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「日本的自立の思想」

<この未発表原稿について>

この原稿は、1967年から1968年にかけて執筆されたことが、残された資料の中の私信から知ることができた。(「……12月完成予定の『日本的自立の思想』にまだとりくんでいます。2月末日には原稿できあがるかと思っています。……」昭和43年2月6日消印、I氏への葉書。)しかし、何故出版されなかったかについては不明である。

(1999年4月 池田諭の会)

<目次>

まえがき

第一部 日本的自立の思想

第一章 思想の自立とは何か
第二章 日本人の思考の原型……記紀を中心に
第三章 時代と自分に絶望……親鸞の思想と行動
第四章 自らの中に仏と法を求める……道元の思想と行動
第五章 支配権力に対決を迫る真理の発見……日親の思想と行動
第六章 権力への追従を拒否させたもの……千利休の思想と行動
第七章 自らを欺かず、仁義を実践……大塩中斎の思想と行動
第八章 日本と自分の自立を構想しつづけた生涯……吉田松陰の世界
第九章 日本とキリスト教を捨てて自立に到達……内村鑑三の世界
第十章 「我は社会主義者なり」に殉じた一生……幸徳秋水の世界
第十一章 転向の時点で自立への道をつかむ……埴谷雄高の世界
第十二章 日本の革命を構想しつづける……竹内好の世界

第二部 戦中派の思想と行動

第一章 戦中派の思想的課題
第二章 三島由紀夫……戦中戦後を一貫する生と価値をもとめて
第三章 山田宗睦……日常の中の革命を志向して
第四章 橋川文三……歴史意識の確立をめざして
第五章 上山春平……思想の相対化にとりくむ
第六章 吉本隆明……自立と連帯をもとめて

結び 日本人の自立と戦中派

<目 次>

まえがき

明治維新には、明治から昭和二十年までの日本が歩んできた道以外にも、猶、いくつかの可能性があった。だが、全体としての日本国民は、そういう可能性を追求することもなく、また、選択することもないままに、明治、大正、昭和三代、八十年の政府の択んだ路線を少しの批判、抵抗はあったにしろ、忠実に歩んできた。その結果が敗戦という奈落の底であった。
それが日本国民にとって、どんなに混乱にみち、悲惨なものであったとしても、また、不幸であったとしても、政府のいうままにその路線に追従してきた結果であったとすれば、誰をも批難することはできない。責任をとることも出来まい。それこそ、一億総ザンゲである。もし、責任を厳しく問われるものがあるとすれば、それは国民自身であり、政府や指導者にだまされた愚かな自分自身でしかない。嫌悪を感ずるとすれば、自分自身に対してである。救いと解決はそこにしかない。
敗戦当時、こういう責任、こういう嫌悪をもろに自分自身になげつけた人たち、それは、後に「戦中派」といわれるようになった少数の人たちで、敗戦当時、十七、八歳から二十五、六歳になる人たちであった。
彼らはとことん、自分自身の愚かさをみつめて、自分自身に深く絶望した。しかも絶望したのは、自分自身のみでなく、すべてのイデオロギーや思想、さらに、それを提唱していた人たちに対しても同様であった。
だから、戦後、外国から直輸入された観念的な民主主義、共産主義、実存主義を絶対的な真理として、日本国民の多くが無批判に追従しているのを冷ややかにつきはなしてみることにもなった。そういう思想状況にいよいよ絶望を深めていったということも出来る。それ故に、戦中派の課題は、戦中の思想的奴隷の位置から思想的自立を戦いとることであった。戦後の思想状況にまきこまれないことであった。
それは、自分自身で、あらゆるイデオロギーや思想をひとつひとつ批判し、検証してみることであったし、戦前派はもちろん同世代の人たちをも疑ってみるということであった。更めて、ヨーロッパの思想と国々を疑ってみることであった。しかし、批判する自分自身、疑ってみる自分自身に絶望し、信頼できないのだから、全く始末がわるい。それでもやらずにいられなかったところに、彼らの不毛に近い戦いがあった。長い長い沈黙をよぎなくされた。だが、そこにのみ、再び決して自分自身を他者の奴隷にしない、自分自身を自らの主人にしていく道があると信じたのである。しかも、それを彼らは、自分たちのものにするだけでなく同世代におよぼし、戦前派から戦後派まですべての日本人のものにし、日本人の改造を考え希望したのである。それは、まさに大きな課題であるといえる。といっても、ここでいう彼ら「戦中派」とは、決して敗戦当時、十七、八歳から二十五、六歳の世代全体をさしていっているのでない。たしかに、同じような戦争体験と思想体験をもった同世代ではあったが、思想的自立の課題を全部が全部、自分自身につきつけたわけではない。残念ながら同世代の中にも、戦後の思想状況の中に流され、まきこまれるしかなかった人たちも多いのである。
だからこそ、彼らは、まず自らの思想的自立を戦いとろうとすると同時に、同じ戦争体験と思想体験をもつ同世代の人たちに可能な限り自立してほしいと願う。自立するチャンス、自立する可能性にめぐまれていると考える同世代に期待する。それは、信ずべからざるものを信じて死んでいった多くの同世代の人たちに対して、生き残った者の義務でもあった。死んでいった人たちの死を無意味にしないためにも必要なことであった。
しかし、思想的自立を戦いとるということは至難のことである。ことに、世代全体が思想の自立を戦いとるということは殆んど不可能に近い。まして、日本人全部が思想的自立を戦いとるのは夢のようなことである。しかし、彼らは求めないではいられない。
彼らは、同世代人に「思想する世代」になってほしいと望むだけでなく、日本国民に「思想する国民」になってほしいと願う。それが、明治、大正、昭和の百年間、常に奴隷であるしかなかった日本国民の唯一の救いの道である。新しい道である。大東亜戦争から学んだ生き方である。
しかし、最近になっても彼らの意図や努力は実るどころか、逆に同世代の中での孤立も深まり、戦後派からはソッポをむかれ始めている。それというのも、彼らの同世代の大多数は彼らの発見に関心をはらわず、相変わらず戦争中の消極的受動的な生活姿勢をつづけて自己主張もあまりしない。加えて、彼らの主張が戦後派が期待したほどには豊に実らないということに原因していると思われる。これでは、戦中派がもつ歴史的使命もなかなか達成しまい。
私が更めて、吉本隆明、橋川文三、三島由紀夫、山田宗睦、上山春平がどのようにして自立的思想を戦いとろうとしたか、彼らが何を志向し、何を創造しようとしているかを明らかにしようとしたのは、今日のそういう思想状況を悲しんだためである。彼らの意図や努力がまともに戦中派世代の中に、更にそれをこえて日本人自身の中に定着していく必要を何よりも欲したからである。だから、私は、なによりもまず、この本を戦中派世代にむかって書く。
その場合、私は、彼らの思想的自立の戦いを、日本人の思想の自立の戦いの歴史の連続として明らかにしようとした。それは、明治以後、日本人の思想風土には自我の確立を阻むような妥協的融和的な土壌があるとか、自立的思想の伝統がないとかという意見が一般化し、定説化していると思われるからである。ことに、戦前の集団転向、戦後のなしくずしの転向という事実があるために、そういう意見はいよいよ根強いものになっている。しかし、私はその意見に反対である。むしろ、日本人が「思想する国民」になりうる可能性は十分にあるということを立証したいためである。
勿論、ここにあげた親鸞を初めとする十人が、その実例として最もふさわしい人間であるかどうかはわからないが、少なくとも、日本人の中のすぐれた思想家、行動家であるという評価があるし、それに私自身の思想的自立のてがかりとして、学んだ人たちであったということから選んだものである。
親鸞たちの思想的自立の戦いを述べることによって、吉本たちの戦いぶりが、またその意図するものが一層明らかになってこよう。また、「思想する世代」「思想する国民」の誕生が必ずしも夢でないことも知るのではなかろうか。
今一つ、吉本たち戦中派を一括してとりあげたことに一言しておきたい。
普通、世代の特質とか世代の歴史的役割などを強調する世代論は、あまり評判がよくない。それは世代間の分裂を生み、階級としての統一を阻む結果になるという考えからきている。たしかにそういう一面があることも事実だが、真の統一を生むためには、もし世代間の違いがあるならばそれを徹底的に直視し、長い時間をかけてもそれを克服する必要がある。
ということは、戦前派、戦中派(以後、戦中派という場合、吉本たち一部のものをささないで、その世代をひっくるめて使用する)、戦後派は、それぞれに異なった思想状況の中で育ち、それぞれの思想的課題に直面して成長したということであり、その違いは決定的である。それは、戦前、戦中、戦後の思想状況の違いをみれば明らかである。
それでありながら、戦前派と戦中派が真の統一戦線を組めるのは、戦前派が戦前の思想的課題を解決し、戦中の思想的課題とむきあうと同時に、戦中派に戦中の思想的課題が何であるかを本当に明示した時のみである。戦前派が戦前の課題をごまかし、戦中の課題から逃げているような時、戦後の思想的課題をめぐって、戦前派と戦中派は対立する以外にない。統一戦線がくめるはずがない。もし統一をくんだとしても、それはインチキの統一であり、一時的な統一でしかない。
戦前派、戦中派、戦後派の統一でも同じことがいえる。いいかえれば、戦前派は、戦争中、戦中派が思想的奴隷になるように指導しても、思想的自立を戦いとる方向に導かなかった。戦後も同じように、戦後派の思想的奴隷の道を指導した。そんなところには、野合か隷属があるだけである。それこそ、真の統一は、思想の自立した人びとの間にのみ成立するものである。思想の自立とは、その時代の思想的課題を本当に知悉して、それに主体的にとりくめる状態になることである。だから、戦前派が戦中派の思想の自立を本当に助けることができた時、戦前派と戦中派の統一がくめるのである。戦前派と戦中派と戦後派の関係も同じである。だから今日、世代論は、猶一層必要なのである。真の統一を生むために、是非必要なのである。私が吉本たち戦中派の思想的自立の戦いをのべていく中で、その思想的課題を明らかにしようとしたのも、戦後派の諸君にそれを知悉してもらい、戦後派と戦中派との真の連帯をはかりたいためである。それがそのまま、戦後派の思想的自立に結びついていると考えたからである。その意味ではこの本は、戦中派の次には戦後派に読んでもらいたいということができる。

<自立の思想 目次>

第一部 日本的自立の思想

第一章 思想の自立とは何か

人間は人間である限り誰しも、他人の奴隷になることを欲しない。自分が自分の主人であり、支配者であることを欲する。何人のための人生でもなく、自分自身の人生を送りたいと思う。古くからある「一寸の虫にも五分の魂がある」という諺は、そのことを明確に証明している。それは、言葉を換えていえば、人間が他者に対して自立することによって、人間として自立するということであり、誰にも邪魔されない人生を送るということである。自由でありたいということである。
だが、現実には、そういう強い願いがあるにもかかわらず、他者の妨害にあって、多くの人間はその願い通りに生きることができない。例えば、政治的指導者、思想的指導者が国家や階級のために生き、死ぬことが正しいというと、本当に国家や階級のために生きるとはどういうことかと考えないで、言われた通りに生きているにすぎない。それこそ自分の気持ちを殺して、しかたなしにそうしているのである。
それは、結局、政治的力関係、思想的力関係からきていることが多い。それがわかっていても、それから逃れることが出来ないのが一般の人間である。その力関係を打ち破ればいいんだとわかっていても、それを打ち破る批判力も自信もない。また、そういう考えをうけいれるもう一つの自分があることも事実である。とすれば、そこに自分なりに納得できる立場、許容できる考えをもって生きる以外にない。それが普通の人間にできる精一杯の抵抗でもある。
こうして、普通の人間が到達した生活の智慧とは、自分自身の心の持ちようとか心構えという考えのもとに、常に自分自身の考えを他者に、力のあるものにあわせていく立場である。無限に自分自身の考えや心の持ちようを変えていくことによって、自分を支配している他者を認めていく立場である。決して他者を批判しない立場でもある。それこそ悪いのは、間違っているのは常に自分自身である、責任はたえず自分自身にあるのである、運命とか宿命といって、いかなることも甘受していく立場である。
ここには、奴隷としての人生しかない。それは、悲しく惨めなことであるが、弱者が生存していくために発見した人生の智慧であった。奴隷の智慧であった。しかし、誰もそれを責め、批難することは出来ない。それこそ人間は、そういう奴隷の地位にあまんじても生きねばならないし、生きていくものだからである。それが、昭和二十年までの日本人の考え方であり、生き方であった。
こういう生き方、考え方は「あきらめ」の考え方であり、「あきらめ」の人生である。それは、日本のような島国で、国外に容易に亡命できないばかりか、支配権力が国中のすみずみまでおよぶような所ではやむを得ないともいえる。こんなところに、日本の思想風土には支配権力の思想以外に自立した思想は育ちにくいとか、支配権力の思想と妥協し融合したときにのみ、支配権力以外の思想も初めて存在できるといわれる理由があろう。たしかに、従来、日本人の中に定着した外来思想は、すべて支配権力にまきこまれ、支配権力のもつ思想と共存できるようになったとき、初めて存在を許されたということもできよう。
たとえば仏教の場合、宇宙を支配する法則、歴史を貫く法則を法といい、その法を見究めたものを覚者即僧という考えであるが、そういう覚者は、支配権力者にけむたい存在であるばかりでなく、支配権力者の存在を否定する存在となる事もある。法を見究めるといっても、法を見究めた程度によって種々の僧が出現する。それこそ、法をどこまで見究めたとき覚者だという基準はない。当然、そこに深浅広狭がある。
極言すると、法を見究めたと錯覚する者も出てくるし、法を見究めたというポーズをとる者もいる。諦念という仏教的用語が仏教の世界で、「法をあきらかに思う」という意味と一緒に、「あきらめ」という意味に使われるようになったのはそのためである。「あきらめ」は、あきらかに、仏教本来のいみではインチキである。だが、現実に、仏教の信者の中には、そういう考え方をする者が多い。仏教の思想がこういうふうに変形されて、権力者に無害の思想となって、初めて存在を認められたよい例である。それは、法を見究める能力も姿勢も十分にもたない人々の智慧であったともいえるが、仏教思想がゆがめられて、庶民大衆のものになったことも事実である。
いいかえると、「あきらめ」の立場に立つということは、自分の外にある他者、とくに支配権力者や支配的思想を絶対と見、動かすことの出来ないものと見る所から生ずる。自分の外にあるもの、外にある世界を絶対と見、不動のものと見究めるということも、ある意味では法を見究めたということになるかもしれないが、ここには自分自身を隷属させる道しかない。支配権力が批判されることも否定されるということも決しておこらない。体制に疑問をもち、体制を変化させようという思想に、仏教がなるということは決してない。
それに、宇宙の法則や歴史の法則をわずかしか見究めない人々、こういう人達が容易に支配権力にまきこまれることにもなるのである。仏教は自己否定の思想であるという説もあるが、そうなると、いよいよ支配権力の奴隷になるしかあるまい。
同じことが儒教についてもいえよう。即ち、儒教が心と理を説き、心と理の関係を明らかにした思想であることは周知のことだが、その場合には、理そのものの内容が非常に重要になってくる。それこそ、いくらでもごまかしがきくのである。それは、王陽明が理に反するといって百姓一揆を弾圧し、逆に、大塩中斎が百姓一揆を支持することが理にかなっているといった言い方によくあらわれている。それぞれの人によって、理そのものの理解は幾通りも出てくる。とすれば、儒教思想もまた、支配権力にまきこまれることによって、支配権力に都合よく解釈されて、存在を許されたことはいうまでもない。(くわしくは後述)。
だが、自分が自分の主人となって生きたい、誰にも支配されずに生きたいという願いを自分の中にあたためようとした者は、仏教や儒教の思想を手がかりにしていった。法や理を忍耐強く究明し、法や理が本来意味したところのものを素直に見ていった。そのために、生命をおとすようなことに遭遇しても少しもひるむことなく追求していった。そういう人が自立の思想を確立したのである。これから述べようとする人たちもそういう人たちである。
では、自立的思想を自分自身のものとして確立した人というのは、どういうことであろうか。一言でいうなら、政治的権力から独立した人、社会的因襲をたちきった人、思想的潮流からの影響をのりこえた人ということになろう。そして、それら一切をたちきり、克服できる思想を自分の中に創造した人であるといえよう。
政治的権力という場合、従来、日本には唯一の権力しかなかったが、その政治的権力から独立するとは、その権力を支える思想を批判克服し、その権力に対立して自分自身の価値と権威を確立するということである。その時、その価値と権威の思想的意味を十二分に知悉し、支配権力の価値と権威にかわらなければならないことが、客観的にも証明されていることが必要である。その時初めて、支配権力の支配を拒絶し、自分自身の価値と権威に従って行動できる。政治的権力から独立するということは、そういうことである。
しかし、人間は日常的には生活人として存在し、政治的存在として発言し行動することは少ない。その場合、生活人として制約されるものは社会的因襲である。だから、社会的因襲から完全に独立する必要があるし、これを重要視する必要がある。ことに、日本人の場合、その思想と意識が分裂しているのが多い。ごまかしが多い。だから、意識や感覚を支配している社会的因襲をたちきるのでなければ、その奴隷であることをやめなければ、到底、自立した人間にはなれない。
今一つの自立の条件は、思想的潮流に左右されないということである。それには、現実に有効に働いている諸思想の長所と限界を正確に知ることは、どうしても必要である。食わずぎらいをしているような者には、到底、自立はありえない。主観的自立はあっても客観的な自立はありえない。すべての思想を知りつくし、それをこえる思想を創造したときにのみ、初めてそれらの思想から自立できるということがいえる。もし、ある一つの思想を選び、その立場に立ったとしても、すべての思想を知りつくした後に選んだ立場でなければ自立できない。そういう自立こそが、自立の名に値する。挫折や転向のない自立、発展しつづける自立である。
戦前におこった集団転向、戦後におこっているなしくずしの転向にしても、すべての思想を知りつくし、批判した後に選んだ共産主義思想でないというところにおこったものである。最後に選んだ思想でありながら、もし理論的に不充分であることがわかった場合は、その思想を発展させるだけである。
他の思想に移行するということは、今迄その思想を十分に知らなかったことを意味する。そんな中途半端な人間に、思想の自立が成立するわけがない。しかし、実際にはこういう人間が非常に多い。思想家とか学者を自認している人間、認められている人間に沢山いる。それでいて、自分ではその思想を選択したと思っている。そればかりか、その思想が他のどの思想よりも優れていると思っている。盲進し、狂信している。全く始末にこまる状況だといえる。
要するに、自立の思想の持ち主とは、政治的権力、社会的因襲、思想的潮流から独立することの出来た人間である。仏教、共産主義、実存主義、プラグマティズムなどの諸思想から、いずれか一つを選んだとしても、それらを知りつくした後に決定した人、さらにその思想を発展させようとした人である。
といっても、現実には、せいぜい自立的思想をもとうと努力する人がいるだけである。政治的権力、社会的因襲、思想的潮流から独立しようとつとめる人がいるだけである。一生涯、精一杯努力して、初めてどうにかその支配から脱出できるほどに、それらは魔力をもっているともいえる。もしも、途中で独立と自主への意志と姿勢を放棄するなら、その戦いをやめるなら、とたんにそれらの奴隷になるしかない。それらの力にまきこまれてしまう。
いいかえれば、自分自身がこの世界とこの世界の思想を征服し、その支配者になることである。どんな人間をも指導者としないことである。どんな思想にも仕えない者、思想の主人公になることである。しかし、その戦いは厳しい。そのためにも、思想の自立を求めて、一生涯その戦いをつづけることができなければならない。その場合、自分自身の課題として思想の自立という問題に立ちむかう人間の場合にのみできることで、他人のためとか、しいたげられている人々のためとかといって、その問題に立ちむかっている人間にはできないことである。他人のためにその戦いを進めている者は、状況が悪化するとその戦いを中止する。中止しても生きていられる。しかし、自分自身の問題であったら、その問題を離れて一刻も生きていられない。
大東亜戦争の悲惨を散々なめた今、そういう考え方、生き方をする人々が日本人の中に多くなってもいいのではないか。ことに、核戦争の危険の中におかれている現在、自分たちの運命を自分たちの手にゆだねてもいいのではないか。自分たちの人生を自分たちで選んでゆけるようになってもいいのではないか。「思想する世代」「思想する国民」の出現を待望するのもそのためである。
そのためにも、歴史上、思想的自立を戦いとった人々の思想と行動を明らかにしていく必要がある。それは、そのまま私たち現代人の中にも、思想的自立への願いと可能性があるということを証明することになろうし、自信と誇りをもてることにもなろう。

<自立の思想 目次>

第二章 日本人の思考の原型……記紀を中心として……

何故に、記・紀を中心に、そこにあらわれた日本人の思考について書くかというと、それは、日本人の思考、想像力、生き方の原型がそこにあると考えられるからである。それに、たとえ不十分な記述であり、また外国の思想の影響があるとしても、現在のところ、日本人の思考、想像力、生き方の原型を知るには、古事記によるしかないからである。
しかも、日本人の思考、想像力、生き方の原型を見究めておくことは、それ以後の日本人の思想の内容を知る上にも、また、思想の自立の戦いを知る上にも大事なことである。それに思想の自立といっても、結局のところ、日本人の思考の原型と無関係には成立しない。また、思想の自立の伝統がないとか、日本の思想風土には自我の確立を阻むものがあるのではないかという意見の出る根據も、既に、記・紀にあらわれているともいえるように思う。とすれば、なおさらであろう。
記・紀というのは、和銅五年(712年)にできた「古事記」、養老四年(720年)に完成した「日本書記」のことであるが、では、一体、そこに日本人の祖先の思考、想像力、生き方は、どのように展開されているのであろうか。
記・紀を読んでまず、第一に気のつくことは、あらゆる自然現象に神を認め、神として崇拝していることである。それは、「石の神」としての「石土昆古神」を始めとして、「土の神」「山の神」「海の神」「川の神」「雨の神」「火の神」「風の神」「雷の神」であり、さらには「家屋を司る神」としての「大屋昆古神」から、「田植を司る神」「五穀を司る神」などが登場する。そればかりか、人間の行為そのものに、例えば「波邇夜須昆古神」「彌都波能賣神」のように、大便や小便から、風邪にまで神を見出す。だから鳥や獣などに神を認め、すべての人間にも神を認めたことはいうまでもない。
このように、自然現象のすべてに神を認め、神として崇拝し、敬意を払うということは、すべてのものの存在価値と存在意義を認めるということであった。しかも、人間の行為をみる場合、「みとのまぐわい」とか「天の岩戸」「天の御柱」「ホト」というように、セックスや生殖を中心に考え、それもしばしば書かれている。これは、すべての人間が同価値であったということ、すべての人間の価値を平等にみようとしたということがいえるのではないか。
今日の表現をかりていえば、多神教的もしくは汎神教的考え方ということになるが、もっと大事な事は、日本に古くからある神道と一緒に、外国から移入してきた諸思想である仏教、儒教、キリスト教、共産主義、プラグマティズムまでを同時に認めるということであり、その存在を肯定するという考え方である。そういう考え方に発展する可能性をもつといった方が正確かもしれない。神や仏や理や法則が共存するということである。
たしかに、多神教的もしくは汎神教的な考え方とは、人間も動物も自然もふくめて、宇宙的な規模で常に考えていこうとする立場である。人間だけを中心に考えて、動物や自然を人間に従属するものと考えるのでもなく、支配的人間や優者を中心に適者生存というように考えるのでもなく、一つの宗教、一つの思想だけを信じ認めて、他の人たちを異端視するという考え方でもない。人間と同様に動物や自然にも価値を認めるし、全ての人間、すべての宗教、すべての思想に存在の意味を見出し、それぞれの立場を認めていく立場である。
そこに、対立と統一という視点と姿勢が厳しく生まれなかったということにもなるし、神・仏混淆などという、統一ではなくて一種の折衷的妥協的な解釈が生まれてくるということにもなる。しかし、宇宙的規模で、人間と動物と自然を、思想と宗教を、黒人と白人と黄人を、さらには優者と劣者を考えるということは本当にすてきなことである。人間の考え方としてはそうあるべきではないのか。ことに、核戦争の今日、自然と人類と文明が危機にたっている今日、そういう考え方は最も必要ではなかろうか。
次に気のつくことは、生命に対する讃美、生命力に対する感動ということである。これは自然現象を神として認め、神として崇拝したということと無関係ではないが、自然を崇拝するということは、自然そのものに内在する生命力、発展力に対する讃美であり感動である。それは、天つ神五神の一人として、ウマシアシカビヒコヂの神(古事記)という名を考えたのも、自然の生命力、生長力を讃美して想像した神であることで明らかである。日本人の祖先は、本当に生命そのものに、生命力そのものに感動し、また、それを尊敬する心をもっていた。
そのことは同時に、生命を産むものに対する讃美と感動にもなっていく。天つ神として、タカミムスビの神、カミムスビの神を創造し、この神の生成力、形成力を尊崇したばかりでなく、人間の生殖活動、生産活動をも重視し、驚異の眼をむけたのである。そのために、女性の生殖器にはとくに強い憧憬をもっていた。
だからこそ、生命あるもののすべてに、生命を生産できるもののすべてに、人間のみでなく動物にも植物にも神を認め、神としての崇拝をおしまなかった。それはそのまま、生命を愛し、尊ぶということであり、生命を尊重し、生命の共存を願う思想に発展していく。人間は本来平等であるという思想にもなるのである。
こういう生命を尊ぶという思想から、さらに、「ミソギバライ」という行事の考え方が出てきたともいえる。「ミソギバライ」というのは、見るもいとわしい、けがれたと考えた国にイザナギノ神が行ったことから、そのけがれを取り除き、清く、且つ、もとどおりになるために、イザナギノ神が行った行事である。これは一度生まれた生命を尊び、もし誤って間違ったことをしても、けがれたことをなしても、「ミソギバライ」をするなら、もとどおりになるという考え方である。反省し改めるならば、それ以前の事はとやかく言わないという考え方である。明らかに、生命を尊び、生命を可能なかぎり生存させようという願いから出てきた思想である。しかしそこから、後世の寛容の精神とか、罪や責任を自分自身は勿論相手に対して、鋭く問わないという考え方や態度が生まれてきたと考えられる。思想にも徹底した潔癖の態度を求めないということにもなったのであろう。この考えは欠陥ともいえるが同時に、すぐれている点もある。
最後に、生命の共存を願うという思想からは、どういう考え方が生まれてきたか。それを最も直截にあらわすのは、「コトムケヤワス」(言趣和)という言葉であり、「コトムケヤワス」という姿勢であろう。
この言葉は、「この葦原中国は、我が御子の知らす国と言依さしたま入りし国なり。故、この国にちはやぶる、荒ぶる国つ神ども多なりと以爲ほす。これ何れの神をつかわして言趣けむ」といって、天照大神が用いたものであるが、そこには、武力や暴力によらないで、言論で説得していこうとする姿勢がある。その当時の平定戦、征服戦が実際には武力によるものであったとしても、言論による説得を好ましいものと考え、それを理想としていたということである。それは、生命そのものを尊び、生命の共存を求める立場からすれば当然の帰結であった。
私は、日本人の思考と行動の原型として、以上三つのことを日本の神話の中に発見し、確認する。それは同時に、日本の思想風土に自我の確立を阻む危険性があることを認めることでもある。だが、そういう伝統の中で、日本人の中の思想家といえる人びとは、どのようにして思想的自立を戦いとったのであろうか。

<自立の思想 目次>

第三章 時代と自分に絶望……親鸞の思想と行動

日本に仏教が入ってきたのが六世紀。といってもこの頃はまだ、仏像とか仏典とかが無原則に輸入されただけで、思想としての仏教が三輪宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の形で移入してきたのは七世紀から八世紀にかけてである。ついで九世紀に、真言宗、天台宗が移入されることによって、初めて日本人の思想を徐々に豊かにしていった。
しかし、これらの仏教は、当時の支配階級としての貴族に主として受けとめられて、広く一般庶民の心の中にくいこんでいくほどのものではなかった。自然、仏教は貴族の思想として、また信仰として、彼らに都合よく理解されていった。そのために仏教は、貴族の思想と生活をそれなりに充実していったが、三百年間つづいた貴族政治の内部矛盾が激化し、もはや貴族が時代と社会を指導できなくなり、その地位をおとしていく中では、彼らと癒着することによって存立していた仏教、彼らを脱皮、発展させることができなかった仏教も、急速にその力を失っていった。
1173年に生まれた親鸞の時代は、まさにそういう時代であった。彼は、そのことを、「末法悪世のかなしみは、南都北嶺(興福寺、延暦寺)の仏法者の輿かく僧達、力者法師高位をもてなす名としたり。この世の本寺、末寺のいみじき僧ともうすも、法師ともうすも憂きことなり」と、深い絶望の中でいっている。文字通り、仏教を学び信じる僧たちがとことんまで堕落していたことを意味する。
親鸞は、僧となってみて、初めてこの事実を知った。若者らしく、潔癖な心でその事実を見ていった。そこに、彼の仏教界に対する徹底した絶望がおこったのである。そうなると、あらためて「仏教とは何か」「自分とは何か」「人生の価値とは何か」を問わずにはいられなかった。しかし、仏教界に絶望した彼である。先輩の僧にきくことはできない。自然、彼は仏典にむきあう以外になかった。むきあって、自分自身で直接に仏典を読み、考えるしかなかった。こうして彼の長い長い思索生活が、学究生活がはじまったのである。孤独に満ちた生活といってもいい。だが、その絶望の深さ故に、彼はその孤独にもたえてゆけたし、苦しい思索生活もがまんができた。
まず、親鸞は、仏教の創始者釈迦の思索と生活を継承していった。といっても、彼がそれを意識して継承したとは考えられない。求めるものの強さ、激しさが、自然、二人の道を同じものにしたと言った方があたっていよう。即ち、釈迦がその当時、バラモン教とか奥義書に導かれた哲学的潮流とか沙門という教団の教えのすべてを学びながら、いずれの思想にもとらわれることなく、専ら、自証を中心にその思想を確立していったように、彼もまた、天台宗とか真言宗、更には奈良六宗を学んでいく中で、彼自身の自証を大事にし、自証を中心にしてそれを実らせていった。いいかえれば、仏教教典の中に、自分自身を中心にして深く広くわけいったのである。自分自身、納得できる思想を求めて。
そういう学究生活、思索生活は、彼が「教行信証」を書いた五十二歳の時までつづいた。(これを書きあげた時が親鸞の真宗が創始された時である)。釈迦がその思索と学究によって、また、仏教を創造することによって、バラモン教や沙門をのりこえたように、思想的諸潮流から自立できたように、彼も真宗という思想を創造することによって、思想的自立に到達したのである。

では、親鸞の自証を中心とする学究生活、自分自身を中心にして、広く深く仏教教典にわけいった生活とは、どういうことであったろうか。彼は初め仏教を導きとして、主として自分をみつめ自分の発見に全力をそそいでいった。仏教界に絶望していた彼としては、仏教知識を沢山身につけて、そこで出世することに、もはや関心はなかった。彼の中心問題は、現実の我であり、自分自身とは何かを見究めることであった。勿論、自分自身についての、我についての知識でなかったことはいうまでもない。そういう知識が、人生の価値と意味を知ってその価値と意味に従って生きるということとは、同じではないということを知っていたためでもある。知ることと、自分自身がそうなることが別であることは、先輩僧たちの思想と行動をみればはっきりする。はっきりするから、絶望もしたのである。それこそ自分自身が、自分の全部が、自分の全存在が自分自身の納得し、満足できる自分になるしかない。そう変わるしかない。ということは、自分の全部で、自分の全存在で学び、考え、追求するということである。自証を中心にした思索生活とは、自分が従来もち、現在もっている思想や意識を中心にして、その思想や意識を変えてゆく思索生活である。その思想や意識を捨てるということでもないし、それを放置して他の思想と意識を新たにつけくわえるということでもない。文字通り、自分自身の根柢になっている思想と意識に変革がおこることである。いいかえれば、自証とは変革がおこるような理解のしかた、納得のしかたである。
親鸞は、そういう思索生活をしたのである。それこそ、自分自身が大事であって、思想は自分のためにしかないという考え方であり立場である。
その結果、親鸞が見究め、到達し、創造した思想とは何であったか。彼は、「愚禿親鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して定衆の数にいることを喜ばず、眞證の證に近づくことを快ず」と書いたように、徹底的にだめな人間として自分をとらえた。愚は愚痴であり、禿は破戒である。定衆の数にいるとは、愛欲や名利の心をたちきるということである。彼は当時の仏教界に仏教思想に絶望していたが、同じように自分自身にも絶望するしかなかった。「無明煩悩、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、妬む心多く、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず」とも書いている。どうしようもない、最低の人間としての自分の発見である。
こういう自分自身がどうしたら、悔いのない人生、充実した人生を送れるか。しかも、彼のような人間は、彼の外にも沢山いることを知ったとき、彼のように救いを求めて四苦八苦していることを知ったとき、親鸞の心はいよいよ暗くなり、絶望的になっていった。
だが、親鸞は、その絶望の深さと救いを求める激しい心の中で、「唯五逆と正法とをそしる者は除かれる」という、これまでの仏教界がなしていた見解、「君主や父母、僧を殺す者、仏教を非難する者は永久に救われない」という定説をくつがえして、この二つの罪が特に重いということを知らせようとして書いたもので、この二つの大罪を犯した人でも、救われなければならないという新解釈を下した。新解釈をなす以外にどうともしようがなかったというのが、当時の彼の本音であろう。そればかりか、こういう人こそ、第一に救いの対象になる人であるという考え方にも到達した。これは、従来の仏教界からすると、とんでもない考え方であり180度の転換であった。だが、親鸞はそういう考え方を強くうちださざるを得なかった。
そこには、親鸞が自分自身を徹底的にだめな人間、名利と愛欲をたちきれない人間とみたばかりか、時によっては君主や父母をも殺しかねない自分という発見があり、絶望感があった。またそれ故に、その救いを求める心は強かった。自分自身が救われるためには、彼はそういう解釈や認識をする以外になかったのである。
こうして、親鸞は、どんなに罪深い者も、どんなに愚痴っぽく恥多い者も本来救われている、救われなければならないという考えに到達した。それ故に、そういう考えに到達したことが如何に喜びの多い、歓喜に満ちたものであったか。それはそのまま、宇宙を支配する法則、歴史を貫く法則の体現者支配者としての仏を考え、その仏に救われるという思想でもあった。宇宙や歴史の不思議さ、霊妙さ、複雑さを体現する仏、さらにそれらを支配する仏である以上、絶対的な救済力、霊妙な力をもっているはずだと考えたのである。救われないのはおかしい、許されないのはおかしいという考え方である。
しかし、親鸞の考えた、仏に自分自身が救われているということは、自分の内部にある罪深いもの、愚痴っぽく、恥多いものが消滅するということではなかった。それらのものに、そのまま身をまかせることではなかった。彼自身はあくまで厳しく、自己と仏を対決させて、自分の中にある罪深いもの、恥多いものを可能なかぎり見究めつくし、それを駆逐していくことであった。死の一瞬まで。どんなに罪深く愚かな者でも、仏とむきあって、堂々とした充実した人生を送るようになる。それが彼の考え、到達した世界であった。凡夫が凡夫として、生きるということであった。誰も他人の前に、支配者や富める者の前に卑屈になることはない。支配者も富める者も皆同じように罪深いもの、愚痴っぽく、恥多い者、仏の前には平等であるという結論である。
だからこそ、親鸞は「弟子を一人も持たず」といいきり、他の人びとと一緒に自分も仏弟子だといい、仏に救われるものと考えた。そこには、悩み苦しむ自分と仲間たちがいるだけで、指導される者と指導する者、支配される者と支配する者との関係もなかった。ここには、徹底した人間平等観がある。おそらく、生命を尊び、生命の共存を願った日本人の原初的な思考が、意識的にか無意識にか継承され、発展したものと思われる。こうして、親鸞は、思想の自立を確立したのである。

だが、その親鸞の思想には、誤解されやすい面があった。それは、どんな罪深いもの、愚痴多い者も救われるということから、罪深い事、愚痴多いことも許されるということであった。そこから更に、進んで罪深いこと、愚痴多いことをしてもいいのだ、そうしてこそ、逆に救われるのだという考えも出てきた。
そうなると、もはや、親鸞の説くところとは全く逆になる。罪深い人間、愚痴っぽい人間ということを理由にして、そういうことをたちきることは出来ない人間ということを楯にして、いなおったのである。凡夫を理由に、無力を理由に、人間としての生きる努力、人間としての義務を追求する努力を進んで放棄するものが出てきた。そう考えると、何をしても勝手ということになるし、愚かで無力な者にはどんな努力も無意味ということになる。すべてをあきらめるという態度が出てくる。しかも、こういう思想が日本人の多くをとらえたのである。そんなところに、自我を確立する努力を阻むものが、あきらめが一般化し、日本の思想風土には自我を確立させないものがあるのではないかと言わせるようになったのである。少なくとも、これが重要な一つの原因であったことはたしかである。
さきに、親鸞の人間平等観には、生命を尊び、生命の共存を願う日本人の原初的思考の発展があると書いたが、ここには、同じようにその思考の悪い継承があるといえよう。どんな人間をも生命あるものとして讃美したように、ここには、罪深い者、愚痴っぽい人間を許容するものがある。それが「ミソギバライ」の観念と結びつくことによって、いよいよ、悪しき者への積極的な肯定がでてくる。許しがでてくる。親鸞の思想の悲劇的な側面がそこにある。しかし、そういう誤解される面をもちながらも、彼からみれば自分がやっと発見し、到達した世界であり、思想であった。だから、彼には、その世界やその思想からいかに苦しくとも、決して逃避するということがなかった。どんな周囲の攻撃にも、流罪というはげしい弾圧にも屈することがなかった。転向するということがなかった。それこそ、その思想を生きるしかなかったのである。それが、また、彼の周囲にいる多くの人達に、思想の自立を戦いとらせるために、役立とうとする一生であった。九十年の長い生涯は、そのための戦いに終始したといえる。

<自立の思想 目次>

第四章 自らの中に仏と法を求める……道元の思想と行動

親鸞は、宇宙を支配する法則、歴史を貫く法則そのものを仏とみ、それ故に、仏がもつ絶対的な力に人間が救われて、どんな人間でも生き甲斐と生きる喜びを見出すことが出来るという思想を展開したが、彼より二十八年おくれて誕生した道元は、その法則そのものを自分自身で究めつくすことによって、自分自身が仏になり得るという思想に到達し、その思想の具体化のために一生とりくんだ人物である。彼にとって、仏とはあらゆる現象の原因、結果を見究め、さらにあらゆる現象の意味と価値を知りつくすことによって、その心を外部のものにしばられたり、抑圧されたりすることのなくなった状態に達した人間のことをいう。いいかえれば、この世界を完全に征服し支配した人間のことである。どんなものにも支配されない人間、自分自身が支配者である人間であるといってもいい。仏教の言葉をかりるなら、「悟り」の境地に達した人のことである。
たしかに道元のいうように、宇宙の法則を究めつくしたら、なにもかも明らかになり、わからないことはなくなろう。疑問もないから悩みもなくなる。社会の矛盾を怒って、それの排除にとりくむことはあっても、それに絶望したり苦しんだりすることはなくなる。富める者と貧しい者、心豊かな者と心賎しい者、支配する者と支配される者の関係を洞察できるから、徒に歎き悲しむこともない。それが不自然であり不合理であるとみるなら、自然で合理的なものにすればよい。それにむかって実践をおこすだけである。
道元の思想をいう時、ともすると彼が宇宙の法則を究めて悟りを開くことしか説かなかったようにいうが、実は彼は宇宙の法則を究めることと同様に、その法則に即して宇宙のあるべき姿を追求したということである。だからこそ、天皇や庶民の役割や責任についても述べたし、僧の仕事についても論じたのである。それは、今日よりみれば不十分かもしれないが、当時として彼が精一杯に追求したことである。
その意味では、道元が宇宙の法則、歴史の法則として究明したものも、今日から見るとやはり十分とはいえない。しかし、彼が宇宙の法則、歴史の法則を見究めようとしたこと、その法則に即して宇宙のあるべき姿、歴史のあるべき姿を追求した態度はまことにすぐれたものであったし、その態度はあくまで、思想的自立にむかってつきすすむ者の姿であったということができる。
そのために、道元が親鸞の説くところを、「ただ舌を動かし、声を挙ぐるを仏事功徳と思える、いとはかなし。……口声をひまなくせる、春の田の蛙の晝夜になくが如し。ついに益なし。いわんや深く名利にまどわさるる輩、これらの事を捨てがたし」と考えたのも無理はない。彼には自分自身を仏にすることこそが目的であり、願いであったのである。

では、どうして、道元は宇宙や歴史の法則を究めて、仏そのものに近づこうとしたのであろうか。それは、「親鸞の思想では、名利にまどわされる心からは解放されない」という考えにあらわされているともいっていい。彼は親鸞のように、自分を名利をたちきれない者と見定めて、その考えにひらきなおることはできなかった。名利を追う心は深く強くても、それをたちきってみせる、それから解放されてみせるという自信と覚悟があった。その上に、エリートとしての自覚と使命感が彼には何よりも根強くあった。人々を救うためには、仏になる以外にない。この世の中を美しく清くするには、仏でなくては出来ないという確信があった。
親鸞は自助の道が結果的には自利利他の道になるような道を、愚禿親鸞らしく謙虚に、しかし逞しく歩いたが、道元は初めから自利利他の道を闊歩しようとした。そこに二人の歩む道は決定的に違っていた。勿論、道元も仏になることが容易とは思わなかった。至難中の至難事であるということを十二分に知っていた。知ってなお、その道を歩みつづけなければならなかったところに、彼のその時代とその時代の支配者、指導者への絶望感の深さがあった。親鸞も道元も絶望感は同じであった。
道元はその絶望感を、「無常を思う」というようにいっている。無常とは人間の運命のはかなさであり、そのはかなさを平然とながめているばかりか、時には、そのはかなさを平気で助長している支配者の破廉恥な行為である。そういう事実を知りつくすなら、彼でなくても仏となるしかないと考えよう。仏となって、人々を救おうと考えるであろう。
こうして道元は、釈迦を始めとして幾人かの先達が仏になった道を歩み出す。彼らに出来たことが自分に出来ないはずはないという確信にみちて。だがその場合、大事なことは、彼が仏になれるのは自分一人であると決して考えなかったことである。自惚れや誇りを持たなかったことである。仏になろうとするなら、そのための努力をやりとおすなら、誰でも仏になれるという確信を持ったことである。世の中で一般的にいう、賢い者とか愚かな者という区別も、男性とか女性という区別もなかった。宇宙と歴史の法則を見究めて仏になりたいという決心がかたく、釈迦たちの歩いた道を歩きつづける努力を持つなら、誰でも仏になれると確信した。彼は、人間の本質と能力において、すべての人間は同じであるとみた。もし違いがあるとすれば、それは、努力する者と努力しない者との間におこるものであるとみたのである。
しかも、努力するとしないとの差も、結局いい指導者にあうかあわないかの違いから生ずるものと道元は考えるのである。だからこそ、釈迦の思想と行動を正確に伝えうる指導者にめぐりあうことを重要視する。しかし、なんといっても、宇宙の法則、歴史の法則を究めつくすことは至難である。至難だから、ともすると最初の決心、覚悟も動揺しがちになる。彼自身も、その動揺する心を釈迦の思想と行動をひたすらに考え、思うことによって克服していったし、広く、すぐれた指導者を求めてゆくと共に、はかなく生きるしかない人々のことを徹底的に思うことによって、ややもするとひるみがちになる彼の心を強めていったのである。
道元は「生命を軽んじ、衆生をあわれむ心一度おこさずして、仏法を悟ることあるべからず」とも、また、「僧、堂裡に集まり居て、徒に眠りて何の用ぞ。然あらば、何ぞ出家して入叢林するや。見ずや、君は王道を治め、臣は忠節をつくし、庶民は田を開き鍬をとるまで、何人かたやすくして、世をすごす。是を逃れて、叢林に入って空しく時光を過ごして畢竟して何の用ぞ」ともいっている。その追求がいかに激しかったかがわかる。しかも、その追求は生きているかぎりつづく。つづけなければならないと考える。宇宙の法則、歴史の法則の究明はもうこれでいいということがないからである。まして、その法則に即してあるべき世界を構想し、そういう世界にすることには終わりというものがない。「学道の人、たとい悟りを得ても、今は至極と思うて行道をやむることなかれ、道は無窮なり」という彼の言葉がそのことをよくあらわしている。

道元は宇宙の法則、歴史の法則を見究めようとした。それは宇宙的規模で、人間や動物、植物を考えたことであるが、同時に今一つ重要なことは、宇宙の法則、歴史の法則はそのまま人間の心の法則であるとも考えたことである。心そのものの法則を究明したら、宇宙の法則、歴史の法則に到達するという考え方である。勿論、これは道元独自の思考方法ではなく仏教の思考方法であるが、彼はその考え方を徹底的におしすすめた人物である。彼はそれを坐禅という方法で究明していった。その場合、仏教教典を手がかりとし、足がかりとしたことはいうまでもない。公案といっても、結局、仏教教典の枠内のものである。
こうして、道元は心の法則を見究めることによって、宇宙と歴史の法則に近づき、宇宙と歴史の法則を見究めることによって、心の法則に、より近づいていったということができる。そういう学究生活、思索生活に彼は長い長い歳月をついやしていったが、その結果、「諸法実相」「一念三千」「一心諸法」更には「即心是仏」「三界唯心」「自證三昧」と彼の表現する世界に到達した。
自分の心と宇宙の法則を見究めることによって、この世の中を征服し、思想的自立を確立したともいえる。たしかに、彼は当時としては最高に心の法則と宇宙の法則を見究めたが、心の法則、宇宙の法則そのものは不立文字であり教外別伝であるといって、法そのものは、それを求める者、それを見究めたい者が直接に探求し自分自身で得るべきものとして、具体的にはあまり明らかにしなかった。自分の全存在で究明し、それを全存在で検証して初めて仏になると考えるのである。
そこには、法そのものを知識として知っても、法そのものを人間の全心身で究め、全心身が法そのものになるということではない。法を見究めて仏になるということは、唯単に頭脳で知識として知るということではない。不立文字とか教外別伝といったのも、人間が陥りがちである知識としての知をいましめたものである。と同時に、夥しい数の半知半解の連中、悟りをよそおい悟った風をする人間が出現することをいましめるためであった。他人の到達した結論はどこまでも他人のものである。ことに、歴史の法則という時、具体的には人間社会の法則を見究めるとともに、あるべき人間社会の姿を知りその実現にとりくむことが中心であるにもかかわらず、そのことを考えようとしないインチキ坊主が非常に沢山出ている。僧侶の出家ということは、常識の世界から法=真理の世界に移ることであるというのを知らない坊主があまりにも多い。法そのものに背をむけている坊主が多すぎる。それでいて僧侶として通用する。そのためにこそ、彼は、不立文字、教外別伝といわざるを得なかったのであろう。
日本の思想風土に、いいかげんなところで妥協し、適当にごまかし、わかったような風をする姿勢があるのも、案外、法そのものの究明を適当なところでやめ、悟ったふりをする習慣と惰性からきているのかもしれない。

しかし、道元は仏の道を生命をかけて、まっしぐらにつき進んだ。当時、中国にいくということは生命の危険にあうことであったが、敢然と中国にでかけていき、五年間の学究生活、思索生活をつづけている。その間、すぐれた師を求めて中国の各地をさまようということもしており、あくまで、仏になる道を求めつづけた。
二十八歳の時、帰国すると、京都の建仁寺にたてこもり、自分の説くところこそ仏教の神髄であり仏になれる道であると強調した。道元が天台宗や真言宗、さらには親鸞の真宗を批判し、否定してきたことはいうまでもない。
そのために、延暦寺を中心とする天台宗徒からの攻撃をうけて、ついには京都の地に住めなくなり深草の極楽寺に移った。しかし、道元は少しも批判をゆるめないどころか、逆にその批判を強めていった。ことに、彼の主著「正法眼蔵」を書きはじめ、それによって他宗を鋭く論難していった。
到底、道元の思想を論破できないと知った延暦寺の天台宗徒は、今度は朝廷に訴えて、その力で道元を追放しようとする。思想活動、宗教活動を本来使命とする天台宗徒が権力に癒着し、その奴隷となりその使命を放棄していたことは、このことでもよくわかる。宗教家、思想家がその本来の宗教活動、思想活動を放棄し、支配権力、政治権力の力をかりて他の宗教家、思想家を追放するのが始まったのは、この頃からである。道元がこういう事実にこそ絶望し、自分自身を仏にする道を新たに求めなければならなかった理由である。
当時の朝廷が天台宗徒の訴えを聞いて、道元を深草から放逐したのはいうまでもない。こうして彼は四十四歳の時、越前の国に下っていく。しかし、かえって彼の思想生活、学究生活はこの草深い土地でいよいよ深まり、事実「正法眼蔵」の三分の二は、この土地で書きあげたのである。
ことに、堕落した天台宗徒におどらされる以外になかった朝廷の実態をみたとき、道元は、支配権力としての朝廷の荒廃をとことん見ないではいられなかった。そこから「国王、大臣の帰依しきりなれば、我が道の現成と思う」ことの愚を厳しく論難せずにはいられなかったのである。道元にとっては、国王や大臣が仏の道を手がかりとして、彼ら自身変わり、仏に一歩近づくこと以外には考えられなかった。
また、そのためにも、仏になる者、仏になろうとする者を少しでも多く育てなくてならないと思った。人々を救い、喜びと感動に満ちた一生を送るように願う者をなるべく多く育てなければならないと考えたに違いない。支配権力、政治権力としての朝廷がだめとするなら、そこにしか人々の救いはない。
おそらく道元は、仏にしか、あるいは仏になろうとする者にしか、人々を支配する位置につく資格はないと考えたのではあるまいか。人々に対する政治は、そういう者のみがよくなしうると考えたのではあるまいか。いいかえれば仏の政治である。勿論、彼には、すべての人が仏になることが理想であり、求めるならすべての人が仏になれると確信したが、実際にはそれを不可能とみて、仏の政治を理想と思ったのではあるまいか。
要するに、道元はすべての生命の共存を願う日本人の原初的思想を継承し、それを核にして、すべての日本人が思想的自立のできることを、仏教の大胆な解釈によって導きだしたということがいえる。彼には、すべての人間が仏でなければならなかった。しかし、その第一段階は、政治家がまず仏であるということであった。指導者が仏でなければならなかった。それが、彼の結論である。

<自立の思想 目次>

第五章 支配権力に対決を迫る真理の発見……日親の思想と行動

親鸞が宇宙の法則、歴史の法則の体現者、支配者を仏とみ、人間はその仏によって救われていると考え、道元が宇宙の法則、歴史の法則を見究めた者を仏とみ、人間はその仏にならねばならないと考えた時、日本人にとって精神的権威であり、支配的権力であった天皇も人間の一人として救われねばならない、あるいは仏にならねばならないと考えたことは明白である。事実、歴代の天皇の中には、自分自身を仏の前にそういう人間として考えた者もいる。
だが、親鸞も道元も、天皇をさして明確にそういったわけではない。彼らの思想からみれば、当然そうならねばならないと私が言うだけである。しかし彼らと違って、彼らに少しおくれて誕生した日蓮は、そのことをはっきりと断言した。
即ち、日蓮は「国王となりて、悪人を愛し善人を科に当つれば、必ずその国、他国に破らる」といいきる。その場合、彼がいう善人とは法華経を信じ、その精神と思想を行ずる人のことであり、悪人とは、いうまでもなく法華経を信じ行ずる人の邪魔をする人のことである。彼にとっては、法華経を信じ行ずることが唯一の真理であり、それ以外は全部あやまっているということになる。
天皇も幕府の執権もともに、法華経を信じ、法華経を行じなければならないとするのが日蓮の考えである。そこには少しの妥協もない。だからこそ、日蓮は生きているかぎり、精神的権威としての天皇、政治的権力としての幕府と徹頭徹尾抗争しなければならなかった。死罪、流罪の危険をおかして戦いぬいた。
法華経を信じ行ずることが唯一の真理であり、天皇は勿論、執権も一般の人々もともに、それを信じ行じなくてならないと当時の政治的思想的状況の中で言いきった日蓮は、まことに勇気のある思想家であったが、それ以上に、その思想を一生涯実践しつづけたということは、偉大とか立派とかの言葉では言いつくせないものがある。文字通り、思想的巨人であったといわねばならない。
では、どのようにして日蓮は、自分の生命を平然とかけられるほどの思想的自立を戦いとったのであろうか。
最初、清澄寺で勉学した彼は二十一歳の時、更めて比叡山延暦寺にゆき、三十二歳で山を下りるまで彼の疑問にひたすらとりくんだ。その疑問とは、口では仏教といいながら、律宗、法相宗、真言宗、天台宗、真宗、禅宗などがいろいろあって、お互いに正統をいいあらそっているのは何故か。国内は不安定で、人々が苦しんでいるのは何故か。その苦しみを天台宗や禅宗が救えないのは何故かということであった。
彼はその疑問を解くために真宗、禅宗、真言宗、天台宗などの各宗を徹底的に研究するとともに、儒教、神道なども学んでいく。その研究は十二年間もつづいたが、その結果、次のような結論に到達した。「法華経は諸経の中で最もすぐれた経典であるのに、各宗はそれを認めようとしない。今必要なのは法華経が諸経の中で最もすぐれていることを信じて、それを行ずることにある。国内が平安でなく、人々が苦しんでいるのも、他の経典が信じられているためである」と。
この結論に到達した時、日蓮は非常に強く歓喜した。どんなに強い確信と誇りをいだいたことか。だが、誰も彼の結論に耳を傾けようとはしなかった。そうなると彼としては比叡山を下り、彼の結論に耳を傾け共鳴する人間を発見し、つくっていく以外にない。それは彼の責任であり、義務でもあった。こうして彼の布教生活が始まった。
「我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん」との三つの誓願をなしたのは、その時である。

日蓮のこの思想は、彼が実践していっただけでなく、日蓮のあとにも、それを実践し発展させていく人々が次々にあらわれた。日親もその一人であるが、彼の場合は、日蓮の再来といわれるほどに人々の感歎と共鳴をひきおこした。
その日親が誕生したのは、日蓮の没後125年、1407年である。十一歳の時に仏教を学ぼうと決心し、日蓮宗の日英に弟子入りした。日英は彼の叔父でもある。彼は、ひたすらに日蓮の思想を追求した。追求していけばいく程に、大きな疑問と不満にぶつかった。それは日蓮が法華経を信じ、法華経を行ずることを唯一の真理であると見究め、それを信じ行ずるためには少しの妥協も怠りもなかったにもかかわらず、今、日蓮の思想を奉ずる人々は、徒に政治的権力に卑屈に妥協しているということであった。
当時、将軍は義教、義勝、義政の時代であったが、幕府内の権力争いはたえず、ついに将軍義教は殺されるということまでおきている。政治的権力の堕落腐敗は当然、飢饉をひきおこし多数の人々を死に追いやった。そのために土一揆、徳政一揆はつぎつぎにおこる。しかも、延暦寺、興福寺、東大寺、園城寺の僧徒たちは相変わらず暴れまわって、その解決にとりくもうとしない。
こういう政治状況、思想状況を見て日親は激怒した。激怒するとともに、大いに悲しんだ。そこから彼の決心がうまれる。
「我、今やほぼ、仏教の正邪と国家興廃の因縁とを知る。まさに、今日より、日蓮大聖人の遺教を奉じ、法華一乘の法を弘めて、此の国を救いまつらん」と。
だが、日親は、この決心をすることがすばらしいのではなく、その決心をどんな弾圧の中でもどこまでも持続させ、発展させていくところに意味があると考えた。ことに日蓮の一生を考えた時、そのことを痛感した。決心だけなら、その事を知ったほどの者なら誰にでも容易に出来る。しかし、死罪、流罪の危険を覚悟しなくては、今の政治的権力を否定するような真理は到底主張できない。だから、この決心をする時が同時に、死罪、流罪を覚悟する時でなければならないと知ったのである。死罪、流罪の覚悟なしに、なされる決心は初めから挫折がわかっているようなものである。まして、死罪、流罪を覚悟する者には、拷問とか窮乏した生活は当然、甘受しなければならないと考えた。
こうして、日親の拷問にそなえての鍛錬の生活が始まる。まず彼は百日の願いをかけて、毎夜、山中深くわけいり南無妙法蓮華経のお題目をとなえるという苦行をやってのけた。それにより、心膽を練り困難にうちかつ心を養おうとしたのである。次には、毎日ひとつずつ指の爪をぬき、そのあとに針をさし十七日間毎日熱湯の中に両手をいれ、湯のさめるまでひたしたということである。聞いただけでもゾッとするような難行苦行である。だが、彼はその難行苦行にうちかったのである。その喜びと自信がいかに絶大なものであったかが想像できよう。
日親はあらためて、法華経を信じ、行ずる道をまっしぐらに歩みつづけようと決心する。もう恐れるものは何もないと考えたからである。この時、彼は二十一歳。早速、天皇と将軍のいる京都にのりこんでいった。日本中の人々を法華経の信者とし、行者とするには、さしあたって日本最高の権力者、実力者である将軍をその信者にし、行者にすることが早道であると考えたためである。
しかし、日親がいかにそう思っても、すぐに将軍を改宗させることは容易でない。その準備段階として、まず京都の人々に向かって、次には九州の人々に説いてまわった。彼の説くところを聞いて、他宗の人々は激昂し、悪口をいう者や石をなげる者が次々に出た。彼はそれに対抗して、「我を罵詈せんものは、その舌より成仏せしめん。我を打擲せんものは、その手より成仏せしめん。我を睨み、我を蹴らんものは、その眼、その足より成仏せしめん。我は罵詈をもいとわず、瓦石杖木をもいとわじ。これ、皆、法華経の行者の色読すべき経文なるぞや」といいきったのである。
日親の自信と誇りにみちた獅子吼えをきいて、共鳴するものが次第に増加していった。こういう生活が約十年間つづいた時、彼の勢力は隠然たるものになった。この力を背景にして、彼は将軍義教と対決した。時に、日親三十三歳。思想的にも肉体的にも充実しきった時であった。
日親は、まず義教に改宗をせまった。国内が乱れ、国民が苦しむのは法華経を信じ、行じないためであると直諫した。義教は将軍職につくまえは、延暦寺の長であったほどの男、しかも、今は絶対的な権力をにぎる男である。怒りに怒った。将軍はその権力を背景に、
「重ねて申せば、重き罪科に申しつける」といったが、彼は少しもひるまない。
「私は仏弟子にて候。何ぞ公命をおそれて、仏勅にそむき候わんや。公方に公方の思召あらば、私には私の所存候。我が願業を達せんまでは、決して、この口を閉じ候まじ」と断言する。こうして、日親と義教の第一回の対決は決裂する。
翌年になると、日親は再び義教への直諫を考え、まず日蓮の「立正安国論」の故知にならって「立正治国論」を著して、それによって義教の改宗を迫ろうとした。いつか、その計画は義教の耳に入り、ついに逮捕されてしまう。二月六日のことである。
日親が入れられた牢獄は、その高さ四尺五寸、広さは四畳、その上に天井からは一面に大釘が打たれていた。そこに三十六人も押しこんだというのである。さすがの獄吏も見るに見かねて八人に減じたという。
入牢して五ヵ月目、折柄の炎天下に、彼を獄の庭にひきずり出し、そのまわりに薪をつみかさね、これに火をつけた。冬になると今度は夜、庭にひきだし、水ぜめ、雪ぜめにあわせながら彼に改宗をせまった。改宗を求める彼に、逆に権力をもって改宗を求めたのである。勿論、日親は改宗をがえんじない。
怒った義教は、次には、むし風呂に三時間もいれたがそれでも改宗しない。ねかせて、水をつぎつぎに口からそそいだが、それでも参ったといわない。竹串で陰茎をさしたが屈伏しない。とうとう、赤熱した鍋を彼の頭上にかぶせた。吹きだす煙と異様な臭い。しかし、日親は悲鳴をあげなかった。たまりかねた義教は彼の舌をきるように命じたが、獄吏はおそれをなして、舌の先を少しだけ切ったともいう。
このため、日親は言語に明瞭さをか欠くようになった。実にこのような拷問が一年半も続いたのである。だが、彼はその拷問にうちかった。屈することがなかった。日親を「なべかむり」日親というのは、この時からである。
義教が赤松満祐に殺された時、幕府は初めて日親を獄から出した。大赦という名目で。一説には、義教が殺されることを彼が予言したともいう。人々の中には、「日親を苦しめたから、その罪をうけたのだ」とうわさする者もいた。日親と義教の戦いは一応、義教の死で終止符をうち、日親の勝利に帰した。しかし、次の将軍義勝が法華経を信じ行ずるでもなく、国内が平静にむかって一歩前進するでもなかった。それどころか将軍義教の死は、支配的権力として将軍の統率力の弱さ、政治力の無さを世の中にしめすことになり、これ以後、土一揆、徳政一揆、一向一揆などいよいよ激化し、権力争いはますます熾烈化していったのである。
これを見て、日親は今迄以上に自信を強め、布教の情熱をもやしていった。こうして備後、出雲、美作、播磨、和泉、能登、越前の各地に、彼の思想運動を強力に展開した。そのために逮捕されることもおきたが、勿論それで鉾先が鈍る彼ではない。それがかえって刺激となって、強まっていく傾向にあった。
こういう生活が、八十二歳で亡くなるまでつづくのである。その持続力、活動力は真に驚くべきものであった。しかも、この徹底した彼の生き方が、後に、日奥、日遠、日述などの思想と行動をひきおこすことにもなる。文字通り、ここには一つの真理のために戦いぬいた一生、一つの真理に捧げきった一生がある。鋭く、全存在で政治的権力と対決して、決して妥協することのなかった精神がある。姿勢がある。
日本にも、こういうすばらしい伝統があるのである。自己主張をどんな妨害にも変えない精神の伝統があるのである。これは例外だという者には、決して、伝統のもつ重さと意味はわからない。

<自立の思想 目次>

第六章 権力への追従を拒否させたもの……千利休の思想と行動

1488年(長享二年)、日親が死んだ頃は、いよいよ国中の乱れは激しくなっていた。幕府の権力はさらに落ちていたし、人々は自分の生活をまもるために、土一揆、徳政一揆、一向一揆をおこしていった。一揆をおこす以外になかったということである。この頃から、所謂戦国時代に入ってゆく。戦国時代といえば、普通、戦いにあけくれた暗い時代、弱肉強食の時代、下剋上が頂点に達した時代という印象がある。だが、見方、考え方を変えてみると、この戦国時代ほど人々が他人のためにでなく、自分自身のために力一杯思い通りに生きた時代、また支配権力、政治権力を意識しなくてよかった時代は、日本史の上でもあまりなかったといえる。
人々の生命が最も燃焼した時代ということである。下剋上とは、そういうことである。親鸞、道元、日蓮の思想が二百年の歴史を経て、人々の中に定着していったということも考えられる。自分のための人生を送り、他の何人のためにも生きないという思想が深く人々の中に生き始めたといえる。その意味では、仏教が日本に伝わってから現代に到るまで、仏教が最も生命をもって、人々を動かした時代であったということもできる。山城一揆などもそのあらわれである。
だから、戦国時代は、暗い時代、下剋上の時代であったというよりは、むしろ、生命が燃焼した時代、可能性にみちみちた時代ということになる。反対に、明るい時代であったともいえる。
その證拠の一つとして、堺の町を中心に商人層が非常な勢いで進出し、日本中の富の殆んどをその地に集めたことが考えられる。しかも、そればかりでなく、その町を商人自身の手で治めるというところまでいったのである。勿論、全ての商人が参加した自治ではなかったが、商人層が武士層とならんでその地位を確立した。堺ほどではなかったにしても、当時、酒田、桑名、博多という町々は、みな商人が支配していた。
千利休は、こういう商人層の進出と勃興を背景にして登場し、茶道の極致を究めた人物である。そして、当時の最高の支配権力者と争った男でもあった。堺の町とか、商人層の進出ということなしには、決して彼は出現しなかったであろうといっても言いすぎではあるまい。

利休が生まれたのは、1522年と推定されているが明らかではない。茶道の確立者として一世を風靡した彼であるが、それは後のことで、当時の一般商人の場合、生まれた年月など明らかでないのが普通である。武士にくらべて、それだけ社会的身分が低かったともいえる。
それはともかくとして、利休が家督をついで、堺商人としての活動を開始したのが十四、五歳のころらしい。彼は家業に専念するかたわら、堺の文化的雰囲気に影響されて、茶の湯に深い関心をいだきはじめる。ついで、道陳、紹鴎について、本格的に茶の湯を学びはじめる。紹鴎というのは、珠光、宗陳、宗悟とつづいた茶の湯を学んで、わび茶を確立した人物である。
利休の茶の湯も三十歳、四十歳と年齢が進むにつれて、だんだんとその芸域を高めていった。しかし商人の自治の町堺も、織田信長の登場により、とうとう信長の支配下におかれてしまい、利休も今井宗久、津田宗及とならんで彼の側近として仕える。勿論、茶人として茶頭としてであったことはいうまでもない。利休、五十四歳の時である(1522年生まれと推定した時で、以下この推定による)。これは堺の茶人から一躍して、天下の利休になったことをも意味していた。それは、この頃の利休が、その地位にふさわしい茶境と技量を身につけていたということでもある。ことに、その独創性によって、独自の茶の湯を想像しつつあった。
だが、利休はあくまで信長に仕える茶人であり、信長に征服された堺の商人であった。そのために、茶人として彼がいかほどに前進し成長しても、信長に支配されている意識が働いていたと思われる。利休自身も、政治的権力者信長に茶人として対立しようと考えたことはなかったようである。政治的権威に匹敵しうる権威が、茶人としての自分の中にあるということを感じなかったということもあろう。そうであれば、政治に従属しない茶の湯そのものの価値を認めるということもなかったといえよう。茶の湯を唯一独自の価値として創造しなくてならないという考えもおこらなかったということである。
しかし1582年、信長が殺された時、利休の世界は急激に変わっていった。初めて、彼の支配者を意識しない、自由な立場に立つことができたのである。もはや、彼を支配する政治的権力者も、彼の心においかぶさる人物もいなかった。茶人として自由自在に生き、その識見、才能を思う存分に伸ばしていけばよい自分自身を発見した。それに年齢もすでに六十一歳。茶人としての自信もあったろうし、茶境にも著しい進歩を発見していた。
信長のあとを襲って、政治的権力者にのしあがった豊臣秀吉も所詮は、この時代を背景にして農民の子から出た者、ことに信長の生存時代は、彼が信長の茶頭であった時に、秀吉は信長の一部将にすぎなかった。しかも、秀吉は農民出身という劣等感を克服するために、茶の湯を一生懸命に学ぶという有様であった。その意味では、利休は秀吉に対して優越した位置にあったということができる。
秀吉が政治権力者の位置についた時、利休はその秀吉に一応仕える形をとったが、すでに秀吉に隷属する男、支配される男ではなかった。秀吉の政治権力に対抗しうるものを、茶の湯を通して発見し、確立していたともいえよう。茶の湯そのものを秀吉の政治権力に匹敵するものにしていたといってもいい。もし彼に仕えるものがあるとすれば、それはむしろ、政治的権力者としての秀吉が利休の茶の湯を圧迫してきた時、果敢にたちむかうことに彼の喜びがあり、茶の湯とはそういうものであると当時思っていたかもしれない。。
では、利休が秀吉の政治権力と拮抗しうると考えた「茶の湯」とは、何を意味するのであろうか。時として、秀吉の政治的権力を凌駕すると考えた「茶の湯」の思想と価値とは何であったのであろうか。

利休が「利休」という居士号を名のったのは彼の六十四歳の時であるが、この「利休」という居士号に、彼の「茶の湯」に対する考え方も出ている。一般に、この利休という名は名利共休説から出たもので、名利を忘れよと警めたものであるとか、名誉欲、利財欲の奴隷にならず、それらを自由自在に駆使できる境地に到達したものであるといわれている。利休その人からみると、後の解釈がふさわしいように思う。要するに彼という人間は、一つの型にはめこむことのできないスケールの大きさをもっていた。
普通、欲望のままに、欲望の奴隷として生きることしかできない人間。利休はそういう人間から、欲望を自由自在に駆使できる人間になることを求めた。自分の欲望から解放されたいと欲するほどの者は、当然誰からも支配されまいと思う。利休はそれを求めて、そこに到達した。茶の湯によって到達した。それが「利休」という号になってあらわれたのである。利休にとって、「利休」という境地に到達することも、茶の湯そのものを見究めることも別々のものでなかった。いいかえれば、彼は茶の湯を通じて自分の欲望から独立し、さらに此の世界を征服していくことにより、自由人になろうとした。思想的自立を確立したといってもいい。
三畳、二畳半の小座敷を茶室に考えたのも、三畳、二畳半あれば十分に、その茶室が宇宙そのものをあらわせると考えたからである。彼にとっては、三畳の茶室が宇宙であったし、また宇宙でなくてはならなかった。この茶室に宇宙そのものを観じ、宇宙そのものを感ずることの出来ない者には茶の湯をする資格はないとみた。そして、この茶室一杯に自分自身を拡大させ、自分が完全に茶室を支配しきることを求めたのである。
しかし、それと同時に、お茶をたてるという一つ一つのきびしい所作の中に、最も鋭く凝縮させた自分自身を投入していく。そこには、富も地位もなければ美も醜もない。それらの一切を征服しつくそうとする覚悟と姿勢があるだけである。
しかし、茶室の中での自分自身を凝視するとは、自分自身が極小であるということを知ることであったし、誰もが極小であるということを発見することでもあった。誰にも、おごりたかぶることを認めないと同時に、誰にも、へりくだる心を拒否することであった。
利休が概して、棗、茶碗、湯次、湯盆、菓子器など黒色のものを愛したのも富貴を拒否するとともに、めだたぬ美しさに美を発見したからであろう。それに木地の物や竹の道具を好んだのも、彼の審美観をしめすと同時に、素朴を愛したためである。だからこそ、農村や漁村の貧しい人々の生活様式の中から、彼自身の美を発見したのである。
普通、利休の到達した境地を「わび」という言葉でいいあらわしているが、彼の高弟山上宗二はそれを「一物も持たず」と説明している。「一物も持たず」ということは乏しいということであり、富も地位も永遠なものでなく、はかないものであるということを知りつくすことである。世界と宇宙を所有する物からみれば、富の大小とか地位の高低などということも、全く些細なことであるという意味である。要するに「一物も持たず」ということは、世界を所有し世界そのものになるということである。そこには、裸と裸の人間があるだけである。
そのことを利休は、茶の湯をする者には「志」と「忍」と「器」だけが必要だというように表現している。「志」とは茶の湯に対する志であり、「忍」とは人間としての反省であり、「器」とは人格である。彼は、裸の人間、生地の人間だけが問題であるというのである。よけいなものを取りはらい、身につけた飾りものを取りはらったあとに、人間の価値として残るものは、「志」であり「忍」と「器」だという。それに、人間の最後のよりどころ、消滅することのない宝をみたのである。

そういう利休には、黄金の茶室をつくる秀吉は許せない存在であった。ことに政治的権力者として、その権力をほしいままにしようとする秀吉は許すことができない。はじめ信長の亡くなった当時は、利休も秀吉もお互いを利用し、活用していった観がある。たしかに信長当時、利休は宗久、宗及につぐ地位にあったが、秀吉時代になると秀吉と組むことによって、その地位は逆転する。一方、秀吉も利休によって、茶の湯でも信長の後継者であるということを人々に印象づけた。だがそれ以上に、二人はお互いの生き方を認め、信頼し、尊敬するものがあった。二人はそれぞれに自分の道を進んでいく中に、相手を認め、相手から学んでいった。利休は抽象の世界を征服しようとし、秀吉は現実の世界を征服していこうとしたことにおいて。だが、秀吉の眼が利休の世界にそそがれ、利休の世界をも征服しようという野望にとりつかれ始めると、二人の関係は微妙になってきた。二人は共存できなくなる。
それは1590年、小田原征伐を終わった頃から、二人の間がおかしくなったことでもはっきりしている。それに秀吉は黄金の茶室をつくったように、すべて豪勢なものを求める傾向であるのに対して、利休は豪勢さを否定した「わび」を求めた。茶の湯に求めるものは、二人の間で根本的に対立した。結局、秀吉は茶の湯そのものを、政治的権力者としてその権力をたかめ、強めるものとして利用したにすぎない。いうまでもなく茶の湯を政治に従属させた。
これは、利休の茶の湯からすれば、絶対に許容できないことである。茶の湯の思想がわからぬ馬鹿者ということになる。それを認めることは、彼の敗北ということだけでなく、長い間茶の湯に全精魂をこめて追求し、茶の湯を創造してきたことが全く無意味になる。利休の茶の湯は自由であり、自立であり、最高の価値であるという自認を否定することである。
利休に、秀吉を無視するような行動がいくつか出てきたのは、それからである。その一つは、秀吉の怒りをうけて配流される古溪宗陳を、秀吉の膝もとの聚楽第内の屋敷に招いて、送別の茶の会を催したことである。その二つは、大徳寺の山門金毛閣の桜上につくった十六の羅漢像の中に、雪踏をはき杖をついた利休自身の木像をつくったことである。
利休が何のために、それをつくったかということは理解できない。ことに、おごりたかぶることを警め、乏しく生きることを信条としたのが彼の態度である。一説には、秀吉の寵になれておごりたかぶったというが、そうだとすると、彼にとって茶の湯は一体何であったかということになる。単なる俗物にすぎなくなる。それは彼の自殺から考えてもおかしい。それとなく、茶人としての利休に、権力者秀吉もぬかづく以外にないということを知らせたかったのであろうか。それとも、傲慢不遜の秀吉に、そのことを知らせたかったのであろうか。
いずれにせよ、この木像事件がきっかけとなり利休は追放される。初め秀吉から彼をとがめる手紙がとどいた時、彼は困惑し大徳寺に相談したり、細川幽斎に相談したともいう。しかし、名案がないと知ると床につくほどにがっかりしている。こんな大事件になるとは思ってもみなかったように。
しかし、だめだとなると利休は覚悟した。七十歳の今日まで茶の湯のみに生きてきた利休が、その思想と精神の異なる秀吉のもとに、いたずらに生きて老醜をさらし、その茶の湯の思想と精神をゆがめることを恥じたともいえる。友人たちが赦罪運動することにもはっきりと拒絶している。
秀吉としては、利休の謝罪を期待したであろうし、謝罪することで赦すつもりでいたかもしれない。彼としては、自信と誇りにみちた利休、自分の道を真一文字に生きていくような利休を、政治的権力者である自分の前に頭を下げさせてみたかったのかもしれない。それによって、政治的にも文化的にも第一人者となりたかったのかもしれない。それが子供じみた事であるとも知らずに。
だが、利休はそれを拒絶した。子供じみたことであると知っても、彼の誇りが、茶の湯の精神がそれを許さなかった。彼は進んで死をえらんだ。死によって、彼は茶の湯に生きる精神と姿勢を秀吉だけでなく、多くの人々にみせた。そのきびしさを知らせた。同時に、秀吉に支配し征服できない世界があるということを思いしらせた。簡単には、政治的権力者が芸術的権威を入手することはできないことを思いしらせた。
利休は、死によって自らの面目と真骨頂を貫いた。芸術の価値と権威は、政治的権威と同じであるということを示した。それは、多様な価値と権威が存在することを証明することでもあった。いずれにせよ、利休が芸術の価値を主張して、政治権力者に屈しなかったという事実は、大きな意味をもっている。

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第七章 自らを欺かず、仁義を実践……大塩中斎の思想と行動

1837年(天保八年)二月十九日、大阪に一つの暴動がおこった。その暴動をひきおこしたのが、幕府の元与力大塩中斎を中心とした人々であっただけに、人々を驚かせ、とくに幕府を驚かせた。それは、鎮圧にのりだした東町奉行跡部山城守良弼が大阪天満の真っ只中で馬から逆さに落ち、老中水野忠邦が午後二時にはきまって退出していたのが、この報がついた日だけは夕刻までいて他の老中と協議したことでも明らかである。幕府の首脳がいかに驚いたかという証拠である。
事実、その暴動をきっかけとして、幕藩体制は大きくくずれはじめる。幕府権力に対して、武力で対抗しようとする空気と姿勢が、人々の中に徐々にではあるが作られていったのである。その意味では、まさに画期的な事件であった。ことに、「四海困窮致し候わば、天祿ながく絶たん。小人に国家をおさめしめば、災害ならび至る。……下民を悩まし、苦しめ候諸役人を先ず誅伐いたし、引きつづき、驕に長じ居り候大阪市中の金持ちの町人どもを誅戮および申すべく候」という檄文は、幕政そのものへの批判を意味していた。
だが、直接には、大阪の町奉行所役人と富豪にむかっての戦いであったが、彼の戦いの窮極の目的は幕府の首脳に対してであった。というのは、天保二年から始まった慢性的な飢饉は、天保七年になるとその頂点に達し、餓死する者は何十万人という数にのぼる。当然、飢えた人達は打ちこわしや一揆をつぎつぎにおこし、なかには数万人も参加する一揆もおこっている。とくに大阪における米価の高騰は甚だしく、そのために、一日に多い時には180人もの餓死者が出る有様であった。こういう時に、東町奉行跡部良弼は幕府の命令通り、大阪、京都で米を買い集めて、その米を江戸に送った。ますます市中の者が苦しむ。しかも富豪の商人はそれにつけこんで、ぼろい儲けをした。
中斎が「小人に国家をおさめしめば、災害ならび至る」という時の小人は、明らかにこういうことをやってのける幕府の老中をさしている。だが、大阪に住む彼として、大阪の町奉行の責任を問うしかなかったとみるべきである。政治の責任者としての老中を問罪することが出来るなら、当然それをやったであろう。それが出来なかっただけである。
だから、参加する者もわずかに三百人、暴動をおこして、たった半日で鎮定されるような行動をおこしたのである。暴動をおこすために、半年間は準備したといわれるが、それによって成功するという自信も見透しもなかったであろう。それでも蹶起せずにはいられなかったのである。
中斎には、蹶起することだけが重要であった。人々が餓死し、苦しむ姿を平然とみている老中や役人と一緒に、この世に生存することが出来なくなったのである。老中や役人の行為は許されないということを、人々にただ知らせたかったのである。中斎がそういう思いになり、暴動という徹底した行動にふみきるようになった理由を考えてみたい。

中斎は1793年(寛政五年)一月二十二日、敬高の子として大阪に生まれた。中斎が七歳の時父を失い、その翌年にはつづいて母も亡くなったので、その後はもっぱら祖父母に養われた。大阪町奉行組与力の家を継いだのは、彼の二十六歳の時。与力としての中斎は、切支丹逮捕、奸吏糺弾、破戒僧遠島などをやってのけ、能吏として認められた。だが町奉行高井実徳がその職を辞した時、彼もその職を養子にゆずり隠居した。三十八歳の時である。彼が学問に専心するのは、それからである。専心するために職を辞したといってもいい。
彼の学問は陽明学であるが、その陽明学を中斎が学ぶようになったのは、当時の学者が徒に訓詁にのみ心を使い、学問の本質とか学者の使命ということを真剣に考えようとしないのを見て、非常に失望したことがきっかけであった。彼は、迷い、悩み、考えつづけた中で、陽明学が真の学問であり、真の学者に導いてくれるものだということをさぐりあてた。陽明学が単なる物知りをつくろうとしていないことを、口舌の徒をつくろうとしていないことを知った。
恐らく、中斎が陽明学をそのようにさぐりあてたのは、彼の二十三、四歳の頃であろうが、それ以後、彼の陽明学についての研究と思索がつづく。彼が退職し学問に専念する時間を多くもちたいと思ったのも、陽明学の研究と思索を深め、徹底したいためであった。
その結果、中斎が到達した思想の内容は、次のようなものであった。

中斎の思想は、要約すると、太虚と良知の二つにつきる。「太虚は、形なくして而して靈明なり。万理万有を括して播賦流行す」と彼が書いているように、太虚とは宇宙のあらゆるものを包括し、また、あらゆるものに遍在しているものである。これを人間に即していうならば、どんな人間にも、即ち支配者にも被支配者にも、また賢者にも愚者にもあるということである。彼はそのことを「人これをうけて、以て心となす」と言っている。
中斎は、どんな人間も本来太虚を具有していると考えた。その意味で、人間は同じ価値であり、同じ価値でなければならないと考えた。しかし、太虚を具有しているということが、太虚を具現しているということとは違う。必要なことは、その太虚を具現することであり、そのためには良知がいるというのが彼の意見である。
現実の人間がいろいろと程度の差があり、大変異なっているのは、その良知の程度によるという考えである。「心太虚に帰せんとすれば、宜しく、良知を致すべし」といったのもそのためである。彼にとっては、良知の有無、良知の程度が人間にとって決定的な意味をもってくる。
しかも、その良知とは、結局「仁は即ち良知」「良知を致すの学は、ただ人を欺かざるのみならず、先ず、自ら欺くなきなり」「それ、良知は天を生じ、地を生じ、仁を生じ、義を生じ、礼智を生ずるの主宰なり」ということにつきている。自らを欺かず、仁と義を実践すればいいというのである。
そこから、「政の道は実に、その害する者を去るにつく」という見解にもなる。しかし中斎は、仁、義をいっておればよいというのではなく、進んで「もし、仁義を言いて利を言わずんば、則ち、迂腐の套語にして、決して国を治め、天下を平らけくするべからざるなり」ともいうのである。「それ、民間の財を生ずる。則ち国家の財を生ずるなり。国その中に在り」ともいうのである。
こういう意見をもつなら、大阪の町奉行や富豪を人々を害する者とみただけでなく、老中への批判も当然あったということが考えられる。檄文の中には、徳川家康を仁政の人として肯定していたが、彼自身の研究がすすめば、家康のみならず幕藩体制そのものの批判も必ず出てきたであろう。彼の太虚と良知の思想は、そこまでゆくものをもっていた。そこまでいかないとすれば、太虚と良知の思想を徹底させなかったというしかない。しかし、それは、中斎が究明の途中で蹶起したために出来なかった。それにしても、当時、絶大な権力をもっていた幕府にたちむかっていった彼の勇気とエネルギーの秘密は、非常に興味がある。
中斎は「学を論じ、道を明らかにして、而して、その用なき者は即天に背く。いわゆる異端の教」とか「その義に当たるや、その身の禍福生死を顧みずして、而して、果敢に之を行う」といっているように、良知と同じように、良能を重視した。それに彼が良知という時には、その中に良能ということも含まれていた。良能にまでいかない良知というものはないというのが、彼の見解でもあった。
良知は良能でなくてならないことを、中斎は「気を養うを知って理を明らかにせざれば、則ち、勇にちかし。而して、道を体するは誠にかたし。理を明らかにするを知って、而して、気を養わざれば、即ち、怯にちかし。而して、道をふむこと実にかたし。故に、聖学の極は、理気をして合一せしむるにあり」と表現している。また、「儒者は理を明らかにして、気を養わず」ともいう。
それというのも、「人は即ち天なり」「天はわが心なり、心は万有を包含するなり」「心太虚に帰するは、他にあらず。人欲を去り、天理を存すれば、即ち太虚なり」といっているように、心の中に理があり、理の中に心があって、本来、心と理は一つのものであり、心と理を同時に発現できるのは行動によってのみであるという認識から、良知は良能をふくんでいると考えたのである。それこそ、良知は良能でなくてはならない。良能を含まない良知というものはあり得ないということになる。
そう考えると、良知であるためには、良知を実証するためには、たとえ生命を賭したような行動でもやる以外にないということになる。敗れるとわかったことでも断行する以外にない。それが良知ということでもある。その意味では、良知を言うことは非常にきびしい。その発言には、常に責任と義務が伴っている。

こうして中斎は、その良知観を確立しそれを実践することによって、思想的自立をなしとげることができた。そこには彼の行動をさまたげるものは何もないし、彼を従属させるものもない。彼はただ、自分の良知の命ずるままに行動するだけである。
しかし、彼の思想的自立は主観的なものであっても、客観的には、まだ十分に自立していたとはいえなかった。それは、彼の良知が幕藩体制そのもの、即ち時の政治的権力を批判することができず、結局それに従属するしかなかったといことである。幕藩体制を批判しつくし、のりこえることによって、幕藩体制から自由になりきるということが出来なかったということである。いいかえれば、幕藩体制の枠内での自立でしかなかった。
それというのも、中斎の良知が、まだ十分に究めつくされたものではなかったということである。理と心の究明が不十分であった。その究明が、全体的、現実的、具体的究明になっていなかったと言ってもいい。
太虚と良知の視点を中斎は一応確立したが、良知の内容については、まだ究明の途中であった。まだまだ、多くのことを究明しなければならなかったのである。しかし、彼が四十五歳で暴動にたちあがり、理と心の究明を途中でやめてしまったということが、果たして駄目であったか、それともよかったか、早急にはいえない。
ことにこの事件の影響を考えてみると、戦斗はわずか一日で終わり、一ヶ月後には中斎が自刃しているにもかかわらず、それから一年半も経ってやっと刑がきまり、彼らの死骸を磔にするという念の入れ方であったことを思えば、幕府権力をいかに深く苦しめ、ゆるがせたかがわかろうというものだ。
しかも、この暴動で家を焼かれた人達が中斎のことを「大塩様」と呼び、近在の農民はその檄文を転写し、手習いの手本にしたということである。そればかりか、この事件は講談や芝居になって全国各地にひろがってゆき、それに刺激されて、「大塩の残党」とか「大塩の門弟」と名乗る一揆や打ちこわしをいたるところに引き起こした。さらに、西郷隆盛、横井小楠、吉田松陰などを呼びおこし、ついに幕藩体制を仆し、人間の自由と平等に一歩近づいた明治維新を達成するのである。
中斎のおこした暴動の意味はまことに大きい。幕藩体制を批判する良知に彼が到達するよりも、もっともっと大きい歴史的意味をもっていた。

陽明学の創始者王陽明(1472〜1528)その人は、中国で農民の暴動を鎮圧したような人であるが、中斎はその思想を発展的に学ぶことにより、農民のために死んだ。非常な違いである。陽明学が日本に伝わって三百年。中斎という人間を得て、やっと陽明学が日本人自身の思想として、発展的にしかも主体的に定着したといえる。それは仏教が日本に入って数百年経って、やっと親鸞、道元により日本人自身の思想となったことに似ている。
しかも中斎の思想の中にある人間平等観、それは記・紀当時の日本人から受け継ぎ、陽明学を通してさらに明確に発展させ、明治以後には日本人の中にヨーロッパ的な平等思想を非常に受け入れやすいものにしたのである。

<自立の思想 目次>

第八章 日本と自分の自立を構想しつづけた生涯……吉田松陰の世界

松陰の短い生涯は、日本人としての彼があの当時に、その生命と交換に、その思想的自立を戦いとったということにつきている。もう少し具体的に言えば、西洋資本主義国の侵略と攻撃の前に、いかにして日本の独立をまもるか、それも日本が敗れないだけでなく、道義的な国民国家として西洋諸国の中に打ち出していくかということを探り続け、その道を強力に歩みつづけたために、その短い生涯を閉じるしかなかったということである。
ではどのようにして、彼自身が自立すると同時に、日本が独立できる道を究明していったのであろうか。そして、実際に彼と日本が自立し、独立できる道を究明し構想したのであろうか。

松陰は1830年(天保元年)、半農半士である杉百合之助の次男として萩に生まれた。山鹿流兵学師範吉田大助の養子となったのが五歳。翌年、大助が死んだので、六歳で吉田家を継いだ。松陰が幼い時から家学の山鹿流兵学を学んだことはいうまでもない。こうして彼は、「彼を知り、己れを知れば、百戦あやうからず」という兵法の本質を、その頭脳にきざみこむことになる。いつ、いかなる時にも、その視点でものを見、考えていく姿勢を身につけていく。
その松陰に「彼」とは西洋諸国であると教えたのは、吉田大助門下の高足であり、若き松陰の後見人であった山田宇右衛門である。その時、彼は十六歳。以後、彼は食事を忘れるほどに一生懸命、海防について学び始める。だが宇右衛門が彼に語ったことはそれだけではなかった。「外国の事情を知るためには、日本に代々伝わっている書物の解釈に閉じこもることなく、広く外国の書物を読んでいく必要がある。また、外国の侵略を防ぐためには、一流一派の兵学に閉じこもっている時ではない」とも説いたのである。その当時、一流一派の兵学者がこんなことを言うのは狂気の沙汰であったし、ましてそれを実行するということは、自分の兵学を捨てることであると思われていた。
しかし、松陰は宇右衛門の意見に従って、早速、長沼流の兵学者山田亦介について学びはじめた。亦介は、「西洋諸国の手が清国(中国)にのび、琉球をとられようとしている今、雄略の大志を以て臨まねばならない。しかし、昔から、海外に武威をとどろかせたのは、せいぜい、神功皇后、北条時宗、豊臣秀吉ぐらいのものだ」と語る。十六歳の青年兵学者松陰が大いに奮起したことは容易に想像される。箕作省吾の「坤輿図識」、青地林宗の「輿地誌略」を熱読したのもこの頃である。
二十一歳になった時、「書斎の中で書物を通じて求めれば足りるというわけではない……。心は元来、生きものである。生きものには必ず機というものがある。機は触れるに従って発し、感に遇って動く。発動の機は周遊によって得られる」という言葉を残して、九州旅行に旅立つ。
平戸の葉山左内のところでは、王陽明の「伝習録」を書きうつして王陽明の良知説を学び、また、良知説を学んだ大塩中斎の乱のことも考える。なお大塩の乱は、彼の八歳の時におこっている。こうして彼は、平戸、長崎、熊本、島原、佐賀、柳川と四ヶ月あまりの旅行をつづけた結果、大きく変わっていった。新しい書物を読み、いろいろな人に出会い、いろんな社会を見たことは大きな収獲であったが、なんと言っても彼の最大の収獲は、旅をつづけていく中で、次々と今ある自分から新しい自分に脱皮しつづける自分を発見したことであり、その脱皮が人間にとってどんなに重要であるかを知悉したことである。旅行者として生きる喜びを発見したことである。
翌年の三月には、今度は藩主に従って江戸に出た。松陰の江戸への期待、ことに江戸の学者、兵学者への期待は大きかった。江戸への途中、ゆく土地土地の地理的状況、政治的状況、さらに風俗など兵学者としての究明をすることも忘れない。江戸に出た彼は学ぶことが一杯あるのに驚く。そこで早速、一年の勉学期間を三年間に延長してもらうように頼む。八月になるともう一年の延期を依頼する。
当時、松陰が兄に出した手紙には、「これまで、私は、学問としては何一つ学んでいない。僅かに、文字を知ったぐらいのことでしかない。まず、歴史を学ばなくてならない。経学(哲学のようなもの)の勉強も沢山やらねばならない。地理、砲術学、西洋兵学など、どれ一つをみても手についていない。世の中の人は、経学の存在価値はよく知っているが、兵学のことになると全く知らない。そもそも兵学は全く大変な学問で、とても経学の比ではない」と書いている。あれもこれも学びたいという彼の貪欲さがにじみ出ている。
だが、だんだんと江戸の様子もわかり、とくに江戸の学者、兵学者に、この日本をどうやって西洋諸国から守りぬくかという識見も意欲もないとみきわめると、松陰は自分でその方策をたてなくてならないと思うようになった。二十二歳の青年松陰がせっかちに、そう判断し決心したのも無理はない。青年というものは、常に現代の不安と危機を異常に感じとり、その対策を求めて躍起となるものである。
その手始めとして、松陰は日本の現状を正確に知る必要があった。既に九州旅行によって、その第一歩をふみだしていた彼であったが、今度の決心は、「彼を知り、己れを知る」という兵法の本質を自分自身でもっと深く手さぐりしていくことであった。それこそ、彼を知り己れを見究めた時は、彼が自立することであった。こうして、彼は北陸、奥羽の旅行に旅立っていく。
同行者は熊本の宮部鼎蔵。しかし、この時まだ藩から旅行証明書がおりていなかった。そのために彼は脱藩という形をとって旅に出た。彼自身、脱藩の結果がどんなものかを知らないわけではなかったが、藩の中での自分の地位よりも、日本人として、日本の危機にどう対処するかということがより切実で、大きな問題であったのである。それは、長州藩の兵学者から日本の兵学者にむかって脱皮していくことであったし、進んで安住の生活を捨てて、荊の道を歩みはじめることでもあった。
水戸、会津若松、新潟、佐渡と旅をつづけていく中で、松陰は日本の歴史を深く学ぶ必要を感じたり、藩政について考えたり、新潟が幕府の天領になって税金が二倍にはねあがったことなどを学んでいく。佐渡にわたるために、十三日間も船便を待つという不便を直接体験する。弘前では税制の一定しない幕藩体制の悪弊を痛感し、また、盛岡では藩が馬の利益の大半をすいあげ、飼育した人民は非常に苦しい生活を送っていることも知った。
五ヶ月間の旅行を終わって江戸に帰った時の松陰は、もう一介の兵学者ではなかった。各地の政治、経済、風俗を可能な限りみてきた彼は、兵学者というよりは、この日本をいかにすべきかを追求していく思想家になっていた。政治家になっていた。勿論、兵学的視点から日本の進路を考える思想家であり、政治家であった。
その松陰をまっていたものは、罪人として萩に護送されることであり、次に家禄没収、士籍剥奪であった。彼は家柄や家禄を失い、藩士という身分まで失ったが、そのかわりに自由を得た。藩にしばられないで、日本人という立場から自由に考え、行動できるようになったのである。それは多くのものを失って初めてつかみとったものであった。
浪人となった松陰は再び江戸をめざした(二十四歳)。だが、その彼をまきこんだのは、もっともっと大きい時代の渦であった。それは江戸に出て十数日目に、彼自身の眼で米国海軍の威容を見たということである。こんな軍艦をつくることの出来る西洋諸国、それが日本をねらっている。彼はそれを考えると戦慄した。ロシアの軍艦が長崎にきたと聞くと、もうじっとしてはいられなかった。どんなことをしても、西洋諸国の文化を知りたいと思った。それは、「彼」を知るという兵学者の姿勢からも必要であった。日本が独立するためにも不可欠なことであった。それにその文化を知りたいというのは、思想家としての松陰の知識欲でもあった。
こうして、松陰は長崎に出かけていく。しかし、彼のついた時には、もうロシアの軍艦はいなかった。そうなると彼は江戸にまいもどるしかない。だが、そんなことで挫折感を味わうような男ではない。次の機会をまつ。
翌年になると、また米国の軍艦がやってきた。だが米艦に便乗しての渡米計画は、結局失敗し、国法を破ろうとした者としてとらわれの身になる。松陰の獄中生活が始まるのも、また、革命家としての思索と瞑想が始まるのもここからである。

松陰の獄中生活は、その後、彼が刑死になる三十歳までつづく。獄から一時出たことがあるといっても、その家から一歩も出ることは許されていなかった。革命家の彼がとびまわることを禁止されてしまったのだから、苦痛このうえもない。しかしそのかわりに、その抑圧されたエネルギーのすべてを投入して、日本の独立の道を、日本のあるべき姿とそれに到達する道を構想していった。手と足の自由を奪われた者の全身の怒りを、新しい日本の構想にたたきこんでいった。そこにしか、彼が生きるということはなかった。しかも、松陰の思索と構想を助けてくれるのは、日本に古くからある書物と少数の外国の書物でしかない。それに彼自身が、日本について見聞し、観察したところのものも決して多いとはいえなかった。だが、その悪い条件の中で、彼は精一杯に考えた。彼の自立と日本の独立を考えていった。
まず、松陰が幾度かの試行錯誤の後に考えついたことは、彼自身の自立も自由も日本の独立と自由の中にしかないという発見であった。彼は、自分の自立を日本の独立にかさねあわせて考えた。彼にとって、その日本が独立し自由であるということは、西洋諸国のように強国になることではなかった。弱い国を強国となって侵略することでもなかった。
本当に自由で独立した国とは、まず、「軍備がなくとも仁政があれば大丈夫である。仁政の国を攻めてくるような国の支配者は、その国に仁政をしいていないから、国内は必ず動揺しよう」「上陸してきても、敵を少しも防ぐことはない。兵は農民漁民の中に雑居せしめ、一見、武備はないようにみせ、人々には思い思いに降伏させて生命をまっとうさせる。ただ、非常に乱暴する者がある時にはとらえて牢にいれ、敵将に諭させる。無茶を要求する時は断乎としてそれを排除し、警告する。侵略者たちも、武備もないのに志強く、言葉も鋭いとみれば、きっと反省する所があろう」「その間、つとめて、その国の忠臣、義士を刺激して、彼らにその国を正させるように働きかける。そうすれば最後には必ず勝利する」と断言しうるような政治家をもった国柄であった。
勿論、松陰としても、それが容易でないことは知りすぎていた。だから、「この策は、大決断、大堅忍の人でなければ、決してやりとげることはできない。もし、はじめに少しばかり、これをやろうとしても、途中でまた、戦いに応ずる時は、その害は非常に大きい」ということをつけくわえている。
要するに、松陰は、道義国家、平和国家の構想を日本の進路として考えついた。しかも彼は、西洋諸国に自分と同じ考えの人間がいることを確信し、そういう人達が国境をこえて連帯し、結合することを考えた。日本の平和から世界の平和を考え、実現しようとしたのである。そこにのみ、日本の独立と自由があると考えたのである。
しかし、道義国家、平和国家として諸外国に押しだすためには、まず、国内が道義と平和で貫かれることが必要であった。松陰は、彼が盛岡や弘前で見たようなことを許容しているような幕藩体制をとても肯定することはできなかった。無能で愚かな人間が、唯武士の生まれであるという理由で、農民や商人の上にあぐらをかいているような世の中は変える必要があった。ことに、三十分も座していることの出来ないような男が将軍ということで、日本と日本人を支配するような世襲制を徹頭徹尾憎悪した。こうして次第に、松陰の日本の在り方についての構想はかたまっていった。初めは、「西洋諸国が日本をねらっている時、国内で争うべきでない。有志が諸侯と力をあわせて、幕府をいましめながら、この国難にたちむかう必要がある。」と言っていたのが、学び、思索することが深まるにつれてどんどん変わり、刑死の直前には、ついに「幕府にも結局、識見のある人物はいない。小さなことはわかっても、世界の動きを見透して大略をたてられるような人物はいない。外国との交渉はむこうのいいなりになって、次々と制せられている」という幕府批判から、「将軍は天下の賊、今、討たずんば、後世の人たちは何といおう」という幕府否定にふみきる。さらには、「天朝もおそれ多きことながら、公卿間、俗論多く、正論もたたない」と、朝廷批判も始める。
そこから、「天朝も幕府もわが藩もいらぬ。只、五尺の我が身体が必要」といいきる立場に松陰は到達した。獄中で死をみつめながら生きている彼が、たのむべきものは自分しかないと思い知ったのも当然である。「忠」についても、これまで、天子とか藩主とか、常に誰かに対する忠を強調していた彼が、「我が心に生きる。我が心の限りをつくす」というふうに大きく変わっていく。
かつて、松陰は「所謂世人のいう尊爵は真の尊爵ではない。真の尊爵は人々の固有するところのものである。何を好んで、人の使用人になることがあろう」とか「人はすべて、徳をそなえている。尊重といわねばならない」と言ったが、そのことを、「天朝も幕府もわが藩もいらぬ。只、五尺の我が身のみが必要」と言いきる今の自分と重ねあわせてみた時、松陰の人間平等観は、大塩中斎のそれよりも更に徹底していった。勿論、大塩の死と自分の死を重ねあわせて考えるということもしたであろう。
その時、初めて、「今となっては草莽蹶起の人を望むしかない」と語る松陰の胸中も正確に理解できるのではなかろうか。彼は天朝を批判し、幕府や藩を否定する立場に達して、やっと新しい日本のありようを構想することができたのである。どんな考え方にも、どんな支配者にも制約されることのない、自分と日本のあり方を究明することができたのである。それはそのまま、彼自身が思想的に自立できたことを意味する。

しかし松陰が思想的に自立したといっても、それだけでは、彼が思想的に自立する十分な条件をそなえたということはできない。思想的に自立する十分なる条件をそなえるということは、いいかえれば客観的にも思想的に自立するということは、彼自身の構想した日本にむかって、今あるところの日本を変革するという見透しとその対策を確立した時である。彼自身がその実現にむかって、確信にみちた行動をおこした時である。そうでないかぎり、彼自身、今度はその構想の奴隷でしかない。
その意味では、松陰は、思想的に自立する十分なる条件をそなえていたということが出来る。単に、日本の独立と自由を構想しただけでなく、そういう日本をつくりあげるために彼自身挺身していった。彼自身が行動することを阻まれると、自分にかわって行動していく人間を育てようとした。
松陰はまず、すべての青年が草莽蹶起の人、今日の言葉でいう革命家になりうるという確信から、その教育活動を出発させた。その確信を支えたのは、「すべてのものには尊爵がある」という陽明学的人間観と、彼自身が下田の獄や江戸の獄、あるいは護送される途中、当時の社会では人間の屑のように蔑視されている獄卒の中に、彼の話に耳を傾け心を動かす者が数多くいたという彼自身の体験から出ていた。更に野山の獄では、出獄の見透しもないままに自暴自棄に送っている人々の中に、狂愚に似て狂愚でないものを彼等との接触で発見したことも、彼が人々を信じうるようになったことと深くかかわる。抑圧されている人間ほど鋭く、自立と自由を求めているという発見である。
だからとて松陰は、青年が革命家になることを容易であるとみたわけではなく、むしろ至難のわざであると考えた。そこから三人一組で教育することも考えつく。三人が勉学でも実践面でも協力しあって、それぞれの能力を十二分に発揮するように指導していく。困難な仕事も三人一組でぶつかっていくように教育する。そのために誰と誰を一組にするかということは、松陰が最も苦心したところである。一人の人間が指導力がありすぎて他の二人がその人間に依存しては、他の二人が生きないという松陰の判断である。革命行動の前に、ひるみがちになる人間を集団の中でたちなおらせ、すべての青年に活動の場をあたえようとしたのが松陰の教育である。
次に松陰は、青年達に強く「志に導かれた学問」をするように求めた。それは、「志なくしてはじめた学問は進めば進むほどに、その弊は大きい。真理を軽んずるばかりか無識の者を迷わせるし、大事にのぞんでは進退をあやまり、節操を欠き権力と利欲の前に屈する」という考えから出たものであった。道理を行おうとしないような学者、知者が多いのは、いつの時代も同じであるが、そういう知者、学者になってほしくないというのが彼の念願である。それも結局、気力、気魄の欠如からくるというのが彼の意見である。「気力衰えれば、識見もまた曇ってくる」ともいう。そのために、思想をもつことの必要を説くと同じ程度に、気力、気魄の養成について語る。
松陰の教育のもう一つの特徴は、「思想なしには、道理の実現など思いもよらない」といったことである。勿論、これは、特別に耳新しいことではない。しかし、「一度行動をおこして行き詰まった時に、更めて、再検討して自分のものにした思想」と松陰がいったとすれば、その思想がどういうものを意味したか明らかであろう。書物や指導者から学んだ思想でなく、現実の中で掴んだ思想だけが松陰のいう思想であった。彼はこういう思想だけを自分の思想と呼び、それを青年達に求めたのである。青年は一度は行き詰まるものだし、行き詰まったあとにそれから立ちなおった時、立ちなおれるような思想をもった時、初めて本当の革命家になれると考えた。挫折の後にこそ、本当の思想、力強い思想が生まれると考えた。挫折のない者には、彼自身の思想は生まれないということでもあった。いいかえれば、彼は青年の一人一人に思想的自立を求めたのである。それは自ら思想的自立を確立していたから、強く要求することができたのである。
こういう教育をうけた青年たちが、明治維新の一つの原動力になったということはいうまでもないが、こうして松陰は、思想的自立を客観的にも確立した。彼の兵学的視点、「彼を知り、己れを知る」という視点をつきつめてゆくことが、それを可能にしたともいえる。
ただ、松陰の弟子たちは、彼のようには思想的自立を戦いとっていなかった。確立していなかった。そのことが、明治日本を指導するようになった時、国民の自立と自由を抑圧することにもなったし、さらに他国の自立と自由を奪うことにもなったのである。その点では、思想的自立の教育は至難に近いということができる。

<自立の思想 目次>

第九章 日本とキリスト教を捨てて自立に到達……内村鑑三の世界

十六世紀後半から十七世紀初頭にかけて、日本人は初めてヨーロッパの思想と文化に接触し、その時キリスト教もその一環として日本に入ってきた。しかし、徳川幕府の鎖国政策にあって、キリスト教はかくれキリシタンという形で、日本人の中に細々と生きつづけたにすぎない。
明治になって再びキリスト教が日本に入ってきた時には、今度は反国体的な宗教ということで一般には排撃するという雰囲気もあったが、明治政府の黙認政策もあって、急速に日本人の心をつかんでいったということができる。内村鑑三もその中の一人である。ただ、鑑三は一般のキリスト教信者と違って、自らのキリスト教思想と日本の伝統思想、とくに政治的権力者としての天皇とまともに対決して、キリスト教思想を真に主体的に把握していこうとした。いいかえれば、キリスト教思想を本当に自分のものとして確立していこうとした。それはキリスト教の盲信でもなく、キリスト教信者の亜流でもなかった。その意味では、日本のキリスト教史の上で、非常に重要な位置をしめているということができる。彼は日蓮、日親などの思想的自立の伝統をうけついだともいえよう。
次に、鑑三がどのようにしてキリスト教を理解し、キリスト教を征服していったか。そして如何なる困難の前にも、あくまでキリスト教思想に生きつづける人間になったかを明らかにしてみたい。

鑑三が生まれたのは、明治という時代を七年後にひかえた1861年(文久元年)。十七歳の時には、開拓者精神とキリスト教思想がみちみちていた札幌農学校に入学した。そのために彼は、自然、キリスト教に対する眼をひらくことにもなる。
ことに、鑑三がそれまでに身につけてきた儒教が、彼自身のいうように「その最大の欠点は性道徳を論ずる時のその無力である。それは、社会的純潔の徳について全く沈黙しているのではない。しかし、貞潔の法則の侵犯が普通に処理される方法と、それの蹂躙者に対するその黙過とは、この点における一般的無神経をまねく結果となった」(余は如何にしてキリスト信徒となりしか)という発見から、それを捨てて、厳密な意味の一夫一婦制を強調するキリスト教にかたむいていった。「醒めて、天下の権をにぎる者が、酔って美人の膝に枕することができる。歴然たる不品行がしばしば鋭敏な知性と世間的な高い名声とにともなう」と知った時、いよいよキリスト教にひかれていった。
また、「神々が多種多様なことは、しばしば甲の神の要求と乙の神の要求との矛盾をもたらした。そして、悲愴なのは、甲の神をも乙の神をも満足させなければならない時の良心的な者の苦境であった。かように、多数の満足させ、なだむべき神々があって、余はしぜんに気むずかしい物おじする子供であった」という神道に対する鑑三の理解もあった。これは、神道に対する彼流の理解にすぎなかったが、そのために、彼は儒教につづいて神道をも捨てて、新しく思想としてのキリスト教を選んだのである。
だが、儒教、神道についての鑑三の理解が、せいぜい十七歳程度のものであったように、キリスト教の理解も同じ程度であった。彼が彼独自のキリスト教入信をかちとるためには、さらに、長い思索と深い疑問をとおる必要があった。キリスト教を選んだといっても、この時の彼はキリスト教の入口に立っていたにすぎなかった。だから、もし彼がキリスト教にそそぎこんだほどの情熱と思索を儒教や神道にはらっていたら、彼によって、儒教や神道の内容が発展させられていたということがいえるかもしれない。
勿論、彼は、儒教や神道についての究明と思索に興味と関心がなく、その学生時代を通じてもっぱら、キリスト教にのめりこんでいった。人間と思想の関係が、鑑三ほどの思想家の場合でも、ある時点での興味に非常に左右されるという例である。その出合いは非常に偶然性が強いともいえる。それはとにかくとして、そこで彼は、「宇宙には一つの神があるだけである。以前に信じていたように多数……八百万以上……でないことを教えられた。キリスト教的一神教は余のすべての迷信の根に斧をおろした。余がなしていたすべての誓い、怒れる神々をなだめようとして、余が試みつつあった種々雑多の礼拝形式は、この一つの神を認めることによって、今や不用とすることができた。そして、余の理性と良心とは唱和した。然りと。神は一つ、そして、多数でないことは、実に、余の小さな霊魂に喜ばしい音ずれである」ということを発見し、キリスト教を求めて直進した。彼にとって、そういう生活がいかに希望にあふれ喜びにみちたものであったかは、早速、その希望と喜びを彼の父親にもわかとうとしたことでも明らかである。
しかし、鑑三の父親は、儒教的神道的教養と心情を彼以上にもっていたから、彼のように、すぐキリスト教をうけいれるというわけにはいかなかった。だから彼が父親に聖書を送った時、父親は喜ばなかったばかりか、それを屑箱に放りこんだ。彼はその聖書を屑箱からとりだして、父親の机の上においた。こうして聖書は、何度か屑箱と机の上を往復した。しかし彼の根気と熱心さがついに父親の一徹さにうちかち、父親もその信者になったのである。鑑三の喜びがいかに大きかったかはいうまでもない。父親のもつ儒教的神道的教養と心情に、鑑三のキリスト教的教養と心情が凌駕したことを意味する。
鑑三は次第に、キリスト教思想を「独立は自分自身の能力の意識的自覚である。そして、これは、人間的活動の分野における他の多くの可能性の自覚の端緒である。これが、いかなる種類の独立であれ、独立というものを見る、最も深切且哲学的な見方である」というふうに理解していくようになる。
だが、鑑三は自分の中に真空のあることも発見した。彼自身の言葉によれば、「いずれにせよ、真空は存在していた。そして、それは、何ものかをもって、如何にかして満たされなければならぬ。余はこの空漠たる宇宙に余をして幸福と満足を感ぜしめることのできる何ものかが存在していると考えた。しかし、その何ものかが何であるかは余にはまったくわからなかった」ということであった。彼としては、その真空をみたすための追求と思索にむかって出発する以外にない。
こうして鑑三は、キリスト教国アメリカへの旅に出発した。「キリスト教が数百年のあいだ疑う余地のない勢力と感化をおよぼしてきた国として、平安と歓喜とは、異教生まれの我々には思いおよばないような、真理の探求者には何人にも容易に獲得せられるような、量をもって見出されるに相違ない」という期待をもって。二十四歳の時である。
しかし、鑑三がキリスト教国アメリカで見たものは、金銭が全能の力をもち、キリスト教国にも異教国日本のように掏摸がいるということであった。ヘンデルとメンデルスゾーンの音楽に魅惑されるところで、盗みがなされたという驚きであった。ことに、キリスト教であるアメリカの人々が、鍵を広く用いていることを知った時の彼の驚きは大きかった。これではキリスト教国の方が異教国よりも、人々をより深く疑っているではないかという疑問もわいた。
もっとわるいことは、強い人種的偏見が異教国以上に、キリスト教国を強く支配していることであった。こういう事実は、鑑三を深い絶望の底におとしこんだ。だからといって、彼にはもう儒教や神道にたちかえることができなかったから、彼自身キリスト教に、その解釈に、その普及に、彼らしい道をきりひらいていく以外になかった。
鑑三は、あらためて神学校に入学し、追求と思索を徹底的に深めていった。それこそ彼自身を中心にし、彼自身を大事にする思索の生活であった。その中で、かつてキリスト教国アメリカに憧れ、異教国日本は亡んでもかまわないと考えていた彼が「日本はそれ自身の歴史的個性をそなえて、宇宙の中に一定の空間をしめる真の均整のとれた調和美であり、一国民としてのその存在は天そのものによって命ぜられたもの、そして、世界と人類に対するその使命は明白に告知せられている。それは、高い目的と高貴な野心を有する聖なる実在である」という結論にまで到達する。
また、「嗚呼、何たる“イエス”にある歓喜と平和よ。寂寥における歓喜よ。孤独における歓喜よ。然り、また、罪における歓喜よ」という境地に到達し、「尽きざる希望が、すべての先人のそれより、より壮大な人生にむかって冒険を試みる青年の希望がキリスト教によって触れられていない異教諸国民の中にある。そして、余の国民は歴史上、二千年以上の年令であるけれども、キリストにおいてはまだ子供であり、未来のあらゆる希望と可能性はその急速に進歩しつつある日々のなかに隠れている。そのような日々を数多く目撃することが出来ることは、余の感謝にたえないことである」という発見もしている。
それは、鑑三の長い間の真空がうずめられたということである。その時、彼は二十八歳。キリスト教に入信してから、十年あまりもたっていた。

鑑三が、日本と日本人にそれ自身の歴史的個性があり、高い目的と高貴な野心がある実在であるという結論に到達したということは、同時に、「神は二十世紀間の鍛錬によりて達せられたる我が国民性が、米欧思想によりて、全く置きかえらるるを欲し給わざるなり。キリスト教の美は神が各国にあたえ給いし凡ての特殊性をきよめ得ることなり」という結論でもあった。それは、日本と日本人を如何にして救うかということである。そうなると彼は日本に帰って、日本と日本人に高い目的と高貴な野心をあたえ、日本と日本人を改造する活動にふみこむしかない。こうして、彼のキリスト教徒としての生活が再び日本で始まった。
だが、まもなく鑑三は、教育勅語奉戴式に天皇の親署に礼拝するかどうかという課題に直面する。これは、日本人がキリスト教徒になりきるためには、誰もが一度は直面し解決しなければならない問題であり、彼もその問題に直面したのである。その時、鑑三はキリスト教信仰の立場にたって、天皇の親署に礼拝することを拒否した。唯一の神しか認めないキリスト教徒の立場からすれば当然であった。彼の立場からすれば天皇はせいぜい目礼の対象になっても、絶対的な権威として、また神として礼拝の対象になるものではなかった。これは天皇を政治的権力者として、さらに日本国民のみでなく、八百万の神々をも支配する絶対神としてきた日本的思想状況に挑戦することであった。日本人がキリスト者になるためには、どうしても必要なことであった。彼はそれをしただけのことであるが、当時の世論はそれを許さず、彼を「不敬漢」「国賊」と攻撃しはじめた。
親鸞や日蓮の、天皇も仏弟子であるという考え方と、鑑三の天皇は神の子という考え方は共通していたが、すでに親鸞、日蓮の考え方を捨てて、天皇を絶対神とする日本的思想状況の中にまきこまれていた当時の仏教徒が最も鋭く、彼を排撃したのも皮肉なことであった。
とうとう鑑三は、このために第一高等中学校の職をうしなう。そこから彼の窮乏生活が始まるが、逆にそのことから、日本と日本人を改造し救っていこうとする彼の思いを一段と強めていくことにもなる。この事件に遭遇して、彼は初めて、キリスト教に生きるということがどういうことであるかを本当に知ったともいえる。この時、彼は思想的に自立したのである。キリスト教に対しても自立したのである。
ことに鑑三は、自分の直面した問題が単に彼一人のことではなく、キリスト教に生きようとする者は、一度は通過しなければならない大問題であるという考えに到達した時、彼はすべてのキリスト教徒の支えとなり、慰めにもなるような書物を書かないではいられなかった。その場合、彼は、彼を「不敬漢」といい「国賊」とののしった人々のことを念頭において書いた。その点では、彼を攻撃した人々に対する挑戦状でもあった。
鑑三は、まず「国人に捨てられし時」と題して、「余は余の国人に捨てられてより、世界人となりたり。……生をこの土に得しにより、この土の外に国なしと思いし狭隘なる思想は、全く、今は消えうせて、小さきながらも世界の市民、宇宙の人となるを得しは、余の国人に捨てられしめでたき結果の一にぞある」と書き、国人に捨てられた悲しみが逆に世界人となる喜びを知ったと力強く叫ぶ。しかも、「イエス・キリスト、ソクラテス、シピオ、ダンテが真の愛国者であったが故に、その国人たちに捨てられた」ということを新たに知ることによって、彼の自負と誇りはいよいよ強いものになっていった。自分こそ、真の愛国者であるという確信である。愛国と真理を愛することは一つでなければならないという確信である。世界人であって初めて、愛国者になりうるという確信でもあった。鑑三は、あからさまに口にはしなかったが、彼を国賊と攻撃した自称愛国者こそ、反対に国賊であると言いたげであった。そしてキリスト教徒は、ニセの愛国者の攻撃の前に強くなれと激励しているようにもとれる。
次に、鑑三は「キリスト教会に捨てられし時」と題して、本当に魂の自由を得んためには、キリスト教の牧師や教会の束縛を脱して、唯ひとすじにイエス・キリストにむきあえと書く。唯、聖書と対決せよとも説く。それは、彼が「基督教会は自己の教会を称して唯一つの教会といい、一方には、ローマ教会の擅行を非難しながら、他方には、他の新教徒に附するに分離者という聞きにくき名称を以てするにあらずや。余は組合派の教師が余が最も信任するメソジスト派の教師を罵詈するを耳にせり。ユニテリアンはオルソドックスの迷信を笑い、後者は前者の不遜異端を責むるにあらずや」と、当時のキリスト教界を認識した結果、出た言葉であった。また、「もし、余にして善悪を区別し、これを撰び捨つるの力を有せざれば、余は他人の奴隷となるべきなり。心霊の貴重なるはその自立の性にあり。我いと小さきものと雖も、いやしくも全能者と直接の交通を為し得べきものなり。神は法王、監督、牧師、神学者輩の手を経ずして直接に余を教え賜うなり」といって、魂の自由と自立を得んとすれば、進んで教会を捨てる以外にないともいう。教会が自分を捨てるのでなく、自分の方から教会を捨てるのである。その時に初めて、キリスト教徒になった目的が達せられると鑑三は考えた。それは、彼が彼自身のキリスト教を創造したことを意味する。
この立場は、教会のみでなく日本と日本人をもすすんで、自分の方から捨てることを意味した。そこにのみ、日本と日本人に真の自立と自由をあたえうると考えた。その時、悪い意味での伝統的な思想状況や社会的因襲から、日本と日本人が解放され、日本と日本人に高い目的と高貴な野心をあたえることができると考えたのである。

だが、このことと、「余は日本人なり。故に日本国と日本人民に関しては、余は英国の碩学よりも、米国の博士よりも完全なる思想を有すべきものにして、この国とこの民とを教化せんとするに於ては、余は彼らにまさりて確実なる観念を有する事は当然たるべきなり。……日本は余の生国にして、余の全身はこの国土につながるるものなれば、余はこの国に対する感情の他国人にまさるは当然なり。利害の大関係ある余の自国に関する余の観念は、他国人のこの国に対する観念よりも健全にして確実なり」という彼の考えとは、決して矛盾するものではない。
日本と日本人を進んで自分から捨てたことによって、むしろ彼は、こういう考え方に到達し確信をもてたのである。さらに、日本と日本人は歴史的な個性であると考え、信ずることもできたのである。そこから、「欧米の教師によらずして、日本人自身がキリスト教について独創的意見を述べなくてならない」という意見が出てきた。
事実、鑑三は日本人としてキリスト教を究明し、日本人としてキリスト教に生きようとした。彼の書くものは、全てその立場で貫かれている。だからこそ、「不敬漢」とも「国賊」とも呼ばれたのである。キリスト教徒でありながら、鑑三が直面した「国賊」という問題に遭遇していない者が多いが、それは日本人としてキリスト教を究明し、キリスト教に生きようとしていない証拠である。
こうして鑑三は、二つのJ(JesusとJapan)のために、果敢な斗争を展開し始める。彼にとって二つのJは一つであったし、また、一つでなければならなかった。だから日露戦争を前にして、彼は、「余は日露非開戦論者であるばかりではない。戦争絶対的反対論者である。戦争は人を殺すことである」(戦争廃止論)と強調し、幸徳秋水たちと戦争反対の行動をおこす。日本と日本人の殆んどが、日露戦争をみとめようとした中で、彼は、「交戦国は兵をおさめるや否や、直に戦争の準備に取りかかります」と批判して、日本と日本人に高い目的と高貴な野心をあたえようとした。
この時こそ、鑑三がキリスト教徒としても思想家としても、最も充実した時である。日本と日本人を捨てた彼が、日本と日本人を改造しようと努力した時であった。
だが日本と日本人が日露戦争に突入すると、鑑三は、その日本と日本人を支持しなければならないと思いはじめた。彼はその時点において、もう一度日本と日本人を捨てることがどういうことであるかを考えぬき、日本と日本人を本当に捨てきるべきであった。そして、そこから日本と日本人を神の国、神の子として創造する道をすすむべきであった。だが、彼はそれをしなかった。それに徹底することができなかった。
鑑三は、不十分にしか日本と日本人を捨てていなかったのである。そこには思想家鑑三の生きる姿はなく、日本人の中に押し流される一日本人としての鑑三しかなかった。真に思想的に自立するということが、いかに厳しいものであり、孤独にたえぬける精神と姿勢がどんなに必要であるかをこのことは示している。異端者になりきる勇気が、自信がなくてはならない。
勿論、鑑三は、積極的にそういう日本と日本人を支持することはできなかった。そのために、彼の中から急速に一つのJ、日本と日本人の問題が欠落し、もう一つのJ、キリストにのめりこんでいくしかなかった。その結果、彼は、キリスト教の普及のためには多くのことをなしえたが、二つのJのために二つのJを統一的に追求し、行動するということはなくなった。日本と日本人に高い目的と高貴な野心をもたせようとする行動を放棄した。日本と日本人を改造する作業を中止してしまった。
この時をかぎり、鑑三は、二つのJのうちの一つのJを捨てたことになる。彼が長い思索のはてに辿りついた思想、日本と日本人は歴史的個性であるという思想を捨てたことになる。あきらかに、彼の思想の後退であり堕落であった。それは、彼ほどの思想家でも後退し堕落することがあるという證明であり、自分の思想をつらぬき、自分の思想を発展させつづけるということが、いかに困難であるかという證明でもある。
こうして鑑三は、自分と日本人の完全な自由と自立への道を折角発見しながら、日本と日本人を捨てきれなかったところに、彼だけの自由と自立、それも主観的な自由と自立を確立するにとどまったのである。彼は、思想的自立を放棄したのである。たしかに当時において、思想的自立を戦いとることは非常に困難なことであったが。

<自立の思想 目次>

第十章 「我は社会主義者なり」に殉じた一生……幸徳秋水の世界

鑑三の出生から十年おくれて、秋水は高知県中村に生まれた。高知県といえば自由民権運動の発生の地であるばかりでなく、秋水の少年時代は、その自由民権運動が最も激しかった時代でもあった。そのために彼は十歳前後から、もう、その空気を吸収しその知識を理解していった。その意味では、彼の政治意識、社会意識のめざめは非常に早かった。
十六歳の時、初めて家を離れて、高知市にある遊焉義塾に入学したが、その教育は到底秋水を満足させるものではなかった。「同塾の教育は極々の干渉主義にして、少年の元気を沮喪せしむるをつとめ、一日に一時間の外、外出を禁じ、且、室内の汚ワイなる、食物の粗悪なる、一言すれば、一個の囚徒にすぎざりしとなり。新聞紙の如きは塾内に入るるを厳禁したり。蓋し、先生は維新前後、国家に功労ありし人にて、見識も高く、思想も豊富なりし人なれども、ひさしく、郷里の山間に隠退して、絶えて世間の何物たるを知らざる如く老耄し、先生の眼中に、一個の支那古代歴史の存せるのみなりし。」というのは後の秋水の意見であるが、当時の彼が既に自由民権を単に知識としてでなく、思想として生きはじめていたことを示している。
そうなると、秋水としてはじっとしていられなくなる。翌明治二十年には、一文なしのままに東京に出て、郷里の先輩であり自由民権運動家でもある林有造の書生として住みこむ。しかしまもなく、林有造や中江兆民たちが保安条例にひっかかって逮捕され、東京から放逐されることになった。この保安条例とは、秘密の集会や結社を禁止し、新聞の検閲を義務づけたばかりか、内乱を計画するおそれありと認めたものを東京から放逐するというものであった。
林有造の書生として住みこんだばかりの秋水も同じように、東京を追放された。こうして彼は、思いがけずも、明治政府の無法を直接はだに感ずることになった。自由民権の必要をより強く痛感するようになったとも言える。時に、秋水十七歳である。
やむなく郷里中村にかえったが、秋水の心はそこにとどまるつもりはない。翌年、東京入りが許されると、早速東京にむかって出発した。しかし途中で、友人の紹介で当時大阪に住んでいた中江兆民の書生として住みこむことになった。彼は、ここで兆民の指導をうけることになる。
まず秋水は、これまでの読書傾向にしたがって、孔子、老子、荘子の書物を系統的に読んでいった。この読書によって、かつて大塩中斎、吉田松陰が彼等の人間平等観を陽明学で確立していったように、彼も同様に、その人間平等観の根柢に儒教思想をふまえる。
だが、兆民のもとで学んだ秋水の大きな特徴は、そういう儒教の人間平等観をもとにしながらも、彼自身の貧しい家庭環境を考えることをきっかけとして、次第に社会主義的な人間平等思想に発展させていったことである。彼は、むさぼるように兆民の諸著書を読んでいった。その中には当然、ルソーの「社会契約論」を訳した「民約訳解」などの書物もふくまれていた。だから、兆民のもとで学んだ約三年間の生活は、その後の彼の思想的骨格をなしたといっても過言ではない。この頃の読書生活を、彼は後に「小生は、幼年の頃より、最も急進なる、最も過激なる、最も極端なる非軍備主義、非国家主義、無政府主義の書を愛読致し候」と書いている。
板垣退助の主宰する「自由新聞」に、兆民の世話で入社したのが秋水二十三歳の時。しかし、彼の心はどうにもおちつかない。おちつかぬままにそこを飛びだして、「広島新聞」に移った。だが、そこでも同じように満足できなかった。再び東京にまいもどって、「中央新聞」に職を求めた。
明治三十年には「社会問題研究会」が発足し、秋水もその会員になったが、まもなく彼のつとめる「中央新聞」が伊藤博文に買収されて、伊藤内閣の御用新聞になった。彼としては、それにがまんができない。さっさと辞表をたたきつけてしまう。そういう時の彼は、前後も考えないで行動をおこしてしまう。兆民はそういう秋水を怒ることもなく、今度は「万朝報」に世話をした。よい師に恵まれていたとも言えるが、また、それまでの秋水は、気のむくままに転々と放浪していたとも言える。
秋水は、そういう生活の中で、徐々に彼自身の思想をみのらせていった。ことに明治三十一年十一月、「万朝報」に発表した「社会腐敗の原因及びその救治」という彼の小論に、「今日の社会は生産力が発達し、富が増加したにもかかわらず、その富は資本家のみにかたより、一般の人々は益々苦しむという不思議な現象がおきている」と論じた。
この論文によって、新しく生まれた「社会主義研究会」にさそわれ、翌明治三十二年六月には、「現今の政治社会と社会主義」と題して講演することにもなった。
秋水は聴衆を前にして、「今日の政党というものは、理想も主義もない野武士、山賊の集まりで、とても、政党とはいえないものである。真に、国家、社会の現状をうれえる者は、社会主義的理想の実現のために、団結して立ちあがる以外にない」と強調して、ここに初めて、社会主義者としての第一歩をふみだす。二十九歳の時である。

秋水が社会主義者としての道を歩みはじめた時、明治政府とそれに指導された集団は、いよいよ彼との溝を深めていった。即ち、明治三十三年になると、明治政府の中心的存在であった伊藤博文が政友会を組織し、かつて自由民権をかかげて、鋭く明治政府と対決してきた自由党の大部分を吸収してしまったのである。
早速、秋水は筆をとる。
「いくた志士仁人の五臓をしぼれる熱涙と鮮血とは、じつになんじ自由党の糧食なりき。殿堂なりき。歴史なりき。ああ、その熱涙、鮮血をそそげる志士仁人は、なんじ自由党の前途の光栄、洋々たるを想望して、従容笑をふくんでその死につけり。当時、誰か思わん、彼ら死して、即ち自由党の死せんとは。彼らの熱涙、鮮血が、他日その仇敵たる専制主義者の唯一の装飾に供せられんとは。ああ、かの熱涙、鮮血や、丹沈碧化、今いずくにあるか」。彼の怒りがほとばしっている。この頃から、彼の思想と行動も一段と鋭く激しさを増していく。
まず、秋水は、「我は社会主義者なり」と題して、「我は社会主義者なり、社会党なりと宣言するの真摯と熱誠と勇気あるの人にあらざれば、いまだ、労働問題の前途をたくするにたらざるなり」と言いきる。社会主義の知識如何でなくて、社会主義者を宣言する真摯と熱誠と勇気を強調したところに、彼のなみなみならぬ決意と特質があった。
ついで、「二十世紀の怪物、帝国主義」へと秋水の思想は発展していく。「わが日本はその外交は無能、その財政は困惑、その資本家と経済市場は萎靡困頓を極むるの今日に於て、如何に陸海軍備のみを振りまわして、帝国主義を主張するも、この主義や国民的に非ず、資本家的にも非ず、単に、軍人的帝国主義にすぎざらんのみ。空威的飴細工的帝国主義にすぎざらんのみ。今や、国民をあげて、この空威に心酔し、この飴細工に眩す。国家前途の爲め、寒心の極に非ずや」と書く。
さらに、「非戦争主義」と題して、
「世人は、国威、名誉の登場を喜べり。一般人間の不幸と一般社会の損害とその極に達して、人をして惨鼻に堪えざらしめて、而して、買得たる国威の名誉とは、これ果たして人生の目的なるか。……
世人みな戦争に酔い、戦争に狂し、国威の二字に随喜し、名誉の二字に眩惑せるの時に際して、独り平和を説き、非戦論を唱うる、必ずや目するに迂愚を以てせられ、罵るに怯懦を以てせられ、責むるに非愛国、非忠君、大逆無道を以てせられんことを恐るればなり。しかり罵られ、責めらる、真にかくの如き者あらん。しかも、その所信をまげ、主義をすて、徒らに、流俗にこぶるが如きは、吾人は甚だいくじなきをわらわずんばあらず」と書いていった。
これと平行して、明治三十四年五月には、秋水は、安部磯雄、片山潜、河上清、木下尚江、西川光二郎とともに、日本で初めての「社会民主党」を結成した。明治政府は、即日、解散を命じた。すると秋水たちは、すぐに、「社会平民党」を結成した。しかし、これも禁止されてしまう。
社会民主党の綱領には、
一、人種の差別、政治の異同にかかわらず、人は皆同胞なりとの主義を拡張すること。
二、万国の平和をきたすためには、先ず、軍備を全廃すること。
三、階級制度を全廃すること。
四、生産機関として必要なる土地及び資本を悉くこれを公有とすること。
五、鉄道、船舶、運河、橋梁のごとき交通機関は悉くこれを公有とすること。
六、財産の分配を公平にすること。
七、人民をして平等に政権を得せしむること。
八、人民をして平等に教育を受けしむるために、国家は全く教育の費用を負担すべきこと。
をかかげた。即日に禁止されたとはいえ、社会民主党を初めて結成した意味は大きい。
七月になると、今度は、「万朝報」の社長黒岩涙香を説いて、「万朝報」の読者を中心に「理想団」の結成にのりだした。これは、読者を積極的に改造し、組織していこうとしたものである。
だが、なんと言っても明治三十六年七月に刊した「社会主義神髄」ほどに、社会主義者としての秋水の位置と役割を決定的にしたものはなかった。彼はその本の中で、現代社会の病根は大衆の貧困であるが、その貧困は資本主義につきものであり、資本主義がなくならないかぎり大衆の貧困もなくならない。そのためには、生産手段を独占している資本家達からそれを奪って、社会の共有にしなければならないとまえおきした後、「衣食の競争を去って、人間らしい智徳の競争を実現しなければならない」と断言する。
次に、その実現の方法については、「それ、文明の国、立憲の治下に於て、社会の世論一たび我に帰し、政治の機関、亦わが手中に帰するに至らば、兵馬の力もこれを如何せんや。警察の権もこれを如何せんや。而して、富豪の階級また意にこれを如何ともすることなけん。社会主義的大革命が、正々堂々として、平和的に秩序的に、資本家制度を葬り去って、マルクスの所謂“新時代の誕生”を宣言することを得るは、猶水いたって、渠成るが如けんなり」といっている。
さらに日本人が、日本の社会革命、思想革命を考える場合、どうしても解明しておかねばならない問題、即ち、政治的権力者、権威者としての天皇をどうするかという問題について、秋水は次のように書いている。
「社会主義は、社会人民全体の平和と進歩と幸福とを目的とするのであって、決して、君主一人の爲にはかるのではない。故に、朕は即ち国家なりと妄言したルイ十四世の如き極端な個人主義者は、元より、社会主義の敵である。衆とともに楽しむといった文王の如き社会主義者は、喜んで奉戴せんとする所である。而して、わが日本の祖宗列聖の如き、殊に、民の富なりと宣いし仁徳天皇の大御心の如きは、全く、社会主義と一致契合する者で、決して矛盾するものではないのである。
いな、日本の皇統一系連綿たるのは、実に、祖宗列聖が常に社会人民全体の平和と進歩と幸福とを目的とせられたるが爲めに、かかる繁栄をきたしたのである。これ実に、東洋の社会主義者の誇りとする所であらねばならぬ。故に、予は、寧ろ、社会主義に反対するものこそ反って国体と矛盾するものであると思う」と書く。
秋水は、政治的権力者、権威者としての天皇と社会人民の平和と進歩と幸福とを願う天皇の心、天皇の思想とを別々にして、社会人民のことを考える天皇は社会主義者であると考えたのである。政治的権力者としての天皇と社会人民のことを考える天皇とは一つでなければならないとも考えるのである。
それは、親鸞、道元が天皇は仏の弟子でなければならないと考え、鑑三は神の子でなければならないと考えたのと同じことである。こうして彼は日本人として、日本的な思想伝統の中にあって、実現可能な革命を思いたったのである。
しかし、秋水が、そのような結論に到達したということは、「万朝報」の記者としてとどまることができなくなったことを意味していた。ことに日露戦争を前にして「万朝報」が戦争肯定にふみきると、彼はもうがまんができない。彼は堺利彦とともに「万朝報」に辞表をたたきつけ、「平民新聞」を発刊する。
戦争が始まると、今度は「平民新聞」に「ロシア社会党にあたえる書」を発表する。
「諸君とわれらは同志なり。兄弟なり。姉妹なり。だんじて、戦うの理あるなし。諸君の敵は日本人にあらず。じつに、いわゆる愛国主義なり。軍国主義なり。われらの敵はロシア人にあらず。しかり、愛国主義と軍国主義とは、諸君とわれらの共通の敵なり。世界万国の社会主義者の共通の敵なり。諸君とわれらと全世界の社会主義者は、この共通の敵にむかって勇敢なる戦斗をなさざるべからず」
ロシア社会党からは早速解答がかえってきた。
「日本、ロシア両国の好戦的さけびごえの間に、この日本社会党の声をきくは、実に、美しい理想社会からの使者の声をきいたようである。理想社会は、いまはただ、階級的自覚をもつプロレタリアートの心の中に存在するだけだが、明日、かならず実現できるものである」
この声明の交換は、美しい明日を予言するものであったが、「平民新聞」は、そのために発売禁止となった。だが秋水たちは、いよいよその主張を鋭くしていった。そのために明治三十八年一月には、「平民新聞」の発行停止の判決をうけたばかりか、彼自身は禁固五ヵ月の実刑を申しわたされることになる。

秋水が刑を終えて出獄した時、日本中は日露戦争の勝利に酔っていた。日本人の九割九分までが、彼の主張に耳を全く傾けようとしなかった。そこに、彼の日本人に対する絶望があった。だから、平和的に、秩序的に、社会主義革命を実現していくという考えに対しても絶望的にならざるを得なかった。加えて彼は病弱であったことから、刑務所生活でますます身体をこわし、そのために猶更、現在と未来に悲観的になっていった。
秋水は絶望感をいだいて、アメリカに渡った。その彼が急速に、アメリカで無政府主義やテロリズムに傾いていったのも当然であった。わずか半年間のアメリカ生活であったが、彼はそこで、無政府主義者、テロリストにすっかり変貌した。もはや彼のどこにも、かつて平和的に革命を達成しなくてならないといったものはなかった。
無政府主義者であり、テロリストである秋水が日本にかえってきた時、人々は熱狂して彼を迎えた。それは混迷をつづける日本の運動に、一つの光をあたえてほしいという念願でもあった。彼は早速、「世界革命の潮流」と題して演説した。
「三百五十万の投票を有せるドイツ社会党、九十人の議員を有せるドイツ社会党はたして何事をなしたりや。いぜんとして、武断専制の国家にあらずや。いぜんとして、堕落、罪悪の社会にあらずや。投票なるもの、はなはだたのむにたらざるにあらずや。代議士なるものの効果、なんぞはなはだ、すくなきや。労働者の利益は労働者みずから掴取せざるべからず。労働者の革命は労働者みずから遂行せざるべからず」と。
つづいて、「余が思想の変化」と題し、「余は正直に告白する。彼の普通選挙や議会政策では、真個の社会的革命をなしとげることは到底出来ぬ。社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動によるのほかはない。余が現時の思想はかくの如くである。……真に、社会革命を断行して、労働者階級の実際生活を向上し保全せんと欲せば、議会の勢力よりも寧ろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。而して、労働者諸君自身もまた紳士閥の議員政治家なぞに依頼することなくして、自身の力で、自身の直接行動で、その目的を貫くの覚悟がなければならぬ」と書いたのである。秋水三十七歳の時の論文であるが、この直接行動論は、青年たちに素直にうけとめられた。日本における革命は、それ以外にないというように熱狂的にうけとめられたのも、当時の状況からすると無理もなかった。
ここから、明治天皇の暗殺計画もおこってきた。秋水がその暗殺計画に連座していると見做されて、死刑になったということは非常に悲惨だし、それをあえてした明治政府の無法ぶりは決して許されないことであるが、彼は、自らの思想的結論に殉じたといえるし、また、彼の思想を実践しようとした人々に殉じたともいえる。その意味では、若い人たちだけを死刑にしないで、同じ運命を辿ったということで、おそらく彼も満足であったであろう。それは、思想家として、先覚者として生きる者の厳しい運命として、当然、甘受すべきことであるといえる。

いずれにせよ、秋水は、その直接行動論のために死んだ。問題は彼の直接行動論が、当時の状況の中でもち得た最高の理論であったかどうかということである。平和革命論からテロリズムに移行したということは、妥当であったかどうかということである。勿論、平和革命論がすぐれ、テロリズムが悪いというのではない。日本の社会主義革命を達成し、日本人みんなの自立を確立するためには、いずれの論がよりすぐれているかということであり、さらに、その他の道はなかったかということである。
ことに、秋水が、当時の日本人に、日本の思想状況に絶望し、平和革命論からテロリズム的直接行動論に移っていった時点で、彼はもっと他に考えてみることはなかったか。彼はむしろその時、絶望を深め、絶望の底から、彼自身の革命の道をゆっくりと時間をかけて探求し、創造すべきではなかったか。平和革命論がだめになったから、やむなく直接行動論に移るというのでなく、絶望した時もう一度、日本の権力の究明と日本人自身の究明をやるべきではなかったかということである。
その時彼に必要なのは、彼のように日本人と日本の思想状況に絶望するのでなく、彼自身の把握した日本人観、日本の状況観にこそ絶望すべきではなかったかということである。それこそ、彼自身に、彼自身の思想にこそ絶望すべきであった。だが、彼はそのことに気づかなかった。そこに、彼の悲劇があったばかりでなく、日本の社会主義運動の悲劇があったともいうことができる。
その意味では、秋水はまだ、鑑三と同様に不十分にしか思想的自立を確立していなかったと言える。四十一年の人生をかけても、まだ、思想的自立を戦いとることはできなかったのであると言ってもいい。それは、日本に、社会主義革命が実現しなかったことでもあきらかである。しかし同時に、彼に思想的自立が生まれなかったということは、一つには、書物を読んでそこから日本の現代を理解しようとしたこと、二つには、あまりにも行動的であったためにじっくりと思索することが出来なかったという彼の側に原因があるとともに、当時の思想状況の中では、思想の自立を殆んど不可能にしていたということもできる。だが、彼が思想の自立を戦いとることができなかったにしろ、それを求めてひとすじに生きぬいたということは、すばらしいことである。どんなに称賛しても、称賛しすぎるということはあるまい。

<自立の思想 目次>

第十一章 転向の時点で自立への道をつかむ……埴谷雄高の世界

今日、学者といわれる人は非常に多くなっている。大学につとめている者だけでも十万人をこえるのだから、研究所その他につとめている数は相当の数になろう。その場合、ともすると世間の人々は、学者は即ち思想家であると思いがちであるし、学者の中にもそのように考えている者が多い。
だが、思想家とは、一言でいえば、現代の問題と自分の問題を統一的につかもうとし、その解決に自分の全存在を堵して、主体的にとりくんでいる人のことである。現代と自分の問題と思想的に対決している人のことである。思想の自立を自分のものにしようとしている人である。たとえ現代の問題について、専門的な角度からの豊富な知識をもっていたとしても、研究者、解説者、評論家の範囲を一歩も出ない人間であるなら、その人は思想家とはいえない。
このように考えると、今日、学者と言われる人たちの中に、思想家と言えるような人は意外に少ないということが言えようし、その反対に、実務家、労働者、庶民と言われている人の中に、思想家と言えるような人は案外多いということになろう。それに現代という時代は、学者が思想家であることを求められている以上に、実務家、労働者、庶民が思想家になることを求められているし、事実、思想家になりうる条件もととのっているということができる。
埴谷雄高もどちらかと言うと、後者の中の一人として、思想家への道を精一杯に歩みつづけている代表的人間の一人である。私が、彼を作家とか文芸評論家としてでなく、庶民の一人としてみようとするのは、彼が私に、「私は先生といわれるようなものではない。先生といわれるのは心苦しい」と語ったことにもよるが(といっても、私が埴谷に会ったのは、たった一度であるが)、彼が先生と言われることを厳しく拒否するのは、彼の中で、どんな階級制も身分制をも否定し、それこそ人間は一人の庶民としてしか生きようがないという自覚からきていると思われる。
埴谷のそういう考えを最初にもたせたのは、おそらく彼が官立の高校や大学に学ばないで、日本大学に入ったということからきている。彼は、そのことで、いやおうなく先生と言われるような身分を排除して、反権力、反権威の道をつきすすむことになった。庶民の一人としてしか生きようがない立場に、自分を追いこんだとも言える。
師とか先生とか言われることを鋭く否定するのは、指導者であることを否定するとともに、また、指導者を認めない立場であるが、その立場を貫いたのは古くは親鸞であり、近くは松陰であった。埴谷もまた、先生を拒否して、徹頭徹尾庶民の一人としての立場をとりつづけようとしている。それは、実務家が労働者、庶民が思想家になりうることを示そうとしているとも考えられる。私が埴谷を見る時には、そういう彼しか見えないのである。であるからこそ、埴谷について書きたいのである。

勿論、埴谷がどうして日本大学に入学したかということについては、私は何も知らない。しかし、植民地台湾で、支配者としての日本人が台湾人にいばっていたことと無関係ではあるまい。そこから、彼の権力、権威に反撥する感情がそだち、権力や権威について考える姿勢が生まれたということが言えよう。彼は、官立の高校、大学に入学することが、先生と呼ばれる支配者、指導者への道に連なっていることを感じとって、それを拒否せずにはいられなかったのではあるまいか。
もし、入学試験に弱いために日大に入学したとしても、そのことは、先生と言われる人たちがきめた入学試験に弱いということだけを意味し、試験によって人間そのものをはかろうとする無神経な先生たちを批判し、軽蔑するきっかけになったことを、さしているにすぎない。それは、今日の埴谷の能力が証明している。それに、ともすると、官立の高校や大学に入学したということで、自分に権威と価値をおき、他の人を無視したり軽蔑したりする傾向も出てくる。彼はそういう偏見が無意識のうちに、身につくことを恐れたとも考えられる。それから解放されるために、日大に入学したのではないか。
それを、さらにおしすすめたのは、レーニンの「国家と革命」に対して、「革命と国家」を書くことによって、それをのりこえようとしたことである。これは、コミュニストにおけるレーニンの権威に、コムミュニズムにおける「国家と革命」の君臨に挑戦しようとしたものであった。埴谷には、どんな意味にせよ、人間を支配し人間に君臨するものには反撥しないではいられなかったのである。それが、反権力、反権威の道を歩みはじめた彼らしさであった。
だが、二十歳の青年埴谷の思考力と批判力では、到底、レーニンをのりこえることは出来なかった。まもなく、レーニンに説得されて、コムミュニストになる。
しかし、コムミュニストになった埴谷をまっていたものは、一年半の刑務所生活であった。ここで彼は、いやおうなく孤独で無力な自分自身とむきあい、自分自身で考えるしかない生活を送ることになった。ことに、マルクス=レーニン主義の書物が一冊もない刑務所では、コムミュニストとしての勉強どころではない。強いて言えば、カントの「純粋理性批判」を彼の唯一のよりどころとして、思索力をみがくしかなかった。
埴谷は、彼の頭脳と「純粋理性批判」をてがかりとして、次のような結論に到達する。「自我の誤謬推理、宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能の課題は、カントが苛酷に論証し得た以上の苛酷な重味をもって吾々にのしかかるが故に、まさしくそれ故に、課題的なのである。少なくとも私は、殆んど解き得ざる課題に直面したが故に、まさしく真の課題に当面したごとき凄まじい戦慄をおぼえた。私の眩暈は、同時に、私の覚醒なのであった。恐らくこのような絶望からの立ち上がりの心情については、私達を虚無と万有のあいだにかかった中間者ときっぱり規定したパスカルにも深く知られていたに違いない。パスカルは殆んど比類もないほど安定した堅固な文体で率直に云う。“しからば、その窮極をも本元をも見ることが出来ないという永遠の絶望のなかに、彼は物事の中間の或る外観を認識するほかに何を爲すことが出来るか。”こう彼が感動的に述べる時、彼の絶望のなかに奔騰する強烈なエネルギイの揺れ動く響きを、却って私は聞きとれるように思うのである。そして、かつてカントの課題であったものがまた私の課題となった時、私のまずとるべき方法は極端化であった。灰色の壁に囲まれたなかに、ただひとり眼を閉じて端座していること、そのこと自体がもはや私に無限の問いかけを呼ぶ課題なのであった。私が眼前に意識するものより、私が意識すること自体が端的な課題なのであった。」(「あまりに近代文学的な」)
埴谷は、初めて、「我とは何か」「宇宙とは何か」という問いをもち、その前に徒手空拳で立ちむかった。人間である以上、まず最初に考えなくてならない課題をそれまで、自分に問うていなかったことを知ったのである。そのように考えた彼が、「コムミュニズムは、私の問題のなかで部分となり、新たに出現した問題が尨大化するにつれて、益々小さな部分となった。とはいえ、それは消滅した訳でもなかった。一度、コムミュニズムにとらわれたものは、たとえ、それを強く振り離しても、向こうからこちらを離さないものと思われる」と書いたのも当然である。
それは、コムミュニズムが問題とするものは、「我とは何か」「宇宙とは何か」という問いの次にくるものであり、また、「我とは何か」「宇宙とは何か」という問いの後には、必ず問わねばならない問題であるということを発見したということであった。
また、転向を迫られた時、彼の頭脳とカントを足がかりとして、コムミュニズムをより深いところで支えているものに眼を開いていったということでもあった。コムミュニズムをもっと深く理解できるところにつきすすんだとも言える。そして、自分を「窮極をも本元をも見ることが出来ないという永遠の絶望の中にあるもの」と認識した時、彼は、先生といわれる人達の仲間には到底入っていけないと考えた。一人の庶民として生きていくしかないということを発見した。
それが、同世代のコムミュニストの殆んどが、一つのイデオロギイから他のイデオロギイに移行するという形で転向をやってのけ、相変わらず先生といわれている人たちの間にぬくぬくと存在しているのと、彼との違いである。その結果、仲間たちの多くが相変わらず、思想的に自立することも出来ないで隷属した生活をつづけている時、彼一人は思想的に自立できたのである。思想家とは、彼のような人間をこそいうのである。
ここには、唯一人の埴谷、埴谷という人間しかいない。埴谷の思想しか、コムミュニズムしかない。それも、宇宙の中に唯一人存在している埴谷である。埴谷の思想である。その場合非常にはっきりしていることは、「先験的弁證論」が、またコムミュニズムが埴谷をとらえたのでなく、埴谷がその「先験的弁證論」をコムミュニズムをとらえたのである。埴谷という人間が重要であり、彼が意味と価値をもってくる。
こういう埴谷をどんな権威もどんな権力も屈伏させ、支配することはできない。隷属させることもできない。醒めきった人間故に、たぶらかすことが出来ないのである。

埴谷は、また、彼の思想の自立をもたらしたカントと同じ程度に、ドストイエフスキイを高く評価する。とくに、ドストイエフスキイの生と思想を高く評価する。それというのも、「我とは何か」「生とは何か」という課題に立ちむかう埴谷に、ドストイエフスキイは、「緻密な観察者」から「徹底的な懐疑家」、さらに「巨大な思索家」へと生長しつづけてみせたからである。自由を追い求めて、果てしなく生長してみせたといってもいい。「生と生の奔騰するかたちのみが作家ドストイエフスキイの直面する直接の課題であった」と彼が書くように、ドストイエフスキイの生は強烈そのものであり、絶えざる自己克服そのものであった。破壊や混乱であろうと、また絶望や寂滅であろうと、ドストイエフスキイはその中につきすすんでいく。文字通り、その生は凄まじい。停滞するところがない。埴谷は、そういうドストイエフスキイの生に魅せられた。彼の生は、ドストイエフスキイの生を求めて燃焼する。
ことに、埴谷がドストイエフスキイの思想を知った時、彼の生はいよいよ燃焼していった。では、彼をもえあがらせたドストイエフスキイの思想とは何であろうか。
一言でいえば、「平凡人のなかの天才性の発見」(ドストイエフスキイの位置)ということであり、「精神の同質性の発見であり、精神の深さにのみ価値をおく」ということであった。
そこに、埴谷のあくまで庶民の一人として生きよう、生きるしかないという考えも強められることになるし、支配と服従のない共産主義社会を求める心も熾烈化する。また、そこから「或るものが大衆のなかで前衛として先頭にたつのは、彼が認識者であるからにすぎない。彼が前衛としてしめし得るものは、一に理論、二に理論、三に理論、それはつねに理論にはじまって理論に終わる。そのほかに前衛と大衆のあいだに異なってあるものは何もない」(永久革命者の悲哀)という考えも出てくる。
ドストイエフスキイがその生と思想を統一させて生きつづければ、埴谷もまた、その生と思想を統一させ燃焼させる。彼の生はそこにしかない。そこにしか、燃えるものがないように。そして、ドストイエフスキイが平凡人のなかに天才性を発見し、精神の同質性を発見したように、埴谷もそれを発見するのである。
だから、生と思想を尊ぶようにみえて、その実、生と思想を最も軽視しているような一部の学者、一部の共産党員は、決して思想家になることはないとも彼は考えるのである。

埴谷は、強烈に、支配と服従のない共産主義社会を志向する。しかし、彼が一般の共産主義者と異なるのは、ややもすると、共産主義者たちが共産主義社会になって初めて人間は解放されると考えるあまり、その社会を実現することのみを考え、また、革命によって権力を手中にすることのみを考えるのに対して、彼は、人々が共産主義者となり、その社会を実現していこうとする生そのものを重視することである。彼にとっては、支配と服従のない社会で、人々が解放された人生を享受することよりも、人々がその社会の実現のために、充実した人生を、生き生きした人生を送ることが重要なのである。革命のために犠牲になる人生でなく、革命的な人生を送ることそのことが重要なのである。人生そのもののためにこそ、革命はあるという考え方である。人間のためにしか、革命はあり得ないという考え方である。
「現在、私たちの胸許まで迫っている革命は、その根本は数千年にわたって変革されることもなくつづいてきた階級社会の廃絶という人類の前史をまことにここに終わらしめるような壮大な目標と任務をもった革命なのであって、そこでは、生産手段の私有にはじまる強靭な全体系がまさに打倒さるべき真の敵であることに、繰り返し思い至らねばならないのである。敢えて、極端にいえば、そこには、敵から解放すべき人間は多くいこそすれ、敵として抹殺すべき人間は唯の一人もいないといってよいくらいである。何故なら、掌にまめの出来た勤労者は、たとえ、見せかけの敵となっていても、積極的な強い努力によって、味方に転化するはずであるばかりでなく、銃を向け直すべきツァリー、資本家、地主すらそれを支えていた制度がいまや廃止されてしまい、一人の人間としてその制度から全的にきりはなされてしまえば、もはや頑強な敵たり得なくなるのである」(転換期における人間理性)という埴谷の意見、それは、彼が人間というものを永遠の絶望のなかにあるもの、それでも人間は生きてゆかねばならないものと知悉したところから到達した結論であり、人間の生と思想を宇宙的視点から考察したところに生まれた結論である。彼には、それが結論でなければならなかったのである。
ことに、埴谷は、支配と服従のない共産主義社会を求めている共産党とその党員は、どんな人間をも敵とみなすことは許されないと考える。人間蔑視と人間利用があってはならない、奸計と暴力を用いてはならないと考える。それこそ、どんなに聖なる目的も手段までを浄化し、美化することは決してないということを知っているからである。
もし、愚かな手段を用いて革命を達するなら、たとえ共産主義社会というベールをかぶっても、そこには依然として、そういうものが残り、本当の意味での支配と服従のない社会は実現しないことを彼は知っている。その実例が、スターリンのソヴエト・ロシアにしめされている。彼が刻々の生そのものを重視したのも、刻々の生そのものに意味と価値を見出していこうとしたのもそのためである。
その場合に、埴谷が、支配と服従のない社会という遠い未来から、時々刻々の生をみつめ、判断していこうという視点にたったのも、刻々の生が、未来の社会をつくるものに連なっているかどうか、連なっている生だけが意味と価値をもっているということを明確にしたかったためである。共産主義社会、支配と服従のない社会を志向しているというだけで、どんな生も、どんなに汚濁にみちた生も許されると盲信している共産党員が共産主義者が多いということに対する彼の鋭い批判であり、強い抵抗でもある。
おそらく、「私とルーテルとの差異は、われわれが過去へ向かうのでなく、われわれはレーニンを読むことによってレーニンを知り、レーニンとなり、そしてレーニンを追いこすという認識の発展の方式をもっているところにある。そして、それこそが革命の方式である。革命は、古い制度の打倒にとどまらず、古い制度にまったく支配されぬ新しい人間の創出が目的なのだ。……支配と服従のない共産主義社会とわれわれはいうが、そこへの推移には、ただに生産力の増大と教育の全的普及にとどまらず、あらゆる制度、あらゆる機構、あらゆる思考法に、新しい世代からより新しい世代へ、前向きな自然なバトンの譲り渡しを習慣づけるような、意識的な、不屈な操作が決定的に必然である。そして、この必要は、社会主義革命がはじまった時から始まるのではない。革命家が革命家になった時から、すでに、未来社会の方式がその全身に備わっていなければならないのだ」(永久革命者の悲哀)という埴谷の言葉は、私達現代人とくに実務家、労働者、庶民に語りかける結論だと思われるが、それは、実務家に、労働者、庶民に向かって思想家になれ、思想家にならないかぎり、本当の生は、永遠に自分たちのものにならないといっているように思われる。
それから先は、各人勝手に、その生を生きればよいというのが埴谷の意見である。人間をそのようにつきはなしたところで、埴谷もまた一人で生きていく。いかなる権力にも、いかなる権威にも、よりかかろうとしない。よりかかることは出来ないということを彼は知っているのである。

普通、人々は埴谷を問題にする時、彼を特別の人間にみたてようとする。ユニークな思想家と考えたがる。しかし、私はそれには反対である。埴谷ほど、私たちの身近にいる思想家はいない。私たちが求めれば、誰でも埴谷の世界に到達できると思う。彼は、一般の学者とか指導者のように、他人のために生きなかっただけである。他人の眼を意識し、他人の毀誉褒貶に左右されないで、自分のために生きただけである。自分の生と思想を大事にしただけである。転向の時点で、自分を大切にしたから、転向そのものを生かすことができただけである。一つのイデオロギイから他のイデオロギイに、安直に移行するということをしなかっただけである。
転向の時点で、自分の生と思想というものを大切にすれば、その内容は違うとしても、誰でも埴谷のようになり得たはずである。実務家、労働者、庶民の手のとどくところにいるのが埴谷という思想家である。

<自立の思想 目次>

第十二章 日本の革命を構想しつづける……竹内好の世界

竹内好という思想家の思想を問い、その意味を考えることなしには、現代日本の課題に、正確にアプローチすることは出来ないというのが、私の竹内観であり、今日における竹内の意味である。その場合、竹内を肯定的に批判するか、あるいは否定的に批判するかということは問題ではない。というのは、彼ほど一貫して、日本民族の変革の問題を、また日本の民衆の変革の問題を執拗に問いつづけている思想家は、彼の同世代にはいないと考えられるからである。彼が魯迅に学び、中国共産党を問題にする時も、結局は、日本の民衆の変革の方法に一つの解答をもたらすためである。ある時は、中国共産党にあまく、中国を美化して考える傾向があったとしても、それは、日本の民衆の変革を希求する熱情からきている。日本の民衆への絶望からきている。それほどに、彼の思いと願いは痛切である。その点で、彼の結論がどうあろうとも、日本民族と日本の民衆のありようを自分自身の問題として考え、追求してみようとせずにはいられない者には、彼の存在を無視することは出来ない。彼の思想を素通りすることは出来ない。

竹内の思想を考える時、まず、中国文学者としての彼を考えなくてはならない。それは、彼が中国文学者だからというのではなく、彼が自立の思想をもつ契機となったのは、中国旅行であり、その時の孫文の思想との出会いであったからである。
竹内は、孫文との出会いを次のように書いている。「いま、その感動の性質を強いて説明しようとするならば、中国人の生活からどうしてその文学(思想と形式)がうまれるか、あるいは文学がどういう生活的地盤の上に成り立っているか、その私の疑問が『三民主義』を読むことによって一挙に解けた、少なくともそれを解く糸口が感性的に発見できた、ということにかかわっているらしい。私はまるごとの中国人を感じた」。これは、竹内が強烈に孫文に感動し、孫文の思想に、中国人そのものを発見した驚きをしめしたものである。おそらく、この時、同時に竹内は日本人として、日本人をまるごととらえうるような思想家になりたいと考えたに違いない。そのためには、孫文の文学を本当に理解し、見究めつくす必要があると考えたであろう。日本における孫文的存在になることを自分自身に課したかもしれない。その当時、彼が日本には、孫文的人間がいないと考えたとすれば猶更である。
だが、思想家を志しはじめた竹内は、次第に、その眼を孫文から魯迅へと移していった。というのは、魯迅という人物は、「絶望に絶望した人は、文学者になるより仕方ない。何者にも頼らず、何者も自己の支えとしないことによって、すべて我がものにしなければならぬ」といえるような作家であり、竹内もまた、絶望の中に生きるしかないと思いはじめていたからである。こうして、竹内は、魯迅から多くのものを学びとっていく。とくに、魯迅が学者、評論家としてでなく、思想家として中国の現実の中で殉教者的に生きつづけるしかなかったように、彼も日本の課題に全身で体当たりをして生きていこうとする。概念としての生を知る学者としてでなく、生を主体的に探求する思想家として、その生を精一杯に生きようとする。
それも、魯迅が中国の民衆に絶望し、さらには自分自身に絶望し、その絶望の中から手さぐりで、自立する民衆と自立する自分を求めたように、竹内もまた、絶望し求めつづける。少なくとも私にはそう見える。だからこそ、日本民族の、日本民衆の自立の思想を求めて苦悶した代表的思想家の中に、竹内をいれたのである。
事実、竹内が日本共産党につきつけた批判は鋭いだけでなく、日本共産党の自立を希求する願いにみちあふれていた。ことに戦後の思想的状況の中では、マルクス=レーニン主義と日本共産党は絶対の権威と価値をもって、日本の民衆に君臨していた時代であっただけに、彼の批判は鋭いというだけでなく、勇気のいることであった。
竹内はいう。
「手をついてあやまるならば、コミンフォルムにたいしてでなく、日本の人民の前に手をつくべきであった。人民への謝罪なくして共産主義への忠誠はありえない。ところが、日共の態度は、まったく反対であった。終始一貫、人民へ尻を向けて、コミンフォルムの顔色をうかがってばかりいた。自分が日本の人民を代表しなかったこと(それが批判の眼目だ)を反省せず、相変わらず、人民の代表のつもりで、しかも、被害者(批判によれば)である人民を道づれにして、コミンフォルムに詫び証文を入れている。救われぬドレイ根性、とコミンフォルムの批判者は思うにちがいないと私は思う。
もっとも、日共党員の主観においては、自分が人民に尻を向けているつもりはないだろう。かれらには、『人民』が目にみえないから」と。さらに、
「共産主義も発生当時は、日本の革命を主題にしていた。日本の革命のために共産主義が最良の方法であるという判断から出発した。ところが運動の過程において、手段であったはずの共産主義が目的化し、日本に共産主義を広めることが、日本の革命であると考えられるようになった。革命の主体であるはずの日本共産党が自己目的化し、共産党員がふえること、あるいは、選挙で投票がふえることがただちに日本の革命であると観念されるようになった」(日本共産党批判)ともいう。
竹内は、この批判で、民衆の上に絶対の権威と価値をもって君臨していた日本共産党とマルクス=レーニン主義を、民衆のところまでひきおろしたのである。無謬を豪語し、批判を許さなかった日本共産党とマルクス=レーニン主義にも批判しうる余地があること、批判しなくてならないことを示したのである。それこそ、マルクス=レーニン主義の権威と価値を一度全否定し、しかるのちに、新たに、その権威と価値を自分自身で創造する必要のあることを説いた。それが、マルクス=レーニン主義に対し自立するということであり、それこそが、魯迅がマルクス=レーニン主義に対した態度であったともいうのである。
勿論、竹内が日本共産党の奴隷性を批判したのは、日本の民衆の自立を斗いとろうとする点で、日本共産党が最も真剣であり、最も熱心であるばかりか、最も期待できると考えたからである。当時、日本の民衆の自立を希求すれば、日本共産党に期待する以外にはなかった。

竹内は日本共産党の奴隷性を暴露した。しかし、日本共産党の奴隷性は、日本の知識人の奴隷性と無関係でないというのが彼の考えでもある。
「解放運動までが、日本では、人民の間から否定の運動としておこらないで、逆に、人民をひきずる方向で、解放運動の世界的水準に近づく方向で、一高〜帝大の線からおこっている」(指導者意識について)という彼の言葉は、そのことを最も鋭く指摘している。たしかに、帝大出の彼らは、一部の人を除いて、自らを最高の指導者、最高の知識人とつねに自認しているし、奴隷の苦痛を本当には一度も味わったこともない。それでありながら、ヨーロッパ思想に対する自立を主体的に求めたことは一度もないという奴隷的な人たちであった。
「自由主義がダメなら全体主義、全体主義がダメなら共産主義」「スターリンがダメなら毛沢東、毛沢東がダメならド・ゴール」と竹内がいうように、常に、原理、原則を外に求めて転々とするのが、これまでの知識人であった。それが出来るのが、最高の知識人であると考えているのだから始末にこまる。ぬきがたい奴隷性である。しかし、そういう知識人に、これまでリードされたのが日本共産党である以上、日共の奴隷性を克服することは至難である。竹内の批判で、克服するほどに簡単なものではないが、彼が指摘したという功績は大きい。これをきっかけとして、共産党員の中に、日本共産党の自立を求める動きがおこったことも事実である。また、日共を批判する人々も出てきた。
だが、一体何故に、日本の知識人は、原理、原則を無原則に外部にむかって求め、捨て、また求めるということをくりかえしていくのであろうか。竹内の言葉によると、「自己を保持したいという欲求がないから」ということになる。私なら、さしずめ、自分自身に最高の価値と権威をおきたいという欲求がないからであるという。自分自身を原理、原則にしていこうという姿勢がないからであるというであろう。
自分自身に最高の価値と権威を与えようとすれば、自分を原理、原則にしていこうとすれば、マルクス=レーニン主義にとりつかれても、それの奴隷になることはない。日本共産党員になっても、日本共産党の幹部に盲従することはない。自分自身が日本共産党を代表し、マルクス=レーニン主義を代表しなければならない。幸徳がいったように、私がマルクス=レーニン主義であると確信をもてるようにならなくてはならない。
竹内は、恐らく、奴隷性にみちた知識人に指導されない日本共産党、一人一人の共産党員が共産党を代表しているような日本共産党を理想としているに違いない。一人一人が自立にたちむかい、マルクス=レーニン主義を通して、自立を戦いとろうとする集団であることを求めているであろう。

このように、竹内は、マルクス=レーニン主義の奴隷でしかない知識人を鋭く告発しているが、同時に、天皇の奴隷になりさがっている知識人をも批判する。というのは、日本人一人一人が天皇と併立し、天皇と同格である、価値の主体であることを究明することが、近代日本の知識人の最大の課題であり、すべての政治理論や社会倫理はその前提の上に初めて成立するものであるはずだが、明治から今日に至るまで、ほんの一部の者を除いて、大多数の知識人はこの課題をさけてとおった。最近では、日本のナショナリズムを論ずる場合でも、この問題をさけている。天皇と日本人の関係を論じないナショナリズム論は、全くナンセンスである。しかし、そのナンセンスが横行しているのが現代である。
竹内は、この課題を、最も鋭く自我の追求をなし自立を求めている芸術家という視点から、次のように論ずる。
「おそらく日本の芸術家にいちばん欠けているものは対権力意識である。芸術が芸術として自立するために不可欠な根本要請において、ひよわなところがある」
「芸術家は、……天皇制的精神構造にならされているために、権力の所在をつきとめられず、そのため時流に抗しきれぬのである。官僚の命令には反抗できても、天皇あるいは、国家の名で行われる共同体的雰囲気の圧迫には抵抗力が乏しい。……芸術至上主義は、本来は権力に対する徹底した抵抗によって形づくられる芸術家の態度である」(権力と芸術)
しかし、日本には、権力に対する徹底した抵抗をつづけた芸術家は殆んどいないというのが竹内の意見である。天皇の権威と価値に対して、自分自身の権威と価値が同じであると主張しつづけた芸術家は少なく、二葉亭や透谷、啄木のように、自我の成長史、確立史はあったにしても、日本人の中に定着することはなかったというのである。それは、二葉亭や透谷、啄木のように、天皇に対して自我の成長、確立のためには、自己の全存在をかける必要があったからである。例えば、秀吉に対する利休のように。それが出来ない者には自我の成長、確立はない。思想の自立など到底出来ない。まして、自分と現代の問題を統一的に追求し、思想的に究明しようとしない単なる学校秀才にすぎない日本の知識人には、それは無理である。彼らには、それに堪えうるのに必要な勇気、忍耐心、意志力もない。
マルクス=レーニン主義に隷属する知識人、天皇に隷属する知識人という判断が出た以上、竹内はもう、知識人に何の期待もしていないと言えるのかもしれない。日本共産党を批判し、日本共産党をリードする知識人を批判したのも、知識人にひっこめと言っているようにもみえる。彼が、しばしば隠退を言うのも、自分をふくめて、全ての知識人に隠退をすすめているとも判断できる。
奴隷的な知識人が自立するためには、知識人をやめて、民衆の一人として出なおすしかない。指導者の位置を捨てて、民衆の一人として、真に自立を求める民衆になるしかないと竹内は思っている。だから彼は、民衆が民衆のままに、指導者を必要とせず、自らの力によって、相互の力によって自立を求めはじめるようになる日を期待している。彼の希求している日本の革命も、その時初めて実現する。竹内が隠退しようとするのも、もはや、民衆の一人として生まれかわることの出来ない絶望感である。知識人になりすぎてしまった悲哀から出る言葉である。
だが日本の民衆は、今のところ指導者を必要とし、知識人を必要としている。そのかぎりでは、日本の革命はまだまだ遠い。それが、今日の竹内の絶望である。そういう絶望のしかたは、それこそ帝大出竹内の絶望であり、知識人竹内の絶望である。
その意味では、魯迅に学ぶという竹内であるが、魯迅のように徹底的に自分自身に絶望していない。中国の民衆に魯迅が絶望したように、日本の民衆に本当に絶望していない。自分にも、日本の民衆にもあまい。だから、期待したり絶望したりする。それをくりかえすしかなかった。それが、これまでの竹内であった。
もし、竹内が自分と日本の民衆に徹底的に絶望するなら、彼の仕事は今後にこそあると言える。民衆とともに、民衆の一人として、自立を求める戦いがはじまるはずである。その時の竹内が、知識人の衣裳を、中国文学者としての衣裳をかなぐり捨てていることはいうまでもない。また、その時こそ日本の魯迅にもなれる。
ことに、「今日の日本で、革命は必死の課題である。もはや、革命によらない前進は考えられない」(日本の民衆)という竹内、また、「中国共産党の勝利は中国ナショナリズムの継承の結果である」(現代中国の民族主義)という竹内には、日本ナショナリズムをいかにして、日本の革命集団に継承させるかという課題がつきつけられている。しかも、その課題にとりくむことは至難中の至難である。だが、この課題にとりくみ解決を見出さないかぎりは、竹内は、本当には思想家とは言えないし、自立した思想家とも言えない。こういう批判は、竹内に酷であろうが、いずれにせよ隠退を言うには早すぎる。

<自立の思想 目次>

第二部 戦中派の思想と行動

第一章 戦中派の思想的課題

戦中派の一人であり、戦争中に死んだ林尹夫は、自らの世代を「この世代には、誠実さがないと断言せざるを得なくなる。自己の生をきりひらくという、もっとも本質的な誠実さ、すなわち、もっとも大事な人間の積極的な生活態度が、この世代に欠けているのであろうか」「我々はあくまでも、次の二流の地位にしかたてぬ世代かもしれぬ。言葉のみあって、実践のない貧弱な世代。主流に立ち得ず、傍流に溺れてゆく世代の運命よ。それはいかなる分野にあっても、我ら、粗製濫造的世代の運命か」(わがいのち月明に燃ゆ)と規定しているが、戦中、戦後を通じて、これほど鋭く明確に、戦中派の実態を言いあらわしたものはいない。すでに戦中派の戦後までも予測していた。
林とは反対に、戦中派の特質は誠実主義、リゴリズムにあるとか(安田武の見解)、戦中派は全体として、戦後の平和と民主主義を守ろうとしているとか(山田宗睦の見解)という意見を、生き残った戦中派の中には強調する者もいるが、私にはどちらかといえば、安田や山田の意見よりも、林の意見、それも二十数年前にいった林の意見の方に、今のところ同調せざるを得ない。
この林の意見には、同世代に対する徹底的な絶望がある。反対に、安田や山田の意見には同世代への絶望があまりなく、甘い期待で貫かれている。たしかに、安田や山田のいうように、戦中派がそういう世代であってほしいと思うが、全体としての戦中派は、かつて安田的、山田的ではなかったし、また今もそうではないというのが私の意見である。
というのは、林の言うように、戦争中の戦中派は全体としては、いかなる意味においても自分自身に忠実ではなかったし、また、時代の課題に思想的に立ちむかおうとしなかった。戦後も同じく自分自身に忠実でなく、戦後の課題を見究める中で、自分自身の生をきりひらこうという徹底した姿勢もなかった。あまりにも、だらしなかった。
たしかに戦中派は、死という問題にぎりぎり対決したし、かぎられた生を最高に燃焼させようとした。その意味では誠実主義やリゴリズムは存在したかのようにも見えるが、事実は、戦中派はごく例外的な人々を除いて、唯単に国家の命ずるままに、しかたなしにその生を享受し、その死を送り迎えたにすぎない。大学や高専に学ぶ戦中派知識人としては、また、大学や高専を卒業した戦中派知識人としては、国家の方針や戦争目的を思想的に問い、批判できる能力と姿勢をもちうるはずであったが、殆んどそれをやろうとしなかった。感情的、感覚的に戦争に軍隊生活に反撥を感じる者はいたが、その理由を思想的に究明してみるということをしなかった。あるいは、究明してみても無駄であるとあきらめていたのかもしれない。とすれば、やはり自分自身に対し誠実ではなかったし、自分の生をきりひらこうとはしなかったということになる。そこには、主体的に考え、生きようとする戦中派知識人の姿勢は全くなかったといっていい。勿論、死を甘受できる境地に到達するために、精一杯に努力し苦悩したことは認めるが、またそれは大変なことであるが、唯それだけでは、奴隷の生活があっただけということになる。こういう言い方は酷かもしれないが、だからこそ戦中派の多くは戦争中、演習のあいまを利用して酒と女について語るか、あるいは酒と女にその生を燃焼させることによって、自分をごまかしたのである。それは丁度、今日のアメリカの学生が、国の方針を疑うことなしに、疑いをいだいたとしてもその疑いを深めることもなしに、ヴェトナム戦争に参加しているのに似ている。
戦争中こういう生き方しかしなかった戦中派、その生活を苦痛をもって反省しなかった戦中派は、戦後、占領軍によって与えられた平和と民主主義に、今度もまた盲従していった。彼らはそれを主体的に考え、問い、批判してみるという作業をしなかった。日本主義、帝国主義の奴隷がそのまま、民主主義、共産主義の奴隷になったにすぎない。こういう姿勢と生活から自信が生まれるわけがない。強い自己主張が出来るわけがない。せいぜい無学を歎くしかあるまい。とすれば、戦中派はだらしない、自己主張が足らないと戦前派や戦後派から言われつづけて現在にいたっているのも無理はない。
その中で、自己と時代に対して、誠実であろうとした戦中派もわずかながらにいることはいた。彼らは戦争中、共産主義や民主主義の思想が全く消えうせて、唯、戦争を謳歌する言論しかなかった状況の中に育って、まともに戦争にむきあい、その意味を可能なかぎり全身で問いつづけた。国家の方針ということで、無批判に盲従することもなく、自分自身で精一杯考えつづけた。その結果、ある者はこの戦争は東亜諸民族の解放戦争という結論に到達し、ある者はこの戦争は解放戦争という仮面をかぶった侵略戦争にすぎないという結論に到達した。
戦後、この戦争が侵略戦争であったという事実があきらかになった時、解放戦争であるという結論に到達していた戦中派は、特に強い衝撃をうけた。ことに、この戦争が解放戦争であると教えた戦前派が、戦後、民主主義や共産主義の指導者として変質していったばかりか、中には臆面もなく「私はこの戦争には反対しつづけていたのだ」と発言するのを見た時、彼らは怒りのあまり言葉も出なかった。だが、その怒りはすぐに、こういう戦前派にたぶらかされて、彼らのうそを見抜けなかった自分自身に対するものとなっていった。信ずべからざるものを信じ、誤りを誤りと見抜けないままに死んでいった仲間たちのことを、また死んでいこうとした自分のことを考えた時、彼らの心の中に、底知れない虚無と絶望の深淵がぽっかりとあいた。戦中派が「笑えぬ世代」「ものいわぬ世代」と言われたのもそのためである。
埴谷が転向を強いられた時、「我とは何か」「宇宙とは何か」を問いつめていったが、彼らもまた、その問いの前にいやおうなくたたされたのである。まず、そのことを問うことから始めなくてならなかった。それを問うたことのない人間は信じられないと考えた。つぎに一つの思想、一つのイデオロギーを信じこむことの恐ろしさ、それに自分の全存在をかけることの愚かさを痛感した。そのために、彼らは戦後、これこそ無謬の真理であるかの如き姿をもって、日本に入ってきた民主主義や共産主義に対しても、疑ってみないではいられなかった。どんな思想でも自分自身で徹底的に疑い、批判し、納得のいくまで検証してみることなしには、肯定することは出来なかった。それには、長い歳月が必要であった。
戦中派の一人、村上兵衛が昭和三十年頃に、「戦中派は目下考慮中」と言ったのもそのためである。敗戦後のショックで「ものいわぬ世代」となった戦中派は、次には意識的に「ものいえぬ世代」になっていった。そこには、軽々しく発言し、時代が変わるとそれに応じて、また軽々しく発言する戦前派への苦々しい軽蔑があった。さらに、責任の重さを痛感したこともあった。
戦争中、この戦争が侵略戦争であると見抜いた戦中派もいることはいたが、せいぜい、それは感じ以上のものでなかった。そのために、強力な反対運動を組織できなかったばかりか、多くの仲間をその戦争で殺したし、更にアジア民族を征服するための戦争に協力したという痛みも深い。また、将校の一人として、同世代の青年を戦争にかりたてていったという共犯者意識も根強い。そこから、自分も誤らないばかりでなく、他人をも誤らせない道にひきこむには、なみなみでない思索が必要であることを知った。それがもてた時に、人間は初めて自信をもって発言し、行動できるということも知った。そのことは、めったに人々の指導者になれないということを知ることでもあった。軽々しく人々の指導者になる人を、苦々しいと思うことでもあった。勿論、これは、学力があるとか無学であるとかということではない。それこそ、「目下考慮中」といわずにはいられなかった理由である。
だが戦後二十余年、戦中派もいつか四十代になり、社会の中堅に好むと好まないとにかかわりなく、おしだされてきた。そうなると、「目下考慮中」とばかりは言っておれなくなった。日本と日本人をどういう方向にもっていくかという決断もせまられる。
まして、戦中戦後を通じて、いつも時代の流れのままに無責任に生きてきたような戦中派の生き方は許されない。貴方まかせの生活は許されない。「目下考慮中」と言ってきた戦中派は猶更、時代と人々に対して責任ある発言と行動をしなくてならない時にきている。
言いかえれば、戦中派の一人一人が思想的に自立し、自立した思想に支えられて、戦後派の人々と一緒に生きていく時である。戦中戦後の生活体験、思想体験を確実にふまえて、それをのりこえてきたとすれば、それも出来るはずである。また、それが出来なくてならない。二十年余もじっくりと「目下考慮中」をつづけてきた以上、それは当然である。それがまた、生き残った戦中派の戦後派に対する歴史的課題であり、死んでいった仲間たちへの責任と義務でもある。
しかし今日、戦中派の多くは相変わらず戦中戦後の受身の生活をそのままつづけ、流されつづけており、ごく一部の戦中派が現代の課題にまともにたちむかっている。それは、全体としての戦中派が大きく分裂しているということである。そして、その分裂は今日の厳しい思想状況、政治状況の中で、いよいよ決定的になっていくという傾向にさえある。そういう戦中派が可能なかぎり一つの戦中派として、時代と人々に対して責任ある行動をおこせるように、統一のきっかけをつくるのは、今日をおいて再びないであろう。人類破滅に通ずる愚劣な戦争に狂奔する今日、戦争の中で苦悶してきた戦中派が、その思想と生活を生かして有効な発言と行動をなせるのも今である。そのために可能なかぎり、戦中派が一つになる事である。
そういう時、戦中派の代表的知識人の思想と行動を整理し、考えてみることは非常に重要であろう。ことに戦中派の大学教授、助教授二十名をえらんで調べたところ、ここに取りあげた吉本たちの著作を読んでいる人が非常に少なかったこと、さらに小学校、中学校出の戦中派二十名のうちには、三島由紀夫の名前しか知らなかったということを考えた時、猶更、そのことの必要さを痛感した。全体としての戦中派があまり読んでいないということにはいろいろ理由があろうが、吉本たちを読んでみようとしないことそのことに、戦中派はだめであると戦後派にいわれる理由の一つがあろう。というのは、吉本たちの取りくむ問題は、「喪われた世代」としての戦中派を自分自身を含めて、いかにして自立させ復権させるかということにつきるからである。思想の自立のために、最も根本になる問いを問いつづけているからである。二十人の教授、助教授が吉本たちをあまり読まないといったのは、読まないというだけでなく、自分に課していないということ、またそれぞれの学問の根柢にすえていないということを附記しておくことは必要であろう。
では、吉本たちはどのようにして、自分をふくめて戦中派の自立を戦いとろうとしているのであろうか。そして、時代と人々に対する責任を果たそうとしているのであろうか。

<自立の思想 目次>

第二章 三島由紀夫……戦中戦後を一貫する生と価値をもとめて

一 戦中、戦後の三島

まず最初に、三島由紀夫について論ずるのは、彼が、彼の作品が戦中派の中の最も多くの人たちを代表していると思われるからである。それは、戦中派の多くが三島ほどには深く考え、強く感じていないにしても、それなりに彼と同じように考え、感じているということである。言いかえれば、全体としての戦中派は三島的であるということである。三島に対して共鳴するのも、また三島に反撥するのも、すべて自分の中にある三島的なものに共鳴するか、反撥しているにすぎない。
戦中派の一人山田宗睦のように、三島を戦中派の中の例外的な存在とみるものもいるが、私には、三島こそすぐれて戦中派的心情の持ち主であり、三島こそ戦中派の多くを代表していると思われる。勿論、私がそう思うのは、彼が、「自分が一時代の一つの世代の代弁者のように扱われたとき、このありえようがない誤解に対して、私の愕きは大きかった」(私の文学)と書いているからではない。実際に戦中派の多くは、戦中、戦後をを通じて三島とともにいるということであり、三島の描く作品の世界に生きているということである。
そのことを、戦中、戦後の三島を述べる中で明らかにしてゆきたい。それはまた、彼ほどに、戦中、戦後の戦中派の実相を明らかに書いたものはいないということでもある。

戦争中の三島が日本ロマン派に接近し、作家としての三島はその中から生まれたということを、彼を論ずる者が一様に言うところである。そして、それをさも大変なことのように言う。中には、日本ロマン派と三島の距離だけで、三島の文学、三島の思想を論じる者さえいる。
しかし、こういうことで、一個の自立した思想家であり作家である三島を論じうることができると考えているとしたら、全くおかしなことである。ここには、人間の思想、とくに青年と思想との関係を考えようとする視点が全く欠けている。
現に、三島が「少年期と青年期の境のナルシズムは、自分のために何をでも利用する。世界の滅亡をでも利用する。鏡は大きければ大きいほどいい。二十才の私は、自分を何とでも夢想することができた」とか「人間の政治的な立場が形づくられるには、確固たる思想や深刻な人生経験ばかりでなく、ふとした偶然や行きがかりが、かなり作用しているようにも感じられる。私の現在の政治的立場なども、思えばいい加減なものであるが、それは自分で択んだ立場というよりも、いろんな偶然が働いて、何かの力で自然にこうなってきたのかもしれない」(私の遍歴時代)と書いているように、それこそ、青年期の思想というものは、数多くの思想の中から自分で一つを択んだものでなく、周囲にいる教師とか先輩とか友人とか父親とか、或いは偶然読んだ書物に魅せられて、それにひきこまれるというのが普通である。勿論、そこに、ある程度の好みとか感動とかが働いたことは事実にしても、他の思想については全く無知であるということでは変わりがない。だから、一つの思想から他の思想に向かって転向するというようなことも容易におこりうることである。三島の場合も、日本ロマン派を択んだのでなく、学校の教師の中にそういう人がいたという偶然により、それに接近したにすぎず、それを深く吸収し摂取したにすぎない。
それこそ、彼は何でも利用したいという気持ちで、日本ロマン派を利用しようとしたにすぎない。問題は、青年として感覚的感情的にのめりこんだ思想を、その後の追求と思索の中でいかにして深め、自分の思想として確立していったかということにある。三島に即して言うなら、日本ロマン派を自己の思想としてどのように否定的に創造し、主体的に発展させたかということである。思想創造のいとなみということはそれ以外にはない。日本ロマン派を単に盲従することも、また単に否定することも、ともに思想を創造し発展させるいとなみとは全く無関係である。そういう点では、三島は日本ロマン派の中から何を継承し、どう発展させようとしたかということが問題であり、それはすぐれて思想的な問題である。だが、そのことを述べるまえに、まず彼の戦中、戦後の生活について述べてみたい。それがそのまま、彼と日本ロマン派との関係を述べることにもなるから。

「兵隊にとられれば生きてかえることは期待出来なかった」(私の遍歴時代)「二十年の短生涯の記念をのこしたいという思いが一層つのっていた」(同)「私一人の生死が占いがたいばかりか、日本の明日の運命が占いがたい。その一時期は、自分一個の終末観と時代と社会全部の終末観とが完全に適合一致した」(同)という考えにたって、三島は自然に日本ロマン派に接近していったが、それは、戦中派の一人橋川文三が日本ロマン派にひかれたというのと同じである。橋川が日本ロマン派の中の“頽廃への情熱”“破滅へのイロニー”“亡びの意識”にひかれたように、三島は、日本ロマン派の中にある日本美に魅いられたのである。一見二人は異なるようにみえて、三島のそれも、結局その日本美とは、“亡びの意識”に通ずる“終末観の美”でしかなかったのである。
その意味では、三島は橋川と同じく戦争の中に生きる青年であり、死を絶対的なものとして受けとめる以外になかった青年の一人であった。だからこそ、保田与重郎の日本美が次第に、戦争勢力や国粋主義勢力と癒着していったのに対して、三島のそれははっきりと違っていた。
即ち、三島が保田に、「謡曲の文体をどう思われるか」と質問した時に、保田からは答えらしい答えがなかったことを非常に失望して、「私は当時、中世文学に凝りはじめていて、特に謡曲の絢爛たる文体は、裡に末世の意識をひそめた、ぎりぎりの言語による美的抵抗であって、こういう極度に人工的な豪華な言語の駆使は、かならず絶望感の裏打ちを必要とするはずだから、それについて、保田氏の浪曼主義者らしい警抜な一言を期待していたのである」(私の遍歴時代)と書いていることを見てもあきらかである。
保田は自然な流露としての美を求め、またそれ故に、戦争勢力や国粋主義の中にのみこまれていったが、三島のそれには、青年のままに死ぬことを余儀なくされた戦中派の悲しみと抵抗と絶望があった。終末観があった。それに裏打ちされた美でもあったのである。自分を無理に死においやるためには、自分を納得させるに足るだけの意味と価値が必要であったのである。
それこそ、三島が日本ロマン派に求めたものは、「反時代的精神の隠れ家、御先真暗な人生の隠れ家……しかもそこには、何等英雄的なものはなく、時代の非適格者たる自分を是認するための最後の隠れ家」(私の文学)としてのそれであったのである。
それが戦争中、三島に作品「中世」を書かせたものである。彼にとっては、中世だけが絶望の美であり、終末の美であったのみでなく、今日只今が絶望であり終末であった。絶望であり終末でなければならなかった。しかも彼は、そのような生を結構楽しんでいた。死をおそれながらも、陶酔していた。
「こういう日々に、私が幸福だったことは多分確かである。就職の心配もなければ、試験の心配さえなく、わずかながら食物も與えられ、未来に関して自分の責任の及ぶ範囲が皆無であるから、生活的に幸福であったことはもちろん、文学的にも幸福であった」(私の遍歴時代)
戦中派の多くは、多かれ少なかれこういう感情にひたっていた。こういう生活を楽しんでいた。死というものと交換に、彼らは中国や東南アジアに無銭旅行をし、死の彼方にぎりぎりの男の友情を味わい、ある者は無能力や無識見とは関係なく専門学校や大学に学んだというだけで、五、六十名の部下を持つ青年将校としての誇りと生活を満喫していた。彼らは、時代や戦争について主体的に考えることもなく、また、自らの責任において行動し発言するということも殆んどなく、すべてを天皇と歩兵操典にまかせて生活していた。生活すればよかったのである。それに戦争中は、戦前派が彼らを非常に大事にした。どんな青年でも、無能力あつかいをし馬鹿あつかいにすることは決してなかった。死を約束された者への唯一の贈物であったのかもしれない。
せいぜい、軍隊の中で往復ビンタをくい演習の苦痛を味わったが、それとても自分だけが体験することではなく、群衆の中の一人として味わえばすむことであった。しかも、非常に短期間がまんすればよかった。こういう生活には誰でもすぐに慣れるものだし、甘受することができる。戦死という厳しい事実すらも、よほど運のわるい者が遭遇するものにすぎないと思いはじめていた。
戦中派の多くは、戦争中、死を代償にしてあまやかされ、それ故に奴隷の幸福にひたった。自分で生きるのでなく、誰かによって生かされるような幸福感。奴隷の幸福に陶酔する以外に、他にどんな生き方もないというのが彼らの意見であった。しかもこういう幸福感は、思想的に自立していない人たちには、まことに魅力的でさえある。戦後もそのまま、思想的に自立しようとしない戦中派は、自然、戦争中の生活をつづけることになったし、また、なつかしむことにもなった。林尹夫が、「この世代には自己の生をきりひらくという、もっとも本質的な誠実さを欠いている」と書かずにはいられなかったのもそのためである。
三島の戦争中の幸福も、結局これ以外のものではなかった。だからこそ、戦後、「不幸は終戦とともに、突然、私を襲ってきた」と書くことにもなる。不幸が襲ったばかりでなく、とまどいもまた彼を襲ったのである。
三島は、「戦争中はかえってひそかな個人的嗜好がゆるされたのに、戦後の社会は、たちまち荒々しい思想と芸術理念の自由市場を再開し、社会が自らの体質に合わないものは片っ端から捨ててかえりみない時代になった」(私の遍歴時代)。「見るからに新時代が躍動している。戦争には負けたけれども、もう爆弾の落ちる心配はなく、自由な言論と、企業的成功とが一緒に来た。しかし私は時々、呆然たる感想におそわれた。これが一体現実なのだろうか。きのうまでの自分の現実はどこへ行ってしまったのか。こんな平和なオフィスのながめは、永久に見られまいと、つい此の間まで思っていたのに、わずか半年でこうなったとは!」(同)と書いて、その驚きを率直に表明した。
三島の戦後の放浪がはじまったのも当然であった。自分が本当に生きている、現代に存在していると実感できるものを求めての生活がはじまった。三島は、彼の友人達が自殺者となり、発狂者になり、病死者になるのをひややかに凝視しながら、彼は原子爆弾が落ちたことも冷然とながめ得る心境になって生きる。それこそ、生きていても仕様がないと思いながら、唯惰性だけで生きていく。ひどい無力感とすばらしい昂揚感が交互にやってくるような生活をくりかえす。その間、戦争中、一生懸命戦争合理化の旗をふった戦前派の連中が、今度は民主主義の旗をふるうのを見る。三島は、あらためて思想とは人間にとって何なのかという問いを発せずにはいられなかった。知的なもの、知性的理性的なものへの三島の不信、知識人、文化人というものに対する三島の軽蔑と嫌悪とが根強くなっていったのは、その時からである。また、それ故に、「戦後十五年間、私はたえず旧文学にもあきたらず、新文学にも食いたりぬ」という発言も出てくる。
多くの戦中派の戦後の心理と生活もおおよそこういうものであった。自殺者や発狂者を出したのは、別に、三島の周辺に限らない。たいていの戦中派が、折角生き残りながら、その尊い生命を自ら断った友人や知人を持っている。そこに、戦中派の絶望の深さがあり暗い運命があった。自殺した彼らは、社会に復帰できないまま、生きているという実感さえも持てないままに、その生命を断った。その理由の一つに、戦前派の軽々しい生き方、非思想的な生き方があったことは言うまでもない。戦中派の中には、戦前派の唱える民主主義、共産主義には生理的に反撥を感じたものである。
ことに、占領軍であるアメリカを先頭にして入ってきた民主主義への不信は徹底していた。近代主義を唱えるアメリカ、イギリス、フランスは、その国内では人種差別が徹底し、長い間アジア諸民族を奴隷として遇してきた。その人たちの唱える民主主義にどうして共鳴できよう。それに、既にソ連軍が満州で、強姦、略奪をほしいままにしたことも耳に入ってきていた。その不信と怒りを代表したのが三島であったといってもいい。
だからこそ、三島はその一作一作に、自分のみでなく戦中派の陥っている「やけのやんぱちの、ニヒリスティックな耽美主義の根據を徹底的に分析してみよう」とした。「生きねばならぬという思いをもとう」とした。しかも、それは、「未来の希望もなく、過去の喚起はすべて醜かった。私は何とかして、自分及び自分の人生をまるごとに肯定してしまわなければならぬ」ものであった。
しかも、すでに知性に、戦前派知識人に絶望しきった三島のことである。さらに、こういう戦前派的知識人に同調する戦中派的知識人も同じであった。とすれば、三島が執拗に心情や感覚にくいさがっていったのも当然である。それは、三島が自分の生活体験、思想体験を大事にしながら、自分を再建する姿であったと言っていい。
このことを理解しないで、三島が心情、感覚に固執するのを日本ロマン派への傾斜とか、伝統主義へののめりこみと批評するのは、彼を理解していないところからきている。
いいかえれば、虚無や絶望、存在の欠乏感など、戦中派のかかえている問題は、そこに思想をふくみながらもすぐれて心情的なもの、感覚的なものである。この心情、感覚の虚脱、絶望を解決しないかぎり、戦中派には永遠に自己を再建することも、思想を確立することもないのである。三島が「肉体的な存在をもった知性」と言ったのも、心情、感覚の裏づけのない知性や知識人は信用できぬという考えからきている。
その結果、三島が「明確な、理知的な、明るい古典主義」を択んだにしろ、またあらためて日本ロマン派とかかわりあうものを択んだにしろ、もはや問題ではないであろう。そのいずれにしても、彼がぎりぎりの状態で択んだ以上、もう、三島が生き、三島が存在するためには、三島がそれらを創造し発展させなくてならないものであった。というのは、三島自身による創造と発展がないかぎり、三島が全存在をあげて欲するところの生きているという実感、現代に存在しているという実感は決して三島のものにはならないからである。
まして、三島は凡庸の作家でもないし、ごまかしの上に安住する作家でもない。とすれば、三島は、どこまでも創造と発展の中に、彼自身の存在を実感しようとするに違いない。三島の中では、古典主義も日本ロマン派も創造し発展させるものでしかない。それが戦後の三島である。彼ほど、自らの心情、感覚を大事にし、それに忠実に生きているものはないと言ってよかろう。

二 三島が志向するもの

「純文学には、作者が何か危険なものを扱っている、ふつうの奴なら怖気をふるって手も出さないような、取り扱いのきわめて危険なものを作者が扱っている、という感じがなければならないと思います。つまり純文学の作者には、原子力を扱う研究所員のようなところの危険を案じながら、それを読むのです。小説の中にピストルやドスや機関銃があらわれても、何十人の連続殺人事件がおこっても、作者自身が何ら身の危険を冒して“危険物”を扱っていないという感じの作品は純文学ではないでしよう。
その危険物とは美でもいいし、家庭の平和でもいい。ありきたりの情事であってもいいし、又殺人であってもいい。子猫の話でもよいし、碁将棋の話でもいい。しかし、第一条件はそれが危険なことである」(私の遍歴時代)
という言葉が三島にはあるが、戦後まもなく中村真一郎に会った時、「この人は危険な美をみとめない人だな。それでどうして能楽や新古今集がわかるのだろう」と思ったとも書いている。
“危険なもの”“危険な美”が作者には必要というだけあって、三島は一貫して“危険なもの”を題材にして書いてきた。「仮面の告白」「愛の渇き」「青の時代」「金閣寺」「美徳のよろめき」「鏡子の家」のどの作品をとってもそのことは言えよう。「仮面の告白」は男色を、「青の時代」は既成の価値に対する不信を、「金閣寺」では戦中派の不条理を、「美徳のよろめき」では官能の美を、そして「鏡子の家」では戦後青年の亡びゆく姿を描いている。さすが、「“お前の使命は何か”ときかれたとき、……“人類に死と破壊をもたらすこと”とでも答えることができたら、どんなに愉快なことだろう」(私の文学)と書く三島ではある。
それも、一作一作に現代に生きているという実感をたしかめつつ、存在しているという証拠を求めつつ書いていく。あたかも書くことによって生き、書くことによって存在を確かめようとしているかのように。それは、戦争中の三島が他によって生かされただけで本当には自分で生きたことがなく、そのままでは到底、戦後には生きられないことを知って、彼が戦後の社会に自分の生きる場所を求めての模索であり、戦中派としての自己確立と社会復帰を求めてのあがきであった。
だから、「仮面の告白」を書きおわった時、「内心の怪物を何とか征服した」といい、「何としても生きねばならぬ」と決心するのである。「感覚からは絶対に訣別しよう」と決心もするのである。これは戦争中の三島への訣別であり、戦争中の無批判的にうけいれていた日本ロマン派との訣別でもあった。これほどすさまじい自己との闘いはない。自己否定はない。
三島は「仮面の告白」で今一度自らのひかれたもの、自分をまきこんだものを醒めた意識で追求しなおしてみる。自分の感覚を感覚のよってきたるところを徹底的に究明してみようとする。それが、他人には秘密にしておきたいものであっても、例えば“男色”であり“異常性欲”であっても、それを分析してみようとする。書くことによって、見究めることによって感覚を克服し、感覚と訣別しようとする。「やけのやんぱちの、ニヒリスティツクな耽美主義の根拠を自分で徹底的に分析してみたい」という願いから、三島は好んで、魔的なもの、呪術的なもの、右翼的なものを題材にして書く。陶酔する感覚をとことんまで追求していく。
そこには、「疑いようのない肉体的な存在をもった知性しか認めず、そういうものしか欲しいと思わなかった」(私の遍歴時代)、「大多数の人間は思想の内容などについぞ注意を払わない」(私の文学)と書くように、感覚しか、感覚に根ざした知識しか認めない、三島の徹底した立場がある。感覚に訣別するということは無批判的に陶酔する過剰な感覚に訣別し、醒めた感覚をより一層強く求めるということである。そういう意味で、「仮面の告白」は単に感性的な人間でなく、感性に根ざした知的なものをもった人間を描いている。そこに、この作品の文学史的意味がある。「鏡子の家」ではそれが最も端的にあらわれている。三島は自分の分身ともいうべき四人の男を鏡子という女主人公を中心にえがいているが、おそらくこの四人の要素は、戦後の三島がひきずってきたものであり、三島自身が四人のうちの誰にもなることのできたものであろう。
三島はその作品で、「四人は四人とも、言わず語らずのうちに感じていた。われわれは壁の前に立っている四人なんだと。それが時代の壁であるか、社会の壁であるかわからない。いずれにしろ、彼らの少年期にはこんな壁はすっかり瓦解して、明るい外光のうちにどこまでも瓦礫がつづいていたのである。日は瓦礫の地平線から昇り、そこへ沈んだ。ガラス瓶のかけらをかがやかせる日の出は、おちちらばった無数の断片に美を与えた。この世界が瓦礫と断片から成り立っていると信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期は消えてしまった。今ただ一つたしかなことは巨きな壁があり、その壁に鼻をつきつけて四人が立っているということなのである」と書いている。たしかに、戦争中の自由と陶酔はすばらしいものであり、無限なものにみえたが、それは錯覚でしかなく、他人の手の中の自由と陶酔でしかない。だが四人はそれが忘れられない。戦後の社会の中で、それをもう一度自分のものとして掴みたいと思うのである。それは三島の一つの願いでもあり、戦中派の憧れでもあった。だが、その壁にむきあった四人はどうなったか。
その一人は、「自分の脇腹に流れる血をみたときに、収は一度もしっかりとわがものにしたことのなかった存在の確信に目ざめたのである。ここに彼の若々しい肉があり、それを傷つけずにはやまない他人の強烈な関心があり……“これこそは世界のうちにおける存在のまぎれもない感覚なのだ”と収はおもった」という思いをいだいたまま、自殺していく。
次の人間は、「峻吉はようやくはっきりと、自分が自分を売りつつあるのを感じた。“芒のいっぱい生えた分譲地を売るように、俺の未来をこいつに売り渡そう。俺は永遠に考えず永遠に目をさまさない。永遠に眠っている力の持主になる。それこそは力の保証する本当の幸福の意味だ。”こんなことを漠然と感じた」とつぶやきながら、右翼に入る。
もう一人は世界の崩壊が確実に来ると信じつつ、一歩一歩立身出世の階段をのぼっていく男である。
最後の一人は、水仙の花をきっかけにして徐々に現実に恢復していく。
「僕は僕と同じ世界にすみ、水仙と世界を同じくするあらゆるものに挨拶した。永らく僕が等閑にしていたが、僕が今や分ちがたく感じるそれらの同胞は水仙の後から続々とあらわれた。街路をゆく人たち、買物袋をさげた主婦、女学生、……それらが次から次と異常なみづみづしさを以てあらわれた。僕は一日一日現実を恢復した。……僕はそれまで送っていた閉鎖的な生活をすっかりやめてしまった。……仕事も少しづつ出来るようになり、僕はもっと広大な世界、未知の国々を見たいという、普通の青年らしい欲望のとりこになった」と晴々と語る。
主人公鏡子は、戦後が生んだ陰惨で破滅的青年、千々に破れた鏡の破片のような青年を愛することを卒業して、平凡な日常的な妻の生活にかえってゆく。
ここで三島は唯一つの存在をたしかめようと自殺していく収を、永遠に考えず永遠にさめないままに右翼入りする峻吉を、別に批判してはいないが好ましい人生としては描いていない。世界の崩壊を信じつつ時代状況に流されていくしかない清一郎も勿論、好ましいとは思っていない。ただ一人夏雄の生に、現実社会に復帰していく夏雄を好ましいものとして描いている。だからとて、三島は、収にも峻吉にも清一郎にも、それぞれ強くひかれるのである。それが青年らしい、もっとも青年らしい生き方ではないかと共鳴するのである。そして唯一つ、彼等に共通していることは、彼等自身一様に、危険な生を誰の助力もなしに生きたということであり、そういう生き方にしか本当の再生は社会復帰は望めないと三島は言っているようでもある。その過程で亡びるのもいいし、再生するのもいいとも言っているようである。
これは戦後の連帯とか団結についての軽々しい風潮に対する批判でもあった。軽々しい連帯や団結からは何も生まれないという発言でもあった。その意味で、三島は、人間の自己確立というものが如何に困難かを知悉していると言える。彼はこの作品を通じて、戦中派の自己確立と社会復帰の困難さを描いたのである。この困難にたえることのできた戦中派だけが真に自己を確立し、社会復帰できるのである。三島を例外的な戦中派と評価することがいかに間違っているかということは、このことでも明らかである。
もし、戦後の平和と民主主義に三島が無縁であるというなら、彼は喜んでそんな平和には無縁でありたいと言うに違いない。というのは、三島は戦後の平和が単に戦斗のない平和、戦争を裏返しにした平和であり、日本国民にとっての本当の平和でないと知っているからである。彼には、戦後の平和のみか戦後の日本すらも認めることができない。勿論、戦後の民主主義も。死の衝動をうすめ、ごまかすことができたとしても、その衝動を解放し、根絶する力はないとみる。むしろ戦後の平和には死の衝動をねむらせ、破壊の衝動をうすめるものがあると考える。とすれば、戦後の平和も民主主義も否定しなくてはならないだろう。
だからといって、三島にも今のところ、真の平和が、真の人生の価値が何であるかはわかっていない。それは、「天下泰平の思想というものがもし出てきて力を持つとすれば今までのような平和主義でないことはたしかである。それは一種危険な魅惑をもっていなければならない。トインビーのいわゆる“危険のうちに生きるという賜物”を提供しなければならない。生命を捧げるに足るだけの何らかの価値を提示しなければならない。といって、かつての国家主義哲学は現代の世界ではすでに古い。とすれば、それは何であろうか」(私の遍歴時代)と言っていることをみても明らかである。
わからないからこそ、古きものや新しきものを同時に破壊するために、せっせと“危険なもの”を書きつづけているのである。多くの人たちが戦後、建設を言いつづけてきた中で、三島は戦後に更めて破壊が必要であることを認め、破壊をつづけてきたのである。真の建設は破壊しつくさないかぎり、決してこないことを知っている。彼こそ、革命を痛切に求めている者であると言える。
それは、戦中派の中の多くの人々にある漠然とした感じであり、思いでもある。三島は戦中派の先頭にたって、こういう重要な提案の前にたっているということができる。三島こそ、すぐれて戦中派的であると言える。だが、この問題は非常に難問である。彼はまだそれに答えていない。彼がこの問題に十分に答えた時に、戦中派の多くが自立する契機と可能性をつかむことができると言えるのかもしれない。

三 「憂国」と「英霊の声」

「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい。老年の知恵は永遠に迷蒙であり、青年の行動は永遠に透徹している。だから生きていればいるほど悪くなる」(二・二六事件と私)とは三島の言葉ではあるが、それ故にか彼は好んで若くして死んだ人々を描き、また讃美する。「憂国」もそういう作品である。
その主人公は二・二六事件に参加せず、逆に、明日は事件をおこした人々を討伐しなければならないと考えて苦悶し、進退きわまって妻と一緒に自殺する青年将校であるが、三島はその作品を次のように解説する。「死処を択ぶことが同時に、生の最上の喜びを選ぶことになる。このような稀な一夜こそ彼らの至福に他ならない。しかもそこには敗北の影すらなく、夫婦の愛は浄化と陶酔の極に達し、苦痛にみちた自刃はそのまま戦場における名誉の戦死と等しい。至誠につながる軍人の行為となる」(同)と。
たしかに、三島はその青年将校の死を讃美しているようである。しかし同時に、その死を択んだ彼の判断については愚かであると思っているのではないか。それは、無批判的に陶酔する過剰な感覚と訣別し、醒めた感覚、感覚に根ざした知識を求めつづけてきた戦後の三島の立場を考えれば明らかである。というのは、その青年将校は軍人として一番大事な状況の誤認をやり、早まって死んだ男にすぎない。そんな彼は、死という行為に最高の生の昂揚を感じたとしても、そんな生は名誉どころか、至誠に通ずるどころか、逆に全く不名誉であり敗北ですらある。軍人として、将校としては最低の生を生きたということになる。無責任でさえある。逃避でさえある。
三島がそれを知らぬわけはない。知りながらその死を讃美し、その死に敗北の影すらないと言いきるのはおかしい。もしかすると、三島自身若くして死ねなかったことに対するひけめでもあるのかもしれない。自殺とか死とかという決定的行為に進み出ることができないために、より一層の憧憬があるのかもしれない。それに、三島ほどの人間が青年の生の美しさと老人のみがかれた美しさ、青年の純粋な行動と老人の透徹した智慧が等価であることを知らないわけはない。
要するに、「憂国」はすぐれて思想的事件を思想をぬきにして書いたために、失敗した作品ということになる。だから三島は、そのことに気づいて、「英霊の声」を今度は十二分に思想的意味をもたせて書いたということができる。
三島は、二・二六事件で蹶起し銃殺刑になった人々のことを次のように規定する。「今なお心は怒りと憤りと、耐えがたい慨きに引裂かれている。なぜなら、われら裏切られた霊だからだ」(英霊の声)と。また、彼らは「民の貧しさ、民の苦しさを竜顔の前より遠ざけ、陛下を十重二十重にとりかこんでいるあれらの者たち、即ち奸臣佞臣、あるいは保身にだけ身をやつした者、不退転の決意をもたずに事に当った者、臆病者にしてそれと知らずに破局への道をひらいた者、あるいは冷血無残な陰謀家、野心家が取り囲み奉っていた」状態をなくするために義兵をあげたが、かえって叛乱の汚名を蒙って殺されてしまったとも言う。
もし彼等が義軍をあげた時、天皇が「よし御苦労である。その方たちに心配をかけた。今より後は、朕自ら政務をとり国の安泰を計るであろう」と言ってくれれば、彼らはそこで割腹し、慟哭することもなかった。だが天皇は反対に、
「日本もロシヤのようになりましたね」と言い、
「朕が股肱の臣を殺した青年将校を許せというのか。戒厳司令官をよんで、わが命を伝えよ。すみやかに事態を収拾せよ。もしこれ以上ためらえば朕自ら近衛師団をひきいて鎮圧に当るであろう」と言った。
三島はこの事実をさして、これをかぎりとして天皇の軍隊は亡び、日本の大義は崩壊したと書く。それというのも、天皇が神としてでなく、人間として彼らを見捨てたからであると言うのである。
しかも大東亜戦争中、戦中派や特攻隊は二・二六事件の人々のように、天皇を神と念じ、その神のために進んで死んでいった。だからこそ、三島は、「兄神たち=二・二六事件の人々=はその死によって、天皇の軍隊と軍人精神の死を体現した。われら=特攻隊員であり、戦中派である=は死によって、日本の滅亡と日本の精神の死を体現したのだ。兄神たちもわれらも、一つのおそろしい、むなしい、みじんに砕ける大きな玻璃の器の終末を意味していた。われらが望んだ栄光のかわりに、われらは一つの終末として記憶された。われらこそ暁、われらこそ曙光、われらこそ端緒であることを切望したのに」と書いたのである。
またそれ故に、三島は、天皇に神であることを求めた。人間宣言をやらないでほしいと願った。それ以外に、死んだ人々は永久に安住することはできないと考えたのである。これほど痛切に、また思いきって、日本の挽歌をかなでたものはない。鋭い天皇批判をしたものはいない。しかも、死んでいった戦中派に深い思いをいたしながら。これはまた、戦前の日本への告発であり、断罪でもある。この断罪がない限り、日本は本当には再生できないと言うのが三島の意見である。
文学座が一度上演をきめておりながら、思想上の理由で上演中止となった「喜びの琴」にしても、この「英霊の声」に通ずるものがある。三島の要約によると「“喜びの琴”はある警察署の公安係の部屋を舞台とする三幕物で、二十五人の警官が登場する。反共の信念にもえる若い警官が、その反共の信念を彼に吹きこんだもっとも信頼する上官であった巡査部長がじつは左翼政党の秘密党員であって、この物語の進行する未来の架空の時期に政党の過激派が策謀した列車転覆事件に一役かったのみか、自分自身も道具として利用されていたことを知り悲嘆と絶望の底に落ちこむが、思想の絶対化を唯一のよりどころに生きてきた青年は、すべての思想が相対化される地点の孤独にたえるために、唯幻影の琴にすがりつく」という話である。
この作品に躍起となった文学座もおかしいし、この作品で三島が破産したというのも納得できない。彼は風刺劇として描いたと言っている。たしかに、この中には十分風刺をおりこんでいるようである。日本人の多くは思想やイデオロギーを信ずる者とそれに無関心な者の両極端にわかれる。信ずる者のうちには、右翼も左翼も思想やイデオロギーを唯一絶対のものとしている者が非常に多い。
三島はこの作品の中で、そのことを言おうとしたのであろうが、そうとすれば、彼としては「英霊の声」で戦前の日本の挽歌をかなで、「喜びの琴」で戦後日本の挽歌をかなでたのではないか。だが私はそれ以上に、直接的には、戦前派への告発を感ずるのである。「絹と明察」にしても同じことで、日本的、あまりに日本的な紡績会社社長が亡んでいく様子を、資本主義機構そのものの非情さを背景にして描いたものである。
こうなると、三島という作家は、戦中戦後の日本の挽歌をかなでながら、一体どこにいこうとしているのかということになる。これこそ、日本ロマン派の思想を戦後に継承し、展開している姿以外のなにものでもない。ことに今まで述べてきたことでも明らかなように、三島の世界の中にある戦中派が多いということになり、三島的な発想と心情をもつ者が多いということになれば、また彼らが自己を確立するためには、今後の三島の動向は非常に重要な意味をもってくる。だが、既に明らかにしたように、彼自身「天下泰平の思想」を明らかにし、また「肉体的存在をもった知性」の重要さを指摘したが、まだまだそれらをフォルム化する上で十分でない。出発したばかりであると言ってもいいすぎではない。
その意味では、三島が思想家として、また作家として歴史にむきあえる思想を創造してみせるのは、むしろこれからであるということが言えよう。そのような創造活動の中でこそ、彼の求める実在感覚が本当に彼のものとなるのであるし、その時同時に、彼が社会に本当に復帰するのである。戦中派三島の社会復帰とは、自己確立とはそういうものである。
それはまた、日本ロマン派の思想的発展を三島自身が創造することである。しかし、いずれにせよ彼は、戦中戦後の日本を連続的にとらえ、そこに一貫するものを発見し、その中に日本の発展の契機をつかもうとして苦悶している思想家といえよう。

<自立の思想 目次>

第三章 山田宗睦……日常の中の革命を志向して

一 山田の思想的いとなみ

山田の「現代哲学の設計」「現代認識論」「異端の哲学史」などの作品は、彼が日本共産党から除名されたのをきっかけに、日共の戦術戦略の路線では到底日本の革命は達成されないという疑いのもとに、山田自身独自に日本の革命理論を求めて、思想創造にふみだした結果生まれたものである。そこで山田は既成の理論体系を解体して、新たに彼自身の中で、新しい思想を構築してみようという作業にとりかかったということができる。それがうまくいくかいかないかは、彼自身問うところではなかろう。それこそ、そういう作業にとりかからざるを得なかったというのが彼の本音であろう。
それというのも、戦中、戦後二度までも山田は一つの思想(戦中と戦後のそれは異なるが)の盲信者、追随者として生きた者として、しかも二度までもその思想に裏切られた者として、自らの力で自らの中に、全く新しく思想を創造していくという困難な道を択ばずにはいられなかったのではないかと考えるからである。裏切られることのない思想を求めて、歩みだす以外になかったのではないか。勿論そのことは、思想的に自立できるかどうかということとは別問題であるが。
それはともかくとして、山田は一体何を批判し、何を創造しようとしたのであろうか。私はここに、その中の重要と思われる二つに限って述べてみたい。
その一つは、「疎外の根本的意義は、人間がそこへ参加することによってはじめて本質的たりうる目的、全自然への再生産への生産活動、人間と自然との質量変換がみうしなわれ、この目的に参加する手段である労働が逆に個々人の生存手段となり、目的である類的生活が生存の手段となっていることにあった。
この疎外の回復は、古典的マルクス主義では革命後のことと予想されていた。しかし、現代マルクス主義は、古典的マルクス主義が予想したとおりに実現したソビエト連邦の存続を条件にして、現代では革命前の諸国において、部分的に疎外回復の実現過程が可能になった」(現代哲学の設計)と現状認識した山田が、古典的マルクス主義は発展し変革されねばならないと判断したことである。
ことに、知識人の思想生産物を資本の番頭のそれとみた古典的マルクス主義は、今日ではあらためる必要があると考えるのである。その理由として、「こんにちの頭脳労働者は、筋肉労働者の労働…生産計画への知的協力者である。この階層特有の観念性は、すでに労働者階級への影響力を縮小もしくは喪失しつつあり、知的協力において変質しつつある。こうして、頭脳労働者と筋肉労働者との同盟は、労働者階級による精神的生産部門の確立の現実的土台となる」(同書)という説明をする。「独占段階で、知識人層の社会的地位が不安定になり、なお、さまざまの動揺をとうぜん持ちながら、知識人層内部で、反独占の傾向が支配的になる現実的な可能性が出現する」(同書)ともいう。
そこから、山田は、労働者階級と知識人階級の同盟を強力に推進しながら、資本主義体制を社会主義的に構造改革することを進めようとしているイタリア共産党を支持し、日本の革命もこれしかないと言う。そのために、イタリア共産党の理論的指導者とも言えるグラムシの思想を積極的に評価する。グラムシこそ、「マルクスが考えたように、現実の歴史運動の法則、社会構造の法則を追求することと、思考をきたえることとを統一してとらえようとした」(異端の哲学史)者として、創造的マルクス主義者であったといい、中でもグラムシの知識人論を積極的に評価した。
即ちグラムシが、知識人とは、「批判的な意識をもたずに、ばらばらな場あたりの仕方で思考すること、いいかえれば外部の環境から、つまり各人がもの心ついたときから自動的に組み込まれているたくさんの社会集団の一つから、機械的におしつけられた一つの世界観に与った者」でなくて、「自分自身の世界観を意識的、批判的にきたえあげ、したがって自分の頭脳のこのようなはたらきと結びついて自分自身の活動の領域をえらび、能動的に世界史の生産に参加し、自分が自分の案内者であって、自分の人格への刻印をもはや外から受動的にうけとらない者」であると説いたことに強い共鳴をもち、そこから山田も集団、組織を構成する全大衆の知的機能を創造する者が知識人であると考えた。そして、グラムシが、「批判的な自己意識というのは、歴史的、政治的には知識人というエリートの創造を意味する。大衆は広い意味で自己を組織することなしには、自己を区別せず、独立した対自的なものとはならないし、知識人なしには組織はない。……知識人は量的にも質的にも発展するが、新しい広さと複雑さとにむかっての知識人層のいかなる飛躍も、素朴な大衆のおなじような運動、自らを文化の高い水準にたかめると同時に多少ともすぐれた個人が、そして集団でさえもが、専門的知識人の量に進出することで自らの影響力の範囲を拡げるという大衆の運動に結びついている」と書いているのを発見した時、彼は感動した。
それは、日本共産党から除名されてからの山田が、自分を日本共産党員と規定できなくなった所から、マルクス主義哲学者として生きようとして、その依り所をここに求めたということかもしれない。それが、知識人として生きる意味と価値を発見しようとする彼のぎりぎりの立場であった。彼がそれ以後、一貫して主張する知識人と労働者の同盟の問題もそこから出てくる。加藤正の再評価も決してこれと無関係ではない。山田は、「ミーチンたちが図式化した弁証法的唯物論は一般法則の科学であった。それは個別科学が発見した個別法則を普遍化するものであった。これは万学の女王としての哲学を特権化するヘーゲル的幻想にもとづく。加藤は、この弁証法的唯物論をしりぞけ、哲学を思考運動の法則をみいだす一つの個別科学として追求する」ことで、「エンゲルスの学説を創造的にうけついだ」(異端の哲学史)者と評価する。そして、グラムシの哲学、加藤の哲学をうけついで、マルクス主義哲学を発展させたいという山田自身の課題も出てくる。
今一つは、この認識とも関連することだが、「特定の実践、共産党の活動がマルクス主義理論の真理性を直接もたらすという観点では、共産党以外は、真理とは無縁だということになる。これは、実践的にも誤った結果をひきおこす。国民を反戦に組織しえず、また組織しうる政策、活動をしえなかったことを自己批判せずに、天皇制に終始反対したのは獄中、非転向の党員のみという夜郎自大的なセクト主義から、味方をも戦犯よばわりする。この観点からは、現実を正しく分析して正しい綱領、政策をたてることはできない」(現代認識論)と言って日本共産党を批判したことである。そして、日本共産党の誤りはマルクスやエンゲルスの思想を正しく発展できないで、自己を絶対化し、哲学を政治に従属させていったスターリン主義を正統とし、それ以外は全部異端として攻撃ししりぞけた立場に日本共産党が毒されているからであり、山田自身を異端者として糺弾したのもそういう立場であるというのである。当然、彼は、日本共産党のみでなくソビエト共産党、中国共産党がその正統思想にいかに深く毒され、それぞれが奉じてきた思想は、マルクスやレーニンの思想から逸脱したものであるかを証明しようとする。
「異端とは、ある宗教教団の内部で、正統派が正統でない信仰に対し、これを排除し、断罪するためくわえる呼び名のことである。
このさい正統と異端とをわける基準は、歴史ないしは時間の堆積のなかで生じた変化に対する思想的な対応である。信仰の教義体系が整うにつれて、この体系にそった正統派の組織ができあがる。体系と組織は歴史の堆積に対して不感症であり、歴史の変化にさいして、自己の体系と組織を新しい方向にそわせることができない。時間と歴史の内実の充実した変化は、冷厳な過程であって、これに置き去りにされる不安は、はかりしれぬほど、意識の底深く深部に働く。この置き去りへの自己保存の本能が正統意識の固執である。そして、正統意識は、あの深部の充実した時間の成熟にそって形成される新しい胎動を、異端として排他的に処置する」(異端の哲学史)というのが、その證明の一つである。スターリンやミーチン、毛沢東の思想に盲目的に追随してきた人たちに仮借のない批判をなげつけるのも、正統という上にのっかかって、その人達が日本の革命を不毛にしているという怒りからである。ことに、毛沢東の思想に追随してきた戦前派の松村一人たちを次のように急追する。「松村たちは、スターリン=ミーチン型哲学の一変換でしかない毛沢東思想、ことに、毛の“実践論”“矛盾論”を聖典化して、最高の哲学だともちまわったため、世界の中でも最も毛哲学をあがめる分子の多い地域にした」(異端の哲学史)と。そして、異端とされた加藤正や山田宗睦こそ、言葉の真実の意味で、マルクス主義哲学の正統であると山田は言いきるのである。
彼が自分自身に、「観念を細胞として、全資本制哲学を分析し、その過程で思考の発展法則をとらえる」(戦後思想史)という課題と、「各民族ないし人類がなにほどの思想的生産力をもつかを明らかにしなくてならない」(現代哲学の設計)という課題をつきつけたのも、以上のような批判からである。

このように見てくると、山田の思想的いとなみは、たしかに鋭いし的をいている。今日、日本の革命を達成するためには、日本共産党の思想の体質を変えなくてならないと考えている者は多いし、また、構造改革しか革命に通ずる日常斗争は行いえないと考えている者も多い。それにもかかわらず、日本共産党の勢力は、その体質のままに確実に伸びているし、山田の唱える構造改革の路線はイタリア共産党と異なって、日本共産党の路線とならないばかりか、日本社会党にまで改良主義的であると批判されている。これが、今日の日本の現実である。
だが山田の説くところを見ていると、一見、日共批判勢力は強大になっており、構造改革の路線もイタリアとならんで日本にも強力になっているかのような錯覚におちこみそうになる。それほどに山田の説き方は適切であり、うまいとも言える。うまいが現実はそれにほど遠い。彼が欲するように彼の思想をうけいれる者は、あまりいないようである。それこそ日本に、日共批判の勢力が現実的な力となり、構造改革の路線が定着するには解決しなくてならないことが数多くある。
山田にその責任があるというと言いすぎになろうが、例えば、異端視されていた加藤正をマルクス主義哲学史のなかに正当に評価しようとするのはよいとしても、早急に加藤正のすべてを認めて、そこから他の人々を批判するという態度には今一つ説得性が足らない。
構造改革論にしても山田のそれには、グラムシに魅せられ、イタリア共産党にいかれて唱えだしたというような点もないではない。竹内の言うように、この思想がだめなら次に他の思想をもってくるという姿勢があるようにも見える。本当に、日本の革命にはそれしかないという必然性が十二分にあきらかにされていない。非常に極端な言い方をすると、山田は自分を押しだそうとするあまり、自分の中でその思想が本当に成熟するのを待てないのではないかという気さえするのである。それではどんなに山田の意図が正しくても、また鋭くても、問題点を指摘するだけでは現実を指導して力となることはあるまい。
このように考えてみると、山田は戦中戦後の二度も一つの思想を盲信し追随してきたことを反省して、今度こそ本当に思想創造のいとなみに出発したと初めに書いたが、そのことはまだ十二分に、山田自身のものになっていないのではないかという疑問もわいてくる。

二 戦争中の思想体験

その意味で山田が戦争中の思想体験を、敗戦後どのように整理したかということを、今一度彼の戦争中の生活を語る言葉をてがかりに、見なおしてみることも無駄ではあるまい。というのは、それがそのまま山田の思想的いとなみの内容に深くかかわることであるからである。
山田は、中学生の時に読んだ「若い人」の中の“労働と資本”について語る文章に強くひきつけられたと言う。しかし彼はその後、その文章を深く考えてみるということをしないで、戦争中を送っている。だから、その文章は彼の意識下に沈殿していたということはできても、戦争中の彼の思想を育てるものにはならなかった。その点、山田が思想的にめざめ、まがりなりにも自分で考えはじめたのは、旧制の水戸高校に入学してからということになる。そこで山田は、当時既に始まっていた大東亜戦争を徐々に不安感の中でうけとめていった。そして、その不安感が西田哲学を求めていくことにもなった。ことに西田の最先端の論文、西田が時代的課題と直接むきあって書いたもの、むきあわないまでもその意識の下に取りくんだ論文をむさぼるように読んでいった。
当時、まだ書斎の中に、書物の中にとじこもって現実の問題と深くかかわろうとする学生は依然として少なかった中で、山田がそうしたということは、彼が現実感覚の旺盛な学生であったということである。多情多感の青年学徒であった。多くの学生が、大東亜戦争を唯単に運命として甘受し、それ以上に考えようとしなかった中にあって、彼は積極的に戦争とむきあった。彼が「寮生活の実態を新秩序へたかめよう」という小論を書いたのも、彼の現実感覚がさせたものである。
だがその時、山田は、軍隊をもっとも自覚的な組織であると早合点をする誤りをおかしていた。軍隊を十二分に調査研究をすることなしに、寮を軍隊化しようと提唱した。戦争中の彼の誤りは、すべてここから出発したということができよう。
当然、山田には、軍隊が批判できないから大東亜戦争も批判できない。大東亜戦争を指導する国家主義、日本主義も批判できない。そこに、彼が短期的な生を考えるようになったのも無理はない。それがそのまま、西田哲学を死の哲学として理解し肯定することにもなる。
山田は、西田の言葉、「生産と云う行為には、神的なものがあるのである。それには人間の生命を不滅たらしめるものがある。神的なものへの調和が美であり、之に反するものが醜である。不調和なるものに於て生産は不可能である。美は生産の神である。故に愛の目的は美にあるのではない。生産にあるのである。愛は永遠の生命を欲する。それは肉体的にも精神的にも唯生産によって与えられるのである。肉体的には我々は婦人を愛することによって子孫を遺すが、或人々は精神的に更に生産的である」(ポイエシスとプラクシス)をひき、「こういう文章のあたえるものこそ、戦中に、わたしたちをひきつけた西田の魅力である。死を予測した短期的な生の設計、死を短い生の昇華としつつ充実した審美的な生の要求…それは、まさに西田のうちにあった。しかしその底に、理論的性格、ポイエシスによる歴史形成の論理があったことこそ、表面的な美的叙述の背後から、わたしたちをとらえたものである」(哲学の戦争体験)と、西田哲学にひかれた理由をのべる。
要するに戦争中の山田は、西田の歴史的生産作用の論理にみせられて、その短期的な生を終わろうとした。だが山田の想像も出来ないところで戦争はおわり、敗戦後の思想状況の中に彼は放り出されることになる。
「敗戦はいっさいの崩壊であった。わが生はそこでたたれ、生きているものはもはや自分ではなかった。天皇の放送のあった八・一五の正午をさかいに、時間は死んだ」(戦後思想史)という山田は、「崩れた体系にかわる新しい原理をみいだすまで、運動にすすむことはできなかった」(同書)と言う。それこそ、戦中派の戦後の死である。沈黙の世代になるしかなかったものである。彼も一応、戦中派らしく敗戦をうけとめたと言える。ここから、彼の思想復権を求めての思想的いとなみが開始されるかに見えた。
戦争中、西田哲学にひかれ共鳴したといえ、それは本当に山田が山田自身で独力で考えたものではなかった。それはむしろ、西田哲学そのものに山田がだきこめられ、その中でせいぜい考えていたものにすぎない。戦後の絶望の中で、いかなる体系も信じないで、彼が彼自らの力で原理を見出し、創造していくという作業に初めてたたされたのである。山田は一応、山田自身の思想のコースを辿りはじめる。
「わたしにとって、日本共産党の活動は縁のないものであった。十八年の投獄ののちなおもよみがえってきた彼らの思想的一貫性は、たしかにわたしをもうつものがあった。だが、わたしは、復員の途中でわいてきた種と個との無媒介の媒介という体系が、果たしてむなしかったのかどうかという問いにとらわれていた。この問いをおっていくいがいに生きるコースはない」(戦後思想史)と書いた通りに生きた。こうして山田は、田辺哲学を究明していく。勿論その過程で、彼は田辺の思想の限界を知り、西田も田辺も駄目だと思いはじめたが、そんな状態の中で彼は大学を卒業した。
「理論にたずさわるものが、明確な理論方向をもたずに卒業しても心のハリはなかった。どこへいこうというのか。西田、田辺の道はだめだ。だが、ほかにどんな道があるのか」(戦後思想史)となげく山田であった。それは彼のように、西田哲学であれ何であれ、戦争中の思想に放りだされた戦中派すべての者に通ずる悲しみであり、悩みであった。依然として、その沈黙を破ることができなかった者の歎きであった。
卒業して函館で職についた山田は、相も変わらず自分の思想の方向がつかめぬままに、友人の書庫からマルクス主義文献を借りだして読んでいた。それがいつのまにか私はどこへいくのかと問わなくなり、二十二年九月にはとうとう日本共産党に入党するところまでいく。
「俺の中にたくさんつまっている知識人の感情や習性や思考が、党に入ったあと重荷になりはしないか。だが、思想がひとたび力をもつと、何ごともそれをとめることはできない。私は頭から入党した」
「わたしはわたしの人間をあげて、党にあずけた。共産党の歴史も現実も、なにひとつ知らなかった。思想的に日本人民を解放する論理をもとめて、自分なりにきりひらいていくと、マルクス、レーニン主義の道にでた、という性質のものであった」(戦後思想史)と、山田は当時のことを回想している。
たしかに、山田は昭和二十年八月十五日から昭和二十二年九月まで孤独の道を歩み、戦争中の原理にかわる新しい原理を見出すために苦悩した。だが、自分自身で自分の思想を見出し創造することに疲れたのか、わずか二ヶ年の孤独の斗いの後に思想創造のいとなみに終止符をうって、共産党の歴史も現実も何一つ知らないで入党した。
これは、戦後、「崩れた体系にかわる新しい原理をみいだすまで、運動にすすむことはできないという山田の決心と姿勢を放棄することでしかなかった。かつて、十二分に軍隊を知らずに軍隊を美化していった戦争中の山田のあやまりを、再び繰りかえしたのである。高校生としての山田は許されたとしても、哲学者としての山田、思想家たらんとする山田には許されない。
しかし戦中派の中には、山田と相前後して日本共産党に入党した者が多い。それも山田のように、日本共産党のことを殆んど研究せずに、頭から入った者が非常に多い。彼らは、西田哲学の理念、大東亜戦争の理念を盲信したように、戦後は日本共産党の理念を盲信したにすぎなかった。マルクス主義者になることは、自分の中にある西田哲学の理念、大東亜戦争の理念を支える意識を徹底的に駆逐することであり、それは非常に困難な作業であることを考えようともしなかった。
その結果、日共に入党した戦中派の多くがその後どうなったかは、山田のその後を見ればよくわかる。山田の言葉をきいてみよう。
「五月にでた書記長の“当面する革命における日本共産党の基本的任務について”で、わたしははじめて、問題にふれだした。徳田のこの50年テーゼ草案には、わたしは賛成できなかった。異なった意見についてくわえた彼の論拠をしめさないきめつけは、道南委での討論の経験からみて、徳田の理論的無能をしめすものであった。中央委員会にこれだけ異見が存在したこと、その異見の根拠の一つに、コミンホルム論評の問題があること。こうして、わたしは、党中央に一種の批判すべき点が存在するのではないかと考えはじめた」
「ある日、転籍先の細胞会議で、道南委員会からの報告にもとづいて、わたしの分派行動が議題となった。報告は、手紙のことをのべ、わたしの小ブル的日和見を非難し、函館地区委員会が山田の除名申請をしたといっていた。わたしは事実をみとめたが、小田の非難はみとめなかった。ついで、五十年テーゼ問題で意見をのべた。尻をまくった態度だと非難された。結局、手紙をだしたことについての自己批判書を提出し、その後でわたしをどうするか決めるということになった。わたしは批判書の提出を延引した。出せば放りだされることは目にみえていた」(戦後思想史)
山田はこの後日本共産党から除名され、再び日本共産党に復党しない。昭和二十五年のことである。このことは、山田がもし入党前に十分に調査研究していたなら、ある程度わかったことである。わかっていたことを、山田はただやらなかっただけである。そういう究明をしなかっただけである。そのために、山田が日共から除名されるようなことをしたのも当然であるし、逆に日共はどうあるべきかということを考えることができなかったのも当然である。
山田が日本共産党にゆがめられたということが出来るなら、逆に山田が日本共産党をゆがめたということが出来よう。戦中派日共党員は多かれ少なかれ、この山田と似ている。それがまた、戦中派のいたみとなり、劣等感をつくるもとにもなったのである。政治への徹底した無関心派が生まれることにもなった。それは敗戦の時点で、戦中派を政治への無関心派にした以上に徹底したものであった。
だが山田は、政治への徹底した無関心派にならなかった。逆に政治への姿勢を強めていったということができよう。敗戦の時点では、本当に絶望することのなかった彼も、今度はとことん絶望したかに見えた。一つの思想、原理に二度も裏切られたことにより、絶望しないものを自らの力で創造しようという試みを始めたようである。こうして、昭和三十年に「現代イデオロギー」、昭和三十四年に「戦後思想史」「現代哲学の設計」「現代認識論」、昭和三十五年に「続戦後思想史」とやつぎばやに生みだした。
だが、山田は今度もまた、哲学者、思想家として大きな誤りをおかしたようである。その最初の本「現代イデオロギー」について、彼自ら「その本は誤り多い本で、わたしとしては自ら絶版にしたいただ一つの本であった。幸い、版元がつぶれてそうする必要はなくなった」(戦後への出生證)と書いている。どんな内容の本か知らないが、最初の書物をそのように言わなくてならないところに、山田の悲劇、山田の不十分さがある。
第二作の「戦後思想史」にしても、その全体を通じて清水幾太郎の思想を中心にして、山田自身の所論をのべるという方法をとっている。その一、二を書いてみよう。
「清水は、“もし、真実の意味において日本に思想の問題があるとすれば、それはいかなる思想が国民に回心をせまるかということである。いかなる思想が、国民をある迂路をへたのちに新しい平面にはい上がらせ、その行動の新しい原理となるのか、ということである。われわれの眼前にうごめく多くの思想は、はたしてこのような力量と方法とを有しているのであろうか”といった。こうして、“国民の大部分がその日常生活のうちにおいて信じ”“国民の行動”を“その内部から動かす”思想、“一定の名称を有していない”匿名の思想が提起された」
「すべての思想形態は、それが思想であるかぎり、“原子力時代がわれわれに課している”思想の公理を意識的にうけいれねばならない。
その一つは、これまでの人類思想と連続する公理。“人間的対応物がじつは民主主義の諸原則の完全な実現”であるということ。
もう一つは、これまでの人類思想と非連続の公理。かつての知的選良はその思想が社会にいれられないときは亡命すればよかった。だが、いまや思想は“亡命することのできない大衆すなわち民族とともにいなければならない。民族とともにいるというのは、大衆の民主主義のための戦いに参加するということであり、大衆の願望を育てあげ、その表現と実現とに献身するということである”しかも思想は原子力時代の要求する“科学の方へ向きなおり”“政治にたいして積極的な態度をと”らねばならない」(戦後思想史)
清水の一見すばらしく見える発言に、山田は大変魅せられた。戦争中は西田哲学に魅せられて死のうと決心し、戦後は日本共産党を盲信して革命の近きを考えた彼が、今度はまたも清水にいかれた。いかれたとしか、言いようがないほどに、「戦後思想史」の各所に清水が肯定的に引用される。その清水は最近、自らの戦後二十年間の発言にソッポをむいて、大学の奥深くに亡命してしまった。現実の大衆をすてて。
だが、山田はその清水を高く評価したのである。徹底的な検討を加えないで。「崩れた体系にかわる新しい原理をみいだすまで、運動にすすむことはできない」(戦後思想史)といみじくも山田は書いているが、彼は新しい原理をみいだすことに努力しても、新しい原理を作る作業にはとりかからなかったのである。それほど深くは絶望しなかったということであろうか。誤解のないようにつけ加えておきたいが、自分で思想創造のいとなみを始め、その過程ですでにある一つの原理に遭遇し、その体系を肯定することは勿論ある。しかしこの場合は、どこかにすばらしい原理はないかと探しまわるのと根本的に違うし、一つの原理に遭遇したからとて簡単に自分の思想創造のいとなみをやめて、それにのみこまれてしまうのとは違う。それは、厳然と自分の思想創造のいとなみの立場を維持し、その原理とどこまでも対決しながら吸収していく立場である。
山田には、その姿勢が欠けているようである。そのために彼は、日共に除名された後に「日本型の思想の原型」という書物で、西田幾太郎の思想をまとめているが、これはむしろ入党前になすべき仕事であった。またそれに関連して、あらためて、「西田哲学と日本主義とは違っていたし」、山田自身、「西田哲学に魅了されていたが、日本主義は否定していた」とも言っている。
だが、日本主義を認めないで、日本主義者が中心になって推進した大東亜戦争の合理化をはかった西田哲学を認めるということ、また、日本主義を認めないで、日本主義者の推進する大東亜戦争のために死んでみせようということは、一体どういうことであろうか。
戦後の山田は、必死に、戦争中の彼と日本主義を区別しようとしているが、マルクス主義に正統と異端があることを知ったように、日本主義にも、正統と異端があることを知るべきではなかったであろうか。そして、その正統と異端の関係を見究めた後にこそ、日本共産党に入党すべきではなかったか。それが、哲学者であると同時に、思想家でもある山田のあゆみ方でもあった筈である。

三 「危険な思想家」の限界

日本主義にも正統と異端があるという認識が山田になかったということは、その著「危険な思想家」の中で、三島由紀夫批判を誤らせることにもなり、その本が読まれ騒がれたほどには、共鳴者を得られない理由ともなった。
というのは、先述したように、三島の思想は、山田流に言えば日本主義の異端を継承し発展させようとしているものであって、それは戦中を支配した日本主義、戦後また日本主義の仮面をかぶってカム・バックしようとしているものに対する戦いでもある。正統に対する異端の主張である。その意味で、三島は依然として危険な美の立場を貫いている。
だが、山田はそれを理解できない。認めようともしない。そればかりか、三島が「思想は相対的で、心情は絶対である」といって右翼や林房雄を登場させると、ただもうそれだけで、思想の問題としてでなく心情の次元で反撥し嫌悪している。それこそ、山田自身が三島のその言葉を肯定しているかのようである。これでは三島の思想を理解できないばかりか、同時に三島的な戦中派も理解できまい。ことに、三島を戦後の平和と民主主義の破壊者ときめつけ、そういう三島は戦中派の中では例外だとし、戦中派思想家は「全体としては、戦後の平和と民主主義をかけがえのないものとして守ろうとしている」と山田が強調すればするほど、政治への無関心派となりさがった多くの戦中派との溝を感じさせ、彼の言葉はうつろにひびいてくる。たしかに戦中派の中には、ムードとしての戦後の平和と民主主義に共鳴している者が多いが、結局、それだけのことである。その実感こそ、戦中派に実際に接する戦後派のものでもある。
既に三島のところで、戦後の民主主義、移入された民主主義に疑問を懐いている戦中派が沢山いることを書いたが、戦中派の一人山田がいかに戦後の民主主義をかけがえのないものと考えているかは、戦後民主主義を殺す者として、竹山道雄、大熊信行、林房雄、高坂正顕、林健太郎、三島由紀夫、江藤淳たちを批判する書物を書いたことでもあきらかである。
次に、山田の大熊信行批判をみてみよう。
まず、山田は、
「戦後の大熊は、山岡荘八の場合と同じく、共産党の戦犯リストに名をあげられた。だが、山岡とちがうのは、大熊が自分の戦争体験と戦争責任について、容赦のないきびしい自己批判をとげたことである。前記の“告白”(「季刊理論」1947年七月号)は、おそらく、梯明秀の“告白の書…時局の精神的断層”(「展望」1949年五月号)とならんで、知識人が戦争に便乗したり、まきこまれていく筋道に、克明な解剖をくわえた誠実な評論である」
「大熊は、この忠誠の対象を、国家に独占させず、他の価値体系にふりかえる途はないかと探求する。そして見いだしたものは、国家をこえた人類的な、平和という価値である。そのもとで人類が生きぬいていける平和は、たんなる理念ではない。それはまさに<人類家族>とも言うべき者で、人間の生命を刻々に再生産する<家族>を母胎とした生の価値である。
こうして大熊は、<死>を代表する国家と<生>を代表する家族と、この二つを両極の価値として、人間の忠誠の対象を、国家、死から家族、生へふりわけようとする」(危険な思想家)と書いて、大熊を積極的に評価した後に、大熊が「われわれはあの戦争を、むしろ免れようのなかった歴史的必然として、すなわち、日本民族の一つの宿命として、受けいれていく立場を確定しなければならない」と書き、更に「わたしの評論活動の当面の目的は、日本の戦後思想の転覆にあり、その方法の一つは、史的事実の誤認を訂正することにある」と書いたのに対して、「戦後を転覆しようとしている」と批判し、更に「この変化はどこから生じたのか。大熊の内部で戦争体験の反省がうすくなり、いつのまにか占領体験への反省に力点のうつったことが、その一つの原因である。この戦争体験からの逸脱が、大熊の内部の歯止めをはずしてしまい、戦後の否定、戦中への回帰へと大熊をおしやってしまった」
「大東亜戦争を民族の宿命とみる見方は林房雄や右翼の“大東亜戦争観”にも通ずる」ときりこんだのである。
これに対して、大熊は、
「日本の戦後史は、日本国民の戦後史である以上に、それはあくまで民族としての主体性によって貫徹されたものでなければならぬ」
「軍事占領下の約七年が、そもそも日本国民にとって、なにを意味したのか。いったい日本史において、それはいかに記述されなければならないものであるのか。それが問題である」
「軍事占領下の“民主主義”なるものは、反民主的なカッコの中にとじこめられた民主主義であったにちがいない」(知識人は頽廃する)と述べた後、「危険とか、告発とか、およそ人間の思想の自由を、根本から否定した用語を乱発するということは、知識人の頽廃の深さを告げるものでなくてなんであろう」(同書)と、きりかえした。
大東亜戦争を民族の宿命とみるかどうかという点を一応別にして、戦後民主主義に関するかぎり、私もまた、山田の説よりも、より多く大熊の説に共鳴する。それは、戦後民主主義を否定するからでなく、より痛切に民主主義を待望し、日本国民に民主主義を根づかせようと思うからである。移入された民主主義、従来の日本主義に変わってその位置をしめたような民主主義、それも実体化した民主主義には反対である。さらに、そういう民主主義を守ろうとする立場には反対である。
大事なことは、民主主義を批判的にうけとめ、自覚的にまず自分自身の中に定着させることであり、国民の中に育てていくことではないのか。私の見たかぎり、大熊は民主主義を一度も否定したことはない。戦後民主主義を実体化している山田とその一連の人間に反対しているだけである。虚妄の上に成りたつ民主主義を危ぶんでいるのが大熊である。
大東亜戦争を民族の宿命とみる大熊の立場は、林房雄や右翼に通ずるという批判も説得力がない。民族の宿命ではなかった理由、他の道が現実的に可能であったことを具体的に書くべきでないか。その場合、大東亜戦争の理念から自由ではなかった山田たち戦中派の圧倒的部分を考慮した上で、そのことを語るべきであろう。ここにも、日本主義の正統と異端という視点が欠如しているために、林房雄や右翼を一つの大東亜戦争観にくくり、それに大熊の戦争観を結びつけるという誤りをおかしている。批判である以上、厳密でなくてならない。
大熊を「戦争体験がうすくなった」と山田は批評するが、その言葉はそのまま、戦争中の過失を戦後も同じように繰り返した彼にこそかえってくるものではなかろうか。加えて、彼が、「戦中派は全体として戦後の民主主義と平和を守ろうとしているのに対して、戦前派と戦後派はそれを殺そうとしている」と書くのを読むと、戦中派の一人として私は面はゆい気持ちを感ずる。私自身、戦後の民主主義と平和を真剣に考え欲しているのは、むしろ戦中派よりも戦後派に多いことを知っているだけに、猶更、恥ずかしく思う。また、戦中派よりも戦後派にそれを期待できるのではあるまいか。

山田のこういうところに、説得力の弱さと同時に、彼の唱える構造改革論に不信と不安を感ずるのであるまいか。彼の才子的発言を感ずるといってもよい。
だが、もう山田も西田哲学、日本共産党、構造改革論と次々と変わっていくことはできまい。何よりも、そんなことをしていると人々が彼を信じないようになる。それに山田は哲学者であり、思想家であろうとしている。思想家として失格しないためにも、このへんで本格的に構造改革論にとりくみ深めていくことが必要である。構造改革論が革命に通ずる日常斗争の具体的な道をしめすものであればなお一層、そのことが言える。そのことが、戦中、戦後の二度の敗北で政治的無関心派になってしまった多くの戦中派を、政治的にも思想的にもそれぞれの立場において、復活させ行動させることにもなるのである。彼の今後の思想的いとなみには、多くの戦中派の夢がかかっているともいえる。
私には、三島的戦中派と同じく山田的戦中派が最も多いと思うし、それ故に、三島と山田の今後は非常に重要な意味をもっていると思われる。「血を流しきりこんだ」という山田であるが、本当に、血を流して、歴史的現実にきりこむのはこれからであろう。また、歴史的現実にこそ、きりこんでほしい。

<自立の思想 目次>

第四章 橋川文三……歴史意識の確立をめざして

一 戦争体験における歴史意識

橋川の思想創造のいとなみにとっては、戦争体験をふくめて大東亜戦争をいかに考えるかということが最も重要なことであるが、その場合、彼は歴史意識という概念を導入することによって、それを整理しようとする。それによって、戦争体験を彼をふくめて全戦中派の中に、プラスの体験に変質していこうとすると言ってよかろう。
そのために橋川は、まず歴史意識を
「それは歴史という学問のことでもなく、歴史の知識ということでもない。……それは“歴史学”はもとより、“歴史的認識”“歴史的態度”“歴史的立場”等々とよばれるものの根柢にあって、それらと関連しながらも、基本的にはそれらと異なる一種の精神的能力のことである」(歴史意識の問題)とまえおきして、トレルチュの言葉、
「歴史意識は、人類の歴史的生活を出来る限り広く観察しようとする気持ちであり、またなんら一定の実践的目的をへることなしに、ただ、人間存在の豊富、充溢、活発さを眺めて感激するような気持ちであるのです。この多種多様なる歴史的世界に現れて居るもの、また、この多種多様な姿を現すことによって歴史的世界を観察する人の心に神の如き広さと大きさとを注ぎ込んでくれるもの、それは尽くる所なき神の生命であり、働きである、という風に私どもには見えるのです」(歴史主義とその克服)を述べる。
要するに、「歴史意識とは歴史的個体への感覚を中心とする精神能力だ」というのである。そして、明治維新は、日本人にその歴史意識を植えつけるのに、最大のチャンスであったが、「幕藩社会体制の内部において、身分的、共同体意識がすでにその本来的機能を失いかけており、開国という外部変化に対して、有効なリパーカッションをひきおこすほどの実体性をそなえなかったということ。マンハイムの指摘するように、本来的な歴史意識は“直接に現存するもの、実践的具体的なものへの執着”によって基礎づけられ、“旧身分的世界感情の追体験”を主要契機として展開するのであるが、幕末においては、すでにそのような身分的実体は、かなり広範に弱体化をたどっていたと考えられる」ことと、「明治国家は歴史的個体の意識として定着するはずの国民諸階層の精神的エネルギーを、もっぱら“国家”“国体”のシンボルに編成したこと。しかもそのさい、上から“文明開化”“富国強兵”のアピールによって、歴史意識は一方において“万国に冠絶する”“国体”の理念に、他方において歴史的進化の理念に、両極的に集中せしめられ、個体存在のユニークな意識は、なんらの役割をわりふられることなく無視された」(戦争体験論の意味)ことにより、福沢諭吉などの例外を除いて、歴史意識は日本人の中についに育たなかったというのである。勿論、マルクス主義の洗礼の中でも、日本人には歴史意識は形成されなかったと考えるのが橋川である。
だが、それほど把握困難な歴史意識も、大東亜戦争の中では、日本人に定着する可能性が生じたのではないかと彼は希望的に考えたのである。それ故に橋川は、戦争体験に異常に固執した。戦後派から、「戦争体験論は結局回顧趣味であり、現実逃避でないか、同窓会趣味でないか」との批判をうけても、橋川はひるまなかった。逆に彼は答えた。
「“過去”はつねに“趣味化”されるか、“文学化”されてあらわれ、かつて明らかな歴史意識の問題として定着することはなかった。いいかえれば、われわれにおいては、かつて“歴史意識”という精神能力の側面が十分に成熟することがなく、したがって、およそ歴史的時間の中の過去が問題となるときは、つねにそれは“回顧”として、ないしは好古的な“史癖”として、もしくは情緒化された“繰り言”としてのみ語られ、同様にそういうものとしてのみ受け取られる傾向があったということである。本来の歴史意識の問題として、われわれの過去…ここでいえば“戦争”が問題となるということがはじめから了解しにくいような精神風土がそこにあった。いわゆる“戦争体験”論はそのような意味で、わが国の精神伝統の中に、はじめて“歴史意識”を創出しようとする努力の一環として考えられるのであり、それ以外のなにものでもない」(戦争体験論の意味)と。
また、「日本の思想伝統の中には普遍者…超越者の契機が認められない。存在するものはただ感性的な現実であるか、それとも、それと全く関わりない純粋な理論の体系のみである。……それは、実践と理論とが、普遍者と主体との緊張関係によってうらづけられるときにのみ、統一的な原理として機能しうることが無視されているからである。そのために、われわれのなかに、普遍者の意識を創りだすことがどうしても必要である。……私たちが戦争という場合、それは超越的意味をもった戦争というのであって、そこから普遍的なるものへの窓がひらかれるであろうことが、体験論の核心にある希望である。……“超越者としての戦争”それが私たちの方法である」とも言う。
そこから「十幾年前の“戦争”のうちに、歴史とその責任の意識を認めようとする人々がある。かれらは一般に戦中世代と呼ばれているが、かえって“世代”の価値意識をこえる契機を戦争の歴史に認めていることによって、むしろかんたんに歴史派とでもいった方がよいかもしれない。
かれらは、現在のいわゆる“平和”状態を実態として感じえないという感情において共通している。その意味でかれらこそ戦後社会における徹底的疎外者である。……
しかしまた、かれらはいわゆる戦争体験固執者でもない。かれらは戦争を決して実体化しているのではない。かれらは戦争の事実過程をとおして、ただそこから歴史意識としての責任の普遍化を求めているのである。……このグループは一個の世代的存在というよりも、むしろ一種の思想集団とみるべきであろうと私は考える」(停滞と挫折を超えるもの)という発言もでてくる。

こうして、橋川は戦争体験論に固執し、歴史意識の形成にとりくむ。普遍者の意識として、責任の意識を究明し確立しようとする。たしかに彼の言うように、明治維新では、本当の意味での歴史的個体の発見と確立は十分ではなかった。国民一人一人がそれを感じ確立するまえに、国民は日本の国体の中に、日本の国家の中に吸収されてしまった。しかし大東亜戦争の敗北の中で、最高の価値シンボルであった国体そのものは消滅したために、そこにいやおうなく、全く新たなる普遍者(原理)の形成にたちむかう歴史的個体としての出発を求められた。
それを最も鋭い形で戦後求められたのが戦中派であり、それ故にまた、徹底的疎外者であり、ものいわぬ世代でもあったのである。三島や三島的戦中派が日本主義の異端の道を歩み、山田や山田的戦中派がマルクス主義の異端の道を歩むしかなかったのも、自らを歴史的個体として発見し確立する以外になかったからである。徹底的疎外者になるということ、そのことは栄光ある道を歩むことである。
三島や三島的戦中派が橋川のいう歴史意識を自覚的にうけとめるなら、彼等は一つの思想集団として、日本主義を歴史的発展的に、更には人類的規模で考えることにより、日本主義の奴隷となり日本主義を矮小化することもあるまいし、また山田や山田的戦中派も戦後民主主義と平和を、更には構造改革論を実体化することもあるまい。
いいかえれば、橋川の歴史意識は、戦中派のともすれば窮屈で型にはまった思考と行動に伸々とした弾力性を注入して、歴史的発展的人類史的思考をつくりだし、戦前派、戦後派とも連帯できる可能性をつくろうとしているのである。そのことは、彼の次の所論からも察知されるのではなかろうか。

二 日本浪曼派の批判

橋川は戦争中、その全存在をあげて日本ロマン派に投入していたために、彼の戦争体験論はそのまま日本ロマン派の批判が中心にならざるを得なかった。それに戦後日本の思想界は、日本ロマン派を罵倒するだけで批判を試みようとする者はいなかったし、ただ竹内好、中野重治が、
「マルクス主義者を含めての近代主義者たちは、血ぬられた民族主義をよけて通った。自分を被害者と規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自分の責任外の出来事とした。“日本ロマン派”を黙殺することが正しいとされた。しかし“日本ロマン派”を倒したものは、かれらではなくて外の力である=竹内。批判はいくらか表面的な対症療法に終わっていると見られる。膏薬でおさえはしたが、腫物が切開されていない。病原が正確に決定されないまま今に到っているため、そのため同じものの同じ形での進行がみられることになったものと私は考えられる=中野」と指摘しただけにおわり、日本国民は再びその思想にまきこまれる可能性が十分にあったから、彼としては、日本ロマン派の批判により一層、彼のエネルギーの多くをそそぐことになったということもできよう。ことに歴史意識の確立をめざす彼としては、自分の思想復権をふくめて、それはどうしても必要なことであった。
橋川は、保田与重郎の文章、
「満州事変がその世界観的純潔さを以て心をゆさぶった対象は、我々同時代の青年たちの一部だった。その時代の一等最後のようなマルクス主義的だった学生は、転向と云った形でなく、政治的なもののどんな汚れもうけない形で、もっと素直にこの新しい世界観の表現にうたれた。時の新しい決意は、当時の左翼経済学の意見をしりめにして進んだ。又国の運命は、彼らの云いふらした見透しを打破するような結果を次々に生んだと我々はそのころ判断していた。事実はどうか知らないが、そうして明白に満州国は前進した。即ち“満州国”は今なお、フランス人革命、ソヴェート連邦以降初めての、別個に新しい果敢な文明理想とその世界観の表現である。
我々に世界観と、本当の地上表現をともなうものとして教えたのは、やはりマルクス主義だった。この“マルクス主義”は、ある日にはすでに純粋にソヴェートと関係なく、マルクスとさえ関係ない正義を斗おうという心持ちになっていた。日本の状態を世界の規模から改革するという考え方から、しかしそういう心情の合言葉になったところにマルクス主義は本質的に変化したのである。……
さて“満州国”という思想が、新思想として、又革命的世界観としていくらか理解されたころに、我々の日本浪曼派は萌芽状態を表現していたのである。しかしそういう理解が生まれたところは、一等若い青年のデスパレートな心情であったということは、すべて人々に幾度も要求する事実である。……
現在の満州国の理想や現実というものを思想としての満州国というのではない。私のいうのは、もっと先の日本の浪曼主義である」(“満州国皇帝旗に捧ぐる曲”について)をひいて、
彼は、日本ロマン派の成立も、保田の思想的立場も、「大正、昭和初年にかけての時代的情況に基盤を有するものであり、プロレタリア的インテリゲンチャの挫折感を媒介としながらも、もっと広範な我が国中間層の一般的失望、抑圧感覚に対応するものとして、その過程の全構造に関連して形成されたもの」(日本浪曼派批判序説)であると分析する。というのは、保田自身、「昭和初年には、ジャーナリズムを風靡し、天下の青少年を傘下にした社会主義運動も、昭和七、八年ごろ、青年の生活が最悪の失業状態を経験したとき、この青年のヒューマニズムに立った運動はじつに極端に頽廃化し、デスパレートとなり、そのデスパレートなものを、真向に権力に向かってたたきつけるすべを失っていたのである。……巷には青年の職と仕事を求める声があふれていたが、政府は何の手だてもなしえなかった。そういう状態が国だといいえようかということは、当時の青年は当然考えいたることである」(我国に於ける浪曼主義の概観)と言うように、保田たち同世代の青年はすべてのことに絶望し、いらだっていた。社会主義運動にも絶望していた。そこに満州事変がおき、満州国が成立した。「事実はどうか知らないが」というように、その真相を見究めることもなく、このどうにもならない状態をうち破るものとして、保田たちは満州国にそのすべてをあげてまかせたのである。期待したのである。あたかも、戦後の山田宗睦たちが逆に日本共産党に期待したように。
だがさすがに、保田にはそれなりに理性がめばえていた。だからこそ保田は、日本ロマン派を“悲観と楽観”“破壊と建設”“頽廃への情熱”“混沌とイロニー”“悠遠なデカダン化されたイデー”ともいわざるを得なかったし、非文化と野蛮と封建的残存への斗争として、大正官僚的気質、官僚風の衒学性を濃厚に背負いこんだ唯物論研究会をも批判したのである。しかし、保田はそういいながらも、
「世界の個人生活がより悪い状態になるとしても、私にはドイツの勝利が希望されるのである。……私は一人の恥知らずな無知の観客として考えた。……私は単純な観客としていうのである。私はドイツ人がうちかつことが、必然であるか、あるいはその計算上の可能は考えない。まして日本国がドイツやソ連と連衡すべきなどということは全然考えぬのである。……観客としてドイツ人が勝った方が面白かろうし、これは文化の一部門を歴史を通して考えてきた私の希望でもある。そうして、神々はいつも歴史を面白く面白くとふりむけてゆくように、私には考えられる」(文士の処世について)と書いてしまう。
ここには、全くの無責任ムードがあり、徹底した非政治的な態度がある。しかし、すべてに絶望した青年の心をひきつけるものがあった。橋川も、死の道しか約束されていなかった者として、戦争中それを本能的にかぎとり共感したのである。
しかし、要するに保田たちは時代閉塞の状況に忍耐強く思想的に対決することもなく、また時代を変革する道を根気強く模索することもなく、陸軍内部の革新的将校たちが推進した満州国に、盲目的に期待をかけたのである。しかもその時、保田の古典教養がマイナスに作用して、後の排外的侵略主義や極端な日本主義に発展していった。橋川にいわせると、保田たちの中に歴史意識がめざめなかったところに、人類の歴史の多種多様を本当に考えようとしなかったところに、それを否定的に媒介するものがなく、そうなるしかなかったということになる。
歴史主義が確立していれば、終始、頽廃への情熱をかきたて、破滅的イロニイをうたいあげることによって、それこそ戦争勢力の破滅をねらいこそすれ、戦争勢力と野合するようなことはなかったと彼は言いたいのではなかろうか。いずれにせよ、保田たちが時代の不安と危機感を折角敏感に、また正確にうけとめながら、時代に対して有効に作用することの出来なかったのはなんとしても残念だというのが、橋川の本音ではなかろうか。そして保田たち日本ロマン派があらためて、歴史意識をめざしての思想復権を求めるなら、橋川的戦中派との間に生産的対話も成立する可能性があると言っているようでもある。

三 小林秀雄と柳田国男

橋川はさらに、その視点から小林秀雄論を展開せていく。即ち、小林秀雄の、「フランスでも自然主義小説が爛熟期に達したときに、私小説の運動があらわれた。バレスがそうであり、つづくジイドもプルウストもそうである。彼等が各自遂にいかなる頂に達したとしても、その創作の動因には、同じ憧憬、つまり十九世紀自然主義思想の重圧の為に解体した人間性を再建しようとする焦燥があった。彼等がこの仕事の為に、“私”を研究して誤らなかったのは、彼等の“私”がその時既に充分に社会化した私であったからである。
ルソオは“懺悔録”でただ己れの実生活を描こうと思ったのでもなければ、ましてこれを巧みに表現しようと苦しんだのでもないのであって、彼を駆り立てたものは、社会における個人というものの持つ意味であり、自然に於ける人間の位置に関する熱烈な思想である」(私小説論)と書いている中の“社会化した私”を中心に論評を加える。しかしその場合、彼はまず、
「しかし、小林にとって、“社会化した私”という場合、その“社会”と“私”のいずれの側により多くの重みがかかっていたかといえば、疑いもなくそれは“私”の側であった。“最近のジイドの転向=ジイドの共産主義反対の説明をさす=を機として起こった行動主義の運動にしても、傍観者たる僕には未だ語るべきものもない”とあっさり書いているが、ジイドについてあれほど熱心に語った小林が、ジイドのソヴェートへの接近については、かつて一度も本気で言及したことがなかったのは特徴的である」という本多秋五の文章を足がかりとして、「この評価には問題はなさそうだが、“疑いもなくそれは私の側であった”という時、本多の論旨を徹底させるためには、“社会化した私”の理念に到達するまでの小林の解析手つづきのうちに、それが再び“私”の立場に帰着しなければならなかった必然的理由が追及されねばならなかったろう。……なるほど、彼は、ジイドの転向は論じなかったかもしれない。しかし、日本的自我の問題については徹底的に論じている。そして、その論旨がもっとも強烈に炸裂するのは、周知のように、日本マルクス主義にあらわれたときの“悲劇”に関連しており、そこに鋭く露呈せざるを得なかった“概念による欺瞞”“虚栄”に関連していた」(社会化した私をめぐって)と書き、小林の言葉を次のようにひく。
「私は諸君の情熱を聊も笑っていはしない。併し、又私は諸君を動かす概念による欺瞞を、概念による虚栄を知っている。その欺瞞は諸君が同志との訣別に、同志の死に流す涙にも交じっているだろう。私は既に作品上で、如何に諸君が人間を故意に歪めて書いたかを知っている。愛情の問題をいかに不埒な手つづきで扱ったかも知っている。又諸君がどんな恋愛をしているかも、どんな奇態な夫婦喧嘩をしているかも知っているのだ。社会正義を唱えつつ人間軽蔑を説く、これを私は錯乱と呼ぶのである」(現代文学の不安)。
たしかに、「何故に自分を疑うことからはじめないのか。何故に若年にして、而も自ら労せずして人生一般に関する明確な確信が欲しいのか」という小林の言葉は、当時のマルクス主義者になげつけたものであり、「小林にとっては日本の現実とは、まさにマルクス主義運動をふくめての絶望的現実にほかならなかった」「小林の“社会化した私”は、“私小説”が亡びたといおうとしているのでなく、逆に、“社会化した私”の不可能であったことを宣言している」というのが橋川の意見である。
いいかえれば、小林秀雄は勿論、当時のマルクス主義者には、歴史的個体への発見と自覚をうながす歴史意識は殆んどかえりみられていなかったというのである。だから、転向をしいられた段階で、自分自身を歴史的個体に確立していこうとする戦いがなされるかわりに、ずるずると時代状況の中にのめりこむしかなかったと考えるのである。“社会化した私”という本当の意味は、当時の小林にはつかまれていなかったというのである。
逆に小林は、歴史的個体にむかっての孤独で忍耐強い努力をするかわりに、“社会化した私”の本当の意味を求めていくかわりに、「わが国のあわただしい文化環境がそんな世界観をそだててくれなかった」(中野重治君へ)と居なおって、“美”とか“宿命”に逃避していったと言うのである。
しかも、そういう中にあって、当時の時代状況の中にまきこまれなかった人間もいるというのが、橋川が最も言いたいところでもあろう。いうまでもなく、その人は柳田国男である。彼は柳田が、「長兄は二十才で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦の住めない小さい家だった。母がきつい、しっかりした人だったから、まして同じ家に二夫婦住んでうまくゆくわけがない。……わずか一年ばかりの生活で、兄嫁は実家へ逃げて帰っていってしまった。兄はそのためにヤケ酒を飲むようになり、家が治まらなくなった。……私はこうした兄の悲劇を思うとき、“私の家は日本一小さい家だ”ということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、此の家の小ささという運命から、私の民俗学への志も源を発したといってよいのである」。
「饑饉といえば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、饑饉を絶滅しなければならないという気持ちが私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入らせる動機ともなった」と書いているように、彼の研究はすべて幼少年期のナイーブな体験から発していることに、橋川は非常に注目する。
感覚と結びついた研究に基礎をおく柳田の立場。しかも、その柳田の感覚を一層深め、強固にしたものが、「多数者の利益とする所を以て又国の利益として可なりと云う者あれど、其果たして国民の多数の希望に合するや否やを知ること難し。また少数者の利益を無視するも謂れなし。加え、国家は現在生活する国民のみを以て構成すとは云い難し。死し去りたる我々の祖先も国民なり。その希望も入れざるべからず。又国家は永遠のものなれば、将来生まれいづべき我々の子孫も国民なり。その利益も保存せざるべからず」(農業政策学)というような知識であるとみるのである。
知識の根底に感覚をおき、知識によってリードされた感覚を自分自身の中心にすえる。そうすれば、偏狭固陋な感覚でもないし、外的環境にずるずるとひきずられるようなもろい自己でもないということである。柳田はこういう立場にたって、日本民俗学の確立に精力的にとりくむことになる。彼が彼の感覚に基盤をおくということは、それはそのまま日本の伝統的なもの、感覚的感性的なものの地盤に身をおくということでもある。それは日本の伝統的な感性、感覚をそのまま認めることではなくて、それを基盤にしつつもそれの変革を内側から志したのである。柳田の「比較的文化の低い段階にある人々の生活の中にあるさまざまな伝承的観念、習俗」(柳田国男)への興味と関心はすさまじいし、いまだ書かれたことのない平民の歴史を書いていこうとする情熱は異常なほどにふくれあがる。それはそのまま、日本の伝統的なものに向かうことにもなる。そうなると彼の学問は、昭和の時代思潮と微妙にからみあう。
橋川はそれを次のように書いている。
「暗い狂気が日本の政治と思想をとらえ、あらゆる科学的思考は別の呪術的思弁にとってかわられようとしていた。いわゆる日本主義の氾濫であり、民族的なるものへの祖先がえりが日本人の心理をとらえ始めた時期である。
この間、日本民俗学と柳田のおかれた立場は、微妙なものであった。一言でいえば、それは柳田にとっても試練の時期であり、科学としての民俗学が直面した最初の受難の季節にほかならなかった」(柳田国男)
だが柳田は全身でその時代の中に、その思想につかりながら、彼は少しも侵されなかった。批判の姿勢をもちつづけることができたのである。橋川は、それを柳田の歴史意識だとはどこにも書いていないが、それができたのは歴史意識だと言ってよかろう。知識と感覚を統一的に把握し、強固な自己を確立し、その地点から日本の歴史を具体的に見つめていった柳田には、歴史意識が根づいていたということが言えよう。
「一たび国民の間にある特徴のようなものが生まれたら、もしくはそれが稍々久しく続いているようなら、永久にそれで押通されようとは私は思っていない。寧ろ一つの変遷の近き将来に予想せられるものがある故に、やや急いで現在の実情を明らかにしておかねばならぬと思うのである」(日本の祭り)という柳田の言葉は、明らかに彼の歴史意識にたっての発言である。
そして、「エスノロジーの進歩に由って、段々に白人統治者をして旧来の錯誤に心づかしむるに至ったのである。環境か遺伝か、はた又隠れたる第三第四の力であるかは知らず、何にしても世界多くの民族には、それぞれ別の人種であるが故に、即ち又別の文化の流れがあった。外界感化の勢いの強烈なる今日ですらも、なおヨーロッパ人の学問が前以てきめて置いたような、途筋ばかりはあるいては居なかった。白人たちは実は年久しく誤った独断をして、それを少しずつ悟ろうとしている時しも、あたかもよし我々の国には、日本独得のエスノロジーが今まさに起こりつつあるのである」(日本の民俗学)
「独り大切なる人間成育の法則発見についてのみは、日本が幸いに一通り片づいたとすれば、隣にはシナがありマライとインドとの、三世にわたった大問題がある。その間々を点綴して、南アジアの曠漠の山地には、衣食の主要なる点において我々と若干の類似を有するシヤンが住みカーレンがおり、その他ミヤオとかリーとかローローとか、名前さえも列記しえないほどの色々の種族がいる。顧みて南に海の路の跡なきものを辿るならば、台湾ルソンから先々の島の人、殊にミクロネシアの若き弟たち、そのまた隣のメラネシヤ、パプアの見分けがたい沢山の種類が、いずれも日本の学問が明るくなるならば、少しは自分たちのどうして貧しくまた哀れであるかの、隠れた原因が知れるであろうかと、待って居るらしき様子が見える」(青年と学問)と語る柳田の学問はそのまま、今日、継承し発展させなければならないものと橋川は見るのである。
ということは、柳田以外にも柳田的生き方や考え方をしている戦前派とは、戦後、新生した戦中派が指導をうけるべき人達であると考えるのである。ともに歴史意識の確立にむかって、いいかえれば、日本人の意識の改造のために共同戦線を本当にくめる人達であると考えるのである。
同時に、小林的戦前派は少しの自己弁解や自己合理化をも為すことなく、戦中を不毛にすごしたという徹底的な自己批判を始める時、歴史意識の確立にむかって歩みはじめる時、初めて戦中派との連帯も可能であると言っているようにも見える。

四 石原慎太郎と大江健三郎

戦後派の石原が「戦争々々と繰言をいうよりも現実の苛酷さを直視せよ」という時、橋川は「彼における現実の苛酷さというパセテイクな把握は、かつての日本ロマン派の提唱した“イロニーとしての日本”という状況規定とそっくりそのままである」(戦後世代の精神構造)といい、同じく大江が「一昨年の冬、僕はエジプトの土の家に泥まみれになって眠り、ナセルの軍隊に加わって戦いたいという狂気じみて暗く、激しい情念にとらえられていたものだった」と書く時、橋川はその文章が非常に美しいとみとめつつも、「“現実の壁”の中でのデスペレートで、“性急な思想”が鬱屈した低音として流れている。何か非常なことの中に没入し、その惑溺の中で自己を確認したとみなそうとする逃避の姿勢が感じられる」(同論文)と批判する。
橋川は、ここに、「日本人のヒステリックな弱さを発見しても、真の強さ、主体的決断をみる」ことはできない。戦後派の石原や大江の思考には、「近代日本の歴史重圧をハッキリとうけとめ、それへの対抗価値として自己の様式を実現しようとする意識が乏しい」(同論文)とも歎く。いいかえれば、歴史意識が乏しいというのである。
石原や大江は濃厚な肉体と肉感的官能を礼讃するか、実存的な主知主義にたちながらも時代閉塞をいうだけで、忍耐強く彼らをとりまいている壁の歴史的相対化をやろうとしないと見る。勿論、橋川のこの評価は、昭和三十四年当時のもので、彼の評価は変わっているかもしれない。ことに、大江についてはそのことが言えるかもしれない。
しかし、私がここで、彼の石原、大江批判を書くのは、歴史意識の立場から彼らを批判していること、彼がいかに歴史意識に固執しているかを明らかにしたいためである。そして、橋川的戦中派が戦争に固執するのは、超越者としての戦争であって、一に歴史意識を形成したいためである。だから橋川は、戦後派が「戦争体験がないから、そんなことは無縁であり、知らない」というのを決して許すことはできないのである。
橋川は、そういう戦後派を「歴史における子供」であるときめつける。そしてそういう戦後派は、「単に漠然と既成の価値、権威への反抗を唱え、価値の紊乱者と錯覚しているにすぎない」から、「日本と外国の独占資本の走狗となるしかない」とも批判するのである。そこから彼は石原、大江に、更に石原、大江的戦後派にむかって忠告する。
「大江や石原が時代の壁の背後にある歴史への感覚をもちえないかぎり、かれらはただ、“時代の子”として、ある好ましい評判をかちえてゆくであろう。つまり時代を動かすのではなく、押流されてゆくであろう。なぜなら、かれらは、絶望的なまでに“われらの時代”にとらわれ、惑溺しているからである」(若い世代と戦後精神)
たしかに、この忠告は適切であると考える。とくに、橋川的戦中派が石原、大江的戦後派との間に、生産的対話を成立させようと思えばどうしても必要なものである。石原、大江的戦後派に、歴史意識をとことん考えてもらう必要がある。戦後の状況を戦中の状況にかえさないためにも、戦後を日本史のなかに発展的に確立するためにも必要なことである。
しかし、橋川は保田的小林的戦中派と石原的大江的戦後派に対しての鋭い要求のみがあるだけで、同世代への厳しい要求がないということはどういうことであろうか。ここには、山田宗睦が同世代に対して甘い観察をしているのと共通するものがあるのではなかろうか。ことに、橋川には、「戦中派を思想集団とみるべきである」という考えがあるが、それにあぐらをかいているということにはならないであろうか。勿論、その時の戦中派は戦中派知識人をさし、あらゆる規範的価値を疑い歴史意識を身につけようと努力している人達を指しているのであろうが、実際には戦中派知識人の大部分、更に戦中派に属する大衆の圧倒的部分が、彼のいう思想集団からははみ出した存在である。それが、戦前派や戦後派の眼にうつる無気力で自己主張のない戦中派の姿であることは既に書いたが、どんな意味においても、時代とコミットして生きてゆこうとしない戦中派が多くいることは、今日の実態である。
橋川が、世代というものを、「一の共通の運命を分かつもの」とみるかぎり、彼は、戦前派、戦後派にむかって言うよりも、むしろ同世代に対して、まず厳しい批判と鋭い要求がなされるべきではないか。如何にして、戦中派の多くを思想集団にくみこんでいくかということが書かれなくてはならないのではないか。
戦中派の一人、丸山邦男が「戦中派の一部には、戦争中の将校意識がこり固まっていて、それがそのまま、雌伏十年という意識となっているものがある。ですから、将来日本に、かつてのナチズムのようなものが生まれるとすれば、その指導者は戦中派から生まれるのではなかろうか」(戦中派は訴える)と指摘するように、そういう恐れは十分にある。それこそ、あの戦争を超越者としてうけとめようとしない者、歴史意識の確立にむかっていない者が、戦中派の中には多いのである。しかも、そのことを頑強に否定し、拒否し、戦争中の生活に埋没しているのも戦中派だということである。
橋川が今後本当に解明し、答えなくてならないのはこの問題である。それは戦後二十余年、「戦争と戦中派と歴史意識」に固執してきた者の責任でもある。それを解明した時にこそ、歴史意識が本当に現実に対して有効に作用するということが言えよう。

<自立の思想 目次>

第五章 上山春平……思想の相対化にとりくむ

一 大東亜戦争の再検討

上山の戦後の思想的いとなみも、これまでに述べてきた人々と同じく、戦中、戦後の思想体験(生活体験をふくめて)に深く固執して、その再検討に集中して始められたものである。そこにのみ、彼自身の思想復権の可能性があると考えた。彼の思想の自立が成立すると考えた。
上山は、まず戦争中の大東亜戦争史観が一元的価値観でリードされたものであったということを書くが、同時に戦後の太平洋戦争史観、帝国主義戦争史観、さらに抗日戦争史観もまた、一元的価値観にリードされたものではないかという疑い、批判から出発した。
そういう史観がいかに、複雑多様な歴史的現実を単純明快にわりきるものであり、その意味で歴史的現実を本当にリードできないものであるかを、彼は戦争中の体験で痛切に感じさせられた。一つの国家が他の国家に、一元的価値観をおしつけることの愚劣さについては、それ以上に思いしらされた。その体験から上山は、多元的価値観を追求していくという立場にたたざるを得なかったし、多元的価値観のみが歴史的現実を本当にリードできるのではないかと予想せずにはいられなかったのである。
それは、大東亜戦争にもそれなりの意味があり、相対的な価値があったということを認めることでもあった。それというのも、大東亜戦争の理念を信じその全存在を投入して戦死した戦中派のことを思う時、上山にはどうしても、「あの戦争は侵略戦争であり、それにだまされたのだ」とか「惨めに死んだが、それが平和の礎になればいい」という考え方では、戦死した者は永久に救われないと考えたことに起因していると言えよう。
そんなことが言えるのは、生き残ってやりなおしの出来る者だけであると考えた。戦死した者たちにとっては大東亜戦争はやはり一つの真理であったし、真理であったからこそ、また多くの者はそのために生き、死ぬことも出来たのではないかと上山は考えないではいられない。
それに戦後、太平洋戦争史観、帝国主義戦争史観、抗日戦争史観を強調している戦前派の知識人は、戦争中、大東亜戦争史観を強調していた人々か、戦中派が大東亜戦争史観のために死んでいくのを傍観していた人々である。そういう人々が戦後強調するものに、全面的に信頼をおけなかったというのが本音である。そんな知性を信用しろという方がむりである。彼には、太平洋戦争史観が一つの真理であるのと同じように、大東亜戦争史観も一つの真理でなければならなかったのである。
むしろ、上山は戦後の太平洋戦争史観、帝国主義戦争史観よりも、戦争中、あの戦争に全力投入して生きた自分自身の体験、あの戦争にひきつけられたと感じとった自分自身の体験の方を信じた。信じてよりどころとする。そこから戦中、戦後を貫くものを発見しようとする。勿論、同一のものを発見しようとするのでないことはいうまでもない。三島の考えに共通した立場であると言えよう。
上山は言う。
「幕末から大東亜戦争にいたるまでの段階では、軍備なき国家は、国家の否定を意味し、植民地を意味した。しかるに、軍備をたくわえ、主権国家を確立し、産業革命をやって、先進資本主義国と利害が衝突するに至れば、有効な国際協議のない状況下では、戦争に訴えるほかに途がない」(大東亜戦争の意味)
「私たちは、第二次世界大戦の評価にあたって、まず、連合諸国と枢軸諸国とをくらべてみて実際行動において、どちらが正しかったかという問題と、民主主義とファシズムをくらべてみて、理論上、どちらがすぐれているかという問題を、いちおう区別して出発すべきではないか。かりに、民主主義の理論がファシズムの理論よりすぐれているとしても、民主主義を奉ずる国々がファシズムを奉ずる国々よりも正しい行動をするという保障はありません。戦争とは、二つ以上の主権国家が利害の対立を暴力によって解決することを意味しており、喧嘩両成敗、つまり同罪というわけです」(同書)と。
上山は、アメリカもソ連も日本と同じく同罪であったという。その證拠として、日本に平和憲法をおしつけながら、幾年もたたないうちに、平気で再軍備を求めるばかりか、南朝鮮、台湾、南ヴェトナムを軍事的に支配しているアメリカ。チェコスロヴァキア、ハンガリー、東ドイツを軍事的に支配しているソ連の現状をあげる。そんなアメリカ、ソ連が敗戦国民である日本人に、一方的に、太平洋戦争史観、帝国主義戦争史観をおしつけ、思想の自立ということからは程遠い戦前派がそれをうのみにしたにすぎないというのである。
それこそ、戦争中、アメリカ国家のために、自由のためと信じて死んだアメリカ青年も、日本国家のために、民族解放のためと信じて死んでいった日本青年も、ともに崇高な価値と信じた故に、己の存在を捧げたものである。その点では同じである。彼等はともに、それぞれの国家エゴイズムのために利用されたにすぎない。唯、アメリカ青年は勝利したために、その矛盾を深く知ろうとしなかったのに対して、日本の青年は負けたが故に、その矛盾を異常に感じとるようになっただけである。
上山が戦中派の死をみとめ、それなりに愛国者であったというのもそのためである。だが、こういう観点にたって、大東亜戦争に相対的な真理性をみとめたとしても、大東亜戦争が加害者の性格をもっていたということを消すものではない。ことに、数億の人びとの生命と生活が犠牲になるような戦争手段を行使したということで、彼は、それを絶対的な悪とみるばかりでなく、彼をふくめて戦中派はその共犯者であったという事実を鋭く考えるのである。
だから上山は、将来、国際的紛争を解決するには戦争によらない平和的手段を強く待望するという考えをもったし、また国家エゴイズムを批判しきることができないために、共犯者になり加害者になったような戦中派の生き方を再びしないために、それを批判し、その批判に従って行動することの出来る戦中派になることがどうしても必要だという結論に達したのである。それが、戦中派の戦中の行動に対する贖罪であるとも考えたのである。
上山が、日本の平和憲法を、「連合諸国の共同の意志にもとづいて発足したばかりの国際政治機構を前提として、旧来の至高権を主張する主権国家の理念に根本的な訂正を加えた人類最初の国際国家の制度化の試み」(大東亜戦争の意味)として高く評価するとともに、「日本国民は、からくも、憲法改悪を防ぎとめてきた。現在のような悪条件の中で、この早産児をすこやかに育てあげるのは容易なわざではないが、それは、やはり世界のどの国民よりも、戦争にたいする認識を深める機械をもつことの出来た日本国民の人類にたいする一つの責務である」(同論文)と言いきるのも、その中心に、彼自身が居るという確信から出ている。平和的手段を現実化していこうとする彼自身の強い決意から出た発言である。
このような上山の態度は、無批判に大東亜戦争史観を否定して太平洋戦争史観、帝国主義戦争史観をかつぎまわる戦前派とも違うし、また、無条件に大東亜戦争史観だけを肯定する戦前派とも異なっていることは明らかであろう。そして、彼が戦争中の西田幾太郎を再評価していくのも、山田宗睦のそれと違って、大東亜戦争の意味と価値を更めて問いなおしたいと考えるところからきている。

二 西田幾太郎と大東亜戦争

戦争中の西田は、初めは意識的に後には外部からの強制で、深く大東亜戦争そのものにかかわっていったが、その間、彼が独自に探求してきた東洋文明論は殆んど一貫し、戦争によってゆがめられるということはなかった。むしろ彼はその東洋文明論によって、あの戦争の理念を変えることのできないのを悲しんだほどである。
上山はそういう西田について、
「長い歴史の過程において蓄積された知識の体系は、たしかに貴重な文明の遺産であるが、たとえば古代ギリシア以来の西洋哲学、ヴェーダ以来のインド哲学、春秋戦国以来の中国哲学などは、地球的規模における人類の自由な思想交流の必要が増大しつつある今日の状況下においては、かつてそれぞれの分布地域における思想交流を促進する役目を果たしていたばあいとは逆に、強大な偏見の体系として思想交流の阻止要因に転化しつつあるのではないかと疑われる。
その点で、ヴェーダ学の偏見体系からの脱出をこころみた仏教の否定の論理を核とし、中国哲学の正統をなす儒学からの脱出をこころみた老荘思想を加味して形成されたものと考えられる禅の思想にヒントを得た西田の“無の論理”は、徹底した偏見打破の立場として、将来的意義をになうものでないか」(日本の土着思想)と書いて、西田を東洋文明の継承者、体現者とみ、さらに東洋文明の世界的意味、現代的意味を西洋文明に対置してみようとする人間と考えるのである。
しかも上山は、西洋文明の積極的凸型文化は、東洋文明の否定的もしくは消極的凹型文化にのみこまれるのではないか、そして人類共同体形成の推進力はむしろ、東洋文明にあるのではないかとみるのである。勿論その時、東洋文明を継承し、体現する象徴的存在として西田を考えた上での発言である。
西田は、大東亜戦争の中で、
「我々は単なる対立的国家の理念をこえて、新たなる世界構成の理念の上に立たなければならない。おのおの国家の立場から、それぞれの世界史的課題が把握されなければならない。……一つの民族的国家を中心としての帝国主義的理念はもはや過去に属するものであろう。我々は深くこの歴史的課題に目覚めなければならない」(国家理由の問題)
「日本形成の原理はすなわち世界形成の原理とならなければならない。ことに、現今の大なる問題があると思う。もっとも戒むべきは、日本を主体化することでなければならないと考えることである。それは、皇道の覇道化にすぎない。それは皇道を帝国主義化することに外ならない」(日本文化の問題)
「古来武力のみにて栄えた国はありませぬ。……永遠に栄える国は立派な道徳と文化が根柢とならねばなりませぬ。我国民今や実にこの根柢から大転換をやらねばならぬ時ではないでしょうか」(長与への手紙)
と、発言するように、彼は大東亜戦争を遂行していく中で、日本も米、英、仏、独もソ連も作りかえていく必要があると考えたのである。彼がどのように日本を作りかえようとしていたかは、
「大正デモクラシーの代弁者たちが社会改良のモデルを西洋に求めようとしたのに対して、西田は早くから東洋文化の独自な価値に着目し、その価値が世界の場で客観的に評価され、人類の共有財産とされることを、自己の哲学思索の基本目標とすると同時に、日本国民の世界史的な使命と考えた」(日本の土着思想)という上山の指摘で明らかである。
西田は大東亜戦争にのめりこみ、今日一般的には悪評高い「世界新秩序の原理」も書いた。山田宗睦などはそれを西田の思想的弱点とみたが、上山は逆に、全体主義と自由主義の同時否定と同時肯定にむかってつきすすむ西田の果敢な戦いとみる。それに成功しなかったのは、西田の論理力の不足とみる。日本のつくりかえに西田はその全存在をかけ、あえて試行錯誤をしたとみる。それこそが、本当の思想家であると考える。
勿論、上山は、西田が「我国の国体に於いては、皇室が世界の始めであり、終わりである。皇室が過去未来を包み、絶対現在の自己限定として、すべて皇室を中心として生々発展するというのが、我国体の精華であるのである」と、日本の伝統を無批判的に讃美したことを肯定するものではなく、「立論の基礎とされている歴史的事実の客観的科学的検討」を彼に強く要求する。
しかし、西田はもういない。いないとすれば、それは西田を高く評価する上山の今後の仕事であるはずである。西田の思想の解説者から、西田の思想の継承者、発展者になることが求められる。ことに西洋思想との対決を通して、東洋文明に光をあてようとした西田を認める以上、西田の思想が東洋文明史の中に如何に位置づけられ、東洋文明にどんな未来的展望があるのかを究明する義務がある。それがまた、東洋文明の意味と価値を再発見しようという方向にむかわせた大東亜戦争の意味に、一つの決着をつけることになるのではなかろうか。

三 遠山茂樹と明治維新

上山はまた、講座派の遠山茂樹たちに鋭くきりこんでいく。ことに、それは講座派の明治維新論に対してであるが、日本そのものの発展の道を東洋文明の視点から世界史的規模で模索していこうとする立場からであり、西田の評価とは丁度逆のものであるということができる。
まず上山は、「27年テーゼ」の訳文では、「政治権力は封建的要素たる大地主、諸侯、王党の手中にあった」「軍閥、封建諸侯」と訳していることを述べたあと、
「私はかねてから、“27年テーゼ”とか、“32年テーゼ”というものは、その起草者たちが、ツァーリズムと天皇制のアナロジーによりかかりながら、レーニンのロシア革命にたいする指針を援用してつくりあげたものでないか。という疑問をいだいているのですが、このたび、“テーゼ”の起草者たちが維新による領主制廃止の事実すら正確に把握していなかったのではないかという新たな疑問を生ずるに及んで、そうした成り立ちの政治文書をより所とする講座派理論が、政治のしもべとしての学問につきものの悲劇性と喜劇性をもつことを痛感させられました」(明治維新の現代的意義)と解説する。おかしいではないかというのである。
しかも、講座派の人びとは、明治維新がブルジョア革命でないという判断の基準に、フランス革命の史実をおいているが、明治維新がブルジョア革命でないというなら、フランス革命もブルジョア革命と言えないのでないかと言って、ジョルジュ・ルフェーブルの「フランス革命は決して農民の大多数の層を満足させるものではなかった」「フランス革命が農民大衆の声に全く耳をかさなかったということは疑う余地のないところである」という言葉を引例する。
これは、遠山が、「ブルジョア革命の経済的内容の中心は、封建的土地所有を廃止する土地改革であるといわれる」(明治維新ブルジョア革命論について)と言っていることに対する直接の批判であった。上山は更に、「たしかに、フランス革命は、ルイ十六世をギロチンにかけて“民主的共和国”をうちたてた。しかし、これは革命コースの途中の出来事であって、革命の全コースはナポレオン体制の成立をもって終結している。そして、このナポレオン体制は周知のように、明治天皇制に勝るとも劣らぬ専制的政治形態であった。1804年のナポレオン憲法によれば、外交、内治、統帥等の権力はすべて皇帝に直属し、議会は発議権なく、完全な諮問機関にすぎない。したがって、明治維新が専制的君主権力をもたらしたという理由で、ブルジョア革命として失格だというなら、同じ理由で、フランス革命も失格と見なさなければなるまい」(歴史分析の方法)というのである。
このように批判するのも、「講座派および講座派系の人びとは、相対的真理(仮説)として理解すべき命題を、ほとんどアプリオリの絶対的真理としてあつかうことによって、科学的思考方法を権威的あるいはドグマ的思考方法にきりかえてしまった」(歴史分析の方法)という決定的な誤りを犯していると考えたからである。ここからは、日本に則しての日本の発展の契機は、日本の中から永久にでてこないと判断したからである。それこそ、ここには、西洋的な見方を基準にする盲従と追従しかない。
要するに、上山は、比較思想史の方法を駆使することによって、遠山が陥っている非自立的姿勢に是正を加えようとしているのである。同時に、明治維新がフランス革命に匹敵する革命であったことを評価し、日本人が歴史的に生き、存在していたことに対する意味を見ていこうとするのである。
しかし、たしかに上山が、明治維新ブルジョア革命説に固執し、遠山のいう絶対主義の側面を見ようとしないことにも問題があろう。とくに彼の立場にたつなら、ブルジョア革命か絶対主義革命かという西洋的規定に、明治維新をあてはめようと固執することがおかしいのではないか。また、その両面をもっていることを素直に認めることこそが、上山の立場ではなかったのか。
それに、遠山の「一度は王制を廃止し、民主的共和制を樹立したことの現代的意義は決定的に重要なのである。共和制出現前の絶対王制と、それ以後のブルジョワ王制は、支配の機構や形態の類似にもかかわらず、性格が異なるのである」(明治維新の社会的責任)という発言に対して「革命の過程で、君主が殺害されたかどうか、また、それにともなって共和制が成立したかどうかということは、それぞれの国柄と革命過程の特色に起因する副次的な現象にすぎないと思う」(明治維新の現代的意味)という上山の理解は、あまりにも浅すぎる。その違いの持つ重さを理解できないほどに、彼の思考力はかたいのであろうか。革命を主体的に考え、追求している者には、こんな発言はできない。これでは、上山も単なる学者に後退していると言わざるを得なくなる。これらは、上山が今後さらに考えてみなくてはならない問題である。

四 丸山真男とナショナリズム

日本の発展の契機をそれ自身の中につかんでいこうと考える上山は、当然ナショナリズムについて考える。その場合、「ナショナリズムとはこういうものであるとか、ナショナリズムにはこれこれの種類があるとか、ナショナリズムの歴史はこうこうであるといった論議ばかり多くて、これからの日本ナショナリズムの目標はこれこれであるといったような論議が少ない」(日本のナショナリズム)というだけあって、ナショナリズムそのものの展開をはかる。また、その点から、丸山真男のナショナリズム論を批判する。
丸山が、
「近代国家は国民国家といわれるように、ナショナリズムは、むしろその本質的属性であった。こうしたおよそ近代国家に共通するナショナリズムとそれ(ウルトラ・ナショナリズム=超国家主義)とは如何に区別されるのであろうか」という疑問に、
「ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値にかんして中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)ないしは個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上においているのである。(中略)ところが日本は明治以後の近代国家の形成過程において、かつてこのような国家主権の技術的中立的性格を表明しようとしなかった」(超国家主義の論理と心理)と答えたことに、上山はまず反撥する。それは、民族や国家がそれ自身として歴史的に存在する意味と価値をみようとしないことに対する不満である。加えて、丸山が、「ヨーロッパ近代国家のモデルをまず設定しておいて、それとのズレを手がかりとして、日本近代国家の特質を描きだすという手続きをとっている」(日本のナショナリズム)ことに対して批判せずにはおれない。
丸山のそれは、あきらかに、「一方は否定さるべきマイナスの価値として、他方は肯定さるべきプラスの価値として設定されている」ものであり、こういう判断からは、「日本の戦前型ナショナリズムが何でないかという論証は申し分ないとしても、何であるかという点についてはかなりの論議が残されているのではないか」と言わざるを得ないのである。また、丸山が日本のナショナリズムを明らかにするのに、日本のナショナリズムの第三期とヨーロッパ・ナショナリズムの第二期と比較していることも適切でないと考える。それについての説明は上山の著書にゆずるとして、彼が言うように、第三期と第二期を比較しているとすればおかしいと言わなくてならない。
さらに、ヘーゲルの東洋的ないしアジア的世界を最下位におき、ゲルマン的ないしヨーロッパ的世界を最上位におく価値尺度を用いていることにも不満である。
要するに、丸山は、ヨーロッパを中心とし日本を従としながら、日本のインターナショナリズムの成立を志向しようとしており、これに対し、上山は鋭く反対しているのである。
たしかに、丸山には、日本の儒学についての研究はあるが、日本の仏教や神道について透徹した研究はまだない。いってみれば、日本精神史、日本思想史、日本文化史については暗いと言える。それでいて、「あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え、すべての思想的立場がそれの関係で自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当たる思想的伝統はわが国には形成されなかった」(日本の思想)という結論を早急に出して、日本をヨーロッパを中心に考えようとすることには問題があろう。それでは、日本精神、日本思想、日本文化が客観的に自立することは永久にない。日本文化の自立を戦いとる姿勢ではない。ということは、日本文化がヨーロッパ文化になることが、日本文化の自立ではないからである。いずれにせよ上山が遠山に丸山に強く反対するのは、大東亜戦争の中で日本にアジアに、さらには東洋文明にその全存在をかけ、またその全存在を燃焼させきった戦中派上山の期待と執念がはたらいているといってよかろう。そして、遠山、丸山の立場を本当に克服したところに、初めて本当の意味での国際国家も開かれたナショナリズムも可能であるというのが、上山のナショナリズムについての意見である。遠山、丸山は、まだ思想の自立に到達していないということにもなる。

五 マルクス主義とプラグマティズム

共産主義国ソビエトを導くマルクス主義と資本主義国アメリカを導くプラグマティズムの共通項を弁證法を中心に上山が追求していこうとするのも、彼が大東亜戦争の遺産は平和であり、国際紛争を解決するには平和的手段によるしかないという結論から出たものである。それは、共産主義諸国と資本主義諸国を否定的に統一しようとする彼の願いでもある。折衷主義者と罵られても、また、そんなことは不毛な作業でないかと批判されても、彼はあくまでもその問題に固執する。
では上山は、マルクス主義とプラグマティズムの共通点をどのように證明しようとするのであろうか。彼はまず、
「プラグマティズムの論理思想が弁証法的だということをはっきり論証した仕事はこれまであまりなかったのではあるまいか。デューイとマルクスの親近性についてはしばしば言及されてきたが、両者の論理思想の比較に立ち入った研究はほとんどない。パースについて、その論理思想がマルクスと共通な弁証法的性格をもつということを指摘したものを私は知らない」(弁証法の系譜)とまえおきして、レーニンが「哲学ノート」に、「生き生きとした直感から抽象的思考へ、そしてそれから実践へ。これが真理の認識の、すなわち、客観的実在の、認識の、弁証法的な道すじである」と書いたのに対して、パースは「プラグマティスト綱領」に、「あらゆる概念の要素は、知覚という門を通って論理的思想の国に入り、目的をめざす行動という門を通ってこの国を出る」と書いていることを指摘する。
即ち、直感ー思考ー実践は知覚ー思想ー行動に対応すると言うのである。さらに、「毛沢東の『実践論』は、認識の問題を実践の見地からあつかう点、またこうした見地にもとづいて認識過程を、(一)実践から認識への移行過程、(二)理論的認識の過程、(三)認識から実践への移行過程、という三つの段階に分けて考えている点において、プラグマティズム論理学と一致する」(弁証法の系譜)とも言う。
「認識を実践との関係においてとらえ、実践のモメントを認識論のなかに導入している点が両者に共通の特徴である」(同書)というような説明もする。
ここから、「もし毛沢東やレーニンの考えは、プラグマティズム的な問題解決の論理などには縁もゆかりもないという批評がなされるならば、それは弁証法論理の構造をまじめに考えたことのない人の無責任な先入見を表明する以外のものではない」(同書)と断言するのである。
その証拠として、毛沢東の「では、問題とはなんであろうか。問題とは、つまり、物ごとの矛盾である。解決されていない矛盾のあるところ、そこに問題がある。問題があるからには、人は一方に賛成し、他の一方に反対しなければならず、そこで、人は問題を提起しなければならないことになる。問題を提起するには、まず問題、つまり矛盾の二つの基本的な側面について、おおよその調査研究をしなければならない。そうしてこそ、はじめて、矛盾の性格がなんであるかを知ることができる。これが問題を発見する過程である。おおよその調査と研究をおこなえば、問題を発見し問題を提起することはできるが、まだ問題を解決することはできない。問題を解決するためには、さらに系統的なめんみつな調査活動と研究活動をおこなわなければならない。これがつまり問題を分析する過程である」(党八股に反対せよ)という言葉をひく。
勿論、上山は、マルクス主義とプラグマティズムの違いは違いとしてはっきり認める。
「基本的には、マルクス主義が社会過程の理論に主力をそそいできたのに対して、プラグマティズムが認識過程の理論に主力をそそいできた」(弁証法の系譜)
「マルクス主義は、このままの社会のしくみのなかでは、科学も技術も人類の幸福を保証しえないとして社会革命の必要を強調する。プラグマティズムは社会の改良には熱意を示すが、マルクス主義の意味するような革命の必要はみとめない」(同書)というように。
しかし、その違いを認めるゆえに、「マルクス主義論理学とプラグマティズム論理学を、論理思想史の見地から、弁証法論理学の二つの相補的な発展形態とみることができるのでないか」(同書)という結論も出していくのである。この研究が今後いよいよすすめられ精緻になり、即ちそれぞれの思考方法が、現実にはどう作用しているかという実証的研究なども望みたい。同時に、東洋人、とくに日本人を支配してきた仏教の弁証法を明らかにするという課題が彼の肩におおいかぶさっていると思われる。それは、「日本が人類文明の溶鉱炉となり、人類共同体形成の推進力となる」といった上山の立場を貫くためにも。また、東洋文明を西洋文明に対置しようとした西田幾太郎を認める上からも。

<自立の思想 目次>

第六章 吉本隆明……自立と連帯をもとめて

一 戦前派の告発

吉本の戦中、戦後の生き方は、一言にしていえば戦中派そのものであり、戦中派の典型であるということができよう。沈黙の世代といわれた戦中派の人びとに代わって、鋭くその怒りと悲しみを最初に発表したのも、また、笑わぬ世代といわれた戦中派の人びとに代わって、最初に、それもたからかに笑うことができたのも彼である。不毛の世代といわれた戦中派の人びとに代わって、戦中派の願いをうけとめて最も生産的な仕事をしているのも彼である。
そのことは吉本が最も鋭く、また最も激しく、戦中、戦後の戦前派知識人の思想的政治的不毛の責任を追求し、決してそれを許そうとしなかったことに起因している。彼は決して戦前派知識人と同居しようとしない。はっきりと彼らを拒絶する。それは今なお続いている。大東亜戦争の誤りを知りながら、戦中派を戦争にかりたて、戦後は思想的反省も殆んどなしに、それと真反対のことを言っている戦前派知識人。その事実の前に、戦中派は激しい怒りをいだきながら、はっきりと告発できなかった。告発することによって、自分の立場を悪くする心配がそれをさせなかった。だからといって、戦中派が戦前派を許したということではない。吉本は、そのことをはっきりと戦前派知識人に言うのである。また、最初に告発した人間でもあった。
ことに戦前派知識人が、戦争中、戦中派を傷つけたように、戦後ふたたび戦後派を戦後革命の虚妄にかりたてて傷つけてしまったと知った時の吉本の怒りは、一層鋭いものとなった。ヒステリックでさえあった。それほどに、彼の怒りは激しく徹底していた。その怒りが、吉本に、戦前派知識人の断罪という課題をあたえることになった。それこそ、まさに戦中派が待望したことであったし、戦死していった戦中派が生き残った戦中派に心から託したことでもあった。
こうして、吉本は、「高村光太郎ノート」「前世代の詩人たち」「民主主義文学批判」「転向ファシストの詭弁」「転向論」「日本ファシストの原像」などを次々と発表して、マルクス主義や日本主義にのめりこんでいた戦前派知識人の戦中の批判を展開していった。彼の心の中ではおそらく、彼の怒号にみちた批判に少しの弁解もなく、じっとたえぬける人間、その批判をきこうとつとめる人間だけが、再び吉本と一緒に戦後革命の崩壊したあとのたてなおしのために、共同の活動が出来ると期待していたようである。
吉本の批判は、「日本の近代社会の構造を総体のヴィジョンとして、つかまえそこなったために、インテリゲンチャの間に思想転換がおこった。したがって、日本の社会の劣悪な条件に対する思想的な妥協、屈伏、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統に対する思想無関心と屈伏がおこった」(転向論)ということにつきる。
要するに、彼らは日本の思想的現実を把握しそこねたために、大衆を組織できなかったばかりでなく、大衆から孤立したために挫折と転向をするしかなかったというのである。
それは、日本共産党の幹部である佐野学、鍋山貞親が、「最近の世界的事実は我々に教える。世界社会主義の実現は、形式的国際主義に拠らず、各国特殊の条件に即し、其民族の精力を代表する労働階級の精進する一国社会主義建設の道に通ずることを。民族と階級とを反撥させるコミターンの政治原則は、民族的統一の強固を社会的特質とする日本に於いて特に不通の抽象である。最も進歩的な階級が民族の発展を代表する過程は、特に日本に於て行われよう。世界革命の達成のために自国を犠牲にするも怖れざるはコミターン的国際主義の極致であり、我々も亦実に之を奉じていた。しかし、我々は今、日本の優秀なる諸条件を覚醒したが故に、日本革命を何者の犠牲にも供しない決心をした」(「共同被告同志に告ぐる書」)ということを言って転向したことにも明らかであるというのである。たしかに、日本思想史や仏教史を手にしたことのないような日本のマルクス主義者なら、転向も不可抗力であったであろう。
天皇制打倒という勇ましい掛声はあっても、天皇制の思想的究明は殆んど自分自身でしていないような日本のマルクス主義者であるから、その天皇制と本当にむきあった時、それを克服するどころか、それに埋没していくしかなかった。しかも、戦争中についての思想的反省のないものには、戦後も同じ過ちをくりかえすしかなかった。戦後の状況を誤認する以外になかったというのが吉本の意見である。
彼が、「近代批評の展開」「社会主義リアリズム論批判」「芸術大衆化の否定」「芸術運動とは何か」などで、政治と文学の問題を中心に、次には花田清輝たち戦前派知識人の戦後の思想と行動の批判を始めたのもそのためである。
「通俗文学のまわりに集まっている大衆は、政治的な意識が低いから、高度の政治意識をもったプロレタリヤ文学についてくるはずがない。ひとまず政治意識を低めて作品を通俗化するか、さもなければ政治運動を強化して、文学外の要因とあいまって大衆をプロレタリヤ文学の方へひきよせるより外はない」(芸術大衆化論の否定)という、花田の政治に従属した文学観を追求する。そういう文学観しかもてない戦前派の文学者や政治家が文学を矮小化するとも言う。しかし、花田たちからかえってきたものは、怒号だけであった。吉本の絶望はいよいよ深まっていくしかなかった。
他方、吉本の批判と告発は、マルクス主義にのめりこんだ戦前派知識人だけでなくすべての戦前派知識人にもなされる。その一つが丸山真男への批判である。彼は、「丸山真男論」で、「丸山がその政治学の原型と考えているヘーゲルには、歴史を血まみれた罪悪史のヴィジョンとしてとらえ、そこから逃れる道を必死にさがしているものがあるが、彼にはそれがない」とまえおきして、「丸山がモデルとして考えている西欧近代は彼の錯覚で、そんな物はどこにもない。ありもしない西欧近代を想定して、日本近代化の不十分さを批判するのは誤っている」と断定する。これは、明治以後の知識人が西欧を理解するのに、すべて書物を通して学ぶということからおこったことであり、丸山もその例外ではなかったということである。彼の批判は、さらにつづく。
「敗戦までのイメージも、敗戦後のイメージも明確にとらえるところに、知識人の課題はあったはずだ。……丸山が敗戦までのイメージがよくわからなかったのは、ほとんどその思想が大衆の生活思想にひと鍬も打ちいれる働きをもっていなかったことを意味している」(丸山真男論)と。しかも、戦後も、同じ態度をくりかえしているというのである。
吉本がこういう批判をしたのは数年前であったが、今日では丸山に対して、
「安保後、仕事らしい専門的な仕事は何ひとつしていない丸山」(状況とは何か)
「傷つくほどにも、自己存在を賭けることもない特権を社会的に享受していることが、この男にとっては、なにか自慢のたねになっているらしいごうまんな心理が透けてみえる」(同)という激しい言葉をたたきつける。
しかしこれに対して、丸山はなぜか答えようとしない。数年前も今も。
戦前派知識人が、本当に吉本の批判に耳を傾けることが、彼らにとっては思想の自立を戦いとることであると言えるが、逆に吉本には、これらの批判をつづけることが彼自身の思想の自立を戦いとる作業であった。彼等への批判なしには、彼の自立はありえなかった。それがおくれてきた世代の宿命である。

二 戦中派への批判

戦前派知識人を鋭く断罪しつづけた吉本は、同世代の批判もまた、それに劣らず厳しかった。このことが、戦前派知識人への告発が私憤でなかったことを証明するとともに、自立を志す戦中派と一緒になって、思想の自立という困難な戦いを戦ってほしいという、戦前派に対する彼の願いをはっきりとあらわしている。では、彼が、戦中派の思想の自立、思想復権のために投げかけた処方箋はどんなものであったか。
「兵士たちをさげすむことは、自分をさげすむことであった。知識人、文学者の豹変ぶりを嗤うことは、みずからが模倣した思想を嗤うことであった。どのように考えてもこの関係は循環して抜け道がなかった。このつきとおされた汚辱感のなかで、戦後が始まった。……わたしたちは、すべてを嗤うことにより、自分自身を嗤うという方法で、みずからの思想形成をはじめるほかなかった。この方法のほかにたよるべきものはなかったのである」(思想的不毛の子)。
吉本は、まず、戦中派知識人にむかって被害者面をするなといった。被害者面をすることは、戦前派知識人と同じ誤りを犯すことであり、思想の自立から遠ざかることであるというのである。戦前派にだまされたというよりも、日本の思想的現実を把握できなかった、把握しようとしなかったことをこそ徹底的に恥じろというのである。同世代の兵士たちへの責任を徹底的に考えろともいうのである。
「自分をふくめて、すべてのものを笑うところから、自己の再建を始めるしかなかった」と言いきった吉本故に、笑わぬ世代の代表ともなったのであるが、あらゆるものを笑うということは、同時に、あらゆるものを疑うということであり、ゼロから出発するということである。先人や他人のしめした道を一つ一つ疑って、自分の歩む道は自分自身でつくっていくということである。そこに、本当の思想創造のいとなみがある。
そういう視点から、戦中派知識人の一人上山春平を批判する。上山が、
「新しい国家体制にふさわしい新しい防衛体制の基本的特徴について、今、私の念頭にあるのは、次のような諸点である。
(一) 国の政治的独立を維持するに必要な、徹底的に防禦的で、住民の分業的生活体系と密着した、国土の外では機能しえない、非侵略組織であること。
(二) 国の独立と安全をおびやかす人災ならび天災に適時対応しうる体制をととのえることを目標とし、仮想敵国は想定しないこと。
(三) 国民の総意が、生活時間の一部をさいて、何らかの仕方で参加できる権利と義務をもつこと。
(四) 全ての国民が短期間ずつ参加しうる組織を維持し、改善するために、事務局ないし専門機関が必要となるが、そのメンバーは一般公務員とし、一般国民にたいする助言者および奉仕者としての立場を明確にし、旧軍隊における職業軍人の徴募市民にたいするような関係が再現しないようにすること。
(五) 事務局ないし専門機関は内閣総理大臣の直属とするが、運営に当たっては、超党派的な議会の防衛委員会(議員外の専門委員をふくむ)の協議を経る等、党利党略に利用されぬよう最大の注意をはらうこと。
(六) 国民は防衛義務の履行に当たって、その体力、能力、志望等に応じて、技能をみがきながら、全国民的規模における防災(人災ならびに天災の防禦)体制の維持に貢献しうるような多角的な機構と設備を国家に要求しうる権利をもつこと。
(七) 従来、分散的に処置されていた防災事項、安全関係事項一般を総合的に研究する機関をもうけ、その総合的な対応処置を重点的に実行すること」と書いた時、彼は、
「こういう論議は、日本の資本制が近代的な意味での国家を形成しうるまでに到達したという現状認識と、自己の戦争体験の総体的肯定と部分的修正をもとにして成立した」もので、
「上山のこの到達点を、戦争世代の面汚しであると思う。わたしは、人を唖然とさせることが嫌いでないが、上山のこの国土防衛論は、もっともわたしを唖然とさせる。わたしのなかに潜在している戦争世代の同窓会意識を、どんなにかきたてても、感応するものはふくまれていない。いったい、この社会の現実は、上山の脳髄のなかで、どういうことになったのか。かつての海軍士官は、こういう結論をひきだすために、戦後、知識人の思想史を歩んできたのか。ここには、戦争世代が全力をあげて、生命をあげて粉砕すべき処方箋しかしめされていないではないか」(日本のナショナリズム)と批判する。
そして、上山が戦中派の一人として、防衛問題を思想の次元で主体的にうけとめるためには、「大衆ナショナリズムの揚げ底化を、土着化にみちびく道は、政治的には資本制支配層そのものを追いつめ、つきおとす長い道と、思想的には大衆ナショナリズムの揚げ底を大衆自体の生活思想の深化(自立化)によって、大衆自体が自己分離せしめるという方途以外には存在しない」という理解をもつことであると言いきる。
吉本の上山批判は、なおもつづく。「上山の自衛隊の職能代表による管理機構や全人民の自衛隊の参加義務は、彼の国家論からでている」。だが、その「国家は、じつは、社会的国家であって、国家そのものではない。人類史がうみだしていった国家は、もともと、上山のいうような社会的機能としての共同体という権限を超えたところで、はじめて国家としての本質を結んだのである。社会的機能の範囲でかんがえるかぎりは、国家そのものは問題にふくまれず、ただ拡大した職能共同体の問題があるだけである。国家は、社会の共同性が法によって政治的国家、いいかえれば、職能的な機能を超え、これと矛盾する法的概念として結晶したときはじめて、国家とよばれるのである」(自立の思想的拠点)と。
要するに、上山にもし、国家論がまともに究明されていたら、こんな自衛隊論議は生まれなかったし、今日、戦中派知識人はその国家論をめぐって分裂しているともいうのである。これは、たしかに、戦中派知識人に提出した重要な問題である。国家をどのようにうけとめ考えていくかということが、そのまま戦中派知識人の思想の自立に深くかかわることである。国家論をふまえない思想の自立はあり得ないからである。
上山が、国家論をまともに究明しているかどうかは別問題として、あきらかに戦後から今日まで、国家論を追求してこなかった戦中派知識人は多すぎる。それは、思想の自立を戦後求めなかった戦中派知識人が多いということを意味する。だから吉本の上山批判は、むしろ戦中派知識人になげつけた問題としてうけとめるべきである。

三 戦後派への期待

石原慎太郎が、「われわれは、未だに本気で、デモクラシーを信じるか。何のためにどうして。それが単に独裁者のアンチ・テーゼであるという理由だけではないか」という時、吉本は、「ついに、この若い世代の作家たちは、くるべきところへきたのだ。これらの作家たちがこの危機の本質をつかみ、はっきりしたヴィジョンをたてて、未来へ出かけることができるか問われるのは、まさに、これからである」(もっと深く絶望せよ)と、大いに評価し期待しながらも、その絶望は不徹底であると言わざるをえない。
「リアリティのあるものは、すべて絶望的に衰弱してみえるし、希望的なもの、健康的なものは、すべて永久不発なものにすぎない」といった大江健三郎の絶望に対しても同じである。
吉本は、戦後派知識人が好ましい方向にむかいながらも、まだまだ、その絶望のしかたが足らないと考える。戦中派知識人への不信はまあまあとして、戦前派知識人に対する絶望がとくに足らないという。自分自身への絶望が不足しているという。既成の価値の破壊者であるばかりでなく、自分自身の破壊者になることが足らないともいうのである。彼は、それらのすべてに絶望しそこを通りぬけた者だけが信じうると考えている。
だが、吉本の戦後派をみる眼は大変温かいし、戦前派を批判する時のように激しくない。とくに、「戦後派コミュニストがフルシチョフ路線だろうが、毛沢東路線だろうが、日共路線であろうが、コミュニズムの究極的な世界ヴィジョンに反するものは駄目で、否定するより外ない」(橋川文三への返信)とする思想方法を身につけているのを知った時、彼はつくづくと、新たな世代の出現を感ずる。ことに、「姫岡玲治などが、大江などよりも、はるかに現代の状況にも、日本の前衛的な政治にも絶望し、その絶望を主体的な希望のバネに転換しようと試みている」(もっと深く絶望せよ)ことを知って、いよいよ期待が高まる。
姫岡の、「金融独占資本は、その過剰人口を農業その他の中小企業に形成し、保有し、それを一方では労働力の給水源として利用しながら、他方では、独占価格による独占利潤の取得のための収奪の対象としても利用するのである。したがって、金融独占資本のもとでは、農業その他の中小企業の残存と再形成とは、機構的に必然とされるのであって、金融独占資本の基礎に手をふれずには、これらの旧社会残存物を一掃することはできないのである。このように、金融独占資本が旧社会を徹底的に分解することによって、純粋な資本主義の実現にすすむという傾向を逆転することになったのは、まさに資本主義が特殊歴史的社会たることを示すといってよいであろう」(民主主義的言辞による資本主義への忠勤)という発言には、若い世代の社会ヴィジョンの根底に、国家的な規制力や民族的な封鎖性をとかれ、高度化した戦後の独占社会の中で、ばらばらにきりはなされた個的な意志によって、自己形成をとげたものにだけ見られる社会把握の方法があると見る。であるからこそ、そこに国家とか民族に幻滅した戦中派と戦後派を結びつける通路があるとも考えるのである。それ故に、その期待をこめて、つぎのように書く。
「学生は労働者も知らず、まして、労働運動も知らない。涙と一緒にパンを呑み下した生活も体験していないプチ・インテリだと思っている」(頽廃への誘い)
「みずから、プチブル以前、革命的以前の学生のうちから、はやくもあれは、トロツキズムとか、ブランキズムとか、解党主義だとかいう死語をふりまわすことをおぼえてしまう。そうなったら、政治主義の墓場であり、そうなったら、けっして、革命的でありえなくなる」(現代学生論)
「学生の指導者が、たんなるイデオロギストでなく、思想家だったら、ブランキズムは駄目だとか、トロツキズムは駄目だとかいう愚論を排除して、インテリゲンチャ運動として自立する道をとる筈だ」(現代学生論)
「はやく醒めない方がいい。そして、醒めないうちに、醒めたものには決してできない知識や思想や運動を蓄積したほうがいい」(現代学生論)
「学生は小市民インテリゲンチャである。このことは、善でも悪でもない。その生活実態は具体的プロレタリアの生活以下のばあいも、それ以上のばあいもある。学生運動は学生インテリゲンチャの大衆運動であり、その運動が、具体的に労働者運動以上の力を発揮するばあいも、それ以下の役割を果たすばあいもある」(前衛的コミュニケーションについて)
吉本のこれらの言葉が、果たしてどれだけ若い戦後派に理解され、うけとられるかは不明である。それは、彼の書物がよく読まれるということとは別である。それこそ、深く絶望した者のみにわかる思想である。そのことは、誰よりも彼が知っている。

四 知識人と大衆

以上のように吉本が、戦前派知識人を告発し、戦中派知識人を批判し、さらに戦後派知識人に希望するのも、結局は知識人と大衆の問題につきると言っていい。ことに、
「庶民的抵抗の要素は、そのままでは、どんなにはなばなしくても、現実を変革する力とはならない。したがって、変革の課題は、あくまでも庶民たることをやめて、人民たる過程のなかに追求されなければならない。わたしたちは、いつ庶民であることをやめて人民でありうるか。わたしたちの考えでは、自己の内部の世界を現実とぶっつけ、検討し、理論化してゆく過程によってである。この過程は、一見すると庶民の生活意識から背離し、孤立してゆく過程である。だが、この過程には逆過程がある。論理化された内部世界から、逆に外部世界へと相わたるとき、はじめて外部世界を論理化する欲求が生じなければならぬ。いいかえれば、自分の庶民の生活意識からの背離感を、社会的な現実を変革する要求として、逆に社会秩序にむかって投げかえす過程である。正当な意味での変革の課題は、こういう過程のほかからは生まれないのだ」(前世代の詩人たち)と書いて以来、彼は一貫して、庶民、大衆が人民に変わっていく過程を追求してきた。それを、彼の思想的課題としてきた。
それは、庶民が庶民であるかぎり、庶民が人民として自立しないかぎり、擬制的な保守や擬制的な進歩に引きずられる以外にないと考えるからである。しかも、庶民が人民として自立するということは、知識人に指導されて人民になるのでなく、庶民自身の力で人民になるというのが吉本の意見である。彼は言う。
「庶民でありながら、その日常的な精神体験の世界に、意味をあたえられるまで掘りさげることができたとき、庶民は、庶民の社会にいて、庶民でない存在となれることができる筈である」「戦争に没入した庶民も、こんどこそは心をいれかえて、平和思想に没入しようと単純に考えるのでなく、庶民や庶民社会として自立するために、日常生活の意味を掘りさげようと考えることによって、戦争体験と責任の問題に対処することができるし、この方法だけが、庶民を、イデオローグやイデオローグの部分社会にたいして優位にたたしめ、自立させる唯一の道である」と。(日本ファシストの原像)
庶民が指導者を、指導者としての知識人を必要としないところまで、庶民が人民として自立することこそが決定的に必要であり、今日の革命は、そういう人民によってのみ、達成できるのである。それ以外の革命は擬似革命でしかない。
ということは、庶民が人民として自立していくことが必要なように、日本的な知識人が人民として自立するということが、それ以上に必要なことを、吉本は言っているのだと思う。
それは、「頭脳の理解から入った、たんなるイデオロギスト、プチ・インテリ学者であり、偶然、マルクス主義文献にとりついたにすぎぬような“マルクス主義”主義者」(現状と展望)
「どこかに、無謬の真理を空想しなければ、自立できない宗教主義者」(現状と展望)
「一定の政治理論と行動方針を大衆のなかに与える指導者」(擬制の終焉)
「歴史的な現実過程から出発するのでなく、自己の脳髄の理解から出発する革命的マルクス主義者」(頽廃への誘い)という説明からも明らかである。
そのように、吉本の日本知識人に対する絶望感は徹底して深い。その絶望感の深さが、反対に、彼が大衆信仰にのめりこんでいるという批判をひきだすことにもなっている。庶民が人民になることよりも、知識人が人民になることは、もっともっとむつかしいと考えていることもたしかである。とすれば、大衆信仰にのめりこんでいるという批判が出てくるのもむりはない。
しかし、「もし、知識人の政治的集団を有意義集団として設立したいとすれば、その思想的課題は、かれらとは逆に大衆の存在様式の原像をたえず自己のなかに織込んでゆくことに求めるほかはない。それは、啓蒙とか外部からのイデオロギーの注入とはまったく逆に、大衆の存在の原像を自らのなかに織込むという課題にほかならない」(情況とは何か)と書くように、たしかに、知識人が人民になることは非常にむつかしい。しかも、知識人の殆んどは、そのことを求めていない。感じていない。庶民大衆の指導者に、現在のままでなれると錯覚しているのが、今日の知識人である。そのことを如実にしめしているのが戦前派知識人の戦中、戦後の姿である。とすれば、なおさらである。しかも、戦前派知識人を批判していく中で、吉本は次第に、庶民、大衆に近づいていったといえるのではないか。なるほど最初は、戦前派知識人を批判することで、彼等の思想の自立を期待し自分たちとの連帯を求めたが、それが空しい作業であり、実りうすい期待であることを知った時、彼は、庶民、大衆に希望をつなぐ以外にないことを知ったし、またそれこそが、革命を待望する者の本当の姿であるということを知ったようである。革命は、庶民、大衆のためのものであるからである。
また、戦前派知識人との論争が不毛であることを知った時、吉本は、初めて思想家としての本格的な仕事に歩みだす。「言語にとって美とは何か」を書きはじめたのもそのためであろう。彼には、不思議と、それまでには書きおろしがない。たしかに彼が書いたものは、彼自身にとっても戦中派にとっても、戦後の日本にとっても必要なものであった。
だが、「丸山真男論」にしても、150枚たらずでは、彼の不十分な点を指摘できるだけであり、到底、丸山をその日本の学界、思想界で占めている神のような存在からひきおろすことは出来ない。丸山の無視にあうこともしかたないことかもしれない。しかし、一冊の「丸山真男論」の前には、丸山も無視できないはずである。その中で、丸山の評価する徂徠よりも伊藤仁斉、山崎闇斉がすぐれていることを書くべきであるし、また、仁斉、闇斉を中心に日本政治思想史を書くべきである。
同じことが、花田清輝についても言える。いくら花田が戦争中、軍閥直属の軍事工業新聞に書いていたとくりかえし怒号しても、花田の位置はビクともしない。吉本と劣らぬほどに、花田の信者、亜流は多い。もし、社会ファシズム史のなかに決定的に花田を位置づけるなら、初めて花田はだまる以外にないのでないか。ここにも、「花田清輝論」が一冊必要である。
このように考えた時、思想家吉本の仕事は今後にあると言えよう。とくに、彼の期待する庶民大衆にむかって、その自立に、彼のいう意味での役だちかたをする仕事は、全くこれからということができる。思想家吉本の仕事は、今はじまったばかりということも出来る。
庶民が知識人をへて人民になる道でなくて、直接、人民になる道とは一体どういう道であるか。また、指導者を必要としない人民に、日本人が変貌していく道はどういうものであるか。吉本に究明してもらいたいのは、それこそ、この問題である。吉本のみでなく全思想家に、この問題以上の問題はないというのが、私の意見である。

<自立の思想 目次>

結び 日本人の自立と戦中派

以上、私は、親鸞をはじめとする十人、吉本以下五人の思想の自立について述べてきたが、そこに共通するものは、一様に、彼らが生きた現実に深く絶望したのみでなく、自らにも絶望したところから、その時代の課題と自分の課題を長い時間かけて統一的に追求し、その過程で決して投げださなかったということであった。それこそ十年、二十年という時間をかけて、究明したということであった。その意味では、孤独の生活にたえぬき、すすんで自らを疎外者にし異端者にしていったということである。とくに、親鸞たち十人の自立の戦いを考えた時、戦中派が十年や二十年「目下考慮中」と言い、「ものいわぬ世代」と自認したということは当然であった。
もし、そのことを笑う者がいたとすれば、その人達は思想の自立の何たるかを知らず、また思想の自立に全く無縁の人達であり、さらには、日本の思想風土に自我を確立させないものがあるという意見を助ける人達ということもできよう。
たしかに、思想の自立は困難な戦いということはできようし、ここにあげた人びとは、いずれも思想家であり思想的巨人と言えよう。しかし、私は、戦中派の林尹夫が言ったように「自己に忠実に生きる」という面から、これら思想家の思想の自立の秘密を明らかにしてきた。「自己に忠実に生きる」ということは、誰にとっても容易であるが、また非常に困難なことでもある。それ故に、自立する人は非常に少ないとも言えるが、逆にこれまで、自己に忠実に生きるということがどういうことであり、それはどうして可能であるかを殆んど明らかにしてこなかったとも言える。
私がもっぱら、思想の自立に、そのために必要な「自己に忠実」ということに焦点をあわせて具体的に書いてきたのも、日本人の中に思想的自立を定着させたいためである。それに、親鸞たちは思想家であり思想的巨人であったが、彼らが日本の中の庶民、大衆と殆んど同質の人間であり、特別の人間、特別に才能のある人間でないことをも明らかにしたつもりでいる。普通の人間と全く変わらなかったことを書いてきたつもりでいる。彼らがもっているものは、庶民大衆の誰もがもっているものであることを明らかにしてきたつもりでいる。
日本人の中に、思想的自立を定着させたいという私の願いは、吉本たち戦中派の願いでもある。彼らがそれぞれの立場から、この問題に全身でとりくんでいるから、それを一括して整理してみることにもしたのである。彼らの戦前派への批判なども、単に、その意見を紹介する範囲にとどめたのも、批判された戦前派の反批判をのせ私自身の説明を加えるということをしなかったのも、批判の内容でなくて批判の視点を重視したからである。思想的自立の視点といってもいい。自立の姿勢、日本人個々人の自立の姿勢だけが、私には問題であった。また、それこそが、現代の危機にのぞんでの必要不可欠のものであるという判断から出たものである。70年安保をどうするかということも、そのことを除いてはあり得ない。日本人一人一人が安保をどううけとめるかということ以外にないと言っていいし、そのことが大事なのである。
それに関連することだが、戦中派と言われる人達の中には、戦争体験をやっきになって戦後派に伝えようとしている人がある。戦無派といわれる世代の出現で、そういう気持ちをいよいよ強めている。だが、私の率直な意見をのべると、そのことは徒労におわるだろうし、またそのことがそれほどに必要なこととも思われない。橋川文三が言っているように、大事なことは、あの戦争を超越者としての戦争としてうけとめること、あの戦争を契機として歴史意識を確立することだが、それが最も必要なのは戦中派であるということである。いいかえれば、戦中派の思想の自立である。戦中派がその戦いを果敢に、それも執拗にすすめることが必要である。しかし現実には、殆んど戦中派はそれに成功していない。成功していないどころか、戦中派の多くはそれすらも考えようとしない。
戦中派にとって一番大事なことを怠っていて、戦後派にむかって戦争体験を伝えようといきりたつことは、本末転倒とさえ言えよう。まして、戦争中の生活体験を伝えようとしているばかりで、戦争中の思想体験を伝えようとしていないとすると、なおさらである。思想体験なら伝えうるが、生活体験の伝承は殆んど不可能であろう。また、伝承不可能としても、そんなものはあまり意味がない。現実の力にもならない。
そんな事を考えているよりも、それを考えていらいらしているよりも、戦中派が戦中派の課題にとりくむことが、ずっと、戦後派が戦後派の課題にとりくむ上の参考になる。例えば、安保反対斗争で挫折し、絶望し、政治的思想的無関心派になりさがった戦後派、挫折と絶望の中で、思想の自立を戦いとろうとしている戦後派にとって、戦中派の自立の戦いは、大変参考になるはずである。
また、今日の課題に、本当に戦中派と戦後派が統一して取りくめるのも、それぞれが思想の自立をなしおえた時である。そして、戦後派が思想の自立を戦いとるためには、吉本たちが十年二十年とかかったように、中には現在もなおその戦いが進行している者がいるように、十年、二十年、三十年とかかるということを、私は確信をもって彼らに言いたい。その作業をじっくりとやって貰いたいと言いたい。それこそ、親鸞たち十人の生活と思想がそのことを教えているではないかと。また、思想の自立の問題は、マス・コミで騒がれることとは全く別問題である。

<自立の思想 目次>

<目 次>

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