やさかんにその兇焔を吐き毒手をのべて百万生民を凌辱す。……ああ諸君、諸君が暴虐の政府に苦しめられ、深刻なる偵吏におわれて、我が大主義のために刻苦するの時、三千里外、はるかに満腔の同情を以て諸君の健在と成功とを祈れる数千の同志、兄弟、姉妹あることを記せよ」と訴えている。
天心が「アジアの兄弟姉妹よ」といって、アジア人のめざめを呼びかけたように、秋水も天心と同じ思いに立って、露国社会党員に呼びかけたのである。平和を愛し、平和を求める人たちが手を握り、起ちあがる以外にないと。その時の秋水はただ、世界中の社会主義者を信じていたのである。秋水のいう社会主義者とは社会主義についての知識ある者でなくて、全存在をあげて社会主義に生きようとつとめる人間のことであった。戦争をおしすすめる政府の人たちと軍人と資本家は悪魔であったのである。
この秋水の呼びかけにたいして、レーニンはさっそく答えた。「日本、ロシア両国の好戦的叫声の間に、このような日本社会党の声をきくことは実に美しい理想社会からの使者の声をきいたようである。理想社会はいまはただ階級的自覚をもつプロレタリアートの心のなかに存在するだけだが、明日かならず実現できるものである。いつくるのかわからぬ。しかし、全世界の我等社会民主党はみな、その日の一日も早くきたらすために戦っているのだ」と。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

暴力革命の道
この戦争の時は、ついにこの声は実らなかったが、後になるほどそれは強くなっていく。幸徳秋水自身この当時は武力革命を一度も考えておらず、後にアメリカに移って、武力革命のやむをえないことを知り、みずからの武力革命の信念のために、デッチあげられて殺されることになるのであるが、武力革命がもし不可避であるとしても、武力革命はともすると革命そのものが手段であることを忘れていく可能性がある。武力によって革命をなしとげても、革命そのものは武力を肯定したことによって堕落していく可能性がある。それはソヴィエト革命後のソヴィエトの例、スターリン時代の実情が明白に物語っている。
秋水は、残忍きわまりない日本政府をみたとき、人民のたいへんな苦しみをみたとき、なにがなんでも政府を、資本家を倒さなくてならないと考えたのであろうが、それによって真の平和、自足、調和が訪れると考えたかどうかはわからない。やはり、天心のいう美と宗教が一人一人のものにならないかぎり、真の平和はこないと考えていたのかもしれない。

社会主義は人間を真に解放するか
たしかに、秋水が西洋諸国の侵略主義を資本主義、帝国主義においてとらえたことは、鋭かったと思うし、社会主義を実現する以外、侵略主義の終わりはやってこないとみたのは、一面の真理であろう。
しかし、社会主義国家がまったく非侵略的であるかというと、いささかの疑問が残る。かれらの行う国際外交が完全に平和的であるかというと疑問が残る。もちろんかれらには社会主義国家を拡大することによって平和を実現しようとする至上命令があるとしても、武力に訴える戦争というものが人間を堕落させるものだという反省が足りないように思う。武は戈をおさめるものであったにしろ、そのような武がおこなわれることは非常にむづかしいし、武の中で崩れてゆくのである。
それに、社会主義国家の指導者が完全に社会主義者になりきっているとはかぎらないし、野獣的本能を残しているかもしれない。そのことは比較的成功したといわれる中国革命で、最高の指導者であった者が誤りを冒したといって放逐されていることでもあきらかである。ソ連邦について言えば抹殺された後に名誉を回復した者は数限りない。
それこそ、たえず、社会主義者の位置からずりおちる危険性を人間だれでももっているということである。創造的社会主義者になることは本当にむずかしいのである。
秋水が、西洋のいまの侵略主義を資本主義、帝国主義においてとらえたことは天心より一歩前進したかにみえるが、見方によっては天心より後退したともいえる。ソ連邦が本当に社会主義国家ならハンガリー事件はおこらなかったはずである。その意味で社会主義者一般はなに事も社会主義、共産主義でかたがつくと単純に考える傾向がある。秋水にもそういう一面がないこともない。
それは、秋水が「日本が朝鮮、満州、シベリアを取れりと仮定せよ、此が福利をうくるは唯政治家、資本家の階級ならんのみ。何の地位なく些の資本なき多数の労働者は能く何事をなしうべきか」(社会党の戦争観)といったことにもよくあらわれている。もちろん経済制度を変革して富が政治家、資本家にかたよることを防ぐことは大事であり、それによって多くの悲劇はなくなろう。だからとて、秋水も言ったように、「戦争の原因を個人の堕落」(トルストイ翁の非戦論を評す)だとは私も考えない。
社会主義社会になったからといって、秋水のいう人間の野獣的本性は解決されるものでないし、人間の野獣的欲望は充足されるものでもない。人間のなまの感情をそれこそつねに社会主義的に陶冶し、育成させていくことが大切である。だが、必ずしも、社会主義国の教育はうまくいっていないのが現状であり、実情である。
いまの段階は資本家階級に富が独占されているためにかれらのように労働者階級は野獣的本性のままに生き、それを十分に満足させることを阻まれているが、日常生活の中では、多くの野獣的本性を野放しに生きている。社会主義者になるということはこの野獣的本性を社会主義に統御するということである。だが、それは非常にむずかしいことである。にもかかわらず、秋水にはその配慮がまったくない。革命を性急に求めすぎた結果であろう。
今日、社会主義を信奉し、共産主義者を自認している人たちの中に、この野獣的本性を野ばなしに生きている人が非常に多いが、それは社会主義的人間、共産主義的人間とはどういうものか、社会主義者、共産主義者になるということはどういうことかが、十分に明らかになっていないためである。それと同時にややもすれば、社会の常識のままに、美と宗教を排除しているためである。真の美と宗教にはたんに観念論だとかたづけてしまえないものがある。それは観念論、唯物論以上のものである。
天心のいう真の美と宗教によって人間の霊性が発現され、人間の全理性が統一され、支配されたときこそ、はじめて真の平和が実現されるときである。資本主義といい、社会主義というのは人間の理性の段階である。その段階での平和は侵略的平和を求めるだけに終わる。そこに、西洋的平和の限界がある。

革命のあと、得られるものはなにか
西洋諸国の侵略主義を資本主義、帝国主義においてとらえ、その侵略主義をやめさせるには、社会主義になるしかないと考えた秋水は、なにがなんでも日本を革命し、社会主義社会にすることであるという結論をだした。それが明治維新の理想であると考えたかどうかは不明であるが、西洋諸国にならって資本主義、帝国主義の道を歩みだした日本の進むべき道だと考えた。彼としては西洋諸国の侵略の道をやめさせるよりも、まず日本が侵略の道をやめることが先決であった。秋水としては、当然もつべき考えであった。自分にたいして厳しくあることが他のだれに求むるよりも厳しくあったのである。彼が君士人であった所以であり、たんに口舌の徒でなかった所である。
秋水はこういう立場にたって、なによりも革命を讃美して次のようにいう。
「革命来る。革命来る。吾人は大革命の来るを期待す。しかり予は大革命の来るを期待す。しかれども怯懦の貴族よ、小心の富豪よ、軽躁の有司よ、乞う怖るるなかれ。吾人はみだりに爆弾を公等の車場に投ぜんとする者にあらざるなり。敢て鮮血を公等の邸第にまんとする者にあらざるなり。吾人は公等と共に大革命の徳沢に沐浴せんと欲す。恩恵に光被せんと欲す。
革命は殺人の謂にあらざるなり。反乱の謂にあらざるなり。爆弾を用うる者亦時にあり。鮮血をむ者亦実にあり。しかれども我が国維新の革命をなしたる者は実に五ヶ条の御誓文なりき。憲政創始の革命をなしたる者は実に十四年の大詔なりき。欧州の君相社会の大勢に逆抗せんとせし者多し、故を以て其の革命や暴力たり。日本の天子能く民意をいれたまう。是を以て其の革命や平和なり。公等乞う之を安んぜよ。それ世界何れの国か革命なからん。古今何れの時か革命なからん。社会の歴史は革命の記録なり。……革命怖るる者よ、公等が今日無限の自由と幸福と進歩と平和とは実に過去幾多の大革命が公等に向って賜ったものにあらずや」(革命来る)と。
これほどの革命の讃美、革命の肯定はない。歴史は革命によって進歩し、革命によって自由と平和は拡大強化される。革命のない社会ほど沈滞し、固定化しているものはない。人が生きるということは革命児として生きることであり、たんに前の時代をうけつぎ、守ることではない。保守というも前の伝統と格闘し、それを再認識して現代に発展させることであって、たんに古きを守ることではない。伝統を守るとはそれを日日新しくし、躍動させ発展させることである。保守ほどむずかしいことはない。いまの保守は真の保守でなく、たんに伝統にぶらさがっているにすぎない。
秋水はこのように革命を讃美し、革命を不可避であると述べた後、革命の内容について、「次の革命は労働者が商工資本主にとってかわる」(何の革命ぞ)ものであるというのである。しかもその革命では貴族が支配していた時、資本家が支配していた時のように一階級が他の階級を支配するのでなく、階級のなくなる時代であり、社会である。いいかえれば、一部の人の所有する自由と権利でなく、人間のすべてが所有する自由と権利の時代である。分配が平等に行われる時代である。かくて、一部の所有であった自由がすべての人間のものとなる。もちろんそのために自由の衝突があるから、その自由をめぐって調和が必要であるし、野獣的自由は制限されて、社会的存在たる人間の自由、政治的存在たる人間の自由、経済的存在たる人間の自由とならなくてならない。いままで自由といわれていたものは社会的、政治的、経済的存在たる人間の自由でなくて、たんに野獣的存在たる人間の自由にすぎなかったものである。それを錯覚していたのが西洋人の自由の観念だったのである。
労働者が資本家にとってかわるのが革命であるなら、貴族に資本家がとってかわったのも革命であった。いまの資本家はその事実を忘れ、怖れているだけである。革命によって、一握りの貴族からより多くの資本家が自由となり、いまは革命によってより多数の労働者の自由を獲得しようとするだけである。しかし、労働者の中にはより多くの受動的生を送る者、他律的に生きようとする者があるから一足とびに全労働者の自由とはならない。所与の自由で満足する者も多い。ここに革命のむずかしさがある。労働者でありながら、その自由が欲しくないという者がいるのである。全人間が自律的に生きようとし、主体的に生きようとしないかぎり、労働者の支配する世界となっても、自由はより多数の労働者の自由でしかない。全人間が自律的に生き、主体的に生きるようになると保証しないかぎり、革命そのものはつねに不十分なものとなる。

直接行動論者
だからこそ、秋水はもっとも他律的に生き、受動的に生きることにならされた警察官にむかってこう呼びかけたのである。「奮え巡査諸君、起て満天下の巡査諸君。今や諸君がふるうて起つべきの時にあらずや。諸君の生活のために、諸君の幸福のために、諸君の権利のために、而して実に正義人道のために。
諸君、諸君の奉ずる所は所謂人民保護の御役目なり。四千万人民が生命財産の安寧は懸りて諸君の双肩にあり。諸君の地位や名誉なりと言わざるべからず。諸君の職分や高貴なりと言わざるべからず。此の地位、職分が多大の敬重尊崇を値いすべきや論なし。しかも怪しむ、世人は諸君にむかって果たして幾何の尊敬を払えるか。いな世人は唯に之を以て決して名誉とし高貴となさざるのみならず、かえって多大の侮辱と軽蔑とを以て諸君を待てるは何ぞや。独り世人の諸君を侮辱するのみならず、諸君自身すらも亦其の地位に甘んじ、生涯を通じて巡査たらんことを欲し、その子孫をして巡査たらしめんことを望む者絶て之れなきは何ぞや」と。
もちろん秋水は労働者によびかけて、なん度もその覚悟をうながしている。その呼びかけはロシア社会党に兄弟姉妹とよびかけた時よりも激しく、悲壮感にみちたものであった。労働者そのものに資本家にかわって支配する能力を求めるのだから当然である。一般に人びとは支配することを甘く考える傾向がある。しかし、怠惰で無能力の資本家はただ今の経済体制に依存しているだけで本当に支配している資本家ではない。本当に自立的、主体的に生きることは資本家にとっても容易ではない。それを錯覚する風潮がある。だから革命は容易に訪れないのである。とくに、この傾向が日本の場合、労働運動の指導者に強い。
秋水が「朝にあるものは唯その政権を維持するの外其の他を知らざればなり。野に在るものは唯他の政権を奪取するの外其の他を知らざればなり。将来の日本社会国民を如何にすべきかという厳格なる問題は彼等の脳中絶えて存せざればなり。然り而して何事も政治に依頼せざるべからざる日本国民は、何事も政党に依頼せざるべからざる日本社会は今や手をつかねて、彼等の食物となりおわらんとす。あわれむべきかな」と指摘した言葉はいかにも鋭い。これこそ、既成の政治家、労働者に絶望した所から生れた呻きであろう。しかもこの言葉はなん十年後の今日、そのまま通用する。秋水が直接行動論を唱えて死んでいったのもわかるような気がする。大逆事件そのものはデッチアゲだったかもしれないが、政治や政党にまかせきりの日本国民、他律的、受動的に生きる日本国民をみたとき、彼として死以外に求めるものはなかったのであろう。
「めざめよ日本人」と天心がいくら絶叫するのを聞いても秋水にはうつろにしかひびかなかったであろう。それでもなお革命を叫ぶのは同胞に対し、子どもに対し、吾人の責任であり、義務だというのである。
吾人の権利だというときの彼は本当に生きていたと思う。そして秋水の叫んだ革命は最後には経済制度の変革だけでなしに、同時に全人間の革命を叫んだのだと思うし、その意味では天心の思想をうけついだのだと思う。

アジア諸国の生きる道
西洋諸国の資本主義、帝国主義という名の侵略主義の前にアジア諸国がまったく声もでないというのが、秋水の生きていた当時のアジア諸国の現状であった。アジア諸国の代表であるインドはイギリスに長い間支配され、その搾取の対象となって徹底的にしぼりとられていた。そのほかインドシナ、フイリッピンなども西洋諸国の侵略の対象でしかなかったし、支那(中国)も西洋諸国の分割統治の対象でしかなかった。
ただ西洋諸国の侵略をまぬがれた日本はアジア諸国を見捨て、西洋諸国の歩みをまねて、かれらと一緒になってアジア諸国の侵略の道をつきすすんでいた。それはときとともに激しくなり、今日もなおつづいている有様である。自由、平和、正義の言葉だけがあって、その実はどこにもないという状態であった。秋水の怒りが燃えたぎったとしても不思議ではなかった。彼は狂う一歩手前まで、この現状を怒り、拒否した。その怒り、その拒否は天心にまさるとも決して劣るものではなかった。文字通り、自由、平和、正義の通る国、彼の言葉でいえば、真の社会主義国家を創造しようとした。それはたんに政治制度、経済制度、社会制度としての社会主義国家でなく、一人一人の国民の生活が社会主義そのもので貫ぬかれているような国家であった。本当に自由と平和と正義が通用する国家で、自分たちの反対者の自由と平和と正義を認めないような、名前だけの社会主義国家ではなかった。

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

平和、正義、自由そしてアジア
こういう立場に立って、秋水はアジア諸国の生きていく道を模索する。まずトルコのことにふれて「昔トルコの熾なるや天下の優勝はただに欧人に在らずして、王者の命はただに欧人の有にあらざるを知らしめき。彼の威名は実に我がアジアの威名にして、彼の光誉は実に我がアジアの光誉なりき。而して今何ぞ衰えたる。眼を転ずれば是れ実に我がアジアの衰えしなりき。然り彼は実にアジア全体と共に其の命運をひとしくせんとするものなり」(トルコをいたむ)と秋水は歎く。しかも「欧人の亜人を憎み亜人を侮るは亜人の欧人を侮るよりも甚し。彼らは亜人を以て先天の敵となし当然の犠牲となし、亜人の食を奪い地を奪わずんば飽かざらんとす」(トルコをいたむ)というのが現状であるともいうのである。
その結果、つぎつぎに侵略されたのがアジア諸国だというのである。秋水はそういう事実を前にして、声高らかに「東洋の平和は世界の競うて口にする所。いやしくも文明の大義を天下にしき、平和の責を全うせんとせば今や実に好機会ならずや。またその好位置にあらずや。言うことなかれ。外交難し」(如何にして今日の東洋に処すべきや)と宣言する。
そして、対支(中国)政策として、日本人がなぜ支那人(中国人)を憎み、忌み、恐れるのか不思議だという。彼は日本人の劣等感がいわせるのか、日本人の獣力が二億の金を奪うことには成功したけれども智力において劣ると考えているためであるという。これをふまえて、秋水は、「清国との連合あるのみ、それ今日の世界に於て其の土地の大と自然の富源と資本のゆたかなるに於て米国に当る者一の清国あるのみ」(日米関係の将来)と結論づける。日本と清国の連合が東洋の平和のためにどうしても必要だというのである。
それはアメリカが最近さかんに帝国主義、侵略主義の道を進み始め、ついにフイリッピンを奪取したという認識から出発している。彼はそのことを「今や世界貿易の中心は太平洋の沿岸に移れり。而して彼米国という巨大がその広漠たる土地と無限の資本と精巧の器機より産出せる莫大の貨品を持して横行濶歩せんとする新市場は実に我が東洋の各地なり。日本なり、朝鮮なり、支那(中国)なり、その新領土たるフイリッピンなり。而して、その進取の勢いあたかも旭日の如く、正にドイツをしのぎ、仏国を圧し、殆どイギリスの塁をおびやかす。若し日本にして今後奮躍して大に威を東洋に振わんとせばその第一着に事衡すべきは実に彼米国にあらずや」(日米関係の将来)といっている。
秋水としては、日本、中国、インドの連合をいいたかったと思われる。しかしインドはすでにイギリスの支配下にあるので、たんにイギリスのインド支配がいかに残酷であるかという指摘にとどめ、まがりなりにも独立国の体裁をたもつ支那(中国)との連合を訴えたのである。また、朝鮮との連合をつよく訴えたのである。日本、支群(中国)、朝鮮との連合は江戸時代末期より、勝海舟たちが念願したものであった。秋水は朝鮮問題にふれて「朝鮮問題を解決する所以の標準は朝鮮の貴族官吏の利害にあらずして実に人類の平和、幸福にあらざるべからず。朝鮮の政治、経済、富源は如何にせばもっとも朝鮮人民のための利福なるべきか。東洋人頼、世界人類の文明のために有益なるべきかにあらざるべからず。孟子曰く民を貴しとなく、社稷此につぐと。抛棄もし人類を利せば抛棄せよ、併呑もし人類を利せば併呑せよ。真の人類のためにはかつて利あらば、貴族、官吏の利害とうべき所にあらざるなり」(抛棄か併呑か)と指摘した。併呑に反対したことはいうまでもない。大事なのは朝鮮民族の自由、平和、正義であったのである。そのようなめざめがないことはないというのが彼の確信であった。朝鮮民族には朝鮮の道があり、フィリッピンにはフィリッピンの道があり、支那(中国)には支那(中国)の道がある。そうしてはじめて東洋の自由、平和、正義が実現するのである。おしつける所よりはなにも生れない。
その後、日本は秋水の言葉に反して朝鮮を併合し、長い間、朝鮮民族の自由、平和、正義をおびやかし、ついには日本そのものまでも危険におとしいれたのである。それというのも日本が誤った外交、民族の自由と平和と正義を抑圧するような外交をおこなったためである。秋水は西洋諸国の外交、そのまねをする日本外交を利欲の外交、暴力の外交、譎詐の外交としてきびしく非難した。それと戦い、うちかつのが、真の平和と自由と正義を求める外交であるとした。そのためには、東洋がめざめ、西洋がめざめるしかないのは天心のいった通りである。美と宗教に根ざした外交しか、諸民族にその自由と平和と正義とをあたえることはできない。

科学や生産ではなく、博愛と平和の道を
国際間の外交が根本的に変わることを求めた秋水。それゆえに彼は「科学や生産が如何に進歩し、如何に増加すというといえども豈文明の真意義ならんや。……同情、博愛、義侠の心は是れ文明の精神目的なり。唯これある人生の野獣に異なる所以なり。唯これある。即ち品格ある国民なり。高等なる国民なり。……科学は進歩せり。生産は増加せり。生活の度は上達せり。しかれども何ぞ同情、博愛、義の心の衰えたるや」(外国の志士と我が国民)と断言したのである。西郷隆盛にまさるとも劣らぬ厳しい見解である。
幸徳秋水という人は徹底した平和主義者であり、理想主義者であり、自分の内なる声に忠実に生きる人間であった。
だからこそ自分の思想のために死んだのである。

(1974年 株式会社 産報刊)

<燃えるアジアと日本の原点 目次>

『続・燃えるアジアと日本の原点』

< 目 次 >

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