植民地期の民族工業
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植民地期の民族工業

(一橋大学 ニュースレター No.11 1998年11月)

朝鮮と台湾の比較

報 告 者: 安 秉直 (ソウル大学校経済学部)

 討 論 者:(発言順)

T 報  告

はじめに――大工業中心の韓国・中小企業中心の台湾

 尾高 今日は、われわれのプロジェクトの一環として、朝鮮と台湾の植民地期の経済についての比較研究をしておられる安先生をお招きして研究会を開くことにしました。それでは、安先生のご報告からお願いします。

  一昨年、京都大学の中村哲先生から、植民地期の台湾と朝鮮の比較研究をやらないか、という話をいただきました。そこで、何から始めようかということで、アメリカと日本と韓国の文献を検討してみましたところ、非常に関心を引かれたことがありました。韓国は大企業中心の経済、台湾は中小企業中心の経済、としてとらえられている。これは非常におもしろいと思って、アジア経済研究所から出版されている、両国経済を総括的に比較研究した 『 韓国・台湾の発展メカニズム 』( 服部民夫・佐藤幸人編著、アジア経済研究所、1996年 )で、両国の経済状況の比較を見てみますと、以下の3つの側面から、韓国は大企業中心の経済で、台湾は中小企業経済だとされている。

 一番目は、大企業 ( 従業員 500人以上 ) の生産額が国全体の生産総額の中に占める比重 ( 1993年 ) が、韓国は45.3%で、台湾は26.8%しかない。二番目は、上位5・10・50位の中に入るビジネス・グループの売上高が GNP に占める比重がそれぞれ、韓国は47.6%、58.8%、79.7% ( 1991年 )、台湾は17.8%、23.2%、36.4%( 1990年 ) で非常に少ない。三番目は、中小企業の輸出が輸出総額に占める比重が、1987年で韓国が37.7%、台湾が67.1%です。

 同書では、このように産業組織が両国で違っている原因を、3つぐらい挙げていました。その1つは、台湾と韓国との初期蓄積の相違。2つ目は経済政策の相違。つまり韓国の近代化政策においては政府が徹底的に経済過程に関与してきたが、台湾は経済過程に政府が直接関与したことがない。3つ目は家族制度をあげています。

 私は経済史が専門ですから、初期蓄積の相違としてみるために、植民地期の台湾と朝鮮の民族工業のあり方を比較してみました。それが今日の報告の内容です。

朝鮮と台湾の地域経済の概観

 両地域経済を概観するに当たり、両地域経済の共通面と相違点を調べてみましたところ、共通する面も多いのです。歴史的に見ると、小農民経営が高度に発展している東アジア儒教圏に位置しているということ、戦前は日本の植民地だったこと、戦後はアメリカと政治・経済的に最も関係が密接だったことなどです。経済に絞ってみても ――これは溝口先生の研究ですけれども――、戦前も戦後も両地域は高度成長を遂げているということも共通している。それと、植民地でありながら工業化も両地域で非常に進んでいる。今日では韓国経済よりも台湾経済のほうが事情がかなりいいことは認められますが、大きく見ると中進国から先進国への移行途上にある経済だということです。台湾はすでに先進国になったかもしれませんけれども。

 しかし、違う面もずいぶんありまして、戦前だけに絞って相違点をを3点ほど考えてみました。

植民地期の工業化の特質

 植民地期の資料を見ると、まず第1に、両地域はともに工業化されたけれども、朝鮮のほうが積極的に工業化された。そして、朝鮮は産業構造的に均衡がとられながら工業化されるのですけれども、台湾は食料品工業に偏っています。この点は非常に違う。なぜ工業化の形がそのように異なったかを考えてみると、根本的には資源の問題があったと思われます。台湾は、ご存じのように亜熱帯地域で資源が非常に豊富である。コメも二毛作ができるし、サトウキビ、お茶、樟脳、バナナ、パイナップル等、資源が豊富なので、農業開発だけでもやっていける。工業化といっても、農産物の加工に集中していました。

 一方、朝鮮は資源が非常に乏しいのです。特に農業資源はコメしかない。コメ経済がうまくいかない場合、経済の困難を打開するためには、工業化しかあり得ない。朝鮮では地下資源が台湾よりは少し多いことと、電力資源です。1920年代の初めごろに水力資源の存在が見つかりました。ですから、台湾より朝鮮で本格的に工業化が展開されたのではないかと思われます。両国の工業化の相違を製造業で比較したものが第1表です。台湾は食料品工業に偏っていますが、朝鮮は台湾より均衡がとれています。

 第2は、朝鮮は工業化が積極的に進められたが、植民地末期の工業化率を調べると、むしろ台湾のほうが朝鮮より工業化が進んでいる。それを純生産物、農業生産物と工業生産物で比較してみますと( 第2表参照 )、台湾はすでに1916年段階で67.8%、38年に至っても58.9%と、そんなに伸びていない。逆に朝鮮は、1912年の段階で 5.8%だったのが、1938年には33.9%と、急速に伸びたことが分かります。しかし、その水準は朝鮮のほうがまだ低い。産業別就業者数を見ても、朝鮮は農業が非常に重い比重を占めています。台湾は農業が50%を切ったこともあるようですが、朝鮮は70%までが農民でした。その面でも台湾はむしろ工業化が進んでいたと言えるかと思います。

 この両地域の工業化の相違を歴史的な原因から考えてみましょう。台湾は島国で、中国本土とヨーロッパ諸国を相手に17世紀からずっと貿易をやってきているから、商業が非常に発展していた。朝鮮は李朝後期にある程度の商業化は進むが、基本的に 「 隠遁国 」 で ( 西洋人の表現です )、自然経済が支配的な国だった。具体的に農業経営の発展について考えてみると、李朝後期の朝鮮の先進的な農業経営は穀物栽培プラス商品作物栽培で、多角経営だった。

 一方、台湾は多角経営に農産物の加工がプラスされており、販売のための農村手工業が盛んでした。後でご説明しますが、籾摺・精米業としての 「 土壟間 」( トランケン ) だとか、製糖業としての 「 糖 」( トウフ ) です。もともと台湾は植民地になる以前からずいぶん商品経済が発展していたといえます。朝鮮は、商品経済の発展があったとしても、非常に貧弱だった。

 第3は、貿易です。近代貿易が展開されて以来、朝鮮はずっと貿易赤字でした。ようやく1986年になって韓国は貿易黒字に転換しましたけれども、開港期と植民地期とを通じて ――開港直後は統計が不備ですから不明ですが―― 統計が整備されて以降、黒字は1924年と25年の2年しかないのです。朝鮮は、工業化とか経済発展のためにはいつでも国内貯蓄プラス海外貯蓄というように、必ず海外貯蓄が必要でした。86年以降は事情が違ってきましたけれども。しかし、台湾は、国内貯蓄が経済発展を支えたことはもちろん、お金が余ったら外に資金を輸出するのです。この点が全く違います。

 以上のような3点は企業経営にも反映して、台湾の企業は零細企業とか小企業が多いけれども、自己資本の比重が重い。韓国企業は借入経営です。借金経済なのです。これは偶然ではなくて、歴史的に非常に深い根を持っている。

両地域にみる民族資本

 以上を前提として、次に両国の民族資本のあり方がどのように違うかというところを見ましょう。

 両地域とも大企業はみんな日本人企業だったというのは間違いありません。2、3社ぐらい民族資本はあるけれども、それは大したものではない。ただ、台湾の中小企業は台湾人企業だということです。日本人企業は1割を切っています ( 第3表参照 )。

 台湾は1930年以前についての資料がありません。今度、補充調査をしてみましたが、なかなか資料が出てこない。朝鮮は植民地初期からの民族別工場数を調べることができます。それによると、朝鮮については初めのころは大企業はもちろん、中小企業までも大部分日本人企業だったのですが、第一次世界大戦によって好景気になり、次第に朝鮮人企業が発展します。もちろん、その前から朝鮮人企業はありましたが、それが着実に発展するのは1916年からです。ごらんのように、最初は日本人企業の占める比重は72.9%でした。しかしこれは形式的な統計で、実態はほとんど日本人企業です。それが1938年になると日本人企業は39.9%となり、約60%は朝鮮人企業ということになります。このように朝鮮では中小企業でも朝鮮人企業と日本人企業がまざっている。しかし、台湾においては圧倒的に台湾人企業です。朝鮮では日本人企業が中小企業でも重要な位置を占めていて、非常に重い意味を持っていた。

 次にもう一つの相違は、台湾の工場を見ますと、『 工場名簿 』( 台湾総督府殖産局、1939年 ) に零細工場が挙がっています。しかし、『 朝鮮工場名簿 』( 朝鮮工業会、1937年 ) を見ますと ――当時は職工と言いましたが――、職工を5人以上雇用しているか、5人以上を雇用する設備を持っているか、を基準にしている。名簿に、なぜ台湾では零細企業が載っており、朝鮮では載っていないのか。その原因を考えてみました。その原因を調べてみましたところ、台湾人中小企業はその根っこを自分の伝統に持っているのです。例えば、土壟間だとか糖だとかです。それが日本の植民地になって近代的な中小企業に変わった。もちろん、製糖業は日本の植民地政策によって日本の大企業によって抑えられてしまいましたが、土壟間は台湾人企業でした。それだけではなく、お茶、バナナ、パイナップル等の産業は大体台湾人が占めていました。

 しかし、朝鮮の中小企業を見ますと ( 代表的なものは精米業 )、これは完全に移植工業です。朝鮮で精米業が最初に発展するのは日清戦争頃ですが、それは日本人が開港場で精米業をやっていました。そして、1903〜04年になると朝鮮人が精米業を経営するようになります。植民地期の朝鮮で代表的な民族工業はゴム工業とメリヤス工業ですが、それは移植工業で伝統的な企業ではありません。伝統に根っこを持っていた工業は朝鮮紙製造業だとか窯業等でしたが、これらが中小企業に占める比重は非常に小さかった。ですから、朝鮮人中小企業は基本的に移植工業、台湾人中小企業は伝統的工業が近代化されたものといえそうです。

 もう一点、『 朝鮮工場名簿 』 にはない零細工業が台湾の 『 工場名簿 』に載っているということです。朝鮮では零細工業がなかったわけではない。かなりありました。いろいろな資料を検討してみますと、台湾よりは非常に少ない。だから、 『 朝鮮工場名簿 』 にわざわざ載せる必要がなかった。調査しなかったのではないと思います。私は日本の統計を見ていないですから日本の事情はわからないけれども、朝鮮では、零細工業はないわけではないけれども、精米業を調査してみましたところ、非常に少ないのです。これが台湾経済と朝鮮経済の違うところで、非常に大事なところだと思います。

 尾高 精米業は移植工業ということは、どういう意味ですか。外から入ってきたのですか。

  そうです。在来産業ではなく輸入産業であるという意味です。

 尾高 移植というのは、どこから入ってきたのですか。

  日本人企業が直接進出することもありましたが、朝鮮人が朝鮮に進出している日本人と外国から学んで新しい産業を起こすこともありました。これは輸入産業で在来産業ではありませんでした。朝鮮と台湾の零細工業の様相については、神戸大学の木村光彦さんのいい研究 ( 第3表の文献参照 ) があります。木村さんによりますと、家内工業の分業化と専業化が全く違う。朝鮮の家内工業は、そこに従事している戸数は非常に多い。が、1戸当たりの生産額は貧弱だった。これに対して、台湾では家内工業に従事している戸数は割合い少ないけれども、1戸当たり生産高はやや大きかった。ここから引き出される結論は、朝鮮の家内工業は自給自足のためのものだった。台湾は販売のための家内工業だった。両国における分業化と専門化の相違が大きかったということです。

精米業にみる業態の違い

 これから、産業レベルで両地域の民族工業のあり方の違いを比較できないかと思ったのですが、精米業が両地域で工場の数としては一番大きいのです。もちろん精米業の工業としての位置づけについては異存があるようですけれども。朝鮮全体の精米業についてはあまり研究がなされていませんので、ここでは京城の精米業と台湾の土壟間を比較してみました。もちろん、台湾の精米業は土壟間以外にもありますが、土壟間が一番大きな比重を占めています。まず工場の規模ですが、職工の数から見ますと京城の精米業は台湾より大きいのです。京城の朝鮮人精米業1戸当たりの職工は大体22名、土壟間は2〜3名程度です。

 土壟間がどのようにして2〜3名で運営が可能であったかといいますと、台湾では従業員以外に家族労働が作業に加わったようです。朝鮮の精米業では主人の家族はその仕事に加わらないのです。これは朝鮮人零細工業の特徴でもあります。例えば自分の親が食堂をやっていても、息子たちはその近所にも行かない。商業を軽蔑する傾向があって、両班の姿勢を持っています。そういうところがあって、中小企業でも家族がそれに従事することはなかなかありません。最近はずいぶん変わってきてはいるようですが。

 規模以外のもう一つの違いは、精米業者の出自です。土壟間はもともと地主、雑貨商人、米仲買人、金融業者で、商人としての根っこが深い。そして国内販売だけではなく、輸出まで担当していた。ですから、植民地期には組合をつくって日本に米を輸出しようとした。実際にはできなかったのですが、何度もそれに挑戦しています。

 朝鮮の精米業者の出自も地主や米穀商が多かったといっています。しかし、これは1910年ごろの資料ですが、京城の米商人の名簿と精米業者の名簿を対照してみますと、同一人物がひとりも見つからない。ですから、精米業をやっている人たちの出自自体が商人だったかどうかも曖昧なのです。もっとも、精米業の業態自体は、委託加工だけでなく、自分たちが籾を買い入れて精米して販売しているから、これは確かに米商人の一種ではある。

 土壟間と京城の精米業の機能は非常に違うようです。京城の精米業者は、籾の買入れや米の販売などの商業利潤を追求せず、加工利潤だけを追求している。商売のやり方が単純です。台湾の土壟間はなかなか商業手腕の敏捷な商人でして、籾摺、農民に対する金融や先物売買、仲買、問屋等の四つの機能によって商業利潤を求めている。だから、土壟間には加工利潤はあまり大きな意味をもっていない。加工利潤はむしろマイナスのときも多い。両地域の商人の行動パターンがまるっきり違うのです。

 次に、これは自信がないところですけれども、米1石当たりの生産費について。これを第4表第5表で見ますと、京城の精米業は 「 生産費 」 という概念が使われ、土壟間は 「 経営費 」 としてとらえています。概念が違うので、このまま比較することはできません。したがって、この中で比較できる項目をひろって比較してみます。

 一番目、土壟間の 「 電気料及苦力費 」 という項目は合計0.093円ですが、京城の精米業では 「 賃金+動力費 」 が0.47円になります。それを見ますと、土壟間は家族労働でやっていたので、賃金が少なかったのではないかということが想像されます。朝鮮の精米業は賃金をたくさん払っているということになるのではないか。これは推測なので、もう少しきちんと調査しなければならないと思います。

 二番目に 「 事務員給料 」 で比較してみますと、1石当り土壟間は 0.095円ですけれども、京城の精米業は0.14円です。やはり朝鮮のほうが事務員だとか技術者をたくさん採用しているようです。

 三番目に、 「 借入金利子 」 という項目が朝鮮の精米業には計上されているが、土壟間にはこの項目はありません。土壟間はたぶん自己資本でやっているのではないかと考えられます。

これからの課題 ――取引費用、流通費用の検討

 以上ですが、まだはっきりした結論を出すまでには研究が進んでいません。台湾と朝鮮とでは、以上のように民族工業のあり方が異なるということは間違いないと思いますが、まだ確定的な結論が引き出せません。

 ただ、以上の分析を通じて次のことは確認できます。

@両地域間の資源の相違により、朝鮮においては、より積極的に工業化が進められた。

A台湾のほうが伝統的に分業化と専業化が進展したために、朝鮮よりも零細工業が発達した。

B市場経済の発展水準において台湾の方が一段上だったために、台湾人企業家の商業手腕が勝っていた、などです。

 冒頭に述べた、台湾は中小企業中心経済であり、朝鮮は大企業中心経済だ、ということに関して、Brian Levy という人は、1980年代の朝鮮と台湾の履物産業の比較研究に基づき、取引費用 ( transaction cost ) 理論を用いて次のように説明しています。すなわち、韓国は市場経済の発展水準が低いので取引費用が高くなり、その結果、大企業に有利な履物産業が発展した。一方、台湾は市場経済の発展水準が高く、取引費用が低かったので中小企業に有利な履物産業が発達した、といっています。私の研究は、まだこれを確認する段階には至っていませんので、ここでは、植民地期において、台湾の市場経済の発展水準が朝鮮よりも一段発展していたという点だけを明らかにしておきたいと思います。

 最後になりますが、台湾と朝鮮では流通組織が非常に異なっているようです。それがどのように違うのか、これによって流通費用がどのように違ってくるのか、それをこれから調べてみる必要があると思っております。

 また、今後は、中国と日本と朝鮮のメリヤス工業を中心として、3国のメリヤス工業の発展のあり方とかメリヤス製品の流通過程を徹底的に調べてみると、3国で産業組織の違いやその歴史的な原因が何かわかるのではないかと思っています。今日は、その準備作業の一つです。以上でございます。

U 討  論

 尾高 どうもありがとうございました。すごく刺激的なご研究だと思います。しばらく自由にディスカッションをいたしましょう。

伝統工芸のシェアは高くない

 溝口 一つお聞きしたいと思っていたのですが、朝鮮の金属工業、要するに戦前ですと鍮器等で食器をつくっていましたね。あれはおそらく民族工業が中心だと思うのですけれども、いかがですか。伝統工芸で、かなりシェアが高かったと思うのですけれども。

 尾高 第1表の1914年の金属工業は14.9%で多いですね。

 溝口 これは決して近代の金属工業ではないですね。

  朝鮮においては鍮器産業は古い伝統があります。18世紀までは、その原料である銅を日本から輸入しなければならない事情もあり、そんなに賑わわなかったんですが、19世紀に入り甲山の銅山が開発され、食器と武器の製造・銅銭の鋳造などで大きく発展しました。当時の金属産業としては釜の製造業もありました。

 溝口 それでは初期の金属工業のシェアについてもう少しお聞きします。よく戦前の分析をするときに、初期は伝統産業で、時間がたってくると近代工業になる。例えば、化学工業でも初期のシェアが大きいから重工業化していたという人がいるのですけれども、そうではなくて、初期の段階は伝統産業なのです。マッチとか、台湾ですと漢方薬とか、そういうものですね。後になってくると、肥料生産等の近代工業になる。

 ただ、朝鮮の場合はこれがわからなかったのです。1910年代の金属工業のシェアはかなり高いと思います。これはひょっとしたら上のようなことかなと前から考えていました。後半のほうは金属工業は総督府がやり出すので、シェアがかなり増えてきた。初期の段階というのはどんなものでしょうか。

  鍮器手工業と製釜手工業が金属工業の中でどのくらいの比重を占めていたかはよくわかりませんが、近代的な機械が入ってきて修理屋ができるようになりました。断定はできませんが、初期の金属工業は修理屋じゃないですか。これはかなり普及しています。

 尾高 いまのお話のコンテクストで、日本を中に入れるとどういうことになりますか。きょうは朝鮮と台湾とを比較されたのですけれども、戦前の日本はどちらかというと台湾的だったのですか、それとも朝鮮的だったのですか。

  日本は全然違ったのではないかと思います。零細工業が多いということでは台湾と日本は似ていると思います。流通過程における問屋の役割というところは似ているでしょう。しかし、台湾は関連産業が発展しないのです。日本は関連産業が発展して、例えばメリヤスですと、中小企業向きのメリヤス機械がどんどん発明されていく。それは朝鮮と台湾ではできないところです。そういうところはずいぶん違っている。

 尾高 第2表で見ると、1920年まで台湾と日本とではかなり数字が似ていますが、1920年から日本のほうがすごく大きくなっていきますね。

  これはよくわかりませんが、1904年の段階では日本が上でしたが、1916年になると、台湾が上になります。1%ぐらいですけれども。これは日本が台湾において製糖業を大胆に進めたことの結果だと思います。

例外的な植民地台湾

 溝口 石川滋先生が、植民地だけを比べていった場合、台湾は非常に珍しい植民地だと、前からおっしゃっていたのを思い出します。普通、植民地を分けると、商品作物を生産して食物を輸入するというパターンか、食物を輸出する、という2つのパターンがある。タイのようにコメそのものを輸出する国、マレーシアのようにコメを輸入してゴムを輸出する国などが代表的な例です。日本が侵略した朝鮮は、どちらかというとコメを輸出した植民地なのです。ところが、台湾は非常に珍しいところで、コメも輸出する、商品作物の砂糖も輸出していたのです。こういう植民地は世界中どこを探してもないというのです。

 そういう意味では、台湾は農産物が非常に豊かな地域であった。したがって、ちょっと異常なことが起きている。工業生産と農業生産の比率をとってみるとずっと一定なのです。これは農産物で食えますからね。農産物関連の工業しか発展しないので、この比率は近代工業が導入されるとあるところまで上がりますが、それから先、砂糖とコメが増えていくと、その分だけ工業が増えていく、そういうように変わったものだったと思うのです。

 ところが、朝鮮の工業の発展はまさにほかの地域とパターンが似ている。最初は農産物から出発して、逐次他の産業が発展していくというパターンです。工業生産、農業生産比率がどんどん上がっていくということの説明がつくと思います。その意味では日本と朝鮮は似ているのかもしれない。台湾は非常に例外的な地域だったのかもしれない。

 尾高 もちろん日本は植民地でなかったから、もともと比べるのが無理ですが、日本も中世とか近世初期は資源が豊富な面がありましたから、商人がわりと活躍したという点は台湾に似ているのではないか。明治時代は、中小企業の 「 中 」 のところは少なくて零細なところが多かった。どちらかというと中小企業は戦間期に出てきたのではないか、そういうところは台湾に似ているのかなと思ったのです。しかし、むしろ工業化の過程は朝鮮に似ているのかもしれないですね。

 溝口 資源の相違というところは我々も多少認識していたけれども、きょうのお話で非常におもしろいのは、商業活動と中小企業を結びつけて台湾の分析をされていることです。これは我々がいままであまりやってこなかったことで、大変参考になりました。

商業機能をどう捉えるか

 斎藤 その点で一つ気がついたことがあるのです。精米業者、土壟間ですか、これを見ていると、精米だけではなくて、米を買ってきて売ることもあるみたいですね。ですから、買うとおそらくそのときに金融がついた。最初のお金を前貸しして、誰かから精米を買ってきて、問屋として売るというのも、どうもあるのではないか。

 そうすると、これは工業が過大評価になっていないかなと思うのです。例えば、産業分類とか労働者の分類で精米業者をみんな工業に入れてしまうと、実はそれには彼らの持っている商業の機能の付加価値がくっついているという可能性が、もしかしたらあるのではないか。これはもちろん精米業者だけの例ですけれども、精米業者を全部 「 工業 」 と見ると、少し工業が過大で、逆に商業が過小になることはないでしょうか。

  その事情はわからないですけれども、もともとこの作業は帽子産業の分析と一緒にやってきました。台湾の帽子産業は輸出品としては相当重い比重を占めています。1年に約 200万円とか 300万円というような輸出額です。台湾に本店、神戸に支店を持つ台湾人の輸出業者は、最初は工場で帽子をつくっていたのですが、その産業が発展するにつれて、工場はほとんどなくなり、製造は家庭の婦人の副業になってしまった。したがって、帽製造業の業態が工業になるか商業になるかよくわからなくなるのですが、そこから経済活動の中で流通が占める重要性に対する感覚を得ることができました。多分先生がおっしゃるように、土壟間のも、工業に入れたらいいか、商業に入れたらいいか、わからないのです。

 溝口 表2の計算だけについて言うと、コモディティー・フローで数量を出してきて、それによって付加価値をつけていますから、この推計にはいまの問題は生じません。ただ、台湾総督府で総売上高を計上していた場合、それは斎藤先生の言われるようにバイアスを持っているかもしれません。

 斎藤 そうですか。私は労働力のほうを調べていて、資料を見ていると、みんな職業による分類なので、かなり問題かなという感じは前からしていました。普通は、職人では売った物と作ったものと分けたりできませんから、半分に割るわけにいきませんが、こういういかにも工業かなと思うようなところでも、かなり商業的な要素が入ってしまうなと、思いました。

 溝口 私のやった国民経済計算は、完全に精米業者の精米しているところだけを取り上げて工業に計上していますから、その意味ではむしろ擬制なのかもしれない。企業をユニットとして見ますと、分けられないものを分けている可能性はあります。 

需要構造を入れて考えてみる

 松田 きょうのお話で非常におもしろかったのは、戦前と戦後のところで工場規模の違いの話をされています。これに需要構造を入れると、先生の議論のところから変わるでしょうか。需要構造を入れると、朝鮮に日本が比較的新興財閥と言われるような肥料工場は、朝鮮の電力を利用して進出する。急速に朝鮮で近代大規模工業が増えていく原因になるわけですけれども、そのときに肥料の需要先は日本と朝鮮そのものと満州の3つが考えられているわけです。台湾のように、伝統的な肥料で十分間に合うだけの高農業生産地域とそうでない地域との関係で、需要の問題を入れると、朝鮮のたどった道と台湾のたどった道とは違うのではないか。

 また、植民地時代に日本人の所有していた工場は、植民地解放後には、どういう経営形態に移っていったのでしょうか。そして、その内のどれくらいが朝鮮戦争というか内乱の過程で破壊されたのか。先生が導入部で、戦後も韓国においては大企業優位が顕著に出ていると言われたが、その原因と結びつけて考えられるのかどうなのか、というあたりを教えていただければと思います。

  需要構造を入れて考えると別な事実が発見されるかもしれないという松田先生のご指摘は、真剣に取り入れて後から考えてみます。これまでそんなことは考えてみたことがなかったので、今はお答えできません。

 そして、植民地期の日本人工業が残したものが解放後にどのように受け継がれたかということですが、いろいろな面があると思います。それは非常に大きな課題ですので、簡単にはお答えできないと思いますが。まず、日本人が残した工場をそのまま引き継いだ場合でも、資金及び原料の調達等の問題はありますが、それなりの技術蓄積がありましたので、なんとか運転はできたと思います。もちろん、技術革新をするまでの能力はありませんでした。しかし、一番大きな問題は政治混乱であったと思います。解放後の韓国では政治混乱が避けられなかったので、植民地期の産業施設の多くはスクラップ化されていきました。

 もう一つは、植民地期のいろいろな産業施設が破壊されたり消失したとしても、まだ残るものがある。それは植民地工業化において韓国人が得た人的蓄積です。最近何年か、私は、熟練・技能・技術、教育などの研究をやってきましたが、経済発展と関連して最も大事なところはその面だと思います。

 最近私はずいぶん誤解されています。植民地下の出来事をそんなに評価してもいいのか、と韓国人から聞かれるのですけれども、その作業は植民地政策を評価するためにやるものではなく、解放後の経済発展の出発点のひとつを確認しておくためにやるものです。経済発展の出発点をはっきり把握しないと、我々がこれから何をやっていくことができるかというところがわからないのではないか、これが問題の本質です。

歴史的条件から再編成の過程を見ることも重要

  私、安先生とはもう15年くらい一緒に共同研究をしてきまして、先生のお考えはよく存じているつもりです。今日のお話を聞いて、植民地工業化についての研究が80年代半ばぐらいから盛んになってきたのですけれども、それがスポットの工業部門だけを取り出して、そこの発展段階をいろいろな側面から見ていたのが、最近になってもう少し社会的分業全体を含めた研究の視野が広がってきたということを感じるのです。安先生はその仕事を一番引っ張ってこられた方なので、そういうところでは共感することは非常に多いのです。

 まず、資料の問題で、1929年の資源調査法によって、日本領域全体の工業調査の方法がそれ以前はかなりばらばらであったものが、統一されてくるのです。ただ、そのときに台湾の場合は 「 5人以上の設備ないし労働者の使用 」 という条件以外に 「 動力を持っている者 」 という条項が入っていて、これが資料の性格を非常に変えているのです。その理解については私も基本的には安先生と同じです。朝鮮の場合、部分的に京城ではそれ以下の零細工業についての調査もあるのです。ところが、その数が非常に貧弱なのです。それに対して、台湾の場合は 「 5人以下 」 が非常に大きいので、多分総督府の官僚たちが、本国から工場資源調査法の原案がきたときに、これだけでは台湾の実態把握は難しいということを独自に考えて、あの条項を入れたのではないか。私は、この資料で朝鮮と台湾が違うのは、それなりに実態を反映したものとして評価すべきだと思います。そういう意味では安先生の見解に賛成です。

 ただ、安先生の理解でいいのかなと思うのは、移植と伝統という対比で朝鮮と台湾をとらえたことです。そういうことを言ってしまうと、安先生の考え方は、現在の韓国と台湾のあり方が、結局、清朝末のあり方と李朝末のあり方に還元されてしまうようなところが出てくるのではないかと思うのです。歴史というのはもちろん縦の通時的な側面を重視するのですけれども、同時代の共時的な側面による規定性というのも考える必要があるのではないかと思うのです。

 このデータでもそうですけれども、例えば朝鮮で家内織物業が広がってくるのは、李朝末のものが残ったというよりも、むしろ1910年代から増えてくるのです。日本が陸地綿の栽培を強制して農家に棉花の蓄積ができることによって、それを全部日本の植民地企業が吸い上げることができずに、農村に独自の棉花流通が広がっていって、織物業の戸数が増えていくという側面があるのです。これは30年代初頭までそうなのです。それから、台湾でいうと、土壟間という言葉は確かに清朝時代からありましたが、土壟間が非常に増えてくるのは、日本へのコメの輸出が増え出したことと電気やモーターの利用ができるようになって動力の導入がすすみ、この条件によって10年代からかなり量的に増えてきたのです。

 何を言いたいかというと、もちろん二つの社会には歴史的条件として相違があったにしろ、また、それがその後にたどっていく過程には再編成があるのではないか。ですから、植民地期の再編成に、また二つの社会をより違った方向に向けていくような力が働いているところも、もう少し見たほうがいいのではないかということです。そうじゃないと、台湾と韓国の工場の存在形態は非常に大きく違っているので、それを清朝までとか李朝まで遡ってしまうと、その後の変化はほとんど具体的な分析過程が要らなくなってしまう。実際には、清朝、李朝、日本植民地時代、解放後の李承晩と蒋介石の統治下でそれぞれ現在の違いが生まれてくるような条件があったためではないか、そういうことを考えなければいけないのではないかと思います。

 それから、いまの討論の中で気がついたのは、松田先生が提起された肥料の問題です。台湾は肥料を自給していないのです。朝鮮の硫安と満州からの大豆糟は非常に重要なのです。台湾があれだけ農業生産力を伸ばしていったのは、――満州と台湾の貿易は日本が南満州鉄道をとってから一方的に増えていくのですが―― それはまさしく大豆糟なのです。それから、30年代に朝鮮で興南工場が動き出してから、その製品は日本にもきましたが、3分の1ぐらいは台湾へ行くのです。そういう意味では植民地期の帝国内分業はかなり組織的につくられていたというのが私の理解です。だから、決して自給できてはいなかったということです。

 溝口 いま言われた台湾の農家の金肥の比重は、日本よりはるかに高いですね。非常にモダンな農業だったのです。

 松田 そうすると、あそこだけで肥料をつくらなかったというのはなぜなのでしょう。

  台湾では1920年代前半に水力発電所を日月潭に建設しようとしていましたが、資金の目処がつかず延び延びになって、ようやく34年に稼動し始める。当初の目的は肥料だった。硫安です。ところが、その竣工時すでに準戦時期に入っていたので、アルミニウムに転換したのです。日月潭ではずっとアルミを生産していたが、45年段階でアルミが要らなくなったから、それが全部肥料工場に変わった。それが高雄の化学肥料の出発点で、あそこの水銀汚染は戦前からスタートしているのです。

  堀先生のご指摘は非常にいいポイントをついていると思います。私、これを準備しながら、先生が指摘されたところが気掛かりでした。だから、伝統に根っこがあるという曖昧な表現になったのは、在来産業の近代化過程をちゃんと調べていないからです。今度の作業では原点を一応確認しておいて、ここから何がどのように変化していくかというところを追求してみたいと思います。

工業の中の商業機能

  いままでの研究では 『 工場名簿 』 の分析で 「 工業 」 というものだけを対象として植民地化の変化を見ていました。けれども、実際は農家の副業部分と専業化している零細工業と、それをつないでいる商業のあり方は非常に重要であったにもかかわらず、いままでデータが違いますから総合して考えてこなかったと思うのです。だから、台湾と朝鮮の違いを本当にうまくはとらえきれていなかった。非常に表面的だったと思うのです。だから、こういう発想で研究することにより、特に資料に残りにくい商業部門を把握していくと、経済史が非常にクリアになって、より有効な分析が出てくると思います。この研究には大賛成で、私も驥尾に付したいと思います。

 尾高 さっきの松田さんの発言と、いまの堀さんの発言をくっつけて、戦後にもってきたらどうなのですか。戦後も台湾と韓国は中小企業の役割が非常に違うでしょう。その基は1930年代にあった。それが戦後の政策とか国際環境の違いで、もちろん拡大されて現在に至っているというふうに考えていいですか。

  その問題については、はっきり言えるだけの準備ができていないのです。いま私がしゃべっているのはひとつの感想でしかありません。やはり伝統が持つ重さは我々が想像するより大きいのではないかという感じもします。いまでも、前に申し上げたとおり、韓国人は零細工業・零細事業をやっていても家族をそこに従事させるのを嫌うのです。最近この点はずいぶん克服されてきましたが。しかし、基本的にはまだそうなっています。今でもまだ李朝後期が生きているという感じがします。

 尾高 そこは日本人とは違うんですかね。

  そうです。これを克服するためには、政府が生活様式とか意識を変えるための徹底的な政策を進めないと、なかなか変化しない。1980年代の中葉頃まで私は韓国政府に対して批判的な立場に立って民主主義運動をやってきましたけれども、最近になってセマウル運動を評価するようになりました。保守的、反動的だと批判されるかもしれませんけれども、いやいや、どうしてセマウル運動をやったかと考えてみますと、経済の面ではどんな意味があったか曖昧だけれども、人間の考え方を変えていくとか、生活様式を変えていくとか、要するに人間の生活パターンを変えていく運動ではなかったか。

 韓国は、朴大統領のときはセマウル運動を盛んにやりましたけれども、それ以後約20年の間、このような運動は何もやっていないのです。ですから、人間の考え方と生活様式はそんなに変わってこないのです。堀さんがご指摘なさったように、その間いろんな面で激しい変化がありましたけれども、まだ変わっていないところもたくさんあります。

植民地における市場メカニズム

  私は韓国で生まれたのですけれども、こういう時代には生きていなかったもので全然知らないのですが、私は韓国経済とアジア経済に関心を持っているので、先生の今日のお話は非常に興味深く聞かせていただきました。

 先生のお話で、現在の台湾と韓国の市場構造のメカニズムの違いは出発点にあったということが分かりました。韓国の植民地時代を含めて朝鮮末期から植民地時代が終わるまで、企業家精神そのものが台湾と比べると全く異なっていた。東南アジアへ行くとわかりますが、華人の世界は、数百年前から商業を中心とした活動を通して自分の資本と市場圏を拡大する努力をしていました。そこにはもちろん彼らの蓄積された知識があったので、おそらく台湾もそこから流れる商業に対する企業家精神が発達したのだろうと思います。

 もう一つは、それと同時に、韓国は1986年まで貿易赤字で、借入経営しかできない構造だったのですけれども、台湾の場合は、以前から民族資本というか、資金力が商売によって得られたと思うのです。そういうことが植民地期間に十分に生かされたのではないか。しかし、韓国の場合は企業家精神そのものも全然発達していなかったし、工業化が、数字で発達するよりも、実際に市場経済に関わる小さな組織としての企業家精神、そこで蓄積される資本がわりあい少なかったのではないかと思います。

 戦後になっても、台湾の場合には零細で家族中心の経営が身についているし、家計が持っている資本が十分に活用できたと思いますが、韓国の場合はそういうものが少なかったのではないか。それで、国家を中心とした借入金経営で経済発展に至ったのではないかと思います。それは自分のいまの研究と非常に関連があります。

 質問したいのは、植民地期の経済状況はよく知りませんので、市場経済そのもの、植民地経済はどういったウェルフェアを中心として動かされているのか、そういうことが気になるのです。だから、台湾や韓国の植民地期は統制経済だったと思うのです。しかし、それは日本側が計画を立ててコントロールするわけですね。私の直観では、日本のウェルフェアを追求するために植民地政策そのものは働いている。それはイギリスや他の国でもそうだと思うのです。しかし、両国で基本的なファンダメンタルズは違いますけれども、植民地政策そのものが朝鮮と台湾の場合とではちょっと違っていたのではないかと思います。同じ植民地を育てたとしても、輸送コストが低いし、距離的にも朝鮮のほうが調達しやすい。本土に対する植民地政策は、中国との戦争を考えたわけで、朝鮮に対しては、より厳しい植民地政策があったのではないか。

 例えば、食料を生産しても、多分統制経済だから利潤を総督府それぞれが考えて、利潤と賃金との差が朝鮮と台湾では全然違ったのではないか。植民地政策そのものが韓国では非常に厳しかった。経済の発展でも、韓国の場合は朝鮮末期でも農業中心社会でしたけれども、生産性は非常に低い。それは台湾と比べてはるかに低いです。生産性そのものが低いので、商売として発展しにくい。

 それと同時に、コメとか多くのものが輸 ( 移 ) 出されていくのです。私が指摘したいのは、貿易の不均等があったのではないかと思うのです。日本で同じコメをつくって、それを日本の政府が買い入れるときの値段と、台湾とか朝鮮の輸出品として購入する場合では、価格の不均等性があった。貿易だったら、それは均等するはずですけれども、距離による輸送コストを除いてコメ価格に対する貿易不均等があった。そういう点で分析すれば、違うものが出てくるのではないかと思いました。

  植民地期の経済発展は誰のウェルフェアのためか、というご質問ですけれども、率直に言ってこれはわかりません。誰のウェルフェアのためにやったか、これは一概に言い切れないと思います。市場参加者たちはみんな、自分のために働いていたのではないかと思います。植民地政策とはなにか。それは植民地母国の政策の一環であることは間違いないと思いますけれども、そこから直接被植民地民に対する一般的搾取という図式が出てくるかどうかは疑問です。

  いま韓国は、一人当りのGDPの成長率をある程度のウェルフェアとして考えていますね。

  それも非常に複雑な問題です。最近その問題について若干の研究があります。GDP は上がっているけれども、住民の身長は伸びていないとか、民族別の所得分配の変化を見ますと朝鮮人に有利になっていくとか、GNP が増したとしても、もっと激しく働かなければならない状況に追い込まれてしまったらむしろ身長の成長がとまるとか、いろいろ研究しています。一概に植民地だからこうなるとかああなるとかいうのは難しい。

 もう一つは、不均等交換の問題ですが、これもなかなか難しい。不均等交換政策をやると、日本経済全体が歪んでしまう。朝鮮は日本に米穀を移出していましたから、たとえば朝鮮のコメの値段を大阪市場で安くするとします。そうなれば、日本全国のコメの値段が下がり、日本の物価体系が歪められる。もちろん、こんなことはありえないし、実際にもなかったことです。また、安く売るためには安く獲得しなければなりません。そのためには政策的に強制購入がなければならないのですが、そんな政策もありませんでした。戦時期の供出はありましたが。

経営規模と資本蓄積

 阿部 今日のお話の最初の部分で、韓国が大企業中心経済で、台湾がどちらかというと中小企業中心だということですが、韓国は大企業化するメリットがあったわけですね。台湾は大企業化しないで中小企業のままでいたほうがよかったというメリットがあった。安先生はその根っこを、植民地時代というか、戦前から話を始めるということですが、私はよくわからないことが一つあります。それは、台湾の土壟間の資本蓄積はかなり高そうだと、この資料で見られるのです。一方、韓国のほうは先生が言われるように借金経営で、自己資本の蓄積は多分薄いだろうと思うのです。自己資本の厚そうな台湾はなぜ企業経営を拡大しなかったのか。一方、韓国のほうは内部資本の蓄積が薄かったにもかかわらず、なぜ労働者を多数雇い入れて大組織をつくっていったのかが、これだけではその理由がわからないのです。

 もう一つ、これはいまの質問と違うのですけれども、韓国の企業が、取引費用が小さくなるから組織を大きくしてきたという意味は、内部労働市場を形成したほうが外部労働市場から人材を調達するよりよかったというふうにも読みかえられると思うのです。その場合に、なぜ韓国の離職率はいままでも高かったのか、ここはよくわからない。

  昔の経営についてはよくわかりません。具体的な資料の分析から答えを得るためにはもう少し時間が必要なものと思います。経済開発論によりますと、後発資本主義諸国には企業家と技術者等の人的資源が稀少であることと去来費用が高いことによって企業の規模が大きくなる傾向があるといっていますが。もうちょっと研究しなければわかりませんが、戦前の台湾と朝鮮にもそんな要因が働いたかもしれません。

 現代ならば、新聞や他の資料もあって、その理由がわかります。現代でも、韓国には大企業が多く、台湾には中小企業が多いのです。韓国では経営規模が大きければ大きいほど有利な面がありました。政策的な面でも、資本供給の面でもそうでした。借款経済もそれに一役買いました。

 阿部 韓国では、大企業に集中的に資本が投下されているということですね。

  最初は政府が大企業を育成し経済発展の担持者としましたが、それは中小企業が貧弱であったからそうなった面もあります。大企業中心経済になった以降は、大企業がつぶれたら国民経済に悪い影響が出てきますから、政府は大企業を保護するし、そのため大企業はどんどん規模を大きくするのです。韓国の大企業がほとんどそうだとは言い切れませんけれど。ですから、企業の規模は大きいですけれども、利潤率は非常に低い。これが今の韓国大企業の限界です。

 阿部 日本の大企業が内部労働市場化して、人的資源の蓄積を増やしたようなことは、韓国でもあるのですか。

  それはあります。韓国の事情では大企業が内部労働市場を生かして自分が必要とする技術者と技能者を確保しなければならなかったのです。1987年からは労働移動率もかなり低くなりました。

 阿部 いまの5大財閥とか10大財閥、50大財閥ですか ( 財閥と言わないのかもしれませんが )、その財閥の出自は戦前まで遡れるのですか。

  いまの韓国の財閥の中で戦前にできたものは非常に少ない。大体新しくできたものです。

 阿部 それでも、その根っこは戦前にもあるというふうに考えてもよいでしょうか。

  戦前に小企業を経営したり商業に従事したりして、経営の経験をした人はいますけれども、企業の根っこが戦前にまで遡る企業は、三養とOB等いくつかしかありません。韓国資本主義の発展は、自生的過程ではなく catch-up 過程でしたので、世界資本主義から大きく影響される。したがって、先進諸国の経済発展の前提条件が経済発展過程で調えられることがあるかと思います。

家族制度と産業組織

 斎藤 きょうの主題の枠外にあるのですけれども、最初に台湾と韓国の産業組織上の違いの一つに家族制度があるとおっしゃいましたね。どう違うのか、教えていただけますか。

  社会学者たちの説明によりますと、台湾は共同体家族で、韓国は直系家族と言っています。

 共同体家族というのは家父長と家族の構成員との間には支配関係があるけれども、家族構成員の間ではみんな平等である。台湾では、家族経営の場合、家父長である老板 ( ラオパン ) の権限が非常に強い。しかし、息子と娘婿たちは老板の下で一緒に働くけれども、各々会社の財産に対する自分の持分を持っている。韓国ではちょっと想像しにくい関係ですけれども、もともと中国人の家族は 「 同居共財 」 するといっています。

 韓国人の家族は直系家族ですから、親父と息子、また息子の間でも序列がきちんとしています。序列の社会です。韓国では年が1歳違ったら上の人を尊敬します。自分の兄でもないのに兄貴と呼んでしまうのです。そんな家族関係ですから、大きな会社ではピラミッド的な組織ができる。

 また、台湾の家族はもともと同居共財するから、景気がよくない時は分散しやすいし、景気がいい時は力を合わせて事業をやる。親会社から独立して新しい企業を起こすこともしやすい。韓国はなかなかそうはいかない。だから、韓国は大企業で、台湾は中小企業だという説明ですけれども、どのくらい説得力があるかわかりません。

未発達な問屋制度

  もう一つだけ、最後に説明された取引費用理論を使って研究している人がいるという話ですが、韓国において製造業で問屋制が非常に貧弱だというのをよく感じるのです。どうしてそれが維持されるのか、そのメカニズムがよくわからない。つまり、製造業者が消費者ないし小売業に全部分配するよりは、中継の集荷する問屋があったほうが絶対コストは下がってくるだろうと思うのですけれども、コスト理論の面からどうしてそれが問屋制に収斂しないのかがよくわからないのです。

  韓国の伝統的商人として 「 客主・旅閣 」 がありました。客主というのは客商の主人なのです。これは委託販売と委託購買を主業とする問屋でした。ですから、韓国でももともと問屋があったわけです。しかし、最近の研究によりますと、客主と旅閣が果たして商人層だったかどうか疑問を持つようになりました。なぜかというと、ソウル大学校の奎章閣に客主権の売買文書が残っていますけれども、その分析によりますと、10年か5年の間に客主権が頻繁に販売されています。もちろん奎章閣にいま残っている資料がもともと宮房が残した資料、つまり王家が持っていた資料ですから、それなりのバイアスはあると思います。ですから、もし客主と旅閣が商人層としてきちんと成立していたら、その権利を頻繁に売買することはない筈だと思うのです。客主権自体が頻繁に売買されている。ですから、客主資本だとか旅閣資本自体が蓄積されていなかったのではないか。したがって、近代に入って客主が経済の中心、流通の中心を掌握する問屋として発展することができなくなる。ご承知のように、植民地期の客主は農産物の取引には関わっているけれども、近代的な流通過程の中心からは追い出されてしまいます。

  法律でできるとは思わないですけれども、新しい流通として、スーパーとかコンビニの業態はどんどん韓国の中に入っていますね。ところが、モノの流通、つまり製造業の製品が消費にむかう流通の重要なところがどうしてあんなに細いのか、それが統合されて専業の流通業者がどんどん生まれてこないのかが、私は見ていてどうしてもよくわからないのです。

 尾高 まだいろいろまだ質問があると思いますけれども、このあたりでおしまいにいたします。どうもありがとうございました。

( 於 一橋大学経済研究所、1998年7月25日 )

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