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「オウムと北朝鮮」の闇を解いた2

(週刊現代 1999年8月28日号)

潜入工作員と「よど号犯」はスペイン・マドリッドで繋がった

高沢皓司(ノンフィクション作家)

自らの思想信条を隠してオウム真理教に潜入し、幹部信者にまでなっていた工作員A。

彼は、一連の事件で他の幹部が逮捕された直後にオウムを脱会すると、すぐさまスペイン・マドリッドヘと飛んでいた。そこは、ヨーロッパにおける北朝鮮の工作拠点がある街だった……渾身のスクープ・レポート第2弾。

スペインヘの度々の渡航歴

オウム真理教と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)工作組織の接点、この謎を解く重要な鍵を握る人物がいた。

その男A(46歳)は、かつて日本の金日成思想信奉者の組織である「チュチェ思想研究会」でオルグ活動に従事し、のちに北朝鮮の呼びかけで各国に創設された国際組織「チュチェ思想国際研究所」(尾上健一事務局長)の局員をもつとめていた。金日成主義者としてはいわば、ある種のエリートとも言えるだろう。たびたびの長期にわたる北朝鮮への渡航歴もある。

そのAが、それまでの主義主張、思想的立場とまるでつながりのないオウム真理教に突然、「入信」するのは'89年の12月。当時、長期滞在していたスペインからの在家入信だった。そして、取材をすすめると、Aのこのスペイン滞在自体が「チュチェ思想国際研究所」の任務とも密接に関係していたのである。

だとすれば、Aのオウム「入信」の動機を、単純に宗教心からだけと理解するのは、どうしても無理があるようだ。

ここで、私はあらためて金日成主義者たちの特徴的な活動のスタイルについて、注意を促しておかねばならない。

つまり、彼らの工作活動はつねに自分の思想信条を表に出さず、秘密裏に誘導していくといか形で行なわれるのが常である、ということをである。

この方法を政治的に体系化したものを北朝鮮では「領導芸術」と呼んでいることは、前回もふれた。

この工作方法のもっとも分かりやすく具体的な(そして未熟な)例は、北朝鮮に亡命した「よど号」のハイジャッカーたちによる、ヨーロッパの日本人留学生「拉致」事件に見てとることができる。もちろん、彼らの「日本人獲得工作」(拉致工作)の実態は、詳細に検証すればするほど、ただの「騙し」による誘導としか思えないのだが。

Aがオウムに「入信」した'89年末という時期は、今から振り返ってみれば、ちょうど「オウム真理教」という新興宗教教団が急激に内部変質しはじめた時期にあたっている。

オウム真理教はこの時期から、なぜか急激に教団の非合法武装化を推し進めつつ、教祖麻原彰晃(松本智津夫)の選挙への出馬など、にわかに政治色を強めていた。麻原が「日本転覆」的な発言をし始めたのも、この頃だった。

Aは'92年5月、長期のスペイン滞在を切り上げ、「入信」後2年半を経て日本に帰国した。帰国後、しばらくしてオウム「科学技術省」で活動をはじめ、'94年2月には出家。

山梨県上九一色村のサティアンに入ってからは、村井秀夫「科学技術省」長官のもとで、自動小銃の部品など武器製造の本格的な活動をはじめている。

そして時期を同じくして、教団は外国からの兵器購入や軍事訓練に乗り出す。

こうしてみると、Aの日本への帰国と突然の宗旨替えも、何らかの極秘指令を受けてのものだった可能性が高いのである。

ここでAの渡航歴をあらためて検証する。

'80年6月の北朝鮮への出国を皮切りに、'80年代前半にAは北朝鮮への渡航を何回か重ねている。

'80年代の中期からは、モスクワヘの出国、帰国がたびたびくり返されているが、ここで注意を促しておきたいのは、モスクワからは北朝鮮・ピョンヤンヘの朝鮮民航直行便(あるいはハバロフスク経由便)が飛んでおり、北京経由と同じく北朝鮮入国の、もっとも普通のルートであることである。さらに興味深いのは、この時期からAのスペインヘの渡航も、何度かくり返されはじめていることだ。このスペイン行には、やはりチュチェ思想研究会の幹部活動家だったAの元妻(46歳)が同行していることもあった。

Aの頻繁な海外渡航は、「入信」して帰国する'92年以後も何度かくり返されているのだが、'94年2月に出家してからの約1年半のあいだは、ピタリと止まる。しかし、サリン事件をはじめとする一連のオウム真理教テロ事件ののち、突然、才ウムを脱会('95年7月22日)して、おおよそーヵ月後には、Aの頻繁な海外渡航がふたたび再開されている。この手際の良さは感嘆に価する。そして、もっとも頻繁に渡航をくり返していたのが、またもやスペインだった。

中南米工作と日本人拉致工作の拠点

では、なぜ、スペインなのか?

ピョンヤン〜モスクワ〜マドリッドと、これらの都市の名前がひとつながりのものとして連ねられたとき、私には明らかに一本の見えざる糸が見えてきたように思えた。この都市の名前の連なりは、まさに北朝鮮工作組織の見えざる間のルートと明白に重なるのである。

これらの都市に、モスクワからの中継地としてコペンハーゲンあるいはウィーンを加えれば、その見えざる糸はさらに完壁なものになる。そして、じつはこのルートは、かつて「よど号」犯の「妻」たちが、ヨーロッパで日本人留学生拉致工作のために、頻繁に北朝鮮とのあいだを往復していたルートと同じものだった。

マドリッドは、北朝鮮の工作活動の拠点として二つの側面をもっている。ひとつは、対中南米工作の拠点である。

「よど号」犯の「妻」たちが、頻繁にピョンヤンとマドリッドとの間を往来し、マドリッドでスペイン語学校に熱心に通っていた理由もじつはそこにあった。

私は『宿命-「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社)のなかで、彼らのヨーロッパでの工作活動の一端を明らかにしたが、その本の書かれざる一章は、じつはこの彼らによる中南米工作であったのである。

もうひとつが、日本人拉致の舞台としての側面だ。そして、「妻」たちの活動と呼応するように、ちょうど'80年代の初頭から「よど号」犯たちも、彼らの活動拠点をマドリッドに作っていた。

北朝鮮にとって重要な意味をもつ工作拠点都市マドリッドに、「チュチェ思想国際研究所」局員だったAが頻繁に往来し、さらに数年にわたる長期滞留をつづけていた。これは偶然のこととは思われない。そしてAはスペイン現地でオウムに「入信」し、突然、そこでの長期滞留を打ち切り日本に帰国した。

スペインでは何があったのか?何が計画されていたのか?

いくつかの疑惑と謎がマドリッドという街で交錯し、そこに収斂されていくように見える。オウムによる一連のテロ事件が引き起こされてから、一時期マスコミの取材はロシアとオウム教団の関係に集中していた。そのロシアとの関係もまだ全貌が明らかにされたとは言えないのだが、オウム真理教と北朝鮮のかかわりの発端は、じつはマドリッドから始まっていたのではなかったのか?

マドリッドの街には、その謎を解く鍵が、隠されているように思える。私と取材班は、その答えを求めてスペインの首都・マドリッドに飛んだ。

国立語学学校スペイン語学科に在籍

アムステルダム経由のマドリッド便は、夜遅<にバハラス空港に着陸した。夏のマドリッドは夜半を過ぎてもまだ夕焼けが残っている。エコノミークラスの狭い座席に、十数時間身体を押し込められていた私は、疲労困憊の体だったが、滞在日数の余裕はあまりない日その夜のうちにこなしておかねばならない取材の予定があった。この日からはじまる数日間、私たちはこの異国の地で、がむしゃらな取材活動を繰り広げた。

もっとも私にとってマドリッドの取材と調査は、初めてではなかった。北朝鮮の「よど号」グループによる「マドリッド作戦」(日本人獲得工作)の実態解明のために、以前にもこの街を飛び回ったことがある。

その時の調査で、私はこのマドリッドの街に張りめぐらされた、北朝鮮工作組織の影を色濃く感じとっていた。

'80年の初頭、「よど号」犯の「妻」たちがここで繰り広げていた留学生拉致事件の確かな痕跡も見つけ出していた。この街から、'80年代前半、複数の日本人留学生と旅行者が、彼女たちの手によって北朝鮮に「拉致」されている。

そのひとり、札幌市出身のIさん(当時22歳)は、「よど号」犯の「妻」たちに'80年4月、東欧旅行に誘われ、そのまま消息を絶った。熊本市出身の語学留学生Mさん(当時27歳)も、同様に彼女たちの手によって北朝鮮に連れ去られ、消息は不明のままだ。

この留学生失踪事件から8年後、そのIさん本人からの手紙が突然、札幌市の実家に届き、「事情があって北朝鮮で暮らしている」と書かれていた。当時は、マドリッドと北朝鮮のつながりなど誰一人として想像だにできないものだった。しかし、その手紙の内容から、はじめてMさんや、'83年夏にコペンハーゲンから失踪していた、ロンドンの語学学校留学生だった有本恵子さん(当時23歳)の消息が判明した。これらが、いわゆる「欧州留学生拉致事件」である。

「よど号」犯の「妻」たちは当時、マドリッドの下町の安いオスタル(ペンション・ホテル)や観光名所を舞台に、若い日本人青年を北朝鮮に連れていく工作活動を行っていた。このとき彼女たちはマドリッドでアパートを契約し、工作活動の拠点としていた。

さらに語学学校などに在籍し、日本人留学生に親しく声をかけるチャンスを狙ってもいた。

また'88年5月、日本国内潜入中に逮捕された「よど号」犯のひとり、最年少メンバーだった柴田泰弘(46歳)が、日本潜入中に他人名義の偽造パスポートを使用してたびたび渡航していたのもマドリッドだった。表向きは貿易業務の活動とされていたが、実際にこのマドリッドでは「よど号」犯の他のメンパーを含む北朝鮮関係者と接触(北朝鮮の工作組織の用語では≪接線≫とよばれる)していた疑いが濃い。

そして問題の男Aは、このマドリッドで長期滞在のかたわら、国立語学学校スペイン語学科に籍を置いていた。すでにスペイン語のかなり堪能なAが、さらに語学に磨きをかけようとしていたことには理由がある。国際的なチュチェ思想の連絡ネットワークを任務とする「チュチェ思想国際研究所」の役割としては、中南米圏とのネットワーク作りと連絡体制の強化のために、スペイン語の熟練は必要不可欠な課題だったからである。

そもそもAがスペイン語を学ぶきっかけは、チュチェ思想研究会の活動をしていた当時、「チュチェ思想国際研究所」発足にあたって、主宰者・尾上健一事務局長の指示を受けてのものだった、と言われている。Aの国内でのスペイン語学習にあたっては、「研究所」から研修資金が提供されていたともいう。

「中南米には多くのチュチェ思想研究団体や、北朝鮮と友好的な国が多数存在しています。チュチェ思想国際研究所の役割としては、それらの友好国や研究団体との連絡のために、スペイン語は必要不可欠でした。尾上事務局長は当時、さかんにスペイン語の学習をチュチェ研のメンバーにもすすめていましたからね」(チュチェ研関係者)

Aのスペイン長期滞在は、このことからも組織的な活動の一環だったことがわかる。

非常に印象の薄い人物だった

そして、さらに興味深い証言があらわれた。そのチュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長とAは、ある時期から意見が合わず、Aは同研究所をやめていたというのである。

「尾上健一事務局長と意見が合わずに研究所をやめていった人間は結構多いんです。尾上さんはこういうことを言うと怒るかもしれないが、極めて教条主義的な面があり、その点では反発する人も多かったのではないですか。彼は一種の独裁者でしたから」(同研究所をやめた関係者)

今回の取材のなかで、私たちは何度も尾上事務局長の言い分も聞くべく連絡を取ったが、現在にいたるまで取材には応じてもらえていない。

ところでAが、そうした何らかの事情で「チュチェ思想国際研究所」をやめていたのだとすれば、以後のAの活動について新しい可能性が浮上してくる。すなわち、ある時期からAと北朝鮮の関係は、もっとダイレクトな深い関係になったのではないか、という疑惑である。

実際、チュチェ研でチュチェ思想の洗礼を受け、やがてそこにあきたらなくなって、より深い活動に入っていく例もこれまでにいくつかあるし、現在「よど号」犯の「妻」として北朝鮮にいる何人かの女性たちも、同じ道を歩んだと言えるからである。また、チュチェ思想を捨てたわけではなく、チュチェ研から離れた人問には、より工作組織に近いところからオルグの声がかけられることも、過去に例がある。

私たちはマドリッド滞在中のAの足跡を追いつづけた。

マドリッド市内の国立語学学校には'91年6月から約1年間、スペイン語学科第三課程に在籍していた。

さらに私たちは、当時のAを知る知人の案内で、マドリッド滞留中のAのアパートも訪ねた。闘牛場に近い雑多な町並みの一角、マンションふうな建物の最上階だった。

「Aはある人の紹介があってここに住むようになったのではなかったかな。訪ねて来る人もあまりなかったようだ。

ちょうど湾岸戦争が起きた頃だったか、ガイドの仕事をしているようなことだったが、観光客もあんまり来なくて仕事がなかなかできない、とこぼしていた。それで日本に帰ったようだ」(当時のAを知る同じアパートの住人)

マドリッドのAは、近隣の人々のあいだで印象が非常に薄い。日本人社会とのつき合いもあまりなかったようだ。

「すすんで人づき合いをする人ではなく、印象が薄いが、旅行社のガイドのようなことはやっていたようだ。妻子を抱えてよく生活ができているな、と思っていた」(マドリッド在住の日本人)

そんなAが、実は度々訪れていた場所があった。マドリッドの下町にあるOというオスタルである。このオスタルは、かつて私が「よど号」犯の「妻」たちによる「日本人獲得工作」の実態を調査していたとき、何度も足を運んで話を聞かせてもらいたいと、訪ねたところである。私が調べたいと思っていた'80年代前半のころとはオーナーも変わり、当時の宿帳を見たいと、現在の経営者に頼んでも、

「以前のオーナーの許可がなければ見せられない。以前のオーナーがどこにいるのかは知らない」

と、取り合ってくれなかった苦い経験のあるオスタルである。「よど号」犯と北朝鮮関係者の宿泊場所として頻繁に利用されていたのではないか、ど私が推測していたところでもある。

そのオスタルでAの足跡が出た。彼は前述のアパートを借りる前、このOに滞在していたという複数の証言が得られたのだ。A本人もそのオスタルを宿泊先にしていたことを認めている。当時の事情を知る、前オーナーを探し出すことが、どうしても必要になった。だが、マドリッドで得られた手がかりは、その前オーナーがどうやらマドリッドからアメリカにわたり、レストランをやっているらしい、ということしかなかった。

柴田泰弘と同じホテルに宿泊

取材班の記者がアメリカに飛んだ。ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスとしらみ潰しにあたった記者は、ようやく前オーナーK氏(60歳)にたどり着いたのである。そして、そこで聞くことのできた証言は驚くべき内容だった。

「よど号の犯人が泊まったことがあった。うちに泊まったことがある学生から、手紙がきて、このまえそちらのホテルに泊まっていた人が、日本で逮捕されて新聞に載っている、といって新聞の切り抜きを送ってきた。うちに泊まっていた太ったおじさんが、実は『よど号』事件の犯人の一人、柴田泰弘だった。そのとき、その学生は犯人とは知らず一緒に、こ飯を食べたりしていた。その犯人は自分は『ロバの耳』だったか、そんな名前の輸入雑貨店を経営していると言っていた。彼が逮捕されてしぱらくして日本の警察からも連絡が入り、犯人が一緒に行動していた人は誰かとか、いろいろ聞かれた。彼は4〜5日泊まっていたが、私が『娘が結婚するからホテルを売らなきゃいけない』と話すと、親切に、『知り合いに買ってくれる人がいるかもしれないから、聞いてみる』と言ってくれた。逮捕直前、日本からきた手紙のなかにも『誰か知人で、スペインのホテルを継いてくれる人がいるかもしれないので紹介する』と書いてあった。ええ、今のオーナーとは親しくさせてもらっていますよ。なぜ、私の連絡先を知らないなんて言ったんでしょうか。ホテルを譲ったのは'91年の7月でしたね」

オスタルOは、やはり実際に「よど号」のハイジャッカーたちが利用していた場所だった。そのオスタルで、柴田とAの足跡がなぜか繋がったのである。そして驚くべきことに、この「よど号」グループの存在は、オウム事件の謎を解くうえで、重要な鍵を握っていたのだ。

(文中敬称略・以下次号)

■取材協力 今若孝夫、時任兼作(ジャーナリスト)

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