Make your own free website on Tripod.com

北風事件の主人公、尹泓竣の主張『私は日本で金正男に会った』

(月刊朝鮮 2001年6月号)

●金正男の訪日予定を耳打ちしてくれたという尹泓竣の証言を検証
●『平壌でも会った。私に金儲けの方法を教えてくれ、と要請』
●『金正男は昨年8月、日本で健康診断受けた。朝総連系出身の女友達が散髪』
●『金正日の資産のうち、1億ドルは金正男が勝手に使用』
●『インターネットで金正男と交信する友人が全世界にに5、6名』
●『北朝鮮製兵器の海外販売を要請』

禹鍾昌月刊朝鮮取材2チーム長・Vladimir

woojc@chosun.com

金正男の日本行きを事前に聞く/『金正男は私に訪日前、e-mailを送ってきた』

去る4月28日から5月6日まで、日本は「黄金週間」(ゴールデンウィーク)だった。天皇陛下の誕生日である4月29日と、憲法の日の5月3日、子どもの日の5月5日が法廷公休日なので、その間にある日々も大部分が休日と見なされた。日本人らの旅行がピークを成し遂げるのがこの頃だ。日本列島が連休の雰囲気に包まれていた5月3日の午後、日本のN-TV(Nippon Television)韓国支局に所属する朴某記者は、日本本社から北朝鮮最高統治者、金正日の家族関係を取材せよとの緊急連絡を受ける。N-TVは日本で最も発行部数が多い、読売新聞系列の放送だ。本社は金正日の長男、金正男(キム・ジョンナム・30)の婚姻関係と子女の部分を集中的に把握してくれ、と要求した。この時、N-TVは金正日の長男、金正男が女性2人、子ども1名とともにドミニカ発行の偽造旅券を所持し、日本に不法入国しようとしたが空港で逮捕された事実に気づいていた。金正男一行は二日前の5月1日午後3時30分頃、シンガポール発のJAL(日本航空)便で、日本の成田空港に到着し、入国審査台を通過する途中で逮捕され、不法入国者たちが一時受容される茨城県の「東日本入国管理センター」に収監中であった。N-TVは逮捕された男性が金正男であるかを確認するため、その男性の旅券写真と、N-TVがすでに入手していた金正男の17才時の平壌郊外で撮られた写真を対照し、彼が金正男という事実を確認し、彼と同行した人物たちに対する補強取材を韓国支局に任せたのである。金正男の不法入国の事実は、この日午後5時30分、N-TVの正規ニュース時間にトップニュースとして報道される予定だった。

本社の指示を受けた朴記者は、北朝鮮最高権力層の資料を豊富に持っている月刊朝鮮の趙甲済編集長を取材した。N-TVの取材に応じながら、金正男の日本入国を知ることとなった趙甲済編集長と記者ははっと驚いた。金正男が5月初めに日本に行く、という内容を、アメリカのワシントンに居住する在米僑胞から、すでに4月27日に聞いていたためだ。

記者は4月24日から4月30日までの6泊7日間、アメリカに出張してきた。現政府の迫害を避け、ニューヨークとワシントンで暮らしている「反金大中人士)」に会い、いわゆる「北風」事件を取材する過程で、金正男についての話を聞くことになった。

金正男の日本入国を知らせてくれたある在米僑胞は、『金正男は随時、中国と日本を訪問する。昨年には日本で糖尿と胃ガンの検査を受けたこともある』と話してくれた。彼は金正男と何度も会ったこともあるという。

その時は、その在米僑胞の話を半信半疑で聞いていた。

『金正男は私に訪日前、e-mailを送ってきた』

そのような状況で、金正男の偽造旅券所持と日本へ入国しようとしたが逮捕された、という話を聞いたので、驚くよりほかはなかった。記者はその在米僑胞に電話をかけた。韓国時間の5月3日午後4時55分、ワシントン時間の明け方4時55分。N-TV報道の30分前だった。

『しばらくしてから、日本のN-TVで金正男の逮捕事実を報道するという話を聞きました。金正男がドミニカの偽造旅券でシンガポール発の東京行の飛行機に乗り、日本に入国しようとしたが捕まった、という内容だけは知っています。金正男は5月初めに日本に入国する、というあなたの言葉は事実のようです。N-TVを見て、逮捕された人が金正男であるかを確認してくれればよいです』。寝ている途中で電話を受けた彼は、金正男の逮捕事実を知らなかった。30分頃後、彼から連絡がきた。

『TVに報道された、逮捕された男性の過去の写真は金正男です。金正男は日本に頻繁に行きます。日本国内に金正男の友人たちが数名います。彼らが詳細な事情を知っているが、日本全国が公休日なので連絡とれないです。彼らに連絡を取っておきましたので、すこじ時間がたてば詳細な情報を得ることができると思います』。一時間くらい後、彼は『金正男の逮捕事実を、彼の日本の友人たちも知っています』と知らせてくれた。以下は彼との一問一答だ。

― 貴方は金正男が5月初めに日本へ行く、という事実をどのように知ったのですか。

『金正男側から私に電子メールを送ってきました。5月初めに日本に行くので、日本で会おうという内容でした』

― 金正男の日本訪問の目的は何ですか.。

『追ってお話しします』

― 貴方は金正男と何度か会いましたか。

『何回か会いました。平壌で初めて会い、中国の北京でも会いました。昨年には日本で会いました。金正男は糖尿の検査を受けるために来たのですが、胃ガンの検査も受けました。金正男のガールフレンドが病室で散髪してあげていました』

― 金正男の健康に異常があるのですか。

『総合健康診断でした』

『ポルノ見ようとインターネットを習う』/『金正男はまだ軍を掌握できず』

― 看護した女性は何者ですか。

『朝総連所属の在日本僑胞であると思います。日本の大学を卒業したのに、名前は○○です。本名なのかどうかはわかりませんが、金正男はそのように呼んでいました。私たちの間では、金正男のガールフレンドとして通っていました。年齢は二十四か五くらいのようです』

― 貴方は金正男とどのように連絡を取っているのですか。

『電子メールで取っています。金正男は中国、日本、シンガポールに電子メールのドメインを登録してあります。彼はインターネットがとても上手です。インターネットを利用した情報検索は専門家の水準でしょう。数年前、偶然に金正男が持っているコンピューターを見たことがあるのですが、その当時、最新バージョンのWindows98が使われていました。提供した人物は日本に在住する金正男の知人です』

― 金正男はいつからインターネットを学んだのでしょうか。

『私も金正男に尋ねてみたことがあります。彼はポルノを見ようと覚えた、と答えました』

― 日本には金正男の友人たちがたくさんいるのですか。

『有名な人々が多いです。金正男にWindows98を提供した人物も、日本の財界の大物です。金正男は英語、日本語、フランス語、中国語をかなり話します。日本語とフランス語を個人指導した先生たちは海外にいます。全世界に金正男と電子メールをやり取りする人は5,6名いるのですが、私もその中の一人です。私は金正男より年齢が若くないので(この在米僑胞は1967年生まれで、金正男は1971年生まれである)兄と弟のようにしています』

― 金正男はドミニカの偽造旅券を所持し、日本に入国しようとしたが逮捕されました。ドミニカ旅券を使用したことには、特別な理由がありますか。

『彼はいくつかの旅券を持って全世界を回っていると聞きました。ドミニカ旅券はそのうちのひとつですよ。特別な意味はありません』

― 金正男の日本訪問について、亡命説があります。

『まったく事実無根です』

― 金正男は貴方と日本で会おうと言ったのに、なぜ日本に行かなかったのですか。

『金正男に会おうとするなら、多額のお金がかかります。接待もせねばならず、彼が北に帰る時には、食うに事欠く北朝鮮住民たちのための贈り物も買ってあげなければならないのです。彼に会おうとするなら、少なくとも30万ドルから40万ドルかかります。いまはそんなにお金がないため、日本に行かなかったのです』

『金正男はまだ軍を掌握できず』

― 金正男は日本の空港で逮捕された当時、ドルと日本円などかなり多額のお金を持っていることが報道されましたが、金正男の財力はどの程度なのですか。.

『父(金正日)が持っている資産のうち、1億ドル(1300億ウォン)程度は自分で勝手に使うという話を、金正男から直接聞きました。金正男はお金にとても明るい人です。事業感覚も飛び抜けています。私がこの頃経済的に苦しいということを知っている金正男は「お兄さんが苦しいのはよくわかっているのですが、私がお金を与えれば、お兄さんはまさに死んでしまうでしょう」という言葉も言いました。北から金を受け取った事実が発覚すれば、死ぬのは当然のことでしょう』

― 金正男の会話のスタイルや行動はどうですか。

『後継者教育を受けたがゆえに、とてもはっきりしています。話し方はとても速く、相手が話す暇を与えません。話すスタイルはゆっくり話す父、金正日をぬくものと見れば間違いありません』

― 金正男は金正日の後継者になるのですか。

『金正男はまだ軍を掌握できないでいます。社労青(社会主義労働党青年同盟)を掌握し、さまざまな権力機関で力を発揮していることになっていますが、軍を掌握できないがゆえに、まだ実勢(核心人物)ではないことがわかっています。金正日は北朝鮮軍部を掌握したがゆえに、金日成の後継者になることができました。金正男もいつかは金正日の後継者になるだろうと思います。でもその時期がいつになるのかは分かりません』

― あなたたちからいただいたこの情報を公開する際、あなたの身分を明らかにしたほうがよいでしょうか、それとも匿名で処理しましょうか。

『さっきも言いましたが、金正男の動静を知っている人は全世界で5〜6名だけです。私の名前を隠したからといって、私が話したことを金正男が知らないはずがありません。私の身分を明らかにしてもしなくても、私の正体が露出するのは時間の問題です。李韓永氏のような目に遭わないか憂慮しています』

李韓永氏は金正日の先妻成恵琳のお姉さん、成恵瑯氏の息子で、金正男とは父親の違う従兄弟だ。1982年、韓国に亡命した李韓永氏は1997年2月15日、京畿道のブンタンに住む大学の先輩のアパートに入っていこうとしたところ、入口で暴漢が発射した拳銃2発を頭と胸に被弾し、殺害された。この事件の7ケ月後、国家安企部は李韓永氏殺害犯が北から南へ派遣された社会文化部所属の特殊工作員、チェ・スンホら2名であると発表した。月刊朝鮮はさる1月、「脱北した、北朝鮮ロイヤルファミリーの最側近」という人物から、李韓永氏の殺害を金正男が指示した、という情報提供を受けた(月刊朝鮮2001年2月号参照)。この情報提供は、中国北京の有名ホテルのファクシミリを通じて伝えられた。情報提供者によれば、金正男は自身と父親の違う兄の李韓永氏が、北朝鮮最高統治者金正日の紊乱な私生活を暴露したことに激怒し、間諜南派・テロ・要人暗殺および拉致専門部署である社会文化部の部長、李昌善に殺害を指示したということである。「李韓永殺害」事件は、北朝鮮がテロ集団であることを再び証明した。金正男情報を報せてくれた在米僑胞が、北朝鮮のテロが予想されると憂慮したのは、金正男の件も北が鋭敏に反応する事案であるためだ。

日本企業を相手に対北朝鮮コンサルティング

この在米僑胞の名前は尹泓竣(ユン・ホンジュン)氏。1997年の大統領選挙の前に記者会見を開き、国民会議大統領候補だった金大中氏陣営と北との連係疑惑を暴露した、「北風」事件の主人公だ。この事件で、彼は金大中政府スタート直前の1998年2月14日、公職選挙法違反および名誉毀損の容疑で拘束され、懲役1年6月の宣告を受け、1999年8月14日に満期出所した。尹氏は1999年末にアメリカへ出発した。さる4月10日、ソウル高裁刑事4部(裁判長パク・グクス部長判事)は、いわゆる「銃風(北朝鮮との秘密取引)」事件の被告人4名に対して、無罪〜懲役3年に執行猶予5年を宣告し、全員を釈放した。ハンナラ党の李会昌候補を大統領に当選させるため、北朝鮮側に板門店での銃撃を要請したという銃風事件は、韓成基被告人の突出した行動からおきたことで、実体のないハプニングに近い、というのが裁判府の判断であった。銃風事件の始発点が、在米僑胞の尹泓竣氏が関連した北風事件だ。記者は銃風事件が2審で無罪となった数日後、アメリカに出張した。アメリカで記者は、さる大統領選挙に際してソウルと平壌で行われた、一連の事件を取材した。在米僑胞の尹泓竣氏も記者が会った人物の一人だった。

尹氏はアメリカのワシントンで暮らしていた。記者は4月27日の午前、ワシントンのCIA(米中央情報局)本部近くにある食堂で、尹氏と朝をともにしつつインタビューをはじめた。尹氏はアメリカで二種類の事業を行っている、と語った。

『タンザニア産コーヒーのアメリカ、カナダ一帯での販売権を持っています。タンザニアコーヒーは味と香りが飛び抜けており、アメリカ市場で競争力があります。タンザニア政府とコーヒー供給の独占契約を結ぼうとしているのですが、資金を用意できずに困りきっています。もうひとつは北朝鮮進出に関心の高い日本企業を相手にコンサルティングをしています。監獄で1年半を過ごして出てきたので、私の事業はみなでたらめになってしまい、すべてを新しく始めているのですが、資金がなくて苦戦しています』記者は二日間、尹氏とともに過ごした。4時間にわたる集中的なインタビューも行い、夕方には一緒に酒も飲んだ。この過程で記者は、金正男の日本訪問をはじめとし、域外ファンド形態で運用される金正日の秘密資金と、金正男の北朝鮮製兵器販売などについて聞くこととなった

三十四歳の尹氏は、自分を商売人と紹介した。

『私は小学校(ソウル江西区禾谷小学校)3学年のとき、家に遊びにくる母の友人たちに対し、金を受け取ってコーヒーを売りました。これが私がはじめた最初の商売でした。私は、家庭の農園で育てた白菜を一束150ウォンずつで買い取り、無公害白菜だと宣伝して1500ウォンで売ったこともあり、アパート団地の前で焼き芋の商売をしたこともあります。商売がとても楽しく、商売すること自体がよかったのです。高校を卒業してからというもの、実家からお金をもらったことはありません。私どもの祖父が昔、ソウル忠武路の黄金町で金銀房を商っていたという話です。実家は事業に明るかったし、私は母親の性格に似たようです。小学校6年の時には、いまはなくなった東亜放送(DBS)の野球中継にウォン・チャンホアナウンサーとともに、小学校の生徒として野球解説もしました。放送局に勤務する父の助けではなく、自ら訪れてそうしたのです。私は、やりたいことを全部やって育ちました』

尹氏の父は、KBS(韓国放送公社)技術部に勤めた尹和重(ユン・ファジュン。65)氏だ。彼はKBSにカメラマンとして入社し、EBS(教育放送)にて定年退職した。

『お金儲けを考え、学業を放棄』/北朝鮮から1億8000万ドルの管理を要請

ソウルの徽文中とサンムン高を卒業した尹泓竣氏は、ソウル大に三回挑戦したが失敗した。

留学を考えていたなかで、家族全員がアメリカへ移民するようになり、彼は1989年にアメリカの大学の経営学科に入学した。大学1年のときに父が病気で倒れると、尹氏は学業をあきらめて本格的な商売に飛びこんだ。尹氏は『勉強とはお金儲けるためにすることとは違うのか』としながら『お金儲けを考え、学校の勉強をあきらめ、早くから実戦に飛込んだ』と語った。1992年、彼の年齢が二十五のとき、尹氏は自身の会社を構えた。

『アメリカの大学には地方からくる学生が多いです。地方出身者たちは、学校の名前や学科の特性をプリントしたTシャツをとても好みます。最初に作った会社は、Tシャツに各種のデザインをペインティングする衣類会社でした。ワシントン地域の大学生を顧客で定めたので、結構な成功を収めました。その次はオーストラリア産の肉類を輸入し、韓国に販売する事業をやりました。一ヶ月の売上げは10億ウォンくらいなりました』。翌年の1993年、尹氏はフィリピンで事業する先輩の勧誘でフィリピンに進出し、衣類の賃加工と新聞用紙の販売事業を始めた。『その頃、会社の月平均の売上げは250万ドルくらいになりました』と尹氏は語った。フィリピンで成功を収めた尹氏は、フィリピンのスービック湾開発庁長のゴルドン氏から、韓国企業の投資誘致を依頼される。

『米海軍が撤収したのち、フィリピン政府はスービック湾一帯を輸出自由地域に定めました。

スービック湾を管轄するオロンガポ市の市長がゴルドン氏です。政治家の家の出身ですが、彼が開発庁長を担当しました。フィリピンは投資誘致の主ターゲットを日本、台湾、韓国に定め、韓国企業の投資誘致を私に頼みました。1994年、ソウルのラマダ・ルネサンスホテルで韓国の企業体を相手に投資説明会を開きました。200名が参加する盛況となりました。私は投資説明会を斡旋する側に立ち、参加はしなかったです。かわりにスービック湾開発事業がうまくいけば、フィリピンの国策事業に参加できるようにしてほしい、と言いました』

北朝鮮から1億8000万ドルの管理要請

フィリピン政界の大物を相手にしていたとき、尹氏の年齢は二十七だった。当時の尹氏の年齢では無知だと思われていた。180pの身長に体重は120sに肉迫、実年齢よりはるかに年齢が上のように見せた。わざわざ年を取っているように見せるため、尹氏は痩せなかったという。このような尹氏に1996年2月頃、親北性向の在米僑胞、金某氏が尋ねてきた。北朝鮮との接触はこのようにして始まった。

『フィリピンで行っている事業の話をたくさん聞いた、と私に接近してきました。私と事業について議論すべき人々はカナダにおり、その人々はカナダまではくることができるもののアメリカには入国することができないため、カナダへ一緒に行こうと提議してきました。お金儲けのため、ワシントンから十数時間も車を運転して、カナダへ行くことになりました』

カナダで尹氏は北朝鮮人、キム・チョリョンと会った。キム・チョリョンは自分を『北朝鮮の大興船舶貿易部に勤める職員』と紹介した。大興船舶は北朝鮮労働党が管理する会社だ。

尹氏がキム・チョリョンに会った場所は、北朝鮮人のお金を管理しているという、現地人の家であった。

尹氏は『家の主人は香港人で、私とアメリカの大学の同窓だった』としながら『その場には北朝鮮外交部に所属し、キム・チョリョンの指導員という人が相席した』と語った。キム・チョリョンは尹氏に二種類の事業を提議した。

『自分たちが管理する資金がある、と言いました。説明を聞いてみると、秘密資金造成のために海外に開設しておいた、一種の域外ファンドのようでした。このような域外ファンドをものすごくたくさん持っており、収益を増やすための方案を模索していたとき、私がフィリピン高位官僚たちの資金を管理している、との噂を聞いたというのです。私に管理せよ、という資金は日本、ドイツ、香港の三ヵ所に保管された、1億8000万ドルであると言いました。彼らはこのお金で船を買おうが、建物を買おうがどこに投資しようが関係なく、収益を大きく出してほしい、と要求しました。投資は私が自由に行うものの、投資前に予想される収益率を知らせてほしい、という条件を付けてきました。大きな収益の代価として、私に年300万ドルを与えると言いました。それが嫌ならば管理できる方法を知らせてくれ、とも言いました。ニ度目は自分たちと一緒に貿易事業をしよう、という提議でした。私は「北朝鮮は代金決済をちゃんとやってくれない、といううわさがある」ので拒みました』。

金正日資金管理責任者の力/金正日秘密資金の一端

― キム・チョリョンが活用してくれと提議した1億8000万ドルの実体を確認てみましたか。

『北朝鮮の羅津・先鋒に入っていき、確認しました。キム・チョリョンから招集を受けたパク・チョルという北朝鮮人が、1億8000万ドルが預置されていることを証明する銀行ステートメント(Statement)を見せました。銀行にお金を預けた顧客に、毎月一回ずつ送ってくる預金証明書でしたよ。1996年に1億8000万ドルならば、ものすごく大きなお金です。私も驚きました。計算を間違えたのではないか、と思って計算機をもう一度たたきました』

― ステートメントを発行した銀行はどこですか。

『フランクフルトにある某銀行と日本の某銀行、香港にある銀行など三ヵ所のようです』

― その金の出処に対して尋ねなかったのですか。

『西側ではお金の出処が重要だといいました。このお金が兵器販売の代金なのか、清潔なお金なのかを知っていなければならない、と言いました。パク・チョルは「国家が掌握する金を受け取っただけ」といいながら「オーストリアとイギリスの銀行からもってきたお金もある」と言いました。金正日がオーストリアに何かの銀行を持っている、ということも聞きました。金正日委員長がどのようにして銀行を所有できるのかわからりません。「すべてではないが、自分たちの資金一部を管理する銀行が二つある。日本では足利という銀行で、オーストリアにもある。イギリスには自分たちが運用するファンドがあり、アメリカ中にも取引する銀行がある」と言いました。事業が始まればいまの話と、さらに多くのお金を投資することができる、と言いました。それを見て、以前では北朝鮮にお金がないと思っていた私は、その時から考えを変えたのです。北朝鮮にお金がない、と主張するのは韓国企業だけです。日本の企業はそのようには考えていません』

― この1億8000万ドルはどのように活用されましたか。

『フィリピンの高位官僚たちの資金を管理した人物は私ではなく私の友人だったのですが、間違えて私を尋ねて来たのです。北朝鮮のお金を下手に管理したら銃で撃ち殺されると思い、自分の友人を紹介するという線で手を引いてしまいました』

金正日秘密資金の一端

― パク・チョルの職責は何だったのでしょうか。

『職責については話さず、党の「財政経理部」所属であり、金正日を側近として補佐すると話していました。若くてこぎれいな人物で、私より年齢が若いにもかかわらず、大変な力を持っていたようです。パク・チョルが動けば周辺の人々に緊張が走りました。彼が移動する時は警護のために三隊が先頭に立ちました。パク・チョルとは中国でも二度会いました』

― 金正日の秘密資金について聞いたことはありますか。

『パク・チョルやキム・チョリョンから金正日の秘密資金の話は聞いたことがないですが、海外で域外ファンドとして運営されるお金が、みな金正日の秘密資金ですよ。彼らは「司令部資金」であるから「司令部で管理する資金」という言い方をしました。活用方案をさがすよう要請してきた1億8000万ドルも「司令部資金」だとし、これよりもっとある、とも言いました。その金でとうもろこし粉を買ったらどうか、と言ったところ、そのようなことには使わないと言いました』

米CIA情報によれば、「スイス銀行に入金された金正日の秘密資金は43億ドル」だ(月刊朝鮮2000年11月号参照)。金正日の秘密資金は、年間1200tくらい生産される松茸から約1億ドル、金の輸出で毎年1億ドルをはじめとし、兵器輸出、麻薬密売、偽造ドル製作などで造成される。このお金は「39号室」と呼ばれる、党財政経理部で直接運用する。

「39号室」責任者は中央党副部長、クォン・ヨンロクだ。

海外の金正日の秘密資金は、北朝鮮の大成銀行を通じて行き来する。大成銀行は外形的には北朝鮮最高銀行である中央銀行の傘下となっているものの、中央銀行の統制権外にある。大成銀行は日本の東京銀行、三和銀行、足利銀行、そしてドイツ銀行と為替取引を開いている。輸出と為替取引を通じて造成した外貨のうち、相当な金額が北朝鮮には入っていかず、域外ファンドの形態で海外に隠れているということだ。尹氏はパク・チョルを通じて、金正日秘密資金の一端を見る。北朝鮮が尹氏の事業を信頼したがゆえに可能だったことである。

『烽火貿易で運営した工場と機械を引き受けて、平壌に第一被服工場を設立しました。男性用正装、女性用ツーピースなどをCMT(注文者要求方式)方式で生産、輸出しました。原緞は私の会社から供給しました。北朝鮮で作った衣類製品の中では、とても高級品でした。会社は良好に回転し、利益も出しました。今でも稼動中ですが、その工場で生産した製品は日本市場で中低価製品として売れています。被服事業の次には、南浦港まで物流を運搬するトラック事業を計画しました。戦争兵器として活用できないトラックを北に送るようにしたのです。北朝鮮当局の事業許可も受けました』

お金を儲ける方法を学んでみたい、という金正男

このような事業のため1996年から1997年まで、一ヶ月にに一回の形で北朝鮮を訪問した尹氏は、キム・チョリョンの紹介で平壌の「皇太子グループ」の招集を受ける。彼らは尹氏と同じ年頃の、30代の若者たちだった。

『キム・チョリョンの父は朝鮮切手公社総社長だ、と聞きました。ファン・ジャンヨプ(黄長火華)秘書の名前も、キム・チョリョンから初めて聞きました。軍に勤めているという黄秘書の息子、黄敬模とも挨拶を交わしました。キム・チョリョンとともに通った女性は、北朝鮮社会科学院副委員長の(息子の)嫁だといいましたが、英語をものすごく上手に話しました。キム・チョリョンは北朝鮮で発掘したという骨董品と仏像、仏具などを私に贈り物としてくれました』。尹氏は「皇太子グループ」の一員から金正日の息子、金正男の招集を受けたと言う。何回か会いながら、金正男は尹氏にさまざまなことを頼んだ。

『金正男は私に対して、お金を儲ける方法を学んでみたいと言いました。金正男は私にこう話しました。「指導者がお金の儲け方を知っていてはじめて、民にお金を儲ける方法を教えることができる」。彼は麻薬や偽造紙幣の製造ではなく、正常な取引を通じた事業を願っていました。私がやっていた事業と域外ファンドの運用方法などを教えてあげました。お金をたくさん儲け、お金持ちの友人たちと交わることを、金正男は好みました。理由はわかりません。カザフスタンの大金持ちのなかにも、友人がいます』

そんなある日、尹氏は金正男の下の人間から北朝鮮製の兵器リストを受けとる。

その人物は、金正男の指示により伝えたのだとしながら、この兵器の海外販売を依頼した。尹氏が過去に兵器を販売した経験があったためだ。

『韓国企業のフィリピン・スービック湾投資誘致説明会を用意してあげたおかげで、フィリピンから国策事業を数件取ることができました。1994年に初めて兵器取引に手をつけたのです。契約が成立すると、その国の政府官吏があまりに多くのリベートを要求し、大きな利益をあげることはできなかったです。北朝鮮兵器リストを受けとったのは1997年が初めてです。北朝鮮が兵器リストを与えるぐらいならば、私を信頼しているということです。北朝鮮当局は私に、北朝鮮社会の良い面と悪い面をすべて見せてくれました』

尹氏が北朝鮮製の兵器を実際に売ったのかどうかについては『売ったことはない』と語った。

尹氏は北から受け取ったという兵器リストのうち、二つを記者に見せてくれた。ひとつは北朝鮮軍トラックに搭載されているスカッドD型ミサイルで、もうひとつは北朝鮮兵士が肩に載せているSA-16ミサイルだった。それぞれの兵器の写真の裏には、その兵器のスペックと価格が記されていた。SA-16は北朝鮮地上軍が使用する地対空ミサイルであり、アメリカが開発したスティンガーと似ていた。スカッドミサイルは1960年代にソ連で製作した長距離ミサイルでA型、B型、C型まで開発されたことが確認されている。しかし尹氏が見せてくれたものはD型で、より発展したものであった。北朝鮮が保有中のスカッドB型とC型は、昨年の労働党創建軍事パレード時に6基が公開されたが、スカッドD型の実体は公開されたことがない。

スカッドA型、B型は核弾頭と非核弾頭を装置できて、C型は核弾頭専用であり、A型は射程距離が80〜100km、C型は700kmである。D型の射程距離は800km以上だ。

前北朝鮮労働党連絡部工作組長だった金容珪(キム・ヨンキュ)氏は、『北朝鮮は1968年に拿捕した米海軍の情報艦、プエブロ号の電子装備をソ連に提供した代価として、スカッドミサイルの製作技術を受けた』と語った。ソ連の技術支援を受けた北朝鮮は、1970年代初めから本格的に弾道ミサイル開発を開始した。北朝鮮は1984年、スカッドモードA型、1985年にスカッドモードB型、1990年にスカッドモードC型を開発し、射程距離を延長させていった。1993年には射程距離1000kmの「ノドン1号」を開発し、いまは「ノドン1号」より射程距離がより長い「テポドン1号」を開発したことが知られている。射程距離1000kmの中には日本本土、中国北京、ロシアのハバロフスクが入る。尹氏は北朝鮮製スカッドD型について『うわべだけは中国製で、残りは北朝鮮が作った』としながら『北朝鮮製は中国製の半値であるため、価格競争力はあるものと理解している』と語った。

兵器について説明している途中、尹氏が突然、記者に『今日は4月27日です。今この時間、北朝鮮人民武力部長がロシアにいます。なぜロシアに行ったのかご存知ですか』と尋ねた。3日前にアメリカにやって来た記者は、そのことについて知らなかった。

― 何故行ったのです?

『ロシア製タンクと潜水艦を買いに行ったんです。ロシア製TU戦車は、韓国の地形に適合した兵器として知られています。水陸兼用が可能で、我が国のような山岳地形で機動性が飛び抜けています。軽くて、野砲の性能も優れています。ロシアと北朝鮮がこの内容を公開するのかどうかはわかりませんが、大規模な兵器購買なされることがわかっています

― 南北頂上会談以後、北朝鮮の態度が変化しているというのが政府の発表ですが、それにもかかわらず北朝鮮がロシアと中国を通じて最新武器を導入しているという情報があります。何かお聞きになっていませんか?

『自主国防に対する北朝鮮の意志と努力は、だいぶ以前から続いています。もちろんロシアと中国の援助をも受けています。自主国防にかける費用は外貨稼ぎを通じて用意することもありますが、それは小額で、武器や麻薬販売と同じ非正規的事業で調達しています。このようなお金は、金正日の最側近たちが管理しています。私が知っていることとしては、北朝鮮は今回、ロシアから潜水艦を購入します。水中でミサイル発射が可能な潜水艦です。在来式兵器を北朝鮮のようによく作るところもありません。北朝鮮は少しも変わっていないのに、政府だけが北朝鮮が変化していると言っているのです』

記者が尹氏とインタビューしたこの日、ロシアを訪問中の北朝鮮人民武力部長、金鎰xがロシアと「防衛産業および軍事装備分野の協力協定」と「2001年軍事協力協定」を締結した。さる10余年間、事実上中断された北朝鮮とロシアの軍事協力が再開したのである。イギリスのサンデータイムズ報道によれば、ロシアは北朝鮮に約7000億ウォン相当の兵器を販売する計画という。

金正男の日本入国の事実が確認されたのち、記者はアメリカの尹泓竣氏と数回、電話で会話した。尹氏は『金正男がやっている仕事が鋭敏な事案であるがゆえに、言うことが用心深い』としながら『ロシア兵器の導入などは、ある種のスケジュールにしたがったもので、憂慮すべきことが行われているような感じがする』と語った。

― ある種のスケジュールとは……。

『金正男が話したことが、そのまま実行されているということしか知らないのです。万一北朝鮮がロシア潜水艦購入に成功すれば、その次の段階で北朝鮮海軍20余名がロシアに委託生として送られ、特殊技能を持つ大型潜水艦教育を受けるようにするということです』

金正男を日本に呼んで金正日答訪議論?/ファン・ジャンヨプ秘書の息子は社会化教育中

― 金正男はなぜ日本に行ったのですか。

『私が聞いたところでは、二つの理由のためです。ひとつは父、金正日の韓国答訪議論です。金正日は引きつづき答訪を先送りしており、金大中政府は答訪を催促する立場です。政府は北朝鮮の金容淳を通じて、答訪問題を議論していることと知っています。北で金正日に答訪を建議できる人間は息子の金正男が唯一です。政府は、金正男が中国と日本に頻繁に行くということを知っています。私も1997年にそのような事実を政府に知らせました。

政府関係のある要人が、金正日の答訪問題を金正男と議論するために、彼を日本へ呼んだという話を聞いています。その要人は政府の高位職ですが、名前は公開していないです。金正男が日本へ行った二つ目の理由は、彼の友人たちと北朝鮮製兵器の販売を議論し、代金を回収するためです。今回、スウェーデン総理が北に行って金正日に会ったとき、北朝鮮は2003年までミサイル発射は猶予するものの、ミサイルの輸出は続けるという立場を明確に明らかにしました。ミサイル発射の猶予は、北朝鮮がミサイルを売り飛ばすために、空威張りで引きつづき主張している事案です。

ミサイル発射を猶予するという発表を私たちが好む必要はありません。北朝鮮がミサイルのお金で最新兵器を買っているという点を知っていなければならないのです。北朝鮮製兵器の販売は金正男が全権を持っています。金正日は、南北頂上会談にもかかわらず変わらなかったし、変わらない人です』

― 日本政府はイギリス情報機関の連絡を受けて金正男を逮捕した、という話があります。

『日本に随時出入りする金正男が何故、今回は逮捕されたのかは私もわかりません』

― 金正男が海外へ行くときは、ひとりで行くのですか。

『金正男の随行員が常に3〜4日前に到着し、ホテルの予約と警護を担当します。今回も保衛司令部所属の李○○たちが、まず日本に到着したと聞きました。彼らの日本入国は全く露出していません。金正日の答訪は金正男と李○○、そして政府側要人が議論することにした、と聞きました』

― 日本への不法入国以後、金正男と連絡は続いていますか。

『電子メールが最近も来ました。平壌到着後に送ったのか、北京から送ったのかは分かりません』

ファン・ジャンヨプ秘書の息子は社会化教育中

― あなたが金正男に会うために日本に行ったというのは、どのように証明できますか。

『私が日本に入国した事実は、私の旅券に押されてあります。私が日本に行った日と、金正男がドミニカ旅券で日本に入国した日を比較してみればわかるはずです。昨年に日本を訪れたとき、平壌「皇太子グループ」から、ファン・ジャンヨプ秘書の息子、黄敬模が困難な状況に置かれているのだが、自分たちには助ける方法がない、として私に助けを求めたことがあります。黄敬模はファン・ジャンヨプ秘書の亡命後、地方に追われたのですが、再び平壌に呼ばれて上京し、現在「社会化教育」を受けているのですが、身体に怪我を負って生活が不便だということです。そこで人づてに1万ドルを送りました。ファン・ジャンヨプ秘書の夫人は死亡した、と聞きました』

― 金正男はいつ結婚しましたか。

『時期はわかりません』

― 同行した子供は金正男の子どもなのでしょうか。

『分かりません。金正男から「子どもへのプレゼントに辞書を送ってくれ」という言葉を聞いたことはありますが、子どもの顔を見たことはありません』

― 今後の計画は?

『私が1997年の大統領選挙期間中にあのようなことを暴露したのは、国民としての使命感と正義感からのことです。しかし私が受けた苦痛を慰めてくれる人は一人もいませんでした。私が北朝鮮に投資したお金は200万ドルで、安企部から補償を受けたお金はその10分の1に過ぎない20万ドルです。この政府の対北朝鮮政策を遠くワシントンで眺めながら、あの時なぜ、あのような努力をしたのかを後悔しています。韓国国籍に固執していましたが、今では資格さえ満たされたならアメリカ市民権を取得する考えです。安企部を恨みはしないです。自分自身を怨みます。いっそあの時あの時間とあの金とあの情熱で違ったことをしていたなら、ワシントンDCに建物のひとつでも持って、気楽に生活していたでしょう。家内が先般、流産したのも経済的な苦しさにともなうストレスが原因でした。愛らしい食堂でもひとつ整えて、磊落に生きたいのが率直な望みです』

金正男の日本への不法入国が伝えられた二日後の5月5日、日本の北朝鮮専門家萩原遼氏はフランス・パリのあるホテルで、北朝鮮を脱出した成恵瑯氏と会った。彼女は金正男の叔母であり、金正男を教育し育てた人だ。『成恵瑯氏は金正男に対して「頭が良くて判断が早く、お母さんの成恵琳の芸術的な才能を受け継ぎ、人をよく笑わせる快活な男性だ」と語った』と萩原遼氏は伝えた。成恵瑯氏は『北朝鮮で最初のインターネットが我家に設置されたため、金正男はインターネットを上手にこなし、幼い時からおもちゃの兵器と本物の拳銃を持って遊んだがゆえに、兵器にも関心が高い』と語ったという。金正男は父、金正日を恐れるために、金正男がしていることは金正日の承認の下でなされている、というのが成恵瑯氏の主張だった。

映画俳優崔銀姫が会った金正男/『コメディアンのイ・ジュイルを連れてきなさい』

北朝鮮工作員に拉致された映画俳優の崔銀姫氏は、金正日の誕生日だった1978年2月16日、平壌で金正男に会った。金正男は七歳だった。崔氏は「祖国はあの空、あの遠く」という手記で、幼い金正男との対面をこのように描写した。

[正確には2月16日の午後、電話のベルがリーンと鳴った。宿舎内に架設されたホットライン直通電話だ。受話器を取る。『崔先生、私は金正日です。今なにをなさっていますか

『本を読んでいる途中で、編物をしています』

『一時間以内に車を回しますから、私の家にちょっといらっしゃい』若干酔いの混ざった明るい声色だ。

『突然、どうしたのですか』

『実は今日はぼくの誕生日なのです。特別に準備したわけでもないのですが、家族で集まるので、崔先生もいらしてください』

『ありがとううございます』

金正日は玄関に出てきて私を待っていた。私が泊まっている別荘とは異なり、とても平凡な家庭の家屋のようだった。金は私を応接間に案内した。応接間は映写室を兼ねており、ものすごく大きな部屋だった。30〜40坪ぐらいになるだろうか。彼に関係のある場所は、公共の建物でも一般家屋でも、どこにでも映写室が付設されているのが特徴だ(中略)。

このときたまたまぽちゃぽちゃ太った男の子が走って入ってきた。優良児でだ。金正日は、

『わが家の息子です』と紹介した。

『まあ、そうですか。息子さんはお一人だけですか』

『いや、この下に女の子がもう一人いますが、今はここにはいません』

私は男の子に尋ねた。

『ほんとうにいいお顔をしていること。いくつですか?』

『七歳です』

『お名前はなんと言うのですか?』

すると子供はぎこちなく、意外だという表情をするや『人の名前をどうして訊くの?』と独り言をぶつぶつつぶやきながら後ずさりした。すると金正日は子供の頭を撫でながら『大人が名前を訪ねたら「はい、私は何々です」。このように答えるのだ』と、諭すように言った。

その瞬間『しまった』と思った。ここの実情を知らない私は、無神経に大きな失敗をしたようだった。誰が敢えて「親愛する同志」の「息子の名前」を尋ねるというのだ。私のほかに誰が名前を尋ねただろう。だから子どもは意外だという表情を浮かべたのではないか。その子は父に似て顔がまん丸だった。頭は短い角刈りスタイルで、服は父のように紺色の人民服姿だった。

『コメディアンのイ・ジュイルを連れてきなさい』

幼い時、金正男と多くの時間を過ごした成恵瑯氏の息子、李韓永氏は、金正男はひとりで育ったがゆえに固執が力強いという。李韓永氏は「大同江ロイヤルファミリー・ソウル潜行14年」という本で、金正男が韓国のコメディアン、イ・ジュイルを連れてこい、と我を張ることがあるとした。

1979年、正男がイ・ジュイルを連れてこいと我を張って大変な苦労をしたことがある。南朝鮮でしばらくイ・ジュイルの人気がつづいたときであった。ある日、正男はイ・ジュイルを自分の前で公演させようとした。お金はいくらでも出すので連れてこい、と声をかけた。すぐに連れてこいと官邸責任者に大騒ぎしたとのことだった。当時、金正日は地方に出張中であった。誰も自分の欲求を満たそうとしないので、正男は直接パパに連絡をした。金正日はロイヤルファミリーだけが利用する特殊電話77番をダイヤルすれば、どこにいても電話を受けることができるようになっている。電話を受けた金正日は官邸責任者に「適当に処理せよ」と指示した。方法は一つしかなかった。代役を作るしかなかったのだ。1週間ぶりに一人の人間を探して連れてきた。頭のはげた姿など、私が見ても表面的には似ていた。問題はイ・ジュイルのまねができるか、であった。両江道から連れてきたという純朴な農民に、ちゃんと真似できることを希望するのはあまり無謀な期待だった。護衛司令部で宿泊をしながら一週間、訓練した。イ・ジュイルが出てきたテレビ番組を録画して見せ、それをそのまま真似せよとした。

訓練したイ・ジュイルの代役を官邸に連れてきた。

その時、正男は九歳だったのだが、私たちが正男をあまりに幼く考えたのが失敗だった。正男は一言も発せず20分ほどにせ物イ・ジュイルの公演を見るや、私に言った。

「大変だったね。芝居を企もうと苦労していたのを知っていたよ。もっと練習するべきだね」

正男は「イ・ジュイルではないことは最初からわかっていたよ」と言うと、自分の部屋へ入っていった。

さる1月,「北朝鮮を脱出したロイヤルファミリーの最側近」という人物が月刊朝鮮に情報提供したファクシミリによれば、韓国情報当局は金正日の家族らに対して、比較的正確な情報を得ている模様であるとした。金正男一行の日本での逮捕が初めて報道された5月3日、国家情報院公報室関係者は「何も知らない」という立場を見せた。金正男の顔写真が報道されたのち、写真の主人公が金正男なのかを確認してくれという言論の要請に、国家情報院側は『私たちが確認することができるできる事案ではない。今回の事件に関しては、外交部に確認してほしいというのが国家情報院の立場だ』と答えた。青瓦台も『確認することができる事案でない』という立場を取った。金正男は李韓永氏の殺害指示の疑惑があるテロ容疑者だ。そのような金正男に対して、傍観者的な態度を行なうことが果して政府の姿勢であろうか。『金正男が話したとおり、ある種のスケジュールが進行している』という、在米僑胞・尹泓竣氏の警告が事実でないことを願うばかりだ。

Copyright(C)2002- 「日本専門」情報機関(日本の情報の収集と保存)