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国情院の北朝鮮人拉致事件の内幕 1998年7月16日、新聞社に飛込んだ北朝鮮人、崔仁洙

(月刊「新東亜」 2001年12月号記事)

国情院のある工作チームが映画「間諜・李鉄鎮」に見られた、とんでもない失敗を犯した。1998年、この工作チームは中国の瀋陽から北朝鮮対外経済委員会所属の北朝鮮人を不法に拉致してきて、安家で拷問したが彼をのがしてしまったのである。国情院の監視のいいかげんさの隙を突き、安家を脱出したこの北朝鮮人は1998年7月16日の明け方、A日報を訪ねて救援を要請し、記者に会った…。この事件は、ロシア駐在韓国大使館の趙成禹参事官追放事件に遮られ、これまで公開されることはなかった。だがA日報だけはこの事件の真実を知っている。国情院工作史上最悪の工作として記録される、この事件の顛末を公開する。

イ・ジョンフン(東亜日報新東亜記者)・Vladimir

hoon@donga.com

さる8月号の新東亜は「太陽政策の陰、崩れる対北朝鮮工作」という記事を通じて1998年、国家情報院(国情院)のある工作チームが、呉静恩・張錫重・韓成基氏などが関わった銃風事件を立証するため、北朝鮮人を不法に拉致してきた、と報道した。ソウルに拉致されてきた北朝鮮人は、国情院の安家(safe house)で暴行と拷問を加えた調査を受けたが脱出し、△△日報を訪れ、韓国に不法拉致されてきたことと、拷問を受けた事実をさらけ出した、と明らかにした。

このような報道に対し、多くの読者が「事実か??」と尋ねてきた。一部の読者は「△△日報とはどこか??拉致されてきた北朝鮮人の人的事項を公開出来ないのか?」と尋ねることもあった。他の読者は「国情院から抗議がないのか?」と尋ねた。記者が「国情院からの抗議はなかった」と返答すると、彼らは「事実なのか」と自答することもあった。一部の読者は“ノーベル平和賞受賞者を輩出した国で、それも情報機関による不法な拉致と拷問を法的に禁止しているわが国で、国家情報機関員が北朝鮮人を不法に拉致してきた、などという話が道理に合うものなのか」と憤慨した。

しかし疑問を表明する読者も少なくなかった。ある読者は新東亜が北朝鮮人の身元と△△日報を公開しないことを挙げ、「虚偽報道ではないのか?」としながら、疑問を提起した。一部の読者は「国情院が北朝鮮秘密取り引き事件を作るために、北朝鮮人を拉致してきた証拠があるのか?」と糾すこともあった。このような問題提起は、記者にとって二次取材にとりかかる契機となった。しかし予想以上の妨害者などが現れたがゆえに、二次取材はより隠密に推進しなければならなかった。記者は取材の過程で妨害者らと押し合いする、相当な神経戦を繰り広げた。

二次取材を通じ、記者は国情院が北朝鮮人を拉致したことを、もう一度確認することができた。二次取材では、さる8月号で公開できなかった北朝鮮人の身元が正確に明るみになった。国情院が不法に拉致してきた北朝鮮人は、中国遼寧省瀋陽に留まっていた崔仁洙(チェ・インス。1998年当時43才)だ。崔仁洙を記憶する人々によれば、彼は外国企業の北朝鮮投資を誘致する、北朝鮮対外経済委員会所属要員だった。崔仁洙を国情院のある工作チームが不法に拉致してきた過程については、この記事の中間部分で明らかにするものとする。

二番目に、北朝鮮人・崔仁洙が国情院の安家を脱出したのは、1998年7月15日の夜か、7月16日の明け方であると確認された。このような事実は、崔仁洙が7月16日夜明けに△△日報を尋ねるところで類推される。

三番目に、人々が最も気がかりにしていた△△日報は、ソウル市内の中心にある「A日報」だ。A日報に飛び込んだ崔仁洙を相手に、彼が不法拉致されてきた過程と拷問を受けた話、そして安家を脱出するようになった契機などを詳細に取材した人物は、この新聞の政治部統一外交チームの北朝鮮問題専門記者である李某記者だ。李記者は1998年7月16日の午前、崔仁洙を三時間余り取材して、崔仁洙の写真も撮影していたことが確認された(A日報はいわゆるビッグ3新聞社のひとつだ)。

二次取材を通じて、記者は崔仁洙を記憶する人々数名に会った。彼らの記憶によれば、崔仁洙は北朝鮮の金亨禝師範大学の出身で、英語が非常に堪能であり、北朝鮮人にしては非常に珍しい6尺の長身だ。

金亨禝師範大学出身

北朝鮮対外経済委員会に籍を置いた崔仁洙は、人民学校(韓国の小学校に該当)教師である婦人と二人の息子を北朝鮮に置いたまま、中国の瀋陽と延吉におもに留まり、外国企業の北朝鮮投資を誘致していたという。瀋陽と延吉に留まる前には、マカオとロシアにも留まったものと確認された。崔仁洙は対外経済委員会の日課は別に、北朝鮮で不法搬出した骨董品を韓国の古美術商らに密輸出する商売を行っていた。韓国風に言えば、本業を利用して副業を行っていたのである。

北朝鮮骨董品を密搬出する過程で、彼は国情院の要員とも接触した。国情院のある工作チームは、定期的に崔仁洙を管理し、骨董品の取り引きを餌にして、崔仁洙から北朝鮮情報を入手してきたものとうかがえる。このような点で崔仁洙は、国情院に協調する「望遠」であったということができる。しかし崔仁洙は知恵に聡く、国情院職員に苦渋を飲ませる場合も少なくなかったという。それゆえ崔仁洙に手を加えたがる国情院職員たちも、かなりいたという。

崔仁洙に「不幸の影」がたれ込めたのは1998年6月末、あるいは7月初めであると思われる。崔仁洙は北朝鮮から不法搬出した骨董品の中の一部を、売掛けで韓国古美術上に供給していた。ところがこの時期、普段から崔仁洙と取引してきた国家情報院の関係者が「売り掛けで受け取った骨董品の価格が支払われるようにするから、少しの間、ソウルへ入ろう」と提議し、崔仁洙はこの提議を受け入れた。

情報機関要員は多くの場合、外交官に偽装して行く「ホワイト(white)」と、商社員などに偽装して行く「ブラック(black)」がある。ホワイトは公式的には外交官であるゆえに兔責特権がある。しかし外交官であるから、彼らの身分は駐在国に正確に通報される。身分が露出されるため、彼らは駐在国の情報機関に情報機関出身であることを知らせる。

駐在国の情報機関は、こうして自主申告してきた情報要員に対しては、定期あるいは不定期的に会い、お互いに必要とする情報をやりとりする。ホワイトは両国情報機関間の交流を繋いでくれる、唯一の公式の窓口である。

売り掛け金を受け取れるとして誘引

ブラックは、駐在国の国家情報機関に通報できない諜報員だ。彼らは駐在国が公開するのを嫌う諜報を収集することに、おもに投入される。それゆえ駐在国の情報機関は、他国から派遣されたブラックを追跡することに多くの神経を使う。ブラックは秘密工作をするのに有利だ。だが彼らは兔責特権を持った外交官という身分ではないために、駐在国の国家情報機関に捕らえられれば間諜罪などでで起訴される、という負担がある。

瀋陽は朝鮮族が数多く住み、脱北者らも多い中国東北三省の中心地だ。それゆえ韓国は、中国政府に対してここに韓国領事館の設置を許可するよう要求した。北朝鮮は瀋陽に領事館がある。北朝鮮は中国外交部に「瀋陽に韓国領事館を許可するな」と圧力を加えた。

瀋陽と完全に反対となる場合が香港だ。香港が中国に返還されたのは1997年7月1日であるが、香港が返還されるやいなや北朝鮮は「香港に北朝鮮領事館の設置を許可してくれ」と要求した。香港にはかなり前から韓国の総領事館がある。韓国は中国政府に対して、香港駐在北朝鮮領事館の設置を許可するな、と要求した。

このような渦中であったため、1998年の瀋陽には韓国領事館がなかった。だが1994年12月から、中国瀋陽に定期便を就航してきた大韓航空は、瀋陽に支店をおいていた。国情院は大韓航空瀋陽支店を、東北三省に投入したブラックの指揮拠点として活用した(韓国が瀋陽に、領事館ではなく領事事務所を設置したのは1999年だ)。

このようなブラックの中で、あるチームが崔仁洙と接触し、このチームが崔仁洙に「押さえておいた骨董品の掛け金を受けとるためソウルに行こう」と提議したのである。しかし北朝鮮人である崔仁洙が韓国行きの飛行機に乗るならば、瀋陽空港出入国管理局職員らはいぶかしく思わざるを得ない。

航空会社の職員は、出入国管理局などをたどらず、専用のルートで出国場に入っていくことができる。国情院の工作チームはこのルートを通じ、要員と崔仁洙を瀋陽空港の出国場へ送った。そして別の自動車を利用し、係留場に待機中である大韓航空機に移り、搭乗した(その反面、他の一般乗客は出入国管理局などをたどり、出国場に出てきたのち、バスに乗って大韓航空機に搭乗した)。

崔仁洙を乗せたこの飛行機は何の問題もなく離陸し、金浦空港に到着した。金浦空港には、国情院や外交通商部の要員が入国手続きなしで帰国する、別の入国ルートがある(自国の諜報員と外交官が秘密裏に出入りするルートは、世界のどの国の空港にもある)。

それゆえ国情院の要員たちと崔仁洙は、瀋陽空港と金浦空港にそれぞれ出国と入国記録を残さず、ソウルに入ることができた。ここに至っても崔仁洙は、言葉だけで聞いていたとおり、ソウルを観覧して掛け金を受けとり、瀋陽へ帰ることができるものと信じていたということだ。

しかしこの夢は、国情院の工作チームが彼を、ソウル瑞草区内谷洞の国情院庁舎附近にあるものと推定される安家へ連れていってから、ちりぢりに潰れた(崔仁洙を調べた安家が庁舎附近にあったということは、さまざまな取材源から確認された)。この安家は2階建てであったのだが、2階にいる部屋へ案内された崔仁洙は、夜になると小さな毛布一枚とどんぶり一杯を与えられた。

ガスライター飲み込んで抵抗

このときから、国情院の工作チームと安家管理チーム、脱北者を専門に調べるチームが交代で部屋に入ってきては、崔仁洙を調べたという。これに対して崔仁洙は、骨董品の代金を受け取れず、なぜ調査をするのかと強く抗議した。体格が大きくて腕力があり、性格さえ強靭な崔仁洙はむやみに立ち向かったため、これが災いを呼んだ。そうでなくても彼を小憎らしく思っていた国情院側の手が加えられるようになったのである。

崔仁洙はかなり殴打された。全身が傷だらけになると、崔仁洙は自殺するつもりで、たまたま自分の前にあったガスライターを飲み込んだ。1998年7月16日、A日報を尋ねたとき、崔仁洙の腹の中にはそのライターがそのまま入っていた。

こうして粘っている間、崔仁洙は少なくない嘘を言いつくろった。確認した結果、崔仁洙の話が偽りであることが明るみになると、国情院チームは拷問の強度をもう少し高めた。崔仁洙は無実だといすわっては嘘をつき、国情院チームは「何だこの野郎」と、暴行と拷問の強度を上げる悪循環が行われたのである(国情院が崔仁洙から入手しようとした情報が何であったのか、については明らかにされていない)。

時間が流れるにつれ、国情院は崔仁洙を誤って連れてきた、ということを知るようになった。崔仁洙は当初、彼らが期待した情報を持つ人物とは違っていた。国情院側は、崔仁洙を尋問する意志を喪失し、自然と崔仁洙に対する監視は粗雑になった。

1998年7月15日、日が暮れて夜が訪れた。この日の夜、国情院の職員たちは緊張が和らいだのか、崔仁洙を調査室に一人置いてどこかに集団で出かけていった(団体で夕方、食事に行ったものと考えられる)。ところがあきれたことに、崔仁洙の身体を縛っておくことも、調査室の入り口に鍵ををかけることもせず、安家の門も閉めずに行ってしまったのだ。このとき、傷だらけの崔仁洙は、半ズボンとランニングシャツだけを着て、足にはスリッパをはいていた。国情院の職員たちが消えたことを確認すると、崔仁洙は調査室の入り口をあけて出てきた。そして濃厚に闇に包まれた1階の庭に飛び降りた。

大きく緊張したうえ暗闇まで濃かったので、崔仁洙は庭に飛び降りる瞬間、片方の足首が折れる事故に遭った。スリッパさえなくした崔仁洙は、折れた脚を引きずり、安家をめぐる垣根の側に接近した。安家は高い垣に囲まれているものの、不思議にも垣根の片方にある門が開きっぱなしであった。崔仁洙はこの門を通じて外に抜け出し、あぜ道や畑道を通りすぎ、絶えず明かりをつけた自動車が走っている道路横に接近した。

崔仁洙はたとえソウルは初めてであっても、永らく海外生活をしてきた関係で、タクシーを止めて乗ることができる。運良く彼は夜中、道路を疾走する空車のタクシーを捕まえる。韓国の事情について大まかに知っていた崔仁洙は、野党の党舎へ行けば生活できるものと考えて、「ハンナラ党に行ってくれ」と言ったという。だが汝矣島にあるハンナラ党に到着した時、党舎の門は堅く閉ざされていた。すると崔仁洙はふたたび「A日報へ行こう」と言ったという。崔仁洙は、なぜA日報へ行こうと言ったのだろうか。

記者は二次取材をしながら、初めてA日報の李某記者に会い、多くを尋ねた。しかし李記者は、記者が取材してきたことを説明して「こういうことがなかったか?」と尋ねた時だけ「そうだ」と答えた。事実の可否だけを確認してくれるだけで、彼が知っている事実についてはまったく明らかにしようとしないのだ。しかし李記者は「崔仁洙はなぜA日報を訪れたのか?」との質問に対しては、自分も気になって崔仁洙に尋ねたとして、このように説明した。

「私も崔仁洙がA日報を訪れた理由が非常に気になった。そこで”なぜタクシー運転手に、A日報へ行くようにしたのか”と尋ねた。崔仁洙の説明は”北朝鮮でもっとも大きい言論は朝鮮中央放送で、中国では中央電視台(CCTV)だ。したがって韓国でもA日報が最も大きなところだと考えて、A日報へ行こうと言ったのだ”と説明した。彼は自分自身の無実を明らかにするためにA日報を尋ねたのでなく、言論社に逃げれば命が助かるだろうと判断し、A日報に来たとのことだった”」。

A日報に到着した時、崔仁洙は半ズボンにランニングシャツ姿の素足で、一銭一文もなかった。崔仁洙はA日報の警備員を捕まえて「朝鮮族なのだが、くやしい事情があって記者に会うためにやって来た」とお願いした。警備員は交通費を立て替えてやり、彼を編集局へ連れていったのだが、この時間がおおむね7月16日の明け方3時頃だった。

「行方不明者がいる」

この時間ならば、朝刊新聞編集局は市内版の締切を終わらせた後で、非常に静かだ。編集局長と交代した夜間デスクと記者たちは小破に横になって睡眠をとり、一、二名だけが碁を打ったり外国のテレビを視聴しながら朝を待つ。崔仁洙と会ったのは、このようにぼんやりと夜を明かしていた記者たちだった。崔仁洙は記者たちに、骨董品商売をする朝鮮族であるが、くやしい理由があってやって来たのだ、と明らかにしたという。

記者たちは、北朝鮮専門記者である李記者を呼び入れようと考えたのだが、夜明けに李記者をたたき起こすほど急な要件ではないと判断した。そこで崔仁洙を片方の会議室に案内したのち、タバコと飲物などを持参し、朝まで待ってくれと言った。

そうして夜が明けると電話をし、午前7時頃に李記者が編集局に到着し、崔仁洙と会った。このときから約3時間ほど、李記者は崔仁洙をさまざまな角度から取材した。国情院関係者をつうじて確認した事実だが、このとき李記者は拷問によって傷だらけになった崔仁洙の姿を写真におさめた。

3時間の取材をし終えた李記者は、他のことならいざ知らず、国情院の安家を脱出したという崔仁洙の主張だけは、とうてい信じることが出来なかった。そこで国情院側に「行方不明者はいるか」と電話をかけたのだが、その瞬間、国情院は「いる」としながら喜色ばんだ。

その直後、海外工作を担当する某局要員と公報関係者たちがA日報に走ってきて、崔仁洙を連れていこうとした。あわてたのはA日報と李記者であった。国情院側は崔仁洙を連れていくと同時に、A日報にこのことを記事化しないてくれ、と申し付けた。

このときの国家情報院長は政治家出身の李鍾賛(65)氏で、北朝鮮と海外を担当する第一次長は、学者出身である羅鍾一(61)氏、崔仁洙を韓国に不法拉致してきたチームの局長は、空軍将校出身のC氏であった。崔仁洙の身柄を引き受けた国情院は、直ちに公報補佐官を中心とする会議を開いて、対策作りを開始した。

A日報から崔仁洙事件を報道しない、という約束を取りつけた国情院は、他の言論社がこの事実を知ったり、報道するのを防ぐことに尽力した。このため国情院は、主要言論社の編集・報道局長を江北のロッテホテルに招請し、簡略に「工作を行う過程で、北朝鮮人を連れてきて調べたのだが、誤ってこの者が脱出してしまい、A日報を訪ねる事件が起きた。北朝鮮人を連れてきたことが報道されれば、国益に大きな損失が起きるため、報道しないでくれ」と頼んだ。

報道を防いだ国情院

一部始終を知らない他社の局長たちは、国情院が対北朝鮮工作をする過程において失敗があったものと理解し、国情院の要求を受け入れたという。このときは国民の政府がスタートしてまだ5ケ月も経っていない時であったため、言論と政府の間は比較的円満であった。

崔仁洙事件を知らない他の言論社ならばいざ知らず、A日報の李記者だけはその後もこの事件を報道したかっただろう。李記者は「崔仁洙事件を報道したくなかったのか?」との質問に対して、例外的に自身の心情を表明した。

「金大中政府がスタートしてまだ5ケ月も経っていない時点で、国情院の北朝鮮人不法拉致と拷問、そして北朝鮮人の脱出事実を報道するということは、非常に難しいことだった。もしその時、崔仁洙が新東亜に飛込んだとすれば、新東亜は崔仁洙事件を報道できただろうか?私は崔仁洙事件を特ダネとして取材できる機会を持ったが、時期が時期だけに特ダネとして報道する機会を持てなかった」。

国情院が崔仁洙を連れていく時、李記者は国情院側に二つの依頼をしたという。「どういうわけか、崔仁洙は生きるためにA日報へ飛び込んだ人だ。だから崔仁洙を連れていくのなら、彼の身辺安全を保障してほしい、また崔仁洙の身柄をどのように処理したのかについても隠さず知らせてほしい」。

国情院側は「そのようにする」と答えたが、不幸にもこの約束は守られなかった。国情院は崔仁洙の身辺を終わりまで保護しなかったのだ。

消息筋によれば、その後の国情院は崔仁洙を亡命させるために努力したが、失敗したという。亡命させても崔仁洙は故・李韓永氏のように、後ほど言論社を訪ねては、「私は国情院により不法に拉致されてきた」と騒ぐ可能性がある人物だ。

このような点を考慮した国情院は6ケ月後、ソウルに連れてくる時の逆順で、崔仁洙を隠密に瀋陽に再び送り返した。いくらか後、崔仁洙は北朝鮮で入っていったのだが、その後の崔仁洙に関する消息は完全に途絶えた。すると瀋陽では「崔仁洙は北朝鮮に引きずられて、そこで処刑された」という噂が出回った。

再び中国に戻って

崔仁洙事件当時に安企部幹部だったB氏は、これと関連し、「北朝鮮に入っていった後の、崔仁洙の生死の可否は正確に明るみにならなかった。崔仁洙は私たちが使った望遠であるが、意のままに動かないので連れてきた」と語った。

不法に連れてきた崔仁洙を拷問し、逃がしてしまい、言論社までを訪問するようにしたなら、このような誤ちをある工作チームに対しては問責なければならない。しかも崔仁洙事件を起こした局の失敗は、これだけでなかった。

崔仁洙脱出事件がおきるわずか一週間前の1998年7月4日、ロシアの連邦保安部(FSB)は、駐ロシア韓国大使館の趙成禹参事官を「忌避人物 (persona non grata)」と規定し、72時間内に出国するよう要求した。

趙参事官は外交官に偽装し、ロシアに出ていた国情院のホワイトであった。ロシア連邦保安部は、趙参事官がヴァレンティン・モイセエフ・ロシア外務部アジア局長に定期的に金品を提供して、ロシア政府の秘密文件を渡されていたことを捕捉した。しかし趙参事官が兔責特権を持った外交官の身分であるがゆえに、追放令を下したのであった。

スパイの世界では、情報を取り出そうとして捕まるというのはありうることだ。このときはいち早く「間違いだった」と謝罪して、事件を最小化するのが賢明な処置だ。しかし国情院は傲慢だった。

駐韓ロシア大使館には、ロシア海外情報部(CSV)のホワイトであるオレグ・アブラムキン参事官がいた。韓国は、アブラムキン参事官が不法活動をしたことが捕捉できなかったにもかかわらず、「忌避人物」と規定し、72時間以内に韓国を離れろ、と正面対抗したのである。これに対してロシアは「私たちが何か間違ったことをしたのか?」と荒々しく抗議したが、アブラムキンは韓国を去るしか方法がなかった。

これで韓国は自尊心を回復し、歴史上はじめて外交官を追放した記録を残すこととなった。しかしロシア参事官を対抗追放したことは、その後の韓・露関係を非常に困難にする要素となった。以後、ロシアはモスクワまで訪ねていった脱北者たちが国連難民救済高等弁務官室で難民判定を受けても、再び北朝鮮に送還させるなど、ことごとく韓国を妨害しはじめた。

国情院はロシアをなだめるために、海軍に対して「ロシア製キロ級潜水艦を導入せよ」と提案する無理を強いた。自尊心を確立しようとしたのが、損害だけを見るようになったわけだ。

趙参事官事件から始まった外交官対抗追放措置を推進した局が、まさに崔仁洙事件を起こした工作チームが属する局だ。韓国で1週間あまりの間隔を置いて、連続して芳しくない事件がおきれば最小限、局長に対しては責任を問われなければならない。

しかしC局長だけでなく、この局の中間幹部たちは、まったく責任追及を受けなかった。国情院はただし、崔仁洙事件を知る外部の人間に「この事件と関連し、局長と課長などが人事措置を取られた」といううわさだけをまき散らした。C局長は1999年5月26日、千容宅氏が李鍾賛氏の後任で国家情報院長になった後、幹部を総入れ替えする時に、静かに退職した。

大韓航空瀋陽支店長の逮捕

千容宅氏が国家情報院長に就任したすぐ翌日(1999年5月27日)、驚くべき情報が瀋陽から飛び込んできた。対北朝鮮工作の前哨基地司令官である、大韓航空瀋陽支店長・元容秀(39)氏が、間諜罪の容疑で中国の国家情報機関である、国家安全部に電撃連行されたのである。中国の国家安全部は6ケ月余のあいだ消息の不明だった崔仁洙が、ある日突然に瀋陽に現れたことを知って調査を開始し、国情院が彼を拉致して連れていったが、返してきた事実を確認した。中国人はもちろん、中国に居住する外国人を、中国の許諾を受けずに第三国が思いのままに連れていったというのは、中国の主権を侵害したことになる。

主権を侵害されてじっとしている国はない。中国国家安全部は報復を決心したかのように、元容秀支店長の周辺を調べる。千容宅院長が就任したすぐ翌日、電撃的に元支店長を連行した。国情院職員が中国国家安全部の調査を受けるようになれば、相当な秘密が漏洩する可能性がある。また彼が間諜罪で中国の法廷にて審問を受けることになれば、韓国の国家秘密は法廷陳述を通じて天下に公開されざるを得ない。狼狽した国情院は即刻、中国国家安全部と交渉を開始した。中国の国家安全部は元支店長を釈放するから、国情院が中国に浸透させたブラック要員を全員撤収させろ、と要求した。

国情院はこの要求を受け入れざるを得なかった。これで連行11日めの6月7日、元支店長は韓国へ追放され、中国に植え付けられていた国情院のブラック要員たちが、大規模に撤収した。崔仁洙事件を誤って扱ったため、国情院は努めて構築してきた工作網までを、みな失うことになったのである。しかし、崔仁洙事件から始まった一連の失敗に対して、責任を負う人はいなかった。A日報が取材した以上、崔仁洙事件はいつか公開されざるを得ないことであっても、戦々恐々として報道を防ぐことにだけに力を注いだ。

ここで残る疑問は、はたして国情院が北朝鮮秘密取り引き事件を作るために崔仁洙を拉致して来た部分だ。北朝鮮秘密取り引き事件は1997年12月、北京のキャンピンスキーホテルに行った張錫重・韓成基氏が北朝鮮人に会い、15代大統領選挙の直前、ハンナラ党候補に有利なように板門店で射撃をしてくれと頼んだ、ということが要諦だ。この事件を調べるために、国情院が張錫重・韓成基氏などを国情院へ呼び入れて調べたのは、1998年9月初めだ。そして10月1日から都下の言論に大きく報道されながら、この事件は世の中に知らされた。反面、崔仁洙脱出事件がおきたのは、張錫重氏などが国情院調査を受ける2ケ月前の、同年7月16日だった。

国情院の一消息筋は「当時、国情院は崔仁洙を通じて、張錫重氏などが銃撃を要請した証拠をつかもうとした。しかし崔仁洙は1997年12月、張錫重に会った事実はなかった。そのため、張錫重氏などを本当に知らないのかと圧迫を加え、暴行がおきたものと理解する」と語った。

これに対して張錫重氏も「私が崔仁洙と最後に会ったのは1997年12月のずっと以前だ。国情院工作チームが北朝鮮秘密取り引き事件に対する容疑を握るために、崔仁洙を拉致してきたとするならば、大きく誤った判断である」と語った。

北朝鮮秘密取り引き事件の裁判では、原告は検察だ。だが北朝鮮秘密取り引き事件を一次に捜査し、検察に渡したのは国情院だ。検察は張錫重氏などを国家保安法違反の容疑などで起訴したのだが、国家保安法の違反事項については、1審では有罪だったが2審で無罪になった。しかし南北交流協力法に違反したことは認定され、張氏らは執行猶予の宣告を受ける。

これに対して張氏などは南北交流協力法に違反した事実はないとし、大法院に上告している。北朝鮮秘密取り引き事件は、保安法の違反可否が核心の争点であるが、この部分にはいち早く無罪判決が出たのである。したがって国情院が崔仁洙を拉致し、北朝鮮秘密取り引き事件の証拠を捕捉しようとしたとするなら、崔仁洙拉致に関与した人々は、拉致と拷問容疑の他にも、誣告容疑を受ける可能性がある。

北朝鮮の反撃への対策はあるのか

崔仁洙を調べた国情院関係者らはやっきになって、北朝鮮秘密取り引き事件を作るために、崔仁洙を拉致したというのは違う、と主張する。B氏をはじめとする当時の国情院幹部らも、崔仁洙と北朝鮮秘密取り引き事件の部分だけは関連がない、と主張する。崔仁洙は、国情院が彼を拉致してきたというのが、北朝鮮秘密取り引き事件と関連があることなのかについて言える唯一の証人だ。しかし彼は北朝鮮に入っていったのち、生死が不明な状態だ。したがって現在としては、「北朝鮮秘密取り引き事件と崔仁洙事件は、連結する輪をさがすことができない」と判断するのが合理的だ。

国益のためならば、情報機関は亡命意思のない北朝鮮人も拉致してくるべきだ。情報機関の工作とは元来そのようなものであろう。しかし拉致した北朝鮮人の監視をないがしろにし、逃げ出した北朝鮮人が言論機関を訪問するようにしたことは許しがたい。帰順せず、再び中国に返したというのはどういう措置か。もし北朝鮮がこうして帰ってきた崔仁洙を前面に押し出して、「太陽政策を繰り広げるという韓国の情報機関が、北朝鮮人を不法に拉致して拷問した。韓国は人権蹂躙国家だ」と騒ぐならば、われわれはどのように対応するのだろうか。このような危険を遮断し、国情院が国益のため工作できる規律を正しく立て直すためにも、崔仁洙事件はよりいっそう徹底的に調べる必要がある。

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