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日韓の占領管理体制の比較憲法的考察

(Hwang,Insang一橋大学経済研究所)

憲法と軍事条約との関係を中心に

李京柱

一 論文の目的

日本と韓国では共に米軍占領という特殊な条件の下で憲法が制定され、占領の延長ともいえる軍事条約との関連で、憲法の歴史的な変化が行われてきた。そこで、本稿では軍事条約と憲法を一貫した論理で理解するために、憲法の制定過程と軍事条約の成立過程を合わせて理解するような視座を求めていきたい。特に、さまざまな憲法意識から特定の憲法意識への組織化のプロセスを憲法制定過程と捉え、占領軍がその主役を演じたとするならば、そこから軍事的な側面を検討することによって軍事条約の憲法との相関関係に対する理解を深めることができるであろう。それに基づいて、両国の憲法を成り立たせた憲法規範的要求を解明するのがこの本稿の目的である。

二 問題の提起

安保闘争といわれ、日本の国民と政治を熱く盛り上げた一連の出来事も、実はその根底には憲法と軍事条約の在り方が横わたっていたと考えられる。そのためか、戦後の日本の憲法学ではこれらの関係に関する多くの論議が行われてきた。その中でも最も代表的な論議は「二つの法体系論」といえよう。憲法と安保条約のそれぞれに基づいてすでに多数の法律・命令が存在しており、一九五一年以降の日本には、基本的に矛盾する二つの法体系が並存する、というのがこの「二つの法体系論」の理論的枠組みである。

しかし、こうした議論は、アメリカの対外政策に対する基本的認識の上で言えば、転換論に基づいているといえる。だが、転換論に基づく方法では、日本国憲法の成立を正確に捉えることはできないとと思われる。

世界的に反戦・反ファッショ的な世論が強く、アメリカでも例外なしにその世論が自国の行動に大きな影響を与え、その延長線上で日本国憲法が制定されたとすれば、マッカーサーの率いる第二四軍団が占領した南朝鮮ではなぜ平和と民主主義とは正反対の占領統治が行われたのかがこの考えでは説明できなくなるからである。しかも、このような捉え方からは、日本国憲法第九条のもつ実効的性格も過小評価されざるをえなくなるであろうし、憲法九条の懲罰的な性格も浮き彫りにされないであろう。

上記の歴史的な経緯説明のように憲法の制定と軍事条約の締結をを二分的に把握するのは、アメリカの政策担当者の情勢予測能力を低く評価しすぎているか、もしくはアメリカの足を引っ張っていたもう一方の反戦・反ファッショ的な勢力であるソ連を過大に評価しすぎているかのどちらかであるといえよう。いずれにせよ、このような転換論は軍事条約の締結をあくまでも偶然的な出来事として判断していると解される。

そこで、本稿ではこうした憲法と軍事条約に関する従来の研究における転換論を批判的検討する手掛かりとして日本国憲法の成立に軍事的な側面から光を当ててみることにしたい。そして、その延長線上で軍事条約の締結過程も検討していきたい。

日本では早い時期から憲法制定過程に関する研究が始まり、その研究はすこぶる多い。しかし、それらは「押し付け」を実証する過程として研究されたものが多く、憲法成立の歴史的な含意まで遡った研究とは言いがたいと思われる。その他の研究においてもいくつかの問題点が存在する。例えば、日本とアメリカとの関係が専らその対象になっているだけであり、アメリカの極東における占領政策の中における憲法成立の客観的な側面を十分に視野にいれているとはいいがたい点が挙げられる。 このような研究の動向からすれば、韓国の憲法成立過程は、日本国憲法の成立をアメリカのアジア占領政策の中で相対化させ、日本国憲法の制定過程のアジア占領史における客観的な側面を明らかにすることにおいて大きな示唆を与えてくれるものといえよう。

三 時期区分

以上のような問題意識を具体化するためには日本と韓国の憲法の制定過程と軍事条約の締結過程を媒介する概念的な道具が必要であると思われる。占領史研究では、第二次世界大戦後の占領が被占領国の国家の在り方そのものの根本的な変化をもたらしたものであったという点から、この時期の占領を単なる占領ではなく、占領管理体制という概念で説明しようとする。そのような概念を取り入れてみれば、韓国と日本では実に米軍の占領によって国家の在り方そのものが根本的に変化したといえよう。そしてその根本的な変化は憲法と軍事条約によるものであったと言わざるを得ないだろう。そこで、本稿は一九四五年から一九五四年を分析の時期的対象にすることにする。もちろん、日本の占領は一九五二年に終了するが、占領終結の帰結としての諸立法措置等が一九五四年までに行われることからすれば、占領史研究における一般的な時期区分に基本的には依拠しながらも、ここでは一九五四年まで視野を広げて検討していきたいと考える。なお、韓国の場合は一九四八年一二月に国連で唯一の合法的政府として国際的に承認されるが、米軍占領の実態からすれば、占領の終結はかならずしも国連での承認と合致するとは言いにくい側面がある。従って、その実体的な側面に踏み込んだ検討を付け加える必要があると考えられる。

このような視点からすれば、米軍による日韓における占領管理体制は、米国の極東における軍事戦略の変化と結び付けられ以下のように三つに分けることができよう。すなわち、

その第一期(一九四五年−一九四七年二月)は、占領管理体制が形成される時期である。日本と南朝鮮では国際的な取極めが欠落したまま米軍による占領が開始されたが、モスクワ三相会議によって一応国際的取極めが成立し、それにに制約されながらも日本と南朝鮮で占領体制が形成される時期がそうである。この時期日本では日本国憲法が制定されるが、南朝鮮では植民地官僚体制が利用されながら自主的な建国運動がつよく抑えていた。

第二期(一九四七年三月から一九四八年一二月)は占領管理体制が反共産主義へ展開する時期である。この時期南朝鮮では分断政権(韓国)が樹立し、そして、アメリカでは日本に対する再軍備論が台頭する。

第三期(一九四九年から一九五四年)は、中国における社会主義革命を一つの契機とし朝鮮戦争で促進されながら、占領管理体制が軍事的に再編成される時期である。この間、日本では日米安保条約が締結され、自衛隊も発足する。朝鮮でもアメリカとの相互防衛条約が結ばれる。

以上のような時期区分に基づいて本論文は構成される。

三 本論

第一部 占領管理体制の形成期

連合国の軍隊による占領という言葉で象徴される日本と韓国(南朝鮮)の戦後はポツダム宣言の受諾から始まる。ところが、ポツダム宣言の受諾といっても、この宣言を受けとめるそれぞれの当事者にとって、この宣言は相異なる意味合いを含むものであった。日本にとっては、このポツダム宣言の受諾は、軍国主義日本の敗戦を意味するばかりか天皇制の存命が問われる出来事であった。日本が天皇制の維持を条件としてポツダム宣言受諾の交渉を行ったのはこの所以である。

だが、植民地朝鮮にとって、ポツダム宣言は朝鮮の独立を意味するものであった。そして連合国にとっては、侵略戦争を起こした国日本が再び戦争を起こさないように武装を解除し、これらの国の在り方を新しく作りあげる契機を意味した。このような意味で第二次世界大戦後の占領は単なる軍事的な占領に止まらず、経済・社会・文化を含む国家の在り方そのものの根本的な変更をもたらすものであり、そのような意味で占領管理体制と言えるものであった。

日本においての占領が、武装解除を合言葉としてスタートしたのはこのためであった。そして、モスクワ三相会談によって設置された極東委員会による日本占領に対する国際的な諸取極めはそれをより明確に示していた。そして、このような武装解除は日本の占領を直接行ったアメリカにとってももっとも重要な課題の一つであったと考えられる。

ところが、アメリカにとっては、もう一つの重大な課題があった。それは新しく作られる日本の占領管理体制がアメリカ流の体制であることであった。そのためにはアメリカ以外の意思が働く極東委員会がその本来の活動を始める前に日本における占領管理体制を作り上げておく必要があった。アメリカの軍事戦略の上では、軍事占領によって新しく作りあげられる体制は軍国主義から脱皮するものであると同時に第二次世界大戦を通じて強大国として名乗りつつ、勢いを増しているソ連に対する、そして「ソ連による共産主義の輸出」を阻止するための体制でなければならなかった。

そのためか、日本に進駐早々、日本政府に対して、マッカーサーは憲法改正について検討を求めていた。しかし、松本烝治国務大臣の率いる憲法問題調査委員会の作業は思うようには進まず、いわゆる甲案・乙案なる日本側の草案ができたのは一九四六年の正月であった。ところが、それは占領軍側が同意することができる線からははるかに離れたところにあるものであった。

だが、日本側も状況認識は必ずしも一枚岩ではなかった。その中には、連合国の取極めに従う占領管理体制の進展が天皇制の廃止まで及ぶことを恐れる人々もいた。戦争は天皇の名で行われ、天皇によって中止されたため、極東委員会を始めとする国際世論は戦争を起こした張本人としての天皇の処罰を強く要求していたからであった。そのような情勢をもっとも深刻に懸念していたのは、他ならぬ首相である幣原と天皇であった。

その幣原の率いる日本政府を通じて占領統治を行っていたマッカーサーは、第二次世界大戦に対して二つの思いがあった。その一つは日本軍の主力部隊が位置していたサイパン、硫黄島および沖縄における日本軍の徹底抗戦とそれを支えたと思われる天皇の存在である。本土決戦を控えたマッカーサーにとって天皇問題は研究課題の一つであった。もう一つは、第二次世界大戦の勝敗を左右したのが空軍力と、それを中核とする新しい極東戦略構想である。彼にとって、アメリカの戦略上の境界線はもはやアメリカの西海岸には存在せず、アジア大陸の東海岸に位置していた。そこで、マッカーサーにとっては、沖縄を保持できれば日本本土を非武装化することはそう難しい決断ではなかった。

上のような三つの要素すなわち、天皇制を戦犯として処罰することを主張する国際世論、幣原のマッカーサー訪問およびマッカーサー自身の非武装策と軍事戦略は、偶然ではあったが、日本国憲法の第九条を始めとする非武装平和主義に明文化された。そして、それらは天皇制を廃止せず、象徴天皇制として残す結末をみせた。

ところが、脱軍国主義への処方箋は非武装化のみを含めるものではなかった。革新勢力を始めとする日本の国民は民主主義日本の建設こそ日本を軍国主義から脱皮させる策であると診断していたのである。

このような処方箋が日本の体質を改善せねばならないとの思いを込めていたとすれば、それと同じ処方箋をもっていた人々がいた。それは外ならぬ日本国憲法の元になったマッカーサー草案の作成に直接関与したアメリカの軍政要員たちであった。アメリカでニューディルの洗礼を受けた彼らにとっては、日本に大衆社会を建設することが重要であった。しかし、より多くの人は市民社会の建設こそが日本の軍国主義を予防する最善策と考えていた。  一方、南朝鮮では、非軍事化を合い言葉として出発した日本の占領体制の形成の経緯と対照的な様相を呈していた。

ポツダム宣言の受諾を「解放」として受けとめた南朝鮮の国民は、すぐにも新しい秩序と国作りに着手していた。その過程で軍事力は二つの意味をもって重んじられた。一つは、混乱を予防し新しい秩序を作り上げるためにの自らの治安維持のための物理力として軍事力であった。もう一つは、侵略されたがために自分の国を守るための物理力としての軍事力であった。南朝鮮の米軍政府に登録された軍事団体が三〇にも及んだのは右のような南朝鮮の情勢を示しているといえる。

これらの動きは一五年にも及ぶ長い戦争に厭きれていた日本の民衆とは対照的であった。日本の場合は、形式的には天皇の命令によって武装解除が始まったとは言うものの、多くの民衆の心のすみずみまで染み込まれていた厭戦感情によって武装解除はすんなりと進んでいた。比較的精鋭の部隊が配置されていたフィリピンとビルマを除いて、ゲリラとして戦いつづけた兵士は少なかった。なお、連合軍の進駐の前に勝手に解散する部隊も多かったことは日本の民衆に広まっていた戦争に対する即自的な想い(反戦平和主義)を示すものであったといえよう。

他方、ポツダム宣言受諾後の南朝鮮の情勢は目まぐるしい変化を見せていた。特に、国内では、六万人に及ぶ隊員を保持していたと言われる朝鮮国軍準備隊に指導力を発揮していた建国準備委員会を始めとする南朝鮮の革新勢力は、早くも新しい国家建設に乗りだしていた。建国準備委員会は九月六日には全国人民代表者会議を開き、民主主義的政府を即時樹立することを決議した。そして「朝鮮人民共和国」臨時組織法案を決議した。それにより、「主権は人民にある」こと、国号を「朝鮮人民共和国」にすること、その国家は「日本帝国主義に野合した親日派と民族反逆者を除外し、勤労人民の利益を中心とする全民族的幸福のための真の民主主義国家」であることが宣言された。そして、二年以内に新しい憲法に基づいて全国人民代表者大会の開催も予定した。それは一九四五年八月末まですでに南朝鮮の各地で建設されていた建国準備委員会を基盤としていた。

ところが、それは南朝鮮占領の担当者であるアメリカの占領政策とは全く噛み合わないものであった。アメリカ軍の南朝鮮占領の第一声である「布告第一号」は、占領以前の南朝鮮の民衆による「事実的な支配」(de facto contol)を全面的に否認することを意味した。そして軍政法令二八号は民衆による軍事部隊の解散を宣言した。ところが、軍政法令第二八号は右のような消極的な措置に止まるものではなかった。「朝鮮の国防計画」は「警察力を支援するための軍隊を発展させていくこと」を勧告した上、陸軍・空軍は四万五千人、海軍・海岸警備隊は五千人にすること」を提案するなどかなり具体的軍備スケジュールを立てていた。モスクワ三相会談における朝鮮問題に関する国際的取極めなどを意識したアメリカ本国が、これらの計画を時期尚早であると判断し、計画の実施の延期を求めた。だが、それは積極的な阻止はなかったため、米軍政庁は「国防部」という名称を「警務部」に変更したものの、国防計画をさらに進めていった。また、幹部要請のための軍事英語学校が開校され、兵士養成のために、「朝鮮警備隊訓練所」(Korean Constabulary Traing Center)などが設置された。そして、「朝鮮の国防計画」からはじまった武装計画は「朝鮮国防警備隊」(Korean Constabulary)として着々と進んでいった。

「布告第一号」で示された南朝鮮民衆による事実上の支配を否認するためには、それに匹敵する組織が必要とされた。それは、日本帝国主義が植民地統治のため立てていた植民地統治体制を再編しつつ、政治的な活動を厳しく取り締まることによってのみ達成されることであったと思われる。「政党登録法」、「米軍政府に反対した行為に関する処罰法」、「新聞およびその他の定期刊行物の許可に関する法令」等は南朝鮮における政治的活動を禁圧する法令であった。

ところが、手厳しい取締りのみでは正統性のある南朝鮮の占領管理体制を創出するが難しいことが米軍政府自身がより切実に感じられていた。そこで、米軍政府が、海外で独立活動を続けていた「大韓民国臨時政府」という運動団体のメンバーを個別的に取り入れることによって南朝鮮における占領管理体制のアメリカ流の形成を図った。日本のような間接的占領統治を想定した政務委員会構想のパートナーとして考えられたのは金九および李承晩であった。そして、司法局長であったウッドオールはこのような間接的占領統治のための案としていわゆる“The Constitution  of Korea”を作成したといわれる。しかし、モスクワ三相会談によって決められた信託統治を通じた朝鮮の独立案が発表されると、信託統治の反対に一生懸命であった金九は、時によっては米軍政府を脅かす行動までとることもあった。特に、金九を中心とした「大韓民国臨時政府」の信託統治運動は、米軍政府の予想をはるかに越えて激化し、米軍政府を打倒する運動としての様相を呈していた。金九らによるクーデター的な信託統治反対運動は米軍に簡単に抑えられたが、金九の米軍政府に対する政治的イメージは大きな打撃を受けたといえる。

金九が南北朝鮮による統一政府の即時樹立を主張したのに対して、李承晩は早くから南朝鮮による単独政府の樹立を主張し続けていた。ところが、そのような主張は米ソ共同委員会を控えた米国の国際舞台における政治的威信を損なうばかりであった。

このような南朝鮮における政治的な状況を打開するための策として打ち出されたのが「左右合作」である。左右合作運動は南朝鮮の国内勢力にもある程度反響を及ぼした。その結果組織されたのが「南朝鮮過渡立法議院」であった。「南朝鮮過渡立法議院」は、米軍による占領統治を協賛する組織であった。その活動は当初の左右合作のスローガンにも関わらず左翼に対する厳しい弾圧の中でおこなわれたため、その組織内は地主を基盤とする韓国民主党が多数を占めた。

この時期、北朝鮮ではすでに土地の改革を始めとする戦後処理が行われ始めていたが、これに危機感を感じた韓国民主党の徐相日等は「南朝鮮過渡約憲」を提出し、地主中心の既成の秩序を固めようとした。ところが、三六年に及ぶ日本の植民地統治に苦しめられた多くの国民はそれとは異なる体制を念願していた。「ー委員会」等を中心とする数少ない左翼勢力はこのような民衆の念願を込めた憲法案を提出した。結局、「朝鮮臨時約憲法」は米軍の反対によって挫折したが、その後の憲法の制定過程に大きな影響を及ぼすことになったといえよう。

第二部 占領管理体制の展開期

日本と朝鮮のアメリカ軍による占領は一九四六年に入ると、ある程度の形を作ることになる。日本においては憲法を制定すること契機に新しい体制の目処が立ったが、南朝鮮においては、民衆運動の禁圧と植民地管理体制の再編によってそれが可能であったといえる。

ところが、右のような占領管理体制の形成過程はもう一つの側面を伴うものであった。日本では新しい憲法の制定を契機とする民主主義の意気込みは多くの民衆運動を目覚ます役割も行うものであった。そして、一〇月闘争を始めとする二・一ストへの過程においては労働運動を始めとする民衆運動の高揚は目まぐるしいところがあった。GHQが二・一ストを中止したのは占領軍としてのアメリカ軍を再び自覚させる事件ともいえるものであった。

南朝鮮においても、一九四六年の過半期は新しい民衆運動の高揚期であった。アメリカ軍が占領管理体制を形成するために禁圧した民衆運動が戦列を整え、新しい闘争として出てきたからである。全国労働組合全国評議会(全評)によるゼネストと一〇月に大邱(テグ)を始めとする全国的な抗争は米軍政府に危機意識を与えるには充分すぎるところがあり、その背後にソ連があるとの被害妄想はより根深くなりつつあった。

このような情勢の変化は極東アジアのみのものではなく、世界的な様相を呈していた。旧秩序の崩壊と戦後の混乱に直面してアメリカ政府はまず、「経済的安定と秩序ある政治過程」を支持し、「混乱と急進主義」の拡大阻止が不可欠であると判断していた。その中で、アメリカ政府はヨーロッパの危機をより重視していたが、アジア情勢も欧州に劣らず深刻だとの認識も持っていた。米ソ対立における極東アジアの持つ重要性は、その人口・資源の規模からみて、「世界的な闘争において、決定的原因となる」かもしれないとみていた。アメリカ政府の危機意識が強まっていたのは、戦争と植民地主義との闘争によってこの地域の経済が破壊され、それが「共産主義の宣伝の恰好の土壌」を提供していたためであったといえる。

そして、トルーマン政権下ですすめられてきた冷戦政策は、一九四七年に入って新たな展開期をむかえる。政策的には、一九四七年三月にトルーマン・ドクトリンが発表され、これに沿って、アメリカ政府はギリシャ、トルコに対する軍事援助、アメリカ軍事顧問団の派遣を議会に要請した。これによりアメリカは、財政負担の重荷のため援助を放棄したイギリスに代わり、初めて公然とソ連との対決に乗り出すことになった。のみならず、それは国連内における紛争の処理にとどまらず、国連外の軍事経済的同盟によるソ連との対決方針への最初の第一歩ともいえるものであった。引き続き、六月にはマーシャル・プラン構想が発表され、約二〇億ドルにのぼる戦後経済復興援助による西欧資本主義の強化、その再軍備推進のための経済的基盤の整備が図られた。さらに、後の経済復興を前提とした再軍備ではなく、アメリカの武器援助による直接的な反共軍事体制の強化が積極的に推進されることになる。そこでアメリカの世界戦略は新しき展開期を迎えることになった。一方ではファシズムと軍国主義を抑え込みつつ、共産主義を警戒してきたが、今度は共産主義を封じ込めつつ軍国主義を警戒する政策への展開が見られたのである。

しかも、中国における共産主義が躍進することになると日本はもはや反共産主義の要として急浮上をした。それは、「前庭」としての南朝鮮の朝鮮の政治的・軍事的位置づけを改める意味ももっていた。そしてもはや、朝鮮の独立の問題は米ソ共同委員会を離れ、国連で議論されることになった。そして、民衆の反対を押し切って南朝鮮のみの反共産主義政権が樹立され、新しい憲法も制定された。その憲法は脱植民地のための民衆の広範な改革思想を背負うものであった。南朝鮮過渡立法議院で採択されたが米軍政府によって否認された「朝鮮臨時約憲」の経済条項などは、その後の憲法草案にも大きな影響を与えたと考えられる。国会の「憲法および政府組織法起草委員会」が提出した憲法草案が近代的な市場経済の原理とは異なる国家の主導による経済民主化に力点をおいたのはこのためであった。

ところが、このような経済民主化に力点をおいた憲法条項も、通常の膨大な権力と有事の際の緊急権を両手に握りしめた大統領の意思に左右される形骸化された「民主主義」にすぎなかった。つまりそれは、民主主義ではなく大統領による専制を意味していた。権力を集中させるために、「議院内閣制は非民主的である」と主張する李承晩に対抗して、議院の多数を占める韓国民主党では議院内閣制を貫徹するよう努力したが、大勢を変えることはできなかった。明治憲法やプロイセン憲法を真似た大統領への権力集中は米軍政庁の利益と必ずしも反するものではなかった。南朝鮮における新しい政権、すなわち韓国政府の樹立は軍事力の強化を前提にするものであったため、先の見えない朝鮮半島の情勢からみても集中された権力の方がコントロールしやすい側面をもっていたからである。

反共産主義を前提として体制固めは、国軍の創設過程でも現れる。「警察予備隊」(Constabulary)は予定通り国軍に再編された。このような国軍の編成過程における共産主義教育はアメリカの予想を越えるところがあった。そこにはいくつかの理由があった。その第一の理由は、その国軍の担い手は旧日本軍出身であって、彼らにとって、自分達を「反民族行為者として処罰する」ことを主張する共産主義者は身の安全を脅かす存在であったことにあり、第二の理由は、憲法制定過程を契機に起きていた麗水・順天の民衆抗争は共産主義の脅威を切実に感じさせる事件であったことであった。

麗水・順天の民衆抗争を契機に韓国政府は政党を含む政治的活動に厳しい制限を加える道に乗り出す。国家保安法は政府の活動の反対する政治活動、特に左翼の活動を取り締まる効果を狙うものであった。しかし、それは政治的な活動を萎縮させる法律にすぎず、新しい憲法を反共産主義的なものに駆り立てるものであった。

他方、日本においても国内の労働運動の盛り上がりを背景に、脱軍国主義のための諸改革措置が鈍くなり始まる。それは非軍事化の後退を意味し、占領側の一角では再軍備論が台頭した。特に一九四七年秋に、中国への積極的な援助が内戦への不介入=現状維持政策に転換すると、戦後のアジア構想のなかでも日本が注目を集めることになり、日本の再軍備に関する議論が本格的化した。

このような流れを見きわめた日本側も事態を座視してはいなかった。なんらかの形での日本軍の復活ということが連合国人の社交の席で「同情的」に語られていたが、このことは日本側にも十分伝わっていた。それゆえ、一九四七年初めに日本の外務省が日本の常備軍一〇万と小兵力の空軍保持が許される見込みがあるかについて、非公式的に連合国側代表に意見を叩いたのは偶然とはいえないであろう。

しかし、再軍備のための憲法改正は天皇制の存廃問題が再び浮かび上がる恐れがあった。天皇を戦犯として裁くことを要求していた極東委員会の諸国は、日本国憲法の成立に当たってはアメリカに先手を取られてしまったが、日本国憲法の成立後にも戦争責任の追求を続けていた。しかも、一九四六年一〇月一七日には、オーストラリア、ニュージーランドの提案により極東委員会は日本国憲法の再検討を決定していた。そのためか、天皇側は一九四七年の九月の段階で、米軍に軍事基地(沖縄)を提供することによって、国内における民衆運動の高揚に対処すると同時に軍備問題等に突破口を開こうとした。 

ところが、日本の軍備を確立するには難問が横たわっていた。「再軍備を実施するためには、日本人自身による自らの憲法の修正と共に、われわれ(アメリカ)自身がポツダム宣言を廃棄する必要が生じる」と、そして「日本再軍備に対する極東委員会の制限政策を修正するためには、アメリカが一方的にポツダム宣言を廃止し、それに続いて日本の非軍事化、非武装化に関する規定的制限の撤廃する必要」が生ずると「小規模防衛軍の早期創設案」は記していた。さらには「極東委員会の他の一〇ヶ国と共同のもとに米国によって定式化された現行の占領政策の変更は、単にソ連の強い反対を招くのみならず、極東に位置している国々の反発を呼ぶ」ことが予想された。

アメリカとしても、日本占領によって、日本の戦争遂行能力が著しく減少したとはいえ、日本の潜在的な軍事力は一抹の不安を残すものであった。「現在、日本には本土防衛の兵役にただちに召集可能な軍隊経験のあるものが一〇〇万の人的蓄えがあった。年ごとに数が減ってきており、訓練状態も劣化しつつあるが、それでも今後一〇年間に一〇〇万人を下ることはない」はずであったからである。歴史的経験、すなわち、第一次大戦後のドイツの経験に照らし合わせれば、もし日本が最終的に軍備を保持することになるということになれば、そこで肝要なことは、日本がそれを侵略的目的に使用しないということであった。

しかし、このような難問を越えていく道は全くないわけではなかった。それは「小規模防衛軍の早期創設案」であった。それは、「軽武装で、米陸軍によって組織され、初歩訓練され、その厳しい監督の下にある小規模の日本人軍部隊の創設によって日本を再軍備することは、日本の軍国主義分子の再出現を阻止し、日本の侵略が再び起きるのではないかという他の平和的西側諸国の不安を和らげる」ものであった。しかも、「小規模で軽武装の、二、三〇万程度の日本の軍隊であれば米国軍の装備で武装しうるし、それ自体、いかなる近隣諸国の脅威にもならないであろうと」陸軍省は予測した。なお、その程度の軍隊であれば「一八〇日から二七〇日以内に、米軍は、歩兵隊用兵器と、そのための弾薬、および軽備の輸送、通信設備を提供しうる」ところであった。

しかし、依然として気になるのは日本国憲法であった。「軍隊を適法化するためには、日本国憲法一一章九六条の規定に従って、国会での手続きや国民の承認による新憲法の改正が必要とされる」はずだった。「憲法では自衛力の保持を禁止しいないと主張することもできるが、しかし、その前文やこれまで発せられた占領軍の指令では、憲法の意図するものは、無条件で戦争を放棄することであり、また軍備を禁止し、日本の安全を世界の平和友好諸国民の審議に訪ねることを明確にしていた」。

このような意味で、「日本の警察軍(Constabulary)以上のレベルの軍事組織を作ることは憲法が違法としている、と解釈することは、まさに正当であり、またそのように解釈することは、長期間に渡って米国の政治的な立場を日本人との関係において最良の状態に確保することにつながる」ものであった。そこで、アメリカ側は、当分は「元来、国内の法と秩序の維持のために設立された」警察力を強化し、「その警察軍(Constabulary)は、将来の日本の軍事組織創設への媒体」とすべきであると提案した。

そのような再軍備の必要性が台頭したとはいえ、日本の軍国主義化に対する警戒心そして憲法などの存在のため、すんなりとは進展しなかった。

第三部 占領管理体制の再編期

トルーマン政権にとって、一九四九年のアジア情勢は実に憂慮すべき状況を呈しつつあった。なかでも、中国の社会主義革命の進展はアメリカのアジア政策の全般的見直しを迫るものであった。一九四九年五月、アチソン長官は「極東全体が中国における共産主義の衝撃を感じている」との認識を示した。そうした状況の下で、一九四九年六月一〇日、国防総省が国家安全保障会議(NSC)に対して、アジア政策の全般的見直しを要請してきたのを契機に、その包括的な再検討が進められた。その結果、同年一二月二三日に「アジアに関する米国の立場」(NSC四八/一)と題する報告書がまとめられ、同三〇日、若干の修正の後、それは大統領の承認を得た(NSC四八/二)。NSC四八が小軍拡を促すものであったとすれば、その後作られたNSC六八は大軍拡を目標とするものであった。いずれにせよ、これらの文書は軍事援助を通じて、ソ連「封じ込め」のための統合をアジアと欧州で促進しようとするものであったといえる。 

なかでも、最大の関心を集めたのは、日本であった。アチソンは九月九日、「極東におけるわが国の政策上の諸問題が、目下、われわれの思考の大半を占めており」、「極東全域におけるわが国の行動と目的の徹底的再検討」が行われていることを指摘し、なかでも、「われわれの思考を集中させてきた」のは、いかにして「米国の利益と強固に結びついた日本」を実現させるかである、と述べている。

ところが、日本による戦略からの安全保障に対するアジア諸国からの反対も避けて通ることの難しい問題の一つであった。一九四九年四月四日、欧州でNATOが成立すると、これに刺激されて、フィリピンのキリノ(Elpido Quirino)大統領と中国の蒋介石、韓国の李承晩(Lee Sung Man)を中心として、アジアの諸国は、すでに「太平洋協定」(Pacific Pact)構想をワシントンに働きかけていた。

このような働きかけの背景には国々の複雑な事情が長い影を落としていたが、一九四七年頃から日本を極東アジア戦略における要として考えていたアメリカ政府としては、日本以外の国すなわちフィリピン、韓国、オーストラリアが中心になるアジア版NATOは考えられないものであった。しかも、太平洋の諸国がはたしてこのような協定による体制を作り、それを維持するかも疑問であった。そして、万が一韓国、フィリピン、ニュージーランドそしてオーストラリアが日本までを取り囲む太平洋地域の同盟体制を作ることができるとしても、アジアのその他の国が取り残されたとの認識を持つことになることはもっと避けたい事態であった。その結果、アチソン国務長官は「太平洋協定」構想と別途のアジア地域における集団的安全保障の取極めの可能性を模索した。その検討に当たったのはラスク極東担当国務次官補とハワード(John B. Howard)であった。

ハワード構想は、占領体制から解放された「日本の安全をどう確保するか」という観点だけでなく、「日本からアジアの安全をどう確保するか」という観点も同時に満たす狙いを持っていた。すなわち、日本の再軍備とも関連してくることだが、同構想は、平和条約に非武装規定が盛り込まれるのを阻止するという狙いと、日本の将来の侵略を恐れる国々に米国がこの点に関する保障をするということがセットになっていたといえるものである。

同構想は、将来の戦争では日本の軍事的中立はありえないだろうから、将来において限定的性格の再軍備が必要となるだろうと見ていた。そして、集団的安全保障体制へ日本を編入させることによって日本の再軍備を実現ししょうとする計画が検討されたのである。このような事実からすれば、後の日米安保条約における「極東条項」なり、韓米相互防衛条約の「太平洋条項」などは、右のような地域的安全保障体制作りとは無縁ではないといえよう。

それはともかく、中国の社会主義革命に直面したアメリカの憂慮は韓国に対しても例外ではなかった。韓国の重要性をめぐっては、アメリカ政府内において、国務省と統合参謀本部(JCS)との間で評価の仕方が違っていた。統合参謀本部(JCS)は、韓国の軍事的評価はさほど重要ではないとの立場から、在韓米軍の早期撤収を主張していた。これに対して、国務省は朝鮮半島が米ソ対立によって南北に分断されている状況のもとでの韓国の政治的・イデオロギー的価値を重視していた。一九四七年三月一二日のトルーマン・ドクトリンの発表によって米ソ対立が宣言され、しかもその対決が「全体主義」対「自由主義」の対立として描かれたことによって、欧州における対ソ封じ込めとアジアにおける対ソ封じ込めとの間に明確な一線を画することが困難となった。このため、統合参謀本部(JCS)といえども、韓国が「ほぼ二年近くイデオロギー戦争を遂行してきた国」として、その政治的価値を無視することはできなかった。太平洋地域におけるアメリカの防衛公約なかでアメリカの援助を受けるべき国は韓国、中国、日本であった。このような地域で共産主義に敗北することはアメリカの威信と安全保障に深刻な打撃を与えることは明かであった。

一九四八年四月二日の国家安全保障会議(NSC)での検討を経て、四月八日に大統領の承認を得た「朝鮮に関する米国の立場」(NSC八)は、そうした両省間の意見の違いを反映した妥協の産物であった。すなわち、米軍の早期撤収を望ましいとしながらも、撤退の悪影響を最小限にとどめるために、軍事・経済援助によって撤退のための条件整備をするというものであった*。「アメリカは韓国の政府に対する政治的支持そして経済、技術、軍事およびその他の援助を引き継き与えるべきである」と、この文書が明らかにしたのはこの所以であった。そこで、韓国には従来の「経済援助法」(Economic Cooporation Act:ECA)による援助と「相互防衛援助計画」(Mutual Defense Assistance Program:MDAP)の適用が促された。

米軍の撤退に伴って韓国政府は正規兵力の増強と予備兵力の確保を急いだ。まず、正規軍の韓国軍には一九四九年六月には、一二個連隊、八個師団、それに、首都警備師団に機甲連隊(M一八戦車隊)が増設された。そして、一九四九年一月二〇日からは、緊急大統領令で「護国軍兵役に関する臨時措置令」が実施されることになった。護国軍は戦闘部隊と特殊部隊から構成され、有事の際には正規軍に編入されるように定められていた(第四条)。ところが、護国軍を編成しても、正規軍の急増には限界があった。すなわち、兵役制度を抜本的に処置せずには軍の急増は上手く進まなかったのである。そこで、一九四九年八月六日、兵役法が実施された。徴兵制を骨とするこの法律は兵役制度の根本的な変化をもたらすものであった。なぜならば、韓国国軍が創設されていたとしても従来は志願兵制度を採択していたからであり、そのような兵役制度の下で軍人を増強させることには限界が明確であったからである。

一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争を南北に分断する三八度線での軍事衝突にさいし、北朝鮮側が「南朝鮮の全面解放」による朝鮮統一の名目で軍事行動を押し進め、朝鮮において全面的な内戦状態が生じた。開戦当初は南朝鮮の不意をついた北朝鮮側が優勢で、東南端の一角を除いた半島全域を占領下においた。この内戦は、六月二五日、二七日(朝鮮の日付は二六、二八日)の国連の安全保障理事会で取り上げられ、アメリカ軍を中心とする「国連軍」派遣によって国際的な紛争となり、今日にいたる朝鮮の南北分断を固定化する契機になった。アメリカは米軍六〇万、韓国軍延べ二〇〇万を動員し、かつ国連にはたらきかけて一五ヶ国の「同盟国」軍隊を米軍司令官の指揮下に統合する「国連軍」として編制、大規模な作戦を展開した。米軍は原爆の使用まで計画したが、北朝鮮軍の抵抗と中国軍の参戦にあい、戦況は二転三転し、ほぼ三八度線上で膠着した。一九五三年七月二七日には休戦協定が調印された。この戦争は南北朝鮮をあわせて一二六万人におよぶ死者を出し、軍隊とともに民間人の人的物的被害は甚大であった。占領下にあった日本は、全土を米軍の前線基地として利用される一方、米軍の軍事物資調達のための「特殊景気」で経済は活性化された。

朝鮮戦争の勃発は、日本国内での世論の安全保障意識にもインパクトを与え、日本再軍備に有利に働いた。シーボルトは、一九五〇年六月二七日、朝鮮戦争は全面講和を唱える「共産主義路線」が危険であることを日本に立証した、と考えた。朝鮮戦争後には、日本国内でも米軍の駐留の継続を認める態度が以前より公然となっていた。

朝鮮戦争は日本における安全保障論議に大きな影響を与えただけではなく、アメリカ政府内に米国の安全保障にとって日本の重要性をさらに確信させることになり、その結果日本の再軍備の必要性も一層緊急性を帯びてきた。ダレスは、この戦争によって、ドイツと日本の重要性はさらに高まったと考えた。というのも、ソ連がドイツの日本を獲得すべく努力してくると予想したからである。朝鮮戦争は、日本に関していえば、「そのような努力の始まり」かもしれなかった。

日本国憲法によって陸軍を創設することは禁ぜられていると知っていたマッカーサー司令官も積極的な姿勢で取り組んだ。彼が再軍備のために引き出したのはポツダム宣言であった。連合国はポツダム宣言で、日本を武装解除するが、例外的に日本が法と秩序を保持するために必要であれば、最大限二〇万人の警察力をもつことを許していたと彼は解いていた。これを根拠にマッカーサー司令官は一九五〇年七月八日、書簡を吉田首相に送り、「七万五千人の警察予備隊を設立する」ことを日本政府に命じた。これはあくまでも警察官であって、決して陸海空軍の軍人であってはならなかった。

ところで、この耳慣れない“Constabulary”とは、ほぼ同時期に米軍占領下にあった南朝鮮の実例に見られるもので、米軍のアジア占領統治に独特の用語であり、準軍事組織を意味した。その共通点は、米軍が現地人を徴用し、ライフル、カービン銃等の軽火器で武装・訓練して占領治安維持力を補完すると同時に、戦時には兵站、基地警護などに動員される一種の歩兵部隊である点にある。いずれも後に陸軍建設の際、その中核人員として編入されていたという事実である。しかも、そのような「警察予備隊」(Constabulary)の組織・装備・訓練・配備などを指導する軍人にとってもそれは単なる警察の予備隊であるとの認識はすでに薄くなっていた。

しかし、ダレス自身もよく認識していたように、「現時点では、極東委員会の現行の政策決定からして、日本警察を準軍事的なものに変えたり、沿岸警備船舶を武装化することは不可能で」あった。しかも、「現時点において日本政府による再軍備は、かつての日本による侵略の犠牲者から激しく、かつ当然の反発を招くだけでなく、まさに日本人自身による反対をも招来することになる」恐れがあった。したがって、とりあえず「このような同委員会の決定が講和条約、あるいは何らかの理由で、その効力を失った時」こそ、「右に揚げた準軍事力を伴った警察力を保持・発展させることが可能に」なることであった。したがって、日本を再軍備を保持させるためには、講和条約、あるいはそれに先立つ予備的な和解協定の成りゆきを待って為されるのが最良といえた。国務省は日本の自衛権を否定するような軍備禁止条項を条約に含むべきではないとの、これまでの立場を確認し、これをまとめてNSC六〇/一として作成した。

ところが、このNSC六〇/一は右のような総論的な原則のみが組み込まれたわけではなかった。このNSC六〇/一は講和後の米軍駐留についても詳しく触れていた。すなわち、米軍の日本本土駐留権に関する取極めとしては、二国間協定(agreement)を締結するとされていた。但し、それは日本の安全保障に関する多国間の共同保障方式がこの時点ですでに否定されていたということを意味することではなく、むしろ集団安全保障方式に移行する可能性を残すための狙いであった*。ダレスの「対日講和七原則」は右のような議論をまとめたものであったといえる。

アジア諸国の反対を克服する方法としては、アリソンは次のような注目すべき提言を行っている。すなわち、日本再軍備に関する協定は「できるだけ国連憲章の条項を使って表現されるべき」こと、そしてニュージーランド、オーストラリア、フィリピンと締結する可能性のある「相互防衛協定」に日本を参加させるべきことである。この協定は、共産主義の侵略から日本を防衛し、かつ日本が他の構成国に対し脅威とならないことを保障するという「二重の目的」を持つものとされた。このことは、日本の再軍備が地域的集団安全保障の枠組で実現する可能性を示唆したものといえよう。

そのような点は、一九五二年九月八日に締結された日米安保条約の前文で確認された。すなわち、日本の個別的・集団的な自衛権を認めるべきであるが、日本が攻撃的な脅威となることはさけるべきであると記されたのである。憲法上の制約から日本の急速な再軍備と地域的な安全保障への参加は当面困難であるが、憲法を迂回する方途として模索された、日米安保条約では右のように個別的な自衛権と集団的自衛権を承認したが、それにもかかわらず、米韓相互防衛条約等と比べるといくつかの特徴が見られる。第一に、日米安保条約は攻撃される対象を「日本の区域」に限定することを前提にしていた。米韓相互防衛条約と北大西洋条約とかが、いずれかの國の領域に対する外部からの攻撃を前提としていたこととは対照的であった。しかも、外部からの攻撃に対して作戦を行う主体が、条約締結国のいずれかではなく、あくまでもアメリカがであることであった。これらの右の特徴の背景には二つの側面が横たわっていると考えられる。すなわち、日本国憲法の改正が実現できず、警察予備隊が創設されたとはいえまだ本格的な軍隊をもっていなかったという側面と日本国からの行動に対する他のアジア諸国の警戒心を和らげることをねらいとしている側面があるといえるであろう。だが、これはかならずしも、日本が自国に全く関係ない、また自ら求めたのでもない、アメリカその他の国家との戦争の交戦区域にならないことを意味するわけではなかった。その行動の主体がアメリカであることからもわかるように、日本国がアメリカと他の国家との戦争の交戦区域になったら、日本はいやでもそれに巻き込まざるを得ない地位に立たされていたのである。

これに続いて、第一条の中のいわゆる「内乱条項」は日米安保条約をもっとも浮き彫りにするものであった。すなわち、日米安保条約は外部からの攻撃に対する反撃のみならず、「日本国における大規模の内乱および騒擾」にもアメリカ軍が出動することを規定している。しかも、日米安保条約は、米国が日本の防衛力の漸増を期待する関係として位置づけているところからもわかるように、「暫定措置」であることにも注目をしなければならない 。安保条約の前文は、アメリカが日本防衛の「暫定措置」として日本に駐留することを明記している。これは、安保条約をテコとし日本再軍備を進め、将来アメリカとの相互援助の方向にもっていく意図を示したものである。

それに比べると、米韓相互防衛条約は共同作戦の範囲を韓国国内に限定していないものであった。しかも共同作戦を規定している。だが、米韓相互防衛条約が軍事条約としての側面を色濃く帯びているとはいえ、ここにも二つの重大な留保が含まれていた。第一に、日米安保条約が自動的な軍事介入を規定しているのに対して、原則の上では軍事介入を慎むことを定めている。それは韓国自身による先制攻撃や武力統一の試みは米国の支援の対象から除外される意味を含んでいた。第二に、日米安保条約が即時的な介入を定めたこととは違って、米国がどのような形で対応するかは憲法に定めた手続によるものとされ、議会の承認を含め米国の将来の判断の余地が残された。

ところが、このようなそれぞれの特徴にもかかわらず、日米安保条約と米韓相互防衛条約は米国との軍事条約として側面を共通にもつものである。第一に、両条約は米軍の駐留を許与した軍事条約である。特に、日米安保条約の場合はすでに締結された講和条約の第六条で、同条約の実施後九〇日以内に占領が終了することを定めていた。だが、同条約の発効のときに、すでに日本にいる連合国軍隊(主に米軍)を安全保障の取極めに基づく軍隊に充当することができることも、この条文には付け加えられていた。この条文は、実はこの米軍を継続して駐屯させることを狙いとする規定であった。

しかも、両条約は米国の極東または太平洋地域における軍事的利益と密接に結びついている。米韓相互防衛条約は韓国と米国の二ヶ国間の軍事条約にもかかわらず、条約では防衛の対象地域を朝鮮半島の南とアメリカに限定するものではなく、それは太平洋地域を対象にする条約であった。その前文では「太平洋地域における一層の包括的かつ効果的な地域的な安全保障組織が発達するまで」「集団的防衛についての努力を強化することを希望」した上で、「締約国のいずれか一方が太平洋地域において」「外部からの武力攻撃に対して自らを防衛する共同の決意」が示されていた。このような文言は日米安全保障条約にも見られるものである。日米安保条約第一条は、駐留する米軍の任務が「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」することと直接・間接の侵略に対して日本の安全に寄与することの二つにあると規定している。しかし、何が「極東」であり、何が「極東における国際平和と安全」であるかは、アメリカの一方的な解釈で決められることであり、駐留部隊が「極東」の紛争地域に出動してゆけば、日本は発進する駐留部隊の基地として自己の意志に反して「極東」紛争に巻き込まれることもあるわけであるから、日本の将来に大きな不安を残すことになった。

四 結論

日本国憲法は戦後の反ファシスム民主主義の産物であると同時に、占領の当事者である米国の極東アジアにおける軍事的利害の産物であったいえることができよう。これらのことは韓国との比較を通じてより明らかになったと言えよう。アメリカの軍事的な利害関係と背馳しなかったからこそ、日本国憲法第九条はできたといえよう。その軍事的な利害関係が日本国憲法第九条のような非武装の形で一致したのは日本が第二次世界大戦を起こした國であったからこそ可能であったといえよう。

このようにアメリカによる戦後の極東アジアにおける占領管理体制は、時には憲法を媒介にしながら、時には裸の物理力で民衆による国家建設を禁圧しながら形成されたが、軍事的な体制をととのえながら終結していた。今日、日本国憲法は軍事条約ともっとも親和性のない憲法であると比較憲法的にいうことができるが、これは、日本国憲法の第九条が日米両国の当時の利害関係の上では、偶然ではあったが、合致していたところから生じる。

ところが、日本国内の民衆運動の向上とソ連の世界的な進出の状況のもとでのアメリカの軍事的な利益は日本国憲法のような非武装条項によって守られるものではなかった。このような意味で、対日講和条約の非懲罰的な講和の原則が日本の再軍備を意味したことは偶然とはいえないだろう。結局、軍事条約は憲法を迂回して日本を再軍備させる方策として締結されたものと考えられる。だが、同じ軍事条約といっても、米韓相互防衛条約では軍事力による太平洋地域おける実質的な貢献までが要求されたのに対して、日米安保条約では、日本区域が攻撃されたことを米軍出動の前提としそれに関する日本の協力を規定するなどの制約が見られる。これは日本国民の反対、アジア諸国の警戒のためであるが、何よりも日本国憲法の憲法第九条が個別的自衛権のみならず集団的自衛権を禁止しているからであると解される。それにもかかわらず、両国の軍事条約は太平洋地域における集団的な安全保障体制の構築というアメリカの軍事的な利害関係の異なる表現であったことに違いないであろう。

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