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呉清達と精文研

(月刊朝鮮 2002年7月号)

大法院が「在日北傀工作指導員」と確定判断した呉清達が深く関与している大阪経法大・国際高麗学会と手を取り合って、第1回世界韓国学学術大会を推進している精神文化研究院

●精文研は1975年発生した在日同胞留学生スパイ集団事件の背後の操縦者であり、在日の大物スパイとして疑われている呉清達を招請しようとしたが、国情院に止められているうち
●呉清達が抱き込んだ人物は死刑宣告受け減刑、14年間服役
●『呉清達、「訪韓のために遵法誓約はするものの、過去のスパイ集団事件は謝罪することはできない」とする』(李吉相教授)
●呉清達、「保安法に違法する事実があるならば厳正に処理されるはずだ」
●精文研、「太陽政策の精神により、誰でも包容しなければならない」
●呉清達は在日同胞二世で、済州出身の父母は自主北送
●日本の週刊文春は呉清達を「金正日の直属スパイ、その仮面は大学副学長」と報道
●北朝鮮の学者たちが訪韓、学術大会でいわゆる主体思想に関する主題を発表する予定

振栄(月刊朝鮮記者)・Vladimir

ironheel@chosun.com

 

呉清達をめぐる疑惑

1975年、学院浸透在日同胞留学生スパイ集団事件の「在日北傀工作拠点責任者」呉清達氏は現在、日本の大阪経済法科大学副学長であり、国際高麗学会の常任顧問である。

韓国精神文化研究院(院長・張乙炳)が、その呉清達氏の入国を推進している。精文研は7月18〜20日、三日間の予定で第1回世界韓国学学術大会を準備している。呉清達氏が常任顧問である国際高麗学会は今回の学術大会の共同主催者のうちのひとつで、彼が副学長を勤める大阪経済法科大学付設アジア研究所は、今回の学術大会の協賛者のひとつである。このため呉清達氏は、今回の世界韓国学学術大会の海外諮問委員として委嘱された。

1975年11月22日、当時の中央情報部は在日同胞母国留学生を装った学院浸透スパイ集団21人を摘発した、と発表した。この発表によれば、「在日北傀工作拠点責任者」呉清達(当時34歳・大阪市の啓成学院院長)は、日本の大阪で在日スパイ金貴雄・安日秀・白玉光などと北傀労働党党細胞である「金日成主義研究会」を組織し、在日同胞を抱き込みスパイ教育を行い、留学生の身分で韓国内に浸透させたとされている。彼ら在日同胞留学生スパイは、韓国国内の情報収集。学院内における反政府組織の構築、および学院の騒擾煽動、軍将校の抱き込みなどを企て検挙された。

この事件の主犯である白玉光に対するソウル刑事地方法院の判決文を中心として、呉清達の行跡を再構成してみる。

在日同胞、白玉光(1948年出生)は大阪大学在学中、在日北傀工作員の金貴雄に抱き込まれた。白玉光は1968年から1975年のあいだ、数回にわたり北朝鮮に入国し、密封教育を受けて労働党に入党した。民団系韓国青年同盟大阪支部・韓国大阪青年会議所などで活動した彼が呉清達と関係を持つようになったのは、1973年10月〜1975年4月12日の「金日成主義研究会」活動を通じてのことだった。

1973年10月のある日(判決文には日時不明とされている)、白玉光は日本の三重県伊勢志摩にある賃貸別荘で「在日北傀工作指導員」呉清達(当時32歳)・金貴雄・金チャンスなどと会い「金日成主義研究会」を結成した。

金日成主義研究会の目的は1973年11月中旬、白玉光が僑胞青年であった金泰明に研究会への加入を勧誘しながら述べた言葉のなかによく現れている。これによれば、「金日成主義研究会は、金日成の主体思想を指導理念とし、韓国の革命と祖国統一のために日本を拠点として韓国に革命組織を構築して、北傀儡支配の下に祖国統一を成し遂げる」ことを目的として組織された団体だ。

この金日成主義研究会の委員長が、まさに当時、大阪大学大学院工学部博士課程に在学中だった呉清達であった。金貴雄は副委員長、金チャンスは総務部長、白玉光は連絡部長を担当した。

この日の集会で参席者たちは、研究会の事業方向は研究会全員が討議決定し、具体的な事項は委員長である呉清達と個別的な討論を経て施行するようにした。役員各自は1年以内に、在日同胞青年学生の中から核心を選抜、指導育成して韓国に派遣するようにした。

南朝鮮軍部への工作任務

以後、一ヶ月に一度ほど行われた金日成主義研究会の集会での、呉清達の指示内容はおもに在日同胞の青年学生たちを抱き込み、共産主義思想を注入して、彼らを在日同胞留学生という身分で韓国に押し込むことに集中した。在日同胞留学生スパイ集団事件の金五子・金鍾太・呉正治・金東輝などは、こうして抱き込まれた人々だ。呉清達は在日同胞留学生のスパイを活用し、対南学生革命指導部を構成、韓国内の学生デモを反政府デモに昇格させ、韓国政府の打倒を試みるよう指示した。

中央情報部の発表によれば、呉清達などは韓国留学を希望する在日同胞たちに韓国の風習と歴史、韓国語などを教えるという口実で、日本の大阪などで啓成学院・シアル(種粒)書堂・白頭学院などを運営した。彼らはまた在日同胞を抱き込むための拠点として、庶民金融企業である千里第一商社も運営した。

1974年3月以後、金貴雄は白玉光に「南朝鮮軍部工作任務」を任せた。在日同胞のなかから韓国軍将校を親戚に持つ者たちを物色し、彼らを通じて現役中堅将校と予備役中・下層将校を抱き込んだ後、彼らに韓国の現政権(朴正煕政権)を打倒するクーデター指導部を組織するようにせよ、とのことであった。

同じころ呉清達は白玉光に、韓国に入国してソウル青年会議所の会員を通じた軍将校級縁故者を把握し、韓国内の民心動向など諸般の情報を収集してくるように指示した。これにともない白玉光は、自分自身が在職していた在日韓国大阪青年会議所の業務関係を口実として、同年3月16〜22日に入国しているあいだ、大学生などと接触しながら学生運動の動向などを探知した。白玉光は呉清達の指示により、軍部工作の一環として、親姻戚に現役の韓国軍将校を持つ韓国木浦青年会議所国際部長の李某氏、在日同胞の南某氏、金某氏、崔某氏らに接近し抱き込みを試みることもあった。白玉光はまた、駐大阪韓国総領事館事務員の蒋明玉(女)を抱き込み、恋人関係を維持しながら、蒋を通じて駐大阪総領事館に派遣された中央情報部所属の領事たちに関する情報などを収集した。

金日成主義研究会の活動は1975年4月12日に突然中断される。呉清達はこの日、会員たちと会った席で「北側中央党から、金日成主義研究会の組織運営と事業進行が振るわないことを理由に、これを中止しろとの指令を受信した」としながら「同研究会の活動は中断し、祖国統一が実現されるその日まで、独自に革命の道で闘争するようにせよ」と語った。

日本の「週刊文春」報道「金正日の直属スパイ、仮面は大学副学長」

以後、白玉光は当初に彼を抱き込んだ金貴雄の指示により、会社員の身分で1975年10月3日に入国したが、中央情報部に逮捕された。

ソウル刑事地方法院は、白玉光に対する判決文を通じ、呉清達が「在日の北傀工作指導員」であることを確認した。白玉光には死刑宣告が下される。1976年12月14日、大法院は白玉光に対する原審判決を確定した。白玉光は1981年、懲役20年に減刑されたが、1990年5月に盧泰愚大統領が訪日を控えて転向した在日同胞スパイを特別仮釈放した際に解放された。

在日同胞留学生スパイ集団事件についてもう少し詳しく理解するために、当時の捜査関係者、弁護人などと接触を試みた。

当時、中央情報部対共捜査局長であった金淇春・ハンナラ党議員は「そのような事件があった、ということだけが想い起こされる」と語った。6・13の地方選挙で尚州市長に出馬した金槿洙・当時の対共捜査団長は、選挙のため、また白玉光の弁護人であった太倫基弁護士は高齢で臥病の身であるため接触できなかった。白玉光の恋人、蒋明玉の国選弁護人だった申五弁護士も、その事件をまったく覚えていなかった。

1975年11月22日、中央情報部が在日同胞留学生スパイ集団事件を発表すると、呉清達は翌日の朝日新聞などを通じ、自分の関連事実を全面否認しながら「逮捕された留学生も一名だけが顔と名前が一致する程度だ」と主張したという(週刊文春1999年10月7日)。

呉清達という名前は、1990年頃から韓国内の言論でふたたび議論されはじめた。今回は「在日の北傀工作指導員」としてではなく、海外韓国学研究を先導する、大阪経済法科大学の副学長としてであった。1990年11月、国内のいわゆる進歩的学者の集会である学術団体協議会は、「祖国平和と統一のための南北学術討論会」開催を北側に提議しながら、呉清達に仲介を頼んだと報道された。

「在日の北傀工作指導員」から大学の副学長への途方もない変身は、どのように行われたのだろうか?「在日の北傀工作指導員」と大学の副学長のうち、どちらが呉清達の本当の顔なのだろうか?

1999年9月30日から11月14日まで、日本の「週刊文春」は5回にわたり「金正日の直属スパイ、仮面は大学副学長」という題目の記事を報じた。取材者はルポライターの加藤昭氏と週刊文春取材班であった。加藤昭氏は1992年、日本の共産主義運動の伝説的人物である日本共産党名誉議長、野板参三(当時100歳)がソ連への亡命時期、同僚の共産党員を密告し死に至らしめた手紙を発掘し報道した人物だ。この報道で野板参三は、終生身を寄せていた日本共産党から除名されてしまう。

大阪経法大と呉清達

1999年、週刊文春の記事で議論された人物がまさに呉清達であった。週刊文春の記事に現れた呉清達の行跡を要約する。

「呉清達は1941年11月3日、在日同胞二世として大阪で生まれた。父の呉漢準は韓国出身だが、朝鮮総聯大阪支部で活動した経歴を持っている。呉清達は高等学校を卒業した後、大阪大工学部に進学して造船工学を専攻した。1979年には大阪大で「船体周辺から発生する3次元剥離渦動に関する研究」で工学博士の学位を得る。大学時代の呉清達の友人は、彼を「才覚あるタイプで、大阪大に在学した時期から金尚淑・高宇峻のような在日僑胞の有力者に接近していた」と証言した。

高宇峻は朝鮮総聯傘下の商工人連合会大阪本部の幹部であり、呉清達は彼の娘と結婚した。金尚淑(日本姓は金沢)は、大阪の在日商工系の大物だ。ソープランド(韓国の蒸気湯・記者注)と貸金業、パチンコ業で財をなした彼が、大阪経済法科大学の設立に至ったのは1969年頃である。申請を受けた文部省は「創立者の前歴を敬遠する」という理由で許可をためらった。だが金尚淑は森下泰氏など大阪財界の名士たちを大学理事に呼び入れ、許可を取りつけた。1971年2月、学校法人大阪経済法律学院と大阪経済法科大学が設立された。

呉清達は金尚淑の二人の息子、金俊行・金俊孝の家庭教師をしながら、金尚淑親子と縁を結ぶようになった。大阪経法大が開校して約3年が過ぎたころ、金尚淑が病に倒れ、大学は危急な状態に陥った。金尚淑が死ねば経法大の財産が日本側に没収される、と心配した朝鮮総聯大阪本部委員長の李達信は、金尚淑の理解者だった尹和玉(日本姓・阪本)とともに経法大を在日朝鮮人の財産として保全することに努めた。その結果、大学は朝鮮総聯に傾いていった。

金尚淑が死んだ後、長男の金俊行は大阪情報コンピューター専門学校理事長、次男の金俊孝は大阪経法大理事長となった。彼らと一緒に呉清達は大阪経法大の実権を掴んだ。ある関係者は「教養部に在日韓国・朝鮮系理事と教授がめだち始めたのは、創立者である金尚淑氏が死亡した翌年からのことだ。後に呉清達の独自支配が始まった云々といううわさが広まった」と語った。大阪経法大学教養部教授・助教授たちの名前のなかで、42人中14人が在日韓国・朝鮮人に見える。理事8名のうち、半分以上が在日韓国人である。

「博士学位取得すると金日成が特別なプレゼントが」

呉清達は1987年、大阪経法大の事実上の責任者である常務理事兼事務局長となった。その後、呉清達は自分と近い人々を大学の理事などに引き込み、大学運営の実権を完全に握る。現在、呉清達は大阪経法大副学長・大学評議会常務理事・教養部筆頭教授として、大学の中心的存在という役割を果たしている。

大阪経法大は北朝鮮の社会科学院社会主義経済管理研究所・同法学研究所、ロシア科学アカデミー東洋学研究所、韓国の延世大学校・統一研究院などとも提携関係を結んでいる

呉清達は、朝鮮総聯傘下の「在日本朝鮮人科学技術協会(略称「科協」)」とも密接な関連を結んでいる。呉清達をはじめとする関西地方の一流大学出身である在日朝鮮人教授の大部分は科協の所属員である。

科協は情報関係者のあいだでは、北朝鮮の軍需産業を担当する第二経済委員会傘下企業の朝鮮科学技術協調社などを通じ、「日本の科学技術情報を北朝鮮に送る産業スパイ集団」として知られている。

1999年4月、朝鮮科学技術協調社のメンバーを中心として構成された朝鮮科学技術交流団が、二度にわたり訪日した。彼らの訪日の目的について、ある情報関係者は「軍需物資の調達、あるいはそれに関連した情報収集とみて間違いない」と語った。

このとき、彼らは大阪経法大も訪問した。彼らが経済学部と法学部しかない大阪経法大を訪問した理由について、ある朝鮮総聯関係者はこのように明らかにした。

「大阪経法大の呉清達副学長を中心とする教授グループには科協メンバーが多く、日本の科学技術情報を収集している。代表団の目的は他でもない、呉清達グループと接触するためのものだ」

呉清達は大阪大を卒業ののち科協に所属していたが、1975年の在日同胞留学生スパイ集団事件以後、事件関係者たちの究明運動を繰り広げる過程で科協から脱退した、と主張した。だがこれは表面的なことだけで、呉清達は実質的には相変らず科協の会員という主張もある。

1979年、呉清達が博士学位を取得した際、科協会員たちには「祝賀パーティーを開くので全員参加せよ」という指示が下されたという。パーティーでは金日成が呉清達に送った特別の贈り物が渡され、呉清達は「首領様に対する答礼演説」をとても長く行ったという。「名簿上では科協会員ではないのかも知れないが、実際は科協会員以上の待遇であった」ということである。

「在日工作拠点『留学同』」

呉清達に対する平壌の「特別扱い」はここで終わらない。呉清達も週刊文春とのインタビューで、「黄長前労働党秘書と二回以上会った。そのうち一回は(亡命直前である1997年)、京都で開催した歓迎会の席であった。その時は彼の孫に選別の金品まで渡したのに、そのまま亡命してしまった」と明らかにしたことがある。

主体思想の創始者として、朝鮮労働党内の序列が常に25位前後を占めていた黄長が頻繁に海外に出るはずもない。とすれば呉清達と黄前秘書とのその他の出逢いは平壌でのことだった可能性が高い。特権階級の高官と墓まいりのため帰国した在日朝鮮人が容易に会えるということ自体が、呉清達が「北朝鮮中枢に直結した男」であることを示す証拠だ。

1991年、呉清達が北朝鮮社会科学院との交流を名目として、北朝鮮を大阪経法大の側近らとともに訪北した時、最高級の高麗ホテルに宿泊しながら連日、昼夜で派手なパーティーを開いたり、ゴルフ場にしばしば出入りしては北朝鮮側の人々から顰蹙を買ったという話もある。

呉清達が関係した朝鮮総聯傘下団体は科協だけでなく「在日本朝鮮人留学生同盟(略称・留学同)」というものもある。

大学時代から呉清達をよく知る前北朝鮮工作員は「呉清達は大阪大学の時代から『留学同』の大阪地区委員長として活発に活動していた」と証言した。ある情報関係者は「『留学同』関係者は北朝鮮諜報機関と接触するなど、必ず政治的背景を持つ」と断言した。

「『留学同』を経て科協という組織に所属された人は、ほとんどすべてが政治的意図を持っている。そのうえ、その間に北方の諜報機関と接触した痕跡のある者はは、100%工作員であると断言できる」という前朝鮮総聯関係者の証言もある。

大学時代の「留学同」活動について、呉清達は「民族的素養を身体になじませるため、南北朝鮮の歴史を学んでいただけだ」と主張した。だがその時期、大阪地区の「留学同」に身を置いていたある在日本韓国人は、このように話した。

「『留学同』の活動は主体思想の学習がその主な目的だ。『留学同』が対南工作の拠点として使われていたのは事実だ。私自身も、何度もスパイとして勧誘を受ける。当時、韓国では住民登録法が改正されたため直接にスパイを送ることができなくなったため、日本の組織が事実上の拠点として使われた。その中でも「留学同」は「留学」という大義名分を持って、韓国に堂々とスパイを送ることができるため、もてはやされたのだ」

「北朝鮮の工作員の訓練所で呉清達を見た」

週刊文春の記事は1975年の在日同胞留学生スパイ集団事件の関連者らの裁判記録に現れた、呉清達など金日成主義研究会会員のスパイ活動を長く引用しているが、これは前述したので省略する。ただし当時、事件関連者らの救命運動を繰り広げた、ある在日朝鮮人活動家の話を紹介する。

「遺憾なのは呉清達に利用された学生たちだ。まだ彼らの家族は『そんな工作員にだまされて……人生を台無しにした』と、呉清達に対しかんかんに怒る」

週刊文春取材班とのインタビューで呉清達は「以前のスパイ事件で『留学同』が拠点であったと発表されているがどう思うか?」という質問に対し、このように答えた。

「『留学同』としては関与しなかった。その当時、事件の多数が捏造されたというのが私の認識だ。確かに南北統一はわれわれの最大のテーマだが、それがとりもなおさず韓国に行って細胞を作ることではない。主眼とする点は、民族的な素養を身体で覚えることである」

―1975年の「学院浸透スパイ集団事件」への関与も一切否定するのか?

「そのまえに何故、四半世紀前の出来事を今になって問題視するのか?当時の新聞に反論もしたし、資料を見れば(捏造ということを)知ることができるだろう」

呉清達の否認にもかかわらず、平壌郊外の工作員招待所で彼を目撃したという元北朝鮮工作員の証言がある。北送同胞の家族として1960年代の後半に北朝鮮工作員に抱き込まれた彼は、1972年10月に密入北し、平壌郊外の招待所で一ヶ月間の工作員教育を受けた。平壌郊外の招待所に移されて二週間ほど経ったある日、彼は招待所附近で呉清達を見た、と証言した。

「それは1972年のある日の夕方だった。まだだいぶ明るかったので、午後4時半かその前後だったようだ。いつものとおり講義が終わった後、市内へ歌劇を見にいこうとした。いち早く夕食を終え、工作指導員が運転する車で招待所を出た。検問所まではもっぱら一本道だ。その道に沿って300〜400m間隔で、工作員を養成するための招待所が建てられている。普段はその周辺には人の姿を見ることはまったくなかったのだが、その日は違った。

私が泊まっていた宿舎の次の次の棟の前に二人の男性が立ち、何やら話を交わしていることを目撃した。私はその二人の姿から一人は工作指導員、もう一名は私と同じようにどこからか連れてきたスパイ訓練生だ、と判断した。「あちらも講義を終え、ちょっと休むところだった」そのような雰囲気が遠くからも感じられた。車は二人が立っている場所により一層近づいたので、彼らの顔がはっきりわかるところまで来た。片方の男性は まさに呉清達であった。そのときは本当に驚いた」

国際高麗学会の胎動

週刊文春取材班は、この元北朝鮮工作員に何度も確認したが、彼は「絶対に間違いない。私が目撃した男性はまちがいなく呉清達だ」と断言した。

「呉清達の顔をそれまでに何度も見ており、そのうえ彼は当時は若干太った独特の体型だった。夕方とはいえまだ十分に明るかったし、他人と見間違うはずがない」

もう一つの元工作員も「呉清達は大阪大学大学院の時期から平壌に行き、工作員教育を受けたといううわさが飛び交っていた。恐らく二、三回は工作員訓練のために北朝鮮に行ったのではないか?」と語った。そう考える根拠として、彼は「呉清達は学生の頃から、相手が先輩であっても態度が高慢なことで有名だった。何度か北朝鮮で訓練受けたことを背景にして「私は選ばれた特別な人間だ」という意識に執着していたのだ」と語った。

呉清達を北朝鮮の大物スパイと決め付けたこの記事が出ると、呉清達は週刊文春を発行する文芸春秋社などを相手に名誉毀損訴訟を提起した。一審では呉清達が勝訴した。文芸春秋社には500万円を賠償せよとの判決が下された。文芸春秋社はこれを不服とし、この事件は現在二審で係留中だ。

週刊文春の記事では言及されなかったものの、呉清達や大阪経法大と密接な関連を結んでいる団体がもうひとつある。国際高麗学会(International Society of Korean Studies / 会長・姜希雄ハワイ大教授)がまさにそれである。

国際高麗学会の設立が論議されはじめたのは1988年8月、北京で開かれた第2回朝鮮学国際討論会を契機としたものだった。この討論会で国際高麗学会創立準備委員の五名が選出された。もうひとつ特記すべき事実は、第2回会議のときから大阪経法大アジア研究所が、これまでこの討論会を主催してきた中国北京大朝鮮文化研究所と一緒に共同主催者として出てきたという点である。大阪経法大は金尚淑氏の遺志を敬う事業を模索し、朝鮮学国際討論会の主催者となったと伝えられた。

「呉清達はスポンサー」

1990年8月2日〜5日、日本の大阪で第三会朝鮮学国際討論会が開かれた。この討論会の日本側実行委員長が、まさに呉清達・大阪経法大教授であった。大阪経法大の金俊行理事長が大会祝辞を述べた。主催側はこの学術会議の経費1億5000万円が、大阪経法大設立者である金尚淑氏の基金から充当されたことを明らかにした。学術会議が開かれた場所は、大阪経法大の姉妹学校である大阪情報コンピューター専門学校などであった。

15ヶ国、1117名の学者が参加したこの学術会議に、韓国からは192人の学者が参加した。当初、韓国政府はこの大会が親北性向が濃いという理由で消極的な態度を取った。政府がそう判断したのは、この学術会議の共同実行委員長である北京大朝鮮文化研究所の崔ヨング所長が金正日と金日成大学の同窓であり、呉清達は北送家族を持つ在日僑胞というためだった。当時、学術会議を報道しながら呉清達を1975年の在日同胞留学生スパイ集団事件と連結させた韓国内の言論は一つもなかった。

政府はこの大会に朝鮮総聯が介入した可能性があり、北朝鮮側に巻き込まれるかもしれない、という理由で韓国内の学者たちの参加を引き止めるが、盧泰愚大統領の南北往来開放宣言が出ると立場を変えた。

主催側は、この学術会議を親北的であると見るのは冷戦論理からくる誤解であり、この学術会議は政治的に中立であることを強調した。呉清達も「左手も右手も両方とも差し出す。両側に両手を差し出し、どちらか一方を握ってもらえなくとも継続して差し出す。国際的に必要であるなら韓国の歌でも北朝鮮の歌でも歌い上げる」としながら、第3次会議の進行方針を「積極的中立」と規定した。

この学術会議の最後の日、国際高麗学会の創立が宣言された。会長には崔ヨング、副会長にはミハイル朴だった。ここに参加したS教授(ソウル大)は、当時の状況をこのように語った(本人の要請で匿名にて処理する)。

「大学者がたくさんいるのに、そういう方を推薦するのではなく、学問的にまったく信頼出来ない人々を一方的に会長、副会長と発表し拍手したのでは、高麗学会に対する関心はなくなった」

―そのとき、もしかして呉清達という名前を聞いたか?

「創立時のスポンサーだ、と紹介するのを聞いた」

S教授は「呉清達とはどういう人物なのか?」と記者に問うたので、彼が1975年の在日同胞スパイ集団事件の背後操縦者として指定されている人物だと話すと、はっと驚きながら「彼らと一緒でなくて本当によかった」と胸をなで下ろした。

1999年7月、国際高麗学会ソウル支会が主催した第1回全国学術会議に参加した崔ヨング北京大教授が述懐したところによれば、呉清達の役割は単純なスポンサー以上だったことが明らかである。崔教授は「国際高麗学会創立のために、学会準備委員会の委員たちと熱誠的な学者たちが献身的に努力した。その中でも大阪経法大の呉清達副学長の役割と努力が一番大きいと考えられる」としながら「もし呉清達先生の組織力と指導力、そして献身的な努力がなかったならば、国際高麗学会の創立は不可能だった」と断言した。

同じ学術会議で祝辞を述べた当時の国際高麗学会会長の姜希雄・ハワイ大教授も、国際高麗学会がある在日同胞篤志家、すなわち金尚淑氏の基金で設立されたことをきちんと明らかにしている。だが大阪経法大の所属で国際高麗学会にも関与しているというペリョン氏は、記者との通話で「国際高麗学会は金尚淑氏の基金で設立されたのではない」と語った。

ソウル支会副会長は姜禎求・東国大教授

国際高麗学会は当初、政治的中立のために南北韓の学者を排除し、海外に居住する韓国学学者だけを対象として設立された。「高麗学」という用語も、韓国がいう「韓国学」、北朝鮮がいう「朝鮮学」なる用語を避けるために使われたのであった。

1996年3月に平壌支会が設立された。第1回世界韓国学学術大会を準備しながら、国際高麗学会関係者らと接触した李吉相・韓国精神文化研究院教授は「平壌支会の設立には黄長・当時北朝鮮労働党秘書が多くの援助を与えたという。1997年に黄前秘書が韓国に亡命することにより、平壌支会は事実上瓦解したが、今年になってからようやく復元された」と語った。崔ヨング北京大教授も1999年、「1997年初めに起きた意外な事件で、学会はまた新たな困難に逢着している」と語ったことがある。週刊文春に報道された呉清達と黄長前秘書の関係から推察して、十分に察することができることだ。

ソウル支会のスタートまでは少なからぬ鎮痛があった。1993年、国際高麗学会は金敏洙・高麗大名誉教授を顧問として推戴しようとしたが、統一院から制約を加えられたため成し遂げられなかった。1996年5月〜7月、ソウル支会創立準備委員会の集会があったのだが、これもまた統一院の不可決定で霧散した。

結局、ソウル支会は金大中政権スタート以後である1998年7月14日に結成された。初代会長には元老国文学者の高麗大・金敏洙名誉教授が、副会長には鄭光・高麗大教授(国文学)、事務局長には崔鎬哲・高麗大教授(国文学)が選出された。2002年現在、ソウル支会会長は洪允杓・檀国大教授(国文学)が受け持っている。副会長は昨年8月、いわゆる「8・15民族統一大祝典」に参加し、金日成の出生地である萬景台を訪れ、芳名録に「萬景台精神受け継いで統一偉業成し遂げよう」と署名し波紋を巻き起こした姜禎求・東国大教授である。

ソウル支会創立が遅滞したことについて、ソウル支会事務局長の崔鎬哲教授は「金泳三政権の時期、ソウル支会を作ろうとしたところ『時期がすこし早かったらしく』実現しなかった。金大中政権になってもう一度話をしたら「学会を作るか作らないかは、政府に許可を受けるようなことではない』となったので作った」とした。

ソウル支会の創立が遅滞したのは、朝鮮学国際討論会の時期から国際高麗学会について回った「親北性向ではないのか」という熱い視線のためだった。これに対して崔鎬哲教授は「統一部でも国際高麗学会が親北団体という判断を下したことはない」と語った。

1998年7月、国際高麗学会ソウル支会創立総会で姜希雄・国際高麗学会会長は「国際高麗学会は純粋で単純な学術団体だ。あらゆるデマにもかかわらず、国際高麗学会は特定国家の政治的アジェンダを持っていない」と強調した。姜会長は翌年7月、高麗学会ソウル支会が主催した第1回全国学術会議でも「国際高麗学会の結成を控えて、その当時にあった世間のうわさとは異なり、われわれ学会の発足を、北でも南でも歓迎しなかった」と述懐した。こうして繰り返し強調するのは、国際高麗学会にとって自分に付いてまわる疑惑がどれほど負担となっているのかを示す一節である。

「国際高麗学会を親北団体とだけ見る見解は偏狭だ」

国際高麗学会が「高麗学」という用語を使用する理由について崔鎬哲教授は「韓国・朝鮮という語を避け、コリアに近い「高麗」という語を使ったのだ。韓国といえばあちらが嫌い、朝鮮といえばこちらが嫌がるので、どちらも避けたのだ」と語った。

崔鎬哲教授に「国際高麗学会副会長を経て、いまは常任顧問である呉清達が、1975年の学院浸透在日同胞留学生スパイ集団事件の背後操作者であり、今でも大物スパイという容疑を持たれている、という事実を知っているか?」と尋ねる。崔教授は「まったく知らない」と答えた。

日本の週刊文春の西本幸恒記者は、月刊朝鮮へ送ってきた電子メールで「呉清達氏は国際高麗学会という学術団体を確立して、北朝鮮をはじめとする各国に支部をおいて活動している。国家情報院関係者は『北朝鮮情報収集組織とみて監視対象としている』と語った」と主張した。

国際高麗学会に付きまとうこのような否定的認識について、李吉相精文研教授は「過去の見解から抜け出していない、非常に偏狭な見解」と批判した。

「国際高麗学会は、スタート初期には明確に日本内の朝鮮総聯系学者や、北朝鮮に心情的に同調する中国内の朝鮮族学者たちの参与幅が非常に大きかった。しかし1990年代に入りソウル支会が生まれると、韓国の学者が参与して、高麗学会役員がソウルを訪問してソウル支会と学会運営に対して緊密に協議するようになり、国際高麗学会は変身のための試みに賢明であった。

国際高麗学会が今回の第1回世界韓国学学術大会に積極的に参与しようとするのは、北朝鮮のための情報収集というよりは『韓国の学会や韓国政府の支援を受ける精文研と同じ機関と理念的な距離を置きたくなく、同じ対象を研究する団体として、韓国学コミュニティにともに参与しながら交流したい』という積極的な意志表示だと考える。初期の構成員の成分のゆえに親北的である団体としてだけ規定し、今でも彼らをそのように見るのは問題があると考える」

来る7月18日〜20日、韓国精神文化研究院では「第1回世界韓国学/朝鮮学/コリア学大会(The 1st World Congress of Korean Studies 2002)」を開く。精文研が主管するこの学術大会は、精文研の他にも国際高麗学会・ヨーロッパ韓国学会(Association of Korean Studies in Europe)・オーストラルアジア韓国学会(Korean Studies Association of Australasia)などが共同主催者として参与している。大阪経法大アジア研究所と中央アジア韓国学会が協賛者となっている。

2年前の韓相震院長の時期に論議が開始

さる6月3日、京畿道城南市清渓山の裾にある韓国精神文化研究院で、この学術大会の組織委員長である李吉相精文研教授に会った。安らかながらも丹念な感じを与える李教授は、インタビューが進行するあいだ、終始真摯な態度で記者の質問に応答してくれた。

李教授によれば、2000年2月当時、韓相震院長がハワイ大で行われた国際高麗学会招請学術大会に参加したことが、韓国学学術大会が論議される契機となったという。その大会に参加した韓国学学者や韓国学の支援事業を行う国際交流財団など関係者らから「機関ごとに別々に学術大会をしているのに、関連団体が共同で主催する世界的な学術大会を、ワールドカップを前後して開催するのが良いのではないか」という話が自然に出てきたという。

たまたま精文研に外国人韓国学者らが来て宿泊しながら研究できる韓国学ゲストハウス(Guest House)を建てることが確定されており、工事を始めるところなので、韓国学ゲストハウスが完工する頃に、そのような大会を開くのも良いという話も出てきた、ということだ(ゲストハウスは予算の事情などで完工を来年に遅らせたという)。

2000年3月、ハワイ大学術大会に参加した人々が国際交流財団に集まり、世界韓国学大会について論議した。ここで、精文研が世界韓国学学術大会を主管するという話になったという。李教授はその年の12月、国際協力所長を引き受けながら本格的にこの事業に合流することとなった。

大会の名称について李教授は「世界韓国学界が理念的な葛藤を経てきた。「Korean Studies」という英語の名前はひとつであるのに、ハングルの名前は朝鮮学だ、高麗学だ、コリア学だ、韓国学だとなり、民族分断と同じように韓国学も用語自体も分断された」としながら「大会の公式名称は英語(The 1st World Congress of Korean Studies)だけを使って、ハングルの名称は使用する団体や機関が使う名称を使うようにした。精文研では対外的に広報するときは韓国学で、国際高麗学会ではコリア学、北側では朝鮮学とするようにした」と語った。

李教授は国際高麗学会について、その沿革と役員陣、ソウル支会の役員陣などについて比較的詳細に話をしながら、前述したとおり国際高麗学会を弁護した。

―過去に国際高麗学会の性向が論難されたとしても、いまは何の問題もないと考えるか?

「ソウル支会が作られて、学術振興財団に正式学会として登録された。ただし国際高麗学会が作られた後、国際韓国学界を親北的性向の学者らが主導するという判断のゆえに、韓国政府が支援して作られたアジア・太平洋地域韓国学者等の集会であるアジア・太平洋地域韓国学国際学術会議とに葛藤が生じた。初めての論議のときには彼らもともに参与するとしていたのに、アジア太平洋地域韓国学国際学術会議の次期会長であるソウル大S教授が『国際高麗学会は不穏な団体』という過去の認識のゆえに、賛同を拒否したという」

こうした主張に対してS教授(S教授の要請によって匿名で処理する-記者注)は、記者との電話で「アジア太平洋地域韓国学国際学術会議の会長である楊通方・北京大教授が『すでにヨーロッパ韓国学会とアジア・太平洋地域の韓国学国際学術会議が二年ごとに交代で開かれながら世界韓国学学術大会を開催してきたので、S教授が反対しないならば過去の慣例通りにすれば良い』とするので同意した」と語った。彼は楊会長が第1回世界韓国学大会にアジア・太平洋地域韓国学国際学術会議が参加するのを好ましくないと考えているようだった、と伝えた。

S教授は、アジア・太平洋韓国学国際学術会議が世界韓国学学術大会に不参加になったのは、国際高麗学会の理念性向に対する異議のためというよりは、既存のアジア・太平洋韓国学国際学術会議の独自性のためという点を強調した。

北朝鮮の学者たちが参席、いわゆる主体思想など主題発表する予定

第1回世界韓国学学術大会では、北朝鮮の学者たちが「主体哲学は人間中心の哲学」、「朝鮮民族史は闘争と創造の輝く歴史」、「私たちの言葉の民族性」に関する主題発表をする予定だ。

李教授は「まだ北側と言論報道に対して合意していないので、どの程度の水準まで話していいのかわからない」としながらも、次のとおりに語った。

「北側は、自分たちが定める主題をわれわれが受諾すれば参加する、とした。関係機関と相談して、北側の要求を受け入れた。北側の学者たちが解放以後、初めて南側で開かれる学術大会、それも理念と関連する人文社会科学の分野の主題に参加するならば、どんな主題であっても主題を問題視することはできない。私たちの歴史に対する北側の解釈といったものは私たちがみな知っていることであり、その内容自体は新しいことではないが、直接彼らの主張を聞いてみて討論をすること自体に意味がある。

去年の秋、北側にこの大会への参席を提案すると、北朝鮮社会科学院では第1回大会を平壌で開こうと提案してきた。私たちも肯定的に検討したのだが、国際高麗学会で『第1回大会を平壌で開くには時間が切迫している。第1回大会はソウルで開いたほうがよい。第2回大会は平壌でやろう』と仲裁案を出し、そうするようにした」

李吉相教授は、北朝鮮学者等の招請問題を協議するため、張乙炳・精文研院長とともに近い将来訪北する予定であることを明らかにした。

―北側が発表するとされている主題は、鋭敏に受け止められはしないか?

「私たちの社会は、その程度の主張を聞いて討論できる包容力は持っている。その主題の敏感性は十分に知っているが、波紋を心配して北側学者の提議を防ぐ必要まではない、という考えだ」

「学問の分野は最も政治的な分野、というのが北側の立場」

李教授は「この問題は7月初め頃に発表する予定なので、6月18日に発刊される月刊朝鮮に報道されるというのはすこし早くないだろうか」と心配を表した。

「このような問題に対する月刊朝鮮の判断は予断ならない。だが北側の学者が公開の場所に来て発表するという程度は、私たちの体制が十分に受け入れることができると考える。絶対に、彼らの考えやあらゆるものを受け入れるのでない」

李教授は、そのような部分まで一部学者や言論が問題視し、大会自らの性格に対して誤解を喚起する事態が起こらないことを希望した。

李吉相教授が北朝鮮学者を招請することについて、あまりに気をもみ心を痛めているようなので「北側の人々がやってくること自体は、もう特別なニュースにはならない世相ではないか?北朝鮮労働党の高位幹部、金容淳がやってきてわが国の国情院長と交流する世相ではないか?」と言ってみた。

李教授はこれに対して「6・15宣言前から、北側と学術交流問題で何回も会ったことがあるのだが、北側の最も心配する部分のひとつが学術部門の交流だ」と語った。政治色がより少ない学術分野、特に韓国学・歴史・語文分野などから南北韓間の交流を拡大して行くべきだ、という一般人や統一問題専門家の主張とは、正反対の話だった。

李教授はその理由についてこのように語った。

「北側は、学術部門の交流が政治・経済的な交流よりもむしろ社会的な波及効果が大きいことを知っている。学者たちの影響力が政治家たちの場合よりも、はるかにより長期的・持続的・根本的であり得る。北側では、学術分野こそが社会のベースと関連した重要な問題であるがゆえに、むしろ他の部分が成熟したその次に交流しなければならない、という立場だ。

われわれは学問の分野が最も非政治的な分野だと考えるが、北側では最も政治的な分野だと考える見解の差がある。そのような認識の差を狭めれないために、学術交流がなされないのだ」

国際高麗学会・大阪経法大などについて話をする間、自然に呉清達という名前が流れ出た。李教授も呉清達に関連して各種の疑惑が提起されているという事実を知っていた。この問題についても、李教授はためらうことなく自分の考えを語った。

「国情院の国法遵守要求は呉清達も受諾」

「私もそのような話を聞いた。今回の大会を準備しながら国際高麗学会、大阪経法大を3回訪問し、関係者と大会について論議するなかで、そのような敏感な問題に対する討議も行った。その過程で国情院も継続協議をしてきている。

呉清達氏の問題は政治的懸案で、1975年のスパイ集団事件自体について明確に認識出来ずにいる。その事件にかかわった人々の処理過程についてもうっすらとだけ知っているが、正確な情報は持っていない。呉清達氏は過去、韓国政府が主張して、実質的・法的に処理した事件(1975年のスパイ集団事件を示す-記者注)とは関係がないという主張を曲げずにいる。それでも彼は韓国を訪問し、韓国と親しくしたいという意思を、1990年代初めから表明してきた」

―親しく接したい、とはどのような意味なのか?

「呉清達氏は『韓国や北朝鮮は私の故国だ。自分は嫁いだ娘であるが、実家の父母が戦っているとき、どちらか一方を選択して他方を捨てる親不孝者にはなりたくない」と語る。

呉清達氏は1990年代初め、精文研が主管する世界韓民族大会に参加しようとした。精文研でも彼を参席させようと努めたのだが、1975年の事件に対する整理方式に合意できず霧散した」

李教授は第1回世界韓国学学術大会に呉清達が入国する問題について、このように語った。

「呉清達氏は、今回の学術大会に参加したいという意志を持っている。国情院では、韓国政府が要求するままに国法を遵守し、大韓民国を害することをしない、ということを保障するよう要求した。これに対して呉清達氏は『どこの外国に行こうと、その国の法律を守り、その国を害する行動をしてはならないというのは当然なことだ」という立場を伝えてきた。この問題を解決するために院長様もたくさん努力してきたし、今でも努力している」

李教授は「1975年の在日同胞留学生スパイ集団事件の控訴時効はすでに過ぎているのではないか」としながら「みな過去の問題だと考えるのに、国情院の判断はそうではないらしい」と惜しんだ。

『実刑を済ませて出てきた人もいるのだが、政府が判断する最も核心的な役割をした一人の人物に対しては、考えを変えることはできないというのと同じだ。本人が謝罪をしなければならないことではあるが、呉清達氏も未だに関連事実を否認している」

「呉清達、スパイ集団事件は認めることも謝罪することも出来ない」

李教授は「今回の学術大会を通じて韓国学関連団体が集まることにも意味があるものの、日本内の朝鮮総聯知識人らの参与を拡大して、在日同胞社会の葛藤を部分的に解消できる契機となることを希望する」としながら「大阪経法大を中心として、知識人社会で重要な役割をする呉清達氏が参加するということ自体が大会の意味を生かすことができるため、今でも参与できるように努力を続けている」と語った。

「殺人を行ったスパイといっても、本人が自首した場合には善処してくれる。現政府で推進する太陽政策の基本的立場は、過去の行跡や理念にもかかわらず大韓民国政府と国家の主権を認める範囲内で、理念的に敵対した性向の団体や人を受け入れるという政策だ。

そのような趣旨で見るならば、1975年の留学生スパイ集団事件として発表されたことが事実とはいえ、呉清達氏が韓国政府が要求する手順を踏んで入国し、学術大会に参加するという態度を行なった以上、彼を包容することが現段階の政府政策や、私たちの社会の知識人や国民が一般的に持っている情緒に妥当なものではないのか?」

李教授は「呉清達氏は北朝鮮でも知られた要人であるが、そのような人物が韓国を訪問し公式的な行事に参加したとするなら、それが南北関係にも助けになり、少しでも私たちの社会が持っている包容力を見せることができるはずだ」と強調した。

―いま国情院が問題視することは何か?

「1975年のスパイ集団事件に関連したことを認め、謝罪せよということだ。呉清達氏は『事実ではないため、認めることも、謝罪することも出来ない』ということだ。

呉清達氏は「同じく活動した人々の救命運動をして、韓国政権に対して批判的な言動を取ったことは認める。親しい人々が死刑にされるのに、彼らを救命するためならどんなことでもできる、というのが当時の心情だった。1975年のその事件は操作されたのだ。北朝鮮を訪問したのは、1960〜1970年代に北朝鮮に永久帰国した両親と兄弟に会うために、1981年に短期間訪問したのが初めてであって、それ以前にはなかった」と語る(李教授によれば、呉清達氏の父母は済州道出身で、北送僑胞であり、呉清達の国籍も北朝鮮だ-記者注)。

反面、国情院は「それは虚だ。明確な証拠を持っている」と言う。

「誰も呉清達を危険視しなかった」

李吉相教授は現在、呉清達入国問題をこのように整理した。

「呉清達氏は『国情院の調査を受け、調査結果は記録として残すものの、自分の学術大会への参席と日本への帰還を保障してくれ』とする。これに対して国情院では『調査もするが、どんな形の保障であれ、あらかじめすることはできない」と言う」

李教授は学術大会の開催と関連した基本的な問題を相談するため、呉清達に三回会ったという。昨年8月、最初の出逢いで学術大会問題はもちろん、呉清達氏の身上問題についても意見を交わしたのだが、これが契機となって呉清達も国情院の調査に応じるという態度を見せるようになったという。

―接触してみた結果、呉清達氏に対する感じはどうでしたか?

「危険視しなければならない人物とか、現在の南北韓関係を眺めるうえで疑うに値するという考えはまったくなかった。誰ひとりも「その人物は問題があるようだ。今後も注意して観察しなければならない。北朝鮮と近い人物であるがゆえに、考えに異常な余地がある」、こうした最小限の話をする人さえ見つけることができなかった。

「彼を連れてくれば私たちの勝ちだ。彼が自ら尋ねてくるというのに、そうなれば朝鮮総聯にいる多くの知識人たちの韓国に対する見解が大きく変わるはずだ。彼が一言でも韓国政府を批判するのか?むしろ和解する姿を見せれば、在日同胞社会の葛藤を解消するのに、象徴的に寄与できる人物だ」というのが、その場の雰囲気であった。

話をしてみれば、冗談が上手く、気配りと話術が飛び抜けた人物だ。話をしてみてもまったく問題を見つけることができなかった。

ただし、1975年事件の話が出るとやや興奮した。はじめに彼は相互主義を主張した。韓国政府が自分をスパイ集団事件の関連者であると言ったのだから、自分も事件を解決するためには、言いたいことを言うべきだということだった。張乙炳院長が「国家と個人のあいだに相互主義はありえない。国家と個人の関係は、個人と個人の関係のようにやりとりする関係にはなり得ない」と指摘すると、呉清達氏も『そのような認識は直す』とした」 

「呉清達は組職掌握力と親和力の飛び抜けた人」

―現在の南北韓関係について、呉清達氏の考えを聞いてみたことがあるか?

「北朝鮮に対する情報や考えが平凡な在日同胞等とあまり違うところはない。韓国政府の対北朝鮮食糧・経済支援や太陽政策に対して好意的だった。北側の事情や経済的な困難については詳細には話さないものの、包括的には話す。

呉清達氏は『韓国政府に対して悪感情をもって来るのではない。私はすべて親しくなりたい。ただし北は私に対して偏見なしに受け入れる考えを持っているのに、南側が私を受け入れないために、私がぎこちない立場に立っていることがやるせないのだ。なぜ経済的に余裕があり、優れていると主張する韓国が、私のような人間を受け入れることができないのだ?在外同胞に対しては差別せず受け入れたほうが良いのだろう。韓国政権が持っている在外同胞に対する差別的見解のゆえに、心残りな気持ちで生活するようになった』と言う」

李吉相教授は精文研と提携関係を結んでいる大阪経法大について、このように語った。

「大阪経法大学はいま、北朝鮮とも朝鮮総聯ともかなり距離を置いている。学生たちはほとんど100%が日本人で、教授らも日本人が大多数だ。職員の中には同胞がかなりいるのだが、職員も多数は日本人だ」

―週刊文春の記事などを見れば、大阪経法大は問題が多いことになっているのだがどう思うか?

「そのような可能性はないと考える。日本社会は、左傾化した大学を外国人が運営することが容認される社会ではない。学校の専攻、教科課程、学生たちの進路、最近の北朝鮮との関係などを総合的に考えると、そう見えるというのは日本の右翼が外国人に対して持っている差別意識の影響だと考えられる。私が知っている大阪経法大は、日本で日本国籍以外の東洋人が確立した、最初であり唯一の正規大学だ。問題があるならばそのような大学に日本人が子弟を入れるだろか?」

李吉相教授は呉清達に対し「組織掌握力と親和力の飛び抜けた人物だ。日本でそのような学校を運営できるというのは、大変なことだ」と評価した。彼は「訪問者たちは、日本という社会のなかで、われわれと(理念的)色合いは異なるとはいえ、朝鮮民族の血を引く人物が学校を作り、日本人を連れてきて教えることができるということに対して胸がいっぱいだった」と語った。

―造船工学を専攻した呉清達氏が、どのようにして人文社会科学である韓国学に関心を持つようになったのか?

「草創期に呉清達氏が参与するようになった正確な契機はよくわからない。学会運営には財政が重要な問題であるが、呉清達氏は副学長として大阪経法大を実質的に運営しているうえに、大阪経法大の教授たちが国際高麗学会に数多く参与しており、財政的後援という次元から参与するようになったことがわかっている。呉清達氏は初期に副会長を経て、現在は常任顧問であるので、学会運営に関与していない」

国情院、「保安法違反は徹底的に捜査し厳正処理する」

インタビューの終わり頃、李吉相教授に精文研の正体性と運営などに関して尋ねる。李教授は精文研の正体性について「韓国学研究機関」と規定した。精文研の性格について、李教授はすこし思いがけない話をした。

「しばしば精文研は韓国開発研究院のような、政府出捐研究機関のように言われているが誤った理解だ。精文研は公益法人である。敢えて正せば世宗研究所とその性格が似ている。ただし精文研育成法による支援を受けている」

院長の任命について李教授は「政権により任命されることは過去も現在も同じ」としながら「それでも現政権は、政権と反対側にあるといえる李相周氏をも院長として任命した。韓相震院長は多少政治色があったが、李相周院長はもちろん張乙炳院長も政治色はない」と語った。

記者は6月11日、大阪経法大に電話をかけてベ・リョンという職員と通話した。彼は自身が国際高麗学会の仕事をしていると紹介した。彼に「呉清達先生の身上問題を公論化する契機になる可能性がある」としながら、呉清達との電話インタビューを要請した。彼の要請により質問状を送ったが、6月13日現在、回答はない。

記者は6月5日、国家情報院に呉清達の実体と彼の入国などに関する国情院の立場を聞く質問状を送った。これに対して国情院では、次のような返信を送ってきた。

[過去の学院浸透スパイ集団事件と呉清達の正体、国際高麗学会と大阪経法大傘下の科学技術研究所の性向、精文研と国際高麗学会が学術大会を共同開催することに対する見解や、呉清達入国時の司法処理可否などの問題については、当院の対共捜査保安上、答弁できる事案ではない。当院は国家保安法違反事案に対しては原則に立ち、誰でも法的手順によって徹底的に捜査し、厳正処理する方針だ]

記者と通話した国情院関係者は「呉清達という人物にどんな容疑の有無があるのかを話すのは難しい」としながら「どの部分が処罰の対象で、どの部分は処罰せず、どの部分が国家保安法違反であり、どの部分がそうではないなどと、公訴時効が過ぎてから、身柄を確保して公式捜査をする前に答弁するのは不可能だ」と説明した。

「すでに大法院で判決まで終わった事案」

―中央情報部がすでに1975年に発表した学院浸透在日同胞留学生スパイ集団事件と、そこに登場する人物に対して、中央情報部の後身である国情院も同様な見解を維持しているのかどうかを確認してくれることも出来ないのか?

「それはすでに大法院で判決まで終了した事案だ。常識的に判断すればいい。法院で確定判決まで受け、それに対し再審が行われた事件でもないのに、国家機関が別の立場を持つというのはできないことではないか?」

国情院関係者は「実務者の立場では、問い合わせの内容については言うべき言葉がなくはないようだが、確認したり公式の立場で発表するには難しい問題が多い。いかなる人物がスパイ容疑者であろうと、捜査が終わり法院がスパイの確定判決をくだす前に、その人物をスパイだと言うのは難しいのではないか?」と語った。彼は「内査中の事案についてあらかじめ話してしまったら、それは内査しないということとまったく同じであろう。捜査の場合は司法手順の前段階であり、正式な司法手続きを踏む前に容疑事実を話すというのは、被疑事実の事前公表行為に該当する可能性がある」と付け加えた。

「厳正処理の原則が呉清達の場合にも適用されるものと見ても良いのだろうか?」と尋ねる。国情院関係者は「呉清達の国家保安法違反可否については、公式的にあらかじめ確認することはできない」としながらも「もし彼が国家保安法に違反したとするなら、厳正に処理されるはずだ」と強調した。

6月13日の午後、李吉相教授が電話をかけてきた。

李教授は、呉清達氏が第1回世界韓国学学術大会の海外諮問委員に選定されたことについて「海外諮問委員の選定は、大会に参加する学会でしたこと」だと語った。呉清達氏の招請問題については「国際高麗学会本部は、呉清達氏が世界韓国学学術大会顧問として、また学術大会の期間中はソウルで開かれる国際高麗学会の定期総会の役員資格で大会に参加することができたならば良い、という意味を伝えてきた。私たちとしては、国情院と協議して彼の入国が許されるならば、公式招請状を送るだろうが、国情院が最後まで許さないとするならば出来ない」と語った。

記者は呉清達本人とは接触できなかった。だが李吉相・精文研教授とのインタビューを通じ、第1回世界韓国学学術大会を準備する精文研の立場や、呉清達の立場はある程度聞くことができたと考える。今回の記事と関連して、呉清達本人の釈明をはじめとする、今回の記事でまだ触れていない部分については継続取材する考えである。この記事に対する呉清達側の真摯な答弁を期待する。

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