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[分析] お前らが歴史歪曲を言うのか? -3-

2001.3.30.金曜日

タンジ歴史是正委員会

3.1 運動、その未完の中途半端革命

(政治/思想史を中心に)

日本帝国主義の侵略とそれに対する反動で起きた朝鮮民衆の独立運動。これを説明するために我が国の国史(下)では「III.民族の独立運動」という単元を別に設けている。ところで、この単元の順序を見ると、ちょっと面白い点が見つかる。この単元は

  1. 民族運動の動向
  2. 民族の試練
  3. 独立運動の展開
  4. 社会/経済的民族運動
  5. 民族文化守護運動 

の五つの段落に分けられている。ここで最も重要な部分、と言っても国史(下)の執筆陣の執筆意図が非常に素敵に、そして全く露骨的に表れている部分が「1. 民族運動の動向」という段落だ。

この段落は言わば、世界史的な流れで民族の独立運動を調べようという意味で編集されている。その論理は次の通りだ。

私がウィルソンです..

第一次世界大戦が終わったあとのパリ講和会議で、米国大統領をしていたウィルソンという奴が「各民族は自立する権利がある」と民族自決主義を主唱して、植民地支配に吟めいていたアジアは一斉に帝国主義に抵抗し始めた。我が民族もこのような流れに応じて日帝に抵抗し始めたのだ。ほら、とても素敵じゃないか?

本当なのかこの話? どう考えて見ても、アメリカ大統領ウィルソンという奴がどれほど偉い人間かは知らないが、その突然の一言にアジアの民衆が総決起したという話はひどい嘘性(?)表現じゃないかと疑心の警鐘を鳴らさざるを得ないのだ。

ところが、この段落で面白い文章がまた目に飛び込んで来る。

一方、1917年の11月革命で共産主義体制を確立したソ連は、コミンテルンを結成して反帝国主義民族運動及び弱小民族の独立運動と連携を試みながら、共産主義勢力を浸透させようとした。 [国史(下), 128p]

へえ、そうなの? この文章で我が国の国史(下)教科書は、社会主義勢力の非常に汚らしい行績を描いている。反帝国主義民族運動と弱小民族の独立運動を利用して社会主義勢力の拡張を試みたというのだ。 これは真実と言えるのか? 結局、民族の試練とそれによる反動的民衆運動を説明するために用意された一番目の単元である [1. 民族運動の動向] で、我が国の誇らしい国定教科書編集委員たちは果敢に、社会主義系列の独立運動の「被動性」を力強く主張しているのだ。これまた何を包み隠そうとする歪曲なのだろうか?

日本領朝鮮での「反帝国主義運動と独立運動」は大概、資本主義と社会主義の思想的対立という時代的環境から真剣に調べなければならないのだ。ところが、日本領朝鮮での「反帝国主義運動と独立運動」を利用して共産主義勢力の拡大を試みたという「poison the wall(井戸に毒)」式の歪曲を恣行して、社会主義系列の民族運動を覆い隠すことは果して許されるのか?

当時の思想的流れ

とりあえず3.1運動を前後した思想史的流れから考察して見ながら、どれほど我々の国史(下)教科書が歪曲されているのか調べよう。

当時の思想的流れは大きく資本主義 VS 社会主義の二大山脈に変わっていた。産業革命以後、主流思想として存在した資本主義。しかし、当時の資本主義は現在の 修正資本主義 とは大いに異なる 原論的資本主義 であり、言わば賭博式の独寡占と貧益貧・富益富現象が幅を利かせた創始期資本主義だったのだ。これに対する反動として出てきたのが社会主義、すなわちマルクス主義だ。 マルクス主義は資本主義崩壊に対する啓示録的な呪いを基礎に、労動者・農民、すなわち被搾取階級の天国を知らせる多分に「宗教的で夢幻的な」イデオロギーだったのだ。3.1運動はおりしもこのような二大思想、すなわち社会主義と資本主義の対立の中で孕胎して生まれるようになった。

3.1運動がある16ヶ月前の1917年11月は人類の歴史に一線を引く大きな事件が起こった記念碑的な日だ。そのように強大に見えた帝政ロシアがプロレタリア革命によって打倒され、ついに労動者・農民の天国を叫んだマルクスの社会主義国家が地球上で初めて誕生したことを知らせた年だった。3月革命によって誕生した自由主義者の政権を崩したロシア11月革命だった。

これはすなわち、創始期資本主義の副作用によって抑圧されて搾取された全世界の被搾取民衆たちには(そして日本と朝鮮の被搾取階級には)希望の宣言のようなものだった。労働者・農民、弱小民族、彼らのための世の中が到来するという宗教的であり夢幻的な、それも不完全なイデオロギーに対する信頼はかなり爆発的だった。

ところで何? コミンテルンを構成して全世界に社会主義勢力を浸透させようとしたんだって? 社会主義系列の反帝国主義運動は、それではソ連のコミンテルンによる絡繰り人形だっんだな? 一体どういう考えで、どんな意図でこの文章をそこに挿入したのか? 社会主義系列の躍動的だった活動が自発的だったと評価する場合、大韓民国の保守階層、その偉い地主と商人出身のブルジョア階級の立場があまりにも困るということなのか?

ここまで来ると、筆者を親日派チョッパリで、思想性が疑わしい共産主義者ほどに考える読者がいらっしゃるかと思うので、説明して差し上げよう。筆者は既に歴史的に死刑宣告を受けた社会主義思想には何ら関心もない人間だ。ただし、同じ民族独立という目標に向かって自分を献身した多くの社会主義系列の独立運動家たちが、イデオロギーの葛藤という悲劇的な祖国の分断現実によって忘れられることがもっと切ないだけだ。前に話したが、筆者が要求するのはできるだけ写実的な歴史的真実だ。どんな思想を持ち、どんな政治的立場を固守していても、民族の自主と独立のために献身した者たちを憶えていてあげなければならないのは子孫である我々の義務ではないか?

もちろん国史(下)では p.162で社会主義系列の独立運動に対してとりあえず言及をしてくれている。しかし、むしろ社会主義系列の独立運動の 限界性 を強調する文章を挿入し、社会主義系列の独立運動史的地位を格下げさせている。

…… しかし、社会主義運動はその路線によって理解を異にする系列があって摩擦と葛藤が深くなっていき、なおかつ民族主義運動とは思想的な理念と路線の違いによって対立が激化して、民族運動自体に大きな支障をもたらした。 

上の部分の路線の違いというのはアナーキズムとボルシェビズムの激しい アナ・ボル論争 を言うのだが、独立運動系列において分裂を助長するほど激しい論争ではなかった。その次の部分の民族主義運動との思想的な理念の違いというのは一部の民族主義者たちの「実力養成論」に対する社会主義者たちの反発を言うのだ。

実力養成論 とは、一部の地主階級と資本家階級が自分たちの既得権を守るために社会主義の過激な「革命論」を排除して、まだ実力がだめだから民族の力を増やしていつかは独立を勝ち取ろうという植民地支配の正当性をある程度擁護した曖昧な論理でもあった。ところで何? 独立運動がだめたったのは全て社会主義者たちの責任だと?

故意的に独立運動から社会主義者たちを徹底的に排除しようとする意図はまた別の所でも発見される。国史(下)のp.167を見ると次のような文章がある。

労動運動は主に日帝の植民地工業化推進にともなう苛酷な労動条件ゆえに起きた。労動争議は安価な賃金問題と劣悪な労動条件が主要争点だったが、ストライキが展開される場合、例外なしに警察が介入することによって失敗に帰す場合が大部分だった。争議が発生した所は大部分が日本人の経営する工場だったので、争議は反帝・反日闘争としての政治的性格を帯びた。

不幸にも、当時の日本領朝鮮には労組が成立するほど大きな工場を所有した民族資本が存在しなかった。当時は小規模の工場が大部分だったので、当然朝鮮人所有の工場では労動争議が発生するほどの余地がなかった。したがって、当然、労動争議を反帝・反日闘争と規定する国史(下)の論調は歪曲だ。この時期の労動運動は当然、社会主義系列の「プロレタリア革命論」の反資本主義運動の一環だ。すなわち国史教科書の記述が 行き過ぎた「反日」的誇張 なのだ。

日本の社会主義発展と若い朝鮮知識人たち

面白いことに3.1運動が起きた1919年は日本の社会主義運動史でも記念碑的な年だ。1919年、日本では数多くの労組が結成され、総2388件の労動争議が起き、年間32万名以上の労動者たちが労動者運動を起こした。なぜこのように朝鮮民衆の3.1 運動と日本民衆の社会主義運動はぴったりと合うのだろう?

それではここで日本社会主義の発展史を簡単に説明していく。

明治維新以後、日本からヨーロッパに渡った多くの日本の留学生たちは「ヨーロッパのもの」ならば便器を磨くブラシまでも偉大に見えるほどにヨーロッパ文明に傾倒していた。そのような渦中にマルクス主義が日本社会にも紹介され、日本では1898年、既に日本共産党の前身と言える「社会主義研究会」が結成された。社会主義研究会は以後「社会民主党」として本格的に一つの政党になったが、社会主義革命を恐れた日本帝国主義者たちは治安警察法で彼らを弾圧して解散させた。しかし、再び労働争議、小作争議が活発に行われた1900年代中盤の1906年、結局は再び 日本社会党 が結成され、彼らは東京市政府が電気料金を引き上げることに対して大々的民衆運動を展開、結局はまた警察機動隊と衝突する事態にまで広がった。それだけでなく翌年1907年には大々的労働者ストライキを展開、日本軍が出動してこれを鎮圧する事態にまで至った。これをきっかけに日本政府は社会党の解散を執行し、この時に拘束された党員たちが出所する時、社会党員たちが集まり、赤い旗を掲げて行進するのをまた警察が攻撃、数多くの社会党員がまた逮捕された有名な 赤旗事件 につながり、現在も日本共産党の機関紙名は赤い旗、すなわち「アカハタ(赤旗)」として残っている。

1908年成立した第二次 桂内閣は、社会主義者たちに対する取り締まりを強化、結局1910年には大逆事件(天皇暗殺謀議事件)を捏造、社会主義者検挙に熱を上げて、日本の社会主義を1919年まで深い冬眠に陥らせた。これについては 日本史 に出てくる文章を紹介する。

[韓国併合に] 対し、それまでの日本政府の対朝鮮政策を批判して朝鮮民衆に同情を送った日本の社会主義者たちも、5月から8月までの大逆事件による殺伐とした検挙熱風と社会主義者弾圧のために、併合に対する反対運動を繰り広げることもできなかった。 

上で説明した通り、日本の社会主義運動の特徴は 自然発生的 というところにある。日本資本主義がヨーロッパ、特に英国をモデルにしたことを、そしてマルクスが資本論を著述する時に特に英国労働者たちの悲惨な日常を主モデルにしたことを考えれば、日本の社会主義運動がどうして自然発生的であったかは、とやかく言う必要も無い。それほど、日本が直輸入した英国の「原論的資本主義」の弊害は深刻だったのだ。コミンテルン? 日本社会党が結成されたのはコミンテルンが成立するよりもはるかに以前のことだ。

だとすれば、日本領朝鮮に社会主義はどのように紹介されたのだろうか? 日本領朝鮮に社会主義が伝播された主要なルートは日本だった。当時、日本領朝鮮の多くの知識人は日本に留学に行ったが、彼らが当時の日本の知識人社会に吹いた「左派旋風」に大きく勇気付けられたのは当然だ。日本の社会主義者たちは日本の植民地経営にも反対したし、朝鮮民衆の運命は朝鮮民衆の力によって成されなければならないと、日本に留学に来ていた朝鮮の若者たちに独立の意志を植え付けてくれたのだ。当然、ここで影響された朝鮮の若い知識人たちは、社会主義思想を母国朝鮮に移植しようという努力を傾け始める。これが朝鮮労働党、特に南労党系列の思想的母胎となる。

言い換えるが、社会主義者たちの独立争取のための努力が貶められてはならないのだ。

我が国の国史(下)では関東大地震の時の朝鮮人虐殺をこのように説明する。

1923年、日本の関東地方で発生した地震で人命と財産上に大きな被害を被り、日本内の民心が乱れて慌しくなった。この時、日本の当局は「朝鮮人が暴動を起こし、日本人を殺している。」というデマを撒き散らし、社会不安の原因を韓国人のせいにした。これによって、在日同胞6000人余りが日本人に虐殺される大惨事が発生した。 [国史(下)p.170]

実際、朝鮮人虐殺の真相はまだ明らかになっていないが、朝鮮人虐殺事件が発生した本当の理由は、日本政府が、大地震で混乱した社会雰囲気の隙を突いてプロレタリア革命を起こそうとした社会主義者を、一斉に掃討するために繰り広げた自作劇であったという説が最も説得力を持っている。社会主義者たちが放火とテロ、そして組織的なサボタージュ活動を開始すると、彼らを 不良鮮人(不良な朝鮮人) だと追い立てて、いっぺんに一網打尽しようとしたのだ。そのような渦中で、日本帝国主義者たちに煽動された一部の自警団が社会主義者、反政府人士たちを虐殺するが、おまけに朝鮮人まで片っ端から殺害した不幸な事件だ。結局、 日本の社会主義者たちと日本領朝鮮の民衆の運命は、ある程度同一線上にあった と言っても過言ではない。しかし、我が国の国史(下)はこのような社会主義者たちの話はただ1行の文章でも、いやただ一つの修飾語句でも借用していない。どんな理由だろうか?

ここまで来れば 3.1運動の真正な真実が何なのか心配する読者諸氏がそろそろ一人二人ずつ生じ始めただろうと思う。だとすれば、これからは日本と日本領朝鮮を一つの巨大な水の流れと見て、その中で3.1運動の真の位置づけを一度やってみよう。ここからが筆者なりの歴史記述だ。

3.1運動の正体は?

明治維新以後、日本の政権を掌握していたのは自由党だった。自由党は日本のサムライ階級、特に上州と薩摩出身のサムライ階級が主軸となって構成していた保守右翼的色彩が濃厚な政党であり、この自由党は第二次世界大戦以後、自由民主党、すなわち自民党として生き残って、いまだに日本の与党として健在している。ところが、日本の歴史上、この自由党政権が崩れたことが一度だけある。それは 原敬 が主軸となって構成した原内閣が1918年 成立した事件から始まる。この時期が 大正デモクラシー と呼ばれる日本の民主化運動が頂点に達した時期と一致する。

初代朝鮮総督だった寺内が日本自由党の随伴になって率いた寺内内閣は、相次ぐ実情(米騒動)で国民的な抵抗に直面、結局失脚して、憲法守護運動を繰広げた自由主義人事であり民権運動家だった 原敬 が首相になると、日本での民主化熱風は荒々しく吹き荒れた。社会主義者たちが長いの期間の冬の時代から目覚めて、社会運動が激烈になったのはもちろん、自由主義者、無政府主義者、とにかく、あらゆる種類の思想が 百家争鳴式にその実を開いて、日本の民主主義の成熟をもたらした時代が到来したのである。我が国の6.29宣言を思い浮かべれば、よく理解できるだろう。

日本最初の民主主義政党内閣だった原内閣が成立したのが1918年9月、だから3.1運動が起きるまさに6ケ月前だ。なぜ、3.1運動が起きるちょうど半年前に社会主義者たちに対して比較的柔軟な態度を見せた民主政府が日本で樹立されたのだろうか? あ… かなりタイミングよく合っている。

我々はしばしば、民族指導者33人の「独立宣言朗読」が3.1運動の引き金を引いた決定的な事件だと信じて疑わない。ところが、本当にそうなのか?

しかし、日本の民主化熱風が荒々しく起きていた1919年2月、東京で朝鮮人留学生たちが2月8日、まず先手を打った事実を我々はよく知っている。まさに 2.8独立宣言 というものであるが、2.8独立宣言の主役たちの名前を知っている読者諸氏、ひょっとしていらっしゃるか? いないでしょう? 当然、我々の優秀な 国史(下)にはどんな人間たちが 2.8独立宣言を企画して実行に移したのか実名さえ記録されていない。なぜなんでしょ〜〜か?

2.8独立宣言 は日本留学生たちが主軸になっており、彼らの実名を取り上げようとするなら、彼らが在籍していた学校の学生名簿を探せば一気に分かることだ。こんな巨事を執行した人々の実名をなぜ我々は知らないのか?

筆者は先に日本の知識人社会での社会主義指向を情熱を注いで説明した。考えてみなさい、2.8独立宣言を主導した学生達の政治的指向を。左派だった可能性が高くないか? もしそうなら、社会主義者たちが3.1運動の決定的な引き金を引いたという事実を、我々の右派史学者たちがどうして我々に教えることができるか? 当然、2.8独立宣言の比重はかなり落とされているのではないか? 読者諸氏はどのようにお思いか?

とにかく民族指導者33人がパゴダ公園に集まって、独立宣言文を朗読して、万歳運動を始めた。ところで、この点について一度考えてみよう。 とりあえず民族代表33人という人々の構成はほとんどが宗教人だった。う〜ん… 我が国の抗日団体は宗教団体だけだったのか? その上、当時絶対的に多くの人口が信じていた仏教界からはただ一人の代表者も参加していなかった。 本当にその方たちは民族の代表で合っているのか? 大多数の仏教信者らは、それでは3.1運動からすっかり抜け落ちたのではないか?

我々の国史(下)では3.1運動の展開について次のように記述している。

ソウルで始まった3.1運動は全国津々浦々に急速に拡散、波及した。ところで、3.1運動は拡散過程で概して3段階の様相を帯びた。
一番目は、民族の代表たちが独立宣言書を製作、配布することによって、万歳デモ運動を点火した段階であり、この時の独立運動の方向は非暴力主義であった。
二番目は、学生、商人、労働者層が参加することによって、デモ運動が都市に広がった段階だ。学生たちが主導的役割をし、商人、労働者らが万歳デモ、ストライキ、運動資金提供などの方法で積極的に呼応した時期であった。
三番目は、万歳デモ運動が主要都市から全国の農村各地に広がった段階だ。農民たちがデモに積極的に参加することによって、デモの規模が大きく拡がっていく一方、デモの群衆は村役場、憲兵駐在所、土地会社、親日地主などを襲撃した。このように非暴力主義が武力的な抵抗運動に変貌していった時期であった。 [国史(下)p.145〜146] 

ひょっとして、柳寛順お姉さんはプロレタリア革命論を信じる社会主義者ではなかっただろうかという大それた想像をしてみた読者諸氏はいらっしゃるか? さて、レーニンのプロレタリア革命の展開方式と3.1運動拡散の2段階と3段階はあまりにも似ている。 社会主義者たちの伝統的な革命戦術、とりあえず社会主義知識人たちは労働者・農民の中に入っていき、彼らを思想的に教育して、ついには彼らの武装蜂起を 通じてプロレタリア革命を果たすというプロレタリア革命の展開戦術と3.1運動の拡散はなぜこのように似ているのか?

それでは、本当に3.1運動の主体は何なのか? ひょっとして社会主義の理想郷を夢見た日本領朝鮮の若い知識人たちではないか? どうして宗教界人士が3.1運動の主体として推仰を受けているのだろうか? 万歳三唱して、宣言書朗読して、どうか日本の警察を探して私を捕まえて下さい... と言って、自首をした幼弱ないわゆる民族指導者らが、果して3.1運動の主体だったのだろうか?

柳寛順お姉さんを考えてみなさい。自分の故郷に戻って、無知なまま、ただ奴隷としての人生に満足して生きていた農村の村婦たちを説得して、万歳を叫ぶようにした柳寛順烈士を考えてみなさい。くそっ、彼女の思想に決定的に影響を及ぼした思想は何だったのか? 汚い帝国主義と結託した原論的資本主義なのだろうか? でなければ、弱小民族と労働者農民の天国を叫んだ社会主義思想なのだろうか?

3.1運動が社会主義運動であったという結論を下そうというのではない。ただ、我々の国定国史教科書は、いろいろな説明なしに 朝鮮 VS 日本 という単純構図 でだけ説明しようとしており、これも一種の誇張なのだ。

それで結論として.....

筆者は先に、短いコメントでこの鬱陶しい文章の結論をあらかじめ話していた。 大韓民国の主流社会の親日コンプレックスをカバーするための方便として我々の国史教科書はむしろ過度に反日本国家主義的に歪曲、捏造されている というのが筆者の主張だ。

ところが、事実上その中を覗き見ると正反対だ。面白いことに1950年の解放以後の大韓民国の現代史は、1890年代から1945年にわたる日本近代史の複写版だ。

大韓民国の場合、自由党政権の無能な国政遂行と独裁で4.19革命が起きた。

日本の場合、同じ名前の自由党政権の無能な国政遂行と独裁で大正デモクラシーという一連の民主化運動が起きた。

大韓民国の場合、4.19革命によって誕生した第2共和国が極度の社会混乱に陥る中で、 国家社会主義 思想に染まった軍部が北朝鮮の威嚇を名分として掲げ、5.16クーデタを起こして軍部独裁政権を樹立した。

日本の場合、大正デモクラシーによって立てられた民間政権が極度の社会混乱に陥る中で、 国家社会主義 思想に染まった軍部が西欧列強の威嚇を名分として掲げ、2.26クーデタを起こして軍部独裁政権を樹立した。

大韓民国の場合、政経癒着を通じた金権政治が幅を利かせるようになった。

日本の場合、政経癒着を通じた金権政治が幅を利かせるようになった。

大韓民国の6大主要輸出品目は、家電、自動車、重化学製品、半導体、造船、鉄鋼だ。

日本の6大主要輸出品目は、家電、自動車、重化学製品、半導体、造船、鉄鋼だった。

21世紀を目前にした今、はたして大韓民国は本当に日本から独立した国家なのか? 死ぬほど朴正煕が酒に酔うとしばしば日本軍歌を歌い、自分の10月維新を日本の明治維新と比べ、日本の政治家たちに頭を下げて額付いて「先輩様」と呼んだということを暴き出したくない。表面では反日を叫ぶが、経済、社会、文化、政治の 全てのシステムを日本から借用してきた大韓民国の主流社会のあの卑屈で安易であり、結局は我々全てに日本式システムの非効率性を実感させた親日根性を筆者は論じたい。 そいつら、すなわち大韓民国の主流社会を構成するという奴らは皆、過去の地主階級、新興商人階級の後裔たちではないか?

李丙Z(イ・ビョンド)先生は、朝鮮史編纂委員会で総督府の植民地史観を完成した。

朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は日本の陸軍士官学校で習った軍国主義、国家社会主義思想をこの国の統治理念として使用した。

李秉普iイ・ビョンチョル)会長は、小作人たちの血と汗が作ったコメを日本人たちに売って企業を起こし、結局は世界屈指の企業を作り上げた。

方氏一家は、日本企業らの広告を載せて、朝鮮日報の状況をかなり拡張した。

はたして、彼らに親日コンプレックスは存在しないのか?

歴史とはまことに虚しいものだ。 我々は日本帝国主義者たちが我々を統治するのに使ったその全ての方法論を受け継いだあの朝鮮日報に代表される保守右翼らの歴史観をいまだにそのまま信奉している。くそっ, 読者諸氏よ! 君たちは拝謁もないというのか?

朝鮮の植民統治に反対した我々のような運命と違わなかった日本の民衆たち。帝国主義の論理の犠牲となり、国家社会主義政権の 操り人形に転落し、遠くの南方諸島で米帝国主義者たいの火炎放射器に焼け死んでいった多くの日本の若者たち。

くそっ、彼らを不幸に追いやったのは誰か?

悪いと言うなら、既得権者がそのように崇拝して止まなかった 国家至上主義 、すなわち ファシズム ではなかったのか?それらを安売り市場の品物を渡すように簡単に 日本 という単語に入れて、 同時代の犠牲者同士、お互いに憎悪して蔑視するようにした 奴らは果して誰か? そいつらが我々、善良で愚かな大衆の教育を操作して、憎しみと憎悪の方向を 友人になる価値がある良心的な人々が少数でも暮らしている日本 という国に向けるようにしたのではないのか?

歴史とは、民族と民族の争いよりは持つものと持たざるもの、搾取者と被搾取者の対立というマルクス主義的歴史観を強要しようというのではない。しかし、読者諸氏に聞こう。

はたして、この国の保守右翼は親日コンプレックスから自由になれるのか?

筆者は大韓民国国民の偉大さを話したい。3.1 運動が単純な抗日運動ならば、3.1運動は民族の 独立と共にその実効を失ってしまう。しかし、3.1運動は 反帝国主義、反国家主義、反ナショナリズム運動 とその軌を一にする。3.1運動の伝統は我が民族の偉大な遺産として残り、4.19革命につながったし、また消えない民衆の歴史的 改革に対する要求は光州民主化革命と6.10革命につながり、ついにはこの国をあの凄じい国家社会主義、すなわちファシズムから救い出したのだ。

日本民衆の抗争を見なさい。全共闘に代弁されるあの有名な東京大学安田講堂占拠事件や、赤軍派運動に代表される反帝国主義、反国家主義抗争は結局挫折して、村上春樹の小説の中での時代をスケッチする一つのデッサンに転落することになる。その後、日本民衆は完全にあの暗鬱で陰凶な自民党(旧自由党の政治的赤字)一党独裁に呻いている。バブル崩壊の深い経済的墜落とともに。

我が民族の未来が日本民衆より明るいとすれば、この点だ。彼らが成し遂げられなかった真の民主化の成就、それを我々はやり遂げた。日本の奴らは米国の奴らに敗れて初めて気がついた。しかし、我々は少なくとも我々自ら、我々の右傾化を防ぎきった。

だったら、今度は再び我々を振り返ろう。くそっ、我々の歴史書が間違っているのに、他人の歴史書を論ずるなという話だ。日本の右翼団体教科書が正しいとか、我々が話す資格がないということではない。我々自らを振り返ることのほうがはるかに重要で急がれると言うことだ。日本を糾弾するのも良いが、その渦中にまさに埋められているものが何かを振り返ろうということだ。 我々自ら、我々の右翼化を心配しようということだ。

日本の右傾化よりもっと恐ろしいのは我々自らの右傾化、我々自らのファシスト化 ではなかったか?

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